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JATA
観光庁長官登録旅行業第1997号
日本旅行業協会 正会員
東京商工会議所 会員
トルコの世界遺産

トルコの世界遺産カッパドキアのご紹介


カッパドキアの地層は地上に見られる自然の奇跡の一つであり、中央アナトリアの火山が盛んに活動し、溶岩や火山灰に覆われた「堆積期」、そして火山活動の停止と共に始まった「侵食期」に於いて、自然の持つ相反する二つの作用が作り上げた作品と言える。
 
 カッパドキアは1985年に世界遺産に登録された。
 目前には、地質学上も世界に類を見ない不思議な景観がひろがっている。ここは、アクサライ~ニーデ~ネヴシェヒル~カイセリ地方に挟まれて位置する中央アナトリアのカッパドキア。まるで慎重な彫刻家の繊細さで、何千、何百もの月日をかけて自然が造り上げた岩層。そしてこの火山灰に覆われた一帯を、必要に応じて彫り、削って暮らした村人達。自然と人間が一体となって創造した見事な調和の世界が、我々の目の前に姿をあらわす。
歴史の初期以来、様々な民族が集落を形成してきたカッパドキアには数知れない遺跡や古代都市が存在するに違いなく、此れらが発掘され、一帯の歴史の解明に役立つ考古学的な調査活動が一日も早く実施される事が望まれている。
 例えば、カイセリ近郊のキュルテペ、アクサライ近郊のアジェムホユックは、今日までに発掘された非常に興味深い都市遺跡のほんの数例と言える。
アナトリアで偉大な文化を育て上げた民族の中でも筆頭に挙げられるヒッタイト人達・・・。
そのヒッタイト文化が華麗に開花し、繁栄の舞台となったカッパドキアでは、彼等の生きた証しをそこここに見る事ができる。帝国の滅亡後、ダバル王国と呼ばれたカッパドキアは、フリギア、リディア、ペルシア、マケドニアそしてアリアラテスによって支配され、ローマ時代にあっては軍の要地であった。

カッパドキア旅行・観光の案内ビデオ

詳しくは右側のカッパドキア旅行・観光の案内ビデオをご覧になってください。 → → →
 
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 地方への人口集中はキリスト教の浸透と共に始まることになる。
4世紀のカッパドキアを生きた高名な宗教家聖バシリウスの教えである修道院の暮らしに従い、地方一帯には無数与の教会や修道院が建設されたが、ビザンチン時代になり東部、南部からの大襲撃を受けると、村人達はこれらの建物を主要道路から離れた、人目につきにくい谷間に造らざるをえなくなった。7世紀以降、東からペルシアが、南からはアラブの民が地方に進攻して暴れまわると、カッパドキアの人々は避難場所として、今日土地っ子が「世界七不思議に続く、八番目の不思議」と呼ぶ、火山灰などの堆積層を削った大規模な地下都市を建設した。
また、同時期、その初期にあっては絵やイメージに対するある種の反抗と受け取られても、実のところは教会への権力集中にストップをかける為に始められた偶像破壊運動の波が、ビザンチンはもとよりこのカッパドキアにも押し寄せてきた。後に、アラブの襲撃と偶像破壊の動きが下火になると、カッパドキアには新たに何百もの教会が建設され、再び宗教画で装飾される様になったのである。地方にて最も大掛かりな調査を実施したジェルファニオンは、此れら初期の教会を《アルカイック期》の教会と呼び、偶像破壊時代に対する一種の反抗精神から生まれた当時の造りを、非常に闊達で自由な精神をもって装飾されたものである、としている。10世紀以降、大規模で壮麗な教会が造られたカッパドキアは、その黄全期を11世紀に入って迎えることになる。特にギョレメとその近郊に建設された教会は、外観、内部の宗教画ともに注目に値するものと言える。
同じ11世紀、アナトリアは大きな攻防戦の舞台となった。この地に進攻し、国家を形成したセルジューク・トルコ人をアナトリアの大地から解放し、聖地奪回を目指す十字軍やビサンチンの間の戦いが頻発した時代でもあった。セルジューク・トルコはこの波乱の時代から彼等の黄金期とされる13世紀までに、アナトリアを宗教的、軍事的な様々な建造物で飾り立てた。
当時造られたウフララ谷の聖ジョージ教会には、セルジュークのスルタン・メスドとビザンチン皇帝アンドロニコスの名が記されており、キリスト教徒がセルジュークの支配下におかれていた当時の状況を踏まえて考える時、教会を自由に建てて、支配者と非支配者の代表者の名を並べて掲げた意味で、大変重要なものと言える。
セルジューク建築の代表作は、カッパドキアに続くあのシルクロード沿線と、周囲のアクサライ、ニーデ、ネヴシェヒル、カイセリ等、当時の主要都市にて目にすることができる。


モンゴルによって歴史の舞台から姿を消したセルジュークの後を継いだのは、13世紀にアナトリアに進出して以来、短期間のうちにヨーロッパ、アジア、アフリカの三大陸に跨がる大帝国を形成したオスマン帝国であった。同帝国に属する建造物は、カイセリ、ニーデ、ウルギュプ、アヴァノス、ネヴシェヒルに多く、殊にチューリップ期の名宰相イブラヒム・パシャの時代には、その故郷であるネヴシェヒルに数多くの施設が設けられている。長い間、「田舎の芸術作品」と軽んじられたカッパドキア地方の教会は、しかしその初期から末期まで継続してビザンチン芸術の何たるかを表現していると言う意味に於いて大変重要なものと言える。実際、ビザンチン時代の初期から建設されたここの教会では、宗教画、イコン、建築など、その時代の歴史を一歩一歩辿る様にして見届けることができる。

 実施された調査の結果、同一工房や同一画家の手による装飾画が発見された事は、即ち皇帝をはじめ高貴な身分にある人々の為に建てられた教会や、そのお抱え芸術家の存在を裏付ける。
 ウフララ谷の教会に顕著なエジプトやパレスチナの影響は、カッパドキアがこれら外部からの要素に独自の文化を混合し、自らの解釈をつけた証拠と言えよう。この岩窟教会を単に芸術的見地から分析しようとするのは実際のところあまり正解とは言い難く、何千もの岩窟教会に見られる宗教画は、当時の信仰、習慣、修道院生活などをも今に伝える大切な証人でもあるのである。
 我々一人一人に、カッパドキアの自然の奇跡、信じ難い文化遺産を保護していく責任が課せられていることは、この地を訪れた者であれば誰でも強く感じるところであろう。この美の創造主である自然の力は、同時に、新しい美を作り上げる為に過去の自身の作品である風景を破壊してしまう力でもある。かつてこの岩層を造り上げた侵食の作用は、同じ作用で岩層を蝕み続け、これを無くし、人々の生活した区域をゴーストタウンに変えている。また、自然や文化遺産に直接影響を及ぼさないまでも、世界で唯一無二のカッパドキアの景観を乱す近代建築には、一定の制限を加える必要があろう。
ネヴシェヒルからウチヒサルヘ向かう時に目に付く、カッパドキアの象徴とも言えるウチヒサルの風景にそぐわないホテル、ホテル、そしてホテル・・・。あるいは、ギョレメからオルタヒサルを眺める時にエルジェスと美しいカッパドキアの景観に全くもってちぐはぐな建物など・・・。観光業推進の名の下に犯されたこの過ちを見つめ、この世のものとは思えない魅力に溢れた一帯を大切に保護して後世に伝えてゆく義務を、現代人として我々はしっかりと認識しなくてはならない。


カッパドキア

 カッパドキアの地層は地上に見られる自然の奇跡の一つであり、中央アナトリアの火山が盛んに活動し、溶岩や火山灰に覆われた「堆積期」、そして火山活動の停止と共に始まった「侵食期」に於いて、自然の持つ相反する二つの作用が作り上げた作品と言える。
 ヨーロッパのアルプス山脈同様、南アナトリアのトロス山脈も地質年代上、新生代の第三紀(6500万~200万年前)に形成された。この時期、中央アナトリアでは活発な地殻の変動で深い亀裂や地盤の沈下が見られ、亀裂を這って地表に噴出しだしたマグマは、エルジェス、デヴェリ、メレンディス、ケチボイドゥラン火山を作り上げた。
度重なる激しい噴火の後、中央アナトリアでトロス山脈に並行して走る火山連ができあがったのである。火山の吐き出した噴出物は既に形成されていた丘や谷の上に長い時間をかけてゆっくりと降り積もり、周辺一帯は巨大な台地と化した。
 風、雨、川はカッパドキアを今日の姿に変化させた侵食の三つの力と言える。伴い、激しい温度変化を特徴とする土地の気候は岩に亀裂を走らせ、その間の水が凍って体積を増やすと裂け目は更に深まり、春の雪解けがこれら一連の進展に拍車をかけた。一帯を激しく削り取っていったのはやはり雨と川であり、クズルウルマック川に流れ込むネヴシェヒルとダムサ川やその支流は、カッパドキアの有名な渓谷の生みの親である。特にネヴシェヒル、アヴァノス、ウルギュプ間の古い谷底を埋めた火山灰の厚さは、所々で100mを凌ぐほどであり、激しい侵食の影響を受けている。雨は台地の表面を流れ、少しずつ水路を深め、果ては深く口をあける渓谷を作り上げた。侵食された土地や火山からの噴出物が川によって運び去られる際、支流の合流するあたりで堆積して突然に小山ができたりなどもしている。

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