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JATA
観光庁長官登録旅行業第1997号
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トルコ旅行ガイド

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絶世の美女とりりしい英雄たちの姿がロマンの響きと共に浮かび上がるトロイの町…その起源は神話と伝説の霧の中にぼんやりと見え隠れしていた。吟遊詩人ホメロスがうたい、世界文学の古典として親しまれてきた「イリアッド」の舞台、トロイ。

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ダーダネルス海峡の南、クチュク・メンデレス川に潤された肥沃な平野とヒサールクの丘にはさまれた一帯に古えのトロイの遺跡がある。
絶世の美女とりりしい英雄たちの姿がロマンの響きと共に浮かび上がるトロイ…その起源は神話と伝説の霧の中にぼんやりと見え隠れしていた。
吟遊詩人ホメロスがうたい、世界文学の古典として親しまれてきた「イリアッド」の舞台、トロイ。
その実在を信じて疑わず、その町を掘り出すために生涯をかけた男がいた。ハインリッヒ・シュリーマンである。ちょうどヒサールクの丘の近くで一つの遺跡が発見され、正体を解明できずにいるとの噂を耳にした彼は、それこそ伝説のトロイに間違いないと確信したという。

1870年、周囲の嘲笑と冷たい視線にも負けず、信念の人シュリーマンはここを掘り始めた。彼の死後も発掘は引き継がれ、ついにここで9つの層に渡る都市の跡が確認されたのである。 
最初の居住跡(トロイI市)は紀元前3000年頃までさかのぼる。約500年続いたこの町は火災で滅んだ。
トロイⅡ市はもっと大規模でりっぱな町になっているがこれも火災で廃墟となった。続くⅢ、IV、V市の時代は特別な変化も進展も見られなく、沈滞した時期だったらしい。やがてトロイⅥ市の時代になると人目も増え、かなり繁栄した様子がうかがえるが、紀元前1300年頃の連続地震でこの町も滅亡している。

そしてまもなく再建されたトロイⅦa市こそがトロイ戦争の英雄たちの舞台だった。考古学的に紀元前1200年頃と見られる戦争による破壊炎上の跡が伝説とぴったり一致したのだった。
その後長く停滞期が続いた後、紀元前700年頃に遺跡の上に人々が住み着いて村ができている。最後のトロイIX市はヘレニズム時代からローマ時代に及ぶが、その後ゆっくりとしかも確実に衰退、廃墟と化して、5世紀には完全に忘れ去られてしまった。
 シュリーマンが掘りあてた財宝は世界中を興奮させたが、実はホメロスの叙事詩のトロイではなく、もっと古いトロイⅡ市の遺品だった。しかし、神話伝説を科学的に解釈し、考古学の基礎的な第1ページを開いたシュリーマンの果たした役割は大きいものといえよう。


詳しくは右側のトロイ旅行・観光の案内ビデオをご覧になってください。 → → →
 
1分50秒


チャナッカレ(CANAKKALE)
 
チャナッカレはアジア大陸の西の果て、ダーダネルス海峡にのぞむ港町である。マルマラ海とエーゲ海をつなぐダーダネルス海峡は古代のヘレスボントスで、ダーダネルスという名もトロイの伝説的建国者ダルダノスに由来する。
この海峡はその地理的条件から、古今東西の大志野望を抱く権力者たちの熱いまなざしを浴びてきた。西を目指したペルシァのキュロス大王は船を並べて橋を作りその大軍を渡らせた。西から東へと駆け抜けたマケドニアの若者アレクサンダ一は大帝国を築いたものの、再びここを渡って故郷に帰ることはなかった。オスマントルコの二代目オルハンはこの海峡を筏を組んで渡っている。

ごく最近のことを言えば、第一次世界大戦でこの海峡と対岸のガリポリ半島(ゲリボル)は激戦地として名を残した。トルコ軍、連合軍ともにおびただしい数の犠牲者を出し、ガリポリ半島には各国の慰霊碑が建てられている。戦後の1922年に、ここに駐屯していたイギリス軍はムスタファ・ケマル(後のアタ・チュルク)の軍と衝突、しかし英国に同調する国がなかったので危うく開戦を避けることができたのだった。そして翌年のローザンヌ条約で、トルコ共和国の主張を入れて領土が確定されたのだった。


アソス(ASSOS)

 今日のベフラムキョイ、古代ギリシァの学問都市アソスは岩だらけのゴツゴツした土地と眼下に広がる神秘的なまでに美しいエーゲ海、中世的な村のたたずまいが印象的な風景を構成している。レスボス島の緑と溶け合うこの青い海は、古代からギリシァ本土とレスボス島を結ぶ航路だった。 


アソスの最初の住民もレスボスから渡ってきたギリシァ人だった。紀元前6世紀、このあたりはクロエソスのリディア王国の統治下にあったが、クロエソスがキュロスに敗れた結果、アソスはペルシァ帝国のフリギア・ヘレスポントス州に組み込まれた。
紀元前4世紀頃のアソスでは学問が盛んだった。特に、哲学の面ではアリストテレスを筆頭に、ストア派の創始者のひとりでアソスの人、クレアンテスその他、気鋭の学者が集まり知的な活気に溢れる町として広く知られていた。
紀元前2,3世紀のアソスはペルガモン王国の支配下に入っている。

アソスの発掘調査は19世紀後半に始められ、古代ギリシァ世界でも屈指といえる立派な防壁(紀元前4世紀)の跡が確認された。アクロポリスの最も高い場所にあったアテナ神殿は前530年前後にドーリア式神殿として建立されたが、後にイオニア式も採り入れたらしい。長道が13本、短道が6本の柱が並ぶ細長い建物で、その土台床は今も残っている。アクロポリスの丘の斜面にそって、アゴラ(市場又は広場)、体育館や劇場の廃墟が目に入る。アクロポリスの北に建つモスクは、オスマン初期の14世紀、ムラト一世時代のものである。