トルコ旅行(ツアー・観光)専門の人気ナンバーワン旅行会社『ターキッシュエア&トラベル』 | カッパドキア

JATA
観光庁長官登録旅行業第1997号
日本旅行業協会 正会員
東京商工会議所 会員
トルコ観光名所ガイド

カッパドキア


アナトリア中央部は四方を山にかこまれた高原地帯である。およそ紀元前1500年まで、このあたりは広大な内海であり、今日の塩湖、(Tuz Gölü、1620 km2)はその名残である。

この内海が干あがったころ、地中海沿岸のタウロス山脈に住む旧石器狩猟民たちが、内陸部、カッパドキア地方の大部分を占める現在のコンヤ平原の肥沃な土地に向かって、移動し始めたと思われる。

カッパドキア近郊のチャタルフユックの丘は、これまでに発見された中で最大の新石器時代の遺跡としてユニークなものである。発掘はまだほんの一部行われたにすぎないが、その出土品によって、先史時代の独特な文化の担い手としてのアナトリアの役割が明らかになってきた。
これらの出土品は紀元前6500年から5500年頃のものと推定され、アンカラのアナトリア文明博物館に展示されている。

出土品の中で注目すべきものは人工の壁に描かれた最古の壁画である。壁画のひとつには、えんじ色の矩形が並び、ピンクに赤のふちどりの二つの山型がみられる。

この絵の下の部分が居住地の図だと考えると、上の二つ並んだ山型はハッサンダア(ハッサン火山)とみられる。一つの山の上方に赤い点々が見えるが、ハッサン火山は紀元前2世紀まで活火山であった。この絵はこれまでのところ最古の地図といえる。

発掘の結果、青銅器時代においてもアナトリアは独特の文化を創りだしていた事がわかってきた。メソポタミア地方以外で、今、我々が知っている国々の中ではハッティが最も早く文明化された国で、その言語や宗教についても多少知られるようになってきた。ヒッタイトの首都ハットゥシャという名は本来、ハッティの住むところ、という意味である。ハットゥシヤから遠くない、アラジャフユックにある歴代のハッティ王の墓地からは、貴重な金や青銅の財宝がみつかり、それらは今アナトリア文明博物館に展示されている。

紀元前2000年ころ、インドヨーロッパ語族のヒッタイトが、ボスフォラスとダーダネルスの両海峡を越えてやって来て、アナトリア諸国に支配力をふるうようになった。ハットゥシャの王家の公文書庫から出土した楔形タブレットは、まだ断片的にしか解読されていないが、古代世界史上においてヒッタイトがきわめて特殊な位置を占めていたことを示している。
カッパドキア旅行・観光の案内ビデオ
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2分31秒

カッパドキアの歴史的背景

ヒッタイトがアナトリアヘやって来たころ、カッパドキアには、いくつかの小国とアッシリアの交易都市があった。カイセリに近いキュルテペ(古代のカネシュ)は交易都市の中でも最も重要な町であった。

紀元前1200年頃、ヒッタイト帝国が滅んでアナトリアの暗黒時代が始まり、その後紀元前6世紀にリディア(首都サルディス)の属国になるまでカッパドキアに関する消息はほとんどない。紀元前6世紀半ば、リディア王クロエソスは、アケメニッド王国のキュロス大王に敗れカッパドキアを失なった。

紀元前333年、アレクサンダー大王の遠征の後、紀元後17年にローマの属州となるまでの間、カッパドキア地方は比較的自由な時代を楽しんだ。この時期、カッパドキアを支配した地元の諸王朝の中で、紀元前332年にアリアラテスが樹立した王朝が一番重要なものである。

ローマ帝国も、続いてやってきたビザンティン帝国も、この地域の文化を吸収しようとはしなかった。彼らの関心は、道路を確保し交易ルートを守ることと、この広大な平原の労働力をビザンティン軍のために有効に便う事にしかなかった。

支配階級や軍隊は便利な地点に駐留しそこに町ができていった。ゾロパスス(Zoropassos)一現在のギュルシェヒル(Gülşehir)、ソアンドス(Soandos)、ペリストレマ(Peristrema)―現ベリスルマ(Belisırma)、コラマ(Korama)―現ギョレメ(Göreme)、ソアンダス(Soandos)―現ネブシェヒル(Nevşehir)などがローマとビザンティンの時代の中心都市として発達した。

カッパドキア
この地方の住民はいつも岩の多い場所に好んで住んでいた。山の上、谷、深い峡谷の岸辺に家を作った。石を利用し、あるいは自然の岩を穿ってそこに住んだ。10世紀のビザンティンの歴史家が言っている。カッパドキアの住民はかつて世捨て人と呼ばれた。というのも彼らは穴から地中にもぐり、岩の割れめや迷路のような隠れ家に住んでいたから。

住民の多くは主に農業に従事しており、特にぶどう栽培と家畜の飼育が主な仕事であったが農地や牧草地は町に住む地主のものだった。住民は、作物の大部分を占領軍や、神殿の維持のために供出するよう強制されていた。

2世紀にキリスト教が知られるようになったころ、カッパドキアはさまざまな思想、哲学、東方諸宗教の入り乱れるるつぼだった。初期のキリスト教徒はおそらく、ローマの宗教的迫害から逃れてきた人々だったろうが、キリスト教徒の大部分は、タウロス山脈全域を占領したアラブ人の支配からカッパドキアヘ避難してきた人々だった。これらの新しい住人たちは、丘の斜面を掘り岩を刻んで教会をつくり、内部をフレスコ画で飾った。このようにして、まもなくカッパドキアの岩石地帯は修道院や修道士のいおり、教会などの大展示場の様相を呈するようになったのであった。

11世紀後半にセルジュク族がやってきたとき、カッパドキアには1000を越える宗数的施設があったらしい。カッパドキアのキリスト教社会と、イスラムのセルジュクトルコの関係は友好的であった。14世紀に入って、オスマン帝国に吸収された。キリスト教信者のギリシャ人たちは、後世のトルコとギリシャの人民交換政策により、1920年代にカッパドキアを離れることになる。

カッパドキアの宗数的背景

この地域は交易ルートの交差点だったので、さまざまな思想、信条、哲学、宗教がいり乱れて入ってきた。1世紀の半ばに聖パウロがここを訪れたとき、ゼウス、ミトラ、アティス、ディオニソス、地母神などの神々がひとつ又はいっしょくたに崇拝されていたにちがいない。新しい宗教はこれらの既成宗教と対決しなければならなかった。


聖バジル、ナジアンザスの聖ジョージ、カッパドキアのニサの人、聖グレゴリーは、これらの異教信仰と立ち向かい、当時のキリスト教思想を形成するのに力を尽くした。中でも、聖バジルはギリシャ正教会の4人の教父のひとりとされ、(他の3人というのは、聖ジョン・クリソストム、ナジアンザスのグレゴリー、そしてアタナシウス)カッパドキアの教会にもしばしば、肖像が描かれている。彼はカエサリアの裕福な家庭に生まれ、コンスタンティノープルとアテネで学問を修めた。そして広く各地を旅した後、貧しい人々に自分の財産を分け与え、自ら定めた厳格な規律に基づく修道的共同体の創設に献身した。


ギョレメの岩窟教会観光

カッパドキアには全部で1000以上の教会があり、そのうち150くらいには壁画や彫刻の装飾がみられる。ギョレメの谷の曲りくねった斜面は、修道士たちが好きなように教会を作るうえで便利であったのでこの谷には30以上の教会がある。

カッパドキアの建造物の多くは、岩を丸ごと掘って作られているが、これは安全性のためと同時に、他から隔絶していたいがためでもある。見つけにくい小さな穴を除いて、外観からそれとわかる目印はない。この小穴は入口、窓、明り採りの役をはたしている。


ギョレメの岩窟教会は、カッパドキアのこの種の建築の最高の例である。旅行者はガイドも予備知識もなく歩いても教会を見つけることさえできないだろう。岩窟教会の外観は、保護のためカモフラージュされており、豪華で変化に富む内部と対称的である。しかし華麗さはあっても、建築学上の一派がこの地方にいたと思えるほどの特徴は見当たらない。1 、2、あるいは3つの側廊のある聖堂、横の身廊と丸天井のある教会、あるいは十字平面の教会がよくみられるタイプである。時には同じような、又は異なったタイプが併用されポーチやチャペルがつけ加えられている。測量や方向配置のまちがいも多かった。建築様式の特徴の多くは、シリア、パンフリア、ビザンチンといった近隣諸国の借りものである。

自然のままの凝灰岩を切ったり掘ったりして教会を作るのは、材料を運んだり組み立てたりするよりも易しかったにちがいない。しかしながら、ギョレメの円柱教会(エルマルキリセ、カランルクキリセ、チャルクルキリセ)をみると、建築家たちがいかに材料に精通し、たくみに作りあげたかよくわかる。彼らは内部の建築様式を構造上必要のないものまで、まねて作った。岩を掘って、円柱、半円柱、柱頭、穹隅、つけ柱、ドームを作ったが実用的な要素は特になかった。したがって、仮りにどれかがくずれても建物自体には影響がなかった。

トカルキリセ

トカル・キリセはカッパドキアで最大の岩窟教会のひとつであり、フレスコ画も最も良い状態で保存されている。大きな修道院の主たる教会であったにちがいない。トカル・キリセの意味は「留め金具の教会」で、これは新教会として知られる聖堂第二身廊のアーチに彫られた装飾の形に由来する。

トカルキリセの建築様式は、この地域の他の教会とは少し異なっている。メソポタミア方式として知られる横の身廊を備えた様式である。もともとひとつの身廊と丸天井を備えた初期の教会―いわゆる旧教会―には見られない中庭もついている。

トカルキリセ
旧教会のフレスコ画は10世紀以前のものである。彼らはまず、円天井南側の頂点から始めた。描かれたテーマは、受胎告知。聖母マリアのエリザベト訪問。処女の証明。ベツレヘムヘの旅。キリスト降誕。三博士の礼拝。幼児大虐殺。エジプトヘの逃亡。ザカリアの殺人。エリザベトの飛行。洗礼者ヨハネの叫び。洗礼者ヨハネの予言。キリスト・ヨハネと会う。洗礼。カナの奇跡。使徒の叫び。

パンと魚の奇跡。盲人を癒やす。ラザルスのよみがえり。エルサレム入城。最後の晩餐。裏切り。ピラトの前のキリスト。ゴルゴタへの道。はりつけ。キリスト降架。埋葬。埋葬所の聖女たち。冥府降下。北壁の低い部分には一面に聖人の絵が描かれている。

新教会の大きな横の身廊には、三つに分かれた円筒アーチ型大井もある。身廊の壁には一連の壁龕があり、それがフレスコ画に深みを与えている。新教会のフレスコ画はビザンチン美術の最高の例であり10世紀後半のものである。

北側後陣に断片的によみとれる銘には、「内陣は、コンスタンティンの息子レオンの寄進により…… ニケフォロス…… 飾られた。これを読むものは彼らのために神に祈るべし、アーメン」。レオンとコンスタンティンは寄贈者で、ニケフォロスは画家にちがいない。

新教会の身廊北側の通路は、となりの礼拝堂へと続いている。このような通路のいくつかは後になって閉鎖され、フレスコ画が描かれた。

円柱教会

ギョレメ地方屈指の三教会は一般に「円柱教会」として知られている。エルマル・キリセ(Elmalı Kilise)
りんごの教会-かつて入ロのそばにりんごの木があったのだろう。カランルク・キリセ、(Karanlık Kilise)くらやみの教会、そしてチャルクル・キリセ(Çarıklı Kilise)サンダルの教会-フレスコ画の人物がサンダルをはいていることから、ともいわれ、又、教会の床の二つの窪みが聖人の足跡とみられるからともいわれている。

ギョレメの岩窟教会
これらの三つの教会は11世紀半ばころ作られたらしい。ちょうどビザンティン帝国の東部国境がトルコの侵入におびやかされていたころでビザンティン皇帝の政治力は弱かったがしかしまだ宗教芸術の核心であり、カッパドキアのようにビザンティン側に変わった国にとっては、発想の源でもあり手本でもあった。

この三つのうち二つの教会に食堂が残っていることからも修道院に属する教会であったことがわかる。教会を建て内部を飾るための資金を寄進した人々の名前が、部分的に絵の中にみられる。カランルク・キリセでは4人、チャルクル・キリセでは3人の名前が記されている。絵の中の人々の服装から判断して、彼らは軍貴族ではなく、富裕な大地主であったろう。地方の農民が牧畜によって大金持になったという記録もある。

建築学上の細かなちがいや画法のちがいはあってもこれらの教会は同じ学派の手になったものと思われる。
ミレトスの近くのラトモス洞窟、中央ギリシアのホシオルカス教会の地下室、キプロスにみられる壁画などから、おそらく各地の教会をわたり歩いた画家たちがいたことが考えられる。この修道院方式はカッパドキア方式といわれている。絵については何ら美的目的というものはなかったので美的水準もないようにみえるが隠者や修道士たちがこの絵の前で瞑想していた姿が想像できよう。

絵には農民芸術のいきいきとした活力がみなぎっている。人物の表情は感情ゆたかで、大ざっぱな力強い輪郭が描かれている。直接的感情表現で単純な物語を率直に語る効果をあげている。又、建築学的にも、他の教会よりも一段と上の力量が感じられる。

エルマルキリセ

この教会にはひとつの十字平面が彫られている。柱頭をもった4本の円柱が中央の隔室を形づくり、それをとりまく8つの副格間もドーム形をしている。主後陣はチャルクル・キリセと同様、壁でさえぎられている。

この教会の画法としては広範なレパートリーを持っているが中央と壁の下部の絵はひどく破壊され、残っているフレスコ画にも寄贈者の肖像はみられない。主なテーマとしては、中央ドーム―キリストパントクラトール。小ドーム―大天使。後陣半円形天井-ディーシス。後陣壁―聖人たち。北側後陣―聖母子。南側後陣―大天使ミカエル。

十字天井とルネットの壁上部―キリスト降誕。三博士の礼拝。洗礼。キリストの変容。ラザルスのよみがえり。エルサレム入城。最後の晩餐。裏切り。ゴルゴダヘの道。はりつけ。埋葬。埋葬所の聖女たち。冥府降下。昇天。壁パネル―アブラハムと3人のヘブライ人のもてなし。

エルマルキリセ

カランルクキリセ

円柱教会の建築や壁画は同じ流派の手によるものと思われるが、よく見るとカランルク・キリセは他の二つと少し異なっている。建築上、独自により教会らしく作られている。ドームと丸天井は円柱の上に置かれ本物の建築物のようにみえる。肖像画は教会の構造にあわせて、わくの中に念入りに描かれ、建築家や画家は時間的にも経済的にも良い条件の下で仕事をしていたことがうかがえる。

青い色は高価な藍銅鉱から採れるのだが、ここでは他の教会よりもふんだんに使われている。エルマル・キリセとチャルクル・キリセでは、青のかわりに灰色が多く使われていて、建築家や両家の待遇もカランルク・キリセほど良くはなかったにちがいない。

カランルクキリセ

チャルクルキリセ

チャルクル・キリセに残っているフレスコ画の配置は、中央ドーム―頂上にパントクラトール。穹隅―福音書をかく4人の伝道者。補助ドーム―ミカエル。ガブリエル。ウリエル。内陣しきり―受胎告知。丸天井と隣接するルネット―キリスト降誕。三博士の礼拝。

洗礼。キリストの変容。ラザルスのよみがえり。エルサレム入城。裏切り。ゴルゴダヘの道。はりつけ。冥府降下。埋葬所の聖女たち。キリスト昇天。北側後陣ルネットーアブラハムのもてなし。中央後陣半円形天井―ディーシス(キリストの肖像)。中央後陣壁―6聖人。

西側径間の西壁には寄贈者のパネルがある。肖像と銘により、「神の忠実なしもべ、テオグノストス(Theognostos)、レオン(Leon)。ミカエル……」などと読みとれる。パネルの中央にキリストの十字架を手にして描かれているのは、多分キレーネのシモン (Simon)だろう。

チャルクルキリセ

聖バルバラ教会

11世紀後半、小さな側廊がひとつ、又は十字平面のドームのある教会がギョレメの谷に幾つか建てられた。聖バルバラ教会とユランル・キリセはこの中のひとつである。これらの教会の装飾はかなり幼稚なもので、絵は岩に直接、又はうすく漆喰を塗った上に描かれている。

この方式がカッパドキアではじめて使われたのは、ゼルヴェの例もあるように偶像禁止以前のことであった。主に使われている色はオークルレッド(赭土色)である。赭土、孔雀石、マンガン等の鉱物はアナトリアではたやすく手に入り、先史時代から使用されていた。赤い十字架は、建物全体を聖域化することを意味していた。

教会に残っている絵の中で、後陣には王座のキリスト像がある。北壁には聖バルバラの肖像と聖テオドールとジョージがみられる。聖人の間に残ってみえる銘には、「神よ、汝のしもベファリボンを……」レオン、マルリネスを救いたまえ」これらの名前はこの教会の寄贈者なのだろう。

この時期のキリスト教徒たちは具象画よりも、秘教的象徴により心をひかれていた。鳥や魚や動物の絵は一見したところ、単なる装飾のようにみえるが、彼らにとっては何らかの深遠な意味をもって描かれていた。

聖バルバラ教会

ユランルキリセ

11世紀後期に建てられたギョレメの教会に共通しているのは、単純な赤の線画と、聖像のようにわくにはめこまれたキリストや聖人の像などである。聖バルバラ教会とユランル・キリセ(蛇の教会)はその例である。

中に入ると横の身廊の西壁に聖バジル、聖トマス(Thomas)、聖オノフリウス(Onophrius)が並んでいる。その反対側にはコンスタンティン大帝とその母聖ヘレナが、キリストの本物の十字架を手にして描かれている。そのとなりには聖ジョージ、テオドロスの蛇退治の場面。聖テオドロスはローマの兵士だったが、ポントスのアマシアで、同僚たちが異教徒の礼拝に加わることに反対して地母神の神殿を焼きはらった。

そして彼は拷問にかけられ殺されて死体は炉に投げこまれたのであった。4世紀に入ってから、彼は3人の偉大な軍人のひとりとしてあがめられた。(他の二人は聖ジョージと聖デメトリオス)。

聖オノフリウスは4~5世紀頃、エジプトの砂漠に暮らす隠者であった。もともと修道院の僧であったがある日天啓を受け、孤独な生活を求めて砂漠へ向かった。

飢えと渇き、暑さや激しい誘惑に苦しんだが、神はなぐさめと食物としてなつめやしを与えた。それは砂漠の彼の小屋のそばで大きく育った。70年もの間、彼は木の葉を腰にまいただけで暮らした。髪は地面まで届いて…

ユランルキリセ
オノフリウスの名声は遠くカッパドキアまで及んだ。ローマには彼の名に因んだ教会もある。しかし、カッパドキアの人々の口からでる彼の物語には新しい装飾がほどこされている。それによると、もともとオノフリウスは女だった。

このあやしげな見方は、小さなガイドブックにまでのせられ聖人伝よりはおもしろい。はじめは、みだらで軽薄な女だったが、後に男達の欲望から身を守りたいと神に祈った。万人に寛大なる神は、フレスコ画にみられるように醜く見せるため、男のように長いひげをはやさせた…
又、オノフリウスは古代ヘルモアフロディテの中世における再来だという人もいる。

この話は、おそらく裸体の誇張された胸の郭と、木の葉を下帯に使っている事から考えついたのだろう。当時のフレスコ画家たちが“生身の人体”をどう扱ったらよいか知っていたとは思えないが、長い髪とあごひげ、腰にまとった木の葉で裸体を表現したのは上出来だったろう。


ゼルヴェ観光

カッパドキアの自然環境は、数百万年前の火山の噴火によってできたものである。活火山の中でも、エルジェス山(Erciyes Dağ 3917 m)は今もカッパドキアの景観を支配している。ガス雲、火山灰、熔岩が谷や平原をおおい、気候の変化、雨、風などによって、ごつごつした大地、固い岩石などこの土地特有の、自然の威力による風景がうまれた。

カッパドキアの中でも、ゼルヴェはとりわけ、風変わりなところである。幾つもの峡谷が一点に集中し、自然の円形闘技場のようにみえる。峡谷の斜面には聖堂や大小の住居が蜂の巣のように集まり、ここがかつてこの地域でも最大級の生活共同体であったことが推測できる。少なくとも、50年前までここに人が住んでいた。岩がもろくなってこれ以上の人口を支えきれなくなったので、危険を避けるために人々はイェニゼルヴェ(新ゼルヴェ)という村に移ったのである。

ゼルヴェ
ゼルヴェの教会は、時の流れと気候条件、そして人間達によってしだいに損なわれ、今は多くは残されていないが、悪条件の下でも初期の壁画がいくつか残っていることは注目に値する。

建築学上、初期の特色といえるのは岩の天井部分に彫られた巨大な十字架である。今もウズムルキリセ(Üzümlü Kilise)やゲイクリ・キリセ(Geyikli Kilise)など、幾つかの教会にみられる。カッパドキアの住民は、十字架に対して受難にうちかつものとしての特別な畏敬の念をいだいていた。十字架ヘの人気をみると、偶像禁止論争以前からすでに、肖像画には反対だったのではないかと思われる。

ギョレメ

ギョレメの村は、ギョレメの谷を流れるコタラク川の岸辺にあり、旅行者にとって魅力的な場所である。又、地形をうまく利用した例としても完璧なものといえよう。ギョレメでは、石の建物が、岩や塔のような尖った岩の奇妙な風景とうまく調和している。

めずらしい幾何学的形をした岩は孤立して、あるいは思いおもいに集合して立っており、個々の家としてだけではなく、ひとつの共同体としての骨ぐみをも形づくっている。岩の内部はくり抜かれて、多くの居室や貯蔵庫になっており、中には、いすや棚や各種の容器も岩をくり抜いて作ってある。ふつうは正方形の設計で数階建てのものも見られる。

ギョレメの谷

地下都市

 地下都市巡りをせずにカッパドキアを語るべからず。人を驚愕させる数多くの造りの中で最も知名度の高いものがネヴシェヒル~ニーデ間にあるカイマクルとデリンクユの地下都市である。火山灰の層を削り、時には地下8から9階にも及ぶこれらの設備は、狭い通路、換気孔、生活の場などをしてあたかも迷路を想わせる。地下都市での生活はキリスト教時代以前に既に営まれていたが、頻繁に利用されたのはアラブの勢力に対しての避難所としてであった。

アラブの脅威には様々な対策が練られたがどれも効を奏せず、キリスト教徒であった地元の人々はここに隠れて敵の撤退までの仮住まいとした。危機に際しては円い石臼状の扉で遮断できた狭い通路、通気孔、非難用のトンネルなど、この地下都市が完璧な防御の機能も有していたことに気づかれることだろう。

大小様々な部屋、寝室、馬屋、テーブル、ワインの醸造所、教会等、日常生活に必要な全ての機能や道具は岩を削って作られた。巧く設けられた通気孔のお陰で、地下の最も深い所に於いてさえ楽に呼吸する事が可能であった。

地下都市建設に際して、掘り出した土や岩をどこに捨てたのか、この信じ難い規模の設備を完成させるまでには一体どの位の年月を要したのか、そしていつ、誰が利用してきたのか… 確かな答えは未だ得られていない。カッパドキア地方に大きな危機が訪れた時代のものと想定されるが、碑文も装飾も皆無な為に、年代解明も困難を極めている。

カイマクル地下都市

カイマクル地下都市観光

双方とも石灰岩を掘って地下8階から10階の深さにまで達している。完全に地下部分に作られていることとその規模の大きさから、他のカッパドキアの岩窟住居とは一線を画している。観光客の注目をあびるようになったのはわずか50年前くらいからのことで、それは前には村人の貯蔵室や納屋として使われていた。

これらの地下都市は、キリスト教時代のずっと以前に端を発して、人口の増加につれてしだいに大きくなってきた。
クセノフォン(Xenophon)が「小アジア遠征記」(注)(Anabasis)の中でこの地下都市について書いている。―家々は地下に作られている。入口はまるで井戸のように低く下に向かって広げられている。家畜のためにはトンネルがあり、人間ははしごを使っている。家の中に山羊、羊、牛やにわとりが飼われている。大きな壷には、ワインがなみなみと入っていて、のどがかわいたものはだれでも、そのそばの葦をとってワインを吸うことができる。
ワインは水でうすめないとかなり強いが慣れてくると、すてきな飲物である……

ガイドについて歩くか、矢印にそって注意深く進むかしなければ、カイマクルではすぐに道に迷ってしまう。長短さまざまなせま苦しいトンネルが、四方八方に延びたり、時には通路を急カーブでえぐって、窪みを利用した大きな部屋があったりする。ここを訪れた人は、壁を堀った箱型ベッドに気をとられる。通風坑は、数階あるいはすべての階を突き抜けている。その幾つかは地下水まで達して、井戸として水を供給している。

この地域はしばしば侵略されたこともあったらしい。というのは一つの階ごとに、石うすのような大きな丸い石板で閉じられるようになっているからである。石板の直径は1.5m、いざという時、すぐにころがすことのできる場所に置かれていた。

(注)紀元前401年、アルタクセルクセスはペルシャの王位についた。しかし王位を奪おうとした弟のキュロスは、サルディスで、傭兵や志願兵の大軍を集めペルシャヘ向かった。アテナイのクセノフォンはギリシア兵のひとりとして遠征に加わり、各地の様子を細かく書き残している。

ヒサル

オルタヒサル観光

 オルタヒサル(「中央の砦」という意味)はネヴシェヒルとユルギュップの間にある(後者側に近い)集落である。素朴な造りの家屋や蔵(果実や野菜の貯蔵庫)が並んでいる。建物は大抵2階建てで、2階へは外から直接手すりのつかない階段で上がるようになっているのが普通だ。最近建てられた建物も地元の石を利用し、白塗りの壁で造られている。

村の広場には、ごつごつした一本岩が塔のように聳えている。「シブリカヤ」と呼ばれる岩で、中は掘り貫かれて無数の部屋となっておりまるで雑居アパートのようだ。

オルタヒサルのすぐ近くには2つの教会(サリカとハルム)もあるし、集落の中にもモスクがあり、白いミナレットが美しい。
この集落を一歩出ると、ごつごつした岩山にとり囲まれる。ここから村を遠望すると、白色とバラ色の四角い家が並ぶ中心に、恐ろしいあばた面の巨大なシブリカヤがにょきっと突き出した様子が眺められる。岩の形は眺める角度によって様々に変わるが、いずれにしても奇妙な光景である。


ウチヒサル観光

 ウチヒサルとは、ギョレメの町の近郊にある。遠くから見ると、無数の窓の付いた険しい岩山がそびえているように見えるが、この「窓」は岩壁をくり貫いた部屋である。浸食作用で地滑りを起こして内部が露出した部屋もある。この凝灰岩の岩山は、形は違うが近くにあるオルタヒサルのそれを何となく連想させる。3つの要塞のような形をしており、カッパドキアの入口の一連の「要塞」のひとつである。

住宅地と同じ平面にそびえるこの「要塞」は高さが数十メートルで、西側から眺めると円筒形の建物を中心に、尖塔を両脇に置いた城塞のように見える。

ところで、住宅地の下には数百メートルに渡って凝灰岩盤を掘り連ねた坑道がある。古代に掘られたもので、敵に包囲された際に外部と連絡し、水の供給を確保するために掘られたらしい。
この村もオルタヒサルと同様、最近は観光施設が建てられるようになってきた。

ウチヒサル
集落の中心から少し外れたところにいわゆる「ハト小屋」と呼ばれる建物が点在する。カッパドキアではよく見かける建築物で、ウチヒサルでは特に盛んに建てられている。この「ハト小屋」の内部には鳥が巣を作るための窪みがたくさんある。鳥が落とす排泄物の蓄積は、短期間で肥料として使われるグアノ(鳥糞石)の層となるのである。

ウチヒサルの近くに深い岩溝が口を開いている。川の流れが台地を深くえぐってできたもので、緑の平原が突然消えると、そこに草木も生えぬ白い絶壁が顔を覗かす。その岩肌の白さから、谷は「白雪の谷」と呼ばれている。

ウチヒサルから北に車を進めると、北のチャウシン、ゼルヴェ方面と東のギョレメ方面に道がふたつに分かれる分岐点に至る。ここにアヴジュラルの村がある。

村には今では観光用のホテルやレストランが造られている。しかし、岩を掘ってファサードを構えたローマ時代の墓地があることからも分かるように古い歴史を誇る村である。

最古の住居は、平野に点在する円錐形の岩に造られていた。カッパドキアの他の村と同様住民は最初、凝灰岩の岩山に四角い部屋を掘って、何家族も一緒に住んでいたらしい。しかし後世になって、より平和な時代になると岩山の周りに散らばるようになり、石造りの四角い家屋も造られるようになった。

ユルギュップ観光

 カイセリを、ネヴシェヒルやアクサライの町と結ぶ道路に沿った所にユルギュップの町がある。岩山をくり貫いて道られた昔ながらの家屋は、高い台地の麗のゆるやかな傾料地にあり、くすんだピンクやベージュの岩肌と溶けあっている。この古い町並みの切れる低地には現代的な観光施設も並んでいるが、景観には細心の注意が払われている。何しろこの特異な自然の風景は、ユルギュップの人々にとって掛け替えのない財産なのである。

ユルギュップ
ピンク色の大渓谷が横たわるこの広い一帯は、凝灰岩を採掘した穴やユルギュップからネブシェヒルにかけて見られる「妖精の煙突」などの風景で知られている。「妖精の煙突」とは浸食作用の悪戯で出来た奇形で、円錐形に削られた凝灰岩層の上に、硬質の地層がまるで帽子のように乗っているものだ。この硬い「帽子」は、結果として下の柔らかい凝灰岩層を雨から守る役も果たしている。

タガールという集落には一帯で厚く信仰されている聖テオドシウスをまつった、同名の教会がある。岩をくりぬいて造られ、この一帯ではかなり大きな教会で壁が崩れた跡が趣ある。聖堂内は4本の支柱がドームを支えており、11~13世紀のフレスコ画には幾何学模様や人物がも見られる。

またダムサの集落にはイスラム芸術の花のようなタシュケンパシャの建物がある。16世紀のモスクは3廊式の四角い会堂で、ドームを戴いている。木製の祭壇や玄関も見事だ。近くにはもっと小さなモスクもありこちらにはミナレット(尖塔)と中庭も付いている。

ユルギュップ

チャウシン観光

 ギョレメからアヴァノス方面に2.5kmほど行ったところにある村だ。大変古い時代からあった集落で、中央の岩山を中心に敵の攻撃から身を守る造りになっていた。

ここの岩山は浸食作用が進んで、大部分は崩れ落ちてしまっている。村の旧地区には崩れた凝灰岩が積み重なっており、その上方には、まるで芝居の舞台のような丸い形にえぐれた岩山がある。岩面に見える穴は、昔は岩の内部に掘られた部屋だったものだ。

洗礼者ヨハネのバジリカはここにあった。岩山を掘って円柱で3廊式に仕切られたバジリカで、おそらく8世紀頃に造られたものだという。しかしこれも最近、岩山の崩壊で傷んでしまった。こうした崩壊の危険性を避けるため、現在の村落はもっと前方の平野部にあり、転落する岩塊が届かない距離を保っている。

チャウシン
チャウシン・キリセ

この教会は集落の外にある。建築様式はギョレメの教会と同様に大変古い。
丸い入口から中へ入ると3廊式で丸天井の回廊が会堂がある。内部は赤や褐色、白、緑などの古風な色調の壁画で飾られている。

入口の天使像は損傷が激しい。また会堂内には「キリストの生涯」のエピソードや聖人像などが描かれている他、パネル内の円縁に聖人の胸像が描かれている。さらに中央後陣には大きなキリスト像が、両脇の後陣には聖トマスと聖バルトロメオの姿が描かれている。

妖精の煙突

ゼルヴェ近郊のパシャバウには、いわゆる「妖精の煙突」(地元では「虫食い西洋梨」と呼ぶ)のある渓谷がある。凝灰岩塊を抉って修道上が隠棲した僧房が点在していることから「修道士の谷」とも坪ばれる谷である。

この谷の特徴は、独特の形をした岩が林立していることで、この岩の形が煙突に似ていることから、岩の中に魔術に長けた妖精が住んでいるという古い伝説が生まれた。

「妖精の煙突」のあるカッパドキア地方の異様の地形は、太古の昔、火山の大爆発によって出来た火山性台地が、何万年もかかって浸食されて出来たものだ。地層は各層の硬度や質が違うため、柔らかい部分から浸食が進み、硬い玄武岩で出来ている表層部分がまるで帽子のように残り、その下は殆ど水平に削られたいる。

「煙突」には自然の浸食作用に加えて、人の手も加えられてきた。多くの「煙突」が、中がくりぬかれて隠者の僧房や民家となっている。中でも有名なものは道路沿いにありまるで円柱が帽子をかぶっているような姿をしている。その内部は礼拝堂となっている。

カッパドキア
この渓谷で最も有名な修道院は「修道士シメオンの岩」と呼ばれている。これは3本の煙突を備えた凝灰岩塊で、内部は1階に礼拝堂、階段で上がる2階には幾つか部屋かあった。しかし岩崩を起こしたため、現在では一部分しか見ることが出来ない。

岩の名は、礼拝堂に柱頭行者聖シメオンの生涯を描いた連続壁画があることに由来する。聖シメオン(A.D.390-459年)はアンティオキアで苦行に励んだ聖人だ。監獄の囚房や空井戸の中での生活にも満足せず、町を離れて岩山に入り岩穴の内部に自らを鎖で縛って信仰生活を行おうとした。しかしその徳望を慕った信者達が次々に訪れるため、彼はそこも引き払って円柱の上に暮らし始めた。円柱は最後は30mの高さに上げられ、柱頭には人間ひとり分のスペースしかなかったという。


アヴァノス観光

 大変古い歴史のある町であることは、トプラクルの古墳から出土した青銅器時代の遺物が実証している。アヴァノスの名はラテン語のヴェナサから来ている。

町の中心を流れるクズルウルマク川は全長1355kmで、トルコで最も長い川である。鉄分を含んだ泥土で川の流れは赤く染まって見えるが、この土がアヴァノス名産の陶器の原料土として使われている。陶器の生産は、ブドウ栽培や絨毯製作と並んで町の主幹産業で、町の広場にはこれを記念する像も置かれている。町を歩いていると、道沿いの小さな工房の中で陶工がペダル式の簡単な後輪に向かっている姿をよく見かける。美しい赤肌に植物や幾何学模様が描かれている陶器が一般的である。

絨毯織りもカッパドキアの伝統産業で、作業場だけではなく、家内での製作に励む女性も多い。絹と毛糸を寄り合わせて織り込んでいくのは根気のいる作業である。白い凝灰岩ブロックの家や、オスマン風の張り出し式木造住宅に、織りあげられた色鮮やかな絨毯が広げられている風景もよく見かける。

アヴァノス

デリンクユ地下都市観光

 平野と岩山が混在するカッパドキアは、ギョレメを中心にアナトリア地方の広範囲を占めている。その広いカッパドキアでも驚異的な地下都市がデリンクユにある。偶然のことから発見されたこの地下の町は、ヒッタイトやローマ時代にはもう使われていたことが、大理石製の鷲などの遺物から分かっている。

19世紀に建てられた教会の地下には、実に7層に重なって部屋や廊下、台所、集会室、墓地、教会などが造られており、延べ面積は4平方キロメートル、収容人数は2万人という大規模なものだ。深く掘られた水槽と接続して換気用の縦穴が設けられているのも、優れた仕組みである。

ソアンルの谷観光

 デリンクユから25kmの所にあるソアンルの谷にも凝灰岩をくりぬいた教会が多い。見捨てられた岩窟教会群は集落からすぐの所にあり、絶好の鳩小屋とされてきたが、最近になって修復調査が始まり、谷間に掘られた沢山の教会が見つかった。

教会が造られたのはおそらく9世紀以降のことで、簡素な間取りで、ベージュ色の地に青や緑、赤、黒などの鮮やかな色調の壁画が残されている。
聖ヨハネのフレスコ画に猛獣が描かれていることから野獣の教会と呼ばれる有名な教会の他にも、教会は数多い。

クッベリ・キリセ(丸天井の教会)は、上下の2つの教会からなるが、中に入るのはかなり難しい。1階入口からは広い礼拝堂へ通じている。2階はもっと複雑な造りで、祭壇のある細長い礼拝堂が2つ並び、そこに拝廊が付いている。

聖バルバラ教会も2つの礼拝堂が隣接した形である。建物の保存状態が悪く、フレスコ画もかなり傷んでいるのではっきりしないが礼拝堂は広さが違うだけで設計は同じだったらしい。また、フレスコ画には教会名である聖バルバラが描かれていたらしい。

ソアンルの谷
カラバシュ・キリセ(黒い頭の教会)は、壁画の聖人像が、長年の埃と酸化作用によて顔が黒ずんで見えるためこう呼ばれる。岩崩れを起こした部分もあるが、幾つもの部屋があり、中央の一室を除いてそれぞれの部屋に祭壇が置かれている。北側から順に見ていくと、まず最初に大きな部屋がある。丸天井で楕円形の後陣が正面にあり、左側の壁には3つの壁がんがある。右側の開□部の続きには礼拝堂がある。

ここから階段で別室に抜ける。これは平屋根の部屋で、アーチの向こう側の後陣に祭壇が置かれていない。ここからロビーを経てもうひとつの小さい礼拝堂へ至る。


ネヴシェヒル観光

 海抜千メートルを超える高原の町はこの一帯の中心都市で、アナトリア地方特有の近代都市である。
この町の歴史も古く、クズルウルマク川に近いことから、ヒッタイト時代に繁栄したという。 B.C.12世紀頃にはエーゲ海民族に征服され、B.C.8世紀にはキムメリオス人の支配下となる。 B.C.680年から同610年までアッシリア領となり、更にB.C.550年までメディア人、それからB.C.332年まではペルシア人に支配されている。ヘレニズム時代を経て、ローマ、ビサンチンと様々な支配者が交替し、1446年に才スマン帝国領となった。

鉛板の屋根から「鉛のモスク」とも呼ばれるイブラヒム・パシャのモスクは、高台を下ったところにある。 18世紀初頭にこの地方の長官を務めていたダーマト・イブラヒムが私財を投じて8年がかりで完成させたものである。
高い官職を示すターバンをつけ正装したイブラヒムの像が、最近になってモスクの裏の広場に建てられている。

このモスクには宿泊施設もついていたが、そのうちのひとつが1967年に博物館として開館している。なかでも考古学部門(陶器、武器、日常用品など)や民族学部門(伝統芸能の品々)の充実振りが目をひく。

ウフララの谷

 カッパドキア地方の中でも特異な景観を呈するのがウフララの谷である。川の流れに削り取られて出来た深い渓谷の底にだけ緑が豊かに生い茂っている。
現在のメレンディス川はささやかな小川でしかないが、太古の昔はハサンダー火山の急斜面から大量の水を運ぶ奔流だったという。

渓谷沿いにはウフララの集落の他、「妖精の煙突」のあるヤプラク・ヒサルやセリメなどの村がある。このセリメには三身廊式で丸屋根や後陣中央にドームを戴く教会がある。
また、セリメの村の名祖となったスルタンの霊廟もある。

ウフララの谷
ウフララ周辺の渓谷の岸壁にはたくさんの洞窟教会がある。最古の教会は4世紀に造られたと言われ、現在も9世紀以降の壁画が残されている。11世紀以降の壁画ともなると、色彩もあざやかになり、植物や幾何学模様などが空間を埋めるようになる。壁画のモチーフは大抵同じで、中央後陣の丸天井にキリストが描かれ、その下に聖母や使徒や聖人達が天使と共に描かれることがはぼ定石となっている。

渓谷の南側から順に教会を紹介していくとクゼイ・アンバル・キリセ(教会)に続いてコくル・キリセ(「臭い教会」という意味になる)がある。9世紀に造られた教会で、灰色に明るい緑色で描かれたフレスコ画と、埋葬所がある。その次がアーチュ・アルトゥ・キリセ(木の下の教会)である。名前の通り小川の運ぶ水のお陰で幹の太い木が生えた一帯にあり、渓谷の外側にはない自然環境に恵まれた場所となっている。この教会は十字形をしており、青や茶色の上に赤、緑、オレンジ色のフレスコ画が残されている。

このそばには、アーチ型の壁がんのファサードのあるスンブルル・キリセ(ヒヤシンスの教会)もある。これは単に教会というだけではなく、何層にも分かれ、食料倉も備えた修道院であった。建造は9世紀に遡り、聖人像や「キリストの生涯」が大きな「キリスト昇天」の壁画の下に描かれている。

対岸のカランリク・カヤ・キリセ(暗闇の教会)のそばには、4人の罪深い女に襲いかかる蛇の絵の残るユランル・キリセ(蛇の教会)がある。
他に、エィリタシュ・キリセは葬儀用の教会で、上階が葬儀用の礼拝堂、下階は埋葬用の空間となっており、象徴表現などが描かれている。フレスコ画のテーマは「キリストと聖母マリアの生涯」だ。

ベリセルメの村の近くには、アラ・キリセがある。内部空間は十字形で、ドームがあったがかなり崩れている。
その近くのバハッティン・サマクルル・キリセは、丸天井を円柱1本で支えた構造で、フレスコ画が見事である。パネル画の「聖母の生涯」は実に生き生きとして、人物の動きや場面構成に優れている。特に「エリザベツを訪れるマリア」は一見に値する。

ベリセルメの近郊で訪れたい教会としては他に、聖ジョージ教会として知られるキルク・ダマル・キリセがある。その建物や壁画は勿論のことだが、この教会はセルジュークトルコ時代にトルコ人がキリスト教徒に寛大であったことを示している点で貴重である。たとえば壁画は13世紀にトルコ人画家によって描かれている。

対岸にはディレクリ・キリセがある。4本の円柱で支えられたドームと十字形をした空間のある教会だ。壁画はおそらく11~12世紀のもので、聖人や全能者キリスト、大天使ガブリエルとミカエルなどの間を幾何学模様で埋めている。

ウフララの谷

アーズカラハン

 セルジュークトルコ時代の1231~1237年に、トルコ帝国内を結んでいた商業道路沿いに建設されたキャラバン隊用の宿営である。地元産の石のブロックを使った城壁のような外観で、そこに3面又は5面体の塔がそびえている。また正面入口の壮大な門は、細かく彫られたアラビア模様で飾られている。

中庭の中央には四角く、いかつい建物がある。基部に2重の尖頭アーチがついているもので、これは旅人や宿営で働く人々のためのモスクである。このモスクを囲むように、各部屋(宿舎や食堂、浴場など)が置かれていた。また正面奥の飾り立てられた大きな門の奥に、この宿営の核となる広間がある。

キャラバン宿はセルジュークトルコ時代に広く普及していた、旅人の宿泊施設だった。
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