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トルコ旅行ガイド

ペルガモン・ベルガマ


ペルガモンの最後の王アッタロス3世の時には人口12万人を抱えエーゲ一の大都市となったが世継ぎが無かった事もあり王国をローマに寄贈してしまった。古代の名医ガレノスは500以上の医学的調査書を書き、多くの患者が訪れた療養所アスクレピオンで研究を続けた。
ペルガモン(ベルガマ)    
ペルガモンの興りについては未だ解明されていない。内陸に位置するためにギリシア人による初期植民を免れたが、この立地条件から古代世界に於いてさほど重要な位置にはなく、B.C.3世紀の初期までは小さな山国としてのみ存在した。ペルガモンが歴史に登場するのはアレキサンダー大王の部将リシマコスとの関係に於いてである。彼は9000タレント(1タレント=$7500)にも及ぶ莫大な大王の財宝をペルガモンに運び知事フィレタイロスに保管を一任した。リシマコスの死後、フィレタイロスは財産を継承し、自らペルガモンの君主として周辺を続治した。(彼の王朝は150年間続いた。)甥であり養子でもある後継者のエウメネス(263~241 B.C.)はこの若い王国を他民族から守り、後を彼の甥であるアッタロス1世(241~197 B.C.)に譲った。彼は勝利の記念碑を建立する等、都市を重要な文化の中心として盛りたてた。この後を継いだエウメネス2世(197~159 B.C.)の時代にはローマと手を組んで王国はその最盛期を迎え、タウロス山脈辺りまで韻地を拡大した。都市を見下ろす丘の眺めアクロポリスが築かれ、アテネ神殿やゼウスの祭壇、アゴラ、休背鰭、図書館等、都市を飾った壮麗な建物は全てこの時期に属するものである。エウメネス2世を継いだ弟のアッロタス2世(159~138 B.C.)の時代は容易ならぬ数々の戦いがありローマに伺いを立てずには何もしないいわゆる着実な政策を遂行した。次の王、即ちペルガモンの最後の王アッタロス3世(138~133 B.C.)の時には人口12万人を抱えエーゲ一の大都市となったが世継ぎが無かった事もあり王国をローマに寄贈してしまった。トラヤヌス神殿やセラピス神殿(赤の広間)など壮大な建物が建造されたのはこの時期である。古代の名医ガレノスは500以上の医学的調査書を書き、多くの患者が訪れた療養所アスクレピオンで研究を続けた。キリスト教の流行により洗礼者聖ヨハネに捧げられた教会堂の中にセラピスの神殿が再建された。8世紀になると都市はアラブ人の攻撃を受けた。1330年頃ペルガモンと領地はオスマン・トルコの手に落ち、モスクやバザールが建設されベルガマと呼ばれる様になった。アスクレピオン、考古学博物館、赤の広間等がみものである。

〔城壁〕
最も古い部分はB.C.4世紀に遡り現在も目にできるが、良い状態で残っているほとんどはB.C.2世紀のエウメネス2世の時代のものである。ブロックと石を混ぜて造ってある部分はローマ、ビザンチン時代に属する。

〔ヘロン〕
アクロポリスの門の前、都市を見下ろす丘の上部に亡くなったペルガモン王達をまつった場所がある。部屋が中庭を囲む様に配置されていた様である。へロンの下には部分的に現在も残るヘレニズムの居住区跡が発見されている。

〔上のアゴラ〕(市場)
ゼウスの祭壇の南、下の段丘にはドーリア式の柱に三方を囲まれ、谷側には商業の神ヘルメスに捧げた小さな神殿(B.C.2世紀)を備えた市場があった。アゴラの東、平たい御影石の下にはぜウスの祭壇を発見したカール・プーマン(1839~1896)の墓がある。

〔アテネの神殿〕
ペルガモンで最も古いこの神殿はB.C.4世紀に建てられ、6×10本の柱はドーリア式である。B.C.2世紀のエウメネス2世の時代に北側に回廊が造られている。破風の下のフリーズにはアテネを象徴するフクロウとゼウスを象徴する鷲が彫られていたが、ビザンチン時代に完全に崩壊している。後、ユスチニアヌスがここに教会堂を建設したが現在は建物の基礎が残るのみである。


〔王宮〕
東側城壁辺りにはヘレニズムの王達の住まいと付属の建物があった。初代の王フィレタイロスのものと思われる北の宮殿は後に軍の兵舎に変換されている。北から南へ歩を進めるとアッタロス1世やエウメネス2世、そしてアッタロス2世達の宮殿が目に入ってくる。貯水槽が水の供給源となっていた。


〔武器庫〕
アクロポリスの最も守りの固い場所に長方形をした5棟の武器格納庫が並んでいる。後には穀物の貯蔵の為の倉庫として使用されたらしい。南手には近衛兵の宿舎があり、ヘレニズム時代の要塞も見られる。

〔図書館〕
エウメネス2世の時代に建てられ、20万巻の蔵書を以って古代世界で二番目に大きな図書館であった。アテネの神殿の後方に位置し、多くの彫像で飾られる部屋の中央には有名なアテネの模倣傷も立っていたと思われる。当時ベルガモン図書館の唯一のライバルはアレキサンドリアの図書館であり、互いの競争意識は激しいものであった。エジプトがパピルスの使用を禁止するとベルガモンは代用品としてその昔イオニア人達がやった様に羊や山羊の皮を採用してこれに対抗した。皮はパピルスよりも厚い為に書簡よりも本に適していた様である。後にマーク・アウレリウスはここの蔵書を全てクレオパトラに贈ったが、7世紀のカリフ・オマールのエジプト征服の際に破壊されてしまっている。


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