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トルコ旅行・ツアーブログ|トルコツアー旅行記

スルタンとは?イスラム教国の支配者の称号やオスマン帝国の代表的な皇帝


オスマン帝国などのイスラム系王国の君主である「スルタン」。「スルタン」の敬称は女性皇族や大帝国でない小国の君主などにも使われ、実は現代でも使われている称号なのです。

ここでは、スルタンの意味やスルタンに似た称号、スルタンと呼ばれた権力者たち、現存するスルタンの国などなど、“スルタンとは何か”を解説致します!

スルタンとは?簡単に解説

スルタン セルジューク朝
「スルタン(Sultan)」は “君主”、“支配者”を意味する言葉で、イスラム教の国においての統治者、いわゆる「皇帝」や「王」の尊称として使われてきました。 “権力”や“権威”や“支配”を意味するアラビア語が語源となっています。

イスラム教の中でもスンナ派の国に特化して使われる称号です。

史上初めてスルタンを名乗ったのは11世紀のガズナ朝第7代目の王マフムードです。その後のセルジューク朝創始者トゥグリル・ベクからスルタンの称号が君主の称号として常用化するようになりました。

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皇帝や王以外がスルタンを名乗るケースも

歴史上スルタンが皇帝として大きな権力を持ったオスマン帝国では、皇帝だけでなく皇后や皇子・皇女にも名前の後ろにスルタンの称号が付けられて権力を持つことがあり、
  • 皇帝の母:ヴァリデ・スルタン
  • 皇帝の子を産んだ妃:ハセキ・スルタン
  • 皇女:ハヌム・スルタン
  • 皇子:チェレビ・スルタン
などの特別な敬称もありました。

現在、「スルタン」は性別に関係なく一般的な人名としても使われています。例として、世界で最も背の高い人としてギネスに登録されているトルコ人のスルタン・キョセン(コーセン)などがあげられます。

「スルタン」と「カリフ」の違い

イスラム教
イスラム教の宗教的最高権威者が「カリフ」、イスラム教の行政上の世俗的な最高権力者が「スルタン」です。

「カリフ」はムハンマドの後継者から連なる“イスラム世界の最高指導者”のことであり、基本的にはカリフによりスルタンが任命されてきました。カリフとスルタンは、いわばローマ法王と皇帝、朝廷と征夷大将軍のような関係性と言えます。

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初代スルタンとなったセルジューク朝の創始者トゥグリル・ベクは、時のアッバース朝のカリフからスルタンに任命されました。以後スルタンの称号は、スンニ派イスラム王朝の君主の呼称として定着し、オスマン帝国に引き継がれていったのです。

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「スルタン」と「アミール」の違い

「アミール」は、“総督”、“将軍”、“リーダー”、“指揮官”、“首長”を意味し、スルタン以前にも同じような役割を持つものとしてカリフから任命された称号です。現在でもカタールやクウェート、アラブ首長国連邦などの国家元首や首長の称号として使われています。

アミールは、トルコ語や英語ではエミール(Emir)と言います。ドバイを本拠とするエミレーツ航空の名は、アミールの国々(首長国連邦)を意味する英語のEmiratesに由来しているのです。

また、同様の称号として「シャー」がありますが、こちらは古代ペルシアや以後のイラン、アフガニスタン、そしてシーア派の国々で“王”の意で使われたものです。ちなみにトルコでは、チェスのキングのことをシャーと言います。

なお、オスマン帝国で1421年に即位した第6代スルタンのムラト2世より、このシャーから来る“シャーの中のシャー”を意味する称号「パーディシャー」という称号も、皇帝スルタンへの称号として一般的に使われるようになりました。

オスマン帝国では「スルタン=カリフ」に

メッカ
オスマン帝国11代目スルタンのセリム1世は、まずムスリムの国々を統一する目的でイスラム教の2大聖地メッカとメディナを制し、その後のオスマン帝国のスルタン達が受け継ぐことになる「二大聖地の守護者」の称号を手に入れます。

続いて1517年にエジプトを征服してアッバース朝を倒し、カリフのムタワッキル3世からカリフの地位を譲位させました。そしてセリム1世自身がカリフを受け継いだことで、その後オスマン帝国ではスルタンがカリフを兼ねる「スルタン・カリフ制」がとられるようになりました。

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オスマン帝国でのスルタンとカリフの廃止

オスマン帝国末期には、トルコ革命を行ったムスタファ・ケマル・アタテュルク率いるアンカラ政府の決議により、1922年11月1日にスルタン制とカリフ制は分離され、オスマン帝国最後の36代目スルタンであったメフメト6世をもってスルタン制が廃止されました。

そして、従兄弟のアブドゥルメジト2世がカリフの地位のみを継承するのですが、彼を最後に1924年3月3日カリフ制も廃止されてしまいます。

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イスタンブール
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オスマン帝国の有名なスルタン

オスマン帝国のスルタンは全36代続きますが、その中でも帝国の要となった歴史上有名なスルタンをここで紹介いたします。

メフメト2世〈第7代スルタン〉

スルタン メフメト2世
1453年5月29日にイスタンブールを陥落してビザンツ帝国を滅亡させ、中世を終わらせ近世への新しい扉を開いた偉大なスルタンです。征服王ファーティ・スルタン・メフメトとも言われ、イスタンブールを征服した当時、齢たったの21歳でした。

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実は、一度12歳の時に父ムラト2世が譲位したことでスルタンに即位するのですが、上手くいかなかったため、父がスルタンに復位します。その後、父の死と共に19歳で再度スルタンに即位したという経緯を持った人物なのです。

イスタンブール陥落後は帝国の首都をイスタンブールに移し、ビザンツ帝国時代のアヤソフィアなどの聖堂をモスクに変換し、イスラム化を図ります。また、彼が造らせたトプカプ宮殿は、その後のスルタン達の居住地および執政の場となりました。

約30年間の治世で25回遠征を行ない、
  • ペロポネソス半島のアテネ公国とモレアス専制公国
  • セルビア
  • アナトリアのスィノップのペルヴァーネ侯国
  • 黒海のトレビゾン王国
  • ボスニア
  • ネグロポンテ
などなど多くの国を支配下に置いて領土を拡大し、中央集権国家を形成しました。

ちなみに、イスタンブールの観光で欠かせないグランドバザールもメフメト2世が造らせたもので、またボスポラス海峡クルーズの折り返し地点、第2ボスポラス大橋の袂にあるルメリ・ヒサルも彼がイスタンブール陥落のために造らせた建造物です。

現在のトルコ人からも、メフメト2世は歴代スルタンの中でも別格であり英雄と見なされています。

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スレイマン1世〈第10代スルタン〉

スルタン スレイマン1世
立法帝、壮麗帝とも呼ばれるオスマン帝国の最盛期を築いたスレイマン1世は、オスマン帝国史上最も長い46年間スルタンの地位に就き、13回、計10年1ヶ月と最も多く長い期間遠征を行なったスルタンです。

また、父セリム1世がオスマン帝国をカリフ=スルタン制としたため、スレイマン1世は、スルタンでもありカリフでもありました。

ベルグラード、ハンガリー、ロドス島、イラクなどを支配下に置き、また黒海と地中海と紅海の制海権を手に入れて領土を最大に広げ大帝国へと導きました。加えて、それまでの9人のスルタン達の決定を集めて編纂し、法整備をして国の制度を整えました。また、この治世においてイェニチェリや行政制度なども完成されます。

彼の治世下には帝国史上最も偉大な建築家ミマール・シナンが活躍しており、彼に造らせたスレイマニイェ・モスクの敷地内に併設されているスレイマン大帝の霊廟には、スレイマン1世と共に寵妃ヒュッレム・スルタンが眠っています。

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アブデュルハミト2世〈第34代スルタン〉

スルタン アブデュルハミト
第31代スルタンのアブデュルメジド1世の息子で、オスマン帝国末期の第34代のスルタンとなった人物です。彼の治世には近代化における、オスマン帝国憲法の発行、加えて多くの博物館の開館、公教育の拡大、オリエント急行のイスタンブール~パリ間の開通など、大きな事業が行われました。

日本との交流を始めたのもこのスルタンでした。あの日本の和歌山県串本町樫野埼沖で起こった「エルトゥールル号遭難事件」当時のスルタンがアブデュルハミト2世です。この未曽有の事故は、エルトゥールル号の使節団がこのアブデュルハミト2世の親書を明治天皇に奉呈するために来日し、その帰国の途に就いたすぐの出来事でした。

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この遭難事件の後に、日本中から集めた義援金を渡すためにイスタンブールに渡った日本人・山田寅次郎が謁見したのもこのアブデュルハミト2世です。

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メフメト6世〈第36代スルタン〉

オスマン帝国第36代、帝国最後のスルタンとなったのがこのメフメト6世でした。

彼はドルマバフチェ宮殿で誕生した帝国末期のスルタンで、彼が1918年に即位したときにはすでに帝国は第一世界大戦で戦況不利な状態であったため、即位後すぐにヨーロッパ列強同盟国に降伏することになるのです。

そんな貧弱化したオスマン帝国政府を見限った軍指揮官ムスタファ・ケマルがトルコ民族解放運動をおこし、メフメト6世の帝国政府に抵抗してアンカラで大国民議会を結成します。

トルコ改革を行った大国民議会は、オスマン帝国政府とアンカラ国民議会の二重政権を無くすため、1922年11月1日にスルタン制の廃止を決議します。そして廃位されたメフメト6世はその16日後の11月17日にマルタへと国外退去を余儀なくされました。スルタンが廃位されたことでオスマン帝国はここで終焉しました。

メフメト6世は、時代に翻弄された悲しき最後のスルタンだったのです。

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スルタンの称号を得てオスマン帝国で権力を持った女性

トプカプ宮殿 ハレム
皇帝スルタンが住んでいたトプカプ宮殿内には、ハレムという後宮がありました。このハレムでは、後継者争いや女性の権力争いが繰り広げられていたのです。

そしてここで権力を持た女性たちの中には、皇后や皇太后となってスルタンの政治、すなわち国政にも力を及ぼすようになった者が出てきたのです。

16世紀にはこのような権力を持った女性による女人政治(カドゥンラール・スルタナトゥ)の時代となりました。

ヒュッレム・スルタン(ロクセラーナ)

第10代スルタンのスレイマン大帝の正妃で皇太后として権力を持ったのが、ヒュッレム・スルタンです。帝国史上初めて国政に関与し、「女人の統治」を始めた人物でもあり、高官たちの会議を隠し窓からのぞいてスルタンに意見を申し入れていたとも言われています。

彼女の本名はアレクサンドラと言い、元々東欧ルテニア地方の正教会司祭のキリスト教徒の娘でした。しかし、1520年にクレミア・タタール人の略奪に遭い、イスタンブールに連れてこられて奴隷として売られたところ、スレイマン大帝の宰相イブラヒム・パシャに買われ、スレイマン1世に献上されました。

宮殿の後宮ハレムに入った彼女は、他の女性を後目に皇帝スレイマン1世の寵愛を真に受け、第一夫人などライバルを次々と退けて皇后にまで登りつぼめた女性です。

スレイマン1世との間には6人の子をもうけて、その内の一人セリム2世がスレイマン1世を次いで第11代スルタンとなりました。

ミフリマー・スルタン

父スレイマン1世と母ヒュッレム・スルタンの長女が、ミフリマー・スルタンです。生まれながらの皇女中の皇女である上、17歳の時に結婚した夫リュステムパシャは15年もの間大宰相として帝国の財を潤すことに成功した人物であることから、ミフリマーは権力と財力を持ち、母ヒュッレム以上に国政に介入したオスマン帝国史上最も有名な女性でもあります。

父であるスレイマン大帝にマルタへの出兵を決心させるため、実費にて400隻の船を用意することを約束したり、母ヒュッレム・スルタンのようにポーランド王ジグムント2世と書簡を交わしたりしました。また、1558年にヒュッレム・スルタンが死去すると、母に代わり相談役として父スレイマン大帝を支えました。

父スレイマン大帝が1566年に死去した後、跡を継いだ弟のセリム2世の治世でも相談役として、またすでに死去した母ヒュッレムの代わりに皇太后(ヴァリデ・スルタン)の役目も担ったと言います。

ちなみに、大建築家ミマール・シナンは、ミフリマー・スルタンに大変惚れ込んでいたと言います。ミフリマー・スルタンがアジア側のウスキュダルに彼に造らせたミフリマー・スルタン・モスクは、ドレスを着たスルタンのシルエットをイメージして造られたと言います。

もう一つ同名のモスクがヨーロッパ側エディルネカプにありますが、ミナレットは一本だけです。これもシナンが報われない自身の孤独を表現したと言われています。

キョセム・スルタン

スルタンの正妃、二人のスルタンの母后、また孫のスルタンの太皇太后として約30年近く国政に関与し、権力の絶頂を極めた女性がキョセム・スルタンです。鋭い知性でスルタンを手中に置き、全宮殿内で権威を振いました。

父はギリシャの正教徒司祭で、少女時代にボスニア州知事の宮殿に奴隷として買われたと言われています。しかし、彼女は美貌と聡明さを見出されてイスタンブールのトプカプ宮殿に送られ、15歳の時に第14代皇帝アフメット1世の妃となりました。

このアフメット1世は、現在ブルーモスクと呼ばれるスルタンアフメット・モスクを作らせたスルタンです。

1617年に若くしてアフメット1世が無くなり未亡人となると、一時トプカプ宮殿から離れるのですが、1623年に息子のムラト4世が11歳で第17代スルタンに即位すると共に、母后としてほぼスルタンの代わりに全権を振るうことになったのです。ムラト1世が早くに亡くなった後も、もう一人の息子イブラヒムの治世にて同様に政治に介入しました。

その後、イブラヒムの息子で孫のメフメト4世がスルタンに即位したことにより、権力の絶頂を迎えていましたが、イブラヒムの妃との争いにより宮殿内で暗殺されて悲しい最期を遂げるのです。

これによりオスマン帝国の女人政治時代は幕を閉じました。

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現在でもスルタンが存在する国

現在でもスルタンの名が存在するイスラム教国がいくつかあることをご存じでしょうか。ただ、その中でも国家元首としてスルタンが存在するのはブルネイとオマーンのみです。

モロッコも国王を国家元首とするイスラム教国ですが、1957年以降はスルタンではなくキング(king)と称するようになりました。

ブルネイ・ダルサラーム国

東南アジアのボルネオ島にあるブルネイは、敬虔なイスラム教の国で、1363年より続く世襲制のスルタンが現在でも存続しています。

この国は、スルタンを国家元首とする立憲君主制で、スルタンとは別に首相がいるのですが、スルタンの権限が強く絶対君主制に近い状況です。

ちなみに、イエス・キリストの誕生日とされる12月25日のクリスマスですが、ブルネイではイスラム教国として珍しいことに祝日になっています。これはイスラム教でイエスは預言者の一人と認められているからです。

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オマーン

アラビア半島の南東の端にあるオマーンでは、スルタン(国王)を政治のトップとする絶対君主制が行われています。ブーサイード朝が1749年より現在までスルタンを世襲してきており、君主、元首、財務・外務・国防大臣、軍事指揮官として全権力を持って、国政を行っています。

マレーシア

マレーシアの前身となったマラヤ連邦は、各地のスルタンが統治する国の集合体で、各スルタンから互選で国王が選ばれていました。

現在のマレーシアはそれぞれ13州からなっており、その中で現在でも州の君主としてスルタンが存在する9つの州があります。この9州の互選によって国王(アゴン)が選出されて5年間の任期を全うします。

しかし、マレーシアは立憲君主制であるため国王とは別に首相が行政府の長を務めています。

インドネシア

インドネシア最後のイスラム王朝マタラム王国は、オランダ統治下で1755年に分割されて権力を失いました。しかし、インドネシア独立戦争で重要な役割を果たしたジョグジャカルタのみ、独立後も特別州知事を兼ねてスルタンとしての権威を現在まで維持しています。ジョグジャカルタのスルタンはマタラム王国の流れを継いだスルタンです。

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