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JATA
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トルコ観光・ツアーブログ:イスタンブールはパリとモスクワを超えてヨーロッパでは1番めに大きい都市である。ロンドンでは街燈は15世紀まで見られなかったが、イスタンブールでは4世紀に輝いていた


イスタンブール

歴史的背景
イスタンブールの歴史はアテネの西、メガラから流れてきたビザス王の伝説から始まる。事情はともかくとして彼はその家族、従者のために新しい土地をさがし求め、神託の教えを乞うたという。神託-多分、デルフォイの-は王に、「盲人の国の向い側」に町を作るように告げたという。 
気の毒なビザス王!地中海、エーゲ海、マルマラ海とさまよった彼はついに、マルマラ海とボスフォラス海峡、金角湾の交わるこの地にたどりついた。
驚いたことに、対岸のアジア側(カルケドン)にはすでに往んでいる人がいた。「この人々こそ、盲人にちがいない…。」なぜなら潮流からも遠くヨーロッパ側陸地に牛の角の形に入りこんだ天然の良港は漁業や交易に最適であり、ゆたかに広がる大地はぶどう栽培にびったりの土地だという事を知らない人々らしいから…。
 このようにして、ビザス王の一行は神託のことば通りの土地に住むようになったという。このでき事は、紀元前7世紀半ば頃のことであった。
ビザス王以来約1000年の問、この町は彼の名にちなんでビザンティウムと呼ばれ、クセノフォンのいわゆる「1万人の遠征車」や、マケドニアのフィリップ王の包囲など、数々の歴史の証人として生きのびてきたのだった。 
ローマの皇帝コンスタンティンI世は、人心の一新のために都を東へ移そうと考え、この町に目をつけた。330年5月11日に遷都式が盛大にとり行われ、その名もコンスタンティノープルと変えられた。キリスト教を公認したこともあって、町はおおいに栄えまたたく間に大都会に発展した。 
コンスタンティン大帝は黒海と地中海を結ぶ海を支配し、又東西の交易ルートの統治権を握っていたので、市民のために週3度パン、オリーブ油、そしてもっと大事な赤ワインまで無料で配給できるほど富んでいたとか。もっとも、当時の人口は、現在のように1400万人もいたわけではないが…。 


今日のイスタンブールは、パリとモスクワを超えてヨーロッパでは1番めに大きい都市である。その人口はヨーロッパ側とアジア側にニ分され、毎朝100万人以上の人が、フエリーで又はボスフォラス海峡にかかる大きな橋を渡って大陸から大陸へと移動する。ロンドンでは街燈は15世紀まで、ウィーンでは17世紀まで見られなかったが、コンスタンティノープルではすでにコンスタンティン大帝の時代、つまり4世紀初頭に輝いていたという。
 しかし昔からこの町に住んでいた人々は、突然にやって来た金持ちのラテン人たちや、巨大なローマ風の建築を傍観していた。郊外に住んでいる人々は、毎朝、青果をろばの背に積んで“istinpolis ”(町へ)と書かれた古いギリシア語の道しるべを横目にコンスタンティノープルヘ売りに行くのだった。このギリシア語の“istinpolis”がイスタンボリ、スタンポリン、スタンボル、そじヤイスタンブルという具合に変わってきたものである。共和国になってからは、イスタンブルがこの町にもっともふさわしい名として正式に命名された。 
もし、あなた方のグループのガイドがギリシア嫌いだったならば、イスタンブルの名はイスラム教徒に由来すると説明するにちがいない。(イスラムフル→イスタンブル) 
とはいってみても、ギリシア語に由来すると思われるものは、ウスキュダル、タラビアあるいはガラタ…などたくさん残っている。ガラタの場合、ここに牛乳屋が並んでいたものと思われる。ギリシア語でガラトスは牛乳屋を意味するから。

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