トルコ旅行・ツアーブログ|トルコツアー旅行記
12世紀にはセルジューク・トルコ帝国の首都に指定されコンヤの町
セルジューク・トルコ時代の古都コンヤは人口120万人を抱える地方都市として現在も賑わいをみせている。火山の麓の草原地帯のオアシスには肥沃な農耕地帯が広がり、穀物、ケシ、果物等が豊富に収穫できる。コンヤにはイスラム神秘教、旋舞教団の祖メブラーナの霊廟がある為、信心深いトルコ人の聖地として多くの信者の巡礼を受けている。
〔歴史〕
かつて城砦のあった小丘にはB.C.14~13世紀頃からヒッタイト人、フリギア人、リキア人の集落があった。古代の名をイコニオン(イコニウム)と言い、アレキサンダー大王は小アジア遠征の途中で部下のリシマコスにこの地を与えている。以後の激動の時代にコンヤはセレウコスの、そしてベルガモン王国の治世下に入り、更にB.C.2世紀にはローマの支配下に置かれている。聖パウロや聖バルナバスもここを訪問し、キリスト教は非常に早い時期からこの地に浸透している。7~9世紀になるとアラブ人の侵入を受け、1081年にはセルジューク・トルコの手に落ちて歴史上重要な位置を占める様になった。12世紀にはセルジュークの首都に指定され、現在も残る多くの建造物が建てられた。セルジュークのスルタン・アラエッティン・ケイコバト(1219~1237)の治世下でコンヤは最盛期を準え、各地から芸術家、神学家達が宮廷に招かれたが、イスラム神秘教、旋舞教団の祖として有名なメブラーナ・ジャラレッディン・ルーミーもその一人であった。13世紀にはモンゴルに、更に後にはカラマンにと支配者が交替したが、1397年にはオスマン人が町を占領している。1832年、「手のつけられないエジプト総督」メフメット・アリ・パシャに占拠されたが、共和国となってからコンヤはトルコの主要地方都市として発展を遂げている。
*主要観光地抜粋
〔メブラーナ博物館〕
ここはかってメブラーナ敦団の僧院であったが1927年以来、博物館として機能している。団の祖メブラーナ・ジェラレッディンの霊廟もここにある。「Dervişan Kapısı」即ち「托鉢僧の門」をくぐって泉の置かれた廻廊式の内庭に入る。三方には僧宿があり、廻廊はミナレットと円錐形の屋根を持つ青緑色のドームをしてそれ自体がモスクの様な外観を呈している。「銀の門」からメブラーナの弟子や右腕達の棺が置かれている建物の中に入る。敦団の帽子を形取っていない墓は女性のもの。青緑色のドームの下辺り、右側の部屋の隅にはメブラーナ・ジュラレッディンの棺が父や息子スルタン・ベレドの棺とともに安置されている。「セマハーネ」は托鉢僧達が彼等独自の旋舞の儀式を行なう場である。ショーケースの中には手書きのコーランや燭台、カーペット、楽器の他にメブラーナのターバンや外套も展示されている。博物館の近くにはスルタン・セリム3世(1566~1574)の建てたモスクが見られる。
-メブラーナ・ジャラレッディン・ルーミー・その生涯と思想-。
メブラーナ・ジャラレッディン・ルーミーは1207年にアフガニスタンで生を受けた。彼の父は著名な学識者としてスルタン・ウル・ウレマ(正義の皇子)の名で人々の信望を集めたが支配者に追われて現在のトルコの地にやって来るまで家族は長い間流浪の旅を余儀なくされた。
セルジュークのスルタン・アラエッティン・ケイコバトに哲学の教師として招かれたメブラーナはコンヤに居を構える事になる。そしてここでシェムスィ・テブリズリと共に旋舞教団を設立した。彼は1271年12月17日に生涯の幕を閉じたが、今でも毎年この日に宗教的儀式がその墓前で行なわれている。彼の基本思想は愛と寛容で、人類の自由を尊重して一夫一婦制を主張した。その神秘主義的な思想は詩集メスネビ(Mesnevi)の中に顕著に表われている。
〔アラエッティン・モスク〕
スルタン・メストが着工しスルタン・アラエッティンが完成させたアラビア風のモスクで、中央には42本の古代建築の柱が木造の屋根を支えている。木造の説教壇と大理石のミフラブは注目に値する。右手にはスルタンとその一族の陵が見られる。
〔カラタイ・メドレセスィ〕(1251年)
設立者エミル・カラタイの名を冠した旧神学校で、現在はセルジューク時代の陶器博物館となっている。螺旋状に捻じられた円柱と鍾乳石の壁がんがある大理石の門は素晴らしいものである。内庭は神学生の宿舎が並び、大広間の右手の壁とドームを覆う美しい焼き物に注意を引かれる事だろう。コンヤと周辺からの出土品が展示されるこの博物館の左手に、エミル・カラタイの陵がある。
〔インジェ・ミナレ・モスク〕
1265~1267年。木と石を素材としたこのセルジュークのモスクはモスクの初期建築の一例と言える。タイル貼りの細いミナレットからモスクはその名(インジェ=細い)で呼ばれている。19世紀の落雷でミナレットの上部が失われてしまった事は残念である。
〔考古学博物館〕
ローマ時代の彫刻や器等が主な展示物であるが、最も興味深いものは「ヘラクレスの12の労役」を表現したスィダマラからの大きな石棺(3世紀)であろう。
〔イブリクチ・モスク〕
13世紀に時の首長シェムセッティン・アルトゥンアパによって建立された。内部の建築様式は一見の価値がある。かつてアラエッティン・モスクがたっていた丘の北縁にスルタン・アラエッティンの旧宮殿があったが、現在残るものは修復された内庭とギャラリーのみである。
〔歴史〕
かつて城砦のあった小丘にはB.C.14~13世紀頃からヒッタイト人、フリギア人、リキア人の集落があった。古代の名をイコニオン(イコニウム)と言い、アレキサンダー大王は小アジア遠征の途中で部下のリシマコスにこの地を与えている。以後の激動の時代にコンヤはセレウコスの、そしてベルガモン王国の治世下に入り、更にB.C.2世紀にはローマの支配下に置かれている。聖パウロや聖バルナバスもここを訪問し、キリスト教は非常に早い時期からこの地に浸透している。7~9世紀になるとアラブ人の侵入を受け、1081年にはセルジューク・トルコの手に落ちて歴史上重要な位置を占める様になった。12世紀にはセルジュークの首都に指定され、現在も残る多くの建造物が建てられた。セルジュークのスルタン・アラエッティン・ケイコバト(1219~1237)の治世下でコンヤは最盛期を準え、各地から芸術家、神学家達が宮廷に招かれたが、イスラム神秘教、旋舞教団の祖として有名なメブラーナ・ジャラレッディン・ルーミーもその一人であった。13世紀にはモンゴルに、更に後にはカラマンにと支配者が交替したが、1397年にはオスマン人が町を占領している。1832年、「手のつけられないエジプト総督」メフメット・アリ・パシャに占拠されたが、共和国となってからコンヤはトルコの主要地方都市として発展を遂げている。
*主要観光地抜粋
〔メブラーナ博物館〕
ここはかってメブラーナ敦団の僧院であったが1927年以来、博物館として機能している。団の祖メブラーナ・ジェラレッディンの霊廟もここにある。「Dervişan Kapısı」即ち「托鉢僧の門」をくぐって泉の置かれた廻廊式の内庭に入る。三方には僧宿があり、廻廊はミナレットと円錐形の屋根を持つ青緑色のドームをしてそれ自体がモスクの様な外観を呈している。「銀の門」からメブラーナの弟子や右腕達の棺が置かれている建物の中に入る。敦団の帽子を形取っていない墓は女性のもの。青緑色のドームの下辺り、右側の部屋の隅にはメブラーナ・ジュラレッディンの棺が父や息子スルタン・ベレドの棺とともに安置されている。「セマハーネ」は托鉢僧達が彼等独自の旋舞の儀式を行なう場である。ショーケースの中には手書きのコーランや燭台、カーペット、楽器の他にメブラーナのターバンや外套も展示されている。博物館の近くにはスルタン・セリム3世(1566~1574)の建てたモスクが見られる。
-メブラーナ・ジャラレッディン・ルーミー・その生涯と思想-。
メブラーナ・ジャラレッディン・ルーミーは1207年にアフガニスタンで生を受けた。彼の父は著名な学識者としてスルタン・ウル・ウレマ(正義の皇子)の名で人々の信望を集めたが支配者に追われて現在のトルコの地にやって来るまで家族は長い間流浪の旅を余儀なくされた。
セルジュークのスルタン・アラエッティン・ケイコバトに哲学の教師として招かれたメブラーナはコンヤに居を構える事になる。そしてここでシェムスィ・テブリズリと共に旋舞教団を設立した。彼は1271年12月17日に生涯の幕を閉じたが、今でも毎年この日に宗教的儀式がその墓前で行なわれている。彼の基本思想は愛と寛容で、人類の自由を尊重して一夫一婦制を主張した。その神秘主義的な思想は詩集メスネビ(Mesnevi)の中に顕著に表われている。
〔アラエッティン・モスク〕
スルタン・メストが着工しスルタン・アラエッティンが完成させたアラビア風のモスクで、中央には42本の古代建築の柱が木造の屋根を支えている。木造の説教壇と大理石のミフラブは注目に値する。右手にはスルタンとその一族の陵が見られる。
〔カラタイ・メドレセスィ〕(1251年)
設立者エミル・カラタイの名を冠した旧神学校で、現在はセルジューク時代の陶器博物館となっている。螺旋状に捻じられた円柱と鍾乳石の壁がんがある大理石の門は素晴らしいものである。内庭は神学生の宿舎が並び、大広間の右手の壁とドームを覆う美しい焼き物に注意を引かれる事だろう。コンヤと周辺からの出土品が展示されるこの博物館の左手に、エミル・カラタイの陵がある。
〔インジェ・ミナレ・モスク〕
1265~1267年。木と石を素材としたこのセルジュークのモスクはモスクの初期建築の一例と言える。タイル貼りの細いミナレットからモスクはその名(インジェ=細い)で呼ばれている。19世紀の落雷でミナレットの上部が失われてしまった事は残念である。
〔考古学博物館〕
ローマ時代の彫刻や器等が主な展示物であるが、最も興味深いものは「ヘラクレスの12の労役」を表現したスィダマラからの大きな石棺(3世紀)であろう。
〔イブリクチ・モスク〕
13世紀に時の首長シェムセッティン・アルトゥンアパによって建立された。内部の建築様式は一見の価値がある。かつてアラエッティン・モスクがたっていた丘の北縁にスルタン・アラエッティンの旧宮殿があったが、現在残るものは修復された内庭とギャラリーのみである。