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トルコ旅行・ツアーブログ|トルコツアー旅行記

スレイマン1世の何がスゴイのか?オスマン帝国の最盛期を築いた壮麗帝


スレイマン1世は、世界を震撼させたオスマン帝国を最盛期に導いた偉大な皇帝です。彼は、46年という帝国史上最も長い治世の中で、帝国領土を東西へ広げて歴史に名を残す大帝国を作り上げました。

そんなスレイマン1世はどんな人物だったのか、彼の功績や生涯、彼を取り巻く女性や子女たちを紹介しながら、その波乱に満ちた足跡を辿ってみたいと思います。

スレイマン1世(スレイマン大帝)とは?

スレイマン1世
スレイマン1世は、オスマン帝国の第10代皇帝・スルタンであり、加えてイスラムの最高権威カリフも兼任していた人物です。父は先代皇帝セリム1世、母はクリミア・ハン国王女であったアイシェ・ハフサ・スルタンであり、26歳でスルタンに即位したスレイマン1世の在位は1520年~1566年の46年間でした。

スレイマン1世は、「壮麗帝(Suleiman the Magnificent)」「立法帝」とも評されるオスマン帝国の全盛期を築いた最も偉大な皇帝の一人です。トルコでは、立法帝を意味する「カーヌーニー・スルタン・スレイマン(Ḳānūnī Sulṭan Süleyman)」と一般的に呼ばれています。

ちなみに、「スレイマン」という名は、旧約聖書に出てくる古代イスラエル王“ソロモン”のトルコ語です。少し意外ですよね。

スレイマン1世の容姿に関しては、彼が即位した直後にヴェネツィア大使が以下のように記録しています。
  • 26歳、長身であるがしなやかで上品な見た目。
  • 首が普通より長く、顔は細く、鼻は鷲のくちばしの様に曲がっている。
  • 影のような口ひげと少しあごひげ有り。肌の艶は無いが顔は素敵である。肌は青白い傾向。
  • 賢い統治者であると言われており、皆が彼の治世が幸運となること願っている。

スレイマン1世の時代は華麗な面がある一方で、彼がハレムで寵愛したヒュッレムが権力を持つことから始まる女人政治はオスマン帝国の腐敗を招いた側面もあり、スレイマン1世以後、全盛期にあったオスマン帝国は衰退の道を辿ることになってしまいます。

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世界史に名を残したスレイマン1世の功績

  • 46年間と帝国史上最も長い統治期間において、13回もの対外遠征を行い、3大陸にまたがるまで領土を拡大(655万7,000平方kmから1,498万3,000平方kmへと帝国領地を最大に)。
  • 地中海、黒海、紅海の制海権を掌握。
  • ウィーン包囲:攻略は未遂に終わったが、オスマン帝国の脅威は全ヨーロッパを震撼させた。
  • イスラム教国であるオスマン帝国がプロテスタントであるフランスと軍事や通称における同盟を締結。この観念にとらわれない同盟は、当時として革新的で大変意義のあるものだった。
  • 立法者と評される通り、ティマール制の基盤となる検地、租税制度や州制度の整備など、オスマン帝国の統治システムをさらに強固にした。
  • 建築家ミマール=シナンによるスレイマニエ・モスクなど、芸術・建築文化の発展へ大きく貢献。

スレイマン1世の略年表

1494年11月6日 トルコ黒海地方トラブゾンにて誕生。
1501年(7歳) 教育のためにイスタンブールに移り、トプカプ宮殿のエンデルン学校へ。
1508年(14歳) シャルクカラヒサル(現ギレスン県)に行政官として赴任。その後、ボル、クリミアなどの各地へ行政官として赴任。
1513年(19歳) マニサのサルハン知事として赴任中に、後に大宰相となるパルガル・イブラヒム・パシャと出会い、側近にする。
1520年(26歳) 9月22日に父セリム2世死去の報を受け、イスタンブールへ。9月30日にオスマン帝国第10代スルタンに即位。
1521年(27歳) 5月18日に最初の遠征となるハンガリー王国遠征を開始。8月29日にベルグラードを攻略。
1522年(28歳) 12月16日にロードス島を攻略。それに伴い、地中海のボドルム、コス島、シミ島なども支配下に。
1523年(29歳) 6月27日に側近のイブラヒムを大宰相に任命。
1526年(32歳) 4月23日にハンガリー遠征へ出発。8月29日に「モハーチの戦い」にてハンガリー王国に勝利。9月11日にブダに侵攻。
1529年(35歳) 9月27日にウィーン包囲。包囲は17日間に及ぶが悪天候のため撤退。
1530年(36歳) 11月11日にオーストリア大使と面会するが合意に達せず、オーストリア遠征を決断。
1532年(38歳) 4月25日にオーストリア遠征へ。ドイツの地まで侵攻するも両者対峙することなく、同年11月にイスタンブールへ帰国。
1533年(39歳) 7月22日にオーストリア大公国とコンスタンティノープル条約を締結。
1533年(39歳) アルジェリア支配者バルバロス・ハイレッディンがオスマン帝国に従属。彼を海軍総督に任命。
1534年(40歳) サファヴィー朝討伐のために東部へ遠征。タブリーズそしてバグダッド攻略。
1536年(42歳) 2月18日にフランソワ1世下のフランスにカピチュレーションの恩恵を与え、フランス・オスマン帝国同盟を締結。3月15日に一番の側近である大宰相イブラヒム・パシャを処刑。海軍提督バルバロス率いる帝国海軍がヴェネツィア領の島々を攻略。
1538年(44歳) 9月27~28日にバルバロスがプレヴィザの海戦で十字軍艦隊に勝利。→オスマン帝国が地中海制海権を掌握。アラビア半島のイエメンを領土に併合。
1547年(53歳) 神聖ローマ帝国とアドリアノープルの和約を締結。→ハンガリーがオスマン帝国の領地として承認。
1548年(54歳) 再度イランに遠征してタブリーズに侵攻。ヴァン城を攻略して主知事の中央局とする。
1553年(59歳) 10月4日に第一皇太子ムスタファを処刑。
1555年(61歳) 5月29日にサファヴィー朝とアマスヤ講和を締結。停戦へ。
1557年(63歳) 6月7日に建築家ミマール・シナンに造らせたスレイマニエ・モスクが完成。
1558年(64歳) 寵妃ヒュッレム死去
1561年(67歳) 皇子ベヤズットを処刑。
1566年(71歳) 5月1日に13回目最後の遠征に出立。9月1日、ハンガリーのシゲトバール城包囲中に持病悪化により死去。

 
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スレイマン1世の生涯と治世

スレイマン1世がオスマン帝国をどのように最盛期に導いたのか、ここでスレイマン1世の波乱万丈な生涯をたどってみたいと思います。

生い立ち~即位

オスマン帝国 トプカプ宮殿
スレイマン1世は、1494年11月6日に黒海地方トラブゾンにて父セリム1世(当時はトラブゾン州知事)と母ハフサ・ハトゥンの息子として誕生しました。7歳でイスタンブールの祖父皇帝ベヤズット2世の元へ行きトプカプ宮殿にて教育を受けます。そして早くから長官や知事に任命され、各地に赴き政治的経験を積みます。

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マニサ知事をしていた時に、元奴隷で同じ歳のパルガル・イブラヒムと親友になり側近とします。このイブラヒムは後に大宰相までのぼり、スレイマンの右腕として帝国のために手腕を振るうことになるのです。

1520年に父セリム2世が死去しスルタンに即位すると、翌年にそれまでオスマン帝国が攻略できなかったベオグラード、さらにその翌年にはヨハネ騎士団がいるロードスを征服するなど早くから戦果をあげました。

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モハーチの戦いとウィーン包囲

スレイマン1世 ウィーン包囲 Tyssil, CC BY-SA 3.0, via Wikimedia Commons

1525年2月24日フランスと神聖ローマ帝国スペインがイタリア覇権をかけて戦ったパヴィアの戦いによって、スペインが勝利しフランス王フランソワ1世が捕虜となったことで、王フランソワ1世の母ルイーズ・ド・サヴォワがスレイマン1世に救援を懇願しました。

これをきっかけに、スレイマン1世は神聖ローマ帝国と戦うためにハンガリーへ向けての遠征を決意します。次々に町を攻略して行き、1526年8月29日ドナウ川沿岸で起こった「モハーチの戦い」にてオスマン帝国軍はラヨショ2世率いるハンガリー王国軍に勝利しました。

そしてスレイマン1世は、ハンガリー王国の新王にトランシルヴァニア公サポヤイ・ヤーノシュを就けます。

しかし、ハプスブルク家オーストリア大公国の王カール5世の弟フェルディナント1世は、ハンガリー王国の新王サポヤイ・ヤーノシュを王と認めずに、自らがハンガリー王と宣言します。そして、サポヤイ・ヤーノシュの群を破り、1527年8月20日にブダに入る際、オスマン帝国に税金を払う見返りにハンガリー国王として認めることを望むのです。

この要求を却下したスレイマン1世率いるオスマン帝国はハプスブルク家と対決することとなり、1529年にブダ遠征を行なってフェルディナント1世からブダを奪還し、再度トランシルヴァニア公サポヤイ・ヤーノシュをハンガリー王に就けました。

スレイマン1世はそのまま北上し、1529年9月27日にオーストリアに攻め込み「ウィーン包囲」を行います。しかし、寒冷期で悪天候のため包囲戦は上手くいかず、心配に終わりました。

第一回ウィーン包囲は失敗に終わりましたが、この遠征によってオスマン帝国の脅威をヨーロッパに広く植え付けることに成功しました。

その後、1532年に再度オーストリア遠征をしますが、またもウィーン侵略はできずに撤退し、1533年にオーストリア公国と「コンスタンティノープル条約」を結び停戦することになります。

これによりスレイマン1世が後援しているサポヤイ・ヤーノシュがオスマン帝国の宗主国ハンガリー王として正式に承認され、フェルディナント1世は実効支配していた西ハンガリー地域を領地として併合。また、皇帝を名乗れるのはオスマン帝国のスルタンのみとなりました。

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東方への遠征

スレイマン1世がハンガリー方面と争っている頃、アナトリアではイランのサファヴィー朝の後援によって原住勢力が反旗を振るい始めました。そして、1531年にオスマン帝国領であったワン湖北部ビトリスが、イランのサファヴィー朝シャー・タフマースブ1世に従属したことを宣言します。

これを受けて、スレイマン1世はサファヴィー朝の侵攻を防ぐためにイブラヒム・パシャを東方へ送り、自身はハプスブルク家との停戦で西部の脅威を食い止めた後、追って1534年6月11日にサファヴィー朝討伐へ出陣し、同年11月にはバグダッドを攻略しました。

しかし、逃げて対峙しないサファヴィー朝軍との正式な交戦なく、スレイマン1世は1536年1月にイスタンブールに帰ります。

最終的には、1555年にサファヴィー朝とアマスィヤで講和を締結し、同国の国境が決定されました。

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地中海制海権の掌握・フランスとの同盟

スレイマン1世 プレヴェザの海戦 Actia Nicopolis Foundation, CC BY 4.0, via Wikimedia Commons

オーストリア遠征中に起こったジェノバ提督アンドレア・ドーリア率いる神聖ローマ帝国艦隊のペロポネソス半島沿岸への襲撃により、オスマン帝国は悪戦況となってしまいます。

そこでスレイマン1世は地中海制海権を掌握するため、アルジェリアを支配していたバルバロイ海賊の王バルバロスと会い、バルバロスがオスマン帝国に帰順したことで、1533年に彼を帝国海軍大提督に任命します。これによりアルジェリアを手にしたオスマン帝国は、西地中海世界への足掛かりを得ることに成功しました。

1536年に強力な艦隊で地中海に出たバルバロッサは、イタリアの海岸を襲い、エーゲ海のヴェネツィア領の島々を獲得し、オスマン帝国の領土に併合しました。

これに続き、1538年に提督バルバロス率いるオスマン帝国艦隊とアンドレア・ドーリス率いるスペイン帝国・ヴェネツィア共和国・ジェノヴァ共和国・ローマ教皇領・聖ヨハネ騎士団が連合した十字軍艦隊が、ギリシャ北西部のプレヴィザで交戦するのです。この「プレヴィザの海戦」でオスマン帝国軍が勝利したことで、地中海の制海権を掌握しました。

なお、1536 年2月18日には、オスマン帝国と共通の敵を持つフランソワ1世下のフランスに通商特権(カピチュレーション)の恩恵を与え政治的・経済的連帯を結びますが、これは残念ながら後の帝国弱体化にもつながっていきます。

後継者争い~死亡

スレイマン1世には多くの皇子がいました。しかし、幼少の頃に死去した者も多く、また後継者として有力であった長男ムスタファは1558年に謀反の罪によりコンヤで処刑されたため、最終的に皇子ベヤズットと皇子セリムの二人の皇子が後継者として残りました。

しかし、この皇子二人の間で後継者争いが始まり、セリム側についていたスレイマン1世は、サファヴィー朝の宮殿に避難していたベヤズットとその息子達を殺させるなど、スレイマン1世の晩年は華やかなものではありませんでした。

1566年5月に13回目で最後となるハンガリー遠征に向かいます。しかし、ハンガリーのスィゲトバールを包囲中の9月1日、スィゲトバールを攻略する一日前、スレイマン1世は持病のため72歳にて生涯を閉じました。死因は痛風、赤痢、扁桃炎とも言われていますが、定かではありません。

なお、戦中の兵士の士気を下げないため、10月21日にスィゲトバールから兵を引き上げるまでの48日間、スレイマン1世の死は隠されました。

彼の亡骸は、その後生前に建築家ミマール・シナンに造らせてあったイスタンブールにあるスレイマニエ・モスク敷地内の霊廟に埋葬されました。

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スレイマン1世を支えた大宰相イブラヒム・パシャ

イスタンブール観光
ギリシャの漁村パガル出身で元奴隷のパルガル・イブラヒム・パシャは、スレイマン1世が即位前のマニサ知事であった時から常に一番の側近であり最も近い友人で相談役でした。ギリシャ語・ペルシャ語・イタリア語・トルコ語が話せる多才な人物であったと言います。

スレイマン1世が即位すると猛スピードで大出世し、大宰相として徴用され、13年間軍事や外交で手腕を振るい、スレイマン1世の右腕としてオスマン帝国を皇帝とともに最盛期に導きました。ちなみに、彼は、スレイマン1世の妹ハティジェ・スルタンと結婚していたとも言われています。

力を付けすぎてしまったイブラヒム・パシャは、最終的にスレイマン1世に処刑されてしまうのですが、スレイマン1世はそのことを生涯後悔していたといわれています。

このイブラヒム・パシャの邸宅は、ヒッポドロームの西側にあり、現在トルコ・イスラム美術博物館となっています。

名称 トルコ・イスラム美術博物館(Türk ve İslam Eserleri Müzesi)
場所 Binbirdirek, Atmeydanı Cd. No:12, 34122 Fatih/İstanbul
※ヒッポドロームを挟んでブルーモスクの向かい側
定休日 無し
開館時間 夏季:4/1~10/31 09:00~18:00
冬季:11/1~3/31 09:00~17:00
※最終入場は閉館時間の30分前
※砂糖祭と犠牲祭の初日は13:00よりの開館となります。
入場料 60TL

スレイマン1世の側室

オスマン帝国 ハレム
トプカプ宮殿にはハレムと呼ばれる男子禁制の後宮があり、そこにスレイマン1世の母や妹や妃をはじめ、女官、女奴隷達や宦官が住んでいました。このハレムは女の園かと思われますが、綺麗ごとだけではありません。女性達は皇帝からの寵愛を受け、いずれは国母となるため、嫉妬や欲望にまみれた女たちの権力闘争が渦巻いていたのです。

そんな下剋上のハレムの女性の中で、スレイマン1世の寵愛を受けて子をなした女性が4人います。

ハレムは男子禁制の秘密の花園?!本来の意味やオスマン帝国ハレムの実態

最初の寵妃:マヒデヴラン・スルタン

マヒデヴラン・スルタンは、スレイマン1世の皇子を産んだハセキ・スルタンです。父はカバダユ・チェルケズ人の皇子、母はクリミア・ハン国の皇女でスレイマン1世の父セリム1世の最初の妾であったアイシェ・ハトゥンの妹だったと言う、由緒正しい家柄の出身でした。

スレイマン1世がまだ皇太子でマニサ知事の1515年に、第一子となる皇子ムスタファを出産します。

ムスタファは後継者として育てられ、マヒデヴランもハレムで権力を持ち、いずれは母后となるはずでしたが、スレイマンの寵愛を一心に集めるヒュッレムが現れたことで、事態は変わりました。

皇子ムスタファが1553年に謀反の疑いで処刑されると共にマヒデヴランはブルサに隠居させられ、残りの生涯をそこで過ごすことになるのです。

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皇后:ヒュッレム・スルタン

ヨーロッパではロクセラーナの名で知られるスレイマン1世の最大の寵妃でハセキ・スルタンがこのヒュッレム・スルタンです。

ウクライナ西部ロハティンの正教会牧師の娘として1504年に生まれ、1520年15歳頃にタタール人の襲撃にて囚われ、クリミア・ハン国から奴隷としてトプカプ宮殿に売られたと言われています。容姿は赤毛・緑目・白い肌であったと記録もあります。

スレイマン1世が即位する前後に献上されたと言い、最初の妃マヒデヴランと女の戦いを繰り広げながらもスレイマンの寵愛をつかみ取り、後に皇帝となるセリム2世や、皇女ミフリマー・スルタンなど、5男1女をもうけます。

なお、伝統的にスルタン達は正妃を持ちませんでしたが、このヒュッレムは正式に結婚して正妃となったスレイマン1世の唯一の妃でもあり、これはオスマン帝国として革新的なことでした。

正式に結婚して正妃となった事でヒュッレム・スルタンは、当時世界最大の帝国の女性の頂点に立ったと共に女人政治を始め、国政にも関与する権力をもった初めての女性となったのです。

妾:ギュルヘム・ハトゥン

女性奴隷出身。1511年に皇子ムラドを出産しますが、1521年に水疱瘡で亡くしてしまいます。

妾:フュラネ・ハトゥン

スレイマン1世が未だ皇太子でサルハンの知事だったころに寵愛を受けた女性です。1512年に皇女ファトゥマ・ヌル・スルタンを出産しています。残念ながら、スレイマン1世が若かりし頃に関係を持った女性と子で、その後に現れるマヒデヴランやヒュッレムの存在により、日の目を見ることはなく、1521年に皇女ファトゥマ・ヌル・スルタンが死去してしまうと、宮殿生活から逃れるために自身を解放させて、宮殿から出て行ったと言います。

スレイマン1世の子女

  • 皇子ムラド:1511~1512年(母ギュルフェム・ハトゥン)
  • 皇女ファトゥマ・ヌル・スルタン:1512~1521年(母フュラネ・ハトゥン)
  • 皇子マフムット:1512~1521年(母マヒデヴラン・スルタン)
  • 皇子ムスタファ:1515~1553年(母マヒデヴラン・スルタン)
  • 皇子メフメト:1521~1543年(母ヒュッレム・スルタン)
  • 皇女ミフリマー・スルタン:1522~1578年(母ヒュッレム・スルタン)
  • 皇子アブドゥッラ:1522~1524年(母ヒュッレム・スルタン)
  • セリム2世:1524~1574年(母ヒュッレム・スルタン)
  • 皇女ラズィイェ・スルタン:1525~1556年(母マヒデヴラン・スルタン)
  • 皇子バヤズィッド:1525~1561年(母ヒュッレム・スルタン)
  • 皇子ジハンギル:1531~1553年(母ヒュッレム・スルタン)

スレイマン1世が眠る「スレイマニエ・モスク」

スレイマニエ・モスク
イスタンブールに行くと、旧市街の金閣湾を見下ろす高台に聳え立つ大きなモスクが目に付くかと思います。これがスレイマン1世が自身の名で建築家ミマール・シナンに造らせた「スレイマニエ・モスク」です。

ここは、モスクだけでなくマドラサ、医療施設、ハマムや隊商宿等が併設された複合施設(キュッリイェ)となっており、同敷地内にはスレイマン自らが造らせた霊廟があり、そこでスレイマン1世は皇后ヒュッレム・スルタン、娘のミフリマー・スルタンと共に眠っています。

スレイマン1世の華麗なる時代を象徴するような大変壮大なこのモスクは、ミマール・シナンの職人時代の傑作であり、オスマン建築の最高傑作の一つと言われ、アヤソフィアやブルーモスクなどとともに、イスタンブール歴史地域の一つとしてユネスコ世界文化遺産に登録されています。

名称 スレイマニイェ・ジャーミー(Süleymaniye Camii)
場所 Süleymaniye Mah, Prof. Sıddık Sami Onar Cd. No:1, Fatih/İstanbul
※メトロ「Vezineciler駅」より約700m(徒歩約9分)
※トラム「Laleli駅」又は「Beyazıt駅」から約1㎞(徒歩約12分)
※エミノニュ、エジプシャンバザールから約750m(徒歩約10分)
定休日 無し
開館時間 9:00~18:00(礼拝時間以外)
入場料 無し
服装 イスラム宗教施設ですので、男女ともにノースリーブや膝上のショートパンツなど、露出の多い服装での入場は禁止されています。女性は頭を覆うスカーフをご用意ください。
内部は土足禁止で入場の際に靴を脱ぎますので、靴を入れる袋をご用意ください。

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