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トルコ旅行ガイド

イスタンブール、アヤソフィア


532年2月23日、ハギアソフィアの工事が始まった。そのアヤソフィアア大聖堂が落成、神に捧げられたのは537年12月27日だった。床面から56mの高さに浮かんだような大ドーム、その直径は東西31.8m、南北は30.9mである。
ビザス王の時代からおよそ千年後、又も西方の王者がこの土地を自らの都として移ってきた。今回はラテン人で、その英断を下すまでには軍事上、宗教上の差し迫った事情があった。ローマ帝国の単独皇帝をめざすコンスタンティヌスは312年、ティベル河のミルヴィアン橋の戦いでマクセンティウスを破り、帝国西部の覇権を握る。東方におこったキリスト教はその頃、既にローマ世界までも根をはっていた。伝説によるとコンスタンティヌスが過酷な帝位争奪戦を勝ち抜くことができたのは、この新しい宗教のおかげだという。

…陽が傾き始める頃、太陽の上に輝く十字架とHocVince(これにより征服せよ)の文字が浮かぶのを、彼はその目でしかと見た。そしてその夜、同じしるしと共にキリストのまぼろしが現れ、このしるしを軍の旗印とせよと命じた…十字架は彼に勝利を保証するものとなる。
皇帝が職人に命じ作らせたラバルムにはキリストの紋を意味する、宝石をちりばめた豪華な金属の輪がとりつけられた。ギリシャ語のchiはhのように発音されるがXのように見える。そしてrhoはrと発良されPに見える。つまりXPがキリストと解読される。
最初のハギアソフィアの創建者はコンスタンティヌス大帝(324-337)と信じられてきたが、350年頃に息子のコンスタンティウスⅡ世が建設し、360年2月15日に神に奉納したと述べる古文書もある。おそらくは大帝の治下326年に建設が始められ、息子の代に奉献されたのだろう。この教会の正式名称はメガレエクレシア大聖堂だったらしい。ソフィアとは神のみことば、あるいは神の叡智をキリストに具現する言葉として、5世紀に流行したという。第二、第三のハギアソフィアも同じ場所に、同じく正門を西に向けて建てられている。当時の教会や殉教堂によく見られたように、最初のハギアソフィアも身廊が一つ、四方に通廊を配したこじんまりした石造建築で、屋根は木造、円柱は大理石だったと思われる。 


キリスト教を嫌悪し、“背教者”として歴史に残る皇帝ユリアヌスはその短い統治の間(361-363)、古代からの多神教を復興させようとした異色の皇帝である。ハギアソフィアはその苦難の時期をなんとか乗り越え、破壊を免れたがその聖堂についてユリアヌスは…私がペルシャから帰ってきたら、このつまらない聖堂の真ん中は干し草置き場に、周囲は厩にしてやる。”と言ったとか。しかしそのことばを実行する暇もなく、ユリアヌスは遠征先で戦死した。  
アルカディウス帝(395-408)の398年、巧みな説教の故に黄金の口とあだなされ、後にギリシャ正教会の4大神学者のひとりとうたわれたヨハネス クリソストムスがコンスタンティノープルの総主教に任命された。彼はアンティオクオンザオロンテス(今日のトルコ南部アンタクヤ)に生れ、当地の著名な哲学者で多神教徒のリバ二ウスの教えを受けた。更に苦行生活を体験して後、アンティオクで僧となる。新旧聖書の解釈、特にパウロ書簡の解釈により名声を得たクリソストムスは手厳しい改革者でもあった。故郷のアンティオクでと同様に、都に上ってからも歯に衣をきせず、宮廷や上流階級の浪費や虚栄、不道徳を批判した。そして市民の大きな支持を得たものの、同時に富裕な人々を敵に回すことになる。404年、クリソストムスは位を追われビティニアに流された。それに抗議する市民のデモ。その騒動の夜、起こった地震は迷信深い皇后エウドキシアを恐怖に陥れたらしい。クリソストムスは総主我に復帰した。しかしわずか2-3週間後の6月9日、彼はハギアソフィアの説教壇から再び容赦なく宮廷を批判する。しかもこのたびは皇后エウドキシアをイザベルやヘロディアスのような聖書の悪女に例えた。“再び、サロメが踊っている。ヨハネスの首をほうびにと…”捕らえられ、又も追放されるクリソストムス。怒った支持者たちはハギアソフィアに火を放った。強い北風に煽られた火は当時の人々に超自然的なものと受けとられた。ヨハネスの伝記作者パラディウスは書いている。…炎は彼がいつも座る席から十字架へとかけのぼり、聖堂の裏手へと大蛇の如く… 
1年ほどしてクリソストムスは再び流罪となった。今回は永遠の追放だった。407年、60才の彼はボントスの僻地コマナでその生涯を終えた。


二番目のハギアソフィア
404年の火災の被害の詳細は不明だが、東側に独立していた聖具室は難を逃れ、今日まで残されている。アルカディウスの後を継いだテオドシウスⅡ世(408-50)は熱心なキリスト教徒で、異教に対しては手厳しく、その治世の終りまでにはすべての異教をローマ帝国から駆逐したといえるほどだった。神聖な像をフロアモザイクに描くことを禁止し、残っていた異教の神殿は破壊、その財産は没収した。第二のハギアソフィアの建設にかかったのは彼が即位して間もなく、落成奉献は415年10月10日である。 
発掘調査によるとテオドシウスの再建したハギアソフィア聖堂は最初のそれと基本的に同種の建築だったと考えられる。入り口は西側アトリウムからで6段の階段、カーブした軒をのせた柱廊、そして2m幅のポルティコの跡は今日も残っている。アトリウムと身廊の間に細長い拝廊があったらしい。身廊は幅およそ20m、その両側に側廊がついていた。屋根は最初の聖堂と同様に木造だったと推定される。
この第二のハギアソフィアは1世紀以上を無事に過ごしたが、532年の有名な二力の乱で焼け落ちた。

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