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トルコ旅行ガイド

プリエネ


プリエネの起源は、その地域の先住民族であるカリア人とされている。しかし、それより以前の先史の頃については明らかにされていない。プリエネの最古の遺跡はBC6世紀のものである。パ二オニオンと呼ばれる地に選ばれたのもここプリエネだった。

プリエネ 

 ソケから約20km、現在はギュルルバフチェとして知られるプリエネは、西アナトリア地方の古代イオニア都市だった。プリエネの発掘は1895年、カール・ヒューマンによって開始され、1898年テオドル・ウェガンドによって終了した。

 プリエネの遺跡はヒポダモスの碁盤の目形式を採り入れた都市設計の代表例となっている。

 この町の設計はアテネを基本として造られた。町は背後に聳える岩山の斜面を利用して建設され、整然と区切られた碁盤の目設計になっている。神殿と他の建物は山の麓のテラス上に建てられた。プリエネを訪れる者は誰もがその景観の素晴らしさに心を打たれる。春、プリエネはづで一番美しい季節を迎える。


プリエネの歴史 プリエネの起源は、その地域の先住民族であるカリア人とされている。しかし、それより以前の先史の頃については明らかにされていない。プリエネの最古の遺跡はBC6世紀のものである。パ二オニオンと呼ばれる地に選ばれたのもここプリエネだった。記録によるとBC11世紀に最初のイオニア人がやって来てこの地に落ち着き、アテネ出身のアエギプトゥスかあるいはテーベ出身のフィタロスのどちらかが町を建設した。プリエネはイオニア同盟都市の中でも最も影響力を持つ都市の一つでポセイドン・ヘリコヌオスを祝う祭り等も盛大に行われたようだ。古代の優れた思想家のバイアスはプリエネに住んでいた。この頃作られたコハク金硬貨は有名である。BC7世紀に入ってプリエネはリディアの統治下に置かれた。そしてBC6世紀にはペルシャ人により攻略され、その後何世紀もの間ペルシャの支配を受けた。

BC494年、プリエネはペルシャの圧力に対して蜂起し、12隻の船を仕立ててラデの海戦に臨んだ。600隻のペルシャ帆船に対してイオニア側は353隻の三段櫂船で戦った。結局はペルシャ王ダリウスの勝利に終わり、プリエネの町は徹底的に破壊された。その頃町にあった2つの港はメンデレス川の土砂の堆積が原因で湾口が塞がってしまった。

 BC350年、新しい町が現在の位置に建設された。当時町の中心は海から離れたところにあり、ナウロクスの小さな港を通して海上貿易を行っていた。プリエネは同時期に繁栄していたペルガモン王国に劣らず、この上なく恵まれた自然の景色を背景に、優れた都市設計を基本にして町を建設した。プリエネ人は町の平和と繁栄に力を注ぎ、エフェソス人の様に高慢な態度を誇示するようなことはなかった。人口4千人ののどかな美しい町のままであった。通りを飾っていた大理石やブロンズ像は赤や青に塗装された。アテネの行政下に置かれ、政治的に完全な独立都市にはならなかった。BC4世紀にこの地方を訪れたアレキサンダー大王は町にアテナ神殿を寄贈した。BC277年、プリエネはゴール人に占領され、以後長い間セレウシデスが実権を握った。その後町はペルガモン王国のアッタロス王に攻略された。

 BC129年、プリエネは小アジアの口―マの属州となった。BC88年から84年にかけてはポントス王ミトリダテスに支配された。しかし、アウグストゥス帝の時代になると、町の繁栄と富は以前の如く復活した。祭儀がアテナ神殿とサクレッドストア(聖なる柱廊)で行われた。その後町が海から遠ざかるにつれて繁栄にも影が見え始めた。

 プリエネは古代七賢人の一人バイアスの生誕の地であった。プリエネがペルシャ人に包囲された時、住民は各々の家財道具をまとめて町から逃げ出し始めたが、バイアスだけは動かずに留まっていた。一人が尋ねた。“財産がなければ敵から攻められずに済むものか?”彼は答えた。“私の財産は、私の頭脳である”他にも彼の有名な言葉がある。“不幸に遭遇しないことこそ最大の不幸である”“ゆっくり始めよ。しかし活気を持って持続せよ”“行動は人を作る”

 プリエネはまたBC3世紀の有名な彫刻家アルケラウスの生誕地でもある。町はどこも彼の芸術杓な作品で飾られた。BC240年頃に彼はペルガモンに移り、そこで製作活動を続けた。プリエネはビザンティン時代に祭祀の中心地として再び注目される様になった。 14世紀に入り、トルコの頷土となってからは、ごくのどかな田舎町のままである。

劇場

 三段目のテラスに位置する劇場は、プリエネでも最も立派な建物の一つである。今日座席の上段部分は殆ど崩れた状態であるが、下段部分はかなり良好な状態で現存する。客席は50段あり5千人収容出来た。クレプシドラ(水時計)があるところを見るとこの劇場は政治的な集会にも利用されていたらしい。かなり損傷を受けてはいるが、半円形の客席を持つこのギリシャ式劇場は現在も当時の姿を留めている。

 劇場で活躍した役者達の装飾品を保管していたと思われる二階建てのステージビルを通り抜けると、後期に造られたとされるオルケストラ(踊り場)へと出る。観客席とは比較的低い壁(リセ)で仕切られている。また身分の高い市民のための貴賓席を含む5席のプロエドリエ(AD2世紀)が設けられた。

 劇場の中心にはディオニソスの祭壇が置かれ、これは後期になって以前のプロエドリエより多少高く作られた。これは舞台とオルケストラの高さが変わったためだろうと言われている。初期の劇場はBC4世紀に建設されたが、その後AD2世紀迄修復が繰り返された。ローマ時代に役者はオルケストラと同じ高さの舞台で演じていたようだ。舞台は小間壁と縦溝彫りで飾られていたアーキトレーブを持つドーリア式の12の円柱で支えられ、側面に2ケ所、ファサードに3ケ所の5ケ所のポーチ式の出入口があった。ファサードに設けられた3ケ所の扉は間閉式になっていた。ファサードを支えていた円柱の間には舞台装飾(BC2世紀)に利用されていた鮮やかな色彩のパネルがはめ込まれていた。

 円柱の穴は舞台の厚板を固定させるためだった。

 ソフォクレスに代表される悲劇やアリストファネスに代表される喜劇か演劇と祭りの女神テオリアの下で上演された。

 当時娯楽と言えば大抵演劇であったが、劇場はまた音楽祭にも利用されていた。コンテストが終わるとすぐにその場で入賞者達に褒美が与えられた。

町の城壁

 4世紀に長さ2.5kmの城壁が町を囲む様に築かれた。城壁には東側に2ケ所、西側に2ケ所の4つの門が設けられた。町への出入□となるこれら城門の上には四角い塔が建てられ、敵の攻撃に備えられていた。現在、我々が利用している門がメインゲートで町の北東に位置している。この町を上から見渡すと城壁の右手にこの門があるのが分かるであろう。城壁の高さは6mで石造りである。

スタディウム(競技場)

 スタディウムはBC2世紀に造られた。西側には190mの競技用トラックがある。観客は北側に設けられた客席から競技を観戦した。小高いテラスには競技者が悪天候時の練習に使っていた柱廊がある。一般市民はスタディウムをプロムナード(散歩場)として利用出来た。

ローワー・ジムナシウム(下段体育場)

 スタディウムの西側にあるジムナシウムヘは、プロフィロンと呼ばれる巨大な門を通って中へ入った。中庭の中心には3面をドーリア式ポーチに囲まれたパラエストラ(アスレティック場)が設けられていた。ジムナシウムの北側にはエフエベウムという学生用の講義室があって、当時ここで講義を受けていた学生達の名が刻まれた壁が残されている。他の部屋は物理学の講義のために利用されていたという。

 ここにはまたライオンの頭をかたどった噴水口を持つ泉がある。

 入口から少し離れた右手にはキベレ神を祀った祭壇がある。多くの貧しい階級の人々に手厚く保護されていたらしい。



サクレッド・ストア(聖なる柱廊)

 この建物はBC2世紀、カッパドキア王アリアラテスによって寄贈された。長さ116m、幅1 2.50mで、地階に位置する。屋根は49本のドーリア式円柱で支えられ、更に中央には24本のイオニア式円柱力く設けられていた。ブレウテリオン(議場)として利用されていた場所を除いて、ストアの敷地の北側に沿って15件の商店が連なっていた。そしてこの商店の利用は行政官等の特別な人々に限られていた。ストアの中に見られる円形の石の台は、ローマ期の祭祀に使われていたもので、アウグストゥス帝などもここで習慣的に祈りを棒げていたらしい。このことからこの場所が“サクレッドストア”と呼ばれる様になったのだろう。

 AD9世紀に広まったユリウス暦(西洋旧暦)が記された碑が現在も残されている。

 ストアの東側には、ブレウテリオンとプリタニオンと呼ばれる重要な建物がある。

アゴラ

 アゴラなしの古代都市は考えられないことで、ここプリエネのアゴラはどの方向から来ても必ず目に止まる。アゴラ見学は西側から始めるのが最良である。アゴラヘ入るとまず右手には肉や野菜が売られていた小さな市場が見えて来る。アゴラは元々市民生活のために造られたものであった。アゴラの広さは隣にあるジムナシウムも含めて75×35m、長方形の敷地であった。メインストリートに面している部分は除いてアゴラは柱廊に囲まれていた。アゴラの中央にはヘルメスを祀る像が立っていた。現在は大理石やブロンズ像が置かれてあった円形や四角形の台座だけ見ることが出来る。南側の階段は通りの下の方へと繋がっていた。アゴラの西側にはオリンポス山に住むゼウスのテメノス(神殿の内陣)跡がある。

アテナ神殿

 イオニア式の円柱が復元された神殿は、遠くからでもはっきりと見ることが出来る。神殿はBC4世紀から2世紀の間に建てられた。

 アテナ神殿の設計を担当した有名な建築家ピテオスは、他にも世界七不思議の一つとして知られるハリカルナッソスのマウソレウムの設計も手掛けた。神殿には7mの高さのアテナ像があったとされ、像の断片の幾つかが発見されている。この像はパルテノン神殿のアテナ像を模倣して作ったものらしい。

 神殿はカッパドキア国の王子オロフェルネスによって寄贈された。幅の太い11本の円柱とそれより細い6本の円柱で回りを囲まれた神殿であった。更に神殿には2本の柱で支えられたオピストドモス(宝物庫)が設けられていた。建設には地元産の大理石が使われたようだ。

 神殿の東側正面に祭壇の台座部分が残されている。台座は精巧な神々のレリーフで飾られていて、上部にあった巨像の方は現在イスタンブル考古学博物館に納められている。祭壇と像で囲まれていた中庭はBC2世紀のものである。少し離れたところにはBC1世紀に造られたと思われる4本の柱で支えられた巨大な門のプロフィロンがある。テラスの南側の19の台座の上には神々の像が立っていたのであろう。アテナ神殿の下の場所には32本の円柱がそびえていたストアがある。

デメテルとコレーの神殿

 この神殿を訪れる理由の一つにはその見渡す景色の素晴らしさにある。プリエネで最古のこの神殿はテラス上段に位置していて、東端の2本の円柱のあるポーチを通って中へと入る。入口の左手には祭司遠の寝室があり、この部屋の壁に沿って願かけの奉納物を置くための石の台が高い位置に設けられていた。神殿を出た南側の所には生賛になった動物の血を流し込んだと思われる窪みが残されている。ここへ来た道をもう一度戻ると劇場に出る。この場所からは美しいヴィラが見渡せる。

エジプトの神々の神殿

 神殿はヘレニズム時代に建てられ、イシス、セラピス、アヌビス等のエジプトの神々が祀られていた。祭壇に使われていた台には見事な石細工が見られる。メインロードヘ戻るには劇場の方へ向かえば良い。

アレキサンダー大王の神殿

 建物は右手の道の終点から少し入った所にある。神殿の中央には、当時白い服装の人のみ入場出来たという神聖な祈祷室に囲まれた広い中庭があった。 BC334年アレキサンダー大王はミレトス包囲攻撃の途中でプリエネに立ち寄り、この神殿に滞在したと言われている。その後この神殿はアレキサンダー大王を祀るようになった。大王の大理石の像がこの場所から発見されている。

 プリエネの町はミレトス入の建築家ヒポダモスによって設計されたグリッド式(碁盤の目)で建設された。この設計に従ってメインストリートは並行に、サイドストリートは直角に交差する様に作られた。通りは舗装されていた。家々は中庭を持ち、下水道設備が整えられていた。水は必要な分か供給され、今日見られる様に使った分を支払う方法が採られていた。どの家も大理石のイミテーションに化粧塗料を塗ったり石膏の彫り物で飾ったりした。また二階建ての家もあった。

ブレウテリオン(議場)

 これは古代ブレウテリオンの中でも最も保存状態の良い例の一つとされている。大雑把な四角形に作られていて、640人収容の傍聴席に囲まれている。中央には雄牛の頭と月桂樹の葉の模様で飾られた祭壇が置かれてあった。建物はBC2世紀のものである。話し手は建物南壁の2つの入□の間に設けられた台から演説した。



プリタニオン(市庁舎)

 ブレウテリオンにすぐ隣接してプリタニオンがある。ここは町の行政機能が置かれていた所で、食事や宿泊等のサービスも提供されていた。また他市民や外国使節団のための宿泊施設も整えられていたようだ。この建物内には町の聖火が灯され続けていた。結婚したカップルがここでこの火を貰い、途中で消えない様に注意しながら家へ持ち帰ることが慣習だったらしい。

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