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トルコの世界遺産

トルコの世界遺産サフランボルのご紹介


サフランボルは旧石器時代より人間の定住地であった。エフラニ周辺には塚が三つ見つかっている。ホメロスにもこの地方がパフラゴニヤとして記述されている。ペルシャ時代、ギリシャ時代にもまちは存続し、その後ローマ、ピザンツ時代には人口も増えた。
サフランボルの民家

 サフランボルの民家建築は、およそ百年前のトルコ人の生活をよく反映している。当時の経済状態、大家族制から生まれた生活形態は、芸術の域に達した技術で形成された。まちと地域の構成から民家の各部分に至るまで、何百年もの間に培われ、伝統となった建築の産物が見て取れる。これらの民家を見てみると、合理的で、すべての人に価値を認める昔の人々の考えを理解すると共に、文明の今日の有り方を考えさせられるだろう。サフランボルは1994年に世界遺産に登録された。

サフランボルのあらまし

地理的条件
サフランボルの位置、近隣の県、郡、村と地区 
サフランボルは北緯41度16’、東経32度41’に位置し、北西黒海地方のゾングルダック県に属する郡都であった。黒海沿岸からは65km内陸に入ったところにある。 1995年にカラビュックが県になり、同県の郡となった。新管理区によると隣接県はバルトゥン県、カスタモヌ県、隣接郡はウルス、エフラニ、アラチ、オヴァジュックである。内包する村は59あり、その主な村はブラック、ガユザ(インジェカヤ)、トカットル、ダナキョイ、ヤズキョイ、コナル、ヨリュック、(ユリュック)、アクオレン(アクヴェレン)、オウルオレン(オウルヴェレン)、ダヴットオヴァス、ボサンビュキュ、チェルチェン、ハジラルオヴァス、カルット、バシュキョイ、クラヴズラル、カプルルである。ジュマオヴァ村は郡部である。 
1995年の行政区域は20地区で、アクチャス、ババスルタン、バーラルバシュ(バーラル)、チャヴシュ、チェシメ、ジャミケビル、ハジハリル、フセイン・チェレビ、ムサッラ、イスメットパシャ、イッゼトパシャ、カラアリ、キルキッレ、アシャウ・トカットル、バルシュ、イノニュイェニマハッレ、ジェマル・ジャイマズ、エメッキ、エセンテペとなっている。クランキョイ地区は以前ミサキ・ミッリ地区と呼ばれていたが、1975年以降はバルシュとイノニュの二地区に分けられた。

起伏
サフランボルの北部と西部は山地になっており、黒海と中央アナトリア地方の交通を困難なものにしている。まちは海抜400-600mの高さにあり、北西部にパナユルテペ山1544m、その後方にはサルチチェッキ高原1666m、東にはケペズ山938m、南にはチャムルキョイ峰1113m、南西部にはケルテペ山、西部にはダヴルオウルテペ山(ブラック山)955mなどの山々がサフランボルを取り囲んでいる。

河川
北部から流れるトカットル川はまちに入るとギュムシュ川と名を変え、クランキョイとカレの間を通って、下タバックハーネで北東から流れてくるアクチャス川と合流する。そして南へ流れていき、タバックハーネ川と名を変え、さらに先へ進んでボスクンビュキュの東でアラチ川と合流する。バーラル地区ブラック村の間を流れるブラック川は、カラビュック-サフランボル道を横切ってボスクンビュキュの西でアラチ川ヘ流れる。このアラチ川は西へ蛇行しながら流れ、カラビュック市内で南東から流れてくるソアンル川と合流すると、イェニジェ川という名になって北西方向へと流れていく。最終的にはフィルヨス川として黒海へ注ぐ。これらの河川は夏も乾くことはないが、アクチャス川の水位はかなり下がる。各河川の上には水車小屋が設置され、川の水で動いている。

気候
 サフランボルの気候は、黒海と中央アナトリア気候の中間にある。内陸性気候の特徴である、厳しい冬と乾燥した夏ではない。降水については年間を通してあるが、内陸性気候の影響で年の前半に多い。冬と春が長い。夏は7月上旬から9月下旬までで、雪は12月に始まる。
気温 
最も暑い月は7、8月である。(平均気温の最高は40°)最も寒い月は1、2、3月である。(平均気温の最低は-10°)日較差の最高は夏21、2度、冬17、5度である。
降水量 
最も降水量が多い月は1、2月と6月である。(月平均50mm)最も乾燥する月は7、8、9月である。(月平均22mm)降水量が1日で最も多い月は6、7月(40mm)で、年間降水量の平均は721mmである。年間降水日数の平均は67、6日で、年間覆雪日は平均で25日、最高は41日である。
湿度 
年間平均湿度は60%である。

 多く吹く風は順に、西風、南西風、東南風、そして北西風である。最も影響力があるのが南西と北西から吹く。まちの中の気候 シェヒルとチャルシュ地区は谷に位置するため、風はあまり吹かないそのため、冬でも風の影響を受けにくい。しかし夏は暑くなる。夏の地区へ移動するのもこのためである。バーラル地区はより高台になっており高原のような性格で、南へ向かって高くなっている。そのため夏は涼しく過ごせる。

災害
地震
 サフランボルは第二地震地帯に属している。北アナトリア地震地帯で起きる地震は、サフランボル周辺にも影響するが、被害はない。
地すべりまちの構成に被害を与えるような地すべりはこれまでになかった。
洪水
 河川はかなり深い川底を流れているので、まちに被害を及ぼすような洪水はない。しかしアクチャス川は前世紀初頭に突然二度もあふれ、チャルシュやその周辺で人的、物質的被害を与えた。

歴史的要因 
サフランボルは旧石器時代より人間の定住地であった。エフラニ周辺には塚が三つ見つかっている。ホメロスにもこの地方がパフラゴニヤとして記述されている。ペルシャ時代、ギリシャ時代にもまちは存続し、その後ローマ、ピザンツ時代には人口も増えた。サフランボル・エフラニ周辺にあるその他の遺跡として、24の古墳、様々な岩窟墓、レリーフ、またサフランボルの南にあるスィパヒレル村のローマ神殿跡などが挙げられる。
サフランボルのまちの中にはローマ、ビザンツ時代の遺跡はない。この時代のまちの名前もはっきりしていない。Leonardは、サフランボルは昔の「ゲルミア」、またAinsworthは、「ザフェランボリ」の昔の名は「サフランのまち」という意味の「フラビオポリス」であると主張している。オスマン・トゥランはトルコ人がこのまちを支配する前は、ここは「ダディブラ」と呼ばれていたと記述している。
トルコ人がアナトリアを支配するようになってからのサフランボルは、カスタモヌ県の一部として歴史を残している。この地方は最初ダニシュメント家時代にトルコ人の手に落ちた。(12世紀初頭)その後ふたたびビザンツに取り戻されたが、13世紀初めにこの地方へ勢力をのばしていたトルコ系ジャンダルオウル家の支配下に入った。 
ジャンダルオウル家はセルジュク朝,その後イルハンル家に属していた。13世紀末にエフラニで起こったカユ・ボユから、ジャンダルオウル家ははじめセルジュク朝に、その後イルハンル家に仕え、15世紀初頭に短い間ではあるが独立したことがある。オスマン家が台頭してきてから1461年までは、オスマン朝に属する一県としてこの一帯を支配した。その時代まちの名は「ザリフレ」あるいは「ザリフラ」であったと思われる。
サフランボルには、このジャンダルオウル家支配時代のエスキ・ジャーミ(モスク)、スレイマンパシャ神学校、エスキ・ハマム(公衆浴場)が残っている。この時代からオスマン朝時代にかけて、この地方の中心地はいつもカスタモヌであった。サフランボルはジャンダルオウル時代に姑まってオスマン朝時代まで長い間「タラックル・ボルル」という名で通っていた。18世紀以降は「ザーフェラン・ボルル」、後に「ザーフィランボル」の名が使われるようになった。
ルム(トルコに在住するギリシャ系住民)の間ではサフランポリス、またはテオドラポリスと呼ばれていた。 
オスマン朝時代のサフランボルに関する出版物はきわめて少ない。歴史的建造物を見てみると、幾人かの名が挙がってくる。ジンジ・ホジャ、キョプルル・メフメット・パシャ、イッゼット・メフメット・バシャなどがここに建造物を残している。

重要な歴史的建造物
 サフランボルのまちなかには、ビザンツ時代の遺跡は発見されていない。クランキョイにあるアヤ・ステファノス(HAGIOS SHEPHANOS)教会(現在のウル・ジャーミ)は、テオドラによって建てられたと思われる。エスキ・ジャーミはビザンツ時代の教会から変えられたものであろう。トルコ人によるものとしては、ジャンダルオウル家時代からのものである。これらの建物は、時とともに何度も改修、改装が施された。これらの中で重要なものを挙げてみる。
宗教的な建造物 
ジャーミ(モスク)の数は30ほどである。最も古いものは、ジャンダルオウルラルの時代に建てられた、スレイマンパシャ・ジャーミスィ (エスキ・ジャーミ)である。(14世紀)その後のものではキョプルル・メフメット・パシャ・ジャーミスィ(1662年)、イッゼト・メフメット・パシャ・ジャーミスィ(1796年)、ダーデレン・ジャーミスィ(1768年)、カズダール・ジャーミスィ(1779年)などが挙げられる。
教育のための建造物
スレイマン・パシャ・メドレッセスィ(神学校・14世紀)は、今日その基礎部分だけが残っている。
社会的な建造物 
ジンジ・ホジャ・ケルバンサライ(ジンジ・ハン隊商宿・17世紀)、エスキ・ハマム(14世紀)、イェニ・ハマム(17世紀)や、チェシメ(泉)が100、橋が15ほどある。これらを見てみると、サフランボルが14世紀に重要性を増し、17世紀から18世紀末にかけて政府の要人たちに眼をかけられ、18世紀以降まちの経済力が上がったために、20世紀初頭までに自力で小さなジャーミやチェシメを設置していったことがわかる。


人口と住宅 
人口についての最も古い記述は、19世紀のものである。 Ainsworthは1838年にシェヒル地区には3000戸のムスリムの住宅、250戸のキリスト教徒の住宅、バーラル地区とブラック村には150-200戸の住宅、トカットル・バーラルには150戸ほどの住宅があったとしている。これらの数は正確でないかもしれない。サフランボルの地形は非常に変わっていたため、Ainswort,hは大きなまちと勘違いした恐れがある。
Mordtmannは1852年に2000戸のムスリムの住宅、250戸のキリスト教徒の住宅があったと主張している。しかしこの数も大まか過ぎる。Cuinetは1894年のその著書の中で、1500戸の住宅、4705人のムスリム、2795人のルム、合計で7500人であることを、またSemsettin Samiは1894年の著書でまちの人口は8000人ほどであると記述している。 Ali Cevatは1895年には1500人のルムを含む8000人がいたと言っている。
Leonardは1903年に約500戸のルム、2000戸のムスリムの住宅があったと推測している。1940年にはシェヒル地区で1766戸、バーラル地区では1075戸、合計2841戸の住宅が数えられている。ルムは商業、製靴業、仕立て屋、左官屋、石屋などを職業としており、トルコ語を操った。彼らに夏の家はなかった。ムバーデレ(住民交換・第一次世界大戦、トルコ祖国解放戦争後、トルコとギリシャの間でとりきめられた)でギリシャに引き上げてしまった。(1924年)1965年の国勢調査では、シェヒル地区に1140戸、クランキョイで249戸、バーラルて肘2戸、合計2301戸の住宅が数えられている。
サフランボルに於ける人口調査は以下のとおりである。1935年/5571人、1955年/6155人、1965年/9771人、1975年/14700人、1985年/22404人、1997年/31387人。 
19世紀末の国勢調査以前の状況はわかっていない。まちに残っている記念碑などをたよりに推測すると、まずカレイチ(城砦内)とその周囲の人口が増えていき、その後谷底へ広がり、安全性が確保され、豊かになっていくと、バーラル地区が夏の家へと変化していったと言えるだろう。昔の人口もおそらく一万人は超えていなかったはずである。当時はベイレル(藩主)、役人、ルムのほかは均一な社会であったと思われる。高い収入と当時は自給自足が原則の閉鎖的経済であったためである。各家庭に二軒も家があったことからもそれがわかる。 
生産と商業はロンジャ(ギルドのような同業者組合)システムで互いが監査、支援されていた。ロンジャシステムが無くなると経済システムが崩壊し、隣町に国営鉄鋼所ができてからは社会的階級が登場した。今日の社会的階級は以下のとおりである。労働者37%、公務員、会社職員20%、小売商11%、職人8%、商人4%、農業従事者1%、その他19%。 サフランボル周辺にはいくつかの遊牧民の村がある。ヨリュックキョイ、ハジラルオバス、ダヴットオバスなどがそうである。1935年頃に定住したその他の遊牧民以外の遊牧民(タフタジュやチェブニエル)なども存在する。また、クルド人々ザザ人も遊牧民として周辺に住んでいた。


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