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JATA
観光庁長官登録旅行業第1997号
日本旅行業協会 正会員
東京商工会議所 会員
トルコ旅行ガイド

イスタンブール、トプカプ宮殿


トルコ語で、「トプ」は「大砲」、「カプ」は「門」を意味する。この宮殿の「海の門」の一つの前に昔二つ大きな大砲があった。それで、いつしかこの宮殿は、トプカプ宮殿「大砲の門の宮殿」と呼ばれるようになった。現在は、その海の門も大砲も残っていない。
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トルコ語で、「トプ」は「大砲」、「カプ」は「門」を意味する。この宮殿の「海の門」の一つの前に昔二つ大きな大砲があった。それで、いつしかこの宮殿は、トプカプ「大砲の門の宮殿」と呼ばれるようになった。現在は、その海の門も大砲も残っていない。
 宮殿の人口は、6,000人位だった。金曜日のお客を加えると、宮殿の人口は16,000人にも増加した。トプカプは、メーメットⅡ世(Fatih.征服王)が、1467年に建て、19世紀の半ばまで、つまり、オスマントルコの31代スルタン・アブドールジットが、ボスポロス海峡の海岸にあるドルマパッチエ宮殿を建てるまで、帝国の中心、王様の家だった。オスマントルコの歴史に、1299~1922年まで、全部で36人のスルタンがいた。このスルタンの大部分はトプカプに住み、19世紀の半ばに、ドルマバッチエ宮殿を建ててからも、トプカプのハレムは使われた。最後のスルタンは1922年にドルマバッチエからイギリスの船で逃げ、将軍ケマルパシャは、1923年にトルコ共和国を建国し、宮殿は政府のものとなった。 1924年、トプカプも博物館に変えられた。


 歴代のスルタンが、いろいろな建築を建て増ししたので、今トプカプ宮殿の中に、異った時代の建築様式と、目的の違った建物を見ることができる。宮殿は複雑なつくりを持ち、しばしば、16世紀に建てられた壁の上に、18世紀に流行した壁画を見ることができる。
 宮殿の大きさは、70万㎡だった。まわりの庭はスルタンの猟場だったところで、今そこには、羊、描、年寄りのラクダが二頭いて、動物園になっている。宮殿側には、オリエント急行の駅と兵舎かおる。宮殿は、1922年まで使われたので、馬屋、ハレムの半分等、その多くの部分は修理中である。
トプカプ宮殿は、二重の城壁に囲まれている。その総門は、ブルーモスクの側の門で、「皇帝の門」と言う。15世紀に、メーメットⅡ世がこの町を征服してから建てられた。この門を入る前に、右側に、イスタンブールで一番美しい泉が見える。スルタンアーメッドⅢ世の泉と言い、宮殿の銀製品のコレクションの中には、この泉の小さい雛型がある。アーメッドⅢ世は、オスマントルコの歴史の中で文化的な興隆を見たチューリップ時代のスルタンである。チューリップが生まれた場所はトルコで、1700~1730年のチューリップ時代に、イスタンブールで黒いチューリップが作られた。チューリップの球根は、初め、オーストリアの大使がオランダヘ持ち帰り、オランダから各国へ輸出されたので、この花は、オランダが原産国と思われている。

トプカプ宮殿旅行・観光の案内ビデオ

詳しくは右側のトプカプ宮殿旅行・観光の案内ビデオをご覧になってください。 → →
 
2分26秒  (日本語字幕版)

 第一中庭
 「皇帝の門」は、とても狭いので、観光客のバスは、考古学博物館側の門から第一中庭に入る。今ここは、駐車場として使われている。昔は、バスとタクシーのかわりに、ここに高官、側近、外国使臣たちの馬車があった。嬉しいことに、宮殿の蔵の中にある沢山の細密画から、この庭の当時の様子を知ることができる。当時ここには、いろいろな泉、宝物販があり、薪を収容する為の倉もあった。
 第二中庭に入る前に、ここで入場券を買わなければならない。ビデオは、持って入ることができない。入場の際には、右側のスズカケの木後方の泉で立ち止まり、しばし思いをめぐらすのが良い。これは、「死刑執行人の泉」である。大臣や首相などの役人がスルタンの機嫌を損ねた時には、文字通り、すぐに首を切られ、泉で洗われてから、さらし台にのせられた。新任の大臣が命を受けて、トプカプ宮殿へは壮参じた時には、前任者の生首を目にしたものだった。
19世紀後半、ドイツのウィリアムⅡ世が来訪した折り、当時のスルタンは、悪印象を恐れ、壁から離した。 1924年に宮殿が博物館になってから、この泉は再び元の所に戻された。


 第二中庭
 送迎門を入ると、大きく美しい庭がある。この中庭は、昔はオスマントルコ政府と取り引きのあった商入たちに解放されていた。今、ここには、ハレムの入りロと陶磁器と銀製品の博物館がある。この庭には、スズカケの木、糸杉、くるみの木、花等が無雑作に植え込まれているような印象を受ける。古い記録によると、かつてこの庭には、18種類の梨の木、14種類の梅の木、そして7種類のマルメロの本があったと言う。だがガイドに言わせると、世界で唯一つしかない「イトヂク」を除いては、果樹は、一本も残っていない。
これは糸杉に、イチヂクを接ぎ木したものである。すぐ隣に、ビザンチン時代の地下水槽の天井も見える。


 調理場
 中庭の右手にある大きな建物は、昔の調理場である。第一番目の建物は、料理人の宿舎だった所で、当時ここには、1,200人の料理人が住んでいたと言う。今では、歴代のスルタンが買い集めたり献上を受けたりしたマイセン・リモージュなどヨーロッパの陶磁器ベネチアグラス、家具の博物館になっている。
 料理は二番目の建物で作った。ここで一年間に3万羽の鶏と、4万頭の羊が料理された。通常の食事で132種類の料理が作られ、それぞれの料理人は、自分の専門料理があった。スルタンとその家族には、お付きのコックがいて、時には食物が支給され、好きに調理ができた。例えば、スルタンの“お気に入りの妻4人”には、毎日5 kgの肉、2kgのバター、どっさりの雪(ロバの背にのる程度の、ただし夏場のみ)、一皿のクリーム、最上級の穀物4握り、0.5 kgのハチミツ、1 kgの果物、卵2つ、4羽の鶏、そして季節の野菜が支給された。当時は、冷蔵庫がなかったので雪を使った。雪は、マルマラ海の向こうのミシアンオリンプス(現在のウルダー・トルコで一番有名なスキ一場)から、ラバで運んできて、特別な穴倉の中に保管された。ローマの皇帝ネロも、リノビアンカ(白ブドウ酒)を冷やすのに同じ方法を用いたという。
 毎日、この台所で6,000人の為に、金耀日には16,000人の為に料理を作らなければならなかった。今ここで、世界一の中国の陶磁器の逸品の収集を見ることができる。全部で10,512枚もの皿があって、一度には展示できないので、時々変えているが、宮殿の蔵は陶磁器で一杯である。最後の部屋まで全て、中国製の陶磁器が展示されており、各部屋には、青磁、白磁、エンペラーズイエロー、中国製の伊万里のデザインの陶磁器がある。日本の伊万里港から輸入した陶磁器は、最後の部屋にある。10世紀から16世紀までの陶磁器は、シルクロードを通って、当時のイスタンブールの港ウスキュダルヘ運ばれてきたものである。
 ビザンチン皇帝たちと、オスマントルコのスルタンが、これ程裕富だった理由は、イスタンブールの立地条件の良さによるもので、この港は、約2,000年間、世界の貿易の中心地だった。ソ達から女の奴隷、牛、木、ハチミツ、毛皮、鉛、鉄をバルト海沿岸の国々からは、琥珀、インドから香料、カッパドギアから馬、バーレーンから真珠とサンゴ、エジプトからパピルス、アフリカから黒人奴隷と象牙と野生の動物、イタリアからブドウ酒とベネチアグラス、ギリシャからオリーブ油、キプロスから銅、ブルガリアからは、ローソク用の蜜を運んでいた。これらを運ぶキャラバンは、町へ入る時と出る時、船は金角湾へ入る時と出る時、10%の税金を払わなければならなかった。1453年にオスマントルコが町を征服して以来、イスタンブールは敵の襲撃を受けたことがないのでこれ程立派な品々が、今、ここに集められて残っているのである。


 陶磁器の内、一番立派なのは、青磁である。青磁の入れ物は、料理の中に毒が入っているなら変色すると信じられていた。19世紀後半のスルタンアブドール・ハミッドは、タバコの毒味を宦官にさせていた。あるスルタンは、卵の上に母の印章がついた固茄で卵だけ食べた。
 ただし、オスマンのスルタンについては、ほとんどが当時の歴史家が書いた本から来ていることを忘れてはならない。当時の歴史家には、小説を書くことと、歴史を叙述することの見分けがつかなかった。外国人使者の手紙も叉然りである。今日、スルタンたちは歴史の数ページを飾っている。オペラと劇のテーマになっている。すぐに、スクリーンにも登場するであろう。このような事を、著者の年代は誉れとも恥とも思っていない。この公平な見方は、最近の科学的な歴史解釈の結果である。
 トルコ人は、沢山食べる。しかし、オスマントルコの大部分は少食だった。一番大きいスルタンは、19世紀のスルタンアブドル・アジズだった。彼は背丈が215cmで、体重は138kgあった。彼はドルマバッチエ宮殿に住んでおり、ハレムには1,000人位の女性がいたが、女性の数が余り多かったので、約半数は、トプカプ宮殿に住んでいた。
 台所を建てたのは、オスマントルコの歴史で一番有名なスルタン・スレイマン・モスクを建てた建築家、シナンである。台所の内、お菓子を作った場所は、当時のままに保存されており、ここに沢山のポット、コーヒーセット、金の皿などがある。残念ながら、通常閉められており、入ることは難しい。
 その隣りの部屋では、コーヒーカップ、一輪挿しの花瓶など、トルコ製の陶磁器が見られる。コーヒーカップの大部分には、とっ手がなく、昔はガラスのコップを、金や銀、ダイヤモンドなどの器に入れて出していた。
 この庭に、ビザンチン時代の柱と、オスマントルコ各地から持ってきたアラビア文字が書かれた大理石板がある。ハレムの入り口も、この庭にあり、その隣りに、ディバンの部屋がある。


 ディバン
 ディバンは、政府の中枢で、ここに毎週4日、スルタンと大臣たち、アジアとヨーロッパを含む広大な帝国の全土から将軍たちが集まった。ディバンの上にある塔は「正義の塔」と言う。この塔からスルタンは、オスマントルコ国民に正義を約束し、約500年の間、この世界に冠たる大帝国はこの宮殿から治められたのである。その領域は、全バルカン諸国、黒海沿岸、クリミア・カスピ海までの東アナトリア、中東、イラン、アラビア半島、エジプト、チュニジア、モロッコを入れた北アフリカ、キプロスとロドスに広がっており、世界の七不思議に数えられる場所は、全てオスマントルコの領域内にあった。
 スルタンは、ディバンにいつも来る必要はなかった。好きな時にハレムからディバンに通じる地下道を通って、誰にも気付かれずに会議を覗くことができた。時々、デイバンで大臣たちが喧嘩をしていると、スルタンは、咳払いをした。
 ディバンのすぐ隣りの小部屋で、書記たちが、会議の記録を取った。これらは、防水紙にオスマン語で書かれた。
 宮殿では、トルコ語が話され、お祈りは、アラビア語、文学と詩はペルシャ語で書かれた。オスマン語は、政治に使われた。これはトルコ語、アラビア語、ペルシャ語の混じった非常に難しい言葉である。現在、宮殿の蔵の中には、オスマン語で書かれたものが1億2,000万頁位残されているが、残土なことに、今に至るまでに翻訳されたのは、この内3%だけである。
 武器の展示館も、この庭の中にある。ここで日本人に興味深いのは、19世紀に日本のある侍がスルタンに贈った鎧だろう。


 幸福の門
 スルタンの住居の入り口となるこの門は、「幸福の門」と呼ばれる。スルタンは、神の使いで、臣民に幸福をもたらすと考えられていたので、この名が付けられた。
 天井からは釣束飾りがおりている。言い伝えによると、この釣束飾りは世界を表わし、上にある石は、スルタンの力を表わしている。
スルタンの手は世界を握り、その力は、あらゆる所に及ぶという意味である。
 床にある穴は、オスマントルコの旗を立てる為のもので、大きな儀式のある時には、ここに旗を立て、今、宝物殿にある金の王座もここに置いた。

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