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トルコツアーガイド

大宮殿モザイク博物館、イスタンブール


歴史的背景

皇帝宮殿、又は神聖帝国宮殿とも呼ばれていたグレートパレス(大宮殿)は、ビザンティン帝国の都コンスタンティノープルで最大の規模を誇る宮殿でしたが、残念ながらかつての偉容をしのばせるものはほとんど残されていません。元々は、330年にコンスタンティン大帝(324~337)がこの町を都と定めて最初の宮殿を建てたのですが、当初はヒポドローム(競馬場)に連なる小高い丘の上に建つ比較的小さな宮殿でした。皇帝達にとっては、馬車競技を見物しにヒポドロームの皇帝席(kathisma)へ赴くためにも、又、群衆の間で暴動が始まった時に一早く宮殿へ逃げ帰るためにも何かと便利な位置にありました。しかし、時代と共に宮殿は大掛かりなものになっていきました。

海に面した丘陵地帯には、林の中に裕福な市民の住宅が散在していましたが、次第に宮殿に吸収されて、ついには宮殿敷地はマルマラ海にまで達しました。409年にテオドシウスⅡ世が、宮殿敷地内に個人の住宅を建てることを禁止したという記録があります。海岸にはポウコレオンと呼ばれた建物があり、その一部が今も残っています。イスタンブールを訪れる人々の注目を浴びることもなく忘れ去られていますが、これがグレートパレスの唯一の遺構です。かつてボウコレオンの波止場には、皇室のヨットや艀が繋がれているのがしばしば見られたことでしょう。

ビザンティン初期の歴史書は、グレートパレスについてはごく僅かしか語ってくれません。今日、知ることのできる大部分は、皇帝コンスタンティンⅦ世ポーフィロゲニトウス(915~954)の「儀式の書」によるものです。皇室の子供たちは、宮殿内の特別な一室で生まれました。それは斑岩大理石の紫色の壁に囲まれた部屋で、それ故に彼らは後になってポーフィロゲニトウス、つまり、「紫の中に生まれし者」という称号を受けることになったのです。紫色は一種の貝から採られていましたが、皇室におけるこの色に対する人気は大変なもので、皇帝は紫色の靴をはいたばかりか、公文書にサインする時にも紫色のインクを用いたそうです。

ポーフィロゲニトゥスという称号は、公的なものではありませんでしたが、かなりの威信を与えるものであったそうです。皇帝アレクシウスⅠ世(1081~1118)の皇女アンナ・コムネナは、その著書「アレクシアド」の中でこの紫の部屋について詳しく述べています。

―この紫色の部屋と申しますのは、正方形の上にピラミッドが乗ったような形の独立した建物でした。窓から海と港を見わたすことができました。港にはライオンと雄牛の石像が建っていました。部屋の壁も床も大理石でできていましたが、それはどこにもあるような大理石ではなく、又、高価でも手に入れられるようなものでもなく、いにしえの皇帝たちがはるばるローマから運ばせたものでした。この特別な大理石が簡単に申しますと紫色なのですが、白い砂のような細かな点が一面にまき散らされたような独特の紫色なのです。ですから、先祖代々、この部屋は「紫の間」と呼ばれてきたのでしょう。―

もう一つの重要な部屋、つまりコンスタティンⅦ世の玉座の間については、10世紀にイタリア王ベレンガルの公使としてこの都を訪れたクレモナのリウトブランドが書き残しています。

―皇帝の玉座の前には、ブロンズで作られた1本の木があり全体に金箔がはられていた。枝には数種類の小鳥がとまっていたがこれもみな金めっきの小鳥だった。一羽一羽がそれぞれの歌をうたい、いっしょになるとコーラスになるしくみである。玉座には特殊な細工がなされ、ある時は地上に、又ある時には空中に高々と持ち上げられるように工夫されていた。巨大なライオンのような動物が玉座を護るように控えていた。ブロンズ製か木製かはよくわからなかったが、これも又全体に金めっきしてあった。このライオン達は、大きくロをあけて舌を動かしたり、吼えてみせたり、尾を動かして地面をたたいてみせたりするのだった。二人の宦官の肩にもたれかかるような姿で、私はこの部屋の皇帝の前まで連れて行かれた。私が入って行くとライオンは吼え、小鳥はそれぞれの持ち歌をうたった。私は、三度床に平伏して恭順の意を表し、それからようやく頭をあげてみた。見よ、ついさきほど、私が入って来た時床面の玉座におわした皇帝は何と今や、別の礼服を身にまとい、宮殿の天井にも届かんばかりに高々ともち上げられた玉座から我々を見下ろしておられるのではないか!いったい、どのようにして事が運ばれたのか想像もできなかった。―

城壁に囲まれたグレートパレスの敷地は、約10万平方メートルもあったそうです。正門は、列柱に囲まれ庭に向いた記念門でしたが、この庭はコンスタンティン大帝の母アウグスタ・ヘレンにちなんでアウグスティウムと呼ばれていました。正門は屋根も扉も金めっきで覆われていたので、チャルケ、つまり真鍮の門と呼ばれていました。門を入ると、高台の木立ちの中に色々な宮殿の建物が散在していました。ポロ競技場、屋内乗馬練習場、うまや、プールから個人用競技場までありました。台所や、召使い部屋、皇帝の護衛の詰め所、土牢まで備えた建物もありました。

しかし、10世紀以降になるとこの宮殿はほとんど使われなくなりました。後世のビザンティン皇帝達は、マンガナ宮殿やブラケルナイ宮殿のような、もっと小さい宮殿を好んで住みました。そうすることによって広大なグレートパレスを維持する経費も節約できたのでした。宮殿跡から出土した陶器などから、1150年代にはすでに荒廃していた建物もあったと推測されます。その上、第4回十字軍という名目のラテン人占領軍によって、グレートパレスも又徹底的に略奪されたばかりか、しばらくの間はこの新しい支配者の居城として使われていました。帝国末期になるとグレートパレスは完全に忘れ去られた存在となり、新規工事のための建美資材置き場として利用されたりしていました。オスマントルコに征服されてからは、残っていた建物もすべて新しい建物の中に組み込まれてしまいました。もし、17世紀まで生き残った建物があるとしたら、それは今のアラスタバザールつまりブルーモスクに付属した商店街の地下に埋まっているのかもしれません。

グレートパレス
発掘
グレートパレスの遺跡について英国の学者 サイリル・マンゴ(Cyril Mango)のコメントは、科学的見解と示唆に満ちています。

"何度か提案されてその度に延期されてきた。宮殿全域の発掘計画が実現するとは思えない。例えオスマントルコがグレートパレスの跡地を占拠していないとしても、グレートパレスの全体を発掘することなど、とてもできそうにないように思える。仮に、万が一にも我々が生きているうちに宮殿の遺跡を目にする幸運に恵まれたとしても、それですべての問題が自動的に解決するなどと考えるわけにはいかないだろう。いつの日か発見されるべき遺跡は、私自身も含めて、学者の考えている構図とは似ても似つかぬものだろうと確信している。そして、ウンゲルやリヒテルのハンドブックのような便利なものだけに頼らず、もう一度原点に立ち返る必要を感じさせる事だろう。"

最初の発掘は、エディンバラのセントアンドリュース大学の考古学者や美術史学者によって行われ、第二次世界大戦が始まるまでポツポツと続けられていました。大戦後、1951年から1955年まで、D.T.ライスがこの辺りの組織的な発掘に取り組みました。様々な困難を排しつつ、列柱に囲まれた約3700平方メートルの庭園がまず発掘されました。現在、モザイク博物館に展示されているモザイクのほとんどは、ここで発見されたものです。250平方メートルほどのモザイク舗道が見つかりましたが、これはこの庭にあったモザイクの約6分の1程度にすぎないと思われます。一部を除いては、それぞれの描かれた場面は独立した構成になっています。

とりわけ重要なのは、幅5メートル長さが45メートルほどの舗道のモザイクであり、その部分をそのまま保存した上に現在のモザイク博物館が建てられました。この部分のモザイクは、他とは比較できないほど優れています。恐らく、宮殿の工房の腕利きのモザイク師の仕事だったのでしょう。

モザイク
グレートパレスのモザイクは、その品質、技術、テーマにおいてシシリー島のピアザ・アルメリナの別荘のものと肩を並べるほどの稀有な例です。正確な年代づけはできていませんが、様式から判断して恐らく500年前後に作られたものと思われます。この当時、モザイク技術は新しい宗教であるキリスト教のニーズに応えて進歩し始めた頃であり、宗教的ではない床モザイクなどにも東方の影響が見られます。モザイク師達はキリスト教徒だったに違いありませんが、テーマはヘレニズム時代の装飾レパートリーから選ばれたもので、特に難解な意味を持つものでもなく、純粋に美を目的として作られたものといえるでしょう。狩りの場面や動物たちの戦い、羊飼いや子供たち、田舎の生活から神話まで色々ありますが、さそりの尾と角を待ったトラのような空想上の動物が特に注目を引きます。

これらのモザイクの仕上がり具合を見ると、当時のモザイク師達が材質についてよく知りぬいていた事が窺えます。虫の喰ったように並べられた白大理石のチッセラ(切りばめ細工)を背景として、その上に様々な石やガラスやテラコッタで図案を描きました。テーマは古めかしいですが、図案の輪郭を強調し、人物像を様式化して描く傾向は、後にビザンティン式といわれた特徴がすでに芽生えていることを示しています。

グレートパレス
修復
1982年にオーストリアとトルコの間で交わされた合意によって、オーストリア科学アカデミーは、グレートパレスのモザイクの修復に責任を持つことになりました。アヤ・ソフィア博物館とオーストリア文化局がこのプロジェクトに参加し、専門家によってモザイク舗装が修復されている間に“舗道”の上に小さな博物館が建設されました。今の時点で、発掘されたモザイクの約3分の1だけが博物館に展示されています。

要塞堅固な商業都市
地図を見てもわかるようにビザンティウムの歴史はそもそもの出発点からして、地理的条件に恵まれていました。伝説はともかくとして、ギリシャのメガラからやって来た移住者達が町を造るのにこれ以上の土地はなかったでしょう。この小さな半島にはグレートパレスをはじめとした歴史に残る重要な建物が次々に造られ、歴代の皇帝はその強大な支配力をふるって東西の陸上ルートと南北の海上ルートをコントロールしていました。いつの時代にもボスポラス海峡は、黒海(古代のエウクシーネ)からマルマラ海(古代のプロポンティス)、そしてエーゲ海や地中海に至る極めて重要な位置を占めていましたし、通商上の拠点となる港は、陸地によってうまい具合に北風をさえぎるように作られていました。

ヨーロッパへ向かって広がる大地は、ぶどう栽培に最適でした。この恵み豊かな半島にビザスと彼に従って来たメガラ人達が町造りを開始したのは、紀元前657年頃といわれています。ビザスの後、約1000年経って西方から新しい支配者(今度はラテン人)がやって来て、この土地に目をつけました。コンスタンティン大帝です。彼がここを新しい都として選んだのは、地理的利点に加えて、軍事上、また、宗教上の理由もありました。ローマ帝国の首都となってからこの町はますます繁栄し、瞬く間に東洋と西洋を融合した大都市に発展しました。マルマラ海の港には、様々な旗を掲げた船が停泊し、巨大な鉄の鎖で封鎖できるようになっていた金角湾の入口にも甲板の広いドナウ川の奴隷船や、細いマストのべネチアの船などがあちこちに錨を下ろしている光景が見られました。

毎朝、日の出と同時に市の50ケ所の門が開かれ、様々な言語、人種、皮膚の色の異なる数千人の人々がどっと入城してくるのでした。この町に住むギリシア人は、この都を公式には「コンスタンティノ-プル」と、そして親しみを込めては「ビザンティウム」と呼びました。イタリア人の学者達は、そのラテン哲学に相応しく新ローマと呼ぶのを好み、ゴート人はミクルガルト、ブルガリア人はケサローダ、そしてスラブ人はツァーリグラードと呼んでいました。およそ人間の知り得る限りの72の言語が使われているというのが、市民の自慢の種のひとつでした。

5世紀に編集された資料によると、当時この都には2つの劇場と14の教会、8つの公衆浴場に53の私設浴場浴場、52の柱廊、5つの穀物倉庫、8つの貯水池、そして4388軒の家があったそうです。ヒポドロームで馬車競技が行われるようになるまでは、都の広場が市民の憩いの場となっていました。とりわけ重要な広場は、アルカディクス、コンスタンティン、テオドシウスの各皇帝の名のついた広場でした。商人、船乗り、軍人や傭兵、法律家、外国の使節たち、白い制服の皇帝付き護衛、ターバンを巻いたペルシア人、毛皮をまとったタタール人、行商人、こじき、ペテン師……が、強烈な日差しや時には雨を避けてあるいは、楽しみを求めて広場の柱廊や泉のまわりに集まって来ました。こういった種々雑多の人々が当時の“ビザンティン”を形成していたのです。
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