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JATA
観光庁長官登録旅行業第1997号
日本旅行業協会 正会員
東京商工会議所 会員
トルコ旅行ガイド

イスタンブール、コーラ博物館


一説にこの教会は西暦413年のテオドシウスll世の城壁建設前から存在していたとあるが、これは「コーラ」という言葉の地形学的解釈から発したものと思われる。この言葉は国、土地、そして郊外を意味する。この種の説は紛らわしく、矛盾している。
歴史的背景
コーラの初期の歴史


 一説にこの教会は西暦413年のテオドシウスll世の城壁建設前から存在していたとあるが、これは「コーラ」という言葉の地形学的解釈から発したものと思われる。この言葉は国、土地、そして郊外を意味する。この種の説は紛らわしく、矛盾している。キリストはパントクラトール(全能者)、アカタレプトス(無限者)、聖母はパマカリストス(祝福された)、エレオウサ(慈悲深い)という神秘的な属性で定義づけられていたが、14世紀までに、彼らに対して教会を寄進するという習慣ができていた。同じ場所に建てられてきた前の教会にはあてはまらないが、現在のテオドレ・メトキテスによって修復、拡大された教会がこの習慣に従って「生命の住処」としてのキリスト、「包含されるはずなき者の住処」としての聖母に捧げられたのは確かである。 
7世紀初めに今の場所に起てられた最初の教会が経てきた建築学的変化を追うことには一般の旅行者の興味を越えるであろう。多くの教会や修道院と同様、聖像破壊運動(730~843)とその後の第四十字軍によるラテン帝国のコンスタンティノープル占領(1204~1261)時が苦難の時代であった。 
ドームやミナレット(尖塔)のようなオスマン建築を数に入れないとすると、現在の建築は三種の異なる建築様相を見せている。
                
最初のものは、1080年に遡る。皇帝アレクシオス1世コムネノス(1081~1118)の義理の母であるマリア・ドカエナによって再建された。彼女は一時期、ドカス家とコムネノス家において非常に有力な人物であった。彼女が建てた教会が老朽した際、そ.れを彼女の孫のイサク・コムネノス(皇帝アレクシオス1世コムネノスとイレネ・ドカエナの息子)が再建した。12世紀初めのことであった。内ナルテクスのデイシス(請願)のシーンにこの第2の教会に関する手懸かりがある。教会の創建者がパネルの一角に描かれているのである。 
ビザンツ帝国の一王朝のコムネノス朝がコーラの近くに位置するブラケルナエ宮殿に移り、また1261年にラテン帝国からコンスタンティノープルが奪回されビザンツ帝国が再建されると、コーラの重要性は増した。聖ソフィア教会と共に、コンスタンティノープルの2つの主要な教会と見なされたのである。

テオドレ・メトキテスの教会 
現在の建物にあるドームはオスマン様式で、木材でできており、漆喰で塗られている。18世紀に建てられた。胴郡は前の建物からのものである。目を凝らすと柱の上郡の長押に東西南北各方位に4つの組み合わせ文字が見える。これらは創建者の名や称号を示している。即ち、東:テオドレ、西:メトキテス、南:ロゴテテース(高官)、北:クレトール(所有者)、である。

ナーベ(身廊)はイスラム教徒が祈る重要な場所であったので、祭壇や聖像の如き備品は取り払われた。アブス(後陣)の大理石でできたミヒラーブ(壁のくぼみ)は、ムスリムが祈るメッカと同じ方向を向いていたので現在まで残された。現在ある大理石のパネルが以前からあった擁壁をメトキテスが修復させたのか、或いは彼自身が新たに付けくわたのかは不明である。聖ソフィア教会のと同様、大理石は紙のように薄くカットされて壁に貼られた。当時の技術では職員がふたりがかりで一日わずか5cmしかきれなかったことを思うと、大理石をカットすることがいかに大変な仕事だったかがよくわかる。

テオドレ・メトキテス(1269~1332推定)はコーラの最後の復興者であった。36歳にし て、皇帝アンドロニコスⅡ世パライオロゴス(1282~1328)治世下の大宰相の座に就き、財務長官も兼ね、権力と資力でコ-ラを復興し立派にした。彼は当時の支配階級と密接な関係にあったので、アンドロニコスⅢ世によってアンドロニコスⅡ世の政府が転覆させられると、流刑に処された。晩年にはコーラヘ戻ることが許され、死ぬまでコーラで過ごした。

メトキテスがいつコーラの修復に着手したかは記録に残っていない。ナーベの復元、外ナルテクスと側堂の増築、大規模なモザイク装飾は5年以上の年月を費やしたに違いない。これら全ての完成は1321年の年頭となっている。おそらくナーベのモザイクを最初に、そしてナルテクスのモザイク、最後に側堂のフレスコの順に完成していったのだろう。 
教会は、1 5 1 0年にスルタン.バヤジィッドⅡ世(1481~1 5 1 2 )の大宰相であったアティック・アリ.パシャによって、モスクに変えられた。 

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