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JATA
観光庁長官登録旅行業第1997号
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東京商工会議所 会員
トルコ旅行ガイド

カッパドキア


この地方の住民は山の上、谷、深い峡谷の岸辺に家を作った。石を利用し、あるいは自然の岩を穿ってそこに住んだ。カッパドキアの住民はかつて世捨て人と呼ばれた。というのも彼らは穴から地中にもぐり、岩の割れめや迷路のような隠れ家に住んでいたから。
トルコ、カッパドキア旅行・観光・ツアー

アナトリア中央部は四方を山にかこまれた高原地帯である。およそ紀元前1500年まで、このあたりは広大な内海であり、今日の塩湖、(Tuz Gölü、1620 km2)はその名残である。
この内海が干あがったころ、地中海沿岸のタウロス山脈に住む旧石器狩猟民たちが、内陸部、カッパドキア地方の大部分を占める現在のコンヤ平原の肥沃な土地に向かって、移動し始めたと思われる。
カッパドキア近郊のチャタルフユックの丘は、これまでに発見された中で最大の新石器時代の遺跡としてユニークなものである。発掘はまだほんの一部行われたにすぎないが、その出土品によって、先史時代の独特な文化の担い手としてのアナトリアの役割が明らかになってきた。
これらの出土品は紀元前6500年から5500年頃のものと推定され、アンカラのアナトリア文明博物館に展示されている。
出土品の中で注目すべきものは人工の壁に描かれた最古の壁画である。壁画のひとつには、えんじ色の矩形が並び、ピンクに赤のふちどりの二つの山型がみられる。
この絵の下の部分が居住地の図だと考えると、上の二つ並んだ山型はハッサンダア(ハッサン火山)とみられる。一つの山の上方に赤い点々が見えるが、ハッサン火山は紀元前2世紀まで活火山であった。この絵はこれまでのところ最古の地図といえる。
発掘の結果、青銅器時代においてもアナトリアは独特の文化を創りだしていた事がわかってきた。メソポタミア地方以外で、今、我々が知っている国々の中ではハッティが最も早く文明化された国で、その言語や宗教についても多少知られるようになってきた。ヒッタイトの首都ハットゥシャという名は本来、ハッティの住むところ、という意味である。ハットゥシヤから遠くない、アラジャフユックにある歴代のハッティ王の墓地からは、貴重な金や青銅の財宝がみつかり、それらは今アナトリア文明博物館に展示されている。
紀元前2000年ころ、インドヨーロッパ語族のヒッタイトが、ボスフォラスとダーダネルスの両海峡を越えてやって来て、アナトリア諸国に支配力をふるうようになった。ハットゥシャの王家の公文書庫から出土した楔形タブレットは、まだ断片的にしか解読されていないが、古代世界史上においてヒッタイトがきわめて特殊な位置を占めていたことを示している。


カッパドキア旅行・観光の案内ビデオ

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カッパドキアの歴史的背景

ヒッタイトがアナトリアヘやって来たころ、カッパドキアには、いくつかの小国とアッシリアの交易都市があった。カイセリに近いキュルテペ(古代のカネシュ)は交易都市の中でも最も重要な町であった。紀元前1200年頃、ヒッタイト帝国が滅んでアナトリアの暗黒時代が始まり、その後紀元前6世紀にリディア(首都サルディス)の属国になるまでカッパドキアに関する消息はほとんどない。紀元前6世紀半ば、リディア王クロエソスは、アケメニッド王国のキュロス大王に敗れカッパドキアを失なった。紀元前333年、アレクサンダー大王の遠征の後、紀元後17年にローマの属州となるまでの間、カッパドキア地方は比較的自由な時代を楽しんだ。この時期、カッパドキアを支配した地元の諸王朝の中で、紀元前332年にアリアラテスが樹立した王朝が一番重要なものである。
ローマ帝国も、続いてやってきたビザンティン帝国も、この地域の文化を吸収しようとはしなかった。彼らの関心は、道路を確保し交易ルートを守ることと、この広大な平原の労働力をビザンティン軍のために有効に便う事にしかなかった。
支配階級や軍隊は便利な地点に駐留しそこに町ができていった。ゾロパスス(Zoropassos)一現在のギュルシェヒル(Gülşehir)、ソアンドス(Soandos)、ペリストレマ(Peristrema)―現ベリスルマ(Belisırma)、コラマ(Korama)―現ギョレメ(Göreme)、ソアンダス(Soandos)―現ネブシェヒル(Nevşehir)などがローマとビザンティンの時代の中心都市として発達した。


この地方の住民はいつも岩の多い場所に好んで住んでいた。山の上、谷、深い峡谷の岸辺に家を作った。石を利用し、あるいは自然の岩を穿ってそこに住んだ。10世紀のビザンティンの歴史家が言っている。カッパドキアの住民はかつて世捨て人と呼ばれた。というのも彼らは穴から地中にもぐり、岩の割れめや迷路のような隠れ家に住んでいたから。
住民の多くは主に農業に従事しており、特にぶどう栽培と家畜の飼育が主な仕事であったが農地や牧草地は町に住む地主のものだった。住民は、作物の大部分を占領軍や、神殿の維持のために供出するよう強制されていた。
2世紀にキリスト教が知られるようになったころ、カッパドキアはさまざまな思想、哲学、東方諸宗教の入り乱れるるつぼだった。初期のキリスト教徒はおそらく、ローマの宗教的迫害から逃れてきた人々だったろうが、キリスト教徒の大部分は、タウロス山脈全域を占領したアラブ人の支配からカッパドキアヘ避難してきた人々だった。これらの新しい住人たちは、丘の斜面を掘り岩を刻んで教会をつくり、内部をフレスコ画で飾った。このようにして、まもなくカッパドキアの岩石地帯は修道院や修道士のいおり、教会などの大展示場の様相を呈するようになったのであった。
11世紀後半にセルジュク族がやってきたとき、カッパドキアには1000を越える宗数的施設があったらしい。カッパドキアのキリスト教社会と、イスラムのセルジュクトルコの関係は友好的であった。14世紀に入って、オスマン帝国に吸収された。キリスト教信者のギリシャ人たちは、後世のトルコとギリシャの人民交換政策により、1920年代にカッパドキアを離れることになる。

カッパドキアの宗数的背景

この地域は交易ルートの交差点だったので、さまざまな思想、信条、哲学、宗教がいり乱れて入ってきた。1世紀の半ばに聖パウロがここを訪れたとき、ゼウス、ミトラ、アティス、ディオニソス、地母神などの神々がひとつ又はいっしょくたに崇拝されていたにちがいない。新しい宗教はこれらの既成宗教と対決しなければならなかった。


聖バジル、ナジアンザスの聖ジョージ、カッパドキアのニサの人、聖グレゴリーは、これらの異教信仰と立ち向かい、当時のキリスト教思想を形成するのに力を尽くした。中でも、聖バジルはギリシャ正教会の4人の教父のひとりとされ、(他の3人というのは、聖ジョン・クリソストム、ナジアンザスのグレゴリー、そしてアタナシウス)カッパドキアの教会にもしばしば、肖像が描かれている。彼はカエサリアの裕福な家庭に生まれ、コンスタンティノープルとアテネで学問を修めた。そして広く各地を旅した後、貧しい人々に自分の財産を分け与え、自ら定めた厳格な規律に基づく修道的共同体の創設に献身した。


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