トルコ出身・トルコで活躍!古代世界の知識人達
哲学者のディオゲネス (土:Diyojen、英:Diogenes)
シノぺ(現シノップ Sinop)のディオゲネス
紀元前412年当時、ギリシャ植民地であったアナトリア北部、黒海地方西部の黒海沿岸の町シノぺ(現シノップSinop)で生まれました。宝石商と両替商をしていた父ヒケシオスの元で育ち、彼自身も父親と一緒に仕事をしていましたが、通貨を偽造・変造したことに因り、父と共にアテナイへ国外追放されてしまいます。

アテナイへ住み着いた時、ディオゲネス55歳になっており、ここから哲学に目覚めます。宗教・振舞い・服装・住居・食事、全ての文明を放棄し、世捨て人となって教育や知識は無用のものとし、犬の様に生活したことから“キュニコス=犬儒派”と呼ばれます。
アテナイではソクラテスの弟子でありキュニコス派の祖であるアンティステネスに弟子入りし、徳で自己支配をし、情熱と他の人達への依存からの解放を基礎とした物質的快楽を求めず、徳に対する思想を貫きました。
アテネでは、浮浪者として神殿で寝泊まりしたり、瓶(樽)の中で生活した変わり者でした。また、アテナイの泉にて手ですくって水を飲む子供を見て、「子供たちが、私がまだ至らないことを教えてくれた」と唯一の所持品であったお皿(コップ)を投げ捨てたと言います。
プラトンのイデア論に反対し、女性や子供との共有を主張し、世界で初めて国家や民族に囚われないと言う考えの「コスモポリタニズム(世界市民主義)」を唱えました。
また、アイギナ島へ行く際、海賊に囚われ奴隷としてコリント人のクセニアデスと言う名の男に売られてしまいます。ディオゲネスはコリントでクセニアデスの息子たちの家庭教師としてまた家事を全て請け負いましたが、全て完ぺきにこなしたため、クセニアデスはとても喜んだと言います。
ディオゲネスの死因は、 狂犬病の犬に噛まれたこと、生のタコを食べた習慣が原因で、または自分で息を止めて自殺をしたなど諸説は在りますが、紀元前323年アレキサンダー大王の死去と同じ年に亡くなっています。
プラトンはディオゲネスの事を「狂ったソクラテス」と比喩しておりますが、美しく話し、優れた能力で全ての人を魅了した有名なこのキュニコス派の哲学者は、様々な奇妙さ、異常な行動や態度にも拘らず、尊敬され、死後もコリント人達は彼を偲び、犬が寄り添う形の大理石の柱を立てたと言います。
また2006年には、サムスンにあるオンドクズ・マユス大学美術学科の25名により、ディオゲネスの功績を偲ぶために6か月掛けて、犬が寄り添い左手にランプを下げたディオゲネスの約6mにも及ぶ大理石像がシノップの入口に建てられていました。
ディオゲネスのアレキサンダー大王との逸話


皮肉や頓智が効いた彼のシニカルな逸話は日本の一休さんの様で、数多くの小話が残っています。
特にアレキサンダー大王との逸話が有名です。
帝政ローマのギリシャ人著述家プルタルコスの『英雄伝』によると、アリストテレスが家庭教師であったアレキサンダー大王は、哲学に大変興味を持った哲学に重きを置いた支配者でした。
紀元前336年コリントに訪れたアレキサンダー大王は、ディオゲネスに会いに行き何か希望・要望は無いかを問います。ディオゲネスはその問いに「陽を遮らないでください。それ以外に何も求めません。」と答えました。
なお、この答えの本来の形は、人差し指で太陽を示して「あなたが私に与えられないものを私から遮らないでください」と意味したと言います。
後にアレキサンダー大王は、「私が有名な大王であるアレキサンダーでなかったなら、“ディオゲネス”になりたかった」と述べています。