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JATA
観光庁長官登録旅行業第1997号
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トルコ旅行(ツアー)ブログ・トルコ旅行記

トルコ観光・ツアーブログ:最近話題のトム・ハンクス主演ミステリー映画インフェルノの舞台になってるイスタンブール、アヤ・ソフィア大聖堂を紹介します


 アヤ・ソフィアの本堂に一歩足を踏みいれた時、まず目につくのは金文字のメダリオンである。無邪気な観光客の目にはアラビア文字のコカ・コーラのように見えるが、アラー、モハメッド、はじめの4人のカリフ、それにハサンとフセインの名前がラクダの皮に金で描かれているものである。ハサンとフセインは予言者モハメッドの孫にあたりシーア派ムスリムにとっては正統な指導者である。


次の真摯な疑問はドームに関するものであろう。「聖ベテロ寺院とどちらが大きいか…?」しかしそのような比較はあまり意味がない。聖ベテロのカテドラルは16世紀のものだから。いいかえれば、16世紀にヨーロッパで完成したものがすでに1000年以上も前、ここコンスタンティノープルで成し遂げられていたということである。

この教会は聖ソフィア、つまり「神の叡智」としてのキリストに棒げられた。元の名前、ハギア・ソフィアはギリシア語で「神の叡智」を意味する。現在の建物はこの同じ揚所に同じ名で建てられた、三番めのものである。はじめの二つはビザンティンの支配者に反抗した民衆の暴動により破壊された。今の教会の建造は532年に始まった。さまざまな情報をもとに考えると、1万人以上の職人、奴隷、ボランティアが5年と10ケ月と11日かかって仕上げたとか。これほど大規模な教会建築ははじめてのことだった。当時の三大ブレーンと呼ばれた三人、トラレスの人アンテシウスとミレトス出身のイシドラスが責任者として登用された。広大な帝国の各地から、大理石や石材などが集められた。円柱のふるさとについての言い伝えも残っている。本堂に4本ずつ並んでいる一枚岩の緑青色の円柱はエフェソス近くの世界の七不思議のひとつといわれた、アルテミス神殿から運んてきたものといわれている。本堂のすみに2本ずつある斑岩の円柱はバールベックからきたらしいが、エジプトからとする説もある。いずれにしろ異教の神殿から持ち出して利川したもの)と帝国の石切り場から切り出したものと二種あることは確かである。 


巨大なドームには、木材とロードス島で作られた特別に好いレンガが使われた。東ローマ帝国の財宝もユスティニンが国民に課した新しい税金も、増大する費用をまかなうのに十分ではなかったので役人の月給までカットされたという。 
537年12月26日、皇帝ユスティニアンは正式にキリストヘこの教会を献納した。そして聖書にあらわれる王と自らを比較しないではいられなかった。曰く「おお、ソロモン王よ、余は汝を越えしり!!」 

558年の凄まじい地震の際、中央ドームの一部と東の副ドームが崩壊した。町にもたらした損害は非常に大きく、皇帝ユスティニアンは遺憾の意を表して6ヶ月の間王冠をつけなかったとか。教会の再建は若いイシドラス-イシドラスの甥の手にゆだねられた。前にもまして高いドームを作ることによって外側からの圧力を小さくした。このドームは今日まで残ってはいるものの、数回の地震とその場しのぎの修理のために完全なものではなくなっている。南北の直径は33mあるのに対して東西は31mしかない。大理石の床に刻まれた十字形はドームの中心を示している。床からの高さは56m、つまりこの聖堂の中に15階建てのアパートを作ることも可能だということである。 

モスクとして使われていた時の説教壇の前に、ビザンティン皇帝の戴冠式の際、玉座を置いた場所を見ることができる。この教会の建築に使われた各種の石材や大理石がこの場の神聖さを強調するためにここにすべて使われている。皇帝は地上における神の代理人と見なされていたから、皇帝の御足が床に触れた所は世界の中心と見なされた。ビザンティン皇帝たちは、自らを神から特別な使命を与えられたものと信じて疑わなかった。神性を表すためのひとつとして高いヒールの靴をはいて他の人々を見下ろしていた。本堂の8mの高さのある中門をくぐる時でさえ、頭を打ちつけないように身をかがめて通ったとか…。

916年と6ヶ月3日の間、この由緒ある建物は教会として貢献した。 1453年5月29日、21歳の若き征服者メフメットは、それまで20回もの他国の侵入をはねつけてきたテオドシウスの城壁を打ち破った。その朝、ある程度秩序が回復されて後、町へ入った彼はまっすぐ聖ソフィア大聖堂へと馬をすすめた。門の前で馬をおりた征服者は神への謙語のしるしとして一握りの土を自らのターバンにふりかけた。史家によると、コンスタンティノープルを攻略するのに51日かかったというが、もしメフメットが、靴みがきやスライド、絵ハガキ売りの手ごわい子供たちにわっととりかこまれたら、そう簡単にはいかなかっただろう…。

 
ゆっくりと本堂に足を踏み入れた征服者は驚嘆と賞賛のあと祈りを棒げた。スルタンのこのふるまいは当時の熟心なイスラム教徒にとってショックだった。理想的ムスリムたるべきスルタンがこともあろうに異教徒の寺院で析るとは…。しかし、オスマンのスルタン達は他宗教に寛大であったことを歴史は示している。征服者メフメットのキリスト教に対する寛容ぶりは、ローマ教皇ピウスII世から受洗をすすめる手紙を受けとったことからもうかがい知ることができる。しかしスルタンが死ぬ時にクリスチャンになろうと考えていたか、あるいはローマを攻めとってやろうと思っていたかはだれにもわからない。 

コンスタンティノープルの陥落の後、聖ソフィア大聖堂はただちにモスクに変えられた。後陣の壁がんにかわって、メッカの方向を示すミヒラップが作られた。メッカはイスタンプールの南東にあたるので教会の壁がんとモスクのミヒラップの方向はちょうどうまく一致していた。右側にはミンバル(説教壇)が設けられ、さらにその右には聖歌隊の席となっていた柱に囲まれた壇がある。ミナレット(塔)はそれぞれ建築様式がちがうことから、3人のスルタンによってつけ加えられたことがわかっている。 16世紀になって本堂の西隅に二つの大理石の清めの水がめがおかれた。これはペルガモンで見つかったといわれるが本来はマルマラ海の島で作られたものと思われる。
 
後陣のモザイクは、幼な子イエスをひざに抱く聖母マリア、半円形屋根を囲むアーチの右側に大天使ミカエル、反対側には大天使ガブリエルの翼の一部が見える。これらのモザイクはオスマントルコによって塗りこめられたしっくいの下から、アメリカのビザンティン学者たちによって1930年以降修復されてきたものである。この困難な作業は今もなお続いている。トルコ共和国の生みの父、アタ・チュルクは1935年にこの由緒あるユニークな建物を博物館として保存していくことに決めた。 

聖ソフィア寺院がアヤ・ソフィアモスクに変わったように、当時250以上の教会がモスクに変えられた。現在は又、モスクから博物館という流れがみられる。例えばカーリエモスク(昔のコーラ教会)、あるいはファティエモスク(昔の聖マリアパムカリストス教会)などがその一例としてあげられる。

アヤソフィア

本堂の穹隅の4つの金の星の裏には4人の智天使が隠されているはずである。修復されたモザイク画の中で二つはだれでもすぐ見つけることができる。ひとつは、本堂の正面入口(皇帝門)の上にあって王座にすわるキリストと、その足元にひれふす皇帝レオ六世(賢帝886~912)が描かれている。

キリストの右手はギリシア正教の祝福の形を示し、親指と薬指に軽く合わされてる。二本の伸ばした指はキリストにおける神生と人間性をあらわし、他の三本は父と子と聖霊を意味する。ギリシア正教の肖像画法ではふつう右手を左手より大きく描くのはそのためである。左手には福音書を持ち、ギリシア語で「平和があなたと共にありますように。私は世の光である。」と書かれている。メダリオンの中には聖母マリアと大天使ガブリエルが描かれている。

 次のそしてもっと興味深いモザイクは今日の博物館の出口になっている門の上にある。コンスタンティノープルと聖ソフィア大聖堂の守護者としてのマリアが描かれている。イエス・キリストがマリアの膝にだかれている。

右側の人物像のわきのギリシア語銘は「コンスタンティン、聖者の中の偉大な皇帝」とあるが、私の考える限りでは彼は聖人と呼ばれる資格はない。なぜなら彼の時代にキリスト教信仰が許されたとはいっても、彼自身は死ぬ間際になってようやく洗礼一天国への切符-を受けたのだから。モザイクの彼はコンスタンティノープルの都市の模型をさし出している。左側の皇帝は聖ソフィアを建てたユスティニアン大帝で銘は「ユスティニアン、輝かしき名声の皇帝」とある。彼は大聖堂の模型をマリアに棒げている。

3人は濃いグリーンの絹の衣裳を身にまとっている。ビザンティン時代の「シルク」と「色」の意味は重要であった。当時の人々のステータスシンボルとは今のようにどこのクレジットカードを何枚侍っているかではなく何色のシルクを何枚持つことを許されていたかで決まったのだから。許可は皇帝自らが直々に下すのだった。二人の修道士に命じてかいこの幼虫を杖の中に隠して、中国からはるばるコンスタンティノープルまで運ばせたのはユスティニアンだったといわれている。その当時まで人々は、かいこは桑の木に住むときいていたので、絹とは果物のように木になるものと信じていたそうな。アヤ・ソフィアのモザイクの中で人物像はすべて843年以降、つまり偶像破壊運動が終わってからのものである。ユスティニアンの時代のオリジナルの花もようや幾何学もようは、柱廊、側廊、回廊にしか残っていない。  


 本堂の北四隅の円柱は「汗っかきコロム」もう少し上品に言うと「発汗機能を持つ円柱」として知られている。かつてこの下に地下水槽があり、その湿気が円柱に感じられたらしい。ある日ユスティニアンは割れるような頭の痛みに襲われた。御殿医の誰もがサジを投げ皇帝は頭をかかえてよろめき歩いたがこの柱にすがりづいて額を円柱に押しあてたとたんに、ウソのように頭痛が消えてしまったという。この奇跡を知った迷信深いビザンティンの人々が二日酔いの苦しみから逃れるためにここを訪れては皇帝が額を押しあてた部分に触れるようになった。そしてその部分はしだいにすり減って穴があくようになり、ますます御利益も大ぎくなってきたというわけらしい。後になると次のような説明がつけ加えられたとか。御穴に指を入れよ。たちまちにして二日酔いの苦しみから逃れられるだろう。(特にひどく深酒をした後霊験あらたか!)。そればかりか「不妊症の女性の妙薬」でもあった。又、穴に指先を入れた後、己か指先をじぃっと見つめよ。指先のしめり気はあなたの善人性をあらわすそうな一。
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