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トルコ旅行ガイド

コンヤ


ビザンティン帝国時代には、コンヤはイコニウムまたはコニイェと呼ばれていた。建築遺跡の断片や石棺、石碑などコンヤの近くで発見されたものを観察すると、ローマ時代に属する都市も、一部はビザンティン時代に存在したということがわかる。

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コンヤの先史
近年のコンヤやその周辺の考古学調査および発掘によって、私たちは、コンヤの先史がどのようなものであったのかを知ることができる。旧石器時代の遺物は数多くは発見されていないが、新石器時代(磨製石器を使用した時代)に属するものが発掘に伴ってでてきた。発見された遺物によって、コンヤとその周辺の文化散布の状況が推測される。さらにまた、コンヤのジァンハサンやチャタルフォユックの塚は現在も発掘中で、ここから発見された数々のすばらしい出土品は、新石器時代がこの地域でB.C.7000-6000年頃から始まったことを示している。

一方、コンヤの市街において発掘された数多くの塚も同じように新石器時代の特徴をもっている。このようなことから、コンヤ平原一帯に集落ができたのは、B.C.7000年頃とされる。そして青銅器時代へ。 多くの遺跡は私たちに時代の足跡を示してくれる。
他のアナトリア地方と同じようにコンヤにおいて最初の政治的要素がある集団は、ヒッタイト人によって始められたことが、発見された文書でわかった。
最近おこなわれたコンヤ市街から西1 1Kmのカラフォユックの塚の発掘で、ヒッタイト人がこの時代に光を注いだことを示す遺物が数多く出土している。

ヒッタイト人につづいて、フリュギア人やリディア人がアナトリアヘやってきた。フリュギア人はコンヤやその周辺を支配し、ポラトルの近くのゴルディオンという町を最初の首都にした。コンヤ市街のアラエッディンの塚やコンヤの北にあるスズマ キョユの塚からはフリュギア人の時代の磁器がたくさん出土している。フリュギア人のコンヤとその周辺の支配は紀元前7世紀で、このころコンヤはカワニアと呼ばれていたと推測される。

のち、リディア人がこの地を支配し、紀元前546年にペルシャ人が侵略した。この時からアレクサンダー大王の征服、紀元前333年まで、アナトリア地方には統一国家は存在せず、独立国が各々の領地を支配していた。アレクサンダー大王は、コンヤを含むアナトリア地方全域をギリシャ人の手で支配した。アレキクンダー大王の死後、この地域はさまざまな王朝にしばしば支配されている。その後、紀元前223年ペルガモン王朝のアッタロス1世がこの地を征服した。紀元前133年、アッタロス3世の死後、コンヤはローマ帝国のものとなり、名もイコニウムとなった。

キリスト教の初期の時代(47-50年)、イエスの弟子の一人であるセント ポールがアンタリアからアナトリア地方にやってきて、ヤルヴァチ、コンヤ、ハトゥンサライ、デルベなどを連続して訪れた。この彼の旅は、キリスト教の布教にたいへん役立ち、コンヤは宗教伝道者の重要な中心地となっていった。ローマ帝国のテオドシウス帝が、帝国を2分して息子遂に分け与えた時、コンヤは東ローマ帝国の支配下に入った。


中世のコンヤ
ビザンティン時代には、コンヤはイコニウムまたはコニイェと呼ばれていた。建築遺跡の断片や石棺、石碑などコンヤの近くで発見されたものを観察すると、ローマ時代に属する都市も、一部はビザンティン時代に存在したということがわかる。5世紀頃のカタコームやモザイクのかけらが、コンヤの宮殿の廃墟から発掘されたが、これらはこの時代のすばらしいサンプルである。シレやカラマンのカラダーの修道院やほかの古い城などはこの時代に属するものである。
イスラム教の布教とその起源のため、アラブ人はアナトリア地方とビザンティン帝国の首都への侵略を欲した。コンヤが一時的にアッバース朝に征服されたこともある。

トルコ人が最初にコンヤに現われたのは9世紀である。偉大な支配者トゥールル ベイの治世下でセルジュクトルコはイスラム教を奉じ、アナトリア地方の一部を支配していた。後にアルプ・アスランの指揮下、彼らはゲオルギア、アルメニア、コンヤを征服し、1071年にアナトリア地方東部のマンズィケルトにおいて、ビザンティン軍を破り、以後、トルコ族のアナトリア支配は決定的なものになる。1076年にコンヤはセルジュクトルコの首都となった。

1080年にイズニックに遷都されたが、1097年にクルチ・アスラン1世によって再び首都がコンヤに戻され、カラマンオーウラル朝崩壊までこの状態が続いた。セルジュクトルコの治世下、コンヤの街はきらびやかに輝き、すばらしい建築物で飾られていた。
特に、13世紀頃のコンヤは文化と芸術の香で満たされていた。多くのモスク、メスジット(小モスク)、メドレッセ(神学校)、テュルベ(霊廟)などが建設され、アラエッディン・ケイクバート1世の時代、1221年には、厚い壁でこの街は囲まれた。オメル・シュレヴェルディ、ムヒッディン・アラビ、メヴラーナとその父、サドレッティン・コネビなどの有名な学者や博士、文化人などがコンヤに集まってきて、この時代のスルタンに深く影響を俘えている。

時が経つにつれて、ババ・イスハックとよばれる内乱も起こった。1243年、バイジュ・ノヤン率いるモンゴルのイルハン軍にキョセダーの戦いで敗れた後、その支配は次第に名目のみとなり、再び混乱期に入っていく。スルタン・メスット2世の死のすぐあとの1308年に、セルジュク朝は終焉を迎えている。

そして、カラマンオーウラル朝のコンヤにおける支配が始まるのである。この王朝はセルジュク時代にアナトリア地方のイチェルという地域に住んでいたトルコ族である。13世紀の後半に、エルメネクを首都とすることを宣言している。このようにセルジュクトルコの終焉につづいて、この王朝はアナトリアの王朝の中で最も力のある支配の1つであった。事実セルジュク朝のスルタン・ケイクバート1世は、1228年にヌレスーフィ族(カラマンオーウラルにエルメネクとその周辺を授けている。しかし、モンゴルの侵略とセルジュク朝時代に起こった天災が有利に働いて、彼らは独立を宣旨するのである。もちろん一方では、勢力拡大のため、セルジュク朝や他のアナトリア地方の王朝、そして後にはオスマン王朝とも戦っている。オスマン朝とカラマンオーウラル朝の戦闘は、数年間にわたって続く。オスマン朝は勝利する機会が多かったし、コンヤも奪ったが、これは一時的なものであった。ついに、オスマン朝のスルタン・メフメットは攻撃をかけカラマンオーウラル朝を打ち負かし、1467年には滅亡させてしまった。そして、コンヤはオスマン朝の1つの地方という位置付けがなされた。コンヤが一地方都市になってから、最初にこの地の管理者になったのは、シェザデ・ムスタファ(スルタンの息子)である。

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