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トルコの世界遺産

トルコの世界遺産イスタンブールのご紹介


初代設立者の名に因んで〈ビザンス〉と呼ばれた町は、ローマ皇帝コンスタンチヌスの都市造り以降、"コンスタンチヌスの都" を意味する〈コンスタンチノープル〉、オスマン民族によって征服された後は〈イスタンブール〉と改名されて、現在は7,500km2の面積を有するヨーロッパでも最大の、そして最も人口の多い都市の一つにあげられている。
1985年に世界遺産に登録されたイスタンブールが世界有数のコスモポリタンとしてこれ程までに拡大した最大の要因は、その地理的条件にあるといえる。北緯48度、東経28度、世界て唯一アジアとヨーロッパの二大陸に跨がって位置し、ヨーロッパ側イスターブールは7kmにわたる金角湾を境に、南側に歴史の中心舞台であり続けた小半島のある旧市街、北側には新市街と二分できる。ビジネスの中心が置かれるヨーロッパ側に対し、アジア側には宅地が多い。
イスタンブールをヨーロッパとアジアに分けるボスフォラス海峡は、同時に黒海とマルマラ海を結び、この立地条件をして古い時代から常に要地として注目され続けた。欧亜両大陸支配の野望に燃える多くの民族や国家は、その為には兎も角、まずはイスタンブールを征服する必要に迫られた。
今日も尚、バルカン、中近東諸国、中央アジアのトルコ系共和国にとってイスタンブールは政治、経済の要として重要な役割を担い続けている。 
初代設立者の名に因んで〈ビザンス〉と呼ばれた町は、ローマ皇帝コンスタンチヌスの都市造り以降、"コンスタンチヌスの都" を意味する〈コンスタンチノープル〉、オスマン民族によって征服された後は〈イスタンブール〉と改名されて、現在は7,50kmの面積を有するヨーロッパでも最大の、そして最も人口の多い都市の一つにあげられている。


トルコ観光・ツアーと言うとまず頭に浮かぶのはイスタンブール観光。。。もしかしたらイスタンブールと言うとエキゾチックな町って言うイメージしか浮かばないのでは?

トルコのツアーをお考えの皆様、まずは右側の2分間のイスタンブール散歩のビデオをご覧
ください。 → → →

地方から新天地を求めて流入してくる人々により毎年50万人の割合で人口増加を続けており、1,200万~1,500万人の人口を抱えて都市は東西に拡大を続けている。年間人口増加率を5%とすると約12年で元の数の二倍に達する事になり、全トルコで5人に1人はイスタンブールに住んでいる計算となる。 
イスタンブールを訪れる年間1000万人の旅行者は都市の歴史と景観の美しさを堪能してゆく。東西の、ヨーロッパとアジアの、そしてキリスト教とイスラム教の出会うイスタンブールは、異なった文化と宗教が互いを圧する事なく混在し続けてきた場所といえ、豊かな遺跡や文化財を抱えるという意味に於いてはローマと比較されることが多い。ローマ、ビザンチン、そしてオスマン各帝国の首都として重要な役割を演じ続けたイスタンブールには、支配者達が時代の最も高名な専門家に依頼した傑作品といわれる建築物が多く存在する。ボスフォラス海峡、金角湾、周囲の島々の織り成す自然美、穏やかな気候、昼と夜との全く異なる顔と賑やかなナイトライフ、種類豊富で美味しいトルコ料理等に加えて、何よりも人懐っこくて親切な国民性は外国人旅行者を魅了してやまない要素である。この美しい神秘の古都をよく知るには、少なくとも10日を裂く必要があろう。

イスタンブールの歴史 
イスタンブール周辺に於ける最初の集落跡はアジア側にみられ、出土品からして新石器時代に遡ると推定される一方、ヨーロッパ側はトプカプ宮殿辺りでは青銅器時代に住まいが構えられ始めたと推測されている。紀元前680年頃、ドーリア人から逃れたメガラ人はアジア側にカルケドンの町を建設し、紀元前660年になるとビザスに率いられたメガラの移民達は、カルケドンの対岸、現在の主要観光スポットが集中するヨーロッパ側はサライブルヌに集落を形成した。理想的な地の利と商取引にはぴったりの自然港の存在で、ビザスの町ビザンスは短期間のうちに財力をつけて目覚ましい成長を遂げた。紀元前513年、町はペルシアに、続いて紀元前407年にはアテネの、その二年後にはスパルタの監督下に敷かれたのである。
都の平和は、紀元前146年、ローマとの間に交わした文書、所謂今でいう安全保障条約により保たれていた。西暦196年、ローマ皇帝セプティミス・セヴェルスは都市をローマ帝国の領土に組み入れた。
330年、コンスタンチヌス大帝は都の名をコンスタンチノープルと改め、同年5月11日、ここをローマ帝国第二の都と宣言して、周囲を頑強な城壁で防御した。敬虔な信者である母親の影響を強く受けた同皇帝の努力で瞬く間にキリスト教が浸透し、391年には国教に制定されている。395年、テオドシウスⅠ世の死をきっかけにローマ帝国は東西に分断し、コンスタンチノープルは東口ーマ、即ちビザンチン帝国の首都とされ、5世紀初期には今なお威風堂々と姿を留める城壁が建築された。


476年、西口ーマ帝国は滅亡したが東口ーマの勢力に衰えはみられず、ユスチニアヌス帝の支配下で帝国は黄金期を迎えたのである。666年から870年までに都市は八度にわたるアラブの包囲をうけて陥落の危機に瀕した。カトリックとギリシア正教間の不協和音は日をおって大きくなり、とうとう1054年に完全に袂を違えるとコンスタンチノープルはギリシア正教の総本山として揺るぎない地位を得た。
1096年、第一次十字軍は何の被害も与えず都市を通過しており、この頃ガラタ地区にはジュノア人やヴェニス人が商業区を開設している。1204年、第四次十字軍が都市を占領してラテン帝国を建国した為に東口ーマ帝国は一時断絶したが、1261年になってパレオロゴス族が都を奪回して帝国は再興した。一方、オスマン民族が都を包囲し始めたのは14世紀末あたりのことである。
1390年にべヤズィットⅠ世に、1422年にはムラトⅡ世によって追い込まれた東口ーマは、終に1453年、メフメットⅡ世率いるオスマン軍によって完全に征服され、その名もイスタンブールと改名されたのである。オスマン民族にとってはブルサ、エディルネに次ぐ第三の都となり、1517年にエジプトを征服してカリフの座を奪ってからは全イスラム国家の中心地として宗教活動の要ともなった。
オスマン帝国の勢力に陰りがみえはじめた18世紀まで、各地に美しいモスクや宮殿が建設されたが、しかし残念なことに地震や火災で被害を被ったものも少なくはない。また、19世紀、西洋化に伴って、それまでの典型的オスマン建築からバロック、ロココ調への移行もみられている。第一次世界大戦で帝国は同盟国側について大敗に大敗を重ね、1919年3月15日夜、イスタンブールには連合軍が進駐してきた。
亡国の危機を救国戦争の勝利によって切り抜けると、スルタン制とカリフ制は廃止されて共和国の宣言がなされた。1923年10月13日、アンカラに新首都が設置された後もイスタンブールはトルコ経済の中心として成長し続けている。

統計より
イスタンブールを理解する為に、この地に関する統計上の数値に目を通してみるのも一案である。
トルコの産業的投資活動の30%、商取引の40%がイスタンブールとその近郊にて営まれている。面積は全トルコのそれの0.97%に相当するが、トルコの労働人口の1/3、全世帯の約13%がここに集中している。イスタンブールに住む人々の平均的年収はUS$6,000。
人口上、イスタンブールは世界第9番目、約150万世帯を抱えるコスモポリタンといえる。7,500の工場と20万ケ所の事務所や営業所などに約200万人の労働者と30万人の事務員が従事する他、35万人が行商人として商売をしている。1,500の銀行、1,000のホテル、4,500のレストラン、50,000軒のカフェと1,800のパン屋があり、135,000の雑貨屋、36,000の理・美容院、13,000の弁護士事務所、15,000の医療診療所が記録されている。年間の婚姻件数7万、死亡者4万人、交通事故35,000件、離婚件数5,000。小学校1,200校、中等教育機関900と12の大学がおかれるほか、2,800のモスク、120の教会、15のシナゴグ、150のイスラム及び50のキリスト・ユダヤ墓地がある。一方、文化的な面に目を向けると、映画館70ケ所、劇場45、画廊230、博物館35ケ所、一般解放されている60の図書館がある。
イスタンブールが直面する最大の問題は飽和状態の交通渋滞に違いなく、80万の乗用車を含む150万の車両が路上に繰り出している。3,700㎞に及ぶ道路に毎日90万の車両と350万の人々が繰り出している計算になるが、これに一日当たり500台の新しい車が加算されているのである。交通機関としては、公営バス、タクシー、ミニバスの他、民間営業の船や高速のシーバス等の海路を利用するのも便利である。他の大都市と比較して治安のよいイスタンブールではあるが、外国人としてはやはり夜間、あるいは人気の無い路地では注意を怠らずにいたい。


サライブルヌ
最も重要な観光スポットが集中しているのがサライブルヌとスルタンアフメット広場である。ローマ、ビザンチン、オスマン帝国の各時代で都市の中心はいつの時も皇帝の宮殿が設けられこの一帯におかれ、その為に都市最大のモスクや最も麗美な寺院、博物館もこの地に多い。イスタンブールは七つの高台の上にたつが、うちの二つがサライブルヌの近郊にあり、トプカプ宮殿とスルタンアフメット・モスク(ブルーモスク)はこの丘の上に位置している。また、ビザンチン、オスマン帝国時代を通じて都の心臓部として機能してきた競技場ヒポドロムもこの広場にある。重要史跡のほとんどがサライブルヌとスルタンアフメット広場にあってそれぞれ近いうえ、他にもトルコ・イスラム芸術博物館、モザイク博物館など興味深い場所へも数分の為、観光客は必ず立ち寄るポイントである。
展示品などの一点一点を鑑賞するにはここだけに数日を裂く必要があるが、トルコ旅行観光省公認ガイドの案内によるツアー参加なら、時間的に制約のある旅行者も時を有効に使い、かつ正しい知識が得られることから最良の策といえるだろう。

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