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エフェソス遺跡の見どころ46選


エフェソス(エフェソ)は、トルコにある古代都市です。現在もその遺跡が良好な保存状態で残されており、2015年にはユネスコ世界遺産に登録されました。

エフェソス遺跡
エフェソスでは、世界七不思議のひとつであるアルテミス神殿、聖母マリアの家、世界三大図書館に数えられるセルシウス(ケルスス)図書館など、ヘレニズム時代・ローマ帝国時代・初期キリスト教時代の貴重な遺跡を数多く見ることができます。

ローマ帝国時代には、かの有名なアントニウスとクレオパトラも滞在し、古代ローマ帝国では貿易の要衝となり、初期キリスト教時代の教会会議や公会議が幾度も行われるなど、歴史的にも重要な意義を持つエフェソス遺跡には、世界中から多くの観光客が訪れます。

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エフェソス(エフェス、エペソ、アパサ)は文化的・商業的に栄華を誇った古代都市

エフェソス アルテミス神殿 Rita1234 / CC BY-SA

「エフェソスのアルテミス」として知られるギリシャ神話の女神像は、紀元前7000年、祈りの対象としてチャタルホユック人の手により誕生しました。女性の豊潤さを極端に強調した形が採られた女神は、長い間、人々の上に君臨することになります。

彼女は全ての母であり、支配者であり、何よりも力強く、アナトリアの隅々からエフェソスを経由して、メソポタミア、エジプト、アラビア、更にはスカンジナビアの地方までに多大な影響を与えました。何千年もの展開を見た後、女神はエフェソスのアルテミスと呼ばれるようになったわけです。

敬意を表して造られたアルテミスの神殿は、過去から残った最も重要な宝であるとされており、その周辺に位置したエフェソスは、文化的・社会的観点からして、文明発生地として認められていました。

エフェソスに関する情報は、古代の学者の著書や、発掘によって出土された何千もの碑文、その他の考古学的発見物によって得ることが可能ですが、その設立については、まだ充分解明がされていません。古代の有名な学者ストラボンとパウサニアスは、エフェソスの設立者はアマゾネスで、カリア族とレレグ族が主な民族であったとしています。

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エフェソスには初期キリスト教の貴重な遺跡も残されている

エフェソス 聖母マリア Adam Jones from Kelowna, BC, Canada / CC BY-SA

エフェソスには早くからキリスト教が入ってきており、聖ヨハネの教会、聖母マリアの家など初期キリスト教の貴重な遺跡も多く見ることができます。新約聖書には、「エフェソの信徒への手紙」という一書があります。

54年の初夏、「人の手によって作り出された神は、もはや神ではない」と説く聖パウロに対して、銀細工師ディミトリウスに扇動された何千ものエフェソス人達は口々に「エフェソスのアルテミス万歳、偉大なアルテミス万歳」と叫びながら大劇場に押し寄せ始めました。

2時間にも及ぶ民衆の叫びを前にして、白い法衣に身を包み、片手にしゃくを持った聖パウロも、これを鎮圧するには力及ばず、数人の信者の助けによって、命からがらその場を後にするのがやっとであったそうです。

この出来事は、都市の発見者アンドロクロスがこの町にやって来た日、リディア人やペルシア人の最初の侵入、この地を襲った17年、355年、365年、そして368年の地震、さらに431年に開催されたキリスト教審議会などと同様、エフェソスの歴史上の重要事項に新しい1ページを加える結果となったのです。

しかし、空を震わす勢いのアルテミスへの賛歌は、実際、7,000年生き続けたエフェソス人の尊い女神の臨終の一息でもありました。

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エフェソス遺跡の場所・アクセス・営業時間・入場料

名称 エフェソス遺跡(トルコ語でエフェス(Efes)英語でEphesus)
住所 Acarlar, Efes Harabeleri, 35920 Selçuk/İzmir, トルコ
営業時間 8:00~19:00(夏季:4月~10月)、8:30~18:00(冬季:10月~4月)※施設によって異なります。
定休日 なし
入場料 120TL(約1,500円)、聖母マリアの家:60TL(約750円)※アルテミス神殿:無料
所要時間 3~4時間、ツアーの場合:1時間半~2時間
公式サイト https://muze.gov.tr/muze-detay
※2021年現在の情報

エフェソスは2015年に世界遺産に登録されました。

エフェソス遺跡(文化遺産・2015年) | トルコ旅行専門の人気ナンバーワン旅行会社『ターキッシュエア&トラベル』

エフェソス遺跡への行き方



エフェソス遺跡は、トルコ南西部のセルチュク(Selçuk)という町の近くにあります。セルチュクからエフェソス遺跡までは徒歩30分ほどですが、セルチュクのバスターミナル(オトガル)から出ているエフェソス遺跡行きのドルムシュ(ミニバス)を使えば5分でアクセス可能です。

セルチュクまではトルコ第三の都市であるイズミル(Izmir)から、バスまたは鉄道で1時間ほど。イズミルからセルチュクに向かう鉄道路線には、パムカッレの玄関口となるデニズリ(Denizli)もあるため、あわせて観光するのもおすすめです。

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エフェソス(エフェス)考古学博物館も見逃せない

エフェソス考古学博物館には、アルテミス像をはじめ、エフェソス遺跡の貴重な出土品が多数展示されています。エフェソス遺跡に向かうバスが発着するオトガル(バスターミナル)のほど近くにあるため、エフェソス遺跡観光の前後に立ち寄るのがおすすめです。

名称 エフェソス考古学博物館(Efes Müzesi)
住所 Atatürk Mahallesi, Uğur Mumcu Sevgi Yolu No: 26, 35920 Selçuk/İzmir, トルコ
営業時間 8:00~19:00(夏季:4月~10月)、8:30~17:30(冬季:11月~3月)※施設によって異なります。
定休日 なし
入場料 30TL(約400円)
公式サイト https://muze.gov.tr/muze-detay?SectionId=EFM01&DistId=EFM
※2021年現在の情報

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エフェソスは、トルコ最大の都市であるイスタンブールや、人気の世界遺産であるカッパドキアからは少し離れた位置にあります。トルコの見どころは広大な国土に点在しているため、個人ですべてを手配するのは一苦労。トルコの観光スポットを効率良く巡りたいなら、ツアーがおすすめです。

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エフェソス遺跡観光の見どころ46選全解説

1.アルテミスの神殿

キベレ―アルテミスの神殿とその建築

多くのキベレとアルテミスの像がトルコ国内で発見されています。これらの中で最古の物は紀元前7000年のチャタルホユックや紀元前6000年のハジュラールで出土した、素焼きの小像でしょう。多産の象徴として腰や陶、生殖器が意図的に誇張されており、最初はビーナスの像であると考えられていましたが、後には母なる女神である事が明白になっています。

時の流れの中で女神の形は変化しましたが、有史以前の世界に実に深く浸透していました。この過程で当然女神の外観は、各地方の特色による影響で変化もしたはずですが、実際にはいつのときでもその本質は変わることがなかったのです。

チャタルホユックやハジュラールの人類が女神をどの様に呼んでいたのかは明らかになっていませんが、例えばエジプトにおいてはイスィス、アラブ諸国ではラトゥ、アナトリアでクバラ、キベレ、へパ、そしてアルテミスなどの名が用いられていたようです。アナトリアではこの内キベレが最も一般的で、礼拝の対象として一番用いられました。

キベレの神殿と崇拝の中心は、アンカラ近郊のスィブリヒサールに属するペッスィノスにあります。女神の古代における進化は、フリギア王国の重要な地ペッスィノスにて転換期を迎えました。ペッスィノスでは、いん石を女神の形に似せて長い間キベレの像として崇拝の対象としていたのです。

フリギア各地で発見された浮き彫り(岩に彫られた物も見られる)には、あまり細密でなく大まかに彫り込んだ女神の図柄を目にすることができます。ぺルガモン王国のアッタロス一世の治政下で、この聖なるいん石はローマ、カルタゴ間の戦いをローマの勝利をもって終結される事を祈りながらローマの地へ運ばれたのです。

また、女神の形としては木を彫って、これを祈りの対象にしたものもあり、エフェソスのアルテミス像で最も古いものは、木に大まかに彫りを施した方法で作られたものであると考えられています。

アルテミス神殿
ベッスィノスからローマへ移された母なる女神は、ここでも人々の大いなる尊敬を集めました。ローマ皇帝エラガマラスが儀式の最中に自身の男性器を切り落とし、キベレ神殿の女神に奉納したことも、いかに女神が重んじられていたかを物語る一例と言えます。

エフェソス博物館の展示品を見ても明らかですが、いつの時代でもキベレ-アルテミスの像は東側地方の特色を色濃く示しています。女神像の足は、まるで溶接でもされたかのように動きがなく、かつては乳房と考えられていた胸部に見られる脹らみは、後には女神に捧げられた多くの雄牛のこう丸であると言う説が強く唱えられるようになっています。

こう丸は〈種〉をつくり出すことから豊作の象徴とされ、像のスカート部分に見られる雄牛、獅子、スフィンクスは、女神が動物と自然の保護者である事を示すものです。キベレの浮き彫りでは女神の両側に施されている獅子は、これらの像では女神の腕に彫られています。

神殿における司祭の教権階級制度は、西側世界のそれと異なり、そこで使用されていた用語さえも、ローマ時代にはギリシア語が使用されていたのにも拘らず、ギリシア人等のものと同じではありませんでした。神殿の管理はほんの数人の司祭に任せられ、彼等とメガビサスと呼ばれた司祭長の男性器は切り落とされたと言いいます。

ストラボンは、彼等司祭の選択にあたり、中央アナトリア、それも東部出身者であることに重きが置かれていたとしています。メガビサスの位に就く事は実に名誉ある事とされ、その補佐職はローマのベスタ神に仕えた女子に似せて処女性が重視されていました。

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アルテミス信仰、アルテミスの神殿、そして教権階級制度は蜜蜂の社会構成を基盤に考えられたものであると主張する人々がいます。蜜蜂はエフェソスの象徴としてこの地の多くの貨幣や彫像に見ることが可能です。

アルテミス神殿に奉仕した司祭の別の階級〈クレティア〉は神話の中ではゼウスに近い位置にあった半神とされています。ゼウスが自身の足からディオニソスを作り出していた時に、これを嫉妬深い妻へラに知らせないため、クレティア等を側に呼び雑音を立てさせたが、レトのアルテミス出産の際も彼等を呼んで同様の事をさせたといいます。

この出来事は毎年エフェソスのアルテミス誕生の地とされるオルティギアで、フェスティバルをもって祝われています。

儀式中の舞踏を受け持っていたと思われ、〈曲芸師〉とか〈爪先で歩く人々〉と呼ばれた20人位の司祭としての位付けもあったようです。アルテミスとキベレ信仰はエフェソス発展において実に重要な要素となっており、神殿に仕える司祭、尼僧、そして警備を含めるとその数は数百人にもなったとされています。

エフェソスのアルテミス神殿は銀行としても機能していました。神殿に奉納された物や、女神の力で守ってもらうためにここに預けられた貴重な品々を受け付け、神殿所有の予算から貸し付けをする等、全て、メガビサスに一任されていました。この他にも神殿の特徴として、ここが避難所として使用されていたことが挙げられます。

人々はここにいる間、何物、何人からも侵害されずに自由を満喫できる権利(逃避の権利)を与えられていました。周囲の聖なる避難所は逃避して来た人達に非常に有り難く、しかも便利なものとして利用されていたのです。アレクサンダー大帝の時代になると聖地と安全地帯の境界線は拡大され、ミトラダテス王の時にも更なる拡張がなされています。

皇帝マルコス・アントニウスはカエサル(シーザー)がディディマで成し遂げた事業に感動し、同じくこの聖域を二階造りにしたため、都市の一部分もこの中に収納される結果となったのです。

エフェソスはもちろん、帝国のほかの地でも、神殿が安全地帯として機能していることに目を付けた犯罪者達の隠れ場的傾向を帯びるにしたがい、周囲の住民に〈避難の権利〉撤回を叫ばせることになり、22年には皇帝ティベリウスの呼び掛けで集合した有名な神殿の代表者達による会議が開催されています。しかしそれでもアルテミス神殿の〈逃避の権利〉は取り上げられずに継続されたのでした。

古典的アルテミスの住まいー古代世界七不思議の一つ

エフェソス遺跡
ストラボンは、この有名な神殿が7回崩れ落ち、7回建て直されており、当時の世界七不思議の一つであった、としています。古代においては海岸沿いにあった神殿も、今日は海岸より5km内陸側、セルチュク-クシャダス街道の右手に位置し、発掘調査では建物の4つの面が発見されたのみです。

出土品の中で最古の物は紀元前7世紀頃の対称図柄の装飾が施された鉢の一部、金の装飾品、象牙の品で、これらと同年期の神殿はおそらくキンメール人によって破壊されたと考えられています。

紀元前570年を目前にサモスでロイコスとテオドロスの二人の設計者により完成された新しいへラ神殿が人々の大いなる注目を集めたことに、好敵手であるエフェソス人は心中おだやかでなく、早速サモスのへラ神殿はもちろん、かつて見た事もない程に壮大なアルテミス神殿建設の着工を決心したのです。

この大事業のために、エフェソス人はクノッソスの建築家ケルスィフォンとその息子メタゲネスを監督責任者に命じました。神殿建築予定地がサモスのへラ神殿の敷地と同じく沼地であったため、へラの建築者テオドロスもこの事業に参加させたのです。彼等の心にはおそらく新神殿がヘラ神殿に似ることを期待する気持ちがあったのでしょう。テオドロスを参加させることは、実に収穫の大きいものと思われたに違いありません。

テオドロスは基礎工事を始める前、沼地に石炭を敷いた上に皮で覆って固め、こうして55.10m×115.14mの全ての面で完璧な神殿を完成させたのです。今までに造られた大理石使用の神殿としては最大の規模を誇り、周囲に高さ19m、直径1.21mの円柱を二列に並べた〈Dipteral〉と呼ばれる様式が採用されています。

一列ではなく二列にしたことは、神殿をより広く見せるのに非常に効果的でしたが、高さについては同様のことは言えません。合計127本の支柱が使用されているとプリニウスは述べており、この支柱の森とも言える柱の多さは偉大な女神にふさわしいと言えるでしょう。

神殿の正面と後方に支柱が何列引かれていたかについて、長い間論点となっていましたが、最終的な調査でどちらの側にも二列ずつ設置されていたことが明らかにされています。

1世紀頃のプリニウスは、前面の36本の支柱には浮き彫りが施されていたことについても指摘しており、まさに典型的ギリシア建築の特徴を備えているといえるのです。神殿が以前の建築物の基礎の上に建てられていることや、プリニウスも彼以前の資料に基づいて語っていることを考慮して、おそらく彼の見解は正しいのであろうと思われています。

36本の支柱の柱頭のすぐ下に見られる〈COLUMNAE CAELATAE〉と呼ばれる浮き彫りは、リディア王クロイソスが寄贈したものです。

英国博物館所有のこれらの支柱の一つには〈クロイソス贈呈す〉と刻まれており、ヘロドトスもこの碑文が本物であると述べています。支柱はその上に重さ26tもの〈屋根〉にあたる部分を支えていますが、人々が信じるように、アルテミス自身が現われてこれを支柱の上に乗せたのでもなければ、当時の技術でどのようにしてこれ程重量のある物を約20mもの高さまで持ち上げ、支柱の上に設置したのか、いまだ明らかにされていない点です。神殿の屋根がどのような形をしていて、どのように覆われていたのかについてのヒントを得られる発掘物はまだ見られていません。

キンメール族の攻撃を受けた後、神殿正面の古い祭壇は階段付きのものに建て直しされています。発掘調査では、神殿に捧げられた金、銀、象牙、素焼きの粘土で作った多くの貢ぎ物のほか、世界で初めての鋳造貨幣である銀の貨幣も周辺から発見されています。エフェソスの暴君ピタゴラスは唖の娘の回復を祈顕し、デルフィの神託所を訪ねた後、祭壇を拡張しています。


後世に名を残したいと切望した白痴の男へロストラトスは紀元前356年のアレクサンダーが誕生した夜、この神殿に火を放ちました。

エフェソス人は焼失した神殿を前に、それ以上に素晴らしいものを建設しようと決心します。アレクサンダー大帝はエフェソスを訪れたとき、まだ完成していない神殿を見て、今までの出費も含め、新神殿建設の一切の費用を請け負うと申し出ましたが、エフェソス人はこれを受け入れませんでした。

ギリシア建築様式で造られた神殿は13段の階段の上、持ち上げられた基盤の上に、長さ105m、幅55m、支柱の高さ17.65mという規模を誇って立っています。古くからの設計図面に従い、伝統的様式を守りながら、正面の支柱には古典的神殿がそうであったように浮き彫りの装飾が施されていました。プリニウスとビトリビウスは、これらの支柱の一つに見られる彫り物は、有名な彫刻家スコパスの作であると指摘しています。

神殿の祭壇は彫刻家プラクスィテレスが担当し、角のあるU字形のそれは、二列に配置された細くて上背のあるイオニア式の支柱と共に神殿の正面に設置され、後方の2ケ所の角には4頭立て馬車の彫像が置かれています。英国博物館の〈COLUMNAE CAELATAE〉(浮き彫りのある支柱)の一つには夫の命を救うために自ら犠牲になることをも厭わなかったアルケスティスが連れ去られる様子を表わした彫り物が見られます。

ここでアルケスティスはヘルメスの前に裸で表わされ、翼のあるのは〈死〉の象徴です。プリニウスによれば紀元前5世紀に、フィディアス、ポリクレイトス、クレスィラス、そしてファラドモン等も含め、当時最高の彫刻家がアルテミスの神殿に設置するための作品を選ぶために参加した〈アマゾネスの彫刻コンテスト〉が開かれています。

審査の際には今まで参加者だった彫刻家たちが審査員に早変わりしたのですが、皆が皆、自分の作を最優秀とし2番目としてポリクレイトスの作品を拳げたために、結果としてアルテミス神殿にはポリクレイトスの作った彫像が飾られたのでした。

世界の多くの博物館には実に沢山のローマ時代の彫像の複製が展示されていますが、これらのどれがポリクレイトスの作に起源しているのか、いまだに明確にされていません。かつて何度もの崩壊と再建を繰り返してきたアルテミス神殿も125年、ゴート人の攻撃で決定的な打撃を受けました。

同時にキリスト教もかなり広範囲に浸透していた時代であったため神殿は再建されたものの、その寿命は短かいものでした。壮麗なかつての神殿も破壊された後は聖ヨハネ教会や、皇帝ユスチニアヌスの要請でのアヤソフィア建築にあたり、豊富な建築素材提供の場と化してしまったのです。

今日、アルテミス神殿の遺跡を見ても過去の優美さ、壮麗さを思い描くにはかなりの想像力が必要です。オーストリア考古学研究所の一員であるDr.A.BAMMERの引率で現在も引き続き進行中の発掘事業において出土された様々な品は、考古学の世界に新しい課題を投げ掛けると同時に、謎を解く糸口にもなっているのです。

 
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2.城壁とマグネシアの門

城壁とマグネシアの門
ストラボンによれば城壁は紀元前3世紀にリシマコスの命によって建設されていますが、これは防衛と言う観点からも、見事な職人技術の集結と言う芸術的観点からも、ヘレニズム期建築の素晴らしい例です。平地の上に造られた壁の一部は無くなっていますが、山地の部分の保存状態は良好です。

これらは西部の海に向かって土地の隆起に従い、エフェソスのどこからでも目につく小さな丘の上の塔にて終結しています。〈聖パウロの監獄〉と呼ばれるこの塔は、城壁に設けられた他の塔と異なり、内部と二階の造りをもって留置所を連想させます。内部で発見された碑文には〈ASTYAGES〉と記されていますが、これが誰の名か、現在でも明らかにされていません。都市と連結する重要な2ケ所の出入り口が見られます。

その内の一つは徒歩競技場とベディウスの演武場の間に位置し、碑文等でしばしばその存在について述べられながら、しかし未だに発掘されていないコレスス門です。もう一つの門は聖母マリアの道の上にあり、現在も発掘が進行中のマグネシアの門です。これは城壁と共に紀元前3世紀に造られましたが、皇帝ベスパスィアヌスの時代(69~79年)に様式を変え、3ケ所の入り口を備えたアーチ形の記念門に変換されています。

ヘレニズム時代の門は、両側に長方形の高い塔を備え、その後方に見られる内庭の更に後ろの円から市内に入る様になっています。内庭と門の正面にある広場は灰色をした大きな石のブロックで覆われ、周辺では要人の物と思われる大理石の相が発見されています。西方に見られる大規模な水道橋は皇帝ベスパスィアヌスのかなり後の時代にこの地を通過しています。

マグネシア門からの道はエフェソスの南東30kmに位置するマグネシアに続き、別の道はパナユルダゥを回りアルテミスの神殿にまで達し、そこから更にエフェソスの市内に入り、再びマグネシアに続いています。これはエフェソスの哲学者ダミアヌスによって2世紀に修繕されたものです。

前述の道を例外としてエフェソスの大小全ての通りはミレトス出身の建築家ヒッポダモスにより、〈碁盤割り〉、すなわちそれぞれの通りが直角に交差する様に設計されています。アルテミス神殿に続く道、つまり〈聖なる通り〉がいつの時代にもその地位を維持していた事は明白であり、WOODはこの道を辿ってアルテミス神殿の場所を発見したのです。

3.東演武場

マグネシア門の北には、その正面を通る〈聖なる道〉の修復の際、哲学者フラビアス・ダミアヌスが道に見合う規模で2世紀に造った大きな演武場の名残が見られます。

古代に於いて教育、スポーツの中心であった演武場は、今日の寄宿学校と似ており、6才から16才までの子供がここで数学、音楽、雄弁術、体育等を学んでいたのです。勿論、才能のあるものは16才を過ぎてもここに籍を置く事が許されていました。

エフェソスにて見られる記念的建築物の一つである東演武場は、浴場、運動場、内庭、教室、皇帝の学問所を含めた複合建築であり、東壁の入り口に設置された〈プロフィロン〉と呼ばれる門には4本の支柱と三角形の切妻があります。そして、この門の両側には支柱の列のある店があったと思われています。ここの発掘事業の間、ダミアヌスと妻ベディア・ファエドゥリナの像が発見されており、これ等は現在イズミール考古学博物館に展示されています。

演武場から駐車場に行く前、道の左手に直径16mの円形の建物の名残があります。良い保存状態にある建物を覆う大理石の上には十字架の形の彫り物が見られ、この為に、建物は誤って聖ルーカスの墓と考えられていました。しかし、この十字架の彫り物は紀元前1世紀の建物の完成からかなり後になって施されており、そうすると、聖ルーカスの時代よりも100年以前に既に本人の墓が出来てしまっていたという可笑しな話になってくるのです。

4.バリウスの浴場

バリウスの浴場は1929年から1979年の間に断続的に発掘が行なわれましたが、未だ完全で事業の終結を見られずにいます。建物はプナール山の裾野に広がる平地に造られた為、山側の自然に削られて滑らかになった岩肌を壁として使用していたのです。ほとんど全てのローマ浴場に見られる様にバリウスの浴場もフリジダリウム(冷水浴室)、テピダリウム(ぬるま湯用)、カルダリウム(熱い湯)の施設の他、かなり広めの付属の部屋から構成されています。

壁は大きめのブロック造りで、屋根は煉瓦を用いてアーチ形に設計されています。建物の南手にはトイレも設置されていたようです。建物はローマ時代の様々な時期、そしてビザンチン時代に修繕と改築が施され、増築も行なわれています。南に位置するモザイク装飾の見られる5世紀の建物はこれらの例として挙げることができます。

ある碑文によれば、フラビウスとその妻は浴場の広間を建設する為に融資していたとされています。

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5.水道橋と噴水泉

水道橋
エフェソス発掘事業の間には異なった時代に属する多くの噴水泉が発見されています。噴水や家庭に給水していた水源である泉は都市からかなりの遠方に位置しています。この他、貯水槽や井戸も都市への給水に利用されていた様です。

クシャダスの南、エフェソスから42.5kmの位置にあるケルテぺとデーイルメンデレには、一つは幅0.8m、高さ0.9m、別のものは幅0.65m、高さ0.45mという地方最大の泉があり、石の水路でビュルビュルダゥ西側の裾野を通りエフェソスまで水を運んでいます(1秒に61リットル)。

別の水源としてはイズミールへの道路上にあるプランガの泉があります。ここから岩に彫られたか、もしくは所々でアーチの形をした石の壁で保護された開放式の10kmの水路を通って聖ヨハネの丘まで引水されています(1秒に9リットル)。

アルテミス神殿への給水はシリンジェキョイ近郊のセリナスの泉から賄われており、長さ8mの水路によってアルテミスの館にも水が運ばれています。アルテミスの館の発掘の際、此れ等の水路に使用された厚い銘製のパイプが発見され、内一つは現在エフェソス博物館に展示されています。

アゴラの南手を走る通りの端、ブュユック・チェシュメと呼ばれる泉の水源は、マルナススユの名で知られ、今日でも好んで用いられているものです。セルチュク-アイドゥン街道の6km目に見られるセクスティリウス・ポリオの水道橋はこの泉に繋がっているものです(1秒に4.2リットル)。

ブュユック・チェシュメは4世紀から14世紀の間に、前を通る道路に釣り合いのとれる設計で建築されたものであり、泉の正面には、皇帝やエフェソスの名士たちの彫像が飾られていました。

6.集会広場(アゴラ)

音楽堂(オデオン)
泉の正面に見られるのが1世紀に建てられたエフェソスの集会広場です。国家の管理、監視の下で政治や宗教の会合がもたれました。広さ160m×56mの地区は、半神聖視された場所であり、他の多くのアゴラと同様、中央に長方形の神殿が設置されていました。神殿はほとんど崩壊した状態と言ってよく、この建物に使用されていた建築材料は後に別の建物の為に使用されています。発掘の最中に神殿の周囲で〈水〉に関係した遺跡か発見された事は、当初、考古学者達にこれがイスィスの神殿であると考えさせましたが、後にアウグストゥスの神殿である可能性が強いと見解を改めています。

神殿の破風はオディッセイの冒険を表わす彫像群に飾られていましたが、後にアゴラの西で発見されたポリオの泉の周囲に移動されたようです。発掘事業の際、ここで見付かったこれらの像群は、現在エフェソス博物館の泉からの出土品の間に展示されています。イスィスもしくはアウグストゥスの神殿は紀元前1世紀の建築と思われています。

様々な時代に行なわれた集会広場(アゴラ)の発掘調査では、パナユルダゥの周囲をはしる〈聖なる道〉のアルカイック期の遺跡が発見され、又、通路の両側には〈クラゾメナイ型〉と呼ばれる素焼きの棺が見つかっています。アゴラの最終的な外装は皇帝テオドシウスの時代(379~395)に完成し、北と東側には現在は見られないがストア(広間)が存在していたと考えられています。

7.教会堂(バシリカ)

アゴラの北ストア(広間)は後期アウグストゥスの時代に、木造の屋根と2列の支柱の並びに隔てられた3つの身廊がある長さ160mのバシリカに変換されました。支柱の柱頭は、アウグストゥスの時代では雄牛の頭をかたどったイオニア式のものが用いられましたが、更に後に行われた修繕事業でコリント式のものに変えられています。

バリウスの浴場とバシリカの間にある小さなストア(ビザンチン時代に改築された為、本来の姿からかなり変えられています)からは3か所の入口を利用してバシリカの中に入ることができます。現在エフェソス博物館で見られるアウグストゥスと彼の妻の彫像はこのストアにて発見されたものです。

8.音楽堂(オデオン)

音楽堂(オデオン)
アゴラの北に位置するオデオンは小規模な劇場に似ている為、〈小劇場〉とも呼ばれていました。発掘調査の際に発見された碑文によれば、ここは元々、エフェソスの有名な一族出身のパブリウス・ベディウス・アントニウスと妻フラビア・パピアーナによって会議堂として建築されたものであるといわれています。

パナユルダゥの裾野に立つ建物は、劇場として造られたほとんどの施設と同様に〈聴衆席〉、〈半円形舞台〉、〈舞台〉の3部から構成され、聴衆席は大理石を用いた非常に高度な職人芸によって造られています。舞台は多くの場合、二階造りになっており、すぐ前にある大理石で造られた狭いステージのような場所には5ケ所の扉から出入りができる構造になっています。(中央の扉は他のそれより、高さも幅も大き目にとられています。)

半円形舞台に雨の為の溝が備わっていない事実から、恐らく、この音楽堂は屋根に覆われていたと考えてよいでしょう。

1,400人の収容能力をもつ音楽堂には、舞台と聴衆席の間にある入り口を使って中に入る事ができましたが、他にもここの入り口にある円天井付き階段を使ってギャラリーに出る事も可能でした。

演奏会のある時には音楽堂として利用された建物は、議事堂としても機能していたようです。

9.皇帝崇拝と神殿

エフェソス

ディア・ローマとディビウス・ジュリアス・シーザーの神殿

皇帝崇拝の習慣をもつアジア人の要請に応じ、アウグストゥスはビティニア地方の人々にニコメディアにて、又、アジア地方の人々にはペルガモンに於いて既にこの地に建てられているローマの女神ディア・ローマの記念碑と共に、と言う条件付きで、地方の非ローマ人達にアウグストゥス礼賛の記念碑建築を許可したのでした。そして、更にアウグストゥスは、これら二つの地方で暮らすローマ人に対し、ニケーアとエフェソスに於いて、彼の養父であり、元老院の決議で〈神〉と崇められるジュリアス・シーザー(カエサル)の記念碑もディア・ローマのそれと共に建設する事を決定したのです。

ローマ帝国期・ネオコロス、すなわち、神殿所有の都市となる事もしくは、その番人となる事は非常に名誉な事でしたが、エフェソスにて最初の皇帝神殿ができたのは皇帝ドミティアヌス(81~96)の治政下である結構時代が過ぎてからの事でした。皇帝の死後、数々の障害を克服して獲得したネオコロス制度が崩壊しそうになった時、当時の最大の競争相手であるペルガモンやスミルナに対してその地位を死守できなくなる事を恐れたエフェソス人等は、ドミティアヌス神殿を〈神〉と見なされたその父ベスパスィアンに捧げたのでした。

エフェソスに第二の神殿を建設する事は、皇帝ハドリアヌスがアテネからオリンポスのゼウスの名代としてやって来た128年に、同皇帝によって許可されたのです。

三度目の神殿建設の許可はカラカラ帝が兄弟ゲ一タと帝位を分け合った時代(211~212)に下されています。212年、カラカラ帝は兄弟の手により暗殺されましたが、皇帝がエフェソス人に送った書簡によれば、皇帝はこの神殿建設をアルテミスの利益を守る為に諦めた、とされています。このようにして効力を失ったネオコロス制度は、皇帝エラガバルス(218~222)の時代に再び注目を集めるようになりました。

ローマ元老院の記録では、エフェソスに皇帝神殿を建設する4回目の許可は皇帝バレリアヌスの時代(251~260)に下されています。
アジアの州にとって皇帝神殿を所有する事は実に名誉ある事で、エフェソス人等はプロティア、即ち、皇帝神殿を獲得した第一の都市となる為、そしてペルガモンとスミルナに格段の差をつける為に出来る限りの手を使い、又、その為のどんな出費も惜しまなかったそうです。

皇帝神殿はアルキエレウスと呼ばれる司祭長の監視、監督下に置かれ、彼等はその肩書きの前に、守護している神殿がある地方の名を付ける事が許されていたのです。神殿はその都市だけのものであるにも拘らず、周辺の全ての地方の人々の尊敬を集めていたと言えます。

地方に何人かいる司祭長と、彼等の中で最も権威ある最高司祭長の関係に関する詳細は、残念ながら明確ではありません。最高司祭長は皇帝の名誉に敬意を表して、各地で4年に1度行なわれるコイナ・アジアスと言われる半宗教的な行事の主催者、監督としてもその地位を認められていました。司祭長、つまりアルキエレウスである事は、聖職として実に名誉あると同時に、非常に出費の多い、金の必要な職である事も事実だったのです。

剣士や猛獣の闘いは皇帝崇拝や祭りの儀式と切っても切れない縁にありました。このような闘いをアジア人等はさほど好みませんでしたが、それでもローマ帝国期にはアジアの各地で人気を博したのでした。

エフェソスのベディウス一族の様に裕福なファミリーによって、特別な剣士の養成所が設立されたそうです。最高司祭長について、彼等がこの様な闘争の為に非常に金銭を出資したと賞賛して記した碑文も残っています。「皇帝崇拝には根強いものがあったにも拘らず、これが真実の意味で一つの宗教にまで高まる事はありませんでした。」

この〈崇拝〉は、ローマ帝国の境界内にて暮らす多くの民族に、その言語、文化、宗教の違いを越えて、団結と調和、そして保全の下に生活させる事を狙いとしていたのです。
ディア・ローマとジュリアス・シーザーの神殿はオデオンの西、支柱に囲まれた内庭の中央に位置しています。

それらの小さな神殿には、東に面した壁に4本ずつの支柱がありましたが、後の時代に建物の上に別の建築物が造られた為、神殿自体は崩壊状態にあり、現在は高度な職人技術がうかがえる大理石の舞台と、基礎の上に壁が残るのみとなっています。皇帝アウグストゥスがエフェソスに来た紀元前29年に建設許可したこれらの神殿は、完成後の4年と14年に、一つはローマの女神ディア・ローマに、もう一つはアウグストゥスの養父であるジュリアス・シーザーに捧げられたのです。

10.公共施設とプリタネイオン

ローマ帝国時代、エフェソスは〈自由国家〉の体制を維持し続け、都市に関与した公的機関、つまり公職にある事は実に名誉な事とされていました。この職に必要な経費は、裕福なエフェソス人等の補助金によって賄われていましたが、重要な祭りや、儀式の際、又は公共の施設の建設や修理、手入れに増大する金額を作り出す事は、彼等をしても容易な事とは言えませんでした。裕福な一族の間であたかも名誉と名声を手に入れる手段ともなったこの補助金の出資は、最大の名誉として大通りやアゴラ等に後援者の彫像や記念碑を建造するという形で彼らに返還されたのです。

都市の政治は、二つに分かれた議会から構成されていました。この内の一つはアゴラを議場として300人のボウレトゥスと呼ばれる議員から成る都市の諮問議会(ボウレ)、もう一方は大劇場を議場とし全エフェソス市民を以て構成された人民議会〈デモス〉でした。どちらの議会にも管理上、行政上の事柄をスムーズに処理する為、それぞれ〈ボウレ・グランマテウス〉、〈デモス・グランマテウス〉の名で呼ばれる次官職を設けていました。又、デモス・グランマテウスは同時に都市統率の宰相的地位にもあったと考えられています。エフェソスが〈ポリス〉即ち、都市国家であった頃は、警備、防衛職として〈ストラテゴス〉が置かれており、帝国では行政上での発言権も与えられていたようです。

エイレナルクとパラフィラクスは警察として都市に奉仕し、アゴラノンはアゴラに関する必要諸事の責任者であり、又、穀物を計量し、これを正当な方法で売買する事も管理していたのです。エフェソスが富みと名声の両方を手にした都市に発展した一因として、〈リメナルク〉の管理する港が果たした役割は実に大きかったようです。都市の宗教、行政職として最高の地位にあるのは男女両方から構成される〈プリタン〉でした。

都市の選ばれた名家から成るグリタン職は、都市の存在を象徴するプリタネイオンにあるエフェソスの永遠の聖火を消える事のないよう、日夜守る事でした。炉の女神ヘスティアの名により、プリタン達はこの職を大きな名誉と喜びをもって遂行していたのです。

又、プリタンは都市の全神殿を管理する立場にもあり、神殿へ捧げられる毎日の供養物を奉納する責任者でもありました。必要経費は全てプリタンの出資で賄われていたのです。歴史を通してアルテミス神殿の組織構成や経営は、都市の逸れ等と全く切り離して考えられていました。バシリカの西端に位置していたエフェソスのプリタネイオンは、付属の建物の他に、正面にある柱廊玄関に包囲された内庭、その後方の広い屋根付きの広間から構成されており、側面の高くて厚い8本のドーリア式支柱をして、まるで神殿の様でした。これらの柱の内、2本は修理され、元の位置に設置されています。

外装に釣り合いのとれた内装をもつプリタネイオンは、非常に印象的な建築物です。広間の四隅にはハート形に切断された対の支柱があり、ここの中央には玄武岩から成る祭壇の基盤が見られます。

エフェソスの永遠の炎は何世紀にもわたり昼も夜も消える事なく、〈ヘスティアの聖なる場〉と呼ばれるこの場で何百年も燃え続けたのでした。エフェソス博物館にて展示されているアルテミスの像は、この場所から実に良好な状態で発見されたものです。周囲に散らばった建築資材や支柱の上に見られる碑文の一部には、〈クレティア同盟〉の名簿を読み取る事ができ、アルテミス神殿に関わる司祭職名であるクレティアが、最初の6人から後に増員され9人となっている事もわかります。

古代とヘレニズム期にはただアルテミス神殿のみに関わっていたクレティアも、皇帝アウグストゥスの頃にはプリタネイオンに於いても確かな地位を獲得するまでになっています。その為、クレティアに関するほとんどの名簿、目録はプリタネイオンにて発見されているのです。

彼等の職務の中で最も重要な事は、エフェソス近郊のオルティギアで毎年アルテミスの生誕祝賀を催す事でした。

プリタネイオンは紀元前3世紀に建築され、皇帝アスグストゥスの時代に最終的な姿を獲得しています。様々な理由で建物が崩壊した後、その支柱や建築資材の一部はスコラスティカ(ショラスティキア)浴場建築に使用されましたが、発掘調査の際それらはプリタネイオンに返却されています。プリタネイオンとドミティアヌス広場の両側には絵柄の見られる基盤があります。

左のものは片面に裸の神ヘルメスが片手で羊の角を掴み、もう片手に彼の象徴である杖を持っている構図、もう片面には蛇が間に絡まる三脚が描かれています。右の基盤は、片面に山羊の角を掴む同じく裸のヘルメス、もう片面には脚の間に皿が置かれた三脚が描かれています。

エフェソス

11.メミウスの記念碑

ドミティアヌス広場の北手には、四面のある凱旋門にも似たメミウスの記念碑があります。地方の石を用いた凸形の基盤と、その上に乗る大理石から成る記念碑の周囲は4段の階段に囲まれ、壁の各面には半円形の壁がんが見られます。

装飾の施された部分はほとんど消失していますが、トウガを纏った兵士の彫り物はメミウスとその父カイウス、そして独裁者の祖父スラを表わしたものです。
記念碑の東端から発見されたラテン語による碑文には「救済者カイウ、メミウス、カイウスの息子、コーネリウス・スラの孫」とあります。記念碑は紀元前1世紀のものと思われています。

12.泉

ポリオの泉 メミウスの記念碑の西側には泉が見られます。ここには長くて狭い(長方形)貯水槽もあり、壁の上にはコリント式の4本の支柱があります。貯水槽は3つの部分から成っていますが、中央の部分は他より大きく、ここの後方の円形をした壁を通って水が引き込まれていたのです。ここの正面にあった4つの基盤の内、今日では2つの基礎が見られるのみですが、これら4つの基盤の上には293~305年の間に皇帝の座にあったディオクレティアヌス、ガレリウス等、4人の皇帝の彫像が建っていました。団結を表現する目的で泉の建設の際にこの場に設置された彫像ですが、エフェソスのハドリアヌスの神殿前にも同皇帝達の像を見る事ができます。

ドミティアヌス広場の西手は、未だ発掘されずにいます。広場の中央に見られる円形の記念碑は、4世紀に別の場所からここへ移動されたものです。外側に雄牛の頭の花飾りの装飾が施されたこの記念碑の右隣りには、花冠を手にして飛ぶニケの浮き彫りが見られます。この三角形をした建築資材は、クレティア通りの端にあるヘラクレスの門の一部であったものと考えられています。

エフェソスのほとんどの道路がそうであるように、大理石のブロックで覆われた狭い通路は、広場から南に延びていて、ここのアゴラに面した側には、様々な奉仕の為に使用されていた二階建ての建物と貯蔵倉庫が並んでいました。広場の中央にて見られる建築素材はこの地区の建物の一部として使用されていたものです。

13.ポリオの泉

ドミティアヌス広場の東、アゴラの西端にある広いポリオの泉は、三角形の破風に支えられた高いアーチと小さな貯水槽で、実に印象的な姿を見せています。貯水槽にはアゴラ側の半円形の壁から引水され、この壁に釣り合いのとれる様式で貯水槽の中に造られた台座の上から発見された彫像群は、現在エフェソス博物館にて展示されています。

これらの彫像は本来アゴラの中央にあったイスィス神殿の台座に設置されていたものでしたが、建物の崩壊と共に、この泉に移されたと考えられています。彫像群はトロヤ戦争に於けるオディッセイの活躍、特に、彼のエーゲ海を舞台にしたポセイドンの息子との冒険を主題としたものです。碑文によれば、泉はセクスティリウス・ポリオによって97年に造られたものとされています。

 
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14.ドミティアヌスの神殿

その歴史を通じてエフェソスは4度ネオコロス、即ち、神殿所有の都市となり、それを保護する役目に預かっています。古代に於いて、皇帝神殿を所有する事、もしくはそれを保護する役目に就く事は都市の間で非常に名誉ある事とされていました。

エフェソスに最初にこの権利を与えたのは皇帝ドミティアヌス(81~96年)でしたが、ドミティアヌス広場の南端、真っ直ぐなテラスに同皇帝に捧げる目的で造られた50m×100mの神殿から、今日に残る物は殆どありません。その為、神殿に関する知識は、その基盤の名残から推し量るのみです。これによれば、神殿の建っていた基盤は24m×34m、周囲を8段の階段状の造りに包囲されていたと考えられます。長い側に13本の支柱、短い側に8本の支柱を持ち、更に9m×17mのセラの正面にも4本の支柱があったとされています。

この前10mの位置には階段の付いた、U字型の祭壇があったと思われ、素晴らしい職人技術をもって製作したここの一部は、現在エフェソス博物館にて展示されています。皇帝が彼等に与えた神殿建設の権利に対する謝意を表する為、エフェソス人等は神殿に高さ5mものドミティアヌスの彫像を備えたのでした。土台と共に7mにも及ぶ彫像の一部分はエフェソス博物館に、保存状態の良好な頭部はイズミール考古学博物館にて展示されています。

神殿の建つ段丘の東、広場に面した場所には商店が列を成していました。段丘の広場を向いた側には上部に浮き彫りの施された二層の支柱から成る欄干が発見されましたが、支柱の内2本は都市の別の地で見付けられ、そのあるべき本来の場所に移されたものです。

皇帝ドミティアヌスが側近の一人に暗殺された後は、数々の困難を克服して手にしたネオコロスの地位も危機に面した為、エフェソス人は皇帝の父ベスぺスィアヌスを神と崇め、彼にこの神殿を捧げる事を思いついたのでした。

15.碑文のギャラリー

碑文のギャラリー
エフェソスの歴史に閲した碑文はドミティアヌス神殿の建つ段丘の東端にある下層工事現場に於いて見る事ができます。近年の発掘や修復事業の際、偶然に発見された2,000以上の碑文は、当時の都市議会や元老院の決議、表彰や刑罰の基準、皇帝や王の宣言等を今に伝えているものです。

凡例として良好と思われる幾つかの碑文は、主題や年代毎に分類した上、横に翻訳文を添付して展示されています。エフェソスで発見された最古の碑文は紀元前7世紀にも遡りますが、No.1、No.2として展示されているこれらの碑文からは、主題も目的も解明できないままとなっています。アルカイック期の他の碑文と同様、言葉はそれぞれピリオドで区切られ、一つ一つの文字は直ぐ上の文字と揃えられて記されています。

No.4の碑文は宗教上の罪による死刑について語っています。これによると法の番人は、サルデスのアルテミス神殿に献上品を運ぶか、あるいは神殿から品々を受け取る為にでかけた使節団に酷い行ないをしたり、献上品を掠奪した44人、又は46人の名を記し、これに死刑を求刑したりする必要があるとしています。

紀元前4世紀、紀元前3世紀に属するNo.11の碑文は「この壁は天井までモスキオンとエウクレイデスのものである」と記され、つまり、共同所有の法について述べているのです。

ペルガモン宮殿で奉仕するエフェソス人指導教官に対する称賛を表わすN0.13の碑文はアッタロス二世が、エフェソス人民諮問議会に捧げる為に書いたものです。名をアリストと言う教師は未来のペルガモン国王となるべきアッタロス三世の指導にあたりましたが、これに大変満足したアッタロス二世は自身の気持ちをエフェソス人民に知らせる目的でこれを記したとして、紀元前155年のものとされています。

No.14~No.26までの碑文にはある人々を賞賛する文句が書かれており、例えば、No.20のそれには166~167の間に有名な哲学者ダミアヌスが戦地から退却するローマ軍に22,000medimme(穀物の計量単位)を寄付し、又、バリウスの浴場に新しい広間を建設した他、19,816denariiの彼自身の金を都市の為に寄付した為、アゴラの商業、貿易組合(ギルド)から賞賛する、と記してあります。

No.26では、名は読み取れませんが、エフェソスの競技者が南イタリア、アジア、ギリシア、島々から成る13都市の中で優勝した事を称えています。No.27の碑文にはプリタン達による供養品や犠牲の儀式手順が記されている。3世紀のものと思われるこの碑文から、プリタンは非常に出費の多い職であった事がわかり、彼等は単にプリタネイオンに祭られる聖火の女神ヘスティアの最高司祭であったばかりでなく、同時に都市にある全神殿の責任者をも兼任していた事がうかがえます。

128年にオリンポスのゼウスの名代として皇帝ハドリアヌスがアテネからエフェソスにやって来た時の事を記したのがNo.31の碑文です。「良い治政を行なう運命の女神に捧ぐ。大地の父、オリンポスのゼウス、そして、救済者、同時に(神に代わっての)都市の設立者、皇帝カエサル・トラヤヌス・ハドリアヌス・アウグストゥスへ」と記されています。

碑文のギャラリー

16.ガイウス・レカニウス・バッススの泉

アゴラの南から走る道路と、ドミティアヌス広場からの通りが交差する地点の角に、エフェソスでの記念噴水の一つであるガイウス・レカニウス・バッススの泉があります。ドミティアヌス神殿側に造られたこの噴水泉は、中央の内庭、三方に位置する二層の支柱、そして正面の2つの貯水槽から構成されています。又、壁面の上には高さ9mもの破風があります。

正面には20本、側面にはそれぞれ14本ずつの支柱が立ち、2本の支柱の間には彫像の置かれた壁がんがあったと考えられています。発掘調査の際に発見されたトリトン、ミューズ、ニンフの像は、現在、エフェソス博物館の泉からの遺跡の間に展示されています。碑文では、泉は75~80年の間にアジア地方の政治家の一人であったガイウス・レカニウス・バッススによって造られたとされています。

17.ヘラクレスの門

ヘラクレスの門はメミウスの記念碑から西に続くクレティア通りの始まりに位置する二階建ての建物です。下の階には広いアーチの入り口があり、上には一列に並んだ6本の支柱が見られます。アーチの横にあるコリント式の柱頭の柱の辺りには、現在、デミトリアヌス広場に置かれているニケの浮き彫りがありました。この建物の資材として使用されたほとんどの部分は未だに発見されておりません。

上の階の6本の支柱の内、中央にある2本は入り口の横木の様な姿を見せ、柱の上には見事な2世紀の職人芸術と言われるネメアの獅子の皮を纏ったヘラクレスの2つの浮き彫りが施されています。これらは本来別の場所にあったものを5世紀にこの場に移動させたものです。

18.クレティア通り

クレティア通り
神話の中で〈半神〉として語られるクレティアは、後にエフェソスで聖職者達を表わす呼名となりました。発見されたコレジウムはエフェソスで最大の崇拝神殿と見なされています。エフェソス各地でクレティアに関した幾つかの碑文が発見されていますが、特にプリタネイオンからの出土品は注目される物です。

これらは最初6点でしたが後には9点に増え、エフェソス近郊のオルティギアに於けるエフェソスのアルテミス誕生を主題に再現させたものと考えられています。神話によれば、ゼウスから身篭もったレトはアルテミスとアポロンの双子を出産しましたが、その際、クレティア等が手持ちの武器を打ち鳴らし騒音をたてた為、レトに嫉妬していたゼウスの妻へラは、どさくさに紛れて、双子出産の事実を見逃してしまったのでした。

年が改まる毎に新たに選出されるクレティア達は、最初は単にアルテミス神殿のみと関係がありましたが、後にローマ帝国期になるとプリタネイオンに於いてもある地位を築いたのでした。クレティア達に因んで命名されたクレティア通りはヘラクレスの門とセルシウス図書館の間に延び、つまり、都市の中心を走っていた道であった事から、ここの上には数多くの記念碑を見る事が可能です。

両側に位置する屋根付きで支柱のあるモザイクで覆われたギャラリーに向かって、商店や家々、その他の建物の扉が開かれています。支柱の前面に見られる基盤の上には都市の後援者達の彫像が立ち、基盤の幾つかには碑文も残されています。ヘラクレスの門の近くで発見された彫像の一つは医師アレクサンドロスを表わしたものです。エフェソス博物館に展示されている執政官ステェファノスの彫像もこの辺りで発見されています。

4世紀半ばの地震は通りを破壊し、使用不可能な状態にしました。しかし、ここを襲った最後の地震の後、各地から搬入したそれぞれに異なった建築資材や支柱を用いてこれを再建したのです。通りに面した商店は、その後方の家々と繋がっています。

19.トラヤヌスの泉

クレティア通りの北にあり、発掘の際に出土した碑文によると皇帝トラヤヌス(98~117)に捧げる為、102~114年に造られたものとされています。賛美の碑文は今日、泉の横にある大きな軒じゃばらの上に記されています。中央には貯水槽が設置され、三方は二層の支柱から成る〈壁〉で包囲されていて、支柱の間には彫像のある壁がんが造られています。この内、中央の壁がんにはかつて皇帝トラヤヌスの像が置かれていたと考えられています。

しかし、皇帝の彫像から現在に残るものは残念ながら台座と足の一部であり、貯水槽にはこの像の下にあった大きな溝を通って水が流れ込んでいました。泉は本来、高さ12mの造りでしたが、全体の様子を把握する為、縮小して修復されています。ディオニソス、サテュロス、アフロディーテ、そして皇帝の一族の像は発掘の際に出土され、エフェソス博物館に展示されています。

トラヤヌスの泉

20.円形の塔

トラヤヌスの泉の後方、パナユルダゥの裾野には、円形の塔の名残を見る事ができます。50年頃に何かを記念して造られたこの塔は長方形の基礎上にあり、一列に並んだ二層の支柱に囲まれて、中央には円筒の主要建造物が位置しています。下の支柱はドーリア、上のものはイオニア式です。塔は今日、その基礎となる部分しか残っていません。

トラヤヌスの泉とスコラスティカ浴場の間を北に走る通りは、大理石の平板に覆われ、所々に階段が設置されている。これは〈大理石の通り〉と平行に走っており、大劇場までの部分は既に発掘が済んでいます。

21.スコラスティカ

スコラスティカ
クレティア通りの北側、トラヤヌスの泉とハドリアヌス神殿の間に位する浴場は、基礎も含めて三階建てで、エフェソスにある同種の施設の中では最大とされています。

ローマ帝国期に、浴場は独自の規則をもって運営され、貧富の差を問わず人々の間で一般的に利用された施設でした。浴場の中には、誰もが広く利用できる様にと、貧しい者からは料金をとらない所もあったそうです。一般的に裕福な人々は、お付きの者を従えて午後から出掛け、ゆっくりと時を過ごしたようです。

浴場では最初、アポディテリウムと呼ばれる脱衣室で衣類を脱いだ後、スドトリウムで汗を流し、カルダリウムで温水浴をします。更に、ここでお付きの者は彼等の主人をマッサージし、洗い流しをしたのです。

それが終わると彼等はテピダリウムで一日の出来事を話題に話し込んだり、政治、哲学に関する討論を繰り広げたりして寛ぎ、最後にフリジダリウムの冷水プールで泳いでスッキリした後、家路につくのが常でした。ローマ人の後、浴場は人気を失い始め、中世に於いては全く忘れ去られましたが、セルジューク、そしてオスマントルコ時代になると再び、人気を取り戻すようになりました。

スコラスティカ浴場にはクレティア通りと、東の通りからの2ケ所の入り口があり、どちらの扉も円柱と壁がんのある非常に大きな広間であるアポディテリウムに続いていました。壁がんの一つに見られる像は400年に最後の修理を施したクリスティアン・スコラスティカのものです。

フリギダリウムはアポディテリウムの西に位置し、その中央には楕円形の冷水プールが設置されていました。テピダリウムへはアポディテリウムの北側にあるアーチ形の扉を潜って入りますが、ここからは暖かい空気を巡回させる為に壁と床下に埋め込まれていた陶器の管が発見されています。

東壁にはその表面より数センチ引っ込んだ僅かな部分に、色付き大理石を用いて施したモザイク装飾が残っていますが、これは本来、浴場の床を覆っていたものと思われています。400年に行なわれた修繕で、今までの床は大理石の切板で覆われました。

非常に良い保存状態で残っているのは、テピダリウムからかカルダリウムに続いていた小さく、狭い扉です。それぞれの時代に行なわれた手直しで、壁は大理石や煉瓦の板で覆われ、カルダリウムの床下は、その間を温風が流れる様に、素焼きの足の支えも施されたのです。

温風はカルダリウムの西に位置する〈かまど〉から送り込まれていました。スコラスティカ浴場は1世紀に造られ、何度もの修繕を4世紀の終わりまで繰り返したのです。

22.公衆トイレ

公衆トイレ
スコラスティカ浴場の西端には円天井に覆われた狭い道があり、都市の公衆トイレの扉はこの道に向かって開いています。建物の中央には方形の貯水槽が設けられ、ここの端に、穴を開けただけの石造りのトイレが並んでいます。この正面には水の溝が引かれ、床はモザイクで覆われています。貯水槽の上に覆いはありませんが、周囲は壁で囲まれており、回りの4本の柱によってトイレの屋根が支えられていたのです。

23.ハドリアヌスの神殿

クレティア通りの上にある遺跡の中でも最も見事なものに挙げられる建物で、遅くとも138年までには完成していたと考えられています。神殿は記念碑的意味合いのあるアーチ形の入り口と、その後方の小規模で剥き出しの主要建物から構成され、アーチ形の入り口の前面にあるコリント式柱頭の付いた4本の支柱でその上の三角の破風を支えていたと考えられます。

更に、中央の2本の柱で、破風より全面に曲がって彫られ、まん中に都市の女神ティーチェの胸像を施したアーチを支えているのです。扉の横木には、古典的図柄を用いた大変見事な装飾が施され、奥の入り口の上部、半円形の中には、花やアカンサスの葉に包まれたメドゥーサに似た女性の浮き彫りが見られます。アーチ門の上部横木にあった帯状装飾板の本物は現在エフェソス博物館にて保存されています。

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修復の際、本来の装飾板の代わりにここには複製のものを使用したわけですが、この装飾板は左から始まる4部構成となっていて、最初の3部には神や女神と共にエフェソスの創立者アンドロクロスが猪を追い掛けている場面、神々とアマゾン族、そしてアマゾン族とディオニソスの行進が表わされています。

4番目の主題は前3つと異なり、左からアテナ、セレナ(月の女神)、男性、アポロ、女性、アンドロクロス、ヘラクレス、テオドシウスの父、皇帝テオドシウス、エフェソスの女神アルテミス、テオドシウスの妻と子息、そして女神アテナが現されています。神殿は4世紀の地震で崩壊し、他の3つと主題の異なるこの第4の装飾板は、恐らくエフェソスの他の建物からこの場所を修復する為に運ばれてきたのであろうと推測されています。

建物に記されている碑文によると、神殿はP.Quintiliusが皇帝ハドリアヌスに138年頃献上したものとされています。支柱の前には碑文のある4つの土台石が置かれています。これらの上には293~305年の間にローマ皇帝の位を分け合ったディオクレティアン、マクスィミアン、コンスタンティウス・コロルス、そしてガレリウスの4皇帝の彫像が乗っていたとされています。

ハドリアヌスの神殿

24.裾野の家々

ハドリアヌス神殿の向かいにあるかつての商店の発掘は完了しており、これらの幾つかはその上に造られた家と連結していた事が明らかになっています。クレティア通りと階段付きの狭い道路で繋がる家々は、ビュルビュルダゥの裾野にされていた為、段々になっていて、下の家の屋根が上のもののテラスとなる様な形をとっていたと考えられています。

都市の中心に位置している事から、これらは恐らく特別な、そして名家と言うべき選ばれた一族が所有していたものであるとするのが正解でしょう。この様な理由で、エフェソスのこの地区の家々は〈裕福な人々の家〉もしくは〈山裾の宮殿〉と呼ばれています。

階段のある道に向かって全ての家のテラス側から扉が開く様になっており、家々には部屋に囲まれた内庭(ペリスタイル)が必ず設けられていました。多くは三階建てで、大理石に覆われ、四方を支柱に囲まれた内庭の広さは25~50㎡が普通と見られています。水道設備もあり、更にペリスタイルの中かその横には噴水泉も設置されていると共に、貯水槽を所有する幾つかの家もあったようです。ペリスタイルには天井がなく、一応は家の採光にも役立っていましたが、窓がなかった為にやはり家の中は暗かったと思われます。浴場が温風を巡回させ空気を暖めていたのと同様の方法をこれらの家々も採用していたようです。

床はモザイクで覆われ、壁はフレスコ画が施されるか、装飾豊かな大理石で飾られるのが一般的でした。普通、新しいフレスコ画は古いそれの上に描かれましたが、この際、漆喰を定着させる為に古い絵は削られています。フレスコの主題は、主に神話から、例えば、神、女神、ミューズ、エロス等を採用する事や、悲劇喜劇の一シーン、花々の図柄が当時の流行であったと考えられます。アウグストゥスの時代に造られた山裾の家々は、7世紀頃までに様々な増築、改装が施されている事が発掘調査の結果から明確になっています。7世紀以降、内部に土や砕石を満たした家は穀物の貯蔵庫として使用され、この上に水車小屋を建て、何年もの間使っていた様です。これらの内、2つの家が修復され一般に公開されています。発掘中に発見された家庭用品も家の中で見る事ができます。

ペリスタイルの家 1

ハドリアヌス神殿の向かいにある階段付きの道の末端に入り口を持つ家は、山裾の家々に関する全ての情報を知る事ができるまでに修復されています。900㎡の敷地の上に立つ二階建ての家の上階部は、残念ながら完全に崩壊してしまっている為、ここから何かを解き明かそうとするのは困難です。

異なった目的で使用された12の部屋から構成され、まず入り口にある何段かの足場を踏んで黒と白のモザイクで床が覆われた広間へと出ます。ここの右手には上階に続く階段と、後に造られたアーチの付いた噴水泉があります。入り口の真向かいに見られるアーチ付きの通路は大理石に覆われたペリスタイルに続き、北手には噴水の名残をうかがう事ができます。泉の後方にある部屋の床はモザイク装飾され、壁には主に赤色を用いて描かれたフレスコ画が残っています。この家自体は1世紀の建築物ですが、これら2部屋は400年に行なわれた改築後に造られています。

ペリスタイル(内庭)の反対側には円天井付きの壁がんがあり、二階部分に続く階段の名残も見られます。この階段に接して、床や壁をモザイク装飾したもう一つの良く手入れされた部屋があります。ここは本来、隣接する別の家の部屋でしが、後にそこから切り離して使用される様になったものと考えられています。

ペリスタイルの西手には高さ4mの壁がある状態の良い広間があり、ここの入り口の両側に劇の一コマを描いたフレスコ画がある為に〈劇場の間〉とも呼ばれています。ローマ時代には役者が仮面を着けて演技をするのが常であった事から、ここのフレスコも仮面を被った構図となっており、右手には喜劇作家メナンデールの〈Sikyonios〉と、左手にエウリピデスの〈Orestes〉からの一場面が描かれています。〈劇場の間〉の広い壁には実物大の全裸、半裸の男女の図柄が見られ、これらの内の一人は手に皿を持っています。

左手の壁、第一の部には仮面が、その横にはヘラクレスと川の神アケロウスの格闘の様子が描かれています。このフレスコのテーマは次のようです。西方ギリシアで最も重要な川の神アケロウスはカリドン王の愛娘デイアニラに恋し、彼女との結婚を渇望していました。しかし、ある時は雄牛、又ある時は龍と、その姿を変えるアケロウスを恐れたデイアニラは、川の神よりヘラクレスとの結婚を望んだのですが、これを知った川の神は龍に姿を変えヘラクレスに挑みました。こうして、二人の間に闘いが始まったのです。

〈劇場の間〉の床は対称柄のモザイクで覆われています。これらのモザイクやフレスコは2世紀にまで遡るものです。入り口の南は浴室となっており、大理石に覆われた床と排水溝は崩壊していますが、泉とかまどは現在もその姿を留めています。床下に設けたかまどから温風を送り出し、これを巡回させ家を暖める方法は当時一般的でしたが、今でもその為に使用された素焼きの脚が残っています。厨房は浴室に接する位置にあり、ここの横にはより小さな部屋と通路に開く勝手口が見られます。現在、家の中に置かれている家庭用品は発掘中に出土したものです。

ペリスタイルの家 2

前述の第1の家に接続しており、2つのペリスタイル(中庭)を持つ、より規模の大きい家です。1世紀の建物ですが、6世紀まで、多くの修繕や改築の手が加えられています。主要ペリスタイルは他のそれより状態がよく、コリント式の柱頭のついた優雅な支柱が見られます。ここの南側に使用されている支柱は、5世紀の改築で別の場所から運び込まれた為、建物や他の建築資材からして多少異質な感じがするのは否めません。

ペリスタイルの南側の長い連廊は、対称模様が白黒のモザイクで装飾されており、ここの真向かいにあたる南連廊には左手に父の象徴である三つ又の矛を持ち、右手で半裸のニアリイドが座る馬頭魚尾の怪獣の手綱を引くトリトンのモザイクがあります。この色彩豊かで生き生きとしたモザイクは丁度ペリスタイルの横に位置し、床を白と黒の〈縄編み模様〉のモザイクに覆われた壁がんの前方にあるのでわかりやすいです。山裾の家のなかで見られるモザイクの内、最も美しい作品は、細かい色彩豊かな硝子を用い、全面を覆い尽くした、ここの壁がんの円天井のものでしょう。

中央の円の中にディオニソスとアリアドーンの頭部、そしてその周囲を植物や孔雀、家鴨、雄鶏が取り囲んでいる5世紀の作品です。円天井の両側にはフレスコで描かれた花冠を運ぶエロスのフリーズが見られます。家の東側には様々な大きさの部屋が並び、これらの床には白黒のモザイク装飾が、壁には鳥や花の構図のフレスコ画が描かれています。

25.オクタゴン

ハドリアヌス神殿の真向かい、道路の端には八角形をした霊廟があります。エフェソスでは人々の尊敬と名声を手に入れる為、公共の建物や神殿建設、又、それらの維持費を出資する事が、まるで〈競争〉のようになる傾向にありましたが、数々の努力の末に名声を手にした人々は、アゴラや主要大通りの特別な場所に彫像を立てられる事や賛美の碑文を記される事、オクタゴンの様な記念霊廟を捧げられる事でその見返りを受けていたのです。

長方形の基盤の上に建つこの八角形の霊廟も、その様な人に属する墓です。周囲はコリント式の一列の支柱で囲まれ、ピラミッド形の屋根がついています。軒や基盤には蓮や棕櫚、アカンサスの葉の装飾が施されています。低い円天井のある部屋に石棺が置かれ、ここの入り口は狭い通路を抜ける様になっていますが、その後方の家の下に位置しています。紀元前40~紀元前20年の間に造られたオクタゴンは1929年に発掘されましたが、18~20才位の若い女性のものと思われる骸骨も共に発見されています。

26.ビザンチンの泉

オクタゴンの直ぐ隣にはギリシア語とラテン語の碑文が残されています。これらは皇帝バレンティニアウスー世とバレンス、グラティアヌが4世紀半ばの大地震の後に都市や都市の城壁を再建した事、アジア地方の祭日について規定を記したものです。碑文の横には馬蹄形をした霊廟がありましたが、この上に5世紀に泉を建てた為に一部崩壊している状態にあります。正面の貯水槽とこの後方の主要建物から構成される泉の壁は十字架の印で飾られています。

27.娼婦の館

クレティア通りのハドリアヌス神殿の後にある柱廊玄関状のものは、ビザンチン時代にビザンチンのストア(覆いのある広間)に変換されています。そして、ここの後方にあるのがペリスタイル付きの〈愛の家〉として有名な娼婦の館です。恐らく98~117年、皇帝トラヤヌスの時代に造られたものと推測される館は、後方の公衆トイレ、スコラスティカ浴場と共に複合施設を形成し、4世紀にはこれら全てに修繕の手入れが施されています。トイレにて発見された碑文には、ここが娼婦の館であり、〈大理石通り〉に入り口があると共に、別の扉からクレティア通りに出られる様にもなっていたとあります。

上階は完全に崩れ落ちています。下の階は非常に広く、その壁はかつてフレスコ画で飾られていた様ですが、現在ではほんの僅かな跡が残るだけです。西に位置する居間(トリクリニウム)の床には、四季を表わす色彩豊かなモザイク装飾が施されています。ここに接続して冷水と温水用の浴室があり、西手に床をモザイクで覆ったプールが見られます。後期になって周辺で行なわれた改築の際にプール自体は損傷を受けたが、モザイクの保存状態は良好です。中央で飲み物を飲む3人の女性、立ち姿の召使、パン屑を齧るネズミ、そして猫が図柄として採用されています。ここのクレティア通りの側には、今日も利用されている井戸がありますが、エフェソス博物館にて展示されている性器を誇張したプリアパスの像はここから発見されたものです。

クレティア通りからセルシウス図書館に行き着く手前に小さな広場があり、ここから〈大理石通り〉が右手に、別の通が左手に走っています。前述の広場から左手に走る道のはじまりに位置し、広場を向いて建つのがこの記念門です。道の発掘が未だ行なわれていない為に、これがどこに続いているのかは明らかになっていません。しかし、始発点を記念門に置いていると言う事実から推測するに、恐らく重要な宗教的建物、もしくは神聖な地区へと延びているとして間違いないでしょう。

門は2世紀のはじめに造られ、現在は3つの通路を隔てる4本の壁柱と周囲に散在する様々な建築資材が残るのみです。壁柱はイオニア式柱頭のある対の支柱を支え、中央の2本の支柱の間にはアーチがあります。そして、更にその上には下のそれより小規模な6本のイオニア式支柱がやはり対になって配置されています。破風はハドリアヌス神殿のものに酷似しており、中央の2本の支柱の間にはアーチも見られます。おそらく門は4世紀半ばの地震で崩壊したと考えられています。

28.セルシウス図書館(ケルスス図書館)

エフェソス
修復工事の完了したセルシウス図書館は、エフェソスの記念建築物の中でも、最も印象的で、人目を引くものです。

92年、ローマの執政官であるティベリウス・ジュリアス・セルシウス・ポレマエアヌスは全ての公共建物の管理責任者であり、105~106年もしくは106~107年には都をエフェソスに置くアジア州の知事でもありました。114年彼が70才でこの世を去ると、その息子ティベリウス・ジュリアス・アクイラは父の為に記念霊廟としてこの図書館を建設したのでした。(117年に完成したと思われます。)

質の良い大理石で作られたセルシウスの棺は図書館の壁の下に埋められており、エロス、ニケ、花冠、ばら花飾りの浮き彫り装飾が施されています。1904年発掘調査の際、この棺は開けられ、内部に置かれた鉛製の第二の棺の中から骸骨が発見されています。

皇帝ハドリアヌスの時代の建築的特徴を充分に示す建物は、特に2階造りの壁面に注意を払って建築されています。下の階にはコリント式の柱頭を持つ支柱が2本一組として長さ21mの舞台状の基盤に用いられ、9段の足場がここに続いています。対の柱の間には、内部に続く見事な装飾の施された3つの門があり、中央のそれは他の2つより、広く高い造りとなっています。

門を挟む様にして壁の内部にくり貫かれた部分には彫像が立っていますが、これらは図書館が発掘された年にウィーンに持ち出されたオリジナルの複製です。基盤に残る碑文によれば、これらの彫像はセルシウスの知識(ソフィア)、学識(エビステイム)、聡明さ(エンノイア)、そして高潔さ(アレーテ)を象徴するとされています。上階の柱は下のものより小ぶりで、窓の上の部分にあたる三角形と半円形の頭を支えています。

図書館の内部は10.92m×16.7mあり、装飾豊かな大理石に覆われています。西の壁、丁度セルシウスの棺の上にあたる部分は後陣に似た造りがとられ、発掘の最中にここから発見され、現在イスタンブール考古学博物館に展示されているセルシウス、又はその息子のものと思われる彫像は、半円形の壁がんに設置されていた物である事が確認されています。

横の壁には巻き本を保存していた壁の窪みが列を成し、上の階にもこれと同様な造りを見る事ができます。今に残る建物から想像するに、恐らく図書館の内部も二階建てであり、二階の部分にあるべき高さに見られる壁の窪みの前にはバルコニーがあったと思われています。湿気対策として壁の窪みの後方は空洞となっていて、右の窪みはセルシウスの霊廟にまで続いています。

これらの壁がんには12,000冊の巻き本が保管されていたそうです。図書館の建設者、セルシウスの息子ティベリウス・ジュリアス・アクイラが建物の完成を見ずにこの世を去った後、建築続行は彼の後継者の手に委ねられました。ティベリウス・ジュリアス・アクイラは増本する事という条件をつけて25,000ディナールを遺贈しています。


セルシウス図書館は両側にあった建物の間に後から造られた為、まるでこれらに挟み込まれ、潰されたかの様な印象を与えていました。これを克服して実際よりも大きな建物に見せる為に様々な手段がとられていますが、例えば支柱の立つ基盤は、中央を両端より盛り上げ、この凸状の基礎の上に乗せられた支柱、柱頭も両端の物より中央の物の方を幾分大きく造っています。つまり、こうして遠近方の効果による目の錯覚を狙い建物を大きく見せたと言うわけです。

262年のゴート人襲来に於いて、図書館の内部は完全に焼き払われてしまいましたが、外の壁は大した被害を受けずに済みました。4世紀の末に建物はエフェソスの他の建造物と共に修復されましたが、この際に正面の階段の隅に噴水泉が設けられています。壁面は10世紀の地震で崩壊し、F.Hueberにより修復されました。また、正面の泉の両側に列を成した状態でパルティア戦争の模様を描いた帯状装飾のブロックが発見されています。理論的に考えて、これは図書館正面の広場の南側にあった祭壇に属するものとするのが正しいでしょう。道路から図書館に下る階段は、祭壇前の階段と図書館自体と共にあたかも聴衆席の様な印象を与えています。

中心に漆喰と砕石とであまり注意を払わずに造られた壁と門は、6世紀から7世紀にかけてエフェソスの人口が減少した時の城壁と西の門でした。広場の横に置かれている石棺は1968年にエフェソス博物館による発掘調査の際に既に暴かれた状態で発見されましたが、この上の碑文からすると棺は2世紀に造られ、ティベリウス・クラウディウス・フラピアヌス・ディオニスィオスの物である事がわかります。

29-30.マツェウス―ミスリダテスの門とアゴラ(商業用地区)

エフェソス
アゴラとセルシウス図書館との間にある門は、ローマの凱旋門に似て、3ケ所の通路があります。この通路の間の厚く強靭な漆喰によってアーチとその上に乗る3部構成で豊かな装飾の施されたフリーズが支えられているのです。

中央の通路は他のものより内側に設けられた為に、建物に奥行きを持たせ、アチカ(アテネ風の)壁で、まるで王冠を頂いた様にも見えます。両側の通路には2つずつの壁の窪みが設けられ、「ここで立ち小便をする物は、誰あろうと裁判所で裁かれる事なり」とあります。門の最も重要な碑文は横通路上に見られます。

西側の碑文:
Im(peratori) Caesari f(ilio) Augusto pontifici
maximo co(n) s(uli) Ⅻ. tribunic(ia) potest(ate) ⅩⅩ et
Liviae Caesaris Augsti
Mazeus et

東側の碑文:
M. Agrippae L(ucci) f(ilio) co(n)s(uli) tert(ium)
imb(eratori) tribunic(ia)
potest(ate) Ⅵ et
luliae Caesaris Augusti fil(iae)
Mithridates patronis

碑文にはラテン語が使用され、東側の二行目〈imb〉は〈imp〉とあるべきものの間違いです。碑文には次の様に刻まれています。

「皇帝カエサル、神の子アウグストゥス、最高司祭、執政官を12回歴任し、人民保護官を20回勤めた。カエサル・アウグストゥスの妻リビア、ルチアスの息子マーク・アグリッパ、執政官を3回、皇帝、6回人民の保護官を歴任した。そしてカエサル・アウグストゥスの娘ジュリア。マツェウスとミスリダテスより、尊いその主人達へ。」

マツェウスとミスリダテスは皇帝アウグストゥスとその一家の奴隷でしたが、自由の身となってから、皇帝の許しを得て紀元前4年もしくは紀元前3年にこの記念門を建て皇帝をはじめ、妻リビア、娘ジュリア、婿アグリッパに献上したのです。門の修復、修繕は未だ続行されています。発掘の最中、クレティア通りから引かれた幅広い下水溝がこの門の下で発見されています。

商業用地区(アゴラ)

アゴラ
マツェウスとミスリダテス門の他にアゴラには西と北にも別の門があります。西の門は多くの支柱と職人芸の最高傑作とも言うべき装飾で実に美しいですが、対して北の門はまだ修復事業が手付かずでいる為、門自体の、そしてそれがどんな様子であったのか現在分からないままです。

アゴラは一辺の長さ111mの方形の基盤にあり、紀元前3世紀に建てられ、最終的な形になったのはカラカラ帝(211~217)の時代でした。発掘の段階で本来のアゴラ遺跡は、現在の地盤から2~2.5m下にて発見されています。ほとんどのアゴラは4世紀の地震で崩れましたが、後に再建されています。

アゴラの北端の外側には、三方に小規模ではありますが、円屋根のある商店がありました。これらの内、東と南手のものは二階造りで、商店の正面には二層の支柱が屋根を支えています。本来これらの柱は花崗岩で出来ていましたが、4世紀の修復のおりには大理石の物も使用されるようになっています。大きな広場にも似たアゴラの中心には、かつて日時計と水時計(ホロロジオン)が設置されていましたが、ホロロジオンの基盤は発掘の最中に発見されています。また、アゴラの中心の空間から様々な哲学者、雄弁家、政府高官、学者の彫像が発見されています。

ローマ時代にアゴラは市民生活の重要場所であり、半神聖な場として認知されていた為に、入場する場合は敬意をもって、と言うように特別な意識が必要とされていました。有名なローマの哲学者カトも「農地でのものと同様の服装でアゴラに入るべからず」と言っています。アゴラでは当時の技術で作られた青銅や銅の製品、数々の陶器品(特にオイルランプ)、アラブ諸国からのハーブ、アナトリアの葡萄酒、蜂蜜や保存肉、絹、エフェソス製の香水、高貴な石を用いた宝飾類等が売られていました。

31.セラピスの神殿

アゴラの南西隅にある階段付きの通りはセラピオンに続いていますが、この他にアゴラの西門が開く道からも神殿に行く事が可能です。ストアに似た幅24m、長さ160mの道は大理石舗装され、神殿の南側にある階段のついた扉へと続いています。扉は、その三方を柱廊玄関風の支柱に囲まれた広い内庭に向かって開き、ただナオス(主要の部屋)とプロナオス(玄関)のある神殿そのものは、この庭より高い段丘の上に位置しています。

直径1.5mでコリント式の柱頭をつけているプロナオスの支柱は、それぞれの重量が57トンあり、これが支える上の部分も、柱とほぼ同じ位の重さとみられています。神殿の入り口は非常に広く、下に滑車のある2つの鉄の扉がついています(滑車のつけた深い跡が見られます)。神殿の周囲に散在する不完全な建築資材は、この神殿がまだ完成途中にある事を物語っています。発掘の最中、花崗岩で出来たエジプト様式の像が発見され、碑文によれば神殿はセララピスに献上されたものと考えられます。

ローマ時代の宗教で、いわゆる〈あの世〉又は〈死後の世界〉と言う意識はなかった為、これに基づけば、ホメーロスも指摘している様に死人の魂の多くは〈地下界〉で痛みをもって浮遊するとされます。対してエジプトの信仰は死者の再生と、死後の世界での暮らしを信ずるものでありました。

エジプトとエフェソスの交流はペルシア期をもって最盛期に達し、エフェソスとアレキサンドリア間の船での交易はこれを表わす良い例です。この関係を示す別の証拠として、エフェソスの発掘作業中発見された多くのエジプト風エフェソス人の彫像と、今でもエフェソス博物館に展示されている信用証書を挙げる事ができるでしょう。

長さ1mのこの証書の片面にはエフェソスで最も影響力のある女神アルテミス、もう片面には髭をはやし、手にしゃくを持ったエジプトの最高神セラピスが描かれています。このようにして、エフェソスにおいて、神セラピス崇拝は認知されたのです。2世紀になると、豊かな装飾の施された神殿が建設され、セラピス神に奉納されました。

32.大理石の通り

パナユルダゥを旋回しながら走る聖なる道〈大理石の通り〉は、セルシウス図書館と劇場の間に延び、大きく平らな大理石の石板で舗装されています。通りの東側はクレティア通りに似て支柱のある柱廊玄関があり、西側は皇帝ネロの時代(54~68年)に上を覆った高さ2mのストアに変換されています。

未だ修復作業の続行される階段のついたストアの入り口は劇場の方を向いています。本来、壁のブロックはそれぞれ銅や鉛の締め金で固定されていましたが、此れ等はエフェソスが経済的に非常に弱小となったビザンチン時代に外されており、その為、現在は壁に金の止められていた穴のみが残っています。

通りのストア側には、その先に娼婦の館があると言う事を、ある〈滑稽さ〉をもって宣伝する事を狙った女性の頭部と左の足跡、そしてハート形の彫られた(ビザンチン時代)狭い歩道があります。この横に見られる剣士の浮き彫りは都市の各地から搬入されてきたものと思われています。

大理石の通りはセルシウス図書館に起点を置き、べディウスの演武場と徒歩競技場の間にあるコレッソスの門を抜け、更に延びています。5世紀にエウトロピオスと言う名前のあるエフェソス人が通りのこの部分を修復しており、この事に対してエフェソス人等はこの場所に彼の胸像を立てたのです。古代に於いて修復の手の届かなかった通りの表面には、ローマ時代につけられた10~15cm程の馬車の車輪跡が残っています。

通りの演武場以降の部分はエフェソス博物館によって、いまだ修復、修繕が続行中ですが、調査の際に良い状態で発見された煉瓦製のアーチの一部は、支柱の間に煉瓦のアーチが設けられていた事や柱廊玄関の屋根が木製であった事などを今に伝えています。4世紀の修復中には、徒歩競技場から観客席の一部を欄干として使用する為、ここに搬入しています。又、アゴラからは岩花崗岩の円柱も持ち込まれています。

33.円形劇場

円形劇場
パナユルダゥの裾野を利用してリシマコスの時代に造られた大劇場は、その後何度かの改造がなされ、他の古代劇場の殆ど全てがそうであった様に〈聴衆席〉、〈半円形舞台〉、〈舞台〉の3部構成となっています。

高さ約18mの舞台は劇場の中でも最も印象的な部分です。聴衆と向き合う壁面は支柱のある3層造りであり、支柱の後方には彫像の備え付けられていた半円形と三角形の壁がんがあります。今でもしっかりとその状態を留める地盤階は北と南に延びる入り口と、この西側に一列に並んだ8つの部屋から成っています。これらの部屋の両端のものは建物の西にある狭いテラスへと開き、中央の部屋の扉は半円形舞台と連結しています。

古典期、紀元前5世紀に於いて、劇場建設の際、特別に芝居の為の舞台というものは設計に含まれておらず、役者達は半円形の舞台で演技をするのが普通でした。時には、この演技用の舞台は〈半円舞台〉より多少高い位置に造られる事もあったようです。ヘレニズム時代になると半円形舞台はより小規模となり、演技用に狭く小さな舞台が設置される様になりましたが、この試みは結果として後方の聴衆にまで役者の声を響かせる事となり、又、前方の客には、演技者の姿を更に良く見せる様になったのです。

エフェソスにて見られるヘレニズム期の劇場の舞台は、幅2.5~3m、そして高さもそれと同程度というのが一般的です。ローマ帝国時代になると舞台の幅も高さも、それぞれ6mと25.5mまでに拡張され、都市の名士達の為にオーケストラ(半円形舞台)の中に特別席も設けられるようになっています。皇帝クラウディウスの治政下(31~42年)、劇場には時代の要請と共に重要な改築が施され、舞台の造り自体はそのままにして、オーケストラの中に5m程入り込むように改められています。この部分は〈プロスケーネ〉と呼ばれ、建築の際に現在も残る2列の支柱が用いられています。

同時に、この後方にある主要建物に3層の支柱からなる見事な壁面も造られています。この壁面は壁がんや彫像、浮き彫り等で装飾され、これらの増築の間、オーケストラに二手から入る事を可能にしていたパラドス(横口)に覆いがかけられ、今日見られるトンネル状の入り口も設けられたのです。

これらのうち、北側のものは現在まで良い状態を保ってきましたが、南手のものは建設後に何度かの改築が施されているようです。舞台の前方へ延びるプロスケーネには建物を実際の規模より大きく見せる効果を狙って、主要建物から中央の物がより大きく、両端のものは小ぶりな5つの扉が開いています。中央扉の上にある壁がんの中には、皇帝の陶像、もしくは彫像があったはずと考えられています。

皇帝クラウディウスの始めた一連の劇場改築、増築は完成まで70年を要した為、聖パウロがエフェソスを訪れた際も続行中であったそうです。舞台建物の二階の一部は良好な保存状態で発掘されましたが、ここの様子からして二階の設計は下の階のそれと異なったものが採用されている事が明白です。中央には長い通路が見られ、このプロスケーネ側にある5つの扉の西には2列の部屋があったとされています。

オーケストラ:半円形より多少広く、直径34m

円形劇場
演技の最中、パラドスから入場する合唱隊はオーケストラの二方から定位置に着き、出番になると一斉に語り出したのです。出し物の前には、オーケストラの中心にあったと考えられる祭壇の正面で、ディオニソスに敬意を表する儀式が取り行なわれるのが常でした。
そもそも演劇の起源と言うのは、酒の神ディオニソスに対する崇拝の儀式から発し、この為開演儀式を以って取り行ない、神に犠牲の動物を捧げる事が伝統となっていたのです。

ヘレニズム期のオーケストラは、より小規模な造りとなっています。ローマ帝国期に於いて、オーケストラの直径は5mに拡大され、床は大理石の石板で覆われる様になりましたが、今日見られる床は、当時から残る数枚のオリジナルに適応させ造ったものです。聴衆席も半円形より多少大きく両袖を広げ、つまり180度より広い角度に造られ、オーケストラの床から、その最も高い位置までは高さ38m、直径154m、一度に24,000人を収容するに充分な能力を有していたと思われます。

12段の階段状に造られた聴衆席はディアゾマと呼ばれる2つの通路を挟んで3部に分割されています。観客は席の外に設けられた階段つきの通路を使って着席し、入り口は劇場の位置する丘の頂上から続く道にありました。客席の最上階の更に上に見られる円柱のあるギャラリーは、この部分を他から隔てる他、音響効果を高めるのにも一役かっていたのです。

本来、客席とオーケストラの間には鉄柵が張られていましたが、後に高さ2mの壁に変換されています。客席が現在見られる様な最終的な形をとったのは、皇帝ネロ(54~68年)、そして皇帝セプティムス・セベルス(193~211年)の治政下で行なわれた改築後の事です。役者は全て男性で構成され、山裾の家で見られる劇場の模様を描いたフレスコ画の通り、彼等は演技の最中必ず仮面を着用するのが習慣でした。観客は早朝から始まる劇の内容に精通していたという事です。また、全エフェソス市民が参加できる〈デモス〉と呼ばれる議会はエフェソス大劇場で開催されていました。

34.ヘレニズムの泉

劇場の通路に面した右端にはイオニア式の柱頭のある2本の支柱と小さな噴水泉をもつ、大きくはありませんが、美しい貯水槽が見られます。ここには、大理石で造られた獅子の頭から水が吐き出されていました。噴水泉は紀元前2世紀のもので、4世紀になるとあまり代わり映えのしない2本の円柱を用いて拡大されています。

35.ハーバーストリート(港通り)

ハーバーストリート
劇場と港の間を走るハーバーストリートは、東ローマ帝国皇帝テオドシウスの子息であるアルカディウス(395~408年)が修復と改築をし、碑文を立てた為、別名アルカディアーナ、即ち〈アルカディアの通り〉とも呼ばれています。長さ500m、幅11mの通りの両側には屋根のある柱廊玄関が立ち、床にはモザイク装飾が施されていました。この後方には商店も見られます。紀元前1世紀に造られた通りは、本来儀式用のもので、アナトリアからの道路はここを終点としています。海外からやって来た皇帝や領事、知事の様な要人も、この通りを使って都市に入ったのです。

発掘の際に出土した碑文には「アルカディアーナの両側にある円柱つきの柱廊には、猪の像まで、50の街灯があった」とされています。古代に於いて、〈明り〉を引く技術を有していた都市は非常に稀であり、せいぜいローマ、エフェソス、アンティオキアが列挙できる程度です。碑文にも明記される猪とは、エフェソスがアンドロクロスによって設立された時に登場する猪の事に他なりません。

通りの港と劇場の近くで発見された凱旋門に似たアーチは崩れ落ち、基盤が残るのみです。通りの中央には5世紀に建てられた大きな円柱の上に4人の福音伝達者達の彫像が乗っていたと推測され、円柱の柱身は現在も残っています。

通りで発見された碑文から、エフェソスに於ける公的業務の税金に関する事柄を知る事が可能であり、例えばパセリと塩の売買には各1ディナール、競技の優勝者である事を宣言する為に6ディナール、出生届けに対し1ディナール(但し、登録者が特別の地位にある場合は100ディナール)等が明記されています。当時、住民登録をし市民と認められる事は、この様な高額を支払って余りある意義をもっていたのに違いありません。

 
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36.演武場

エフェソス最大の演武場はハーバーストリートと大理石の通りが交差する広場の北手に位置し、医学者の研修機関であるパラエストラの発掘のみ完了しています。ハーバーストリートに面するパラエストラは70m×30mで三辺を円柱つきの柱廊玄関で包囲されています。別の一辺にはスポーツの際の観覧席として使用されていた階段が残っており、パラエストラから建物への入り口もここに設置されていたようです。

主要建物は東西の対称設計に基づいて建設され、フリジダリウム、テピダリウム、カルダリウムとその他の部署を含めた浴場もパラエストラに接する南端に備わっています。その横が教室です。図書館、会議室等から成る北手の5つの部屋の中央のものは、壁がんのついた演武場の皇帝専用の間であったと見なされています。

37.ベルラヌスの運動場

ハーバーストリートの北側には端から端までスポーツ施設が並び、その内の最大のものはベルラヌスの運動場と呼ばれるものです。200m×240mの広さを持つこの運動場は、演武場から港の演武場まで続いています。小道の上にある5つの通路つきの美しい門は、ベルラヌスの運動場とハーバーストリートを繋いでいます。競技場の置かれた中央の部分は、床を大理石に覆われた3列の円柱から成る柱廊に包囲され、これは西手にある演武場と連結しています。皇帝ハドリアヌスの時代(117~138年)にアジア州の最高司祭ベルラヌスによって建設されたものです。

38.港の演武場とパラエストラ

ベルラヌス運動場の西に位置し、これら2つの施設の間は幅広い通路によって連結されています。円柱に包囲され、床はモザイクに覆われた内庭は主要入り口でもあり、ここの北手の扉はアトリウムに向かって開いています。扉の両側には花冠を被った雄牛の頭で装飾された噴水泉が見られます。

広さ40m×20mの演武場には色つき大理石に覆われたパラエストラがあり、ここは(他の演武場でもそうであるように)生徒達が様々な目的で利用した部屋に囲まれています。北手には皇帝用の広間が設けられています。皇帝ハドリアヌスの時代の建築である二階造りの演武場発掘の際には青銅でできた競技者の像、家鴨と遊ぶ少年の大理石像、ヘラクレスとケンタウロスの像等が発見されていますが、ウィーンに運び出されています。

39.港の浴場

港と演武場の間に位置し、広さ160m×170m、高さ28mという規模をして、エフェソスに於いて建造された施設の中で最大の物に数えられています。建物の東に残るのは、当時の大きな広間であり、ここの中央に置かれたフリジダリウムの両側には更衣室が設置されています。長さ30mの楕円形をした大きなプールがフリジダリウムの中心にあり、大理石とピンク色と灰色の花崗岩で出来た高さ11mの円柱の列が煉瓦製の円天井を支えています。更衣室には、間に広い壁がんの設けられた大きな石のブロックからできた厚い石柱があります。

発掘の最中、多くの像が発見されており、現在これらの設置されていた基盤を目にする事が可能です。熱い湯をたたえたカルダリウムはフリジダリウムの西手にあり、高い屋根のある広間の様相を呈しています。ここへはフリジダリウムから直接入る事ができましたが、同じく両側に設けられた別の部分にも出入りが可能でした。港の浴場は2世紀に建築され、皇帝コンスタンチン二世の時代に(337~361)改造されています。

40.聖母マリアの教会(審議会の教会)

聖母マリアの教会
港の浴場の北に位置し、教会の主要門はクシャダス側に設けられています。聖母マリアの教会はキリスト教の歴史を通じて重要な位置にあり続け、聖母に捧げられた最初の教会です。又、ここでは431年にキリスト教の教義を討論するための宗教審議会も開催されています。長さ260m、幅30mの建物は2世紀に高等教育機関であるミュゼイオンとして建設されたものであり、薬学や科学についての教育や討論もここで行なわれていました。

エフェソスでは要職にあった司祭等も、その教育をこのミュゼイオンにて受けていたのです。ここで発見された碑文によれば、エフェソスのミュゼイオンの医学者と教授等は税金を免除されていた事がわかりますが、これは単にアジア州内のみでなく地方の全管区にて通用していた規定でした。医学者や教授達に与えられたこの様な負担の免除は、即ちミュゼイオンに対する尊重の意を示すものでもあります。

3つの身廊とバシリカ設計を見せるミュゼイオンは4世紀に教会堂に変換され、改築の際に東壁に後陣を、西手には周囲を円柱で包囲されたアトリウムが設置されています。又、アトリウムの北には同時に洗礼場も建設されています。中央の身廊は後陣と同程度の規模で、両側の物は小ぶりな造りを見せ、身廊の間には円柱や対称図柄で装飾された飾り板が見られます。建物の西端には床を対称模様のモザイクで覆われた狭い広間の様相を呈する回廊があり、アトリウムの床はエフェソス各地から搬入された図柄入りや碑文の記された平板で覆われています。

ドームのある屋根を支え、壁にある6つの壁がんが見られる円形の洗礼場の中央には洗礼用の水桶が設けられています。この主要広間の周囲には通路が走り、その西手には洗礼を執り行なう司祭の3つの小部屋が並んでいます。

皇帝ユスチニアヌスの治政下(527~565)に於いて、教会堂には再び改築の手が入れられ、ドームのある小さな教会が後陣と回廊の間に増築されました。後陣の両側に円屋根つきの小さな部屋が造られ、北と南手にある大きなアーチ付きの扉を潜って教会内に入る事ができました。回廊の正面西側には外廊が設けられています。今日、この教会の中央に見られる大理石の大釜は港の浴場から搬入されたものです。10世紀になると教会の東の部分は別の教会の一部として使用される様になり、南端には小さい礼拝堂が増築されたのです。

教会の修復は1984年にエフェソス博物館によって始められました。431年の宗教審議会では、聖母マリアは神の子イエスの母ではなく、人間イエスの母親である事が討議されましたが、これはアンティオキアにてネストリウスが主張し、彼がその後コンスタンチノープルの総大司教となるとより多くの賛同者を集める様になっていた論理でした。

ネストリウスは自身の見解が正しい事を証明する為、キリスト12使徒の誰一人として、彼の主張に反論してはいない事を強調し、この論が次第に世の中の混乱を招くようになると、皇帝テオドシウスはエフェソスに於いて、第3回キリスト教宗教審議会を招集したのでした。コンスタンチヌス総大司教ネストリウスをはじめ、アレキサンドリア総大司教キリル、アンティオキア総大司教ヨハネ、エフェソス総大司教、そして教皇の名代等の宗教指導者200人もが参加したこの会議は3ケ月にも及び、エフェソスは非常に混乱した日々を過ごしたのです又、聖母マリアがエフェソスを最初に訪れた時に、この教会場所にあったある家で短期間滞在し、エフェソスにて埋葬された事もこの審議会で正論として定義されたのです。

41.ビザンチンの浴場

エフェソス北出口の広場中央には、6世紀の浴場であった複合建築物の名残が見られます。建物の西側には両脚に後陣を備えた広間が端から端までを占めており、〈休憩の広間〉と呼ばれるこの場所は、東側の道路に面し、それぞれに異なった2つの建物から構成される複合建築です。

これらの内、南の一つの中央には角が半円形をした、何の目的で使用されていたのか未だに明確でない広間があります。ここの東と西の扉は後陣のある更に小さい部屋に開き、反対側には非常に混雑した造りが見られます。中央にはその東側に小部屋の並んだテピダリウムがあり、発掘の際には多くの壷が発見されています。

42.アクロポリス

ビザンチンの浴場北側にある小さな丘はアクロポリスであったのに相違ないと考えられており、最後の発掘調査では丘の周囲が城壁で包囲されていた事が明確となっています。この壁はリシマコスの治政下の城壁より早い時代に造られているので、恐らく丘は初期アクロポリスである可能性が高いとされています。

丘の北と西で継続中の予備発掘では、周囲から遺跡の類は何も発見されておらず、それ故、この辺りはかつて海であったという結論に達したのです。エフェソスの港(コレッソス港)がここにあった事も認知されています。

アクロポリスの上に多くの角をもつ紀元前6世紀もしくは紀元前7世紀の建物の基礎が残っていますが、これはエフェソスでの最古の建物と見なされています。しかし、これが何を目的として建造されたかは分かっていません。エフェソスの創立者アンドロクロスが猪を仕留めた後、太陽神アポロに感謝の意を表して捧げた神殿を建てた場所が、この丘であったと考えられています。

噴水泉

アクロポリスの丘のエフェソスに面した側には3つの後陣を備えた、6世紀の可憐な噴水泉が見られます。各壁がんの正面には貯水槽があり、幾つかには十字架の装飾が施されています。

43.徒歩競技場

アクロポリスの東、パナユルダゥの麓に、長さ230m、幅30m、U字形をした徒歩競技場があります。ボクシング、レスリングをはじめ各種スポーツが競われた徒歩競技場は、古代のエフェソス人の日常に於いて、非常に重要な位置を占めていたのです。

入り口は西にあり、2列の円柱から成る門は凱旋門の様にも見えます。通りを向いた入り口の正面に見られる兎の図柄に飾られた水瓶と飾り板は、別の場所から運ばれて来たものであり、丘の麓の観客席は、自然の岩を階段状に彫って造られています。反対側には円天井のあるギャラリーが見られ、この上にも観客席が設けられています。このギャラリーは長い部屋の様に見え、7~8m毎に部屋に向かって開く小さい穴があります。

徒歩競技場はヘレニズム時代に造られ、皇帝ネロの治政下(54~68年)にて現在の様式に改築されています。3世紀、4世紀には客席西側のアーチの付いた入り口に改善の手が入れられています。3世紀、4世紀のローマでは剣士や猛獣の格闘が非常な人気を博しており、この様な出し物は多くの観客を前にして徒歩競技場や劇場にて開催されたのです。猛獣の戦いの際にキリスト教徒が殺害されましたが、後にキリスト教がエフェソスの国教に制定されると、かつての虐殺が原因となり、エフェソス徒歩競技場は信者によって復讐の意味を込めて破壊されたのです。

今日この徒歩競技場で唯一として良好な状態の客席さえ見られないのはこの為です。徒歩競技場の実に見事な職人芸術を感じさせる碑文の見られる客席の列は、4世紀と6世紀にエフェソスで行なわれた建築や修復の資材として利用されています。

44.ベディウスの演武場

徒歩競技場の北に位置する大きな建物は碑文によると、エフェソスで最も知名度の高いベディウス一族のP・ベディウス・アントニウスと彼の妻フラビア・パピアーナによって建てられた演武場とされています。建物はアルテミスと、彼等の親友である皇帝アントニウス・ピウス(1旭~161年)に捧げられたものです。

多くの部屋を持つベディウスの演武場はエフェソスで最も美しい建造物に挙げられ、東手にある入口は記念碑を思わせる様相を呈しています。円柱のある西壁の壁がんの間には皇帝の彫像が置かれていたと思われます。40m×50mの広さを有し、高さ5mの円柱に囲まれた柱廊のあるパラエストラは東手に位置しています。非常に良い状態で残っている覆いの無い手洗いは、パラエストラの南手にある通りに向かって開く円柱つき扉の横にあり、出入り口として使用されていましたが、扉が一つだけ設けられていたようです。

最初の広間は20m×10mの大きさで、ここは同時に皇帝の間もしくは儀式の間でもあったようです。ここに続いて大きなプールのついたフリジタリウムがあり、西と東に対称的に広がる設計の別の部屋も見られます。建物の発掘は、その半分程が現在完了した状態であり、出土した像等はイズミール考古学博物館にて展示されています。アーチや広間のある演武場の基礎工事に関してはまだ発掘が開始されていません。

45.7人の眠れる聖者の洞窟

ベディウスの演武場横から東手に折れるアスファルト舗装の道は〈7人の眠れる聖者の洞窟〉に続いています。帝国の初期に於いて、キリスト教徒とローマの国家との間で思想の一致をみなかった最大の問題は皇帝崇拝についてであり、皇帝神殿に動物を生贄として捧げる事を拒否するキリスト教徒等は国家から皇帝の敵と見なされ、それに見合う待遇に処されたのでした。

250年頃、皇帝デスィウスの治政下のもと、7人の若いキリスト教徒は皇帝神殿に生贄を捧げる事を拒否し、都市から逃れ、ここの洞窟に身を隠したのでした。しばらくして眠りに落ちた7人の若者が目覚めた後で食料品を調達する為に都市に出ると、全く驚いた事に、たった一夜の眠りのはずが、何と200年もの間眠り続けていた事を知らされるのでした。

そして、キリスト教はローマ帝国の隅々にまで浸透していたのです。彼等の噂を聞いた皇帝テオドシウス二世は、この出来事を〈復活〉であると見なし、当時の教会ではこの事を課題に度々の論議が交されています。若者達の死にあたって非常に大きな葬儀が執り行なわれ、埋葬された洞窟の上に教会が建てられました。1927~1928年の発掘調査では、一つの教会と5世紀から6世紀の数百の墓が発見されています。

又、教会や墓の壁には、〈眠れる7人の若者〉への賛美を記した碑文も見られます。数百年もの間、人々は、聖人として認知された〈眠れる7人の聖者〉の墓に可能な限り近い場所に葬られたいと望んだのです。キリスト教の信義に於いては、聖マリア・マグダレンもこの地に埋葬されている、という事になっています。

セルじゅく

46.聖ヨハネの教会

エフェソスに於けるビザンチン建築の中で最も壮大なこの教会はセルチュク要塞のある丘の南裾野に位置しています。歴史家エウスィビオスは“キリスト教の布教活動を行なっていた使徒等は、37~42年にかけてエルサレムから追放され、この出来事の為に聖ヨハネはアナトリアでその活動を続行する事になったのである”としています。歴史家の説からして、この年の間に聖ヨハネが、キリストから自身に保護を要請された聖母マリアと共にエフェソスに滞在した事がわかるのです。

聖パウロがこの世を去ると聖ヨハネはエフェソスの教会の傘下にある全キリスト教会の指導的立場につき、キリスト教の教義、即ち〈福音書〉を記したのです。彼はその死にあたり、望み通り今日彼の名のもとに建てられた教会のある場所に埋葬されたのでした。4世紀、エフェソスでキリスト教の勢いが強まると、聖ヨハネの埋葬された場所に木製の屋根のあるバシリカが建てられ、その後ビザンチン皇帝ユスチニアヌスの治政下になると(527~565年)現在の教会が建てられたのでした。

エフェソスがアラブの攻撃を受けた7世紀、8世紀には、教会の周囲は防御壁に包囲され、丘の頂上に造られた要塞に連結された前哨地点と化したのです。資料によると、中世の始めに教会は修繕の必要に迫られた状態にありましたが、墓の内部から幸運を呼んだり病にきく〈塵〉が辺りに舞い散っているという当時の言い伝えを信じ、遥々遠方から多くの病人がやってきて、キリスト世界に於ける最も重要な教会であり続けた為、そのままにされたようです。

旅行家イブン・バトゥタによれば、14世紀、アイドゥンオールラルの全盛期に教会は一時モスクとして使用されており、回廊の入り口に見られるミナレットの基盤は当時からのものとのことです。14世紀になり、有名なイサベイモスクが建設されると教会はかつての重要性を失い始め、同世紀の末には地震によって崩れ落ちています。

教会は考古学者ソティリウによって1921~1922年に初めて発掘され、後に建物のかなりの部分がオーストリア考古学研究所の手によって発見されています。1957~1958年に教会は修復され、北身廊にて発見された二層の円柱が再建されたのです。1960年になるとエフェソス博物館が発掘調査に乗り出し、教会の修復も手掛けています。1973年以来、アクルガル教授の指導のもと、エフェソス博物館による急ピッチの発掘と修復工事が続行中で、この事業は文化観光局と米国のカドマン基金の後援によるものです。

セルじゅく

追跡の門と防御壁

教会を包囲する防御壁には、それぞれに異なった基礎設計による3つの門と20の塔が備わっていますが、これらの中で最も印象的な門は駐車場に面した〈追跡の門〉でしょう。他の2つの門は西手と東手に位置し、エフェソス側に位置する西の門には内庭と2つの円形の塔が見られます。丘の麓に建つイサベイモスクからの螺旋状の道はこの門に続いており、門と内庭には修復の手が加えられています。東門の発掘はまだ完了していません。

塔と防御壁の修復に使用された大理石はエフェソス、特に徒歩競技場から搬入したものです。3世紀、4世紀になり剣士や猛獣の格闘が人気を博する様になると、闘技場に変換された徒歩競技場東端の部分ではキリスト教徒の拷問が行なわれたのでした。この為、後になって徒歩競技場はこの時の復讐の意を込めて破壊され、その建築資材は教会や防御壁の一部として使用されたのです。

〈追跡の門〉教会の主要門です。駐車場から傾斜した大理石の通りに従って歩くと、アーチ形の入り口と2つの記念塔のある門に着きます。塔の間にあったアキレスに関した帯状装飾板は、英国のウォボーン・アピイ・ギャラリーに展示されています。入り口からは小さな内庭に出る事ができるようになっています。要塞の弱点は門にあり、ほとんどの場合、敵の襲撃は最初に門を手始めとするのが常でした。

門が落とされると敵は当然内庭になだれ込む事となりますが、内庭には出口が造られておらず、つまりこの場に敵を誘導する様な方法をとった後、内庭の壁の上から反撃をし、壊滅状態にもって行くという戦法が用いられていたのです。〈追跡の門〉は、特にヘレニズム時代に多く造られた内庭付きの門のアナトリアに於ける最後の例で、発掘中に内庭からはローマ帝国の碑文が発見されています。

アトリウム

広さ34m×47mのアトリウムは、教会の西手に位置し、身廊と同程度の高さに設ける事を妨げていた丘の傾斜は、壁を高くする事によって解決策とされたのです。中央には円柱の廊下に固まれた空間があり、この外側には欄干も見られます。発掘の際に床または、それを覆っていた部分は何も発見されていません。中央に見られる壷は、それぞれに異なった時代のもので、西の柱廊玄関の下にはアーチに覆われた貯水槽も見られます。

回廊

アトリウムと身廊の間には長く狭い回廊が敷かれ、3つの扉がアトリウムに、別の3つの扉が身廊に続く様になっています。扉の横木は大きな固まりの大理石で出来ています。かなり後の時代になり、アトリウムと回廊の間に壁と扉が造られると、この部分は外廊の役目を果たす様になったのです。回廊の上には5つの小さなドームを備えていたと考えられています。

身廊と埋葬の部屋

教会の中で最も重要な部分であり、十字架の基礎設計と3つの身廊をして、典型的な古典的教会の様相を呈しています。6つの大きなドームの内2つは中央の身廊を、2つは柱廊を、そしてこの2ケ所の間を2つのドームが覆っているのです。横身廊には円天井がついています。

ドームを支える大理石と煉瓦の柱は現在しています。柱の間には身廊をそれぞれ分ける青い岩脈のある大理石の円柱が置かれ、身廊に向く側には建物の年代を決定するのに役立つ皇帝ユスチニアヌスと妻テオドーラの合わせ文字が刻まれています。身廊の間の円柱はアーチによって連結しています。発掘調査で発見されたドームの部分には、フレスコ画とモザイク装飾の跡が見られます。

埋葬の部屋は中央身廊の端、後陣の正面に位置しています。2段のステップが設置され、地盤から高い位置に置かれている事から、ここを特別な場所としていたのだと言ってよいでしょう。上に見られる色付き大理石のモザイクは、元物に似せた複製であり、螺旋状の溝のある柱に支えられた小さなドームは完全に崩壊しています。教会のこの部分では修復作業が続行中です。

礼拝堂と宝物殿

北手柱廊の側に位置する礼拝堂は、仮に造られた木造の屋根に覆われています。ここは本来、後方にある宝物殿の一部でしたが、10世紀になって礼拝堂に変換されたのです。宝物殿の入り口は、聖ヨハネやキリスト、聖者達を描いたフレスコ画の見られる後陣の正面にあります。

中央にある直径6.3mの円形の部屋、両側に後陣状の円天井の備わった通路、礼拝堂が一つの複合建築物を構成し、十字架形に近い基礎設計となっています。十字架の袖の部分を構成していた部屋は、完全に崩れ去っています。

洗礼所

宝物殿の前方にある狭い通路の扉は、洗礼所を形作る集合建築の部分に続いています。北手身廊に沿って走る長い通路は教会と洗礼所を連絡しており、ここにある円柱のついた噴水泉の様に見える墓は6世紀に造られ、後に泉として使用されていたものです。

洗礼者の間は中央の八角形をした洗礼用広間と、狭い通路、そして洗礼用広間の両側にある後陣のついた広間から構成される複合建築であり、床は大理石によって覆われています。広間の中央にはアーチと支柱、そして2ケ所にステップのある円形の洗礼用水桶が置かれています。発掘の際に発見された建物の一部から、ここのドームは硝子のモザイクで覆われていたと考えられます。洗礼所はまだ教会が建てられる前の5世紀皇帝ユスチニアヌスの治政下に於いて造られたものです。

 
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聖母マリアの家

聖母マリアの家
聖ヨハネの福音書によると、キリストはその死にあたり聖ヨハネを指しながら(マリアに向かって)「女よ、これが汝の息子なり」と、更にマリアを指差し「そなたの母なり」と語ったとされています。キリストの死から4年または6年後、聖ヨハネと共に聖母マリアがエフェソスを訪れた際、短い期間ではありましたが、今日聖母マリアの教会の建つ場所にあった建物に滞在していたと、431年開催の宗教審議会議事録に記されています。

聖ヨハネは後にビュルビュルダゥの特別にあつらえた家にマリアを移したのですが、時の流れと共に、マリアが晩年を過ごしたこの家の位置は忘れられ、建物自体も崩れ落ちてしまったのです。中世の少し後には、家のあった場所がしばしば討論の的となりましたが、これも議論の結論が出されるまでには至らなかったのです。

1878年、ドイツ人尼僧Catherine Emmerichの説をClement Brentanoが〈聖母マリアの生涯〉としてフランス語で解説して出版すると、聖母マリアの家の位置は再び人々の注目を集め、話題にのぼるようになったのです。1891年、イズミールカレッジの学長である司祭Eugene Poulinは、このドイツ人尼僧が主張した事柄の信憑性を調べる為、司祭Yungの指導の下に調査班を結成し、エフェソス南手の山を長い間調べた結果、遂にパナユルダゥの上に〈聖母マリアの家〉の名で現在呼ばれる家を見付けたのです。

Catherine Emmerich(1774~1824年)は彼女の故郷から一度として出る事はありませんでしたが、聖母マリアの家として主張していた場所は、バナヤ・カプルにある家に一致するものでした。Eugene Poulinはこの快挙を全世界に知らせようと続き物の論説を発表し、非常に多くの注目を集める事に成功しています。ここを訪ねる多くの宗教学者は、この家が聖母マリアの家であるとして認めており、イズミール総大司教もここを調査した後、1892年にこの場で宗教的儀式を行なう事の許可を下しています。

1961年、ローマ法王ジョン23世は当時まだ続けられていた家の信憑性に関する討論に終止符を打ち、ここが聖地として巡礼すべき場所である事を断言したのです。1967年の法王ポール六世、又1979年の法王ジョン・ポール二世の訪問は、この家の重要性を人々に再び認識させる結果となったのです。

聖母マリアの家はマグネシアの門からビュルビュルダゥの方向に走る道の上にあります。マリアの家から100mにある市の小さな広場には、丘側の壁がアーチ形をした円形の貯水槽の名残が見られますが、ここが最初に発見された部分です。貯水槽の横のステップは完全に破壊されており、現在は水槽の名残が残るのみとなっています。

壁の周囲で行なわれた発掘の最中に、頭をマリアの家の方向に向けた骸骨の納まった2つの素焼きの棺と、供養品の数々が発見されていますが、棺の中からも2つの貨幣が見付かっており、1つは皇帝コンスタンチヌスの時代の、別の1つは皇帝ユスチニアヌスの時代の物であると考えられています。

貯水槽から続く道の端には十字架の基礎設計の上に立つ、6~7世紀のドームのある小さな教会が見えます。これが聖母マリアの家として知られる建物です。ここが発見された時は、ただ基盤と壁の一部が残るのみであり、修復工事を経て現在の姿に整えられたのです。本来の壁と修復後の壁の間には、はっきりと区別する目的で赤い線が引かれています。両側に扉の様に見える壁がんのあるアーチ付き入り口を抜けると、円天井の玄関の間に出ます。ここから一段のステップを踏んで後陣のある広間へと進む事になるのです。

後陣の聖母マリアの像は100年程前にここに置かれるようになったものとされ、大理石に覆われた床とそこだけ異なった灰色を見せる像の前方は、炉のあった場所である事が明確になっています。発掘の際にここで発見された石炭と家の基盤の一部は1世紀にまで遡るものです。南手の小部屋は寝室と考えられ、東の壁には後陣の様な壁がんも備えられています。

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聖母マリアはイスラムの世界でも神聖視されているため、この部屋でイスラム教徒は礼拝(ナマズ)を行なう事もあるのです。壁には聖母マリアに関するコーランの章の訳が碑文として残されています。又、更に詳しい事を知りたいと希望する訪問者の為に、様々な言葉で書かれたコーランも備えられているので参考にしてみて下さい。未だ発見されていませんが、恐らく対称的に建っていた部屋があると考えられる別の片方の部屋の名残が見られます。家の西手には治療に効果のあるといわれる水の出る泉があり、ここには寝室の床を覆うピンク色の大理石の下から水が流れ込んでいるのです。

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エフェソス遺跡の発掘調査

エフェソスでの初の考古学的発掘調査は1869年、英国技術者J.T.WOODによって英国博物館の為に行なわれています。これ以前の1863年に彼はこの地でアルテミス神殿について調査していますが、残念な事に何の結果も得られませんでした。1869年に劇場で発見された碑文によれば祈祷に使用された宗教上の道具は、神殿から受け取られた後、聖なる道を通り、マグネシアの門を潜って市内に運び込まれ、帰りも同様の経路を辿って神殿に返還された、とされていました。これによってWOODはマグネシアの門を最初に発見する手掛かりを得たのでした。マグネシアの地はエフェソス南西に位置する古代都市であるため、門も地の周辺になければならないと考えたWOODは、ヘレニズム時代の城壁を辿り、マグネシア門を発見する事に成功したのです。

ここから彼は準備のための穴を掘り始め、道路を辿って有名な神殿の位置を見つけたのでした。しかし、様々な理由から神殿の発掘を遂げる事ができず、彼の事業は1904年以降D.G.HOGARTHが継承する事となりました。

現在もなおオーストリア考古学研究所によって進められている発掘調査は、Otto BENNDORFが1895年に開始したもので、この調査開始にあたり彼はオスマン帝国のスルタンからエフェソス発掘の許可を受けています。後に彼は都市のかなり広い部分を買い取っていますが、ここは近年になってトルコ関係当局によって国有化されています。BENNDORFの後には年代順に次の様な調査が行なわれています。KEIL、MILTNER、EICHTER各教授と、1969年から現在まではVETTERS教授を中心にエフェソスの大通り、広場、通りの両側の建物等が発掘されました。VETTERS教授は裾野の集落を発見し、この内の2軒の家を修復する事にも成功しています。同教授は1978年にセリシウス図書館の修繕も完成させています。1905年までに出土した遺跡のほとんどは英国へ、それ以降1923年までの出土品はオーストリアに運び出されています。

1954年にはエフェソス博物館も発掘調査と修復に乗り出し、以来、多くの重要な建築物に修繕、修復の手が加えられて来ました。トルコ共和国文化観光省は1979年からくセルチュク・エフェソス環境保護―修復、修繕事業を開始し、その一環として、特に聖ヨハネの教会、聖母マリアの教会に重点を置いて作業を進めています。

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エフェソスの歴史

エフェソス遺跡
歴史家ヘロドトスによれば、カリア族は自身をアナトリアに於ける最初の住民であると認め、最も重要な地区ハリカルナソスを含むカリアの名で呼ばれた地区に住んでおり、一方、レレグ族はトラキアやエーゲ海の島々から小アジアに移住したのである、としています。都市の設立とアマゾネスの関係には実に緊密な物があり、おそらくこの理由でストラボンはアマゾネスの一人に因んでここをエフェソスと名付けた事を指摘していたのでしょう。

紀元前7世紀末から紀元前6世紀初期のエフェソスの詩人カッリノスは、この地を落としたアマゾネスにはスミルナ(イズミール)の名が付けられていたと記しており、エフェソス出身にも拘らず、紀元前540年にアテナゴラスによって都市から追放された詩人ヒッポナクスは、エフェソスの一部がスミルナと呼ばれていたと述べています。

ストラボンはスミルナがレプレ・アクテとトラキアの間に位置し、レプレ・アクテとはピオン山(ビュルビュルダゥ)、そしてトラキアはコレッソス山(バナユルダゥ)の事であると記しています。後にスミルナ人はエフェソスを離れ、今日のイズミール辺りに居を定め、イズミールの町を設立したそうです。

エフェソスとアマゾネスとの関係は歴史を通じて、常に語られ続けてきました。紀元前5世紀には、当時の有名な彫刻家の間でアルテミス神殿に備え付ける為に、アマゾネスの彫り物のコンテストが開催されています。(アルテミスの神殿、参照)

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聖ヨハネの教会付近で出土し、エフェソス博物館に展示されているミケーネの墓からの品々は紀元前1400~紀元前1300年の物とされ、現在までのところエフェソスに於いて発見された考辞学的発掘物の最古の例と言われています。こういった事実の上に立って考えると、少なくともこの時代には、既にエフェソスが設立していたとするのが正論でしょう。

出土品の椀は、ミケーネ人が地中海、西アナトリアの沿岸に設立した組合にて市場に出す為に、当時の最も進んだ技術を用いて作られたものであり、これらは主にトロイからハリカルナソスまで続く海岸沿いにて発見されています。エフェソス近郊のミレトスの地にて出土した紀元前1600の品は最も古い物であるとされています。

紀元前13から14世紀のヒッタイトの資料に述べられているアッヒヤワ王国は、おそらくミレトス近郊に位置していたのであろう、と言うのがアクルガル教授や他の考古学者の見解であり、これが裏付けされた時には、エフェソスはその位置からして王国の中で最も重要な都市、すなわちヒッタイトの碑文の中に述べられているアパサスの地に相違ないと考えられるのです。しかし、今日までミケーネの居住の事実を示すものはエフェソスに於いて何も発見されていません。

紀元前1300~1100年の間は、アナトリア、シリア、エジプトの国々が不安定な空気に包まれた時期であり、中央アナトリアを支配していたヒッタイトは少数民族の台頭を快く思わなかったのです。

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エフェソス遺跡
トロイ陥落とそれに続く掠奪の後、トラキア人達はこの地から更に南下を始め、海側からの南アナトリアに居を構える他のトラキア人と共に植民地を形成したのです。12世紀のエジプトの資料には、当時の移住の際に滅亡した民族について、哀悼の意を込めた言葉で記したものが残っています。地図上に初めてアイオリスやイオニアの名が現われたのもこの時代の事であり、エフェソスを含んだイオニア地方は、聖書に於いては〈ヤワン〉アッシリアの碑文では〈ヤウナイ〉、そしてペルシアの碑には〈ヤウナ〉の名で語られています。

移住民等は安全性を考慮して、半島や海岸の近くに住まいを求めています。エフェソスに於ける植民地開拓は他のイオニア諸国と同様紀元前10世紀に完了し、ストラボンとパウサニアスはこれについて次のように語っています。アナトリアヘの移住を前にどの土地に新しい住まいを置くべきか、一向に決心ができないでいるアテネ王の子息アンドロクロスとその友人達は、アポロ神殿に伺いをたてました。予言者の「魚と猪が新都市となるべき場所を示す事であろう。」と言う言葉を信じて、一行は旅の路につきました。ある土地にてアンドロクロス達が料理を始めたところ、平鍋から魚が跳ね上がり、これによって蒔き散らされた火の粉が、辺りの薮に燃え広がりました。驚いた猪は薮の中から飛び出し、しかし、結局追い掛けて来たアンドロクロスに仕留められてしまったのでした。

魚と猪、神殿の予言は正しかったのです。彼等は早速、当時は内港の様な地形であったピオン山の北裾野の地を新しい住まいと決定し、一連の出来事を記念して、猪を仕留めた場所にアテネの神殿を建設したのです。この神殿のあった場所は現在でも明確にされていません。

アンドロクロスの父であるアテネ王コドロスは、実に勇敢な人物でした。近隣との戦いを前に、デルフィの神託所に勝利の軍配がどの国にあがるか伺いをたてたところ、答えはこうでした。〝最初に命を落とした王の率いる国が勝利を納めるであろう″王は自らの命も顧みず、敵軍の中へ殺されに進み出て行ったのです。そして、この出来事がアンドロクロスとアテネ近くの国王であった継兄弟の間に王の位争いを引き起こし、彼にアナトリアへの移住を決心させる要因となったのに違いありません。設立されたエフェソスの地は、アンドロクロスと彼の子孫の統治の下、約400年間の繁栄をとげました。

リディア期


紀元前7世紀、エフェソスと他のイオニア諸国はキンメールの攻撃を受けましたが、彼等がエフェソスを手中にしたか否かについては現在でも論争の的となっています。発掘調査で出土した品々によれば、アルテミスの神殿は焼かれて、破壊されたとされています。エフェソスからは、幾つかの典型的キンメールの品が発見されており、エフェソス博物館アルテミスの広間にもこれらの一つである羊を形取った象牙を見る事ができます。キンメールによる暴風にも似た攻撃が引いた後、エフェソスは再び体勢をたて直し、力を貯えました。

紀元前6世紀はエフェソスの黄金期であり、詩人カッリノスやヒッポナクス、有名な哲学考へラクレイトスもこの時代を生きています。特に、変化自体を万物の根源とし、「万物は流転する」の言葉を残し、火を変化の象徴としたヘラクレイトスはイオニアの学問所で大きな名声を得ました。彼は〈自然哲学〉と呼ばれるライフワークをアルテミス神殿に捧げています。

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当時、エフェソスの名声はかなり遠方にまで轟いており、これがリディア王クロイソス(クレゾス)の最初の攻撃(紀元前560)を招く元になったのでした。この間、エフェソス人はアルテミスの神殿から市内まで張った綱の後ろに女神の加護を信じながら後退していましたが、あいにく彼等の望みは裏切られ、リディア軍は市内に侵入してきたのです。

エフェソス人の不安に対し、クロイソスは彼等を実に丁寧に扱いました。しかし、それでもコレッソスの町から彼等を追放し、アルテミス神殿の近くに建設される第二の都市に住まわせました。この第二の土地はカイストロス川(キュチュクメンデレス)の運んだ土砂で現在の場所から更に10m下に埋もれた為、アルテミス神殿以外の都市を発掘するのはとても不可能であると考えられます。

リディア人がエフェソスを陥落させた時、古代アルテミス神殿(紀元前564~546)はまだ建設中であり、女神とエフェソス人の気を引く為にクロイソスは(一つには自身の名を印した物)浮き彫りを施した柱頭と黄金の牛の彫像を神殿に奉納しています。1869年に開始された発掘調査に於いて出土した此れ等の柱頭やその他多くの品は、英国博物館に運ばれています。この頃、港から始まり都市を包囲する砦(城壁)が造られており、神殿とその周囲の居住区もこの内側に位置していました。

ペルシア期

エフェソス遺跡
紀元前6世紀半ばになるとアナトリアは東部のペルシアによる攻撃を受けました。西部アナトリア攻撃を前に、ペルシア側はアイオリス、イオニアの諸国に使者を送り、クロイソス反逆への協力を要請しましたが却下されています。ペルシア王キロスがクロイソスを倒すと、アイオリスとイオニアの諸国は、かつてと同様にリディアの法の代わりに今後はペルシアの法を受け入れる事を宣言したのです。

ヘロドトスは、キロス王がアイオリスやイオニアの人々に教訓として語った次の物語を記しています。ある日、海の魚を呼び寄せるために、笛吹が演奏を始めますが、魚は見向きもしません。そこで漁師の網を見付けた彼は、これを使って多くの魚を捕まえました。網の中で飛び跳ねる魚に笛吹きは、「私が笛を聞かせてやった時には誰も岸に近付いて踊らなかったのに。今更踊る事もないと言うものだ。」と。

このキロス王の言葉を聞いたミレトスを除くイオニアの12都市は、各地区に退却し、守りの体勢固めに入りました。事前にペルシアとの合意に達していたミレトス人等は、防衛の必要を感じなかったのです。

イオニア諸国はスパルタにも援助を要請しましたが、援軍は送られて来ず、紀元前547年、キロス王の右腕である有名な指揮官ハルパゴスは、フォカイア(フォチャ)を皮切りに、短期間で全西アナトリアを手中に納めてしまいました。こうして、エフェソスは歴史を通して二度目に別の国家の支配下に置かれる事となったのです。

ペルシアは支配下の他の国々同様、エフェソスの内政に干渉せず、アルテミス神殿の存在を許した事からもわかるように信仰の自由をも認めていました。エフェソス人はかつての経済力を維持し続け、文化、貿易上の交流も継続させていました。ペルシアはカリア、リキア、そしてパンフィリアをイオニアと連合させ、これらをサトラップ制の下に統治し始めました。

ペルシアの支配下、エフェソスは拡大し、文化・芸術の中心地となっていきました。エフェソスを含めた支配下の国に課税し、必要に応じては、戦士や船の提供も強いたペルシアの態度は、諸国の暴君でさえもこれ程でないだろうに、と思わせる様になり、キロスの後、カンビセスやダリウスの時代になると賦課の高さは諸国の我慢の限界を越える程となりました。連合したイオニアの諸国は紀元前500年、ミレトスの暴君アリストゴラスの指揮の下、〈イオニア植民市の反乱〉を起こしたのでした。この反乱でエフェソス人の果たした役割は実に重要であったといえます。

ペルシアへの反逆者は、最初エフェソスに集まり、彼等の指導の下、カイストロスの両岸を辿り、サトラップ制で統治されていた属州の首都サルデスに3日間で到達しました。そして戦わずして、しかし、都市にある一軒の家さえも残さずに破壊し、この地を陥落させたのでした。この際、キベレの神殿を破壊した事実は、後にギリシアに於いて、ペルシア人等の神殿破壊の口実に利用されています。イオニアの反乱は紀元前494年にミレトス、ラデ島近郊で、ペルシアがイオニア艦隊を破った事で一応の終結を迎えました。直ちにペルシアは全イオニアを再び支配下に置き、多くの都市を壊滅状態に落とし入れました。

この際、最大の被害を受けたのは、ミレトスとキオス(サクズ)であり、多くの艦隊をペルシア軍に撃墜され、失ったキオス軍はプリエネの西、ミカレに避難しました。船を陸に引き揚げ、夜中を通して歩き続けて到着したのがエフェソスでした。丁度その時、エフェソスでは10月、11月に既婚の女性だけが参加して行なわれる祭りの最中であり、夜中に、しかも武装したキオス人等を見たエフェソス人は、女性を対象にした人さらいと勘違いして、彼等を全滅させてしまったのです。

エフェソス遺跡
紀元前479年、ペルシアの指揮官マルドニオスはアテネと中央ギリシアを再び攻め落としましたが、プラタイアにて殺害された為、彼の率いる軍隊は、後退を余儀なくされました。スパルタ軍はミカレで、陸にあがっていたペルシア艦隊を攻撃し、これに火を放ち全焼させています。

プラタイアとミカレを舞台にした、ペルシア軍に対する勝利は、イオニア諸市を活気づけ、再びの反逆を計画させるのに充分な刺激を与えました。ギリシアとアナトリアからペルシアを撤退させる為、スパルタとアテネの指揮の下、紀元前478年〈アチカ・デロス海軍司盟〉が形成され、トゥキディデスやアリストテレスによれば、エフェソスはこの同盟に、紀元前453年に7.5タレント(古代ギリシアの貨幣)、紀元前444年には6タレント、紀元前436年には7.5タレント支払っています。

アテネの政治家アリステイデスの設けた規則は、それぞれの都市の財力に応じた支払額を基準としており、つまり、エフェソスの前述の金額は、それが最も富んだ都市の一つであった事を証明していると考えられます。紀元前5世紀末のペロポンネソス戦争で、エフェソスは最初アテネに、後にはスパルタ側に肩入れをしました。紀元前409年の夏、ペルシアのスパルタへの支援が公になると、アテネのテラシロスは、陸戦で必要と思われる全てを積んだ50の船を率いてサモスへやって来ました。ここで3日間待機した後、彼等はクシャダスの近くピゲラを攻撃し、これを手中に納めました。ミレトスは何度かの攻撃をしかけたにも拘らず、結局陥落しています。

翌日アテネ軍はエフェソスの北10kmにある彼等の支配地ノーションに赴き、ここの近郊にあるコロホンと、同晩のうちに更にメトロポリス(トルバル)を手中にし、土地を焼き払ってしまったのです。この地方の防衛責任者であるペルシアの指揮官スタゲスはアテネ軍に反撃しましたが、彼等のノーションへの撤退を妨げる事はできませんでした。エフェソス攻撃を察知したイオニアのサトラップ、ティッサヘリネスは周囲の全地区に知らせを出し、アルテミスの聖なる都市を守る為に兵士を収集しました。

〈エフェソスの戦い〉と言われるこの戦争の間、アテネ側は多大な損害を受け、休戦状態の際、戦死した兵士を纏めて再びノーションに退きました。そこに戦士兵を埋葬した後、ダーダネルスへ向けて船を出しましたが、ミデッリで休息中にエフェソスからダーダネルス海峡へと航海中のシラキュザンの25の商船を目にし、これを攻撃しました。この内4艘を手中にし、他の船はエフェソスまで追跡しましたが、とうとう捕える事はできなかったようです。紀元前407年の春、スパルタ軍はアナトリアでの連合軍の指令官に有能なリサンドロスを指名しました。

サルデスにやって来たキロス王と会見した後、リサンドロスは王の支援もあって艦隊を90にまで増強させています。一方、サモスでの強力なアテネ軍の艦隊は、エフェソス港のスパルタ軍に近づく為にアルキビアデスの指揮の下、ノーション沖に錨を下ろしました。別のアテネ艦隊がフォカイアを襲った事を耳にしたアルキビアデスは、小艦隊を率いて援護に駆け付け、その他に右腕のアンティオコスを置くと、彼の留守には呉々も戦いに出向くなと言い残したのです。

しかし、アンティオコスは偵察に出た際に、二艘の敵の船を攻撃した為、両軍からの援軍が到着した時には既にノーション沖での大きな戦いが始まっていたのです。結局、艦隊の幾つかを失ったアテネ軍はサモスに後退し、知らせを受けたアルキビアデスはエフェソスを攻めましたが、何の結果も得られませんでした。

アレクサンダー大帝期

マケドニアとギリシアでの統一を成し遂げたアレクサンダー大帝は、アナトリアからのペルシア軍一掃に専念しました。彼がダーダネルス海峡を渡る途中、ペルシア側イオニアのサトラップ、スピスリダテスは大帝を阻止する為にグラニコス近くのペルシア軍に協賛しました。古代の有名な作家アリアノスが〈騎士隊の戦い〉と名付けたこの争いの最中です。スピスリダテスはアレクサンダー大帝の首を落とそうとしたが、まさにその時、マケドニア軍によって殺害されてしまいました。

ペルシアを倒したアレクサンダー大帝はサルデスに進出し、スビスリダテスのサトラップ制下の地をフィロタスの息子アサンドロスに新たに統治させる事を決定しました。しばし、サルデスに留まった後、4日間の旅をして大帝はエフェソスに到着しています。

ペルシアの敗北とサトラップの死を知らされたギリシアの兵士は、エフェソス港に錨を下ろしていた二艘のペルシア船を奪ってここから逃避した為、アレクサンダー大帝は紀元前334年に全く抵抗を受けずにエフェソスへの進出を果たしています。最初に大帝は、自身が原因で都市から追放された人々を連れ戻し、寡頭政治の終わりと、民主政体の始まりを宣言したのです。又、税金や貢ぎ物を今までの様にペルシアに支払う代わりに今後はアルテミス神殿に奉納する事も付け加えています。

ストラボンの記録には次の様なものがあります。歴史にその名を残したいと切望した白痴の男へロストラトスはアレクサンダー誕生の夜、神殿に火を放ちました。建築家ケイロクラテス(ウィトルウィウスは建築家ディノクラテスとしている)を主任とした火災からの修繕工事も完成間近となったある日、アレクサンダー大帝はエフェソス人に向かって、アルテミス神殿修復にかかった一切の経費は自身が負担する事を宣言しました。

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しかし大帝は、あるエフェソス人の「ある偉大な神が別の偉大な神へ何かを貢ぐと言う事には、どうも合点がいきませぬ」と言う言葉にこの出資を諦め、その代わりに建築家の仕事振りを大変高く評価し、神殿の工事が完成した後、彼にナイル河口の三角州にアレキサンドリアを建築させています。

大帝の死後、エフェソスは暗黒時代を過ごし、何人かの異なった民族に支配された後、紀元前287年リシマコスの統治の下に入る事となりました。紀元前299年、リシマコスは自身の将来を考えて、友人であるエジプト王プトレマイオス一世の娘アルスィノーと結婚しました。彼はピオン山とコレッソス山の間に都市を再建し、要塞化した城壁でこれを包囲させました。

妻に因んでアルスィノーとした都市の名は人民の反感を買い、アルテミス神殿の周辺に居住していた人々は、この新しい都市への移住を拒否し続けたのです。しかし、町は運河を塞き止め水浸しにされた為、エフェソス人等はここを後にし、再度の移住を余儀なくされたのです。

非常に野心家であったアルスィノーは、彼女の息子ではなく、夫リシマコスの最初の妻との間にできた息子アガソクレスが王位を継承するのではないかと脅え、夫を「あなたの暗殺を長男が計画している」との言葉で扇動しました。これに刺激されたリシマコスはついに息子を殺害してしまったのです。命の危険を感じたアガソクレスの未亡人と数人の指揮官はセレウコスに助けを求め、リシマコスの行ないを訴えて激怒させたのです。自国発展の好機と見たセレウコスはリシマコスの領土を攻撃し、とうとう両軍はマニサの東、コロウ・ペディオン平原で衝突しました。紀元前281年、既に老齢であったリシマコスは戦いの途中で死亡し、その領土はセレウコスの手に落ちたのでした。

セレウコス王のアンティオコス二世はエジプトのプトレマイオスと長年にわたり争いを続けていました。エジプト王プトレマイオス・フィラデルフォスの、「妻ラオディケと離縁し、代わりに私の娘ベネリケと婚姻を結べば高価な贈呈品を渡す他、平和協定を結ぶ事さえやぶさかでない」との言葉を聞き、この申し出を受諾したアンティオコス二世は直ちに妻と離婚し、彼女をエフェソスに流してしまったのです。しかし、フィラデルフォス王が紀元前246年に息を引き取るとアンティオコスはエフェソスを訪ね、ここにしばらく滞在する間、離縁したかつての妻ラオディケに毒殺されています。こうして彼の息子セレウコス二世が帝位を継承する事になったのです。

アンティオコス二世はベレビの霊廟に埋葬されていると考えられています。アンティオコス・テオスの時代にエフェソスはエジプトのプトレマイオスの支配下に入っています。紀元前196年、アンティオコス三世の治政下でエフェソスを再び支配下に置いたセレウコスは、後の紀元前188年にアペマイア平和協定で同地をペルガモン王国(ベルガマ)に引き渡しています。紀元前133年にペルガモンがローマに進呈されると、自動的にエフェソスの地もローマの支配下に置かれる結果となったのです。

ローマ帝国期


紀元前129年に設けられたローマのアジア属州制度による重税と悪政は、紀元前88年にポントゥス王ミトラダテス六世の側で他の西アナトリア諸国と共にエフェソスの反乱を招く結果となりました。エフェソスにやって来たミトラダテスはアジアの属州で生活する全ローマ人の殺害を命じ、一日で80000人ものローマ人の命が奪われた他、エフェソスにあるローマ人政治家の像、記念物も破壊されたそうです。

反乱の直後、アジアの州にやって来たローマ軍の指揮官スラは謀反人を罰し、エフェソスを再びローマ支配の下に敷いたのです。有名なキケロは紀元前51年7月22日、ローマ、キリキアの地方総督としてエフェソスを訪れ、ここで戦いの計画を練ったとされています。アントニウスがフィリッポイの戦の後に中央アナトリアからエフェソスへやって来た時、彼がディオニソスの祭りを非常に気に入っている事を承知のエフェソス人等は、男女共に扮装して歓迎の儀式をもって彼を迎えました。

オクタビアヌスとの関係が一触即発状態にある時、アントニウスは彼の軍をキリキアに送り、紀元前33年にクレオパトラと共に再びエフェソスにやって来ています。クレオパトラの提供した200艘の船を含め、彼の所有する艦隊は800にまでに脹れ上がりました。しかし、アクティウムの海戦でオクタビアヌスに敗れたアントニウスは紀元前31年にエジプトに逃れています。オクタビアヌスは更に翌年の春、シリアを経由してエジプトに渡り、アレキサンドリアを包囲した為、もはや望みを断たれたアントニウスとクレオパトラには自殺する道しか残されていなかったのです。アントニウスの死後、紀元前27年に元老院の決定によりオクタビアヌスは皇帝となり、アウグストゥスと名前を変えています。

エフェソスに於ける最も重要な変化は皇帝アウグストゥスの誕生と共に始まり、彼はこの地をぺルガモンの代わりに属州の首都としました。つまり、こうしてエフェソスはアジアを代表する最大の主要都市となり、最も重要な貿易の拠点、ローマの政治家達が常駐する地、そしてローマ帝国の5本の指に入る大きな国となったのです。

紀元前27年にローマの属州は再構成され、監視官としてアジアヘは、ただ総督が派遣されるのみとなりました。アジアの属州はアフリカのそれと共に、最も大規模なものとなったのです。ローマ元老院の中でも属州の長は最高位とされ、初期に於いては5~10年であった地方総督や領事の任期も後には15年に延ばされています。

元老院の議員が40才前後で総督となる資格を得ていた事実を踏まえて考えると、エフェソスに駐在したアジアの知事は50~55才以上であった事がわかってきます。知事の任期がたったの1年であった事から、エフェソスにはこの職に就いた人々が大勢いたとしてよいでしょう。皇帝アントニウス・ピウスとプビエヌスもエフェソス知事の職に在ったとされています。

123年の夏、皇帝ハドリアヌスはロードスヘの旅の途中でエフェソスに立ち寄り、ある裕福なエフェソス人のヨットでエーゲ海の島巡りを行なっています。129年に再びエフェソスの地を訪れた皇帝は、都市、それも特に港に重点を置き修繕の手を加えています。
262年にクリミア半島からエフェソスに発った500艘のゴート艦隊は、都市の一部を手にし、アルテミスの神殿も含めて略奪行為をはたらきました。短期間のゴート族の侵略の後、エフェソスは再び体勢の建て直しを図っています。

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聖パウロと聖ヨハネ

1世紀、もはや最大で最も重要な古代都市の名を揺るぎ無いものとしたエフェソスでは、アナトリア、ギリシア、ローマ、エジプトに起源をもつ宗教を信ずる者、ユダヤ教徒、全ての者に信仰の自由が認められていました。一方、エルサレムでは新しく興った宗教のキリスト教が、除々に人々の心に浸透し始めていました。

キリスト教伝導者達は、37~42年にエルサレムを追放されています。伝導者聖パウロは53年にエフェソスを訪ね、3年間の内に最初はユダヤ教の教会に始まり、後には都市のいたる所で布教滴動を行ない信者の拡大に努め、後にはエフェソスにキリスト教会の設置も実現させています。

エフェソスでのキリスト教普及には目覚ましいものがありました。新しい神の出現を快く思わない銀細工師ディミトリウスや、アルテミスの銀の像を売って生計を立てている彼の仲間達は、数千人を扇動して大劇場に集め「エフェソスのアルテミス万歳、アルテミス万歳」と叫び始めたのでした。

そして聖パウロの友人であるガイオスとアリスタルコスを劇場のまん中に引きずり出し、民衆の勢いを煽りたてました。聖パウロは民衆の面前に立ちたいと切望しますが、側近達の忠告を聞いて、断念せざるをえませんでした。都市の警備官が駆け付け、劇場の人々を解散させた上、捕えられた者に対して言い分や文句のある場合、法廷の扉は常に開放されている、として事態は一応の収拾をみたのです。

この出来事から少したった後、聖パウロはエフェソスからマケドニアに赴きました。ルーク(ルーカス)は〈伝導者の言動〉という著書の中で37~42年の出来事を記していますが、聖ヨハネに対しては触れていません。しかし、この時、聖ヨハネはキリストから擁護を言い渡された聖母マリアと共にエフェソスに留まっていたのです。64年に聖パウロがローマ城壁の外で打ち首にされた後は、聖ヨハネがエフェソス教会の指導者に就いています。

高齢にも拘らず聖ヨハネはアナトリアの大草原を旅し続け、キリスト教の布教に努めました。ペルガモンとイズミールでキリスト教に対する反対勢力が最高になった頃、聖ヨハネはローマに連れて行かれ拷問されています。更に後にはパトモス島に流され、ここで主から受けた啓示を纏めた〈ヨハネ黙示録〉を著しています。

ローマ皇帝ドミティアヌスが側近に刺し殺された時、キリスト教徒等は安堵の溜め息を吐いたに相違ないでしょう。聖ヨハネは再度エフェソスを訪れ、キリスト教の教義を記し始めました。死後は彼の希望に従って、エフェソスの地に埋葬され、現在も同名で呼ばれる聖ヨハネ教会の下で眠っているのです。

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第三次エフェソス公会議

最も偉大な女神アルテミスと同様の力や高潔さが聖母マリアにもあったことは、この新しい宗教のエフェソスでの多くの信者獲得と、目覚ましい浸透の要因となりました。聖パウロ、聖ヨハネ、そして聖母マリアが住まいを構えた事実はエフェソスをキリスト教の要地とするに充分であり、聖母に捧げられた最初の教会(聖母マリアの教会、参照)もエフェソスに建てられています。その聖母マリアの教会では431年に第三次エフェソス公会議が開催され、キリスト教の本質と道義が協議されたのです。

会議では、聖母マリアは神の子キリストの母ではなく、人間キリストの母であると定義されました。コンスタンチノープル(イスタンブール)の総大司教ネストリウスがアンティオキアに於いて主張した思想はイスタンブールで熱狂的に擁護されていました。

彼の主張が世の中の混乱を招く様になると、東ローマ皇帝テオドシウスは自らエフェソス公会議を開催し、コンスタンチノープルの総大司教ネストリウスをはじめ、アレキサンドリアの総大司教キリル、アンティオキアの総大司教ヨハネ、エフェソスの代表者、法王も含め、200人以上の宗教専門家が招集されたのでした。会議開催中、エフェソスでは不安定な日々が続いていたとされています。聖母マリアがエフェソスに埋葬されている事は、初めてとられた議事録に記載されています。

4世紀になりアヤスルックの丘(アヤスルックテペスィ)の聖ヨハネの葬られた場所にバシリカが建てられると、もはや使用不可能な状態のエフェソス港を捨てた多くのエフェソス人がこの周辺に居を構え始めました。更に、皇帝ユスチニアヌスがバシリカの所に記念の教会を建てると、ほとんど全てのエフェソス人は聖ヨハネの教会周辺に移動する事になりました。

7~8世紀には、他の南西アナトリア諸国同様、エフェソスも海陸両方からアラブによる攻撃を受けました。これを機会に実践されたアヤスルック要塞の強靭化は教会の周辺を壁で囲んだ為に、ここを外要塞にも似た姿に変える結果となりました。カリフ・スレイマンの牽いる軍は716年の冬をエフェソスで過ごしています。10~11世紀になると都市名は聖ヨハネに関係して〈アヤテオロゴス〉に変更されています。

この地区にやって来たトルコ軍は、その時に目にした小さな村を1304年にチャカ・ベイ引率の下でビザンチン側から簡単に奪い取っています。更に後になるとエフェソスの地はアヤスルックと呼ばれる様になり、14世紀にここを訪れたイブン・バトゥタは非常に大規模な都市に、ベニス人、ジェノバ人、そして司教が住んでいた事を述べています。

アイドゥンオールラルの支配下でエフェソスは再び黄金期を迎え、大小多くのモスクや浴場が建てられた他、貿易も活気を取り戻したのです。有名なイサベイのモスクもこの時代の建物です。エフェソスは初期オスマン時代には完全な廃墟となっています。

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