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JATA
観光庁長官登録旅行業第1997号
日本旅行業協会 正会員
東京商工会議所 会員
トルコ旅行ガイド

ミレトス


B.C.7世紀、ミレトスはイオニア諸市の文化学問の中心として更なる発展を見せたのである。自然哲学者のターレス(商人で数学者、技師でもあった)、アネクシメネスとアナクシマンダーの両歴史家、地理学の父と呼ばれたへカタエウスとカドモス等は全てこの時期にミレトスに住んだ学者である。
ミレトス旅行・ツアー

ヘロドトスによるとB.C.11世紀、イオニア人はコドロスの息子ネイロスの指揮の下にカリア人とクレタ人の住んでいたミレトスを征服した。この若きイオニアの町は短期間で主導権を手にし、周辺で最も重要な町に発展した。地中海やダーダネルス海峡、黒海の沿岸に80程の植民地を建設し、イオニア植民市同盟12の加盟都市の中でも最も括発な動きを見せた。B.C.7世紀、ミレトスはティラスィブロスに征服されるまでリディア王国領でいたが、彼の支配下で再び主導権を手にし交易のみでなく、イオニア諸市の文化学問の中心として更なる発展を見せたのである。自然哲学者のターレス(商人で数学者、技師でもあった)、アネクシメネスとアナクシマンダーの両歴史家、地理学の父と呼ばれたへカタエウスとカドモス等は全てこの時期にミレトスに住んだ学者である。都市の繁栄もB.C.494年にミレトス艦隊がペルシアに敗れて都市が完全に破壊さると共に下り坂となったが、B.C.474年に有名な建築家ヒポドモスにより再建された後、再度、影響力を取りもどしている。

B.C.5世紀、都市を再び手中にしたペルシア人をB.C.334年にアレキサンダー大王が攻撃し力づくで奪ったが、ミレトス市民は大王の支配下に入るのを歓迎しなかったと言う。大王の死後は王の部将アックロスのベルガモン王国の支配下に入り、B.C.200年にはローマ帝国の領土に包括された。アウグストスとハドリアヌスの時代にミレトスには多くの記念碑が建てられ、聖パウロもここに布教に訪れた後、エルサレムへ向けて出港している。後にここには大司教が置かれた。12世紀になりセルジューク・トルコが定着して、都市をベニス交易の中枢として編成した。港はオスマン帝国の初期に於いてはまだ機能していたが、やがて土砂に埋まると住民にも見捨てられてしまった。最初の発掘調査は1895~1914年の間にテオドール・ウィーガンドの指導によってベルリン博物館が行なった。1955年からも調査が続行されている。


*主要観光地抜粋

〔劇場〕
A.D.100年、トラヤヌス帝の時代に旧劇場のあった場所に建てられたものである。当時のギリシア・ローマ建築様式の哀しい見本と言え、正面の長さは140m、54段の客席に25,000人を収容できた。座席は今も良い状態で残り、ロイヤルボックスには天蓋のついた2本の支柱が見られた。前列の幾つかの席には、その所有者を表わす番号が刻まれたものがある。劇場の上方にあるひどく荒廃した城は8世紀のものである。

〔港の記念碑〕
B.C.2世紀頂上の油を満たした三花弁形の受け皿に常時炎が燃えていた高さ18mの碑である。劇場の北にあり、今日では基盤のみ残る。受け皿はベルリン博物館所有。

〔へローン〕
劇場の束斜面にある初期ヘレニズム期の軍の墳墓である。アーチのある円形をしており、部屋と列柱の広間があった。

〔アポロ神殿〕(デルフィニオン)
ミレトスで最も神聖な建物は獅子の港の南東端、劇場の乗手にある海の男達の守り神アポロに捧げられた神殿である。B.C.6世紀建造のミレトスではアテネ神殿と共に最古のもので、ここから毎年一度ディディマの神殿に記念行進が行なわれた。伝説によると、イルカに化けたアポロはデルフィに赴くクレタ島の船乗り達を、ここに建設する神殿の神官とするべく誘惑したと言う。

〔カピトの浴場〕
アポロ神殿の南に位置する、西手に水槽、・乗手に浴室のある「ペリ様式」の浴場である。クラウディウス帝が1世紀に親友ベルギリウス・カピトの為に建造したものである。

〔演武場〕
南側をカピトの浴場と接する、長方形の円柱のあるこの建物は、大小3つの学習室を有していた。

〔北アゴラ〕
90×43mの市場で、都市の北手に位置する。B.C.5世紀に着工され、3世紀に完成したと言う。

〔イオニア式柱廊〕(ストア)
カピトの浴場と演武場の左、6段の階段がついたイオニア式柱廊で、多くの商店が並んでいた。クラウディウス帝が41~54年の間に建てさせたものである。イオニアのストア(柱廊のある広間)

〔式典の通り〕
柱廊の正面を港の門から都市の中心まで走る長さ100m、幅28mの道で、両側には5.75mの歩道が設けられていた。最後の発掘調査中に申し分の無い状態で発見されている。

〔泉〕
式典の通りの突き当たりにある都市の水の供給源で、80年にトラヤヌス帝の父により建設された。U字形の正面壁は3階建てで円柱や彫像で装飾されていた。

〔大教会〕
アトリウムと洗礼堂、3つの身廊のある礼拝堂で、6世紀に前の建物のあった場所に造られたもの。泉と市場の門の間に遺跡を見る事ができる。

〔市場の門〕
泉と議事堂の間、式典の通りの突き当たりに立つこの印象的な門は南アゴラに属する。
2階建ての記念門は円柱や彫像に装飾された3ケ所の入り口のある幅29mの造りであった。(2世紀)東ベルリンのベルガモン博物館に保存されている。

〔南アゴラ〕
式典の通りの突き当たり、議事堂の北手に位置する広さ196×164mの市場である。面積32,000㎡の古代世界で最大の規模で、未だごく一部が発掘されただけである。三方にそれぞれ1ケ所ずつ門があり、2つの身廊の付いたドーリア式柱廊に囲まれていた。東柱廊の後方には78の店が並んでいた様である。B.C.3世紀に造られ、最終の形態をとったのはおそらく2世紀の事と考えられている。

〔穀物倉庫〕
南アゴラの西にあり、2つの身廊の付いた163×13mの施設は、多分、穀物や商品を保管する為のものと思われる。このB.C.2世紀の施設の西には、かつてセラピスの神殿が立っていたが、現在では周辺に浮き彫りが散乱するのみである。

〔議事堂〕
B.C.2世紀に半円形の会議場を持つ劇場風造りで建設されている。かつてはホールに接して、円柱に包囲された中庭があり、その中心にはアルテミスの祭壇かあった。

〔フォスティナの浴場〕
ミレトス最大の浴場で、2世紀に皇帝マルクス・アウレリウスの妻フォスティナが建造したものである。浴場の西手に遺跡の残る体育館を備えたこの施設は4世紀まで使用されており、典型的ローマ招場の特赦を今も確かに見る事ができる。西に大きなパラエストラ(中庭を包囲する柱列)があった他、壁がんにアポロの彫像のあったアポディテリウム(更衣室)、そしてテピダリウム(微温招室)、プール付きのフリジダリウム(冷浴室)、カルダリウム(温浴室)、最後のスダトリウム、即ち蒸し風呂から構成されていた。


〔聖ミカエル敦会とディオニソス神殿〕
劇場の東には、後に大天使ミカエルの教会に変換されたB.C.3世紀のイオニア式ディオニソス神殿がある。6世紀には司祭達の館となり、遺跡としての保存状態は良好と言える。

〔演武場〕
バラト村から劇場に続く道は博物館を抜け、演武場跡を横切っている。230×74mの広さがあり、20段の客席におよそ15,000人を収容できた。東西に一つずつ記念門を備えたこの演武場はB.C.2世紀に造られ、3世紀に拡張されている。


〔イリヤスベイモスク〕
南アゴラの南手には1404年にセルジューク・トルコの支配者メンテシェのイリヤスベイが建造した大理石のモスクが見られる。18.5m四方の建物は、かつて神学学校、図書館、練習場、浴室、宿舎等を備えていた。大理石造りのミフラブは是非見学してみたい作品である。

〔カラバクの丘〕
劇場への道に従うと左手にカラバクテペと呼ばれる高さ60mの丘が見える。これはB.C.494年にべルシアによって滅ぼされた古代ミレトスのアクロポリスで、束のテラスにはB.C.6世紀からアテネの神殿が立っていた。今日では城壁の一部と神殿、西の市場の跡が残るのみである。

〔ミレトス博物館〕
ミレトスとその周辺からの出土品を展示して1973年に開館したこの博物館にはミケーネの土器(16~12世紀 B.C.)や古代、ヘレニズム、ローマの像、モザイク、柱頭、大理石の獅子、人物大をしのぐ大きさのアポロの頭像、ハドリアヌスの肖像画、そして大理石で造られたイスラムの墓石等が展示されている。
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