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JATA
観光庁長官登録旅行業第1997号
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トルコの世界遺産

トルコの世界遺産ブルサ・ジュマルクズクのご紹介


ブルサが初めて歴史に登場するB.C.2世紀の頃は、ビティニア国王プルシアス1世に因んでプルサと呼ばれていた。ローマ人から逃れたカルタゴの部将ハンニバルはここに避難している。B.C.74年、ビザンチンのニコデメス3世が彼の王国をローマ人に進呈した為、ビティニアとブルサはローマ帝国額となった。
トルコ世界遺産・ブルサとジュマルクズク

 オスマン帝国最初の首都であったブルサには歴史的建造物が数多く残されています。また、ジュマルクズクは700年もの歴史を持つ古い町で、オスマン帝国時代の生活の様子が伺える住宅などが残されています。

 農村生活のコミュニティやかつての商業文化を今に伝えている二つの都市が、共に2014年に世界遺産に登録されました。

 トルコ人がイェシル・ブルサ(緑のブルサ)とあこがれを込めて呼ぶブルサは、ウルダァの麓の高原の町である。(ウルダァは古代にはミシアのオリンポス山として知られていた。古代にオリンポスと呼ばれた山は20もあったらしい。)
マルマラ海の南岸に近く、豊かな緑と温泉の町、そして歴史をしのばせる古都ブルサはトルコ人はもちろん、外国人にも人気がある。
 ブルサは古くから歴史に登場する。紀元前6世紀にはペルシァのキュロス大王に占領された。ローマ時代にはすでに東西の交易ルートに位置していたので、商業の中心地として賑わいを見せている。
 十二使徒のひとり、聖アンデレが布教に訪れてからキリスト教が急速に広がり、ブルサはその面でも地方の中心だった。
ビザンティン時代は西に進出を計るセルジュクトルコを必死にくい止めたブルサだったが、14世紀前半にはついにオスマントルコに征服された。日の出の勢いのオスマントルコは初めての首都としてブルサを選んだのだった。しかし、その後エディルネ、イスタンブルと都も移り、ブルサの重要性は薄れてしまった。しかし、古都の風情は今もたっぶりと残り、訪れるものを魅了している。


〔歴史〕
創立者はおそらく2世紀に平野に住み着いたフリギアの一族で、街を一望する丘(ヒサル)の上に築城したのであろうと言われている。ブルサが初めて歴史に登場するB.C.2世紀の頃は、ビティニア国王プルシアス1世に因んでプルサと呼ばれていた。ローマ人から逃れたカルタゴの部将ハンニバルはここに避難している。B.C.74年、ビザンチンのニコデメス3世が彼の王国をローマ人に進呈した為、ビティニアとブルサはローマ帝国額となった。ビザンチン帝国期にブルサは温泉で有名になり、多くの指導者達が頻繁に足を運び、ユスチニアヌス帝などはここに宮殿と浴場を建設している。7~9世紀にブルサは再び包囲されアラブ人によって多大な打撃を受けた。1095年、西に進出したセルジューク・トルコ族はブルサを征服したが、第4次十字軍の頃、再びビザンチンの手に帰している。オスマン帝国の創始者であるスルタン・オスマンは1302年にブルサを包囲し10年に及ぶ攻撃の後ようやく1326年にここを征服しオスマン・トルコの首都とした。トルコ民族による征服と共にブルサには繁栄期が到来する事になる。
1402年、スルタン・ベヤズィット1世とチムールによるアンカラの戦の後ブルサはモンゴル人の手に落ち、焼き払われたが、スルタン・メフメット1世が巻き返しを図り、1413年にオスマン帝国をここに定着させた。こうしてブルサには再び富みが流入し新しい発展段階を迎える事となる。帝国の首都がエディルネ(ハドリアノポリス)に移されてからもブルサはスルタンやその一族の保養地として繁栄を続けた。
(1801年に火災、185時には地震を被っている。)

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