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エフェソス観光

豊潤の女神キベレの聖地に建設されたこの小都市はアマゾン族に征服されたとも言われ、都市の名は一族の指導者の名に由来するとの一説もある。B.C.11世紀、アテネ王の息子アンドロクロスに率いられたイオニア人は新都市建設にあたりデルフィの神託に伺いをたてた。「魚と猪がその土地を示す事になろう」との予言者の御告げを信じて旅を始めた一行は、ある日、漁師達が魚を料理している所に出会った。鍋から飛び出した魚が炭火を蹴散らし、火が燃え広がった薮の中からは驚いた猪が走り出したと言う。後にエフェソス建立の源となる場所の発見である。アンドロクロスの死後、彼の子孫達は裕福な商人の手に落ちるまでエフェソスの地を長期に渡って支配しここの間、貿易と金融の中心として栄えたのである。この繁栄ぶりに目を付けたリディア王クロイソスはここを征服し、アルテミス神殿の再建に尽力した他、数々の建物建設にも出資した。リディア王国がB.C.546年にペルシャによって倒されると同時にエフェソスも彼等の支配に落ちて、B.C.336年にアレキサンダー大王がこの他に進出し都市を開放してその自由を保証するまで続いた。

大王は火災で損傷を受けたアルテミス神殿再建の為に物質的援助を提案したがエフェソス人等は「ある偉大な神が別の偉大な神に何かを貢ぐと言う事には合点がゆきませぬ」との言いまわしで王の提案にえん曲な断わりを入れたのである。後に完成した神殿は世界の七不思議に数えられている。大王が亡くなるとエフェソスの支配は王の部将リシマコスに移る。この頃になるとカイストロス川によって運ばれている沖積土が都市の周りに沼地を形成し港を泥で埋め、マラリアが発生すると言う新しい問題に直面する事になる。リシマコスはコレッソス山とピオン山の谷間に都市を移して9kmの城壁で保護し、妻の名からアルシノエイアと命名した。彼の死後、B.C.190年にはローマがここを支配する様になり、アジア属州の主都として一時は人口25万人を抱える小アジア最大の貿易都市として繁栄した。現在残るほとんどの遺跡はこの当時のもので、聖ヨハネが聖母マリアを同伴して第3回使節団の旅の途中でここに3年滞在した時期にも当たる。彼はここで福音書を書き、ここで生涯を閉じたが、その墓の上にユスチニアヌス帝が建立したのが聖ヨハネの教会堂である。262年、エフェソスとアルテミス神殿はゴート人の略奪をうけて再建されたが、キリスト教が都市の公式宗教の地位を確保するに至っては、その重要性ももはやかつてのそれには遠く及ばない状態であった。 

エフェソス旅行・観光の案内ビデオ

詳しくは右側のエフェソス旅行・観光の案内ビデオをご覧になってください。 → → →
 
2分03秒  (日本語字幕版)
    
431年、第3次エフェソス公会議が聖母マリアの教会で開催され、449年にも同教会でキリストの神性について討議がもたれている。7、8世紀になるとアラブ人の侵略を受けた上に、港が再び掘で埋められた事も重なり、市民達は生命の安全を考慮して6世紀にユスチニアヌス帝が建立した聖ヨハネの敦会堂の立つアヤソルックの丘に移動した。これによって都市と港との関連は断たれ、同時にエフェソスの黄金期も終わりを告げた。11世紀になるとセルジューク・トルコがここを征服し、後の1390年にはオスマン・トルコの支配下に入っている。

*主要観光地抜粋

〔マグネシアの門〕(1世紀)
山側、マグネシアの地にあるこの門には3本の道が通り、中央は馬や馬車、両側は歩行者が利用していた。

〔東演武場〕(少女達の体育館)(2世紀)
エフェソスで最大の遺跡である。多くの女性像がここから発見された為に少女達の体育館とも呼ばれている。

〔バリウスの浴場〕(2世紀)
東演武場の近くで発見された典型的ローマ浴場である。土管とモザイク装飾の大理石の床が当時をしのばせる。

〔音楽堂〕
エフェソスの資産家アントニウスが妻の名誉を冠して建てたこの施設は22列の客席に1,500人の観客を収容できた。排水施設が見られない事から、おそらくは屋根に覆われていたと考えられ、叙勲式や音楽会、詩の朗読会等の催し物に利用されていた様である。

〔プリタネイオン〕(市役所)
黒い石を奉ったホールの祭壇には永遠の聖火が燃え、クレテス(司祭)達がそれを守っていた。祭壇のあるホールの屋根を支えていたと思われる4本のコリント式円柱のうち、現在は3本が残る。この聖なる間からは今日、エフェソス博物館に保存される2体のアルテミス像が発見されている。初期キリスト教時代には祭壇は教会に変換された。

〔集会広場〕(上のアゴラ)
港の貿易市場の向かいにかつて政治の中心機関がおかれていた。1966年にはB.C.6世紀のアルカイック期の墓がここから発見されており、現在も見る事ができる。おそらく、この場所にはその昔エジプトの女神イシスの神殿があったと思われている。

〔メミウスの記念碑〕
1世紀にスラの孫メミウスを記念してアウグストス帝が建てたもので、300年後には泉に変換されている。

〔クレティア通り〕
上のアゴラとセルシウス図書館の間を結ぶこの道の名はプリタネイオンで永遠の聖火を守るクレテス(司祭)に由来する。大理石舗装の道路は両側に列柱が並び、この前に立つ多くの彫像が色彩りを添えていた。

〔邸宅〕
ハドリアヌス神殿の向かい側、コレッソス山の斜面に裕福なエフェソス市民の邸宅が並んでいる。ほとんどが中庭を囲む様にして部屋が配置された標準的な建築様式が採用され、80×180mの広さのある二階建ての造りである。床は大理石で覆われ、壁はソクラテスや動植物、そしてエロス等のフレスコ画で装飾されていた。クレティア通りに面する一階は商店として利用されていた。

〔オクタゴン〕(墳墓)
方形の基盤の上に建つ丸天井のついた墓はエフェソス人に愛された少女の墓と考えられている。

〔ビザンチンの泉〕
オクタゴンの側にある。かつてはB.C.1世紀の英雄の墓であったが5世紀に泉に変換され、現在でもビザンチンの十字架がはっきりと確認できる。ここからクレティア通りを右手に折れ、大理石通りとなる。

〔娼婦の館〕
中庭を囲む様にして小部屋が並んでいる。かつてその壁がんにローソクの明りが点っていた部屋の床には四季を象徴する四人の女や愛の場面を表現したモザイクが残っている。

〔セルシウス図書館〕
ローマの元老院でアジア州提督も兼任していたセルシウスの名誉を冠してその息子ジュリア・アクイラが135年に建てた墓が図書館の基礎である。大理石で作られたセルシウスの棺を安置した丸天井付きの地下の上に図書館が建てられたのであるが、当時、市内に墓を置く事は特権を持つ者にのみ許された非常に名誉ある事とされていた。二階建ての正面の壁は柱や像で豪華な装飾が施され、高さ15mの内部のホールは三層の回廊に取り囲まれていた。湿気対策として後ろに狭い通蕗のある壁がんの中にパピルス製の書簡が保存され、ローマ帝国時代には何と12,000巻の蔵書を誇ったと言われている。正面壁の一階部分にある4体の女性像は、知恵と幸運、知識と高潔さを象徴している。

〔マテウスとミトリダテスの門〕
下のアゴラの南門でもある記念建造物で、セルシウス図書館の横に建つ。マテウスとミトリダテスはアウグストス帝とその一家の奴隷であったが、後に皇帝から自由の身を保証されると二皇帝と妻リビア、娘と娘婿に尊敬の意を込めて門を献上したのである。

〔セラピスの神殿〕
セルシウス図書館の後方100m程の場所にある。2世紀にエジプトの女神セラピスに捧げられた非常に特異な建物と言える。入り口の側には直径1.5m、高さ15m、重さが57tもある8本のコリント式支柱があったが、現在も入り口や柱の頭部等を目にする事ができる。        

〔大理石通り〕
コレッソスの門と図書館の間に走るエフェソスのメインストリートである。1世紀の完全な下水設備を備え、5世紀には通りの名の由来にもなった厚い大理石舗装が施されている。下のアゴラの壁に沿った路上には女性の顔とハート、足が彫られ、娼婦の館を示す過去のコマーシャルとして、興味深い。

下のアゴラ(市場)
一辺110mの方形の市場は大理石通りとハーバーストリートの間に位置している。B.C.3世紀に二重列柱様式で建築され、金銀細工師達の工房や店が並んでいた他、奴隷の売買も行なわれていた。

〔大劇場〕
クラウディウス帝(41~54年)の治世下で着工しトラヤヌス帝(98~117年)の時代に完成したローマ・ギリシャ様式の美しい建築例である。直径150mあり、かつては25,000人の観客収容能力を有していた。高さ18m、幅40mの三階建ての舞台の内壁は円柱と彫像の建つ壁がんで飾られ、音響効果は言う事無しである。
この劇場は、キリスト教伝道の旅の途中でこの地に長期滞在した聖パウロに対する銀細工師達の暴動の舞台となった。聖パウロの出現はアルテミス像やその神殿の模型を作って、即ちアルテミス信仰を利用して莫大な利益を得ていた細工師達には不都合な出来事と言えた。ディミトリウスは仲間を劇場に招集し、アルテミスの存在を否定する聖パウロの言葉を一々伝え、人々を扇動した。これに同調した細工師達は口々に「アルテミス万歳、エフェソスのアルテミスこそ偉大なのだ」と叫び、聖パウロを追い出してしまったのである。聖パウロはここを後にし、マケドニアへと路をとったと言う。


〔アルカディア通り〕
ハーバーストリートとも呼ばれ、円柱で飾られた儀式やパレード用の大通りであった。400年に皇帝アルカディウスに捧げて大理石通りから港まで幅11m、長さ500m以上にわたって引かれている。大理石舗装が施され、夜は街灯が輝いていたと言う。両側にはモザイクで装飾された奥行き5mの列柱廊下が設けられ、後方には商店が軒を並べていた。

〔演武場〕
劇場の北、劇場通りとハーバーストリートが交差する位置にエフェソス最大の体育館がある。このかつての巨大な建物は残念な事にまだほんの一部しか発掘調査が進んでいない。

〔4本柱の記念碑〕
アルカディア通りを半分程下った辺りに、頭部に福音伝道者の像を頂いていた4本の円柱があった。基盤の壁がんで柱を支えていたが、現在は1本が残るのみである。

〔アルカディア通りの港の門〕
円柱で装飾された初期ローマ期の門がアルカディア通りの末端に立っていた。3ケ所の通路の両端はアーチ型、中央のそれは角型である。

〔ベルラヌスのホール〕
3つの身廊を備えた広大な(200×240m)ホールで中庭の周囲に演武場と連結して造られていた。2世紀のハドリアヌス帝の時代に建立され、陸上競技や競争の練習が行なわれていたと言う。

〔港の演武場〕
円柱や部屋に囲まれた中庭がある。庭もホールも豪華に飾られ、ホールの方は皇帝崇拝や催事に利用されていた。                   

〔港の浴場〕
ハドリアヌス帝の時代に造られ、コンスタンチヌス帝の治世下(4世紀)に修復されている。

広さ160×70m、高さ28mの温泉風呂で、各部屋は多くの彫像で飾られていた。壁や床も大理石で覆われていた事がわかる。



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