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JATA
観光庁長官登録旅行業第1997号
日本旅行業協会 正会員
東京商工会議所 会員
トルコ観光名所ガイド

アヤソフィア大聖堂


ビザス王の時代からおよそ千年後、又も西方の王者がこの土地を自らの都として移ってきた。今回はラテン人で、その英断を下すまでには軍事上、宗教上の差し迫った事情があった。ローマ帝国の単独皇帝をめざすコンスタンティヌスは312年、ティベル河のミルヴィアン橋の戦いでマクセンティウスを破り、帝国西部の覇権を握る。東方におこったキリスト教はその頃、既にローマ世界までも根をはっていた。伝説によるとコンスタンティヌスが過酷な帝位争奪戦を勝ち抜くことができたのは、この新しい宗教のおかげだという。

…陽が傾き始める頃、太陽の上に輝く十字架とHocVince(これにより征服せよ)の文字が浮かぶのを、彼はその目でしかと見た。そしてその夜、同じしるしと共にキリストのまぼろしが現れ、このしるしを軍の旗印とせよと命じた…十字架は彼に勝利を保証するものとなる。

皇帝が職人に命じ作らせたラバルムにはキリストの紋を意味する、宝石をちりばめた豪華な金属の輪がとりつけられた。ギリシャ語のchiはhのように発音されるがXのように見える。そしてrhoはrと発良されPに見える。つまりXPがキリストと解読される。

最初のハギアソフィアの創建者はコンスタンティヌス大帝(324-337)と信じられてきたが、350年頃に息子のコンスタンティウスⅡ世が建設し、360年2月15日に神に奉納したと述べる古文書もある。おそらくは大帝の治下326年に建設が始められ、息子の代に奉献されたのだろう。この教会の正式名称はメガレエクレシア大聖堂だったらしい。ソフィアとは神のみことば、あるいは神の叡智をキリストに具現する言葉として、5世紀に流行したという。第二、第三のハギアソフィアも同じ場所に、同じく正門を西に向けて建てられている。当時の教会や殉教堂によく見られたように、最初のハギアソフィアも身廊が一つ、四方に通廊を配したこじんまりした石造建築で、屋根は木造、円柱は大理石だったと思われる。

アヤソフィア
キリスト教を嫌悪し、“背教者”として歴史に残る皇帝ユリアヌスはその短い統治の間(361-363)、古代からの多神教を復興させようとした異色の皇帝である。ハギアソフィアはその苦難の時期をなんとか乗り越え、破壊を免れたがその聖堂についてユリアヌスは…私がペルシャから帰ってきたら、このつまらない聖堂の真ん中は干し草置き場に、周囲は厩にしてやる。”と言ったとか。しかしそのことばを実行する暇もなく、ユリアヌスは遠征先で戦死した。

アルカディウス帝(395-408)の398年、巧みな説教の故に黄金の口とあだなされ、後にギリシャ正教会の4大神学者のひとりとうたわれたヨハネス クリソストムスがコンスタンティノープルの総主教に任命された。彼はアンティオクオンザオロンテス(今日のトルコ南部アンタクヤ)に生れ、当地の著名な哲学者で多神教徒のリバ二ウスの教えを受けた。更に苦行生活を体験して後、アンティオクで僧となる。新旧聖書の解釈、特にパウロ書簡の解釈により名声を得たクリソストムスは手厳しい改革者でもあった。故郷のアンティオクでと同様に、都に上ってからも歯に衣をきせず、宮廷や上流階級の浪費や虚栄、不道徳を批判した。そして市民の大きな支持を得たものの、同時に富裕な人々を敵に回すことになる。

404年、クリソストムスは位を追われビティニアに流された。それに抗議する市民のデモ。その騒動の夜、起こった地震は迷信深い皇后エウドキシアを恐怖に陥れたらしい。クリソストムスは総主我に復帰した。しかしわずか2-3週間後の6月9日、彼はハギアソフィアの説教壇から再び容赦なく宮廷を批判する。しかもこのたびは皇后エウドキシアをイザベルやヘロディアスのような聖書の悪女に例えた。“再び、サロメが踊っている。ヨハネスの首をほうびにと…”捕らえられ、又も追放されるクリソストムス。怒った支持者たちはハギアソフィアに火を放った。強い北風に煽られた火は当時の人々に超自然的なものと受けとられた。ヨハネスの伝記作者パラディウスは書いている。…炎は彼がいつも座る席から十字架へとかけのぼり、聖堂の裏手へと大蛇の如く…
1年ほどしてクリソストムスは再び流罪となった。今回は永遠の追放だった。407年、60才の彼はボントスの僻地コマナでその生涯を終えた。

アヤソフィアとブルーモスク
二番目のハギアソフィア
404年の火災の被害の詳細は不明だが、東側に独立していた聖具室は難を逃れ、今日まで残されている。アルカディウスの後を継いだテオドシウスⅡ世(408-50)は熱心なキリスト教徒で、異教に対しては手厳しく、その治世の終りまでにはすべての異教をローマ帝国から駆逐したといえるほどだった。神聖な像をフロアモザイクに描くことを禁止し、残っていた異教の神殿は破壊、その財産は没収した。第二のハギアソフィアの建設にかかったのは彼が即位して間もなく、落成奉献は415年10月10日である。

発掘調査によるとテオドシウスの再建したハギアソフィア聖堂は最初のそれと基本的に同種の建築だったと考えられる。入り口は西側アトリウムからで6段の階段、カーブした軒をのせた柱廊、そして2m幅のポルティコの跡は今日も残っている。アトリウムと身廊の間に細長い拝廊があったらしい。身廊は幅およそ20m、その両側に側廊がついていた。屋根は最初の聖堂と同様に木造だったと推定される。
この第二のハギアソフィアは1世紀以上を無事に過ごしたが、532年の有名な二力の乱で焼け落ちた。

二力の乱
西暦500年頃、コンスタンティノープルの港に入った船にユーゴスラビアのニシ地方、ベデリアーナから来たひとりの少年が乗っていた。宮廷護衛宮から、後に皇帝にまでなったユスティヌスの甥である。少年の生い立ちに関する詳しい記録はないが、都に上ってからは伯父の保護の下に可能な限りの教育を与えられた。そして公式の教育課程を終えると宮廷護衛宮としてのエリートコースにのる。まもなく皇帝アナスタシウス(491-518)が亡くなり、ユスティヌスが帝位についた。その皇帝ユスティヌスI世(518-27)は既に高齢だった。優秀な武人だったが、野心に満ちた若い甥と違い、教育は不十分で文盲だった。

アヤソフィア
6世紀のビザンツ宮廷人も、出世を願うなら、青組か緑組の二大組織のどちらかに入ることが不可欠だった。それは本来、馬車競技場で行われる戦車競技やアクロバットなどのチームの元締めだったが、いつの間にか今日の政党結社のような組織になり、皇帝の権力とも密接に結びつき、競技場を満杯にも空っぽにもできるほどの強大な力を持つようになっていた。緑組は主に商工業者、青組は地主層の支持を得ていた。ユスティニアヌスは青組、後に妻となるテオドラは緑組支持だった。皇帝である伯父の死の数か月前の527年4月4日、ユスティニアヌスは皇帝位を譲られた。しかし、皇帝ユスティニアヌスも皇后テオドラも、まさか宿敵同士の青組と緑組が一緒になって皇帝への反乱に立ち上がる日がくるとは想像もしなかったに違いない。“ニカの乱”である。緑組と青組の合い言葉が、ニカ=勝利だった。

532年1月14日、自然発生的に始まった暴動は5日間続いた。5日目にビザンチン帝国軍隊の司令官ベリザリウスと、イリリア(バルカン半島)の司令官ムンダスが馬車競技場に入り、35000人の叛徒-そのほとんどは緑組-を殺して反乱を鎮圧した。

ロバート グレイヴスの「伯爵ベリザリウス」は、ベリザリウスの妻アントニナの召使の目から、ベリザリウスを中心とする当時の様子を描いた歴史小説である。ニカの乱のクライマックスを一部引用してみると………皇后テオドラが夫君に、皇帝自ら競技場にお出ましになり、市民たちに平静を呼び掛けるようにとすすめたのは1月18日、すでに暴動は5日目を迎えておりました。馬車競技場はマルマラ海に向かいゆるやかに広がる丘陸地に建つ大宮殿の隣に位置し、その北の端には二つの塔を備え、厩舎や戦車置き場そして事務所などが並んでいました。観客席より一段と高く、スタート地点がよく見渡せる所に設けられた皇帝席の上には、キオス島から運ばれたという青銅の四頭馬像が飾られておりました。その皇帝席とダフネ宮は聖ステファノス教会の下手を通る人目につかない柱廊で結ばれておりましたから、公道を通る危険を犯さずとも競技場にお姿を現すことができるのです。

馬車競技場を埋め尽くす市民の前にお出ましになった皇帝陛下は、福音書を片手に、幼子にでも教えさとすかのような口調で平穏と融和を呼びかけ、あいまいな言葉で約束事を並べたてました。普通でしたら、人々が冷静さを取り戻し、小心者は被害の大きさを身にしみて感じ出すその頃には大きな効果を持つはずのお言葉でした。しかし、何の裏付けもない今回の陛下の演説は全く無益なものと終わったのです。青組の席からは中途半端な歓声がおこりましたものの、野次にかき消され、優勢に立った緑組の席からは怒号や呪いの言葉が飛びます。

皇帝席に向かって石や飛び道具が投げつけられ、かつてのアナスタシウス帝の時と同様の騒ぎとなりました。陛下はあわてて皇帝席を退場なさいましたが、群衆も追いかけて競技場からなだれ出ようとします。その時、トラキアのゴート人衛兵たちが宮殿を出て来て、しんちゅうの館で仲間と合流しました。
群衆は略奪に夢中になり、聖ステファノス教会に隣接した建物を焼き討ちにしました。内廷の宦官宿舎として使われていた館でございます。

アヤソフィアのモザイク
さて、先帝ユスティヌスがアナスタシウス帝の後を継がれる前、皇帝アナスタシウスのできそこないの甥たちの中で最もましなのがヒパティウスでした。 (中略)この方は、能力に似合わぬ野心を持たぬだけがとりえという、ばっとしない方です。このたびの暴動が始まるや否や、兄弟のボンペイと共に陛下に拝謁し、緑組は自分のために何でもすると、そして自分は皇帝陛下の意のままに働きたいと忠誠を誓われたのでした。皇帝陛下は、帝位を目前にしながらもへりくだる彼を理解できなかったことでしょうが、その忠誠心を称え、感謝の言葉を述べられたのでした。実は油断させ、時期を待って実権を握ろうとしているのではと疑心暗鬼ながら…

しかしこの宮殿襲撃という事態の後で、皇帝はヒパティウスとボンペイに使いを送り、裏切り者として処刑されたくなかったら直ちに退去せよと警告なさいました。暗くなるのを待って二人はこっそりと家に入ろうとされました。しかし、運の悪いことにそれに気が付いた緑組の連中が無理やりヒパティウスを引っ張り出し、勝ち誇ってコンスタンティヌス広場に向かいました。そして、ぎっしりと人が集まり、歓呼の叫びに満ちた広場の中央でヒパティウスを皇帝とする戴冠の儀が行われたのです。王冠の代わりに、宮殿から略奪した黄金の首飾りを頭にのせて…ヒパティウス自らは帝位を望んでいるわけではありませんでした。敬けんなキリスト教徒である妻マリアも、自分から遠ざかり、死への道を進まんとしている夫の運命を思い、身悶えして嘆き悲しむばかりでした。しかし、縁党に逆らうなど無理なこと… (中略)
皇妃テオドラは招かれもしないのに会議場に姿を現されました。激しい怒りと軽蔑のないまざったそのお顔に、皇帝ユスティニアヌスばかりか居ならぶ廷臣達もすくみ上がり、皇后様に睨まれるよりは百度でも死んだ方がましと思われたことでしょう。

“相変わらずのおしゃべり、おしゃべり、おしゃべり、口先だけのたわけた論議にうつつを抜かしていらっしゃいますこと。良識ある女として一言申しげます。ただちに、厳しく対処するべき時です。騒ぎが始まってすでに6日、毎日毎日、すべて順調だとか、神がお助け下さるとか、必要な手はすべて尽くしてあるとか聞かされてまいりました。何ひとつ実行されぬまま、討議、討議、討議…主教たちは不信心な豚どもの鼻先で福音書をふりかざし、彼等がぶーぶーきーきー騒ぎ立てる中を、我らは逃げ出さんとしている…あなたは逃げようと決定されたとお見受けします。大帝ユスティニアヌス!けっこうなこと。今すぐ、皇帝の波止場を占拠されないうちに、船や船乗りや金貨を奪われぬうちにどうぞお逃げなさいませ。ただし、逃げたら二度と再びこの宮殿には帰れぬことをお忘れなく。やがては彼等に捕らわれ、みじめな最期が待つだけです。いいえ、帯を締め直して逃げ出すがよろしい。天罰があたりますように。わたくしは残ります。どんな運命が待ち受けようとも、逃げはいたしませぬ。"

アヤソフィア
そしてムンダス、ベリザリウス両将軍は皇后テオドうの命令を受けることになったのでした。もっとも他に誰も将軍に指示を与えられる人物はいなかったのですから。皇帝ユスティニアヌスは僧服を身にまとわれました。敬けんのしるしというよりも、宮殿が再び襲撃された時に身を隠すためでしたでしょう。

茶色の粗末な頭巾で顔を隠し、皇居の礼拝堂で一心に祈りを捧げられました。この重大事態の最中に、思いがけずも皇后様あてにヒパティウスからの手紙が届けられたのです。“最も貴きお方様に。皇帝陛下は私を疑っておられ、何の力にもなって頂けません。皇后様にお願い申し上げます。私の忠節な心を信じで下さい。この苦境から私を救い出すために兵を送って下さいますように…”

皇后はベリザリウス将軍に、宮殿衛兵たちを引き連れてヒパティウスを救い出し、連れてくるように命じられました。ベリザリウス様は宮殿の庭に宿営していたご自分の兵たちを招集され、ムンダス様はフン人たちを招集なされました。両勢力を合わせても400人にも満たない勢力でした。ベリザリウス将軍の兵の大部分は皇室軍団に貸し出され、アルメニアのヨハネスの指揮下、徴税強化のためトラキアに出向していたのですから。

ベリザリウス特車はムンダス軍のフン人たちを“へび”と呼ばれる曲がりくねった通路に配置するように要請されました。“へび”は競技場南東隅の“死者の門”へと続いています。“死者の門”はもともと剣闘士の死体を運び出す門でした。ムンダス隊はそこで命令を待つことになりました。

アヤソフィア ベリザリウス様ご自身は兵だちと共に宮殿敷地を抜け、大通りの突き当たりの元老院から左に曲がり、しんちゅうの館の門へ向かわれました。門は閉じられ見張りもおりません。刀のつばで扉を叩き、高らかに叫びます。

“東方軍団司令官ベリザリウスだ。神聖なる皇帝陛下ユスティニアヌスの名において、門を開かれよ”中からの応答はありません。巨大なしんちゅうの門はたやすく壊せません。再び大声で呼びかけた後、将軍は宮殿に戻り、皇后様に衛兵たちは使えないと報告されました。それでは使えるだけの兵でできる限りの事をするようにとのお言葉を受けた将軍は、焼け落ちた聖ステファノス教会を抜けて競技場の皇帝席に行くことにしました。まだ余燼くすぶる宦官宿舎を通らねばなりません。あちこちで壁が崩れ落ち、突然に炎が舞い上がる中で馬はおびえて役に立ちませんので、全員に下馬を命じ、馬は引き返させました。

……(中略)緑組の組頭たちが勝ち誇った演説をぶつ中で、青組の連中は不機嫌に黙り込んで座っていました。今や緑組の皇帝選出は明らか、この事態を招いたことを青組の指導者はただ悔やむしかありません。その時、叫び声があがり、見ますと鎖かたびらに身を固めた兵士たちの一隊が入場してきます。刀を下げ先頭に立つ将軍ベリザリウスが、皇帝席のヒパティウスに向かい叫びます。“高貴なるヒバティウス殿、その席は皇帝陛下のためのもの。貴殿が占める権利はありませぬ。ただちに宮殿に戻り、陛下のために尽くすようにとのご命令です”すると誰もが驚いたことに、ヒパティウスは従順に立上がり、皇帝席を出ようとしましたが、その側にいた緑組の組頭たちが荒々しく席に押し戻そうとします。緑組の群衆もベヌザリウス様の兵たちを脅かし、叫び声と共に混乱揉み合いが始まりました。(中略)…“死者の門”の外で待ち構えていたムンダス軍は競技場からの混乱した叫び声から、ベリザリウス軍が行動を起こしたのを知りました。ムンダス将軍の吋令を待ち構えていたフン人たちは柵を乗り越えて競技場に踊り出で、緑組の連中を殺しまくったのです。馬車競技場の中央にはテオドシウス帝の浮き彫りのあるオベリスクがそびえています。そして3匹の蛇のからみあう青銅像、それはかつてデルフィの巫女が神託をのべる時の祭壇、三脚器を支えていたものでした。他にも様々な彫像が並んでいました。

私のかつての主人、人気騎手ダモクレスの像は皇后テオドラが最近建てたものです。これらの彫像の台座の下に隠れた者も、見つけしだい容赦なく殺されたのでした。それまで傍観していた青組も戦いに加わりました。ユスティニアヌス帝の二人の甥を先頭に皇帝席に殺到し、激しい揉みあいの末、緑組の頭とその取り巻きを殺し、ヒバティウスとボンペイを救出し、ベリザリウス将軍の副官ルフィヌス殿に引き渡しました。副官は青の回廊を通り、二人を宮殿に連れていきました。我に返った緑組は絶望的な戦いを挑みます。
ベリザリウスとムンダス両将軍の指揮する殺戮戦は、絹の衣装の長い袖をひるがえし、長髪を油でなでつけていたまぬけどもがパニック状態で逃げ出すまで続いたのでした。…(中略)

将軍がムンダス殿を伴って宮殿に戻られますと、すぐに我が女主人アントニナ様が駆けつけ、血潮をあびた夫を抱きしめました。馬車競技場では青の勢力の強い近郊から出てきた連中が、ありとあらゆる武器を持ち出して緑組殺戮に熱中しています。ナルセスが武器庫を開けたのです。統いてしんちゅうの館の衛圧たらも皇帝陛下への忠義の証しとばかりに、緑組殺しに加わりました。

この日だけで35000人の緑組員と数百人の青組員が殺され、負傷者は更に多数にのぼりました。青組は緑組の厩舎まで襲撃し、馬丁たちを殺し、馬は腱を切って不具にし、戦車には火を放ちました。更に市中に出て改悛の情なしと見た縁組メンバーを見付けしだいに殺しまくりました。

このようにしていわゆるニカの乱は終りを告げ、青と縁の争いも一応の終止符を打つことになったのです。緑組は今や完全に力を失いましたが、皇帝はだめおしの意味で、全市中での戦車競技を禁止する勅令を出されました。

とはいっても数年後には再び競技も始まり、緑組の力も復活しました。結局のところ、青組は完全に敵の息の根を止めることはできなかったのです。まもなく緑組はますます強くなり、縁の旗の下には皇帝と正統派教会に抵抗するあらゆる徒党が結集されることになります。そして再び、日暮れには殺し屋たちが町にばっこするようになるのでした…(略)


三番目のハギアソフィア
532年2月23日、ニカの乱による膨大な数の死体が荷車などでようやく運び出され、火災の後片付けもざっと終わると同時にハギアソフィアの再建工事が始まった。そのハギアソフィア大聖堂が落成、神に捧げられたのは537年12月27日だった。そして1453年5月29日にコンスタンティノープルがトルコ人の手に陥落するその日まで、ここはビザンチン帝国の主聖堂としてミサはもちろん、戴冠や凱旋、結婚その他の式典、そして教会会議の場として重要な役割を果たすことになる。パリのノートルダム寺院がおよそ180年、ロンドンのセントポール寺院は35年かけて完成されたことを思うならば、ハギアソフィアがわずか6年で完成したということは驚異であり、実はかなり早くから新たな聖堂の設計が考案されていたということを示唆している。

作者不詳ながら9世紀の作と考えられるDiegesis(ナレーション)はこの3番目のハギアソフィア建設の様子をいきいきと伝えている。
…まず、5千人ずつ2つの組が造られた。50人ずつの親方をいだく2組は聖堂の両面から競い合うように工事をすすめた。
この聖堂の設計図は天使によって皇帝陛下に啓示されたのである。

大麦の汁とにれの樹皮で作った特別なモルタルを基礎に流す。ドームのレンガはロードス島で特別に焼かれた。重さが並のレンガの12分の1という軽いもので、その12枚ごとに聖遺物が嵌め込まれ、祈りと共に工事が進められた…

ユスティニアヌス帝は異教の神殿を破壊し、柱などを建材として利用したといわれる。広大なローマ帝国各地から集められた柱や柱頭、大理石の故郷は遠くフランスの大西洋岸にまで及ぶ。円柱の故郷については今日までいくつかの話が伝えられてきた。身廊の左右に青緑色の円柱が並んでいる。これは蛇灰岩の一枚板で、古代世界の七不思議のひとつといわれたエフェソスのアルテミス神殿から運ばれたという説がある。これほど壮大な柱は重要な遺跡にしかあり得ないとビザンチンの人々が思い込んだらしいが、実はテッサリアの石切り場の産物である。

エクセドラにペアで置かれた斑岩の柱は、皇帝アウレリアヌスがバールベックを模してローマに建設したという太陽神殿、あるいはヘリオポリスの太陽神殿からとされている。6世紀のビザンチン帝国ではもはや斑岩は採石されなかったから、これは再利用された石材に相違あるまい。
アヤソフィアのモザイク 床面から56mの高さに浮かんだような大ドーム、その直径は東西31.8m、南北は30.9mである。重量が普通の12分の1という軽いレンガはロードス島で特別に焼かれた。
言い伝えによると、レンガの隙間は聖宝を詰めるために残されたという。
557年の地震で東側アーチと半ドームが崩れ落ち、その翌年には大ドームの一部が崩れて修復された。ドームに描かれていたキリストパントクラトール(全能のキリスト)のモザイクはトルコに征服されてからもしばらくそのままで1609年になってアフメットI世の命により隠されたが、4隅の熾天使は残された。
中央のアラビア文字は18世紀に書かれ、19世紀半ばに書き直されたものらしい。コーランの光の章の一節である。
“慈悲深い神の御名において、アッラーは天と地の光。この光をたとえで渡航なら御堂の壁龕に置かれた燈明。燈明は玻璃に包まれ、玻璃はきらめく星とまごうばかり”

大聖堂建設の責任者にはトラレス(今日のトルコ西部アイドゥン)のアンテミウスとミレトスのイシドロスが選ばれた。この二人の建築家としての実績が知られていないのは意外なことだが、古代の史料には建築家としてよりも機械技師、技術や設計上の問題のノウハウを指導する技術者として出ている。

初期ビザンチン建築にとってドーム工法は珍しいものではなかった。とはいえ壁に固定されない、しかも直径30m以上もの巨大なドームを建設するのは並大抵の技ではない。それまでハギアソフィアの半分の規模のドーム経験さえなかったし、安全性を計算できるものもいなかっただろう。方形の格間(ごうま)の上にドーム、そして半ドームやペンデンティヴ(穹隅)を連ねる方法は新しいものではないと誤解されてきたが、実はこの二人の天才的アイディアだった。

ハギアソフィアを外から見ると、初期ビザンチンの人々は内装に凝るわりには外観を重視しなかったかのような印象を与える。レンガの上を覆うモルタル、しかしこの不粋なモルタルのおかげでレンガは外気から守られ、当時の外壁が今日まで残されてきたといえよう。

史料によるとハギアソフィア創建時のドームは現在よりも7mほど低かったらしい。もうひとつ特筆すべきことはその採光である。プロコピウスの表現によると光は外から入るのではなく、内部から沸き上がるように見えたという。壁の三角面には天窓が設けられていた。現在も西側にのみ残っているが、そこからの光が黄金のモザイクに反射して輝くのだった。

歴史家プロコピウスはDe aedificiis(建築)でユスティニアヌスの聖堂建築について詳しく紹介している。細部については信頼しがたい面もあるものの、建設開始と同時に形が崩れ始めたことが記録されている。ドーム屋根が披さるべき部分のスペースが当初の見積もりよりも広がってしまい、結局このドームは完成後20年間ももたなかったという。最初のドームの失敗は側面の支えが不十分なためだった。建築家もそれに気付いたらしい。建物の外側、ドームのベースにあたるところに巨大な控え壁が4つ設置された。

557年12月14日と翌558年5月7日の地震で東側アーチと半ドームが崩壊した。二人の首席建築家は既に世を去っていたので、イシドロスの甥である小イシドロスを中心とするチームが招集された。ビザンチンの歴史家アガティアスが記している。

…この地震で屋根の中央、一番高い部分が落ちた。皇帝はその部分をさらに高くして修復強化せよと命じた。アンテミウスは既になく、若いイシドロスをはじめとする建築家たちが前の設計を点検し、南北のアーチの湾曲部をさらに内側にカーヴさせてゆるやかに広げ、東西のそれと調和させた。隙間の歪みを目立たなくしてほとんど方形に近いものとなった…

989年10月26日の大地震で40本のあばらのうち13本が落ち、アルメニア人建築家トゥルダトが修理した。 1362年5月26日には別の13本のあばらが落ち、アストラスとペラルタという建築家が修復に携わった。

ハギアソフィアの修復作業はコンスタンティノープルがトルコに征服されてからも続けられた。最も大規模なのは1847-49年のスイスのフォサッティ兄弟、ガスパルとジュセッペによる大修理だった。

今日に残されたハギアソフィアの建物は全体としてユスティニアヌスの時代のものだが、創建当時の備品は残っていない。聖堂後陣には七段のシントロノン(司祭席)が(聖イレーネ教会には創建時のシントロノンが現存する)、その前には尖塔状の屋根をつけた華麗なシボリウム(聖体器置き場)があった。

アーケード、ギャラリーの円柱、一階の柱の幾つか、フロア、扉や窓枠、壁の一部にはプロコンネソス(今日のマルマラ海のマルマラ島)産大理石が使われている。深い彫り込み美しい柱頭、その中央のモノグラムはユスティニアヌスとテオドラ、そしてバシレウス(皇帝)とアウグスタ(皇后)という称号と解読された。左右のアカンサスの葉が強風にあおられるかのようにモノグラムの方に伸びている。柱頭の上のアーチは非人物像のモザイクで装飾されている。

再びDiegesisによると、537年12月27日、ハギアソフィアの献堂式に臨んだ皇帝ユスティニアヌスは“ソロモンよ、我は汝を越えたり”と誇らかに叫んだという。

アヤソフィア
一般にビザンチン皇帝戴冠の場として知られるスポットは、実は帝国末期になってから使われ、ユスティニアヌスやそれに続く皇帝たちはそのそばの窓間壁と円柱の間に仕切りを設けた場で戴冠したらしい。そこには外から直接入ることができたし、市民の目から遮られ、読経台や聖所にも近かった。大理石の床にはその仕切りの跡が今も残る。後期の戴冠の場はみかげ石、緑や赤の斑岩、蛇灰岩その他の石で美しく飾られている。このフロア装飾はオプスアレクサンドリナムと呼ばれ、宮殿など重要な建築物に見られたタイプである。

当時はビザンチン皇帝の立つこの場こそが世界の中心、ビザンチン皇帝こそ地上における神の代理人と自ら信じていたから、他の人々よりも高い所におわすためには履物のヒールの高さまで気を配り、ハギアソフィアの身廊の高い門をくぐるにも頭がぶつからないように体をかがめて入ったという。

ビザンチン時代、人々の社会的地位の決め手は宮廷の許しを必要としたシルクの衣装、その色と枚数だったという。彼等の最も好んだ紫の染料はほねがいという貝からとった。ビザンチン皇帝は自らに“ポーフィロゲニトズつまり“紫の中に生まれしもの”という最高の敬称をつけて呼ぶことを好んだ。

事実、皇族の赤子の産室は壁やカーテン、じゅうたんその他すべて紫色で統一されていたばかりか、皇帝は文書にサインするにも紫のインクを用いたという。ニカの乱の土壇場で、都を捨てて逃げようとした皇帝ユスティニアヌスに皇后 テオドラは「紫こそ最上の死衣!」と言い放ったと伝えられている。


十字軍がコンスタンティノープルに
ローマ法王インノセントⅢ世(1198-1216)が第四回十字軍の派遣を提唱したのは法王位について間もなくだった。法王はキリスト教国の君主に手紙で賛同を求め、司教たちに兵と寄付を集めさせた。真っ先に応じてきたのはフランス宮廷である。シャンパーニュのチボー伯を始め、ブロアのルイ、モンフォールのシモン、フランダースのボードウィンと弟のアンリなどの諸公が集まった。

協力を要請されたヴェネツィア共和国の元首エンリコ ダンドロは4500頭の馬と4500人の騎士、9000人の従者、20000人の歩兵の輸送を申し出た。総額85000マークにあたる援助である。さらに戦利品の半分を得るとの条件で、武装ガレー船50艘を無料で提供した。

こうしてヴェネツィア出発と共に第四回十字軍はエンリコ ダンドロに主導権を握られた形になる。そして法王や騎士たちの反対があったにも関わらず、まずアドリア海沿岸のキリスト教都市ザラ(ザダル)を占領、略奪した。ザラはかつてはヴェネツィア領だったのをハンガリーに奪われていたのだった。そしてこのザラの町で、ビザンチン皇室に対する十字軍の陰謀が練られ、その結果が1204年のコンスタンティノープル征服となったのだった。

フランスのシャンパーニュ藩の貴族ジョフロワ ド ヴィルアルドゥワンは第四回十字軍のコンスタンティノープル征服に参加、その後故国に帰ることなく1218年にルーマニアで没した人だが、彼の残した記録は史料として最も信頼度の高いものとされている。その『コンスタンティノープル征服記』より一部抜粋してみよう。

…金曜の朝。艦船やガレー船その他の船が城壁に囲まれた町に次々と接近、確固たる攻撃を開始する。あちこちで上陸した巡礼軍は城壁に迫り、海からは城攻め用梯子を積んだ船が城壁に接近。城壁や塔の上では白兵戦が展開された。
100か所以上の場で、熾烈に行われた突撃は午後3時を回る頃まで続いた。
しかし、罪深きわが軍は撃退され、ガレー船や輸送船から出撃した者も命からがら退却。我らの被害は相手方のそれよりも大きく、ギリシャ方を喜ばせる結果と終わった。退却した我が軍のある者は戦場から船で逃れ、他の者は城壁近くに碇を下ろしたため、双方から投石器や放石具で石を投げ合った。
アヤソフィア 夕方6時近く、ヴェネツィア元首殿や諸侯は港の対岸の陣営に近い教会に集まった。様々な視点からの討議が行われたが、特にフランス隊は本日の不首尾を嘆いていた。守備の弱い他の側から攻撃すべしと主張する者が多かったが、海戦にたけたヴェネツィア人は、もしそうするなら強い潮流のため船は停泊できず流されてしまうと反対した。私が思うには、潮の流れでも風でもかまわぬ。海峡を南下するのならどこに流されようとここから離れたいと思った人も一座の中にはいたに違いない。我らはそれほど大きな危険にさらされていたわけだ。

さんざん議論したあげく、翌土曜日そして日曜日は船や武器の修理にあて、月曜に再び攻撃することとなった。今回は攻城はしごを積んだ船を2艘ずつペアにしてそれぞれ一つの塔を攻めることにした。1艘だけで塔を攻撃しても数に勝る塔上の守備兵たちに有利なだけという、その日の苦い教訓から生み出された効果的な戦術だった。そして土日をかけて船を繋ぐ作業が行われた。

一方、味方を引き連れた皇帝ムルズフルス(注:アレクシオスV世。げじげじ眉毛からのニックネーム)は我らの陣営の向かいに真紅の天幕を張った。

かくて月曜の朝になると、船の全員は武器を携え、用意万端整った。コンスタンティノープルの市民たちは初めての攻撃を受けた時に比べると、我々を恐れていなかった。実際、彼等は警戒心もなく城壁上にも塔にも姿を見せていた。

船団が真っ直ぐ進むと同時に熾烈な攻撃が開始された。それと共に起こったけたたましい叫びは、まるで全世界が砕け散るかのようであった。攻撃は主がおこしたもうたボレアース(北風)が吹く間続いた。ピルグリムとパラダイスと名付けられた船が2艘繋がれて塔に近寄る。

あたかも神風の力で前進するかのようにビルグリム号のはしごが塔に届くと、ただちにひとりのヴェネツィア人とデュルボワーズのアンドレというフランス騎士が一緒に駆け登った。他の者がそれに続き、塔上の守備軍を蹴散らすのを見ると船上の騎士たぢも急いで上陸し、はしごを伝って城壁の土に達し、更に4つの塔を占拠した。そして艦船、ガレー船、輸送船からと皆あわてふためいて飛び出し、3ケ所の城門を壊し市内に突入した。輸送船から引き出された馬に跨がった騎士たちが皇帝ムルズフルスの陣に向かう。皇帝の天幕の前にいた大部隊は騎馬で進んでくる一隊を見るや、秩序も何もなく後退し、皇帝自身も急ぎブコレオン城に逃れた。

その後、虐殺と略奪の場面が繰り広げられた。ギリシャ人と見ると手当たり次第に切り、軍馬はもちろん婦人用馬からロバまで奪い、その他の所持品も戦利品としで奪い取った。死傷者の数は膨大なもので誰も数えることもできない。

ギリシャ方の貴族の多くはブラケルナイ宮殿を目指して逃げた。6時を過ぎた頃、我が巡礼軍も戦いと殺戮に疲れ、コンスタンティノープル市内の広場に集合し始めた。そして、壮麗な教会や宮殿の立ち並ぶこの都市とその市民を鎮圧するには少なくとも1月は必要と説明され、城壁や塔の周りに野営することに決めた。その夜、疲労困意の我が軍の陣営は静かだった。しかし皇帝ムルズフルスは眠る暇はなく、兵たちを集めてフランク人を襲うことを明らかにした。

しかしその言葉とは裏腹に、馬に乗ると我々が占拠した地域からできるだけ遠い通りを選んで黄金門まで辿り着き、ひそかに都から脱出した…(中略)
我が軍団長モンフェラート侯は海岸に沿ってブコレオン宮殿に向かった。到着と同時に、宮殿内の人々の命は助ける事を明らかにし、宮殿は明け渡された。

アヤソフィア
ブコレオン宮がモンフェラート侯に明け渡されたのと同様にして、ブラケルナイ宮はフランドール伯弟アンリの手に渡された。ここからもブコレオンに劣らぬ膨大な財宝が発見された。軍団の残りの者も市中に散って略奪にかかった。

この町の戦利品といったら実に莫大なもので、その価値は値踏みすることも不可能なほどである。金や銀、そろいの食器、宝石の数々、シルクやサテン、リスやおこじょ、白皮のマント、この世で選ばれた最上の品々ばかりである。

私、ヴィルアルドゥワンの知る限りにおいて、天地創造以来、一つの都市からこれほどの戦利品が得られたことはかつてなかった……(略)
十字軍は5万マークをヴェネツィアに支払い、その2倍に昇る金額を兵士たちに分配した。兵たちはすでに略奪品で金持ちになっていたが…
十字軍の金庫役たるヴェネツィアは戦利品からも最大の分け前を要求した。
この時、十字軍に奪われた宝物の多くがヴェネツィアのサンマルコ聖堂宝物庫に納められている。聖遺物としては主の十字架の一部、その脇腹を突き剌したという鉄槍の一部、十字架に体を打ち付けた2本の釘、そしてキリストの流した血の入ったクリスタルの小瓶などである。キリストが身に着けていた外衣といばらの冠はフランスに運ばれ、パリのシテ島にはこの聖遺物のため特別にサントシャペル聖堂が建てられた。

キリスト教都市コンスタンティノープルに加えられたこの第四回十字軍の暴挙はローマ法王をはじめキリスト教世界に大きなショックを与えた。そして東方ギリシャ正教会は西洋を決して許そうとしなかった。


サンマルコの聖堂四頭馬像
第四回十字軍参加勢力の中でヴェネツィアはずぱ抜けた海車力を誇っていた。
元首エンリコ ダンドロの指揮する200艘の艦隊が25000人の兵をのせてコンスタンティノープルに到着したのは1203年6月、そして企みどおりにこの都を攻撃、征服したのは1204年4月である。堅固な城壁に囲まれたその街は当時の世界で最も豊かな都市だった。

古代ローマ世界の各地から集められたモニュメントで飾られた広場がいくつもあった。征服軍は宮殿や邸宅を荒らし、持ち運べる貴重な品々はすべて自分のものとした。ヴェネツィアはコンスタンティノープルの8分の3、ダーダネルス海峡ガリポリの港、ギリシャ西海岸、これも裕福な町として知られたアドリアノープル(今日のエディルネ)を領土とした上に、数多くの戦利品を手に入れた。中でも特筆すべきものが金箔を施した青銅四頭馬像である。数年前までヴェネツィアのサンマルコ広場を見下ろしていたその馬たちは、十字軍に奪われるまではコンスタンティノープルの馬車競技場を飾っていたものだった。その生まれについてはギリシャ、ロードス、あるいはローマと諸説がある。いつどこで生まれたにしろ、この見事な馬たちは戦利品として何度かヨーロッパ各地を移動させられ、20世紀2度の世界大戦においても危険を避けて疎開するなど劇的な体験をしてきたのだった。

最近まではギリシャで制作されたという見方が有力だった。紀元前4世紀、アレクサンダー大王の時代、又はその直後と主張する学者もいた。プリニウスの“ナリュラリス ヒストリア”に述べられている、リシポスがロードスで制作したという“太陽神の四頭立て戦車”を引用する人もいる。20年程前、ドイツの考古学者がその説を裏付ける発見をしたと話題になった。彼はデルフィの聖域の大理石に、サンマルコの馬のひづめとぴったり一致する跡と“ロードスの市民よりアポロンへ“という碑文を発見したという。しかしごく最近の研究では、衰えつつあったローマ帝国の凱旋門を飾るために作られたというローマ起源説にやや分かある。分析によると98%の銅、鉛と錫が1%ずつ含まれている。このような合金を作る技術はローマ帝国後期のものと考えられることと耳やひづめ、鼻づらが2,3世紀のローマ彫刻、例えばローマにある皇帝マルクス アウレリウスの堂々たる馬のそれによく似ていることが根拠とされている。ギリシャ美術の専門家は“おそらく紀元前5世紀のギリシャ彫刻の傑作を真似た作品”としている。

1799年、ナポレオンがイタリアを征服、イタリア半島から優れた芸術作品がパリに持ち去られた。ヴェネツィアからは20点の貴重な絵画と500点の写本、ピアゼッタのサンマルコの有翼獅子像、そしてこの青銅四頭馬像が梱包され、運び出された。1807年以来、馬たちは翼をつけた勝利の女神像2体と戦車と共にカルーゼルの凱旋門を飾っていたが、ボナパルトの没落後、ヨーロッパの地図を書き替えたウィーン会議の決議によりヴェネツィアがオーストリアの支配下に入ると、オーストリア皇帝フランツI世はそれらの略奪品をイタリアに返還させた。

アヤソフィア
第一次、第二次の世界大戦では数険を避けるため、馬たちも疎開させられた。1917年にローマ、1942年にはエウガネウン丘陵のプラグリアにあるベネディクト派修道院にかくまわれたのだった。
サンマルコ関係者が述べている。“この馬たちが移動するたびに、ひとつの帝国が滅ぶ…”ローマ、ビザンチン、ヴェネツィア、ナポレオン、オーストリア、ムッソリーニと第三帝国…しかし世界に帝国が消えてしまった今日、馬たちはサンマルコのロッジアから降りた。これを最後として。

最近の20年間に青銅の腐食が顕著に進み、致命的状態となってしまった。
金メッキの下で青銅は粉来状になり、ついには穴が開く。しみ汚れはもちろん、四肢が曲り、馬の形も崩れ始めた。大気の汚染がその主な原因である。瀕死の馬を救うには、こびりついた化学物質や腐食性の凝固物をとりのぞき、手当てをし、屋内に保存するしかない。1974年、最初の一頭がそろそろとロッジアから下ろされ、聖堂内の研究所に運び込まれた。一連の精密検査の後、いよいよ治療が開始される。有害な塩化物と硫酸塩が確認され、付着した腐食物質を薬液に浸した湿布で溶かし、静かにはぎとる。それから表面活性剤で洗浄しアルカリ処理をして安定させ、最後に蒸留水で濯ぐ。穴の開いた部分には溶解液を注入して内部の汚れやかび、塩分を押し出す。こうして少しずつかさぶた状の外被やさびが取り除かれ、馬の肌は息を吹き返した。修理作業の間に写真測図法により馬体の輪郭をつかむことができたので、漆喰の鋳型に頼ることなく、実物そっくりの青銅像を作ることができた。それが今もサンマルコ聖堂のファサードを飾っている。波瀾万丈の歴史を経てヴェネツィアに辿り着いてからの700年間、サンマルコ聖堂の高いロッジアから悲喜こもごもを見詰めてきた四頭の馬を、今日我々は聖堂内の博物館で見ることができる。

ジェンティール ベリーニ、カルパッチョ、カナレット、フランチェスコ グアルディその他イタリア内外の画家たちがこの馬を描き、詩人ペトラルカやゲーテ、スタンダールのような文豪もこの馬について書き残している。


モスクとなったハギアソフィア
メフメットⅡ世(1451-81)率いるオスマントルコ軍がコンスタンティノープルの城壁を前に布陣したのは1453年4月6日のことだった。
ビザス王の建国以来、この都市は20回以上にもわたる敵の攻撃にさらされながら常にそれをはねのけてきたのは、マルマラ海の岸辺から金角湾まで、街を背後から抱き込むようにめぐらした堅固な城壁のおかげである。

最後のビザンチン皇帝となるコンスタンティヌスXI世はついに自分の小都市帝国の最後の時がきたのを感じ、西方キリスト教世界に援助を要請した。皇帝の嘆願に対し、ローマ法王はイシドロス枢機卿と200人の兵を送ってきた。
枢機卿が最初に行ったのは、ハギアソフィア大聖堂でローマ法王の名の下に東西教会合同を宣言したことである。市民の中からは法王の頭巾を見るくらいなら、トルコ人のターバンの方がましだ”と怒りの声が飛んだという。
ジェノヴァは3000人の兵を送ってきた。

コンスタンティヌスは勇敢にも戦いの決意を固める。(* 最後のビザンチン皇帝はこの日、戦死したと思われるがその墓も確認されず、その最期にまつわる伝説は多い)といっても全軍あげたところで、城壁に配置し、その破損を修理するにも不十分な数だった。

港の入り口は封鎖した。今日、イスタンブール考古学博物館や軍事博物館などに展示されている巨大な鉄の鎖で敵の侵入を防いでいたのである。しかし、ある朝、湾内に70捜以上のトルコ艦隊が忽然と現れ、城壁に対峙しているのを目にして、ビザンチンの人々は肝を冷やした。トルコ軍はペラの丘に丸太を並べた道を作り、油脂を塗ったいかだに船を乗せて引っ張り上げ、ボスフォラス海峡の艦隊を一夜のうちに山越えさせたのだった。このショッキングなできごとはビザンチンの人々を意気消沈させるに十分だった。

トルコ軍の包囲は7週間続き、1453年5月29日、1123年間続いたキリスト教都市コンスタンティノープルは、オスマントルコの21才のスルタン=メフメットⅡ世の手に落ちた。
その日の午後遅く、いくらか秩序も回復された頃になって、スルタンは宰相たちと共にコンスタンティノープルの大通りを進み、ハギアソフィアに向かった。

アヤソフィア
初めて大聖堂に足を踏み入れたスルタンはしばし無言で立ち尽くし、やがて祭壇に歩み寄ろうとした。その時、一人のトルコ兵がフロアの大理石を剥がそうとしているのが目に入った。スルタンはその男に向かい、何故にその敷石を剥がすのかと尋ねた。兵が“信仰のために”と答えると、怒りに燃えたスルタンは刀で切りつけ叫んだ。“おまえたちには財宝や捕虜でたくさんだ。この街のすべての建物は私のものだ”キリスト教徒の歴史家ドュカスによると、このトルコ兵は半死の状態で聖堂から引き摺り出されたという。

イスラムの伝承によると、預言者モハメッドはコンスタンティノープルはいつかイスラムの都となると予言していたという。7世紀にはアラブ人が何度も攻撃し、オスマンのスルタンたちも攻撃しては敗退を繰り返していたが、ついにメフメットⅡ世がその予言を実現させたのだった。コンスタンティヌス大帝にとってハギアソフィアのような聖堂が異教に対するキリスト教の勝利を意味したように、征服者メフメットⅡ世にとっては聖堂をモスクに換えることがキリスト教に対するイスラム教の勝利のしるしだった。スルタンはハギアソフィア大聖堂のモスクヘの改造を命じた。

250年も前のこととはいえ、第四回十字軍の略奪による被害はあまりにも大きく、トルコ人の手に落ちた当時のハギアソフィアはローソク代にも事欠くほど困窮していたという。ドーム頂上の金属の十字架はただちに三日月に換えられ、読経台や玉座、祭壇、イコンや聖遺物、鐘楼の鐘も取り外された。読経台の場には説教壇を据え、祭壇の跡にメッカの方向を示す礼拝の壁がんアラブが設けられた。祭壇は東にあったが、メッカはイスタンブールの南東にあたるのでミヒラブはやや斜め向きになっている。メフメットⅡ世は礼拝の時を知らせる尖塔、ミナレットを2本建設させた。この日から1935年にトルコ共和国の生みの親アタテュルクがここを博物館とするまでの482年の間、ハギアソフィアはイスラム礼拝堂としての役割を果たした。又、オスマン建築にも大きな影響を与えている。

ミヒラブの左右に置かれた巨大な燭台はスレイマン大帝のハンガリー遠征の際にブダのカテドラルから持ってきたもので、スルタンスレイマンとイスラムを称える銘が刻まれている。偶像を禁ずるイスラムの教えにより、壁下部のモザイクは漆喰で覆われた。聖堂の名称が“神への礼拝の家”と解釈されたので、イスラムになってもアヤソフィアとして、継続して使われることになった。

古文書によると、ドームに描かれていたパントクラトール(全能のキリスト)のモザイクはアフメットI世(1603-17)の時代に、アーチの大天使と聖母子のモザイクはマフムトI世(1730-54)の時代に漆喰で隠されている。セリムⅡ世(1566-74)はミナレットの1本を改修、その子のムラトⅢ世(1574-95)の時代にはもう2本を加えて塔は計4本になった。

セリムⅡ世の時代にオスマントルコ最高のミマール(建築家)シナンが大規模な修復をしたものの、19世紀には再度の大修理が必要となっていた。

アヤソフィア 1846年、スルタンアブドゥルメジトはスイスの建築家ガスパル、ジュセッペのフオサッティ兄弟を起用し、2年以上を費やして特別大修理を行った。

ドームやアーチを強化し、南東のミナレットを他の3本と同じ高さに引上げた。モザイクはいったん覆いをはがして汚れを落とし、再び漆喰で塗り固めた。

ペンデンティヴに描かれた4人の天使たちは残したが、大きなメダリオンでその顔を隠した。今日に換算すると2百万ドルにのぼる大修理の費用は、子供のいないある長老の遺産でまかなわれたという。

南側の庭園にはオスマン王朝のスルタンや家族たちのトゥルベ、つまり廟が造られた。最も古い建物であるムスタファI世とイブラヒムの廟はキリスト教時代の洗礼堂だった。他にセリムⅡ世、ムラトⅢ世、メフメットⅢ世(1595-1603)と続いたスルタンたちの墓やその近親者の廟がある。特にセリムⅡ世のトゥルベはミマールシナンの手によるもので、内部にはイズニク(ニケーア)の美しいタイル装飾が見られる。

ハギアソフィアにはその建物にまつわる話も幾つか伝えられている。観先客に最もポピュラーなのが聖堂の北西エクセドラにある柱だろう。これは聖ゲオルギウスの幻影が浮かび出た奇跡の柱としても知られるが、一般には“汗っかきコロム”もっと上品に言うと発汗作用のある柱”として喜ばれている。

“汗”はこの下に設置されている貯水槽からの湿気である。大帝ユスティニアヌスはひどい頭痛持ちだったらしい。ある日も頭が割れそうな痛みに転げ回っていた。アスピリンもバファリンも効果なく、真剣なお析りも無駄だったのにこのひんやりと湿った柱に額を押しつけると、うそのように痛みが消えたという。この“奇跡”を耳にした迷信深いビザンチンの人々は、特に二日酔いの苦しみから逃れようとこぞってここに押しかける。そして柱のその部分はしだいに磨り減って、ついに穴があいたという。穴が大きくなると共に人気はますます高まり、御利益も大きくなる。今日ではこの穴に指を入れると(どの指か、どの位の時間かは問題ではないとか)二日酔いばかりか、不妊に悩む女性達も救われるという評判さえある…突っ込んだ指を良く見ること。その湿り気が多ければ多いほど、あなたは人格高潔というわけだそうな。このようなありがたい柱は古代ギリシャ世界によく見られるものだった。

コーナーにみごとな大理石の大壷が二つ置かれている。ムラトⅢ世の時代にアヤソフィアモスクに運び込まれた壷だが、ヘレニズム時代の作と見られる。お話によると、ペルガモン近くの畑を耕していた百姓が金貨の詰まった三つの壷を掘り当てた。根っからの善人だったらしいこの男は、仰天しながらも直ちに畑に埋め直して都に走り、スルタンに報告した。スルタンは二つの壷はアヤソフィアに運ばせ、一つはその百姓のものとすることを許した。百姓はそれを空っぽにしてから頂きたいと願った。“陛下はわしに壷を下さったので、中の金貨の事は何もお達しがなかったんで…”その正直さに感心したスルタンは、壷が出た土地も彼のものとされたとか。めでたし…


モザイク
創建時のハギアソフィアの内部装飾としで人物や動物像のモザイクはなかったと考えられる。このような広大なスペースを図像モザイクで飾っても、見る人にもよく見えないし、望むような芸術的効果も期待できなかったろう。偶像崇拝を嫌う人々の心情を配慮した皇帝ユスティニアヌスの慎重な態度の表れでもあったに違いない。それにモザイクは時間のかかる仕事である。早く仕上げたいなら非図像モザイクの方が手っ取り早かった。

それはともかくとして、ハギアソフィアの内部装飾には金のテッセラ、つまり金箔のガラスキューブがふんだんに使われていた。広大な天井や壁に惜しみ無く使われた金モザイクはキューブにして1億5千万個、およそ1干トンのガラスが使われたと見積もられる。見る人の視線に近い、低い壁面に施されたモザイク、そのテッセラのくすみやつやにマッチさせるため、高い部分のテッセラは下向きに、あるいは斜めに埋められた。このテッセラに角度をつける方法はコンスタンティノープルの聖ポリエウクトゥス聖堂(525-527建設)で初めて使われ、内部にそこはかとない輝きを与える効果を出していた。

もし、ハギアソフィアの完成時に図像モザイクがあったとしても726年から843年までのイコノクラスム、つまり偶像禁止時代に破壊されたはずである。図像以外のモザイク装飾は、その苦難の時期を乗り越えて今日もドームや壁に残されている。 843年に聖像が復権すると同時に、後陣の上の半円形天井に聖母子像や大天使のモザイクが描かれた。身廊の両側の大きな壁には聖人たちの姿が、中央ドームには全能のキリスト(パントクラトール)がモザイクで描かれた。

オリジナルの非図像モザイクの多くはフォサッティ兄弟による大修理の時に漆喰で覆われたものの、現在まで残っている。ギャラリーや高い所のモザイクの多くが失われたのは、雨漏りなどによってモザイクのベースがゆるんだためだった。

イスラム教の偶像禁止にも拘らず、破壊されたのは大ドームのキリストパントクラトールと三角面のモザイクだけで、それ以外のモザイクはすべて17世紀末から18世紀初めまで残されていた。19世紀のフォサッティ兄弟の大修理の際、覆いをはがされたモザイクも偶像崇拝をいましめるイスラムの習慣に従い、再びホワイトウオッシュ(のろ)やスティンシルでカバーされたのだった。共和国初代人統領アタテュルクの許可を得たアメリカのプリンストン美術研究所のトマス ウイットモア教授がこれを剥がしつつ、ビザンチンモザイクの修復を始めたのは1931年になってからである。

アヤソフィア
モザイクパネル
(身廊と拝廊)
ユスティニアヌスとコンスタンティヌスに囲まれた聖母子
10世紀後期、内拝廊南車寄せの門
皇帝コンスタンティヌスがコンスタンティノープルの街の模型を、皇帝ユスティニアヌスがハギアソフィア大聖堂の模型を聖母子に献上している。聖母マリアがこの街とこの教会の守護聖人だった。

ユスティニアヌスの背後の銘文には“ユスティニアヌス、輝かしき追憶の皇帝”と記され、実は死の直前にようやく洗礼を受けたコンスタンティヌスは“コンスタンティヌス、聖人の中の偉大なる皇帝”と称えられている。

聖母の背後の二分された銘には“テオトコス、神の母”とある。彼女の衣装からは高貴な紫染めのシルクの柔らかな光沢と、どっしりした量感が感じられる。

銀色のモザイクを細かく敷き詰めた聖母の足台は、磨き上げられた銀の一枚板のように見え、白い雲に足をのせているかのようにも見える。
コンスタンティヌスが奉納している街の模型は初期キリスト教美術によく見られるタイプで、高い壁の中の二つの建物はコンスタンティヌス大帝が建立したといわれるバシリカ風の最初のハギアソフィア聖堂と、元老院の建物を意味している。

アヤソフィア
モザイクパネル(ギャラリー)
ハギアソフィア大聖堂の建設後しばらくの間、ギャラリー(二階回廊)は女性たちの場だった。後に南ギャラリーは皇族たちが、本堂で人々の目にさらされることもなく儀式に参列できるように皇室専用の場となり、高位聖職者たちの会合にも使われた。だからこそ重要なモザイクで飾られていたのだろう。

南ギャラリーを仕切る美しい大理石のスクリーンは、オリジナル建物にはなく、後に設置されたものであるが、その時代も目的も不明である。
大きな一枚板にそれぞれ両開きの扉を象った華麗な大理石細工は“天国と地獄の門”と呼ばれるにふさわしい。


ディーシス
13世紀後半あるいは14世紀前半.南ギャラリー中央格間
イエスキリストを中央に、聖母マリアと洗礼者聖ヨハネを描いた聖画をディーシス(請願図)と呼ぶ。

このモザイクの聖母と洗礼者は人類の仲裁者としての姿に表されている。体をかすかにうつむけ、罪深い人類の許しを請う二人。聖ヨハネは苦痛に満ちた悲しげな表情で、キリストに対する謙虚さ、帰依の心がにじむ。マリアの表情は慈愛と静けさをたたえ、恥じらうかのように視線を落としている。二人ともモザイク画には珍しく人間のデリケートな精神性の表現に成功している。

中央のキリストは王座にかけていた。それは残されていないが足をのせていたストゥールの一部がごくわずかながら残っている。祝福のしぐさを示す右手、左手には宝石をちりばめた福音書を持つ。宙を見詰めるようなまなざしに悲しみが漂い、神というよりも人間としての気高さを感じさせる。

コンスタンティノープルのモザイク美術の最高傑作のひとつとされるこのモザイクは、1261年にミハイル パライオロゴスがラテン人を追い払い、ビザンチン帝国を再興させた後の、文芸復興のしるしでもあった。13世紀後半とする説もあるし14世紀初期という説もあり、正確な制作年代もわからず、パネル全体の3分の2は失われたものの、主な部分が無傷のまま残されたのは幸いというしかない。思想信条を越えて、見るものに強いパトス(情念)を感じさせる作品である。

アヤソフィア
全能のキリスト、皇后ゾエ、コンスタンティヌスIXモノマコス
11世紀中期-12世紀初期
南ギャラリー奥
キリストに捧げる象徴としての金貨の袋を持つ皇帝。頭上の銘には“コンスタンティヌス、キリストに守られた信仰あつき君主、ローマ人の王モノマコス”皇后ゾエには“いとも信心深きアウグスタ”とある。彼女の手の巻き物には“神キリストと共に。コンスタンティヌス、信仰あつきローマ人の王モノマコス”と記している。3人の頭部と皇帝の銘の部分のみが彼等自身の時代の作である。

皇女ゾエ(1028-50)は3人の皇帝を夫とした。ロマヌスⅢ世(1028-34)、ミハイルIV世(1034-41)、コンスタンチンIX世モノマコス(1042-55)である。モノマコスと結婚したとき、このパネルから前の夫の顔を消して今の姿となった。同様な描きかえは前の結婚のときも行われ、その時には夫妻の顔と同時にキリストの顔も描きかえた。その後、つかの間の皇帝となったミハイルV世(1041-42)は敵であるゾエとミハイルIV世の顔をつぷしたが、キリストには手を触れなかった。その後、3度目のカップルの像が描かれた時、調和をとるために、モザイク師はキリストの顔も描き直したという。

聖母子と皇帝ヨハネスⅡ世コムネノス、皇后イレーネ
12世紀、南ギャラリー奥
このモザイクパネルはヨハネスⅡコムネノス(1118-43)が即位した1118年の作と考えられる。
息子のアレクシウスが脇の壁に描かれたのはそれからまもなくだった。

聖母マリアは皇帝夫妻よりやや背が高く表され、濃紺の衣装をまとい、上質なイコンを思わせるその顔には神の母としての威厳が漂う。頭上に“神の母”という称号が鮮やかに記されている。

皇帝と皇后の装いは真珠や貴石をちりばめた華美なもので、くさりかたびらを思わせる細かな細工が施されている。豪華な王冠と首飾りの間にのぞかせた顔はモンゴル系を思わせるような平板な感じがする。

金貨の袋を手にした皇帝は“神なるキリストの中のヨハネス、紫の中に生まれし信仰あつき王、ローマ人の君主、コムネノス”と称えられ、巻物を手にした赤毛の皇后の銘には、“イレーネ、いとも信心深きアウグスタ”とある。
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