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トルコ旅行ガイド

イスタンブール


イスタンブールの成立については、多くの伝説がある。これらの物語の最も有名なものによると、紀元前650年頃、指導者ビザスに率いられた海洋民の一団が、新天地を求めて故郷のメガラ市を出発した。当時の慣習によれば、何かを始めようとする前には、神託を伺わねばならなかった。
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当時最も有名だったデルフォイのアポロン神殿の神託は、ビザスに「盲人の国の向いに住め」と告げたのだった。長い間そのような土地を求め続けた移民たちは、今日のイスタンブルの半島にたどり着くや、周囲の豊かさと天然の良港「金角湾」の無限の可能性に目を奪われた。その一方また、海峡の対岸に住みついている人々に出くわした。これほど可能性に満ちた理想の土地があるのに対岸に住みつくのは、きっと「盲人」であるからに違いないと考えて、ビザスとその一行は、ついに神託で告げられた土地にたどり着いたのを信じたのであった。
しかしながら、旧市街では古い出土品が発見されていないものの、金角湾の奥やアジア側のフィキルテペでは、紀元前3000年にさかのぼる出土品が発掘されている。最初に人が住みついたのは、金角湾をさかのばったキャートハネやアリベイキョィの周辺と考えるのが、より妥当なところであろう。考古学的出土品や歴史史料によれば、ビザスの植民団がアクロポリス(城丘)に定住する前に、ここにトラキア起源の「リュゴス」という植民市が存在したことも明らかになっている。
ビザスにちなみ「ビザンティオン」と呼ばれたこの都市は、成立以来、大国に服従することもあれば、自治を行うこともあった。今日トプカプ宮殿がある場所が、この都市の「アクロポリス」であった。金角湾の入口には、今日なお使われているおだやかな港を持っていた。ここから始まる堅固な城壁が都市を取り巻き、マルマラ海にまで達していた。
紀元後2世紀には、ビザンティオンは戦略的拠点にある裕福な都市として注目を集めていた。周囲の豊かな土地と漁業、それに海峡を通る船から徴収される通航料と関税が、主要な富の源泉であった。


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ビザンティオンは、海港都市、商業都市として、ローマ帝国期にも命脈を保っていたが、紀元後191年に始まる皇帝位をめぐる紛争で敗者の側についたために、2年を越える包囲の後にローマ皇帝セプティミウス・セウェルスによって征服され、あとかたもなく破壊された。しかし後に同じ皇帝によって都市は再建、拡張されて、新しい城壁と建物が築かれたのであった。
紀元後4世紀にローマ帝国は膨張して、首都ローマはもはや帝国の中心に位置するわけではなくなった。コンスタンティヌス大帝は新たな首都を捜し求めるうちに、ビザンティオンの戦略的位置と理想的な気候、それに海上、陸上の交通路の交わる場所であることを重視して、ここに遷都することに決定した。5年以上かけて新たに築かれた城壁により都市は再び拡張され、多くの神殿、官公庁、宮殿、浴場、そして新しいヒッポドローム(競馬競技場)が建設された。そして紀元330年に、都市は盛大な式典によって正式にローマ帝国の首都と宣言されたのであった。

黄金時代が始まったこの都市は、「第二のローマ」とも「新ローマ」とも呼ばれていたが、これらはすぐに忘れられ、「ビザンティオン」の名が再び使われるようになった。
さらに後にはコンスタンティヌス大帝にちなむ「コンスタンティノポリス」の名が一般的になったが、民衆の間では単に「ポリス(都市)」で通っていた。この単語から生まれた「都市へ」を意味する「イスティンボリン」が「イスタンブール」の名の起源となり、オスマン朝時代以後はこの名が一般に使われた。
コンスタンティヌス大帝の跡を継いだ皇帝たちは、新しい街路や商業区域、水道橋や記念碑を作ることによって、都市を発展させる努力を続けていった。最初に建てられた教会は、コンスタンティヌス大帝より後の時代に完成した初代のアヤ・ソフィヤと聖使徒教会である。
395年二つに分裂したローマ帝国の西半分は5世紀の末に崩壊したが、「東ローマ帝国」は、首都コンスタンティノポリスの支配のもとで、さらに1000年以上も存在し続けたのである。現代の歴史家たちは、この帝国を「ビザンツ帝国」と名付けている。アナトリアの古代文明の影響を受けつつ、オリエントの諸国家とローマから採用された儀礼と法律にのっとって、そして最も重要なことには、キリスト教の影響と諸原理によって発展した「ビザンツ帝国」の歴史は、非常に興味深くダイナミックである。


コンスタンティノポリスの市域は、5世紀前半に築かれた城壁によって、最終的な拡張が行われた。今日見られる陸地側の壮大な城壁は、皇帝テオドシウス2世によって築かれたものである。6世紀に入って人口が50万人を越えたこの都市は、ユスティニアヌス帝の続治下で、もう一度黄金時代を迎えた。今日残る有名なアヤ・ソフィアの大聖堂は、この皇帝が建立したものである。
ビザンツ帝国とコンスタンティノポリスのその後の歴史は、アラブ、トルコ、ヨーロッパの諸民族の侵略と、頻繁に交替した皇帝の家系の血みどろの抗争に満ちている。
中世の最も豊かな文化と通商の中心として知られたこの都市は、陸と海から様々な民族により絶えず目標とされていた。大城壁、金角湾の入口に張られた鎖、ビザンツ人だけが製法の秘密を知っていた水中でも燃えるギリシア火、そして陰謀に満ちたビザンツの外交術が、常に都市を攻撃から救ってきたのである。
11世紀から12世紀のコムネノス家の支配した輝かしい時代に、コンスタンティノポリスは三度目の繁栄と発展の時期を迎えた。1071年に東アナトリアから進出したトルコ系セルジューク帝国の勢力が、ごく短期間でアナトリアヘの定着に成功すると、ビザンツ帝国は彼らと境を接するようになった。
コンスタンティノポリスの歴史の暗黒時代である「ラテン人の侵略」は、1204年第4回十字軍の侵略によって始まった。全ての教会、修道院そして記念碑にいたるまで、都市は長年にわたって略奪にさらされた。1261年にビザンツ人たちにより奪回されたものの、コンスタンティノポリスは、かつての繁栄を再び回復することはなかったのである。周囲では、拡大しつつあったオスマン朝の脅威が次第に増大し、ついに53日間にわたる包囲の結果、1453年コンスタンティノポリスはオスマン軍の手に陥落し、ビザンツ帝国は滅亡したのであった。
コンスタンティノポリスの城壁が打ち破られた一つの理由は、ファーティフ(征服者)・スルタン・メフメト2世が戦争史上初めて用いた大口径の巨砲である。征服を可能にしたもう一つの理由は、ビザンツ帝国が老朽化してもはや寿命に達していたことであった。
弱冠21才のメフメト2世は、オスマン朝の都をここに移し、国土の様々な地方から移住させた移民によって人口を増加させ、荒廃した都市の再建に着手した。都市のもとからの住民には、信仰の自由と社会的な権利を認め、生活を保障した。キリスト教東方正教会の総主教座が今日までここに存在しているのは、この時メフメト2世が与えた権利に基づくのである。市内の多くの教会は、アヤ・ソフィアをはじめとし、モスクに転用されて、荒廃したまま放置されるのを免れた。


イスタンブルは、オスマン朝の手にわたってまたたく間に発展し、新たな繁栄を迎えた。征服後一世紀にはトルコ・イスラム美術の刻印が都市にほどこされ、ドームとミナレットがイスタンブルのシルエットを支配するようになったのである。16世紀初頭以降オスマン朝のスルタンが聖地メッカの保護者となりイスタンブルは全イスラーム世界の中心にもなった。イスタンブルは、カーヌー二ー(立法者)・スルタン・スレイマンⅠ世の治世に最も輝かしい時代を迎え、ミーマール・スィナンの傑作が次々と建設さられていった。
オスマン朝時代のイスタンブルでは450年以上戦争がなかったが、度重なる火災は何度も広い範囲を焼き尽くした。しかしイスタンブルは装いを新たにしながら、発展を続けたのであった。かつてのアクロポリスに建てられたスルタンの宮殿は、ボスフォラス海峡と金角湾のたぐいまれな景色をのぞんでいた。
19世紀以降になると、モスクや宮殿は、ヨーロッパ風の建築スタイルで、ボスフォラス海峡沿いに建てられるようになった。短い間に建設された多くの宮殿は、オスマン帝国の衰退の象徴でもある。イスタンブルは、第一次世界大戦の後、またひとつ世界帝国の滅亡を目撃することになったのである。オスマン帝国は分割され、内外の敵が自分たちの分け前をめぐって争っているさなか、一人の司令官もまた、トルコ民族のための闘争に立ち上がったのであった。ムスタファ・ケマルの指揮のもと、トルコの軍と民族は、4年にわたる独立戦争の後に1923年トルコ共和国を樹立した。アジア最初の共和国の大統領となったムスタファ・ケマル・アタテュルクは、国家を近代文明へと向かわせた。スルタンと家族は国外に追放され、ラテン・アルファベットが採用され、トルコ帽やベールが禁止された。
新しい共和国の首都はアンカラになったものの、イスタンブルはいまなお現代トルコ最大の都市であり、魅力的な美しさと活気ある生活様式を保っているのである。


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