トルコ旅行・ツアーブログ|トルコツアー旅行記
ヒュッレムが魔性の女と呼ばれる理由|ハレムでの暗躍とオスマン帝国への影響
オスマン帝国で最も影響力を持ち、最も有名な女性がヒュッレムです。奴隷の身から自らの賢さ、勇敢さと計算高さで皇帝の愛を勝ちとりオスマン帝国の皇后へと上り詰め、帝国の政治にも影響力を与えるほどにまでになった女性です。
実はヒュッレムは、トルコ人ではなく外国から連れてこられた少女でした。
一人の少女がどのように帝国で権力を手に入れて魔性の女と呼ばれるようにまでなったのか、その生い立ちや皇帝との出会い、功績などご紹介しながらヒュッレムについて徹底解説致します!
元々の名はアレクサンドラといい、彼女はキリスト教徒でしたが、宮殿に入った後にイスラム教に改宗し、 “陽気で朗らかな人”を意味する「ヒュッレム(Hürrem)」の名を授かりました。
それまでのオスマン帝国の伝統では、皇帝の男子を産んだ女性は皇帝の寵から下がるのが慣例でしたが、ヒュッレムは男の子を生んだ後も寵を受け、立て続けに6人の子をもうけます。そして前例を破って正式に皇帝と婚姻を結んで正妃になった帝国史上初めての女性でした。
スレイマン1世の何がスゴイのか?オスマン帝国の最盛期を築いた壮麗帝
奴隷の身でハレムに入り一生を過ごす女性にとって、この状況から抜け出す唯一の術は皇帝の寵愛を受けて男子をもうけ、その子を皇帝に就けて母后となることでした。
ヒュッレムがハレムに入った時には既に皇子ムスタファを産んで第一夫人となっていたマヒデヴランがいました。また彼女の後ろ盾となっていた皇帝の母ハフサ・ハトゥン、そして大宰相イブラヒム・パシャ、この3人がヒュッレムにとっての敵となっていたのです。
ヒュッレムはこのような自分の地位を脅かしたり、邪魔となるライバルや敵をさまざまな権謀術数によって次々と失脚させながら、自分の地位を向上させて後継者争いに勝ち上がり、帝国内の女性の中の頂点に立ったのです。
当時のオスマン帝国は絶世期でしたので、世界一の女性にのし上がったと言っても過言ではありません。
権力を持ったヒュッレム・スルタンは、オスマン帝国史上初めて国政に、それだけでなく外交にも関与した女性となりました。
母后ヴァリデ・スルタンや皇帝の第一夫人としてハレムの住人である女性が権力を持ち、国政や後継者争いに関わる「女人政治」の時代をヒュッレム・スルタンが切り開いたのです。
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ヒュッレム・スルタンは、カーバ、ダマスカス、バグダッド、コンヤ、エルサレム、エディルネなどの地で、慈善事業として沢山の施設を建設させました。
特に有名なのが、イスタンブールの旧市街にある1538~1551年に建築家ミマール・シナンに造らせたハマム、マドラサ、病院のある施設ハセキ複合施設群です。この病院は現在までトルコで最も長く運営されている病院となっています。現在は国立総合病院となり引きつづき市民へ医療サービスを提供しています。
また、スルタンアフメット歴史地区のアヤソフィアとブルーモスクの間には、同じくミマール・シナンに造らせた立派なハマムもあります。
なお、このヒュッレムの波乱万丈な人生はヨーロッパやロシアにも影響し、彼女の死後こぞって小説、オペラ、演劇など多くの作品が生み出されました。
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スレイマン1世はヒュッレムの見た目の美しさだけではなく、賢明さと笑顔に惚れ込んでいたと言います。
アジアとヨーロッパの魅力を併せ持った、トルコ美人
皇帝スレイマンがヒュッレムのためにそれまでの慣習をいとも簡単に破るほど熱愛し、またヒュッレムが権謀術数を張り巡らして次々とライバルたちを退けて急速に権力を手に入れていったことから魔術を使ったとの噂までたち、ヒュッレムは人々の間で魔女・魔術師と呼ばれていたと言います。
このような偉業はスレイマンとヒュッレムの愛の結びつきでもありますが、ヒュッレムに対する盲目的な愛によるものというよりも、ヒュッレム自身の魅力と実力もあったのかと思われます。
1510年代後半、アレクサンドラが14歳くらいの時、故郷の村がクリミア・タタール人の襲撃にあいます。彼女は村から連れ去られて奴隷貿易で売られ、オスマン帝国のイスタンブールに連れて行かれてしまいました。そしてスレイマン1世の一番の近臣イブラヒム・パシャに買われてハレムに入り教育をうけさせられたと言われています。
ハレムに入った後、イスラム教に改宗し、“陽気で朗らか”を意味する「ヒュッレム」に改名しました。
スレイマン1世が1520年に即位する前のまだ皇太子だったころに、ハレムの中でも知性と才能で頭角を現したヒュッレムは、スレイマンの母で皇太后ハフサ・スルタンまたはイブラヒム・パシャによりスレイマン1世に献上されました。
ヒュッレムがハレムに入った時には、既にスレイマン1世には第一夫人マヒデヴランとの間に皇子ムスタファがおり、後継者とその母として不動の地位を確立していました。しかし、ヒュッレムは陽気さと聡明さですぐにスレイマン1世の寵愛と信頼を得ることに成功し、1521年に皇子メフメットを、続けて皇女ミフリマー、皇子アブドゥラー、皇子セリム2世、皇子バヤズィト、皇子ジハンギルの5男1女をもうけるのです。
これでヒュッレムは、それまで皇帝の唯一の皇子の母という不動の地位を持っていた第一夫人マヒデヴランの座を奪うことに成功しました。
イスラム教「イスラーム」をどこよりも分かりやすく解説!教典の教え、食事・礼拝・服装ルールなど
この処分は、お互いが口論となりマヒデヴランがヒュッレムを引っ搔き傷つけたのが理由ですが、実はヒュッレムが自分の顔に引っ掻き傷をつけて、それをマヒデヴランが傷をつけたかのようにスレイマン1世に思い込ませたと言われています。
1534年に皇帝の母ハフサ・スルタンが死去すると、ヒュッレムのハレムでの影響力が高まり、ハレムの支配権を彼女が握ることになりました。それに加えてスレイマン1世の相談相手としても大きな信頼を得ることに成功します。
同年1534年、スレイマン1世と帝国史上初めて正式に婚姻を結んだことで、ヒュッレムは帝国最盛期を築いた最も偉大で、当時の世界で最も力を持った皇帝の正妃「ハセキ・スルタン」の地位を得ました。
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帝国の女性の中で最も権力を持ったヒュッレムは、皇位継承権にも関わるようになりました。また、それまでの伝統を破り、息子が地方に赴任しても一緒に行かずに宮殿にとどまり、スレイマン1世のそばに居続けたのです。
そして、ヒュッレムの息子ではなくマヒデヴランの息子を次期スルタンに推していたスレイマン1世の寵臣・大宰相イブラヒム・パシャが1536年3月に処刑されたことで、ヒュッレムのライバルはいなくなりました。イブラヒムの処刑にもヒュッレムが関与していたとも言われ、この出来事からヒュッレムは国政に関与し始めるようになったと広く知られています。
1541年1月25日の夜、それまでハレムがあったエスキ・サライ(旧宮殿)で火災が起きたことで、ヒュッレムの意向を汲んでスレイマン1世はスルタンの居住地で執政の場であったトプカプ宮殿(新宮殿)を増築させてハレムを移し、ヒュッレムと自身の家族を住まわせました。これにより新たなハレムの慣習が始まったのです。
ヒュッレムは、スレイマン1世が遠征中に帝国内や町の状況を知らせたり、皇位継承、皇子達の赴任地、大宰相の任命、スレイマンの長子ムスタファの処刑にも関与したり、また外国の王であるポーランド王国の新王即位にお祝いの書簡を送ったりするなど、帝国史上最初で唯一のハセキ・スルタンであり、すべてが革新的でした。
また、イスタンブール、エディルネ、アナトリア各地、メッカからエルサレムなどの遠隔地まで、自身の名で炊き出しや配給を行う施設イマレット(imaret)、複合施設群キュリイェ(külliye)などの公共施設を建設し、慈善事業も数多く行っています。
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死因は、
ドーム型の霊廟の中は、楽園が描かれた素晴らしいイズニックタイルが張り巡らされています。
しかし残念ながら、
まず後継者になることはない三男(異母兄ムスタファを入れると四男)でしたが、父スレイマンが存命のうちに他の男兄弟がみんな処刑・死去したため、彼に皇位がめぐって来たのです。
ただ、セリム2世はスルタンとしての素質はなく、酒好きでいつも酔っぱらっている状態であったため、娘婿で才のある大宰相ソコルル・メフメッド・パシャに政務を任せっきりの状態でした。
残念ながら帝国史上初めて国政に関与せずにすべてを宰相たちに委ね、遠征にも軍を率いて行かなかった皇帝だったのです。そして、オスマン帝国はこの時代から徐々に衰退への道をたどることになります。
彼の最期は1574年50歳の時、なんとハマムで転倒して肺胞の出血による死亡という、戦場で亡くなった父スレイマンとは全く違うなんとも哀れな生涯の閉じ方でした。そんな彼の霊廟はアヤソフィア・モスクの敷地内に建てられています。
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また、エディルネの町にはセリム2世が自身の名で建築家ミマール・シナンに建てさせたセリミエ・モスクがあります。壮麗なこのモスクは、ミマール・シナン自身及びオスマン建築の最高傑作でもあり、2011年にユネスコ世界文化遺産にも登録されました。
セリミエ・モスク(文化遺産・2011年)
1539年17歳の時にリュステム・パシャと結婚すると、夫を出世させるために母ヒュッレムと共に尽力します。そして、後にリュステム・パシャは15年間大宰相の地位につき帝国に財をもたらすことに成功するのです。
なお、ミフリマーの弟たちが父の後に皇帝の座に就くように、母と夫と共に施策をめぐらせ陰謀を行うこともしました。
また、父スレイマン1世にマルタ遠征実行を説得させたり、母ヒュッレムと同様にポーランド王国の王ジグムント2世と親書を交わしたりと内政にも外交にも勢力を及ぼします。
1588年に母ヒュッレムが死去した後は、母の代わりに父スレイマン1世のアドバイザーとしての役割を果たし、1566年父スレイマン1世の死去に伴い即位した2歳違いの弟セリム2世の治世中は常に相談役となり、母ヒュッレムが死去していたため母后の役目も担いました。
弟セリム2世とその息子ムラド3世の治世、ミフリマーは1573年に亡くなるまで帝国で最も権力と財を持った女性でした。ミフリマーの亡骸は、スレイマン霊廟内の父スレイマンのすぐ横に埋葬されています。
ちなみに、ミマール・シナンはこのミフリマー・スルタンに恋焦がれていたと言い、彼はイスタンブールアジア側のウスキュダルとヨーロッパ側旧市街にミフリマー・スルタン・モスクを造っています。
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ドラマでは、主役ヒュッレムがハレム内で奴隷から皇后になるまでの地位を築いて権力をふるっていく様子が描かれますが、シーズン4の79話で彼女は病死します。
そのため母国語はドイツ語で英語も流暢ですが、トルコ語はそこそこ話せる程度であまり得意ではありません。
2008年から役者活動を始めた彼女は、2011年にオーディションを勝ち抜き、『オスマン帝国外伝』の主役ヒュッレム役の座に大抜擢されたのです。
その美貌とはつらつとした陽気さ、迫力のある演技、存在感、そしてたどたどしいトルコがまさにヒュッレムに適役で、テレビの中の彼女に誰もが釘付けになったこと間違いないでしょう。
メルィエム・ウゼルリの降板の理由は燃え尽き症候群とも言われていましたが、実はお腹に子供が宿っていたのです。降板してすぐドイツに帰国すると共に、公に付き合っていたトルコ人の恋人との子を妊娠したことが原因で彼と破局したことを発表。元彼氏は認知せず、2014年に未婚のシングルマザーとして女の子を出産したのです。
2021年にも未婚・父親非公表のまま第二子を出産し、女優とモデルの仕事をしながら現在ベルリンでシングルマザーのまま二児を育てています。彼女は現実でもヒュッレムに負けないパワフルな女性なのです。
ちなみに、シーズン4で晩年のヒュッレムを演じたヴァヒデ・ペルチンは、現地では誰もが知るトルコ人ベテラン有名女優です。メルイェムよりも18歳年上の彼女は、見た目もゴージャスさもメルイェムに全く劣らず、年老いたヒュッレムを貫禄いっぱいに演じ視聴者を引き続き魅了しました。
1536年3月14日、宮殿に招待されて部屋で就寝していたイブラヒム・パシャは、スレイマン1世の命で絞殺されます。敵対していたヒュッレムが彼を処刑に追い込んだという説もありますが、イブラヒム・パシャは当時スルタンと同等の権力をもつほど力を付け、傲慢な態度とちょっとしたミスを起こしたことで処刑されたと言われています。
ヒッタイト時代を描いた『天は赤い河のほとり』で有名な篠原千絵さんの漫画『夢の雫、黄金の鳥籠』では、スレイマン1世の寵妃となったヒュッレムがイブラヒム・パシャとドキドキな恋愛関係(不倫)になります。しかし、残念ながらこれは創作であり、事実ではありません。
オスマン帝国スルタンの居住と執政の場が「トプカプ宮殿」でした。いわゆる巨大なオスマン帝国の心臓部がここだったのです。
実は、後宮ハレムはスレイマン1世の治世1541年まで、グランドバザールの西側ベヤズット広場から現イスタンブール大学の辺にあったエスキ・サライ(旧宮殿)にありました。ヒュッレムが奴隷として入り、スレイマン1世に献上されたのもこのエスキ・サライです。
1541年にエスキ・サライが大火災にあったため、ヒュッレムの口添えで今までの伝統を覆して当時新宮殿と呼ばれていたトプカプ宮殿を増築させてハレムを移しました。
ヒュッレムとスレイマン大帝が住んでいた大帝国の中心トプカプ宮殿を訪れて、オスマン帝国の息吹をぜひ感じてみてください。
※ミュージアムカードは宮殿入場のみに利用可能。ハレムとアヤ・イリニへの使用不可。
※チケット売り場は、第一庭園を抜けて第二庭園へ入る「儀礼の門」の手前。
※上記は2022年1月時点の料金です。不定期で値上げが行われますのでご注意ください。
※8歳以下のお子様は入場無料です。
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ビザンツ帝国の首都コンスタンティノープルの公衆浴場「ゼウクシッポス浴場」が元々あった場所に1665~1667年に造られ、当時このハマムでの収入がアヤソフィアへ寄与されていました。オスマン建築上初めて男用・女用が軸対象に造られたハマムでもあります。
1910年までハマム、その後は刑務所、紙・燃料倉庫として使われ、1957~1958年に修復された後、2007年まで絨毯店舗として使われていました。
2008年から大改修を行い2011年に新オープンしたヒュッレム・スルタン・ハマムは、イスタンブールを訪れる観光客に大変人気のスポットです。高級ハマムですので料金はユーロ表記で少し高いですが、深い歴史のあるこのハマムで垢すりやマッサージをしてもらえば、まさにスルタンになった気分になること間違いありません。是非体験してみてください。
元々女性専用の市場があったイスタンブール旧市街ハセキ地区に、1551年から12年間かけてミマール・シナンが帝国の建設局長となって初めて造った施設でもあります。
中でも医療機関は何度も再建されながら現在まで続くイスタンブールで最古の病院であり、今も国立病院として活躍しています。
ヒュッレムの夫のオスマン帝国10代目皇帝スレイマン1世が、自身の名で建築家ミマール・シナンに造らせたモスクです。
帝国を最盛期に導いたスレイマン大帝の権力の象徴とも言える壮大なモスクで、同じ敷地内にマドラサ、図書館、病院、初等教育学校、ハマム、公共厨房、墓地、店舗が併設された複合施設でもあります。
モスクの中庭には、スレイマン1世の霊廟とヒュッレムの霊廟が隣同士で建っており、またミマール・シナンの霊廟も同敷地内に作られています。
ヒュッレムの時代にまつわる場所として絶対に欠かせない観光名所ですので、ぜひ訪れてみてください。
スレイマニエ・モスク(スレイマニエ ジャーミィ)はイスタンブールの人気観光名所
実はヒュッレムは、トルコ人ではなく外国から連れてこられた少女でした。
一人の少女がどのように帝国で権力を手に入れて魔性の女と呼ばれるようにまでなったのか、その生い立ちや皇帝との出会い、功績などご紹介しながらヒュッレムについて徹底解説致します!
目次
【3分で理解】ヒュッレムとは何者か?
本名・幼名 | アレクサンドラ・アナスタシア・リソフスカ |
通称 | ロクセラーナ(ヨーロッパでは“ルーシの人”を意味するこの名で有名) |
オスマン帝国での名 | ヒュッレム・ハセキ・スルタン(Hürrem Haseki Sultan) |
出身地 | 東スラブ、ウクライナのルテニア地方ロハティン |
誕生年 | 1502~1506年頃 |
死去 | 1558年4月15日 享年52~56歳、イスタンブールのトプカプ宮殿にて |
オスマン帝国の壮麗帝スレイマン1世に寵愛された
ヒュッレムは女奴隷として連れてこられたオスマン帝国宮殿のハレムの世界で頭角を現し、皇帝スレイマン1世の寵愛を一身に受け、正妃の座にのし上がった女性です。元々の名はアレクサンドラといい、彼女はキリスト教徒でしたが、宮殿に入った後にイスラム教に改宗し、 “陽気で朗らかな人”を意味する「ヒュッレム(Hürrem)」の名を授かりました。
それまでのオスマン帝国の伝統では、皇帝の男子を産んだ女性は皇帝の寵から下がるのが慣例でしたが、ヒュッレムは男の子を生んだ後も寵を受け、立て続けに6人の子をもうけます。そして前例を破って正式に皇帝と婚姻を結んで正妃になった帝国史上初めての女性でした。
スレイマン1世の何がスゴイのか?オスマン帝国の最盛期を築いた壮麗帝
権謀術数を張り巡らして女人政治を確立

奴隷の身でハレムに入り一生を過ごす女性にとって、この状況から抜け出す唯一の術は皇帝の寵愛を受けて男子をもうけ、その子を皇帝に就けて母后となることでした。
ヒュッレムがハレムに入った時には既に皇子ムスタファを産んで第一夫人となっていたマヒデヴランがいました。また彼女の後ろ盾となっていた皇帝の母ハフサ・ハトゥン、そして大宰相イブラヒム・パシャ、この3人がヒュッレムにとっての敵となっていたのです。
ヒュッレムはこのような自分の地位を脅かしたり、邪魔となるライバルや敵をさまざまな権謀術数によって次々と失脚させながら、自分の地位を向上させて後継者争いに勝ち上がり、帝国内の女性の中の頂点に立ったのです。
当時のオスマン帝国は絶世期でしたので、世界一の女性にのし上がったと言っても過言ではありません。
権力を持ったヒュッレム・スルタンは、オスマン帝国史上初めて国政に、それだけでなく外交にも関与した女性となりました。
母后ヴァリデ・スルタンや皇帝の第一夫人としてハレムの住人である女性が権力を持ち、国政や後継者争いに関わる「女人政治」の時代をヒュッレム・スルタンが切り開いたのです。
オスマン帝国623年の歩みを全解説!世界を揺るがせた大帝国の繁栄と滅亡
積極的な寄進(ワクフ)により芸術・文化の発展に貢献

ヒュッレム・スルタンは、カーバ、ダマスカス、バグダッド、コンヤ、エルサレム、エディルネなどの地で、慈善事業として沢山の施設を建設させました。
特に有名なのが、イスタンブールの旧市街にある1538~1551年に建築家ミマール・シナンに造らせたハマム、マドラサ、病院のある施設ハセキ複合施設群です。この病院は現在までトルコで最も長く運営されている病院となっています。現在は国立総合病院となり引きつづき市民へ医療サービスを提供しています。
また、スルタンアフメット歴史地区のアヤソフィアとブルーモスクの間には、同じくミマール・シナンに造らせた立派なハマムもあります。
なお、このヒュッレムの波乱万丈な人生はヨーロッパやロシアにも影響し、彼女の死後こぞって小説、オペラ、演劇など多くの作品が生み出されました。
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ヒュッレムは本当に美人だったのか?
ウクライナ出身のヒュッレムは、「赤毛で緑眼で白い肌」であったと当時のヨーロッパ諸国の大使たちにより記録されています。絶世の美女というわけではなかったようですが、賢く愛嬌と愛想があって、明るく幸せそうなポジティブさを持つ女性だったようです。スレイマン1世はヒュッレムの見た目の美しさだけではなく、賢明さと笑顔に惚れ込んでいたと言います。
アジアとヨーロッパの魅力を併せ持った、トルコ美人
ヒュッレムが魔性の女と呼ばれた理由
By Роксолана-Хюррем - Own work, CC BY-SA 4.0, Link
皇帝スレイマンがヒュッレムのためにそれまでの慣習をいとも簡単に破るほど熱愛し、またヒュッレムが権謀術数を張り巡らして次々とライバルたちを退けて急速に権力を手に入れていったことから魔術を使ったとの噂までたち、ヒュッレムは人々の間で魔女・魔術師と呼ばれていたと言います。
このような偉業はスレイマンとヒュッレムの愛の結びつきでもありますが、ヒュッレムに対する盲目的な愛によるものというよりも、ヒュッレム自身の魅力と実力もあったのかと思われます。
型破りなヒュッレムの成し遂げた革新
- 帝国史上初めて奴隷の身分からスルタンと法的に婚姻関係を結び正妃となり、「ハセキ・スルタン」となった。
- 皇子の赴任に同行し息子がスルタンに即位しない限り帰京が叶わない掟の中、息子の赴任に同行せずにイスタンブールでスルタンのそばにとどまった
- 旧宮殿からスルタンの居住地トプカプ宮殿へハレムを移し、スルタンのそばに居住した。
- 自身の印章を作り、外国の王と直接手紙のやり取りをした。
- 皇権争いや国政に関与した。
- 史上初めて正妃となったことで、君主・王の意味をもつ「シャー」の称号を使用した。署名には「ヒュッレム・シャー」を使用。
- 閣僚会議を隠れて小窓からのぞき、スルタンに陳述。
ヒュッレムの波乱万丈の生涯
皇女でもなくイスタンブールから遠いウクライナの地で生まれた少女ヒュッレムが、奴隷となり、ハレムに入り、帝国及び世界の女性の頂点に立つなど、当時誰が予想できたでしょうか。下剋上を成し遂げた彼女の波乱万丈な人生をご紹介いたします。生い立ち
ヒュッレムの出自は明確にはわかっておりませんが、現ウクライナのルテニア地方ロハティンに住む貧しい正教会司祭の娘として1504~1506年頃に生まれ、名はアレクサンドラ・リソフスカ(Alexandra Lisowska)であったと言われています。女奴隷としてハレムへ、そしてスレイマン1世のもとへ

1510年代後半、アレクサンドラが14歳くらいの時、故郷の村がクリミア・タタール人の襲撃にあいます。彼女は村から連れ去られて奴隷貿易で売られ、オスマン帝国のイスタンブールに連れて行かれてしまいました。そしてスレイマン1世の一番の近臣イブラヒム・パシャに買われてハレムに入り教育をうけさせられたと言われています。
ハレムに入った後、イスラム教に改宗し、“陽気で朗らか”を意味する「ヒュッレム」に改名しました。
スレイマン1世が1520年に即位する前のまだ皇太子だったころに、ハレムの中でも知性と才能で頭角を現したヒュッレムは、スレイマンの母で皇太后ハフサ・スルタンまたはイブラヒム・パシャによりスレイマン1世に献上されました。
ヒュッレムがハレムに入った時には、既にスレイマン1世には第一夫人マヒデヴランとの間に皇子ムスタファがおり、後継者とその母として不動の地位を確立していました。しかし、ヒュッレムは陽気さと聡明さですぐにスレイマン1世の寵愛と信頼を得ることに成功し、1521年に皇子メフメットを、続けて皇女ミフリマー、皇子アブドゥラー、皇子セリム2世、皇子バヤズィト、皇子ジハンギルの5男1女をもうけるのです。
これでヒュッレムは、それまで皇帝の唯一の皇子の母という不動の地位を持っていた第一夫人マヒデヴランの座を奪うことに成功しました。
イスラム教「イスラーム」をどこよりも分かりやすく解説!教典の教え、食事・礼拝・服装ルールなど
ライバルを退けて正妃となる
第一夫人マヒデヴランは、ヒュッレムにとって一番のライバルでした。二人のにらみ合いはヒュッレムの画策により、マヒデヴランがスレイマン1世を怒らせて、宮殿から息子ムスタファが太守として赴任していたマニサへ追放されたことで終わります。この処分は、お互いが口論となりマヒデヴランがヒュッレムを引っ搔き傷つけたのが理由ですが、実はヒュッレムが自分の顔に引っ掻き傷をつけて、それをマヒデヴランが傷をつけたかのようにスレイマン1世に思い込ませたと言われています。
1534年に皇帝の母ハフサ・スルタンが死去すると、ヒュッレムのハレムでの影響力が高まり、ハレムの支配権を彼女が握ることになりました。それに加えてスレイマン1世の相談相手としても大きな信頼を得ることに成功します。
同年1534年、スレイマン1世と帝国史上初めて正式に婚姻を結んだことで、ヒュッレムは帝国最盛期を築いた最も偉大で、当時の世界で最も力を持った皇帝の正妃「ハセキ・スルタン」の地位を得ました。
スルタンとは?イスラム教国の支配者の称号やオスマン帝国の代表的な皇帝
ハレムでの活躍

帝国の女性の中で最も権力を持ったヒュッレムは、皇位継承権にも関わるようになりました。また、それまでの伝統を破り、息子が地方に赴任しても一緒に行かずに宮殿にとどまり、スレイマン1世のそばに居続けたのです。
そして、ヒュッレムの息子ではなくマヒデヴランの息子を次期スルタンに推していたスレイマン1世の寵臣・大宰相イブラヒム・パシャが1536年3月に処刑されたことで、ヒュッレムのライバルはいなくなりました。イブラヒムの処刑にもヒュッレムが関与していたとも言われ、この出来事からヒュッレムは国政に関与し始めるようになったと広く知られています。
1541年1月25日の夜、それまでハレムがあったエスキ・サライ(旧宮殿)で火災が起きたことで、ヒュッレムの意向を汲んでスレイマン1世はスルタンの居住地で執政の場であったトプカプ宮殿(新宮殿)を増築させてハレムを移し、ヒュッレムと自身の家族を住まわせました。これにより新たなハレムの慣習が始まったのです。
ヒュッレムは、スレイマン1世が遠征中に帝国内や町の状況を知らせたり、皇位継承、皇子達の赴任地、大宰相の任命、スレイマンの長子ムスタファの処刑にも関与したり、また外国の王であるポーランド王国の新王即位にお祝いの書簡を送ったりするなど、帝国史上最初で唯一のハセキ・スルタンであり、すべてが革新的でした。
また、イスタンブール、エディルネ、アナトリア各地、メッカからエルサレムなどの遠隔地まで、自身の名で炊き出しや配給を行う施設イマレット(imaret)、複合施設群キュリイェ(külliye)などの公共施設を建設し、慈善事業も数多く行っています。
ハレムは男子禁制の秘密の花園?!本来の意味やオスマン帝国ハレムの実態
ヒュッレムの最期|死因は?
ヒュッレムは、スレイマン1世とエディルネを訪れそのイスタンブールへの帰路にて病に倒れます。間もなくヒュッレムは、息子がスルタンに即位するのを見ることなく、スレイマン1世よりも8年早い1558年5月15日にトプカプ宮殿にて、享年54歳で死去しました。死因は、
- マラリアによる高熱
- インフルエンザ
- 心臓病
- 慢性的な筋膜性疼痛症候群、
- 毒殺
ヒュッレム・スルタンが眠る霊廟
彼女の遺体はスレイマニエ・モスクの内庭に埋葬され、その上にスレイマン1世の命で建築家ミマール・シナンによってヒュッレム・スルタン霊廟が造られました。スレイマン1世の霊廟と並んで建っており、現在一般参拝可能です。ドーム型の霊廟の中は、楽園が描かれた素晴らしいイズニックタイルが張り巡らされています。
名称 | ヒュッレム・スルタンの霊廟(Hürrem Sultan Türbesi) |
場所 | Süleymaniye, Prof. Sıddık Sami Onar Cd. No:1, 34116 Fatih/İstanbul ※スレイマニイエ・モスクの敷地内。スレイマン1世霊廟の隣。 |
定休日 | なし |
開館時間 | 9:00~17:30 |
注意点 | イスラムの霊廟ですので、露出の多い服装はお控えください。 入場は土足禁止です。 写真撮影は可能ですが、フラッシュは禁止です。 慰霊に訪れる方も多いので、静かに見学してください。 |
ヒュッレムの子孫
ヒュッレムは皇帝スレイマン1世との間に、皇子メフメット、皇女ミフリマー、皇子アブドゥラー、皇子セリム2世、皇子バヤズィト、皇子ジハンギルの5男1女と多くの子に恵まれます。しかし残念ながら、
- 長男メフメットは天然痘にかかり1543年22歳の若さで死去
- 次男アブドゥッラ―は1524年にたった2歳で死去
- 四男バヤズットは三男セリムと後継者争いの末に暗殺され1561年35歳で死去
- 五男ジハンギルはとてもナーバスな性格だったため、異母兄で最年長のムスタファが処刑されたショックで神経衰弱(心臓発作?)になり1553年22歳の若さで死去
セリム2世(1524~1574年/在位1566~1574年)
最終的に後継者として残ったのが、三男のセリムです。彼は1566年の父・皇帝スレイマン1世の死去に伴い、42歳の時にセリム2世として第11代皇帝および第90代カリフに即位しました。まず後継者になることはない三男(異母兄ムスタファを入れると四男)でしたが、父スレイマンが存命のうちに他の男兄弟がみんな処刑・死去したため、彼に皇位がめぐって来たのです。
ただ、セリム2世はスルタンとしての素質はなく、酒好きでいつも酔っぱらっている状態であったため、娘婿で才のある大宰相ソコルル・メフメッド・パシャに政務を任せっきりの状態でした。
残念ながら帝国史上初めて国政に関与せずにすべてを宰相たちに委ね、遠征にも軍を率いて行かなかった皇帝だったのです。そして、オスマン帝国はこの時代から徐々に衰退への道をたどることになります。
彼の最期は1574年50歳の時、なんとハマムで転倒して肺胞の出血による死亡という、戦場で亡くなった父スレイマンとは全く違うなんとも哀れな生涯の閉じ方でした。そんな彼の霊廟はアヤソフィア・モスクの敷地内に建てられています。
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また、エディルネの町にはセリム2世が自身の名で建築家ミマール・シナンに建てさせたセリミエ・モスクがあります。壮麗なこのモスクは、ミマール・シナン自身及びオスマン建築の最高傑作でもあり、2011年にユネスコ世界文化遺産にも登録されました。
セリミエ・モスク(文化遺産・2011年)
ミフリマー・スルタン(1522~1578年)
スレイマン1世とヒュッレムの長女として生まれたミフリマーは、母ヒュッレムに負けず劣らず常に国政に関与した帝国史上最もパワフルな皇女でした。1539年17歳の時にリュステム・パシャと結婚すると、夫を出世させるために母ヒュッレムと共に尽力します。そして、後にリュステム・パシャは15年間大宰相の地位につき帝国に財をもたらすことに成功するのです。
なお、ミフリマーの弟たちが父の後に皇帝の座に就くように、母と夫と共に施策をめぐらせ陰謀を行うこともしました。
また、父スレイマン1世にマルタ遠征実行を説得させたり、母ヒュッレムと同様にポーランド王国の王ジグムント2世と親書を交わしたりと内政にも外交にも勢力を及ぼします。
1588年に母ヒュッレムが死去した後は、母の代わりに父スレイマン1世のアドバイザーとしての役割を果たし、1566年父スレイマン1世の死去に伴い即位した2歳違いの弟セリム2世の治世中は常に相談役となり、母ヒュッレムが死去していたため母后の役目も担いました。
弟セリム2世とその息子ムラド3世の治世、ミフリマーは1573年に亡くなるまで帝国で最も権力と財を持った女性でした。ミフリマーの亡骸は、スレイマン霊廟内の父スレイマンのすぐ横に埋葬されています。
ちなみに、ミマール・シナンはこのミフリマー・スルタンに恋焦がれていたと言い、彼はイスタンブールアジア側のウスキュダルとヨーロッパ側旧市街にミフリマー・スルタン・モスクを造っています。
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【ネタバレ注意】ドラマ『オスマン帝国外伝』のヒュッレム
日本でも大反響となった全139回のトルコ長編大河ドラマ『オスマン帝国外伝』は、オスマン帝国の全盛期を築いた第10代皇帝スレイマン大帝と奴隷から皇后に上り詰めた寵姫ヒュッレムを中心に、トプカプ宮殿内とハレムで繰り広げる愛と陰謀と欲望が渦巻く歴史超大作です。ドラマでは、主役ヒュッレムがハレム内で奴隷から皇后になるまでの地位を築いて権力をふるっていく様子が描かれますが、シーズン4の79話で彼女は病死します。
ヒュッレム役の女優メルイエム・ウゼルリとは?
ヒュッレム役に大抜擢され一躍有名になり、トルコでも世界でも名が知れ渡った女優メルェム・ウゼルリ(Meryem Uzerli)は、トルコ人の父とドイツ人の母を持つ1983年8月21日生まれのトルコ系ドイツ人です。そのため母国語はドイツ語で英語も流暢ですが、トルコ語はそこそこ話せる程度であまり得意ではありません。
2008年から役者活動を始めた彼女は、2011年にオーディションを勝ち抜き、『オスマン帝国外伝』の主役ヒュッレム役の座に大抜擢されたのです。
その美貌とはつらつとした陽気さ、迫力のある演技、存在感、そしてたどたどしいトルコがまさにヒュッレムに適役で、テレビの中の彼女に誰もが釘付けになったこと間違いないでしょう。
メルイエム・ウゼルリが降板したのはなぜ?
2011年に始まった『オスマン帝国外伝』が高視聴率で順調に進んでいた中、2013年のシーズン3の最終回で行方不明になっていたヒュッレムが戻ってきたとき、ヒュッレム役の女優がヴァヒデ・ペルチン(Vahide Perçin)に突然交代しました。メルィエム・ウゼルリの降板の理由は燃え尽き症候群とも言われていましたが、実はお腹に子供が宿っていたのです。降板してすぐドイツに帰国すると共に、公に付き合っていたトルコ人の恋人との子を妊娠したことが原因で彼と破局したことを発表。元彼氏は認知せず、2014年に未婚のシングルマザーとして女の子を出産したのです。
2021年にも未婚・父親非公表のまま第二子を出産し、女優とモデルの仕事をしながら現在ベルリンでシングルマザーのまま二児を育てています。彼女は現実でもヒュッレムに負けないパワフルな女性なのです。
ちなみに、シーズン4で晩年のヒュッレムを演じたヴァヒデ・ペルチンは、現地では誰もが知るトルコ人ベテラン有名女優です。メルイェムよりも18歳年上の彼女は、見た目もゴージャスさもメルイェムに全く劣らず、年老いたヒュッレムを貫禄いっぱいに演じ視聴者を引き続き魅了しました。
ヒュッレムと太宰相イブラヒム・パシャの関係
スレイマン1世の寵臣であり当時権力を強めていた大宰相イブラヒム・パシャは、ヒュッレムの息子達ではなくマヒデヴランの息子ムスタファをスルタンの後継者として推していたことからヒュッレムと対立していました。1536年3月14日、宮殿に招待されて部屋で就寝していたイブラヒム・パシャは、スレイマン1世の命で絞殺されます。敵対していたヒュッレムが彼を処刑に追い込んだという説もありますが、イブラヒム・パシャは当時スルタンと同等の権力をもつほど力を付け、傲慢な態度とちょっとしたミスを起こしたことで処刑されたと言われています。
ヒッタイト時代を描いた『天は赤い河のほとり』で有名な篠原千絵さんの漫画『夢の雫、黄金の鳥籠』では、スレイマン1世の寵妃となったヒュッレムがイブラヒム・パシャとドキドキな恋愛関係(不倫)になります。しかし、残念ながらこれは創作であり、事実ではありません。
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宮殿の中の権力争いだけでなく、慈善事業にも力を尽くしたヒュッレム・スルタンにまつわる建物は、トルコに沢山あります。中でもイスタンブールので有名な物をピックアップしてご紹介いたしますので、ぜひご自身の足で訪れてご覧になり、ヒュッレムの生きた世界を肌で感じてください!トプカプ宮殿

オスマン帝国スルタンの居住と執政の場が「トプカプ宮殿」でした。いわゆる巨大なオスマン帝国の心臓部がここだったのです。
実は、後宮ハレムはスレイマン1世の治世1541年まで、グランドバザールの西側ベヤズット広場から現イスタンブール大学の辺にあったエスキ・サライ(旧宮殿)にありました。ヒュッレムが奴隷として入り、スレイマン1世に献上されたのもこのエスキ・サライです。
1541年にエスキ・サライが大火災にあったため、ヒュッレムの口添えで今までの伝統を覆して当時新宮殿と呼ばれていたトプカプ宮殿を増築させてハレムを移しました。
ヒュッレムとスレイマン大帝が住んでいた大帝国の中心トプカプ宮殿を訪れて、オスマン帝国の息吹をぜひ感じてみてください。
名称 | トプカプ宮殿(Topkapı Sarayı) |
場所 | Cankurtaran, 34122 Fatih-İstanbul ※トラムT1線「スルタンアフメット駅」徒歩8分、または「ギュルハーネ駅」徒歩10分、アヤソフィア裏側(北側) |
定休日 | 火曜日 |
休館日 | 元旦、砂糖祭の初日、犠牲祭の初日 |
開館時間 | 9:00~18:00 ※チケット販売およびハレム開館は17:00まで |
入場料 | チケット1(トプカプ宮殿+アヤ・イリニ):200TL チケット2(トプカプ宮殿+アヤ・イリニ+ハレム):285TL ハレム:100TL アヤ・イリニ:80TL |
公式HP | https://www.millisaraylar.gov.tr/en/palaces/topkapi-palace(英語) |
※チケット売り場は、第一庭園を抜けて第二庭園へ入る「儀礼の門」の手前。
※上記は2022年1月時点の料金です。不定期で値上げが行われますのでご注意ください。
※8歳以下のお子様は入場無料です。
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アヤソフィア・ヒュッレム・スルタン・ハマム
アヤソフィアとブルーモスクの間にあるのが、アヤソフィア・モスクの財政源となることを目的にヒュッレムが建築家ミマール・シナンに造らせた「アヤソフィア・ヒュッレム・スルタン・ハマム」です。ビザンツ帝国の首都コンスタンティノープルの公衆浴場「ゼウクシッポス浴場」が元々あった場所に1665~1667年に造られ、当時このハマムでの収入がアヤソフィアへ寄与されていました。オスマン建築上初めて男用・女用が軸対象に造られたハマムでもあります。
1910年までハマム、その後は刑務所、紙・燃料倉庫として使われ、1957~1958年に修復された後、2007年まで絨毯店舗として使われていました。
2008年から大改修を行い2011年に新オープンしたヒュッレム・スルタン・ハマムは、イスタンブールを訪れる観光客に大変人気のスポットです。高級ハマムですので料金はユーロ表記で少し高いですが、深い歴史のあるこのハマムで垢すりやマッサージをしてもらえば、まさにスルタンになった気分になること間違いありません。是非体験してみてください。
名称 | アヤソフィア・ヒュッレム・スルタン・ハマム(Ayasofya Hürrem Sultan Hamamı) |
場所 | Cankurtaran Mah. Ayasofya Meydanı No:2 Fatih / İstanbul ※アヤソフィアとブルーモスクの間 |
定休日 | なし |
営業時間 | 8:00~22:00 |
電話番号 | +90 212 517 35 35 |
注意事項 | 前もって予約し、予約の15分前には受付しましょう。 腰巻タオル、石鹸など必需品あり。特に持参する物はありません。 6歳以下は入場不可。7~18歳は成人の保護者同伴必須。 心臓病、妊婦、生理中の方は不可。 |
公式HP | https://hurremsultanhamami.com/ |
ハセキ・スルタン・キュッリエスィ
ヒュッレムが女性や援助が必要な人々のために建築家ミマール・シナンに造らせた、モスクを中心にマドラサ、初等教育機関、泉、公共厨房・配給所、医療機関が併設された複合施設群です。元々女性専用の市場があったイスタンブール旧市街ハセキ地区に、1551年から12年間かけてミマール・シナンが帝国の建設局長となって初めて造った施設でもあります。
中でも医療機関は何度も再建されながら現在まで続くイスタンブールで最古の病院であり、今も国立病院として活躍しています。
名称 | ハセキ・スルタン・キュッリエスィ(Haseki Sultan külliyesi) |
場所 | Cerrahpaşa, 34096 Fatih/İstanbul ※トラムT1線「ハセキ駅」から約230m、徒歩約4分 |
注意事項 | 現在宗教局の管轄となっており、入場はできません。 |
スレイマニエ・モスク

ヒュッレムの夫のオスマン帝国10代目皇帝スレイマン1世が、自身の名で建築家ミマール・シナンに造らせたモスクです。
帝国を最盛期に導いたスレイマン大帝の権力の象徴とも言える壮大なモスクで、同じ敷地内にマドラサ、図書館、病院、初等教育学校、ハマム、公共厨房、墓地、店舗が併設された複合施設でもあります。
モスクの中庭には、スレイマン1世の霊廟とヒュッレムの霊廟が隣同士で建っており、またミマール・シナンの霊廟も同敷地内に作られています。
ヒュッレムの時代にまつわる場所として絶対に欠かせない観光名所ですので、ぜひ訪れてみてください。
名称 | スレイマニエ・モスク(Süleymaniye Camii) |
場所 | Süleymaniye, Prof. Sıddık Sami Onar Cd. No:1, 34116 Fatih/İstanbul ※トラム「Laleli(ラーレリ)駅」から約1㎞、徒歩約12分 |
定休日 | なし |
開館時間 | 9:00~18:00 ※礼拝時間以外 |
入場料 | なし |
注意事項 | 男女共にタンクトップやショートパンツなどの露出の多い服装は不可。 女性は頭に被るためのショールをご用意ください。 内部は土足禁止です。靴袋をご用意することをおすすめいたします。 写真撮影の際、フラッシュの使用は禁止です。 |
公式HP | https://hurremsultanhamami.com/ |
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