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トルコツアーガイド

イスタンブール旅行・ツアー・観光全解説!絶対に行きたいおすすめスポット30選


イスタンブール(土:Istanbul)は歴史ある都市であり、観光名所が盛りだくさん。トプカプ宮殿やアヤソフィア、ブルーモスクなどの世界遺産はもちろん、ボスポラス海峡クルーズやハマム、グルメなど楽しみが満載です。旅行する上で気になる治安や天気、ホテルに空港、さらには歴史についてまでを徹底解説します。安心なイスタンブール観光をお探しでしたら、ぜひ弊社ツアーをチェックしてみてください!

イスタンブールはトルコ最大の都市

トルコ イスタンブール
イスタンブールはトルコ最大の都市です。ボスポラス海峡を挟んで、世界で唯一アジアとヨーロッパにまたがっており、歴史と文化の交流点として古くから栄えてきました。「ヨーロッパとアジアの架け橋」と言える街はイスタンブールだけです。因みに、よく勘違いされますが、トルコの首都はイスタンブールではなくアンカラですのでお間違えなく。

人口 1,546万2,452人(2021年):トルコ全体の18%
面積 5,461㎢
人口密度 2,831人/ ㎢(トルコ全体の27倍)

イスタンブールの地図:

「イスタンブール歴史地区」は世界遺産

イスタンブール散歩のビデオ

1985年12月6日に、以下の4つの区分がユネスコ世界遺産に登録されました。
  • ヒッポドローム、アヤソフィア、アヤ・イリニ、キュチュック・アヤソフィアモスクを含む考古学地区
  • スレイマニエ保護地区
  • ゼイレッキ・モスク及び付近を含むゼイレッキ保護地区
  • 歴史城壁地区

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イスタンブールのおすすめ観光名所30選

ブルーモスク観光(スルタンアフメト・モスク)

ブルーモスク
トルコにおいてもイスラム世界においても、最も有名な歴史的建造物の一つであるスルタンアフメト・モスク。イスタンブールを訪れる誰もが心を打たれる場所です。イスタンブールの景色は海から眺めたときが一番美しく、その雄大な景色の中でも一番の位置を占めるのがこの「スルタンアフメト・モスク」のシルエットであり、イスタンブールの象徴とも言えます。
このモスクは青の色調の美しさから「ブルーモスク」の愛称で広く知られていますが、本来の名は「スルタンアフメト・モスク(Sultanahmet Camii)」です。オスマン朝古典建築の代表例で、当初から6本のミナレット(尖塔)をもって建てられた唯一のモスクでもあり、“世界で最も美しいモスク”と評されています。

1609年から1616年と7年の歳月をかけて建てられたこのモスクは、社会・文化活動のための建築群とともに広大な複合体を形成していました。これらの大部分は現存していないものの、屋根のある市場、給食施設、病院、学校にキャラヴァンサライ(隊商宿)、そしてスルタン・アフメト1世の墓廟からなっていたことが知られています。

モスクの設計をした建築家メフメト・アー(Mehmet Ağa)は、オスマン朝建築史上最高の建築家ミマール・スィナンの弟子です。スルタンアフメト・モスクはアヤソフィアのすぐ向いに位置することによって、同じように壮大になるように設計されています。

 
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10th year

上から下へ配されたドームの列は、モスクのシルエットにピラミッドのような外観をもたらしています。この美しい外観を補うのが、モスクの角に4本、中庭の外に2本立つ、合計6本のミナレットです。

モスクの正門はヒッポドロームの側にあり、外庭に囲まれた高い基壇の上に中庭と主要な建物があります。中庭から眺めると、沐浴用の泉と周囲を取り巻くギャラリー越しに互いに見事に調和しながら上に向かって重なり合うドームを見ることができます。

主室はどこからでも全体を見渡せるようになっており、繊細に細工された美しい大理石製のミンベル(説教壇)とミフラーブ(礼拝の方向を示す壁庭)の前の柱の上には、ミュエッズィン・マフフィリ(朗唱者用の檀)が位置を占めています。モスクの床は他のモスクと同じように、寄進された絨毯で覆われています。内部の魅力的で安らぎを与える雰囲気は、敬虔な信者たちが礼拝を行うにふさわしい場所となっています。

スルタン・マフフィリ(スルタン用の席)は、正面外の二階建ての別棟と斜面でつながっています。この別棟はスルタンの休憩のために用意された場所ですが、現在は絨毯・キリム博物館として使用されています。モスクの東側には、向い合いに並ぶ商店からなる市場「アラスタバザール」が近年改修されて復活をしました。またアヤソフィアに面した側には、単一のドームをもったスルタン・アフメト1世の巨大な墓廟とメドレセ(イスラム学院)があります。

夏の夜にはモスク前の公園で光と音のショーが催され、幻想的にライトアップされた姿も楽しむことができます。スルタンアフメト・モスクは、周辺の記念碑的史跡や博物館とともに、イスタンブール市内ツアーの中心となっています。
モスクには腕や足を露出する服装では入る事が出来ません。女性は髪をスカーフで隠し、男性は短いズボンの際は腰に巻く布が必要になるのでご注意ください。

名称 ブルーモスク(Sultan Ahmet Camii)
住所 Sultan Ahmet, Atmeydanı Cd. No:7, 34122 Fatih/İstanbul, トルコ
営業時間 8時30分~11時30分、13時~14時30分、15時30分~16時45分
金曜日:13時30分
定休日 なし
入場料 無料 ※出口付近で寄付を受付

ブルーモスク「スルタンアフメト・モスク」はイスタンブール観光の目玉! | トルコ旅行専門の人気ナンバーワン旅行会社『ターキッシュエア&トラベル』

アヤソフィア(ハギアソフィア)観光

イスタンブール・アヤソフィア博物館
アヤソフィア(Ayasofya)は、かつて多神教の神殿があった場所に建てられており、現在の会堂は3代目になります。アヤソフィアは元来キリスト教の大聖堂であり、最初の会堂は木製の屋根の小規模な建物で、4世紀後半にコンスタンティノープル(イスタンブールの前身)の町を建設したコンスタンティヌス大帝の息子コンスタンティウス2世によって建てられました。
ですが、404年の反乱中にこの最初の会堂は焼失してしまいます。

その後、2代目の会堂がより大きな規模で再建され415年に式典をもって献堂されました。
しかしながら2代目も、ヒッポドロームで行われた戦車競技の結果532年に勃発した「ニカの乱」で再び焼失してしまいます。ニカの乱はユスティニアヌス帝に対する反乱で、何万人という多くの市民が命を落とし、多くの建物が焼失する原因ともなりました。

反乱を鎮圧したユスティニアヌス帝は532年、直ちに元の会堂の遺構の上に空前絶後の建物で再建に着手します。建築に携わったのは当時の著名な数学者トラッレス出身のアンテミオスとミレトス出身のイシドロスでした。再建には出費をいとわず国庫を建設につぎ込み、様々な種類の大理石や帝国のすみずみの古代遺跡から石柱がもたらされ工事に用いられました。斯くして、このキリスト教世界最大の教会は、5年後の537年落成し盛大な儀式をもって献堂されました。

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アヤソフィアのドームは、ローマ人たちによって発展させられたスタイルに基づいて建設されましたが、大きな円形の建物をドームで覆うことはかつてあっても、アヤソフィアのように大きな長方形の構造物を巨大な中央ドームで覆うのは歴史上初めての試みでした。

当時の最高技術を駆使し建てられたアヤソフィアですが、その偉大さにも関わらず多くの構造上の問題がありました。特に最も重要だったのが、ドームのけた外れの大きさと側面の壁にかかる圧力でした。このような大きなドームの重さを基礎に伝えるに必要な建築の諸要素は当時まだ十分に発達していなかった為、当初の平たいドームは558年に崩壊してしまいました。現在の2代目のドームは当初のドームよりもより高く直径が小さくなりましたが、それでもなお半分近くが10世紀と14世紀の2度にわたって崩壊してしまいました。

アヤソフィアはいつの時代にも莫大な国庫の出費によって維持され続けてきましたが、ビザンツ帝国の末期には国庫の困窮により荒廃してしまいます。荒廃したアヤソフィアを救ったのは、1453年オスマン帝国によるコンスタンティノープル征服でした。これにより、教会はモスクヘと転換し、オスマン朝建築の巨匠ミマール・スィナンは16世紀に外側の控え壁(バットレス)を築きました。

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アヤソフィアは教会として916年、モスクとして477年使われてきましたが、オスマン帝国滅亡から12年後の1934年、トルコ共和国の建国者にして初代大統領であるアタテュルクによって世俗化され、翌年に博物館となりました。その後の現代トルコにおいて、アヤソフィアの建物をモスクや教会など宗教的な場として使うことは禁じられてきましたが、イスラム回帰を進めるエルドアン大統領が2019年3月にアヤソフィアをモスクへ戻す方針を宣言し、2020年5月29日にトルコ政府はアヤソフィアを会場にしてコンスタンティノープル征服567周年記念式典を開きました。
2020年7月24日にアヤソフィアはモスクに回帰し「アヤソィア・ジャーミィ」となり、86年振りの金曜礼拝が行われました。

アヤソフィアに残る数々のモザイク画ですが、教会からモスクに転用された際に偶像崇拝を禁止していたイスラム教徒たちによって漆喰で塗り固められてしまい、20世紀に発見されるまで日の目を見ることはありませんでした。1931年に壁の中のモザイク画が発見され、表面を覆っていた漆喰を取り除いて姿を現したキリスト教のモザイク画はビザンツ時代の最も重要な美術作品の一つです。尚、漆喰を取り除く修復作業は現在も継続されています。
建物のオリジナルの中庭(アトリウム)は現存していませんが、入口に見られる石柱や他の遺物は展示のためここに置かれています。

入口は、何世紀もの間使われていなかった西側にある本来の入口が現在の入口となっており、その入口の傍らには2代目の会堂の遺構があります。洗礼を受けていない人々が入ることの出来た外側の側廊から内側の側廊には5枚の扉が、内側の側廊から内陣へは9枚の扉が通じています。中央の高い扉は皇帝の典礼用にのみ使われていた入口でした。その上に見られるモザイク画は9世紀末のもので、中央には玉座に座ったパントクラトール(万物の支配者)のキリストから皇帝レオン6世が取りなしを求めている様子が、玉座の両側のメダリオンには聖母マリアと大天使ガブリエルが描かれています。内側の側廊の天井にある幾何学的モザイク画はユスティニアヌス帝時代のオリジナルのものです。

アヤ・ソフィア博物館
荘厳で重厚な内陣はまさに圧巻で、足を踏み入れるやいなや、空中に釣り下げられて建物全体を覆っているかのようなドームに圧倒されます。壁や天井は大理石やモザイクで覆われて色彩豊かで、ドームのモザイク装飾の三つの異なる色調は3回の修復があったことを示しています。ドームは高さと直径で世界最大のもののひとつでありますが、度々の修復によって現在ドームは完全な円形をしていません。南北の直径は31.87メートル、東西の直径は30.87メートル、高さは55.60メートルである。顔を覆った4枚の羽をもつ天使像が、ドームを支える4つのペンデンティブ(穹隅)に描かれています。

ギャラリーの上の北側の壁には、教会の指導者たちを描いた後代のモザイク画が見られ、長方形の中央の内陣の両側には列柱で隔てられた脇内陣が張り出しています。中央の内陣は縦74.67メートル、横69.80メートルで、1階とギャラリーに合わせて107本の円柱があります。大理石の柱頭の光と影が効果的になるような深い彫りと、ヴォールトとよく調和する生き生きとしたアカンサスの葉は、当時のビザンツ芸術の特徴でもあります。

後陣の副ドームには、聖母と幼児キリストを描くモザイク画があります。両側の壁には天使像がありましたが、一方は完全に失われ、もう一方は一部分が失われてしまっています。

ドーム内側の碑銘と、ギャラリーと同じ高さの壁に掛けられた直径7.5メートルの革製の大円盤はアヤソフィアが過去モスクだった時代に設置されたもので、後陣に向かって右の円盤にはアッラー、左には預言者ムハンマド、その他の円盤には最初の4人のカリフ(ムハンマドの後継者)、預言者の2人の孫ハサンとフサインの名前が刻まれており、全部で8枚の円盤があります。ミフラーブ(メッカの方向を示す壁龕)、ミンバル(金曜礼拝に用いられる説教壇)、そしてミュエッズィン・マフフィリ(朗詠者のための壇)は、オスマン朝時代になってから置かれたものです。

アヤ・ソフィア博物館 内陣の入口には高さ1メートルを超える2つの巨大な壺が置かれています。この壺は「ベルガマの壺」と呼ばれており、トルコ西部の都市ベルガマの大理石で作られ、ムラト3世によって16世紀にベルガマからもたされました。また、壺にはこんな伝説も残されています。
~「ベルガマの貧しい1人の農夫が、農作業中に金貨の入った壺を掘り当てました。農夫はその壺をそっくりそのままスルタンに献上しました。その正直さに感激したスルタンは金貨入りの壺を農夫に授けるも、農夫は壺のみを受け取り金貨は返上しました。この行為にさらに感激したスルタンは、壺と金貨ばかりか土地まで与え、農夫は生涯裕福に暮らしました。」~
この壺は元々モスクの外にあり、イスラム教徒が沐浴する際に使われていたとも言われています。

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建物の北隅には下部にブロンズの帯を巻いた柱があります。柱には逸話があり、ユスティニアヌス1世がこの柱に頭をつけると頭痛が治ったとか。のちに、“柱に触れるだけで病が治る“とか”子宝に恵まれる“などの言い伝えが広がりました。この柱は「汗をかく柱」または「聖母マリアの手形」とも言われており、よく見ると指を入れられる大きさの穴があります。この穴に親指を入れて残りの指を柱から離さずに円を描くように回せたら幸運が舞い込むと言われており、柱に触りたい観光客で列が出来ているほどです。

北側の第一のバットレスの中には1階から2階へと続く石畳のスロープがあります。北側のスロープは敵が侵入した際に上りにくいようにボコボコの石畳で作られました。(因みに、南側にあるスロープは下り用として、下りやすいように滑り止めの溝を作り非常口として使われていたと言われています。)スロープは2階のギャラリー(回廊)に通じており、上がった先の回廊部分には10~13世紀のモザイク画が残されています。アヤソフィアに残る有名なモザイク画のほとんどが2階にあります。そして、建物を三方から囲む回廊から中央を眺めると壮大な内陣の姿が。2階から眺めると天井の模様や壁面の細部などがより間近に見ることもできます。南側ギャラリーは後代につくられた扉のような大理石の仕切りによって二つに区切られており、内側の部分は教会の会議の際に用いられていました。

アヤソフィアにあるモザイク画の中で最も有名なのが『デイシス(請願)』。13世紀後半から14世紀前半頃に制作され、ビザンチン美術における最高傑作と言われています。これはキリスト教の世界において最も多く描かれた題材「最後の審判」の場面で、中央にキリスト、右側に聖母マリア、左側に洗礼者ヨハネが描かれています。下部はほとんど剥落していますが、上部の人物像の表情と背景のモザイクは南窓から入る光のもとで見ると特に見事です。このモザイク画の中で慈悲深い表情を浮かべるキリストですが、正面から見ても斜めから見ても目が合うと言われています。視線が逸れない「キリストの動く目」にも注目です。

モザイク画『デイシス(請願)』の向いの壁のたもとには、第4回十字軍を率いて1204年に東ローマ帝国を滅ぼし、ラテン帝国の成立に関わった中心人物、ヴェネツィア共和国の総督「エンリコ・ダンドロ(Enrico Dandolo)」の墓が、市内唯一のラテン人占領の記念として残っています。

南側ギャラリーの突き当りには二つのモザイク画があります。一つは『聖母子と皇帝家族』。中央に幼児キリストを膝の上に抱く聖母マリア、左に皇帝ヨハネス・コムネノス2世、右に皇后イレーネ、パネルの脇の壁には病身で蒼白の皇子アレクシオスが描かれています。このモザイク画は12世紀に作成された、コンスタンティノープルに残る唯一のモザイク画として有名で、皇帝の一族による奉献が描かれており、ハンガリー出身の皇后の人種的特徴が、明るい色の髪と肌で表現されています。

その隣にあるモザイク画は、一方の手で祝福をし、もう一方の手で聖書を持って玉座に座るキリストと、皇后ゾエと夫の皇帝コンスタンティノス・モノマコス9世を描いた『キリストと皇后ゾエ夫妻』です。皇后ゾエは3人の皇帝と結婚し、皇帝コンスタンティノスはゾエの3番目の夫です。このモザイク画は皇帝が変わる度に皇帝の頭部とその上にある碑銘が書き換えらえた為、現在の画は二度にわたってつくり直されたものになります。キリストに捧げられた巻物と袋は、教会の独立と奉献の象徴です。そして、北側ギャラリー端の柱には10世紀に作られた『皇帝アレクサンドロス』を描いたモザイク画があります。ビザンチン帝国の皇帝が着る豪華な衣装を身に着け、左手には人生の儚さを表す頭蓋骨を持っています。

1階拝廊の南側にある出口の扉上にあるモザイク画は、10世紀後期の作と言われている『聖母子に献上する皇帝』で、中央に幼いキリストを抱いた聖母マリア、聖母マリアの左側にはコンスタンティノポリスの城壁の模型を捧げるコンスタンティヌス1世(コンスタンティノープルの街を作った皇帝)、右側にはアヤソフィアの模型を捧げるユスティニアヌス1世(現在残る3代目のアヤソフィアを建設した皇帝)が描かれています。出口にある一部地面に埋まった巨大な扉は紀元前2世紀のもので、多神教の神殿からもたらされたと言われています。

建物の出口左には、大きなかつての洗礼堂があり、17世紀のスルタン、ムスタファ1世とイブラヒムの墓廟にされています。傍らの庭には、1557年に建築家ミマール・スィナンによって作られたセリム2世の霊廟があります。四角形や多角形の建物にニ重のドームを乗せた美しい作品で、装飾には最高のイズニク・タイルが使用されており、ドーム内部のフレスコ画もまた見事です。霊廟にはセリム2世とその家族、ムラト3世、メフメト3世の棺が安置されています。アヤソフィアの現在の出口はこれらの墓廟の脇を通るようになっています。

2020年7月のモスク回帰後、モザイク画については礼拝時には布で覆いがけられることになりましたが、モスクとなった後も観光客の入場は認められているので礼拝時間以外は無料で今まで通り内部を見学する事が可能です。

名称 アヤソフィア/ハギアソフィア(Hagia Sophia)
住所 Sultan Ahmet, Ayasofya Meydanı No:1, 34122 Fatih/İstanbul, トルコ
入場料 無料

アヤソフィア大聖堂・2020年7月24日からは再びモスクに【世界遺産】|おすすめトルコ観光地BEST20 | トルコ旅行専門の人気ナンバーワン旅行会社『ターキッシュエア&トラベル』

トプカプ宮殿博物館観光

トプカプ宮殿
トプカプ宮殿(Topkapı Sarayı)は、金角湾、ボスポラス海峡、マルマラ海が臨める非常に景色が美しい場所、ビュザンティオン市(現在のイスタンブールの旧市街地区)が最初に建設された地として知られるアクロポリスの丘にあります。宮殿はイスタンブールの旧市街の半島の突端で、延長5kmの城壁に囲まれ、70万㎡もの広大な敷地を有しています。

1453年にコンスタンティノポリスの征服を実現させた若きスルタン、メフメト2世は帝国の首都をこの地に移します。トプカプ宮殿はこのメフメト2世によって建てられ、最初に建設した宮殿は市内の中心に位置していました。

トプカプ宮殿博物館 メフメト2世がコンスタンティノポリスを征服する以前からあった宮殿は「旧宮殿」、征服後の1470年代に建設された二つ目の宮殿は「新宮殿」と呼ばれ、スルタンが去った後の19世紀に「トプカプ宮殿」と呼ばれるようになりました。
トルコ語でトプ(Top)は「大砲」、カプ(Kapı)は「門」を意味し、直訳すると「大砲の門宮殿」という意味を持っており、トプカプ宮殿の丘がある岬の先端にある「大砲の門」にちなんでそう呼ばれるようになりました。

トプカプ宮殿は歴史上知られたトルコ系の他の宮殿と同じように古典的なトルコ的宮殿であり、木陰に覆われ、壮麗な門で互いに区切られた異なる機能を持つ中庭から成り立っています。様々な用途の建物が中庭の周囲に配置されており、創建当時に始まる歴代のスルタンたちが行った数々の改築と増築によって発展していきました。

トプカプ宮殿はオスマン帝国の唯一の統治者スルタンの公式の住居である他に、高宮たちが集う政府の中枢としても機能しており、国庫、文書館、造幣局、帝国の将来の最高幹部要員たちの養成組織も宮殿の中に置かれました。宮殿は、心臓であり、頭脳であり、まさにオスマン帝国の中心でした。当初ハレム(後宮)は旧宮殿に残されていましたが、創建後だいぶ後になってハレムもこの宮殿に移されました。

大宰相(オスマン帝国における最上位の官位)や宰相たちの多くは宮殿の内廷出身者でした。スルタンの内廷で教育と訓練を終えた彼らは忠実に奉仕するとともに、広大な帝国の行政や組織において手腕を発揮していました。日の出とともに始まる宮殿の生活は一挙一動に至るまで、儀式と厳格な儀礼の規則によって支配されており、オスマン帝国の衰退期においてさえ、誰しもが何世紀も続いた古い慣習や伝統にのっとって行動するように求められていました。ここで行われていた儀礼は、西欧諸国の儀礼にも影響を与えたと言われています。

トプカプ宮殿は15~19世紀にかけてオスマン帝国の中心として国政が行われ、長年にわたってオスマン帝国歴代のスルタンとその家族たちが生活をしていました。1853年に宮廷がドルマバフチェ宮殿に移転したことでトプカプ宮殿は公式の宮殿ではなくなり放置され荒廃してしまいますが、トルコ初代大統領アタテュルクによって1924年に博物館として修復されかつての簡素な美しさを取り戻し、一般の人々の見学に開放されました。

トプカプ宮殿における多種多様なタイルや木工、建築の諸様式は、オスマン朝美術の発展の諸段階と、多様な様式と調和が取れた共存を最も美しい形で示しています。宮殿の外観は地味ですが、内部に入ると、贅を尽くした装飾の数々には思わず言葉を失うほどです。また、宮殿に展示されている作品は、世界でも類を見ないほどの傑作揃いです。


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第一の中庭

第一の中庭へは「バーブ・ヒュマーユーン(帝王の門)」の名で知られる宮殿の正門を通って入ります。門の前にある華麗なアフメト3世の泉は、18世紀のオスマン朝美術で最も美しい作品の一つです。第一の中庭には 、宮廷のパン製造所、造幣局、宮廷警護の詰所、薪の倉庫が、下の平地には帝室菜園がありました。第一の中庭は宮殿内で唯一、一般の人々の出入りが許された場所です。宮殿の最初の建物であるチニリ・キョシュク(タイル美術館)もこの中庭にあります。入口に続いて左手には、6世紀に教会として建てられたアヤ・イリニ博物館があります。旧アヤ・イリニ教会はアヤソフィアよりも歴史が古く、イスタンブール最古の教会と言われています。

トプカプ宮殿博物館

第二の中庭

トプカプ宮殿博物館の入場口は、「バービュッセラーム(挨拶の門)」の名で知られる二番目の中門になります。第二の中庭はこの挨拶の門の先にあり、国家の行政を担った空間でもあります。中庭にはスルタンだけが騎乗のまま入ることができ、かつては公用のある臣民と、給料日に俸給を受け取るイェニチェリ軍団の代表だけが中に入ることを許されていました。外国使節の受け入れや国家の行事もここで行われており、5千人から1万人が参加することもあった儀式において完璧な静粛が保たれていたことが知られています。スルタン自身が儀式に参加する際は玉座がこの中庭の奥にある門の前に据えられ、居合わせた者は全て敬意を表すために手を前に組んだまま起立していました。

トプカプ宮殿博物館

武器庫(武具展示館)

中庭左側にある8つのドームをもつ大きな建物はかつて国庫として使われ、現在は武器庫(武具展示館)となっており数々の武器のコレクションが収められています。
長い間閉鎖されていたこの部分は、近代的な展示方式によって再び一般の人々に公開される様になりました。展示物には、スルタンの武器や兵器のほか、宮廷関係者やオスマン軍が様々な時代に使用した武器などが展示されています。また、戦利品として得られた他国の武器も見ることもでき、豊かなコレクションとなっています。

隣の広い軒をもつ建物には、大宰相を中心とした高官らが執り行っていた御前会議の場「クッベ・アルトゥ(ドーム下の間)」があります。御前会議に皇帝は直接参加せず、上階にある格子状の窓から覗き見をしていたそうです。そして、「正義の塔」と呼ばれる宮殿で唯一の塔もここにあります。この塔からはイスタンブールと港を見渡すことができ、市街の監視や外敵を発見するために使われていました。正義の塔の入口はハレムの部分にあります。

トプカプ宮殿博物館

厨房・東洋陶磁展示館

第二の中庭の右手には、すぐ目に留まる20本もの煙突がある宮殿の厨房があります。厨房のある建物は、石で舗装された長い通路の両側に位置しています。かつては1000人を越す料理人と助手が4000~5000人分の食事を作っていたと言われ、宮殿の様々な部署に割り当てられた食事を配達していました。
現在は展示館となっており、1万2000点を越す中国と日本の陶磁のうち展示されているのは約2500点、世界でも有数のトプカプ宮殿の陶磁コレクションの中から選りすぐられた作品が年代順に展示されています。入口右手の最初のホールには、染付、単色釉、色絵の中国青磁の名品が展示されています。中国陶磁の後には、日本陶磁の展示が続き、日本の古伊万里も収蔵されています。

厨房のヘルヴァハーネ(菓子製造所)はオリジナルの状態のまま保存され、宮殿の人々によって日常生活で使われていた壷、鍋、お盆、鉢に水差しやコーヒー豆挽きなどが展示されています。隣のセクションではイスタンブールで製造された磁器やガラス器が、厨房向かいの1985年に公開された銀器とヨーロッパ磁器とクリスタルのセクションには、美しく興味深い陶器や銀製品が並び、日用品とはいえどその豪華さには驚くばかりです。

トプカプ宮殿旅行・観光の案内ビデオ 2分26秒

ハレム

アラブ語のハラム(=聖域)やハラーム(=禁じられた)を語源とするハレム(Harem)は、トルコ語で「女性の居室」や「後宮」を意味しています。トプカプ宮殿の最大の見どころのひとつであり、別の博物館として扱われています。元々はトプカプ宮殿の創建当時から16世紀までは市内中心部にあった旧宮殿にありましたが、後にこのトプカプ宮殿に移されました。ハレムは、高い壁に取り巻かれた細長い廊下と小さな中庭の周りに配置されたおよそ400の部屋からなっており、様々な時代の増築により拡大していきました。その中でスルタンの母后、弟たち、姉妹たちその他の家族がハレムのそれぞれ専用の部屋に暮らしていました。そして、この大きな家族のために大勢の女奴隷や宦官たちがここで奉仕していました。
外部の者が滅多に訪れることのないハレムは家庭内のプライベートな部分のようなものであり、完全に遮断されたハレムについては何世紀もの間、多くの物語が作られていきました。

スルタンとその家族に仕える女奴隷たちは、様々な人種の最も美しく健康な少女たちの中から選ばれ、買われ、贈物としてハレムに捧げられました。奴隷として連れてこられた幼い少女たちは何年もかけてハレムの厳格な掟に従い教育され、宮殿のしきたりを学んだ後で一定のグループに分けられました。女奴隷たちの中には、スルタンの目にかない妻になる者もいました。
また、宦官の多くはエジプトから差し出された黒人のヌビア出身者でした。

オスマン朝において「皇后」の称号は早くに用いられなくなり、スルタンの母后(ヴァーリデ・スルタン)がハレムを支配していました。富と豪奢の傍らでは、噂話、陰謀、スルタンに近づくための競争が日常生活の一部となっていました。
新しいスルタンが即位すると、先代のスルタンのハレムの成員は旧宮殿に移転させられました。スルタンが幼少や病弱であった場合には、ハレムの女性たちや黒人宦宮長たちが国政に影響を与え陰謀をめぐらせていました。

現在はハレムの一部分だけが一般に公開されており、活気あふれる華やかな昔の日々とは全く対照的に、薄暗い廊下とからっぽの部屋は見学者たちの想像力の中だけで蘇ります。
ハレムの部屋や天井、廊下は豊かな装飾で飾られていました。様々な時代の壁のタイルをここでは一堂に見ることが可能です。

ハレムの見学は、入口を入るとまず黒人宦宮たちの部屋から始まります。彼らの任務はおもにハレムの警備でした。イスラムの掟によって女たちと顔を合わすことはほとんどなく、食事も2重のドア越しに運ばれていました。こうした2重ドアの部屋が今でも残っています。そこから、広間と40の部屋からなるスルタンの母后の部屋へと続きます。大きなトルコ式の浴室とスルタン専用のドーム付きの広間もここにあります。重要な全ての部屋には暖炉と泉が備わっていました。

ハレムの見どころには他に、中国陶器なども置かれた大広間「皇帝の間」や、華麗な16世紀のイズニックタイルと壁にはめ込まれた泉で有名な「ムラト3世の間」、ここから入る小さな図書室の装飾と花と果実の絵を施した壁画が素晴らしい「果実の間(イェミシュ・オダス)」として知られる「アフメット3世の食堂」などがあります。

ハレム見学の最後に訪れる16世紀の2つの部屋は、壁の豊かな装飾とあいまって美しいステンドグラスが見られます。この部屋は皇子たちの教育にあてられ、「チフテ・キョシュク」と呼ばれていました。

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ハレム

第三の中庭

第三の中庭へは「バービュッサーデ(幸福の門)」と呼ばれる門から入ります。門の扉は2カ所あり、左扉は宦官長の部屋、右扉は宦官の宿舎へとつながっていました。第三の中庭には、スルタンの私生活にあてられた内廷があり、白人宦官たちに警護されたこの門を通ることができたのは特別の許可を得た者だけでした。
幸福の門にすぐ隣接しているのが「謁見の間」。スルタンはこの謁見の間で外国の大使を迎え、政府の高官たちとも接見していました。謁見の間に仕える者は、安全上の理由からろうあ者が選ばれていました。また、スルタンに様々な奉仕をした小姓たちは、内廷で教育を受けた者たちでした。
第三の中庭には他に、小姓たちの宿舎、スルタンの宝物庫、中庭中央にはアフメト3世の図書館があります。図書館は18世紀に建てられ、オスマン朝古典建築とバロック建築を融合した様式となっています。

バービュッサアーデ(至福の門)

スルタン着用の衣装展示室

幸福の門を出て右側には、スルタンが着用していたカフタンと呼ばれる衣装の展示室があります。ここで展示されているスルタンの衣装のコレクションは、世界でも類を見ないものです。これらの美しい衣装は、宮殿の特別の工房で織られた布から縫製されていました。カフタンをはじめこれら様々な衣装が15世紀以来、細心の注意を払って保管され今日まで伝わったのはトルコ人の古い伝統に由来しています。スルタンや名のある政府高官たちの衣装は、布にくるまれ墓に入れられていました。絹や金糸、銀糸で刺繍された衣装のほかにも、オスマン朝織物工芸の傑作である絹製の絨毯が展示されています。これらは、スルタンたちが用いた礼拝用絨毯です。
因みに、カフタンとはチュニックの原型とも言われる衣装で、スルタンの豪華なカフタンが有名ですが、スルタンの妻たちが着用していたカフタンもあります。

宝物庫(宝物館)

衣装展示室を出て右側に進むと宝物庫があります。宝物庫には歴代のスルタン達が私的に所有していた戦利品や、極東、インド、ヨーロッパからもたらされた貢物などが納められており、各世紀のオスマン朝宝飾工芸の傑作品が見る人々を魅了しています。イスタンブールはオスマン朝時代になってから一度も侵略を受けなかったことから膨大な秘宝が略奪されずに残り、トプカプ宮殿博物館の宝物庫には世界で最も豊かな第一級のコレクションが並びどれもが真正なオリジナル作品になっています。2001年に改装され4つの部屋にテーマごとに展示品数を190点に絞って展示をしており、各部屋には様々な時代に用いられた玉座が一つずつあります。

第1の部屋には、金や宝石で飾られた儀式用のベルト、武器、水煙管、トルココーヒー用カップやその他の容器などが重要な展示品になります。その中にある、金メッキを施した銀製の中国の宮殿の模型は実に繊細な細工です。また、「天蓋の下で水煙管をふかす男の像」は第1の部屋の有名な作品で、宝石をちりばめ人形の胴体をバロック・パールで作ったこのユニークな作品は、金細工と七宝の優れた技術水準を示しています。これは19世紀にインドからスルタン・アブデュルアズィズに献上されたものでした。

第2の部屋はエメラルドの部屋として知られ、エメラルドや他の宝石を散りばめたターバン飾りやつり飾り、ペンダントなど目が眩む物ばかりです。重さ3kgという世界最大のエメラルドの原石は深いグリーンがとても美しいです。エメラルドはイスラムの世界では大切な宝石で、スルタンが競って集めたものだと言われています。
宮殿のシンボル、4個の大粒のエメラルドをはめ込んだ「トプカプの短剣」も展示されています。トプカプの短剣はスルタン・マフムート1世がイランの君主ナーディル・シャーに用意した贈物のひとつでした。18世紀のオスマン朝宝飾工芸の優品である短剣の鞘は七宝で覆われ、ローズカットのダイヤモンドで縁どられています。短剣の柄の上のエメラルドは、内蔵された時計の蓋になっています。

第3の部屋には、七宝細工、各国からスルタンに贈られた勲章やメダル、49kgもある一対の純金製燭台、即位や宗数的祭日で用いられた金の王座などが展示されています。世界最大のダイヤモンドのひとつ「スプーン屋のダイヤモンド(カシュクチュ・エルマス)」もこの第3の部屋の特別ケースの中で輝きを放っています。86カラットのローズカットのダイヤモンドを49個の小粒のダイヤモンドで取り囲み、ディアドロップ型に仕上げられています。言い伝えによると、漁師がダイヤの原石を拾い、木製のスプーンと交換したスプーン屋から名付けられたと言われています。

トプカプ宮殿博物館
第3の部屋と第4の部屋を結ぶテラスからはボスポラス海峡とアジア側の見事な景色を見ることができます。第4の部屋では、インド・イラン起源の壮麗な玉座が展示されています。「洗礼者ヨハネ」のものと伝えられる聖遺物も、この部屋の最初のケースの中に見られます。宝石で釣られたチェス・セット、薬入れ、箱、武器は、最も美しい作品です。

スルタンの私室(聖なる外套の間)

オスマン帝国スルタンのセリム1世が16世紀初頭にエジプトを征服した際に、そこにいたアッバース家最後のカリフから譲られたイスラム世界の聖遺物や、そこから19世紀末まで段階的に集められたイスラム関連の宝物がトプカプ宮殿にもたらされ保管されています。
スルタンの私室は4室からなり、壁は最高級のイズニックタイルで覆われています。ドームがある部屋の奥には、預言者ムハンマドのヒゲや剣、弓、といった聖遺物が金の櫃に保管されています。たった一つの窓からしか見えないこの神聖な部屋の巨大な天蓋は銀で作られています。別の部屋では、ケースの中に預言者所縁の品々(印章、髭、手紙、足跡)が展示されています。

他にも、コーランの最初の写本のうちの一冊、メッカにあるカーバ神殿の各時代の鍵、黒石を保護するための金属製の覆い、カリフや教友たちの剣も展示されています。オスマン朝のスルタンは、イスラムの最高権威をカリフに兼ねていただけあり、大変貴重な品々が並びます。
第3の中庭の隅にあるこの重要な部屋は、聖遺物が保管されるようになる以前は謁見の間であったと推測もされています。

第四の中庭

第四の中庭はトプカプ宮殿の中で最も美しい場所とされています。第三の中庭にある宝物庫の脇道から第四の中庭に入ることができます。ここには美しい装飾タイルを張った「バーダッド・キョシュク」、「レヴァン・キョシュク」、1641年に建てられた「割礼の間」、そして宮殿に最後に建設された「メジディイェ・キョシュク」があります。バーダッド・キョシュク前のテラスでは、金角湾にガラタ地区、旧市街のドームやミナレットなどが見渡せる、景色を一望するのに格好な場所があります。テラスの端には青銅の上に金メッキした天蓋付きのあずま屋があります。

※2021年3月現在、宝物庫は工事により閉鎖中です。工事終了時期は未定です。

名称 トプカプ宮殿(Topkapi Palace Museum)
住所 Cankurtaran, 34122 Fatih/İstanbul, Turkey
営業時間 9:00~16:45、チケット売り場は16:00まで(冬季:10月30日~4月15日)
9:00~18:45、チケット売り場は18:00まで(夏季:4月15日~10月30日)
定休日 火曜日
入場料 72トルコリラ(約1,100円)
ハレム入場の追加料金:42トルコリラ(約630円)
ハギアアイリーン教会入場の追加料金:36トルコリラ(約540円)
オーディオガイド:20~30TL(約300~450円)

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イスタンブール考古学博物館観光

考古学博物館
アヤ・イリニ教会の横、かつての鋳金所の坂道を下ると、世界でも五本の指に数えられる「イスタンブール考古学博物館(İstanbul Arkeoloji Müzeleri)」があります。イスタンブール考古学博物館は、考古学博物館(本館)、古代オリエント美術館、イスラム美術博物館/装飾タイル博物館(=チニリ・キョシュク)といった3つの博物館から構成されています。

本館の「考古学博物館」はトルコの世界的考古学者オスマン・ハムディ・ベイによって1881年から建設が開始され、1891年に博物館として公開されました。トルコ各地の遺跡からの出土品やシドン、キプロスで発見された彫刻などおよそ10万点を所蔵しており、年代も紀元前15世紀から近代までととても幅広いです。展示物の多くはヘレニズムやローマ時代に属するもので、いくつかの石棺をはじめ、石像やギリシャ彫刻などのコレクションは世界的にも評価が高いものばかりです。これらに加えて、各時代の日用生活品、オイルランプ、胸像、貴金属品が、テーマと年代順に展示されています。

数ある作品の中でも特に必見なのが、博物館の一番の名品「アレキサンダー大王の石棺」です。かつての古代フィニキアの都市シドン(現レバノンのサイダ)で1887年に発見された大理石の棺です。紀元前305年頃に制作されたものと考えられていますが、実はアレキサンダー大王の棺と断定はされておらず、棺の側面にはアレキサンダー大王の狩りや戦闘の様子を描いたレリーフが施されていることからこの名が付きました。その他の有名な石棺には、紀元前5世紀末に造られたとされるリキヤ時代の「リキヤの石棺」や、シドンの王室墓地で発見された石棺のひとつで紀元前3世紀のものと考えられている「嘆きを悲しむ女たちの石棺」があります。

南側にある別館「古代オリエント博物館」は1883年に同じくオスマン・ハムディ・ベイにより芸術学校として建設され、1935年に博物館に改められ開館しました。この博物館にはトルコはもちろんエジプト、アナトリア(小アジア)、メソポタミア地方からの出土品や遺物の傑作品が約2万点も展示されています。バビロンのイシュタール門の彩色レリーフ、ライオン像と牡牛の像がよく知られており、ハットゥシャシュのスフィンクスのレリーフなどもあります。ヒッタイトとエジプト間で結ばれた世界最古の平和条約“カデシュの条約”も見逃せません。

ヒッタイト帝国とその首都「ハットゥシャ遺跡」の見どころ徹底解説 | トルコ旅行・ツアー・観光なら、安心の『ターキッシュエア&トラベル』におまかせ!

「イスラム美術博物館/装飾タイル博物館」=「チニリ・キョシュク(Çinili Köşk)」とも呼ばれているこの建物は、1466年にメフメット2世によって建設されました。この敷地はもともとトプカプ宮殿の第一庭園でポロ競技が行われていた場所でした。建物はオスマン建築の民間建築物としてイスタンブールでは最古のもののひとつでもあります。オスマン帝国期においては娯楽の為の別館として使用されていましたが、1967年以降はトルコ、イスラム諸国のタイルや陶磁器の作品が展示されています。最盛期にあたる17~18世紀のイズニックタイルをはじめ、トルコ西部のチャナッカレの陶器や初期オスマン・トルコ建築のモスクで使われていたミフラーブ、19世紀のオスマン・バロック様式の泉亭などを見ることができます。正面の壁のタイルも美しいですが、内部壁のタイル装飾も素晴らしく一見の価値ありです。

名称 イスタンブール考古学博物館(İstanbul Arkeoloji Müzeleri)
住所 Cankurtaran, 34122 Fatih/İstanbul, トルコ
営業時間 9:00~19:00(夏季)、9:00~17:00(冬季)
定休日 月曜日
入場料 50TL(約750円)

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イスタンブールの地下宮殿(バシリカ・シスタン)観光

イスタンブール地下宮殿
イスタンブールの旧市街では、地下の貯水池が数か所発見されています。その中でも特に有名なのが「地下宮殿」で知られる“バシリカ・シスタン”です。トルコ語では地下貯水地を意味する「イェレバタン・サルヌジュ(Yerebatan Sarnıcı)」という名前で呼ばれています。
532年にユスティニアヌス1世により建設され、当時は周辺地域の主要な水がめとなっていました。水はアタテュルク大通りにかかるヴァレンス水道橋からここへ引かれ、後にトプカプ宮殿のスルタン達もここの水で喉を潤したと言われています。入口から地下に下りると広大な空間が広がっています。全体は、縦140m、横70m、高さ8mほどで、内部はビザンチン帝国時代のコリント様式の柱で支えられています。柱の中には謎めいた装飾の柱も発見されています。

この地下宮殿で特にみどころなのが、地下宮殿の最も奥にある大きな2つの「メドゥーサの首」です。柱の土台部分に恐ろしい形相の顔が彫られており、よく見ると髪の毛がうごめく蛇を表していることから、ギリシャ神話の怪女メドゥーサをかたどったものだと考えられました。顔の向きが反対向きや横向きになって置かれていますが、なぜその向きで置かれているかは謎となっています。このメドゥーサの首は、1984年の大改修で底に残された2mにも及ぶ泥が取り除かれた際に初めて発見されました。

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メドゥーサの首以外には、ギリシャ神殿から運ばれてきたと言われている神秘的な模様をした「涙の柱」もみどころです。表面に施された模様が涙の様な形であることからこの名が付きました。この涙の柱に願い事をすると叶うという言い伝えもあります。

地下宮殿が発見されるまで、人々は地下宮殿の上に家を建て、床下に穴を開けては水を汲んだり、魚を釣っていたそうです。長い修復が終わって公開されてからはイスタンブールの人気観光スポットのひとつとなりました。ひんやりとしているため、特に夏の暑い日には休憩がてら訪れるのもおすすめです。イスタンブールミュージアムパスは対象外なのでご注意を。

名称 イスタンブール地下宮殿(Yerebatan Sarnıcı)
住所 Alemdar, Yerebatan Cd. 1/3, 34110 Fatih/İstanbul, トルコ
営業時間 9:00~18:30(夏季)、9:00~17:30(冬季)
定休日 なし
入場料 20TL(約300円)

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グランドバザール観光(カパルチャルシュ)

グランドバザールの案内ビデオ(1分36秒)


グランドバザールは、トルコ語では「カパルチャルシュ(Kapalı Çarşı)」と言い、屋根付き市場という意味を持ちます。グランドバザールは、66の通りと4000軒の店舗からなる巨大迷宮のような世界最大級の屋根付き市場で、イスタンブール市内の中心にあるので、イスタンブール観光では欠かせない人気観光スポットのひとつでもあります。

グランドバザールは1461年にスルタン・メフメト2世が、アヤソフィアを維持するための費用を捻出するために開いた市場でした。元々は「イチ・ベデステン」(商館)と呼ばれる小さな市場でしたが、その後「サンダル・ベデステン」(サンダルとはブルサの布地模様のこと)と呼ばれる市場が建設され、17世紀に入ると通路を含め、それらに屋根がかけられました。メフメト2世の時代のバザールには950軒の店舗があったそうです。当時のイチ・ベデステンは現在も「オールドバザール」としてグランドバザール内部に残されており、その形は正方形をしていて、壁の内側も外側も商店で取り囲まれています。
メフメト2世によって建てられたグランドバザールは後に、スレイマン1世の時代に大幅に拡大されますがほとんどが木造だったため、1700年には大火に見舞われてしまいます。その翌年には石とレンガを使って大規模に再建されました。その後も、地震や幾度かの火災に見舞われるも生き残り、現在のような巨大市場に成長していきました。

グランドバザールでは、貴金属や陶器、タイル、絹製品、絨毯にトルコの伝統菓子ロクムなどの食料品が売られており、様々なトルコ土産が揃っています。あらゆる物をこのバザールで購入することが出来るので、お土産探しにピッタリな場所です。歴史ある建物で異国情緒溢れるトルコの雰囲気も味わえるので、買い物をしないで見るだけでも楽しめる場所です。

名称 グランドバザール(Kapalı Çarşı)
住所 Beyazıt, Kalpakçılar Cd. No:22, 34126 Fatih/İstanbul, トルコ
営業時間 8:00~19:00
日曜日、砂糖祭、犠牲祭、10月29日共和国記念日、元旦
※その年により変更になる可能性多々あり。前もって必ずご確認ください。
定休日 日曜日、宗教の祝日
入場料 無料

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エジプシャンバザール(スパイス・バザール)

エジプシャンバザール
グランドバザールから少し下った場所には、グランドバザールと並ぶ伝統的な市場「エジプシャンバザール」があります。トルコ語では「ムスルチャルシュ(Mısır Çarşısı)」と呼ばれ、地元の人で賑わう“トルコの台所”とも呼べる市場です。エジプシャンバザールは、18世紀頃にエジプトから輸入した香辛料を多く取り扱うようになったことからその名が付き、またの名を「スパイス・バザール」とも言います。グランドバザールとは違い、日用品が多く取りそろえられ、香辛料や様々な食料品なども売られています。高く積み上がった色々なスパイスや珍しい魚などの食料品は、見ているだけでも楽しい気分になります。

エジプシャンバザールはL字型の直線的な造りなので迷うこともなく安心してお買い物を楽しむことができます。少量買いもできるドライフルーツやナッツは、お土産や旅行中のおやつにもおすすめですよ。

名称 エジプシャンバザール/Mısır Çarşısı
住所 Rüstem Paşa, Erzak Ambarı Sok. No:92, 34116 Fatih/İstanbul, トルコ
営業時間 8:30~19:00
定休日 なし
入場料 無料

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スレイマニエ・モスク観光

スレイマニエモスク
スレイマニエ・モスク(Süleymaniye Camii)は、オスマン朝が最も反映した第10代君主スレイマン1世の命により、トルコが誇る天才建築家ミマール・スィナンの設計で1550年~7年の歳月をかけて金閣湾を見下ろす高台に造られました。オスマン帝国時代にイスタンブールで建設されたモスクの中でも最大規模を誇ります。

モスクの入口は、周囲を柱廊に囲まれ中央に沐浴用の泉のある中庭に面しています。内装の広がりと統一感、適度の装飾が内部の荘厳な効果を強めています。
当時の最高技術を駆使し、59m×58mの床面に直径26.5mの円形の屋根を載せ、高さ53mの大ドームを仕上げました。大ドームは「象の脚」と呼ばれる4本の太い積柱の上に載っています。イスタンブールを何度も揺るがした地震でも建物は一度も崩れたことがありません。
均整の取れた大きさもさることながら内部の装飾も極めて美しく、内部の建築的諸要素全てが完全に調和し合い、構造のバランスは完璧です。

モスク内部で最も目を引く場所は、ミフラーブの壁にあるトルコ的モチーフで装飾された色彩豊かな16世紀のオリジナルのステンドグラスです。アラビア文字やチューリップ、カーネーションなどの細密な模様が描かれています。通常、モスク内部は薄暗いことが多いですが、スレイマニエ・モスクは多くの窓を設けることで様々な角度から光が差し込むようになっています。

床を覆うミフラーブをデザインした一枚織りの手織り絨毯は、1960年代になって敷き詰められたものです。内部の壁に見られるカリグラフィーはコーランの一節をオスマン朝書道の大家、アフメット・カラヒサルが書き上げました。ミンバル(説教壇)の脇には、きわめて簡素なミュエッズィン・マフフィリ(礼拝時刻告知係の席)があり、大理石でつくられたミフラーブの壁龕の周囲はタイルで装飾されています。ヒュンキャル・マフフィリ(スルタン用の席)はミフラーブの左にあります。そして、入口の壁と横の壁に沿って女性用のバルコニーがあります。
内部南側の図書室に見られる真鍮(黄銅)の格子は、18世紀オスマン朝の金属工芸の美しい例でもあります。

また、敷地内モスクの裏庭にはスレイマン大帝と寵妃ヒュッレム・スルタン(ロクセラーナ)、その家族の棺が安置された大きな霊廟もあります。遠征中に亡くなってしまったため、息子のセリム2世によって建てられました。周囲には、様々な時代の名士たちの墓もあります。こちらも無料で見学が可能です。

スレイマニエ・モスクの片隅にはミマール・スィナン自身の霊廟もひっそりと建っています。ミマール・スィナンは99年の生涯のうちの50年をオスマン朝の建築長官として数々の偉業をなし、生涯で400点を越す作品を完成させた天才的な建築家でした。自ら創始者たるオスマン朝古典建築様式を代表し、彼の育てた弟子たちはオスマン朝の全土にわたり多くの作品に足跡を残していきました。ミマール・スィナンの霊廟内部には入ることが出来ませんが、外側から石棺を見ることが出来ます。

名称 スレイマニエ・モスク (Süleymaniye Camii)
住所 Süleymaniye Mah, Prof. Sıddık Sami Onar Cd. No:1, 34116 Fatih/İstanbul, トルコ
営業時間 9:00~19:00
定休日 なし
入場料 無料

スレイマニエ・モスク|トルコ旅行のハイライト観光スポット | トルコ旅行専門の人気ナンバーワン旅行会社『ターキッシュエア&トラベル』

スレイマニイェ・モスク

オリエント急行の終着駅 シルケジ駅観光

イスタンブールの旧市街にある「シルケジ駅(Sirkeci Garı)」は、オリエント急行の終着駅として完成しました。オリエント急行とはヨーロッパを走行する長距離夜行列車で、1883年にパリ~イスタンブール間の運行が開始されました。残念ながら1977年にパリ~イスタンブール間の直通列車は廃止されてしまいましたが、当時使用していた駅舎はそのまま残されているので当時の雰囲気を味わうことができます。
駅構内には「Orient Express」という名のレストランや、小規模ではありますが無料で見学できるオリエント急行に関する物が展示されている鉄道博物館(祝日を除く火曜日〜土曜日開館)があるので立ち寄って楽しむこともできます。
シルケジ駅からは今もヨーロッパからの国際列車が発着しており、その他エディルネ方面の国内列車やボスポラス海峡を横断する海底トンネルを使ってアジア側へ行くマルマライが運行しています。

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アガサ・クリスティー

「オリエント急行の殺人」または「オリエント急行殺人事件」という言葉を耳にしたことがある人は多いのではないでしょうか?この作品はミステリーの女王とも呼ばれたイギリス出身の推理作家【アガサ・クリスティー】が1934年に発表した小説で、彼女自身が実際にオリエント急行に乗って一人旅をした時に、イスタンブールでの経験が大きな影響を与えて作られたと言われています。

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ペラパレス

ペラパレス(Pera Palace Hotel Jumeirah)は、イスタンブール新市街側ベイオール地区にある1892年に開業した老舗高級ホテルです。オリエント急行でフランスからイスタンブールへ訪れる王侯貴族や著名人のためのホテルとして建てられました。
100年以上の歴史を持つペラパレスですが、実は前出のアガサ・クリスティーもこのホテルを愛した一人で、「オリエント急行殺人事件」はこのペラパレスの一室で執筆されました。執筆が行われた411号室は「アガサ・クリスティー・キングルーム」と名付けられ宿泊が可能です。クリスティーのファンであれば一度は滞在してみたい部屋です。
そしてペラパレスに滞在した人々の中でも忘れてはならないのが、トルコ建国の父アタテュルク。アタテュルクがイスタンブールで最初に職務を執り行った部屋101号室は現在もそのまま保存され博物館として公開されています。
他にも、アメリカ人作家アーネスト・ヘミングウェイやスウェーデン出身のハリウッド女優、グレタ・ガルボなど数々の署名人が滞在していました。

金角湾観光(ハリチ)

金角湾は、ボスポラス海峡からヨーロッパ大陸に切り込んだ長さ約8キロの東西に細長い湾で、この海峡の西南のマルマラ海への出口に位置する天然の良港になっています。そもそも、イスタンブールはボスポラス海峡を挟んでヨーロッパ側とアジア側に大きく分けられていますが、ヨーロッパ大陸側はさらにこの金閣湾を挟んで旧市街と対岸の新市街(ガラタ地区)に分かれています。
金角湾はイスタンブールの歴史的発展に大きな役割を果たしていました。潮の満ち干きも流れもないので都市の成立以来、安全な港として使われてきました。かつて周囲を取り巻いていた肥沃な土地、魚の種類の豊富さ、注ぎ込む二つの沢、そして形のおかげで、ここには豊穣を意味する「金の角(英語名:Golden Horn)」の名がふさわしいと考えられ名付けられたと言われていますが諸説あります。因みに、トルコ語では「ハリチ(Haliç)」と言い、入り江の意味を持ちます。

ビザンツ時代の金角湾は、入口に張られた鎖によって敵の艦隊の侵入を防いでいました。金角湾には4本の橋がありますが最初の橋は「ガラタ橋」で、1836年に旧市街エミノニュ地区と新市街ガラタ地区の間にこのガラタ橋が建設されたことで、北岸の新市街の発展を促しました。最初は木造で造られたガラタ橋はその後4度にわたって架け変えられ、現在の近代的な橋は1994年に開通しました。

金角湾観光(ハリチ)
ガラタ橋の付近は現在も海上交通の激しい場所で、市の両岸と島々の間で運行しているフェリーや大きな客船などがここの船着場を使っています。ですが、発展の裏で1960年代に造船所、工場その他多くの建物が水質汚染や景観破壊をもたらします。1983年以降汚染は管理され、海岸沿いの4000軒以上の家、店舗、工場が一掃され公園に変えられました。現在はさらにアタテュルク橋とハリチュ大橋が架けられ、金角湾岸は住宅・公園地区として開発されています。
ガラタ橋とその付近は市内で賑やかな地区でもあり、橋の上から眺めるイスタンブールの旧市街の雄大な景色はいくら見ても飽きることがありません。

金角湾の第二の橋「アタテュルク橋」を過ぎると、ところどころに城壁の跡と古い町並みの残るフェネル地区に抜けます。フェネル地区には見どころでもある「コンスタンティノープル世界総主教座(Rum Patrikhane)」が鎮座しています。さらに進むと旧市街の海岸に1896年に造られたブルガリア正教会「聖ステファン教会(Stefan Kilise)」が見えます。この教会の建設は、建築材料の一部はウィーンで造られ、船に載せられドナウ川から黒海に抜け、ボスポラス海峡を渡り、金角湾沿いの建設地に届けられるという大がかりなものでした。現在はイスタンブールに住むブルガリア正教徒の祈りの場としてはもちろん、ブルガリアからの旅行者や他国のキリスト教徒からも注目されています。シンプルな外観とは変わって内部の豪華さは必見です。
対岸のカスムパシャ地区には、海軍司令部が置かれている19世紀に造られた大きな建物があります。この地区の造船所も金角湾の外に移転しつつあります。スルタンの離宮「アイナルカヴァク・カスル」もこの場所にあります。

金角湾の架橋については、1502年頃にレオナルド・ダ・ビンチが、1505年頃にミケランジェロが別々にオスマン宮廷に架橋の計画を提案したことが伝わっていますが、残念ながら計画は実現しませんでした。

ガラタ橋・ガラタ塔観光

ガラタ橋・ガラタ塔
ガラタ(Galata)は、旧市街から金閣湾を渡ったところに広がっているベイオール(Beyoğlu)地区にある一角の名前で、かつてビザンツ時代にヴェネツィア人が、14世紀以降は主にジェノヴァ人が定住していた金角湾の入口と港に臨むエリアです。現在は、カラキョイ地区(Karaköy)の名でも呼ばれています。
ガラタ地区はかつてラテン人商人たちが自治を行っており、14~15世紀には城壁と高い物見塔を備えていました。なお、現在でもガラタ地区の多くの通りには80~90年前に建てられた家々が建ち並び、当時の地中海都市を想い起こさせます。
かなり前からガラタ地区の住民は様変わり、アナトリアからイスタンブールに流入した人々が定着する地域のひとつとなりましたが、この地区にある数多くの古いキリスト教会やユダヤ教のシナゴーグは今も礼拝のために開かれています。そして、教会を転用したアラブ・モスクもこの地区の重要な宗数的建築のひとつとなっています。また、ドイツ系、フランス系、オーストリア系、ギリシャ系の学校も今もなお活動を続けています。

旧市街のエミノニュ桟橋と新市街のカラキョイ桟橋を結ぶ「ガラタ橋(Galata Köprüsü)」は、1845年に開通しました。初代の橋は木製でしたがその後何度も架け替えられ、1912年に建造された4代目ガラタ橋は2階建ての跳ね橋として美しさを誇っていました。しかしそれも1992年に老巧化と火災で焼失してしまい、現在の橋は5代目として1994年に開通されたものになります。
ガラタ橋は全長490m、幅42m、2層式にもなっており、橋の上は片側3車線と歩道を備えトラムも通ります。歩道には釣り糸を垂らし釣りを楽しむ地元の人々の姿が、下階にはレストランやカフェが並んでいるので、ガラタ橋はいつも地元の人々や観光客で賑わった場所となっています。

新市街のシンボル「ガラタ塔(Galata Kulesi)」は、ガラタ地区の丘の上に城壁の主要な塔として14世紀中ごろ、当時この周辺に住んでいたジェノヴァ商人たちによって建てられました。石造りの塔で、9階建てで高さは66.9mとなっています。
ガラタ塔は建設以来、様々な用途で利用され、牢獄や天文台などに使用されていました。塔の上部はオスマン朝時代に追加されたもので長年の間、火の見櫓として使われていました。円錐形の屋根は1969年に完了した改修により、19世紀前半の頃の外観を取り戻しました。

現在、最上階とその下の階は2020年から博物館になっており、塔の周りにはパノラマ展望台もあります。港とボスポラス海峡の入口を見下ろす場所にそびえる塔からはイスタンブールの街を一望できるので、観光客だけでなく地元の人々にとっても非常に人気の高い観光名所となっています。

名称 ガラタ塔 (Galata Kulesi)
住所 Bereketzade, Galata Kulesi, 34421 Beyoğlu/İstanbul, トルコ
営業時間 9:00~20:30
定休日 なし
入場料 35TL(約530円)

エユップ・スルタン・モスク観光

金角湾観光(ハリチ)
金角湾に架かる第4の橋の陸地、狭くなり始めた金閣湾の奥まったところの旧市街側にある“エユップ(Eyüp)地区”に「エユップ・スルタン・モスク(Eyüp Sultan Camii)」は建ちます。このエユップはビザンツ時代においても重要な村であり、神聖な人物の墓があることが知られていて、日照りの時には雨乞いの儀式がここで行われたことを記録する文献もあります。
エユップ・スルタン・モスクは、預言者ムハンマドの旗手であった「アイユーブ・アル・アンサーリー」が祀られていることでも知られており、メッカやメディナ、イスラエルなどに次ぐ聖地とされ、トルコ国内外から巡礼者が絶えない、ムスリムにとっては特別なモスクのひとつでもあります。
因みに、アイユーブ・アル・アンサーリーの事をトルコ語では「エユップ・スルタン」と言い、地名にもなっている「エユップ」は「アイユーブ」がトルコ語で訛ったものになります。

アイユーブはムハンマドの死後、アラブ軍を指揮してコンスタンティノポリス包囲しましたが、678年にこの地で殉死してしまいます。それから約800年後、オスマン朝メフメット2世のコンスタンティノポリス包囲中に彼の墓を発見し、1459年にイスタンブール最初のモスクがこの地に建てられました。しかし、メフメト2世によって建てられたこのモスクは18世紀の地震で崩壊してしまい、1800年に新たなモスクに建て替えられました。完成した新しいモスクは当時流行のバロック様式で造られ、正方形の形をしていて主ドームを8つの副ドームが取り囲んでいます。モスクの中庭に面している墓廟の外壁は美しいイズニックタイルで装飾されていて宮殿のようでもあります。
エユップ・スルタン・モスクはオスマン帝国では重要なモスクとされ、新しいスルタンが即位する時にここで聖剣を授与する儀式が行われたという由緒ある場所でもありました。モスクの周辺にはオスマン帝国時代の著名な宰相たちの墓も多くあります。

名称 エユップ・スルタン・モスク(Eyüp Sultan Camii)
住所 Merkez Mh, Cami Kebir Sk. No:1, 34050 Eyüpsultan/İstanbul トルコ
営業時間 9:00~19:00
定休日 なし
入場料 無料

エユップに来たらもうひとつ訪れたい場所に「ピエール・ロティのチャイハーネ(Pierre Loti Kahvesi)」があります。エユップ・スルタン・モスク周辺の見学のあとに歩いて行くことも可能ですがかなりの急坂なので、テレフェリッキ(Teleferik)というロープウェイで行くのが便利です。
チャイハーネ(=トルコ語で喫茶店の意味)の名前にもあるピエール・ロティは19世紀末に活躍したフランス人作家で、日本を含め各地を回っていました。その中でも特にイスタンブールをこよなく愛し、このチャイハーネに通っては素晴らしい景色を眺めながら小説を書いていたと言われています。(彼が当時書いていた小説は処女作となった『アジヤデ(Aziyadé)』で日本語訳も出ています。)
元々このチャイハーネは「ラビア・カドゥン・カフヴェスィ(Rabia Kadın Kahvesi)」と呼ばれていましたが、いつしか彼の名前にちなんで「ピエール・ロティのチャイハーネ」と呼ばれるようになりました。眼下にはイスタンブールの絶景が広がり、イスタンブールで金閣湾を一番美しく見られることでも有名な場所です。特に、チャイハーネと前のテラスから望む満月の晩の金角湾の眺めは、忘れ難い印象を残すに違いありません。チャイハーネは通常8:00~23:00まで営業していますが冬期は時間短縮営業になっているのでご注意を。

ボスポラス海峡観光

第二ボスポラス橋
世界で最も美しい景色のひとつ「ボスポラス海峡」とは、アジア側とヨーロッパ側二つの大陸と、北は黒海、南はマルマラ海といった二つの海の間を曲がりくねって流れている海峡です。アジアとヨーロッパの境界をもなし、また、黒海唯一の出入口として、そして、マルマラ海とエーゲ海を繋ぐダーダネルス海峡と合わせて、黒海と地中海を結ぶ海上交通や活動の要衝をもなしています。
旧市街が最も美しく眺められるマルマラ海側の海峡の入口に来ると、湾に入ったかのような錯覚を受けます。黒海まで約30kmの長さがあるこの海峡は、あたかも一続きの湖のようにも見えるので
ここが海峡であることは、飛行機から見て初めて分かるかもしれません。

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ボスポラス海峡は南北に細長い形をしており、その長さは約30km、幅は最も狭い場所で約700m、最も広い場所で3700mあります。深さは平均50mで、最も深い場所になると112mほどになります。氷河時代は渓谷であったことから、海底は豊かな海草で覆われています。また、豊富な海の幸が獲れることでも有名で、季節に応じて回遊する魚が、この狭い海峡や両側の近海で大量に水揚げされています。
沿岸には古い宮殿、モスク、ヤル(トルコの伝統的な別荘)、森に包まれた丘や家々、レストランにビーチなどが並び広い川のようにも見えます。季節を問わず雄大な美しさを誇るボスポラス海峡ですが、春には海岸線に沿って桃色のハナズオウ(花蘇芳)の花も咲き、美しい景色をいっそう引き立てています。

実際、ボスポラス海峡はユニークな「海の川」でもあります。塩分の少ない黒海の海水が表層でマルマラ海に向かって流れ込んでいる一方で、その下の層には反対方向に流れるもうひとつの潮流があります。この表層の激しい潮流と周辺道路の未発達のせいで、前世紀の末までは沿岸に集落はほとんどありませんでした。
ですが、スルタンの宮殿や富豪の館の傍ら、19世紀になると高官の別荘が海岸に沿ってでき始めます。そして、ボスポラス海峡の沿岸の発展は、オスマン帝国初の株式会社として1852年に創立された船会社「シルケティ・ハイリイェ」の連絡船就航によって可能となっていきました。

ボスポラス海峡には海峡をまたぐ大きな3本の吊り橋があります。
1つ目の橋は「7月15日殉教者の橋」と言う名の橋で全長約1510mになります。建国50周年を記念して1973年に開通しました。かつてはボスポラス大橋と呼ばれていましたが、2016年7月15日のクーデター事件後に今の名前に変わりました。第二ボスポラス大橋と区別するため「第一ボスポラス大橋」と呼ばれることもあります。2009年には芸人の間寛平が行ったアースマラソンでこの橋を渡ってヨーロッパからアジアへ突入しました。なお、現在は歩行者の通行は許されていません。
2つ目の橋は「ファーティフ・スルタン・メフメト橋(Fatih Sultan Mehmet Köprüsü)」という名の橋で、征服王(ファーティフ=Fatih)と呼ばれたオスマン帝国の皇帝メフメット2世の名前にちなんで名付けられました。「第二ボスポラス大橋」の通称でも知られています。全長1510mあるこの橋は1988年に完成し、建設には日本の企業も参加しました。同年に開通した瀬戸大橋とは姉妹橋の関係にもなっています。
そして3つ目の橋は「ヤウズ・スルタン・セリム橋(Yavuz Sultan Selim Köprüsü)」で、ボスポラス海峡の黒海への出入口近くに位置しており、2016年に開通しました。橋の長さは1408m、幅も広く58,4mもあります。橋の名前は、1517年にエジプトを征服したオスマン帝国の皇帝セリム1世に由来しています。

ボスポラス海峡は横断が容易な海峡であったため、ヨーロッパとアジアの間の文明の融合と通商の発展をもたらしました。アジアとヨーロッパの間であった多くの移住、征服、遠征がこの海峡を通って行われていました。アルゴナウタイ(=ギリシャ神話において、黄金の羊毛を求めて英雄イアーソーンに従い大船アルゴー船で航海をした英雄たちの総称)の黒海遠征は、ボスポラス海峡にまつわる最古の神話です。
紀元前6世紀には、ペルシア軍が海峡を渡るため小舟を並べてつなぎ合わせ、ボスポラス海峡で最初の橋を作ったと言われています。
海峡の中ほどに向かい合って築かれたオスマン朝のふたつの要塞ルメリ・ヒサールとアナドル・ヒサールや、黒海の出口の丘に築かれた古い城塞は、この場所がどの時代でも戦略的に重要であったことを物語っています。
ボスポラス海峡、その延長の金角湾、イスタンブールの旧市街が広がる半島は、都市建設以来2500年間の歴史を通じ世界の注目を浴び続けている場所です。

因みにボスポラスとは“雌牛の通り道”という意味で、古代ギリシャ神話に由来しています。

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ドルマバフチェ宮殿観光

ドルマバフチェ宮殿
ドルマバフチェ宮殿(Dolmabahçe Sarayı)は、オスマン様式とバロック様式を折衷させた豪華絢爛な宮殿です。オスマン帝国の第31代皇帝アブデュルメジト1世の命によりアルメニア人建築家のガラベト・バルヤンの設計によって、1843年から10年の歳月をかけて建設されました。
オスマン朝のスルタンたちはいつの時代にも多くの宮殿を持っていましたが、当時の基本の宮殿はトプカプ宮殿でした。ですが、ドルマバフチェ宮殿が完成するとトプカプ宮殿は放棄されてしまいました。

博物館として一般公開されたドルマバフチェ宮殿は、イスタンブールに数ある博物館の中でも必見の歴史の宝庫です。ドルマバフチェ宮殿は三階建ての造りとなっており、285の部屋と43の広間があります。海岸には600メートルの波止場が、陸地側には二つの壮麗な門があります。そのうちのひとつはとりわけ装飾豊かです。
手入れの良い美しい庭園に囲まれたこの海岸の宮殿に入ると中央には、他の部分より一段高くなった会議場や祝典用の大広間(ムアーイェデ・サロヌ)があります。ムアーイェデ・サロヌの奥はスルタンの謁見のためにハレムとして使用されていました。
内装、家具、絹の絨毯、カーテンほか全ての調度品が、完全にオリジナルのまま今日まで残されています。ドルマバフチェ宮殿は世界中にあるどんな宮殿にも見られない豪華さを誇っています。

ドルマバフチェ宮殿
壁と天井は、当時のヨーロッパ人画家の絵画と、何トンもの重さの黄金の装飾で覆われています。主要な部屋と広間の全ての調度品は同じ色調で統一されており、床の全ては一つ一つ異なる寄木細工で覆われています。有名なヘレケ産の絹織りと毛織りの絨毯が、広間や部屋に敷き詰められています。ハレムと同じ大きさの宮殿の第四の部分は、皇太子の区画として用いられていました。

ドルマバフチェ宮殿は、共和国成立後は建国の父アタテュルクのイスタンブール滞在中の住居として使われていました。この時期に宮殿で起こった最も重要な出来事は、1938年11月10日のアタテュルクの死です。アタテュルクが使用していた寝室の時計は現在もなお、息を引き取った時間の9時5分で止まったままになっています。
なお、国民の惜別を受けたアタテュルクの遺体はここからアンカラに運ばれました。

宮殿の裏庭と鳥小屋の部分、さらにいくつかの館は新しく改修され一般に公開されています。最近では、女奴隷たちの区画が一般公開されるようになりました。
宮殿の見学者用入場門の右手の壮麗な時計塔は、1890年から1895年にかけてスルタン・アブデュルハミト2世によって建てられたもので、時計は現在も稼働しています。

名称 ドルマバフチェ宮殿(Dolmabahçe Sarayı)
住所 Vişnezade, Dolmabahçe Cd., 34357 Beşiktaş/İstanbul トルコ
営業時間 9:00~18:30 (チケット販売・最終入場時間17:30まで)
定休日 月曜日、元旦、5/1メーデー、砂糖祭り及び犠牲祭の初日
入場料 セラムルク60TL、ハレム40TL、セラムルクとハレムのセット90TL(約1,350円)

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チュラーン宮殿観光

チュラーン宮殿
金角湾とボスポラス海峡の最も美しい場所はスルタンの宮殿や名士の館に占められていました。やがては多くあった宮殿も失われていくのですが、そのうちのひとつ「チュラーン宮殿(Çırağan Sarayı)」も1910年に火事で外壁だけを残して焼け落ちてしまい、かつては長い間廃墟として放置されていました。

現在のチュラーン宮殿は、元々木造の館があったこの場所に、スルタン・アブデュルアズィズの命によって建設されました。設計は宮廷建築家であるアルメニア人建築家のサルキス・バルヤンが行い、4年の歳月と400万枚の金貨を費やして1872年に完成しました。
天井は木工技術の粋を集めて飾られ、壁は大理石で覆われていました。柱は比類のない石工技術の傑作でした。宮殿には見事な調度品が備え付けられ、螺鈿の象眼と金箔を施して繻子を張った家具や、貴重な絨毯などがありました。
高い塀で陸地側から隔てられた宮殿の門は壮麗で、豪華な色とりどりの大理石製の外面をもつ宮殿は、後背の丘陵にあるユルドゥズ宮殿と連絡橋で繋がっていました。

同時代にあった他の宮殿のように、ボスポラス海峡を飾る史跡としてこのチュラーン宮殿も近代の多くの重要事件の証人となりました。宮殿を建てさせたスルタン・アブデュルアズィズ自身も退位後はここに幽閉され、幽閉中に自殺したとも暗殺されたとも言われています。

しばらくの間放置されていたチュラーン宮殿でしたが、1987年に日本の熊谷組が買い取り、大規模な改修が行なわれました。この改修工事で宮殿には新しい建物も付け加えられ、五つ星の高級ホテルに生まれ変わりました。宮殿の都心側にある重要な部分は、迎賓館として使用されています。

ルメリ・ヒサール観光

ルメリヒサール
ルメリ・ヒサール(Rumeli Hisarı)は、包囲中に黒海から来る援軍や援助を妨げる目的で、対岸に築かれていたアナドル・ヒサールに向かい合うように、ボスポラス海峡のヨーロッパ側に築かれた城塞です。この軍事施設は1452年に4ヵ月という驚くべき短期間で完成しました。

1453年にメフメト2世によって征服される以前にも、コンスタンティノポリスは何度も包囲に遭っていましたが、都市を取り囲むローマ時代の城壁のおかげで包囲は撃退することができました。長期間に及ぶ包囲の最中でも、必要物資は海路によって補給されていました。
この中世最大最強の城塞は、1453年の都市の陥落後間もなく戦略上の重要性を失っていきましたが、今では美しいオスマン朝の古典的な城塞建築として威厳をもってボスポラス海峡を飾ってくれています。1950年代に行われた修復の後は博物館として一般公開され、城塞の庭は夏の夜には屋外劇場としてコンサートや演劇に利用されています。

ボスポラス大学とルメリ・ヒサールの間の区域はアーシヤンと呼ばれており、ここにあるトルコの名高い詩人テヴフィク・フィクレトの家は博物館となり「アーシヤン博物館」と名付けられました。

 
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プリンスィズ諸島観光

プリンス諸島
プリンスィズ諸島(Prens Adaları)は、マルマラ海に浮かぶ大小9つの島々からなる島しょ群です。スィルケジの船着場から1時間ほどの距離にあります。ビザンツ時代は、島々にはいくつかの修道院があり、ある島は皇帝の避暑地として、またある島は流刑地として使われていたことでも知られています。
島々への蒸気船の就航により、19世紀半ばから人口の増加が始まりました。

プリンスィズ諸島の中でも大きい4つの島は都市に近接した美しい避暑地、ピクニック・コ-ス、海水浴場になっており5月から9月まで続くシーズン中は人々で賑わいます。島々に立ち寄りながら定期的に運行するフェリーにより都市との交通が確保されています。夏の間、特に週末になると個人のボートやヨットが島々を取り巻く天然の港に停泊しています。夏の別荘や人々に開放されたビーチ、ピクニック・コースで取り囲まれた島々には、自動車の乗入れが禁じられており、馬車が交通手段となっています。丘を森や公園が取り巻く島々では、住宅地はイスタンブールのアジア側に面する北の海岸にあります。
プリンスィズ諸島の中で2番目に大きな島「ヘイベリ・アダ(Heybeliada)」(トルコ語でアダは島の意味)には、海軍の学校の中庭にオスマン朝の征服直前のビザンツ最後の建物、聖母マリアに献納された小さな教会があります。また、いくつもの由来不明の遺跡が島々の様々な場所にあります。

ボスポラス海峡を出発した後、最初に見える島は、円錐形のシルエットをした無人の「スィヴリ・アダ(Sivriada)」です。隣の平たい島「ヤッス・アダ(Yassıada)」には、海軍の艦隊の施設がありますが、観光目的のための利用が計画されています。
人の住む最初の島は「クナル・アダ(Kınalıada)」で、裏手にある美しい入り江と海岸は一般に開放されたビーチです。海岸の面白い形の近代的なモスクが目にとまります。
次の「ブルガズ・アダ(Burgazada)」は、海岸のほとんどが岩場であり、水上スポーツクラブがあります。この島に暮らしたトルコの名高い小説家サイト・ファイク・アバスヤヌクの家は、博物館にされています。島の裏手にあるカルパザンカヤは最も有名な行楽地です。
「ヘイベリ・アダ」の船着場の広場の脇に、2つの丘に挟まれた海軍学校の施設があります。また、2つの美しい入り江はビーチとして整備されています。正教の教会の大きな建物は、かつてギリシャ正教の神学校として使われていました。ヘイベリ・アダの有名な散歩道はデイルメン公園で、1年中営業している2つのホテルのうちのひとつ「ハルキ・バラス・ホテル」は19世紀に建てられ、近年改修されて営業を再開しました。
この島とブルガズ・アダの間の小さな島は個人の所有地で、形から「カシュク・アダス(Kaşık Adası)」(=スプーン島)と呼ばれています。

「ビュユック・アダ(Büyükada)」は、プリンスィズ諸島の中で最も観光客の多く、最も有名な島で、週末やバカンスの時期になると大勢の人が日帰りの行楽、ピクニックや海水浴に詰めかけます。ここは最大の島であり、丘のある起伏に富む地形になっています。島の周囲を馬車で一周するツアーは約2時間を要します。手入れの行き届いた庭のある別荘の間を抜けて丘の上の森を通るコースの馬車ツアーはこの島の人気アクティビティです。
船着場の海岸には、魚料理のレストランとカフェが並んでおり、数少ないホテルとペンションもこの地域にあります。船着場の周辺の密集した住宅地とは対照的に、島の裏手は無人の海岸で岩場に取り囲まれています。これらの海岸は、ボートにとって格好の港でもあります。
小さな入り江には、ヘイベリ・アダ側の松の木に覆われたディルブルヌ半島と、すぐそばのヨリュクアリの2つのビーチがあります。

カドゥキョイ観光

ボスフォラス海峡クルーズ
マルマラ海のアジア側にあるカドゥキョイ(Kadıköy)地区は、最近20年の間イスタンブールで最も急速に発展した地区のひとつです。
ここにはかつて数多くの修道院があり、5世紀には何度かキリスト教の全治公会議が開かれた古代のカルケドンがあった場所でもありましたが、現在はこれといった歴史的建造物は残っていません。
カドゥキョイとウスキュダルの間の海岸に1906年プロイセンの建築様式で建てられた「ハイダルパシャ鉄道駅」は、かつてはバグダッド鉄道の始発駅でした。駅の近くの斜面には、クリミア戦争で戦没したイギリス兵とフランス兵の墓地があります。

海岸の近代的な港湾施設の背後にある二つの大きな建物のうち、時計塔のあるのがマルマラ大学、隣の四本の塔がある立派な建物は、19世紀前半に建てられたセリミエ兵舎です。クリミア戦争中に一部が病院として使用され、フローレンス・ナイチンゲールが看護婦としてここで奉仕していました。

フローレンス・ナイチンゲール博物館観光

セリミエ兵舎
誰もが耳にしたことがある“白衣の天使”ナイチンゲール。実はトルコに所縁があります。ナイチンゲールは、1853年にオスマン帝国トルコとロシアの間に起きたクリミア戦争の際に、イギリス軍の基地があったイスタンブールのアジア側スクタリ(現ウスキュダル)の陸軍野戦病院で看護婦として2年間奉仕していました。
ナイチンゲールが従事していたウスキュダルの陸軍野戦病院は「セリミエ兵舎(Selimiye Kışlası)」と言い、現在はトルコ第一国軍の兵舎となっています。建物の北西部分のナイチンゲールたちが寝泊まりしていた部屋は当時のまま保存されており、1954年より「フローレンス・ナイチンゲール博物館」として、当時の写真や手紙、メモなどが展示されています。

名称 フローレンス・ナイチンゲール博物館 (Florence Nightingale Müzesi)
住所 Selimiye Kışlası, Üsküdar / İstanbul,トルコ
営業時間 平日月曜~金曜
入場料 なし

フローレンス・ナイチンゲール|イスタンブールで活躍した白衣の天使

乙女の塔(クズ・クレスィ)

クズ・クレスィ
ボスポラス海峡入口のサラジャク岬の向いの小島に建てられた「乙女の塔(Kız Kulesi)」の名で知られる可愛らしい建物は、イスタンブールのシンボルのひとつでもあります。
~レアンドロスが恋人に会うため泳いでいるうち溺死した~という伝説は、ダーダネルス海峡で生まれたにもかかわらず西欧の文献が誤ってボスポラス海峡入口のこの塔を結び付けたことと言われています。

この塔は長年にわたって監視塔や燈台として使われてきました。海峡に入ってくる船の目印であるこの塔は、前世紀の姿のまま現在も残っています。

名称 乙女の塔(Kız Kulesi)
住所 Salacak Mahallesi Üsküdar Salacak Mevkii 34668 Üsküdar/İstanbul トルコ
営業時間 9:00~18:45(カフェテリア)、19:45からはレストラン、バーの営業

ウスキュダル観光

乙女の塔(Kız Kulesi)の対岸の地区は、古い歴史をもつ居住区ウスキュダル(Üsküdar)です。ヨーロッパとアジアの間の最短で最も容易な通行はここで行われてきました。
広場にある16世紀のモスクとアフメト3世の泉、海岸に建つミマール・スィナンが建てた「シェムスィー・パシャ・モスク(Şemsi Paşa Camii)」は、オスマン朝建築の素晴らしい作品です。

ウスキュダルの後背の丘陵には、歴史あるカラジャ・アフメト墓地が広がっています。さらに奥には、ビュユク・チャムルジャとキュチュク・チャムルジャの丘がそびえます。森に覆われた丘からは、プリンスィズ諸島、旧市街、ボスポラス海峡とボスポラス大橋が鳥瞰できます。街並みも夜景もイスタンブール一美しいとも言えます。ビュユク・チャムルジャの丘の上にはオスマン朝の伝統文化を今に伝える市営のカフェが営業しています。

ヒッポドローム観光(スルタン・アフメト広場)

ヒポドローム
7つの丘のある半島の第一の丘とそこから延びる一帯は、いつの時代もこの都市の最も重要で活動的な地区でした。ここは市内で最初に人が住み始めたアクロポリスがあった場所で、この城壁(今日のトプカプ宮殿の境界線)内の交易都市が、ローマ征服後の拡張で大都市へと発展したのです。
ローマ時代の重要な建物は全て、ヒッポドローム周辺に見られました。皇帝の「大宮殿」も、ヒッポドロームから海岸へかけての広大な土地に広がっていました。しかし、現在残っているのはモザイク博物館に見られる大広間の床のモザイクのパネルだけです。

市内の最も重要な広場「アウグスティオン」もここにありました。広場から「ミリアリウム」という凱旋門を抜けると、メインストリートの「メセー」が始まり、そこにローマヘの最初の里程標「ミリオン」も立っていました。ここから道は、一連の大きな広場を通って城壁の「黄金門」に達し、そこを起点に街道「ウィア・エグネティア」がローマヘと延びていました。

この広場は宮殿、神殿、浴場、ヒッポドロームを備え、都市の行政、宗教、社会、文化の中心として発展していきました。ビザンツ時代にもオスマン朝時代においても、この付近は都市の中心としてほぼ同じように重要であり続けていました。アヤソフィア、ブルーモスク、トルコ・イスラム美術博物館、地下宮殿といったイスタンブールの最も主要な史跡がここスルタン・アフメト広場に集中しています。

イスタンブール
「ヒッポドローム」(競馬競技場)は、ローマ皇帝セプティミウス・セウェルスが紀元後2世紀の末に建設し、コンスタンティヌス大帝が大規模に拡大したものです。縦500m横117mの巨大なU字型をしていて、3万人の観客が座れたとも、6万人が座れたとも言われています。北側には一般民衆の席とは別に、4頭の馬のブロンズ像を屋根に載せた、バルコニーのような皇帝の観覧席が設けられていました。そこは歩道で大宮殿とつながっていて、皇帝は催しのある日には民衆と直に接したのです。

ヒッポドロームの本来の出し物は、二頭立てか四頭立ての馬の引く戦車競技でした。戦車競技や剣奴の闘いの他、音楽家や軽業士や踊り子もここで芸を披露しました。ローマ時代やビザンツ時代のヒッポドロームは、集会、娯楽、スポーツのための都市の中心でした。
しかし10世紀まで重要性を保ったヒッポドロームも、他の多くの史跡と同じように、1204年のラテン人の侵攻期には荒廃してしまいました。
オスマン朝時代になると「アト・メイダヌ」の名で知られた広場となり、以前の時代と同じように、再び色鮮やかな祝祭や催しの舞台となりました。最も盛大なものは、スルタン・スレイマン上世の皇子たちムスタファ、メフメト、セリムの割礼祭と、1582年スルタン・ムラト3世が皇子メフメトのために行った割礼祭です。特に後者は55昼夜にもわたって続いたことで知られています。

現在、ヒッポドロームの地面は往時より4~5m高くなり、列柱や石材も後世別の建築に使われてしまいましたが、高いアーチの上の煉瓦造りの円形部分が南側に現存しています。
このほかにも、ヒッポドロームの入口右手の公園には4~5世紀の邸宅の遺構が、また公園中央付近にはビザンツ時代の教会「アヤ・エウフェミア」の遺構も見られます。広場の入口にある小さな「フィールーズ・アー・モスク」は、1491年に建てられたイスタンブール最古のモスクのひとつで、オスマン朝初期の様式でもあります。

エジプトのオベリスク

エジプトのオベリスク これはもともと紀元前1490年代にエジプトのファラオ、トゥトメス3世がメソポタミアでの戦勝を記念してルクソールのカルナク神殿の前に立てた一対のオベリスクのうちの一本であり、珍しいピンク色の花園岩でできています。
4世紀にとあるローマ皇帝が民衆を熱狂させようと何トンもあるこのオベリスクを運ばせましたが、数年間ヒッポドロームの片隅に放置されたままでした。結局390年テオドシウス1世の治世に市の行政官プロクルスによって困難の末に立てられましたが、長い間「魔力をもつ」記念碑だとして信じられてきました。

オベリスクは、レリーフで飾られたローマ時代の基壇の上に、4個のブロンズの台で支えられています。基壇には、皇帝テオドシウス1世と家族らが皇帝席から試合を観戦する姿、民衆、音楽家、踊り子の動き、戦車競技の模様が描かれています。
オベリスクの高さは、基壇も含めて25.6mあります。

石積みのオベリスク(コンスタンティヌス7世のオベリスク)

粗く削った石を積み重ねて造られたこの模造のオベリスクは、ヒッポドロームの南側にあります。皇帝コンスタンティノス7世・ポルフィロゲニートスによって944年に立てられたため、コンスタンティヌス7世のオベリスクとも呼ばれています。かつて四面を覆っていた青銅板は、第4回十字軍によって溶かされ、貨幣の鋳造に使われました。板の上には、コンスタンティノス7世の祖父の功業と戦勝が金文字で記されていました。
高さ32mの石柱の基壇の上の大理石の碑文には、「コンスタンティヌスが崩壊し始めていたこの記念碑を前より美しく作らせた」という一節がある。

蛇頭の柱

この高さ8mもある蛇頭の柱は、紀元前5世紀にペルシア軍を破った31のギリシャ都市国家が青銅製の戦利品を溶かしてつくった記念碑です。かつてはデルフォイのアポロン神殿にありましたが324年コンスタンティヌス大帝によって、ヒッポドロームの中央に立てられました。元は互いに絡み合う3匹の蛇の頭が金製の大釜の足となるような形をしていました。
1700年頃まで残っていた蛇の頭は後に行方不明となってしまいましたが、その後一部が発見され現在はイスタンブールの考古学博物館に収蔵されています。

ドイツの泉

ヒッポドロームの入口にある八角形のドーム付きの泉は、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世により寄贈されたもので、1901年除幕式が行われました。ネオ・ビザンツ様式のこの泉のドームの内側は、金のモザイクで飾られています。

トルコ・イスラム美術博物館観光

この博物館は、スルタン・アフメト広場(ヒッポドローム)の西側に位置する16世紀の建物イブラヒム・パシャの邸宅内にあります。この史跡は、スルタンの宮殿以外では現存する最古の個人の邸宅でもあります。
アーチの上のテラスを三方から囲む邸宅の中央は中庭となっています。入口を通って中庭から階段を上った最初のセクションと次のセクションの小部屋と回廊には、イスラム諸王朝のもとでつくられた貴重な作品が展示されています。石や素焼粘土の製品、金属器、陶器、ガラス製品、写本は、各時代の最も芸術的価値のある作品です。

絨毯のセクションは世界最大のコレクションとなっており、13世紀のセルジューク時代の絨毯をはじめ珍しい作品が細心の注意を払って展示されています。13~20世紀の有名な手織りトルコ絨毯の最も華麗な作品もここで見ることができます。またこのセクションの階下は、最近のトルコ人の日常生活や日用品を展示する民俗学セクションとなっています。

名称 トルコ・イスラム美術博物館(Türk ve İslam Eserleri Müzesi)
住所 Binbirdirek Mh. Atmeydanı Sk. No: 12 - Sultanahmet/İstanbul トルコ
営業時間 9:00~18:00(夏季)、9:00~17:00(冬期)※最終入館は1時間前まで
定休日 月曜日
入場料 42TL(約630円)

絨毯・キリム博物館観光

絨毯・キリム博物館
「絨毯・キリム博物館(Halı Müzesi)」は、アヤソフィア横のイマーレット(救貧施設)を使用した博物館となっています。この博物館には14~20世紀のトルコ絨毯の傑作品が展示されています。コレクションの絨毯とキリムの断片は必要な手入れを受けて保存され、近代的な方法で展示されています。

トルコの宗教寄進財産庁は膨大な古い絨毯とキリム(毛足のない絨毯)を所有していますが、展示されているのはコレクションのうちのほんの一部です。

トルコの手織り絨毯

手で結び目(ダブルノット)を作って織られるトルコ絨毯は昔からトルコ民族特有の手工芸として発展していました。現在も伝統的な絨毯生産はトルコ各地で行われています。各地の純毛、ウールと綿の混毛、絹糸で織られる絨毯はとても豊かで多様な製品を生み出しています。
熟練、伝統、高品質の原材料、特殊な技術、忍耐、そして数カ月以上も統く労働が、トルコ手織り絨毯の誇りでもあります。村の家々の織り機の他、いくつかの工場での手織り絨毯生産は国家も援助する一大産業にもなっています。

手織りの絹絨毯の生産地で最も有名なのが、イスタンブールに近い場所にある小さな町「ヘレケ(Hereke)」です。ヘレケの他、コンヤ、カイセリの絨毯は、世界市場で大変需要の多い製品になっています。

因みに、世界最初且つ内容豊かな二つの絨毯博物館はいずれもイスタンブールにあります。

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モザイク博物館観光

大宮殿モザイク博物館観
「モザイク博物館(Büyük Mozaik Müzesi)」は、ブルーモスクの裏にあるアラスタバザール(Arasta Bazaar)の中、古い宮殿の遺跡の上に位置しています。このバザールの下端で、4世紀と6世紀のものと推定される宮殿のモザイクが1930年代に発見されました。発掘されたモザイクは宮殿の大広間の床を飾っていたことが知られています。
モザイクはパネルの形で、様々な狩猟の場面や日常生活を描き、効果的な装飾要素を持つ優れた芸術作品となっています。ねじれたアカンサス(ハアザミ)の葉に包まれたつぼみやメドゥーサの頭部、そしてトラ狩りの場面が絵描かれたモザイクは際だって美しい作品です。ローマ時代の「アンティオキア・モザイク」の芸術解釈と様式により作られたこれらのモザイクは、美術史上極めて写実的な絵画が登場したと言えます。

かつての宮殿のモザイクがこの場所で発見されたおかげで、市内の他の場所で見つかったモザイク作品も、コンクリート・パネルの中に保存されここに移して展示されることとなりました。
長年に渡った市場の改修が完了した結果、モザイク博物館は近年再び一般公開されました。

名称 モザイク博物館(Büyük Mozaik Müzesi)
住所 Arasta Çarşisi (Bazaar), Sultanahmet Mahallesi, 34122 Fatih/İstanbul トルコ
営業時間 9:00~19:00(夏季)、9:00~17:00(冬季)
定休日 月曜日、宗教的な祝日
入場料 30TL(約450円)

コンスタンティヌスの円柱(チェンベルリタシュ)

「コンスタンティヌスの円柱(チェンベルリタシュ)」は、市内の第二の丘にあった楕円形の広場の中心に330年、ローマ帝国の新首都としてコンスタンティノポリスを建設したコンスタンティヌス大帝を顕彰するために建てられた記念碑です。
当初は現在よりもっと高く、頂上には金箔に覆われ太陽神アポロンの姿をしたコンスタンティヌス大帝の像が立っていました。
チェンベルリタシュ(Çemberlitas)は、「輪のある石柱」を意味し、また「ヤヌク・ストゥン」(=燃えた円柱)の名でも知られています。柱は時代と共にひび割れ、火災にあった花肖岩の本体のブロックは補強のため鉄の輪が巻き付けられています。
上部の白大理石の柱頭は12世紀に置かれ、下部に見られる石積みの補強は18世紀になって築かれたものです。初期キリスト教時代に遡る聖遺物が、円柱の下の小部屋に保存されていると信じられています。

円柱の脇を通る大通りは、コンスタンティヌス大帝の時代から変化していません。“コンスタンティヌス広場”の名で知られた楕円形の広場は、二列の円柱の並ぶ柱廊で取り巻かれていました。

バイェズィト広場観光(フォールム・タウリー)

バイェズィト広場は、393年テオドシウス帝の治世に市内最大の広場として建設されました。広場の中央には巨大な凱旋門が建っていて、そこにあった牛の頭のブロンズ像から「牛の広場(フォールム・タウリー)」とも呼ばれていました。凱旋門には皇帝のブロンズ像もありました。
現在は、わずかに記念碑の大理石の断片がいくつか残るばかりで、ウァレンス水道橋から水を引いていた広場の北の市内最大の泉は跡形も残っていません。

スルタン・メフメト2世がここに建てた旧宮殿のあった敷地には、イスタンブール大学の本部の建物が、広大な庭の中に建っています。大学正門と、庭に立つ市内最高の塔「バイェズィト火見塔」は、19世紀に建てられたもので、バイェズィト・モスクと複合建築(学院と公衆浴場)は、広場周辺の主要な史跡です。

カーリエ観光(コーラ修道院)

「カーリエ博物館(Kariye Müzesi)」は、イスタンブール旧市街にある博物館です。元はキリストに捧げられた聖堂で、「コーラ修道院」と呼ばれていました。「コーラ」とはギリシャ語で「町の外、郊外の地」を意味します。おそらく5世紀のローマ城壁建設以前にあった小さな教会に付けられた名が、後に同じ場所に建てられた教会の名前にもなったのではないかと考えられています。
コーラ修道院とその教会は、皇帝の宮殿が近くに移ったため次第に重要性を増していきました。現在の建物は、11~14世紀に遡ります。当時の名高い学者で国家の要人でもあった「テオドロス・メトヒテス」によって、1320年に脇礼拝堂と外前廊とモザイクとフレスコが完成されました。建物の魅力的な外観に加えて、内部のモザイクとフレスコは、ビザンツ美術の「ルネサンス」に数えうる傑作です。
名工たちは14世紀の困難な状況のもとで、細心の注意を払ってか豊かに建物を装飾したのです。16世紀の初めに教会がモスクに転用されたのち漆喰で覆われモザイクとフレスコは、1948年以降、アメリカ・ビザンツ研究所によって修復されました。

カーリイェ博物館
入口の二つの前廊に見られるモザイクのパネルは、聖母マリアとイエスの生涯を新約聖書にある通り年代順に描かれています。
脇の礼拝堂には宗教的テーマがフレスコで描かれていますが、教会や宮廷の要人の肖像がそれに混ざってあります。ビザンツ絵画においては、描かれた人物の名前か頭文字が人物像の脇に記されています。

職人の集団作業によって作られたモザイクのパネルですが、その中の身廊上部のモザイクは残念ながら現在は残されていません。
画廊のようなカーリエ博物館の周辺は、近年この史跡の名声にふさわしく整備され、古い家々は修復後カフェやペンションなどに改装されました。

※カーリエ博物館は2020年にモスクに回帰しました。

名称 カーリエ博物館(Kariye Müzesi)
住所 Dervişali Kariye Cami Sk No18 34087 Fatih/İstanbul トルコ
営業時間 9:00~19:00
定休日 なし
入場料 無料

イスタンブール城壁観光

イスタンブールの旧市街は三角形の半島の上に広がり、三方から城壁で取り囲まれていました。現在見られる城壁は主にローマ時代のもので、かつての長さは22kmにも及びました。
ビュザンティオンの都市建設以後、都市は4度にわたり拡張しその度に城壁はより西側に築かれていきました。ビュザンティオンのアクロポリスを取り囲んで築かれた第一の城壁「ビュザンティオンの城壁」、ローマ帝国の皇帝セプティミウス・セウェルスによって3世紀初頭に築かれた第二の城壁「セウェルスの城壁」、コンスタンティヌス大帝によって320年に築かれた第三の城壁「コンスタンティヌスの城壁」がありましたが、残念ながらこれら城壁の跡は現在はほとんど残っていません。

金角湾とマルマラ海の海岸も強固な城壁に取り囲まれていました。城壁の中でも最も重要なのが、西にある内陸側の大城壁です。地理的な立地条件が旧市街の半島を容易に防衛することを可能にし、バルカン半島から延びる起伏の少なく通行の容易な土地は大城壁にまで達していました。マルマラ海から金角湾に延びる城壁の長さは6492mもあり、3回にわたって建設されましたが、その大部分は5世紀のテオドシウス2世によるものでした。また、城壁にはビザンツ時代後期やオスマン朝時代の城壁の修復工事について多くの碑文が刻まれていました。

大城壁には10個の門があり、都市の外とは木造の橋で繋がっていました。数ある門の中で最も壮麗なのはマルマラ海に近い「黄金の門(Altınkapı)」です。外に突き出た二本の大理石の塔の間に、戦勝碑のように据えられた黄金の門は、凱旋した軍隊と皇帝が使った特別の入口でした。
この門は、大城壁が築かれる以前から城壁の外に単独に建設された凱旋門であった旨を記している文献が残されています。

近年、城壁の周りの土地は清掃され公園が沢山作られました。地震や歳月により崩壊してしまった部分の壁は修復が行われ現在に至っています。

イェディクレ観光

イェディクレ
「イェディクレ(Yedikule)」とは、トルコ語で「7つの塔」を意味する要塞です。コンスタンティノポリス征服直後のメフメト2世が、城壁の黄金の門の両脇の4つの塔に新たに3つの塔を加えて7つの塔を持つ城塞としました。これによって、オスマン朝の都市計画の中に内城の概念が生み出されたのです。
イェディクレは当初、財宝の保管のために使用されていました。その後は長い間、監獄として使用され多くの大使たちがここに投獄されました。17世紀前半には、スルタン・オスマン2世がここで絞首刑に処されました。
今では、イェディクレの中庭にはモスクの遺構が残るだけとなっています。
現在は、黄金の門と塔が見学できる博物館となっています。

テュネル(地下鉄)とベイオール観光

新市街側、金角湾の海岸から丘の上のベイオール地区に達するテュネル(Tünel)とは、ガラタ橋近くのカラキョイ駅とイスティクラール通り南端のテュネル広場のベイオール駅を結ぶ地下鉄です。テュネルは1874年に開通したヨーロッパ最初の3本の地下鉄のひとつで、世界最短の地下鉄でもあります。テュネルは地下鉄ですが、地下ケーブルカーという特殊な方式で運行しています。

テュネルの上の端近くには、現在はディーヴァーン(古典詩)文学博物館となっている「ガラタ・メヴレヴィーハーネスィ(メヴレヴィー教団の修行所)」があります。ここには大変興味深い楽器が展示されています。

テュネルの上側の入口から始まるベイオール(Beyoğlu)地区には、タクスィム広場まで「イスティクラール通り(İstiklal Caddesi)」が貫いています。この地区は16世紀以降に大使館が建てられ、非イスラム教徒が居住する区域として発展していきました。
イスティクラール通りはイスタンブールの目抜き通りでもあり、通りには様々なお店が並んでいます。ショッピングだけでなく、劇場や映画館、華やかなナイトライフを楽しむクラブなどもあり、活気ある娯楽と文化の中心でもあります。
また、イスティクラール通りにはテュネル広場からタクシム広場までを繋ぐレトロなトラム(路面電車)が走っていますが、このトラムを除いて車両の通行は禁止されているので、歩行者天国になっています。
通りの中程には、ガラタサライ広場と同じ名前の有名なガラタサライ・リセ(高校)があり、向かいの「チチェキ・パサージュ」の名で知られる建物には、小さなレストランとビアホールが軒を連ねています。その脇の通りには、色とりどりの豊富な野菜、果物、魚を売るお店が立ち並ぶ、イスタンブールの有名な魚市場があります。
通りに沿って、ボスポラス海峡を見下ろす景色のよい斜面に並んだカトリック教会は現在も活動を続けています。

タクスィム

タクスィム広場観光

タクスィム広場(Taksim Meydanı)はイスティクラール通りの起点となる広場で、中央のアタテュルク像、北側のアタテュルク文化センター、周辺の五つ星のホテルにより、モダンなイスタンブールの中心地となっています。トラムやメトロの駅もあるので、いつも多くの人で賑わっています。
広場からシシリ地区に続くジュムフリイェト通りには、旅行代理店と航空会社が並びます。ラジオ局、将校クラブや軍事博物館を過ぎると、ブティックや靴屋などがある、活気ある高級ショッピング・センターもあります。

軍事博物館観光

新市街のハルビイェ地区にある世界第二の大きさの「軍事博物館(Askeri Müzesi)」は、新しく改装されて1993年2月10日に一般公開されました。1万9000㎡もある敷地には、約5万点にも上る収蔵品のうち約9000点が22の展示室に展示されています。作品は、オスマン朝のスルタン、弓矢、馬具、利器(初期イスラム時代、イラン、トルコ、ヨーロッパの剣)、防具(鎧、兜、盾)、火器、立憲政期、第一次大戦期、独立戦争期、共和国期、民具、天幕、軍旗、軍服等、それぞれ各セクションに分かれています。展示品の中で最も重要なのが、コソヴォの戦いで用いられた軍旗、スルタン・オルハンの兜、17世紀のスルタンの天幕、ビザンツ人たちが金角湾に張った鎖、メフメト2世とセリム1世の剣になります。

軍楽隊(メフテル)

メフテル
オスマン朝の軍楽隊のことをトルコ語で「メフテル(Mehter)」と言います。軍楽隊は何百名もの人員を擁し、遠征に向かう軍隊の先頭で独特の歩き方で行進をしていました。また、戦闘や包囲の最中では軍を鼓舞するために独特な曲を演奏していました。
現在、軍事博物館では毎日15:00~16:00の間に軍楽隊(メフテル)によるコンサートが開催されており、本物の世界最古の軍楽による昔の楽器での演奏を楽しむことができます。

※軍楽隊のコンサートは毎日開催予定ですが行われない日もあります。また、海外公演時などはほとんどコンサートが行われない月もあるので、ウェブサイトなどで事前の確認をおすすめします。

名称 軍事博物館(Askeri Müzesi)
住所 Halaskargazi, Vali Konağı Cd. No:2, 34367 Şişli/İstanbul トルコ
営業時間 9:00~16:30
定休日 月・火曜日
入場料 10TL(約150円)
ウェブサイト https://askerimuze.msb.gov.tr/

世界遺産だけじゃない!イスタンブールの楽しみ方

ハマムでトルコの風呂文化を堪能する

ハマムはトルコ独特の蒸し風呂で歴史深い公衆浴場です。ハマムでは先ず、蒸気100%の室内で大理石に寝そべって体を温めます。日本の岩盤浴をイメージするといいでしょう。
現在ではハマムの文化は廃れてきており、トルコの家庭では現代的な普通のお風呂が完備されているのが一般的となっていますが、イスタンブールには観光客向けのハマムも複数あります。
古来から受け継がれるハマムで旅の疲れを癒すのもおすすめですよ。

チェンベルリタシュ・ハマム

ハマム
イスタンブールの中心、グランドバザールのすぐ近くにある老舗のハマムです。有名建築家ミマール・スィナンが手がけており、建物を見るだけでも楽しめます。

名称 チェンベルリタシュ・ハマム (Cemberlitas Hamami )
住所 Vezirban Cad. No.8, Cemberlitas, Istanbul
営業時間 6:00~24:00
定休日 なし
公式サイト http://www.cemberlitashamami.com

トルコの風呂事情とは?旅行者に人気のハマム入浴方法&おすすめグッズ | トルコ旅行専門の人気ナンバーワン旅行会社『ターキッシュエア&トラベル』

人懐っこい猫と触れ合う

トルコ猫
トルコは猫の楽園です。トルコ人はみんな猫が大好き。特にイスタンブールでは猫と人々が絶妙に共生しており、路地裏だけでなく、民家やレストラン、モスクなどあらゆるところで猫を目にすることができます。

歩道の段差に肘を掛けるふてぶてしい姿で話題になった猫「トンベリ」や、アヤソフィアにすみついた「グリ」など、アイドル的な人気を持つ猫もいるのです。イスタンブールに行ったら、可愛いらしい猫たちと是非触れ合ってみてください。

トルコ猫に会いにトルコ旅行に行こう!ターキッシュアンゴラとヴァン猫の特徴を徹底解説 | トルコ旅行専門の人気ナンバーワン旅行会社『ターキッシュエア&トラベル』

世界三大料理トルコ料理に舌鼓を打つ

トルコ料理
トルコ料理は、フランス料理・中華料理と並ぶ世界三大料理の一つです。トルコ料理は、ケバブ、キョフテ、ドルマ、フムス、マントゥなど種類も豊富で、エスニックでスパイシーな料理が多いですが、どれも日本人の口にも合う味付けになっています。また、日本でも知名度の高い伸びるトルコアイス“ドンドゥルマ”やバクラヴァ、ロクムなど、スイーツも豊富です。

世界三大料理は、なぜフランス料理・中華料理・トルコ料理なの?歴史と特徴を解説 | トルコ旅行専門の人気ナンバーワン旅行会社『ターキッシュエア&トラベル』

トルコ料理の中でも最も有名なのが「ケバブ」ですが、ケバブとは肉や魚、野菜などをローストして調理する料理の総称で、トルコには○○ケバブと言った多くの種類のケバブ料理があります。日本でもよく見る、ブロック状のお肉を垂直の串に刺し回転させながら縦型グリルで焼くケバブは「ドネルケバブ(Döner kebab)」(ドネル=回転の意味)と言い、イスタンブールの街中でも多く見かけるトルコ定番のファーストフードです。日本ではソースをかけることが多いですがトルコではソースをかけません。お肉にしっかりと下味が付いているのでソースが無くても絶品です。

そして、イスタンブールを訪れたら是非味わって頂きたいのがイスタンブールの名物グルメ“サバサンド”。ガラタ橋のたもとにあるサバサンドで有名な屋台舟「Derya Balık Ekmek」は、地元の人々や観光客にも大変人気でいつも賑わっています。

イスタンブールの名物グルメ「サバサンド」 | トルコ旅行専門の人気ナンバーワン旅行会社『ターキッシュエア&トラベル』

トルコ料理おすすめランキングBEST20!ケバブだけじゃない絶品グルメを紹介 | トルコ旅行専門の人気ナンバーワン旅行会社『ターキッシュエア&トラベル』

イスタンブールのカフェ

イスタンブールには、昔ながらの伝統的なチャイハネからカフェオレなどが飲めるモダンなカフェなど色々な種類のカフェがあります。因みに「チャイハネ」とは、近所の人たちが集まっておしゃべりを楽しむトルコ風喫茶店で、チャイ(紅茶)やトルココーヒーを楽しむことができます。
トルココーヒーはトルコ独自のコーヒーで、細かく挽いたコーヒー豆と砂糖を一緒に煮出すのが特徴です。飲み方も独特で、注がれたトルココーヒーはすぐに飲まずコーヒーの粉が沈殿するのを待ってから上澄みのみを飲みます。沈殿した粉は飲まずに残します。トルココーヒーは苦いので、砂糖入りがおすすめ。砂糖の量はお好みで調整できます。飲み終わったトルココーヒーの沈殿した粉を利用した“トルココーヒー占い”というのもあり、トルコの女子に大人気です。

そして、水タバコ(シーシャ)が吸える「水タバコカフェ」も多くあります。トルコ語では水タバコのことを「Nargile(ナルギレ)」と言い、古くからトルコの人々に親しまれています。
水タバコとは、フレーバーと呼ばれる香り付けされたタバコの葉に炭を乗せるなどして熱し、出た煙を専用の器具を使って水の上のフィルターに通して吸う独特な喫煙スタイルです。水タバコを吸いながらチャイやトルココーヒーを楽しむことも出来ます。
因みに、日本でよく耳にする水タバコ=「シーシャ」はエジプトを始めとした北アフリカで呼ばれている名称です。

 
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イスタンブールでおすすめのお土産

ロクム(ターキッシュディライト)

「ロクム(lokum)」はトルコの伝統的なお菓子のひとつで、日本では英語の「ターキッシュディライト(Turkish delight)」という名前でも知られています。砂糖とデンプンを混ぜナッツ類を加えた甘いお菓子で、とても弾力があり、日本のゆべしや求肥(ぎゅうひ)などに似ています。

ロクムの紹介ビデオ(1分36秒)


チョコレートをかけたものやフレーバー付きなど味や種類も様々なので、選ぶだけで楽しくなってしまうはず。特に、エミノニュ地区に店を構えている老舗の「ハジュベキル(Hacibekir)」は種類がとても豊富で、箱や缶の大きさも選べるのでお土産に最適です。ぜひ覗いてみてください。

トルコランプ

トルコランプ
「トルコランプ」は、一度見れば忘れられない繊細な色彩を持つ、トルコならではの工芸品です。その美しさは、職人が手作業で作ったモザイクガラスによって生まれます。散らばる光の加減や多彩な色合いにより、異国情緒を存分に感じることができる見事な芸術品とも言えます。電球ではなく、キャンドルを灯して使う「モザイクキャンドル」もあり、こちらも観光客には人気のお土産となっています。

卓上タイプや天井から吊るすタイプなど、様々な種類のトルコランプを取り扱っているお店があります。特にグランドバザールにある「レガロス (Regalos)」は世界中から注文を受ける有名店ですので、見逃さないようにしてください。

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キリム

キリム
「キリム」は、毛足のない平織りのラグ(小さめの敷物)のことを言います。古くからトルコをはじめとした西アジアで暮らす遊牧民によって作られてきましたが、今では民芸品としても広く知られています。自然を象徴した特徴的な幾何学模様が、他にはない独特の魅力を放つアイテムです。

伝統的な嫁入り道具のひとつでもあるキリムの模様には、母から娘へと代々伝えられる特別な意味が込められています。数百年前に伝統的な製法で作られた歴史的価値があるキリムも存在しています。サイズは小さいものから大きいものまで幅広くあり、クッションカバーやスリッパの生地としても使われていますので、是非お気に入りの一品を見つけてみてください。

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ナザールボンジュウ

ナザールボンジュウ 「ナザールボンジュウ」とは、目玉の形をしたガラス製のトルコのお守りです。トルコの家庭では魔除けとして玄関の上に飾られることもあります。他人からの嫉妬や羨望の眼差し、すなわち「邪視」から身を守ってくれると言われ、目玉が割れた時は「自分が受けるはずだった邪視を代わりに受けてくれた」と考えられているのです。

ナザールボンジュウはストラップやキーホルダーなどの小型のものから、壁に掛けられる大型のものまで様々な種類があります。トルコ国内のお土産店では必ずといっていいほど取り扱われており、種類が豊富なことや、小さいものは値段も手頃なことから友達や同僚へのお土産として最適です。珍しさもあるので喜ばれること間違いなしです。

タイルや食器

トルコではタイルや絵皿、マグカップなどの陶器製品も有名です。なかでも代表的なのが「キュタフヤ陶器」と「イズニックタイル」です。

「キュタフヤ陶器」は、トルコ最古の都市のひとつ「キュタフヤ(Kutahya)」という町で作られる陶器です。キュタフヤは陶器を作るための良質な土が取れる場所に近いこともあって、現在のトルコ最大の陶器産地でもあります。カラフルな色彩と繊細な花のモチーフなどが丁寧に手書きされ、小さな点々の盛り上がりが可愛らしいお皿やボウルはお土産にぴったりです。

そして「イズニックタイル」は、トルコのブルサ県にある「イズニック(Iznik)」という町が発祥の世界最古の手工芸のひとつでトルコ伝承のタイル装飾です。独自な技法で粘土を形成し、職人がひとつひとつ丁寧に色を入れ繊細な幾何学模様や花柄模様を描いています。その歴史は千年以上と言われており、美しいタイルは宮殿の装飾にも多く使われています。見ているだけでも充分楽しめますが、「イズニック陶器」として食器類も作られているのでお土産にもおすすめです。



トルコのタイルや食器は人気のお土産!歴史や特徴、製法を徹底解説 | トルコ旅行専門の人気ナンバーワン旅行会社『ターキッシュエア&トラベル』

イスタンブールでおすすめのアクティビティ

ボスポラス海峡クルーズ

ボスフォラス海峡クルーズ
アジアとヨーロッパを隔てる全長30kmにもおよぶボスポラス海峡。その沿岸にはオスマン朝時代の華麗な宮殿やモスク、要塞など歴史ある建造物が建ち並びます。ボスポラス海峡はカーブするごとに新たな美しい景色が目の前に現れ、他に例のない海峡です。これらを含めイスタンブールをも眺めることが出来るのは『ボスポラス海峡クルーズ』しかありません。
ボスポラス海峡クルーズを楽しむには、エミノニュの船着場から定期的に運行するフェリー、または、ホテルやツアー会社が保有するクルーズ船があります。

ボスポラス海峡クルーズは、エミノニュ桟橋を出発すると黒海に向かって海峡を進みます。この時、右がアジア側、左側がヨーロッパ側となります。
出発して間もなく、ヨーロッパ側に建つ「ドルマバフチェ宮殿」に接近すると、背後の丘の上に建つ五つ星ホテルも目に留まります。その先の「チュラーン宮殿」を過ぎると、二つの大陸を結んでいる全長1510mの第一ボスポラス大橋(7月15日殉教者の橋)が。この橋のヨーロッパ側のたもとにある「オルタキョイ・モスク」とアジア側のたもとにある「ベイレルベイ宮殿」に囲まれた風景の中で新旧の名所を同時に見ることができます。
緑に囲まれた丘のある両岸には、古い木造のヤル(トルコの伝統的な別荘)や近代的な住宅が混ざって建ち並びます。

第一ボスポラス大橋を後にしてアジア側に見える二本の塔があるクリーム色をした横長の建物は、有名な19世紀の建築「クレリ陸軍高校」、対岸のベベク(Bebek)地区には、沿岸ギリギリの場所に優美な外観の「エジプト領事館」が建っています。ベベクの入り江は、天然のヨット・ハーバーにもなっています。「ベベク・モスク」は、20世紀初頭のオスマン朝建築に古典期の建築要素を復活させた小さな作品です。
さらに進んだ先にある第二ボスポラス大橋のたもとにはふたつの要塞、ヨーロッパ側に「ルメリ・ヒサール」、アジア側に「アナドル・ヒサール」がそびえ建ちます。
この辺りで船は引き返し再度第一ボスポラス大橋を過ぎると、ボスポラス海峡のマルマラ海の入口、アジア側ウスキュダルの沖合に浮かぶ石造りの塔「クズ塔(乙女の塔)」が見えます。
そして、出発地点のエミノニュ桟橋に戻ってボスポラス海峡クルーズは終了となります。

ボスポラス海峡クルーズは基本的に、往路はヨーロッパ側、復路はアジア側に沿って進み、第二ボスポラス大橋あたりでUターンするというルートがほとんどです。進行方向の左側の席を確保するとより景色が楽しめます。船の形状にもよりますが、天気の良い日は眺めのいい2階のデッキに出るのもおすすめです。船の中には売店もあるので、チャイを飲みながらのんびりクルーズを楽しむ事もできます。波は外海と比べると穏やかですよ。

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ベリーダンス

ベリーダンス
トルコ旅行に来たら“本場のベリーダンスも観たい!”と思う人も多いです。ベリーダンスは中東やアラブ世界で伝承されてきた世界最古の踊りと言われ、ベリーダンスショーはオスマン帝国時代から続くエンターテインメントとして人気を集めています。因みにトルコでは「オリエンタルダンス(Oryantal dansı)」とも呼ばれています。
イスタンブールにも食事をしながら本場のベリーダンスを気軽に楽しめる人気のナイトスポットもあります。是非足を運んでイスタンブールの夜を彩ってみてはいかがですか?

スルタナス

タクスィム広場から徒歩10分足らずの場所にあり、トップダンサーが出演する有名店です。ベリーダンスや民族ダンスを楽しみながらトルコ料理を味わうことができます。

名称 スルタナス(Sultana's)
住所 İnönü, Cumhuriyet Cd. No:40, 34373 Şişli/Istanbul トルコ
営業時間 19:30~23:00
定休日 なし

ボスポラス海峡・ナイトクルーズ

ナイトクルーズ
ボスポラス海峡クルーズとダンスショーを組み合わせた「ボスポラス・ナイトクルーズ」はイスタンブールならでは。食事を楽しみながらダンスショーを観て、ライトアップされた美しい宮殿や橋を水上から眺める、何とも言えない贅沢なひと時です。

ナイトクルーズは基本的に20時半頃に出航します。出航後は、宮殿やオルタキョイをゆっくり眺めてからショーがスタートします。ショーはベリーダンスだけでなく、各地域の民族舞踊や旋舞セマーが次々と披露されます。休憩タイムもあるので、ライトアップされたルメリ・ヒサールなどを望むこともできます。最後はお客さんも舞台に上がり、盛り上がって舞台が終了します。所要時間3時間ほどの楽しいクルーズです。

イスタンブールにしかない“ボスポラス・ナイトクルーズ”、是非とも体験していただきたいアクティビティのひとつです。

無形文化遺産|旋舞「セマー」

セマー
セマーとは、イスラム神秘主義の一派「メヴレヴィー教団」が行う、音楽に合わせてくるくると回転して踊る神秘的な儀式です。回転は宇宙の運行を表し、回転することで神との一体を図っています。セマーの踊り手セマーゼンが身に着ける衣装は特徴的で、帽子は墓石、ジャケットは墓、スカートは葬式用の覆いの象徴です。ジャケットを脱ぐ行為は地上の束縛からの解放、墓からの脱出を示しています。そして、右腕を上(天)に、左腕を下(地)に向けるのは、神からの恵みを人々に振りまくことを意味しています。このメヴレヴィー教団の旋舞「セマー」は2008年にユネスコ無形文化遺産に登録されました。

メヴレヴィー教団の中心地はトルコの中央アナトリア地方にある“コンヤ”ですが、セマー儀式はイスタンブールでも鑑賞することができます。イスタンブールでセマーを鑑賞する場合、シルケジ駅かホジャパシャ文化センターのどちらかが便利です。
「シルケジ駅」では、夜間に駅の待合室でメヴラーナ教団の信者によるセマーが週に何度か行われており、チケットは待合室前で販売しています。
「ホジャパシャ文化センター」では毎日ではなく、日曜・火曜・木曜・土曜に行われており、事前の予約をおすすめします。(※予告なく変更する場合もあり)

ミステリアスな旋回の舞いが、会場全体を別世界へと誘うこと間違いなしです。あくまでもセマーは儀式なので厳かな雰囲気の中での観賞となります。800年の歴史と伝統を持つセマー、トルコを訪れた際は是非ご覧になってみてはいかがですか?

サッカー

スュペル・リグ
トルコはサッカーの人気が非常に高く、国内にはプロサッカーリーグもあります。トルコサッカー連盟が1959年から主催している「スュペル・リグ(Süper Lig)」が国内最上位リーグで、1962年より欧州サッカー連盟(UEFA)に加盟をしています。スュペル・リグには18クラブが所属しており、その中にはイスタンブールを本拠地としているクラブが3つもあり、国内リーグのビッグ3とも言われています。

イスタンブールを本拠地とし、トルコ1番の強豪チームが「ガラタサライSK」。2018年~2020年まで長友佑都選手がいたことでも有名なチームです。このガラタサライSKは、2000年のUEFAカップで対アーセナルFC、UEFAスーパーカップでは対マドリードCFを破って優勝しました。ホームスタジアム「テュルク・テレコム・アリーナ(Türk Telekom Arena)」は、ヨーロッパ側の新市街側、最寄り駅はメトロ2号線「Seyrantepe(セイランテペ)」駅にあります。

次いでが「フェネルバフチェSK」、アジア側カドキョイ地区にホームスタジアム「シュクリュ・サラジオウル・スタジアム(Şükrü Saracoğlu Stadyumu)」があります。2006年~2008年には、元日本代表監督のジーコ氏が監督を務めていました。
そしてビッグ3最後は「ベシクタシュJK」。香川真司選手が2019年1月31日より3か月の期限付き移籍で所属したことでも知られています。クラブ名はホームスタジアム「ボーダフォン・アリーナ(Vodafone Arena)」がある新市街側のベシクタシュ区の地名に由来しています。

このように、トルコを代表するビッグチーム3強がイスタンブールには集結しています。歴史的建造物などを見るだけでなく、地元の熱狂的サポーター達と試合観戦をするのもまた思い出に残る過ごし方ですね。

ゴルフ

ゴルフ
「トルコでゴルフ?!」と思われる方も多いと思いますが、もちろんトルコでゴルフをプレイすることもできます。ゴルフ場の多くは地中海沿いのリゾート地「アンタルヤ」にありますが、イスタンブールにもゴルフ場はあります。イスタンブール市内には「Istanbul Golf Club(イスタンブールゴルフクラブ)」があり、ハーフコースですが100年以上の歴史がある由緒あるコースです。

地中海ってどんな場所?絶景リゾートからグルメまで解説します! | トルコ旅行専門の人気ナンバーワン旅行会社『ターキッシュエア&トラベル』

イスタンブール郊外に行くとさらに2つのゴルフ場があります。
1つ目が「Kemer Golf and Country Club(ケメルゴルフクラブ)」。イスタンブール市内から車で40分ほどの場所にあります。
そして2つ目が「Klassis Golf and Country Club(クラシスゴルフクラブ)」。イスタンブール市内から、車で1時間半ほどの場所にあり、リゾートホテルが一体となっています。EPGA(ヨーロピアンPGA)にも登録されている由緒あるコースです。
トルコ旅行でゴルフをプレイする方は少ないと思いますが、人と違った過ごし方をするのも新鮮かもしれませんね。

イスタンブールのイベント情報

トルコ全国ほとんどの都市で国内フェスティバルが、イスタンブールをはじめアンカラやイズミール、アンタルヤなどの大都市では国際的な文化芸術祭が開催されます。その中でもフェスティバルが最も多く開催されるのがイスタンブールです。そんなイスタンブールで開催されるフェスティバルの中でも代表的なものを2つご紹介します。

チューリップフェスティバル

イスタンブールチューリップフェスティバル チューリップはトルコ原産の花だということはご存知でしょうか?そして、実はトルコの国花もチューリップなのです。広大なトルコでも日本同様に四季があり、春になると色鮮やかな花々が街を彩ります。

イスタンブールでも毎年4月になると、「チューリップフェスティバル(İstanbul Lale Festivali)」が開催されます。チューリップフェスティバルは、早咲きと遅咲きのチューリップを組み合わせて約1か月間10か所以上の大きな公園がメイン会場となり、人々に春の訪れを伝えています。
中でも一番の見どころが、スルタンアフメット広場(アヤソフィア前)にて、何十万本のチューリップで表現する世界で一番大きな「チューリップの絨毯」です。描かれる絨毯のモチーフは毎年変わり、2019年で5回目となりもはや恒例となっています。
チューリップの絨毯以外にも、チューリップ公園とも呼ばれる「エミルギャン公園(Emirgan Park)」では、広大な公園に190種類280万本ものチューリップが植えられ、見たこともないような珍しい色や特徴的なチューリップを楽しむことができます。

チューリップフェスティバルが開催されている会場以外にも、イスタンブールの公園や広場、道路沿いなどにも沢山のチューリップが植えられているので街中を歩いているだけで春を楽しめます。
是非、カラフルで華やかなイスタンブールの春を旅してみてはいかがですか?

ジャズフェスティバル

イスタンブールジャズフェスティバル
イスタンブールでは毎年7月上旬頃になると、「イスタンブールジャズフェスティバル(İstanbul Caz Festivali)」が開催されます。イスタンブール映画祭など様々な文化的事業を古くから手がけているイスタンブール文化芸術基金(IKSV)が主催しており、毎年世界中の有名なアーティストが参加しています。過去には坂本龍一が参加したこともありました。歴史都市イスタンブールを生かしたライブ会場も特徴的で、イスタンブール考古学博物館の中庭やその他博物館の中、宮殿や領事館など、オスマン帝国時代から残る建物をリノベーションしたところでのライブも多くあります。

イスタンブール出身者には、アトランティックレコードの創設者“アフメット・エルテギュン”や伝説のプロデューサー“アリフ・マルディン”、有名シンバルメーカー・ジルジャンの創設者“アベディス”など名だたる面々がおり、イスタンブールは世界中のミュージシャンたちに愛されてきた古都でもあります。
夏の夜を彩るジャズフェスティバル、夏のトルコを訪れた際には是非参加してみてはいかがですか?

イスタンブールの治安

イスタンブール 観光
外務省による危険情報にて、トルコのほとんどの地域は治安警戒レベルが最低ですが、イスタンブールについては「レベル1:十分注意してください」という案内になっています。これは、2016年にテロが発生したことを受けたものですが、現在では安定しておりテロに対する警備も非常に厳重になりました。
2021年3月現在、トルコ国内でテロに巻き込まれた日本人は存在しませんのでご安心ください。

トルコは世界中から旅行客が集まる世界屈指の観光大国です。トルコの2019年度の国際観光客数は、中国・イタリアに次いで6位の約5,250万人、日本からの観光客数は約10万人(前年比125%増)となっています。
観光サービス業が主要産業であるトルコは非常に観光しやすい国と言え、特に日本とは歴史的な関係の深い親日国であるため、日本人観光客を歓迎してくれる傾向にあるのが特徴です。

とはいえ、他諸外国同様に日本と比べればスリや置き引きといった被害にあう可能性はあるため、「貴重品は肌身離さず持ち歩く」「夜は人通りの少ない場所に行かない」といった海外旅行における基本的な対策は心がけましょう。

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イスタンブールの天気・気温

イスタンブール
イスタンブールの平均気温は13.6℃です。気候は東京と似ており1年中観光を楽しめます。冬でも雪はあまり降りません。ベストシーズンは4月か10~11月。この時期は暑すぎず寒すぎず、ちょうど良い気温で晴天も多いため観光に最適です。4月はトルコ原産の花、チューリップが咲き乱れる美しい光景も楽しめます。


1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月
6℃ 6℃ 7℃ 11℃ 16℃ 20℃ 23℃ 23℃ 20℃ 16℃ 12℃ 8℃


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イスタンブールの空港は2つ

イスタンブール空港
イスタンブールには、「イスタンブール空港(IST)」と「サビハ・ギョクチェン国際空港(SAW)」の2つの空港があります。これまでメインとして利用されていたアタテュルク国際空港(ISL)は閉鎖され、2018年10月29日より新空港としてイスタンブール空港の運用が開始されました(2019年4月7日より全面オープン)。

日本からの直行便が発着するのはイスタンブール空港です。日本~トルコの直行便を唯一運航しているターキッシュエアラインズは、羽田空港、成田空港、の2空港で就航しています。(関西空港からの運航も再開予定)ターキッシュエアラインは、ANA(全日空)とのコードシェア便が用意されているのが魅力です。

イスタンブール在住の日本人スタッフが語る成田発トルコ航空を満喫するヒント!座席、機内食、機内エンターテインメント、アメニティなど乗る前に知っておきたいことや評判を紹介します。

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イスタンブール空港から市内へのアクセス方法

イスタンブール空港は、市内中心部から35kmの場所に位置しています。2021年3月現在、地下鉄はまだ完成していないので、市内へのアクセスはバスかタクシーです。
バスは、空港バス(Havaist)か路線バス(IETT)のいずれかを利用します。

Havaistを利用する場合は、新市街のタクシム広場に向かうタクシム路線か、旧市街に向かうスルタンアフメト・エミノニュ路線を使うのがいいでしょう。いずれも運賃は18TL(約270円)、所要時間は1時間半ほどです。
イスタンブールからカッパドキアに向かう場合は、ペンディック方面のバスに乗り、サビハ・ギョクチェン空港に行きましょう。

タクシーを利用する場合は、専用のタクシー乗り場から登録済みのタクシーに乗ると安心です。

イスタンブール交通ガイド

イスタンブールの街はとても大きいですが、主な観光スポットは中心部に集中しています。そのため、トラムやメトロなどを使えば自由に移動することができます。イスタンブールを自由自在に回るならば公共交通機関は欠かせません。そこで、イスタンブール市内の公共交通機関を利用するにあたって乗り物やチケットの種類について解説します。

交通機関の種類

三方を海に囲まれ起伏の大きいイスタンブールには、短い区間のみを運行するレトロなトラムや、山道を上るケーブルカー、アジア側とヨーロッパ側を結ぶフェリーなど多彩な乗り物があります。これらの乗り物の種類を知っておくと効率良く移動するのはもちろん、乗り物によっては乗車自体を楽しむというのも可能になります。是非参考にして下さい。

メトロ(Metro)地下鉄

メトロ
2021年4月現在、M1、M2、M3、M4、M5、M6、M7の7路線が開通しており、その他4路線が建設中。メトロの駅は「M」のロゴマークが目印。
運行は6時~24時の間、4~10分間隔、週末や祝日のみ一部メトロで24時間運行。

トラムヴァイ(Tramvay)路面電車

主に旧市街の主要観光地を結び、旧市街⇔新市街の移動にも便利。特に、旧市街の「バージュラル(Bağcılar)」と新市街の「カバタシュ(Kabataş)」を結ぶT1号線は観光に大活躍する路線。
運行は6時~24時の間、5~10分間隔。

ノスタルジックトラムヴァイ

新市街の「イスティクラール通り」を走る1990年に復活した旧式タイプの路面電車と、2003年にアジア側の「カドゥキョイ(Kadıköy)」に復元された観光用の旧型の路面電車の2つがある。

テュネル(Tunel)

テュネル
ガラタ橋の新市街近く「カラキョイ(Karaköy)」駅と、イスティクラール通りの南端「ベイオール(Beyoğlu)」駅を結ぶ地下ケーブルカー。1区間だけの運行で所要時間は約2分。
運行は7時~22時45分の間(日曜は7時30分~)、5~7分間隔。

フニキュレル(Funikuler)地下ケーブル

新市街のフェリーターミナルがある「カバタシュ(Kabataş)」と「タクスィム広場」を約1分で結ぶ地下ケーブル。旧市街からのトラムと新市街からのメトロを乗り継げるので利用価値は高い。
運行は6時~23時52分の間、5~10分間隔。

マルマライ(Marmaray)近郊列車

ボスポラス海峡横断トンネルを通ってヨーロッパ側とアジア側を結ぶ近郊路線。アジア側との行き来に便利。

市内バス(Otobus)

イスタンブール全域を網羅する地元人々の足。路線が複雑なので、慣れない旅行者が乗りこなすのは難しい。

メトロビュス(Metrobus)

メトロビュス
トラキヤ高速道路中央の専用レーンを走る高速バス。信号はなく、1~2分間隔で運行。
旧市街郊外の「ベイリックドゥズ(Beylikduzu)」から第一ボスポラス大橋(7月15日殉教者の橋)を超え、アジア側の「ソウトルチェシメ(Sogutlucesme)」まで運行。

ワプル(Vapur)大型連絡船

ワプル
ボスポラス海峡を渡ってヨーロッパ側とアジア側を行き来出来るので気軽にクルーズ気分も味わえる。旧市街の「エミノニュ(Eminönü)」をはじめ、新市街側の「ベシクタシュ(Beşiktaş)」、「カバタシュ(Kabataş)」、アジア側の「ユスキュダル(Üsküdar)」、「カドゥキョイ(Kadıköy)」などから運航。

チケットの種類

イスタンブールには様々な乗り物がありますが、それに対して使えるチケットは3種類あります。使うチケットによって同じ乗り物に乗っても料金が異なるので、お得に利用するにはチケットの種類を知っておくのもイスタンブールの街を観光するのに重要なポイントです。

イスタンブールカード(Istanbulkart)

イスタンブールカード
SUICAやPASMOの様なチャージ式カード。使い方も同じで、改札の読み取り部にカードを当てます。購入料として6TLが必要ですが、イスタンブールカード用に料金が低く設定されているのでとてもお得です。特に、長期滞在する場合には重宝します。複数人での利用もできるので人数分購入する必要がないのも魅力です。
チャージは、トラムやメトロの駅、バスターミナルに設置されている券売機で可能です。券売機のモニターの言語を日本語に切り替えることも可能なので簡単にチャージが出来ます。チャージの際は紙幣のみで硬貨は使えません。お釣りが出ないので、大きい額の紙幣を投入するとそのままの金額がチャージされるのでご注意ください。

■イスタンブールカードの基本情報
料金(購入時) 6TL
乗車料金(1回あたり) 基本2,6TL(※一部路線を除く)
利用可能な交通機関
・メトロ
・トラムヴァイ
・ノスタルジックトラムヴァイ
・テュネル
・フニキュレル
・マルマライ
・市内バス
・メトロビュス
・ワプル(大型の船)
購入場所
・各トラム駅の券売機
・駅周辺の売店
・空港地下のハワイスト乗り場の券売機など

回数券(Sinirli Kullanimli Kart)

回数券
使い捨てプリペイドカード。チャージは出来ませんが、回数券としてイスタンブールカードと同じように交通機関で使えます。バスなどは区間によって2枚以上必要な路線もあります。

■回数券の基本情報
料金(購入時)
・1回券: 5TL
・2回券: 8TL
・3回券: 11TL
・5回券: 17TL
・10回券: 32TL
乗車料金(1回あたり) 回数券1回分
利用可能な交通機関
・メトロ
・トラムヴァイ
・ノスタルジックトラムヴァイ
・テュネル
・フニキュレル
・マルマライ
・市内バス
・メトロビュス
・ワプル(大型の船)
購入場所
・各トラム駅の券売機
・駅周辺の売店など

ジェトン(Jeton)

コインの形をしたチケットで1回の使い切り。日本でいう切符になります。乗車可能な交通機関も限られます。交通機関によってジェトンの大きさが異なるので買い置きの際は注意が必要です。

■ジェトンの基本情報
料金(購入時) 5TL
乗車料金(1回あたり) ジェトン1枚
利用可能な交通機関
・メトロ
・トラムヴァイ
・フニキュレル
・ワプル(大型の船)
・市内バス
購入場所
・各トラム駅の「Jetonmatic」と書かれた券売機
・駅周辺の売店など

イスタンブールのおすすめホテル

ヒルトン イスタンブール ボスポラス(Hilton Istanbul Bosphorus)

ヒルトンイスタンブール
イスタンブール新市街の中心に位置しており、タクシム広場より徒歩10分というアクセスの良さが魅力です。日本人に合わせたきめ細かいサービスが用意されており、客室もスイート並みの豪華さです。

インターコンチネンタル イスタンブール(InterContinental Istanbul)

イスタンブール インターコンチネンタルホテル
イスタンブール新市街の中心、絶好のロケーションにある5つ星ホテルです。すべての客室の豪華な家具が置かれ、日本語案内、24時間オープンのフィットネスクラブなどサービスも充実しています。ラグジュアリーな滞在がしたい方におすすめです。

スイスホテル ザ ボスポラス イスタンブール(Swissotel the Bosphorus Istanbul)

スイスホテル イスタンブール
ボスポラス海峡のほとりに位置する豪華なホテル。7つのタワーで構成される現代建築のホテルで、大きな窓と鮮やかな外観が魅力です。世界クラスのショッピングエリアや主要観光スポットへのアクセスも良好です。

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イスタンブール観光を満喫するならツアーがおすすめ!

イスタンブールは見どころ満載の観光都市です。観光スポットは比較的コンパクトにまとまっていますが、限られた時間で効率的に回るならツアー利用がおすすめです。トルコは広大な国土に観光名所が点在しているため、旅行をするならツアーが一般的なのです。

トルコ旅行のプロ、ターキッシュエア&トラベルのツアープランは、全観光・全食事付きで、日本語ガイドと日本人ツアーデスクのダブルサポートで安心です。

イスタンブール&カッパドキアを巡るトルコ5日間ツアー一覧 | トルコ旅行専門の人気ナンバーワン旅行会社『ターキッシュエア&トラベル』

イスタンブールの歴史

当時最も有名だったデルフォイのアポロン神殿の神託は、ビザスに「盲人の国の向いに住め」と告げます。お告げのとおりの土地を長い間求め続けたビザスとその一行たちは今のイスタンブールの半島に辿り着くや、周囲の豊かさと天然の良港「金角湾」の無限の可能性に目を奪われました。その一方で、海峡の対岸に住みついている人々に出くわします。これほど可能性に満ちた理想の土地があるのに対岸に住みつくのはきっと「盲人」であるからに違いないと考え、ビザスとその一行はついに神託で告げられた土地に辿り着いたと信じ、移民都市を創建しました。最初に知られている都市の名称「ビュザンティオン」は、このビザスの名前が元になっています。

旧市街では古い出土品が発見されていないものの、金角湾の奥やアジア側のフィキルテペでは紀元前3000年にさかのぼる出土品が発掘されています。そのため、最初に人が住みついたのは、金角湾を上った場所のキャートハネやアリベイキョィの周辺が妥当なところと考えられています。考古学的出土品や歴史資料によれば、ビザスの植民団がアクロポリス(城丘)に定住する前に、ここにトラキア起源の「リュゴス」という植民市が存在していたことも明らかになっています。
「ビュザンティオン」と呼ばれたこの都市は創建以来、大国に服従することもあれば自治を行うこともありました。現在トプカプ宮殿がある場所がこの都市の“アクロポリス”でした。

金角湾の入口には今もなお使われている穏やかな港を持っており、ここから始まる堅固な城壁が都市を取り囲みマルマラ海にまで達していました。
紀元後2世紀になると、ビュザンティオンは戦略的拠点にある裕福な都市として注目を集めていました。周囲の豊かな土地と漁業、それに海峡を通る船から徴収される通航料と関税が、都市の主要な収入源でした。
ビュザンティオンは、海港都市、商業都市としてローマ帝国期にも命脈を保っていましたが、紀元後191年に始まる皇帝位を巡る紛争で敗者の側に付いたために、2年を越える包囲の後にローマ皇帝セプティミウス・セウェルスによって征服されあとかたもなく破壊されてしまいました。しかし後に、同じ皇帝によって都市は再建、拡張されて、さらには新しい城壁と建物が築かれたのでした。

紀元後4世紀にローマ帝国は膨張して、首都ローマはもはや帝国の中心に位置するわけではなくなっていきました。コンスタンティヌス大帝は新たな首都を捜し求めるうちに、ビュザンティオンの戦略的位置と理想的な気候、それに海上、陸上の交通路の交わる場所であることを重視し、ここに遷都することに決定します。5年以上かけて新たに築かれた城壁により都市は再び拡張され、多くの神殿、官公庁、宮殿、浴場、そして新しいヒッポドローム(競馬競技場)が建設されました。そして紀元330年に都市は盛大な式典によって正式にローマ帝国の首都と宣言されたのでした。
黄金時代が始まったこの都市は、「第二のローマ」や「新ローマ」とも呼ばれていましたが、これらはすぐに忘れられ「ビュザンティオン」の名が再び使われるようになりました。

さらに後になると、コンスタンティヌス大帝の名にちなんだ「コンスタンティノポリス」の名が一般的になりますが、民衆の間では単なる「ポリス」(=都市の意味)で通っていました。この単語から生まれた「都市へ」を意味する中世ギリシャ語の「イスティンボリン(is tin ˈpolin)」が「イスタンブール」の名の起源となり、オスマン朝時代以降はこの名称が一般的に使われるようになりました。

コンスタンティヌス大帝の跡を継いだ皇帝たちは、新しい街路や商業区域、水道橋や記念碑を作ることによって都市を発展させる努力を続けていきました。最初に建てられた教会は、コンスタンティヌス大帝より後の時代に完成した初代の「アヤソフィヤ」と「聖使徒教会」です。

395年に二つに分裂したローマ帝国の西半分は5世紀の末に崩壊しましたが、「東ローマ帝国」は首都コンスタンティノポリスの支配のもとで1000年以上も存在し続けました。現代の歴史家たちは、この帝国を「ビザンツ帝国」と名付けました。アナトリアの古代文明の影響を受けつつ、オリエント諸国やローマから採用された儀礼と法律に則って、さらにはキリスト教の影響による諸原理によって発展した「ビザンツ帝国」の歴史は非常に興味深くダイナミックです。

トルコ・イスタンブール
コンスタンティノポリスの市域は5世紀前半に築かれた城壁によって最終的な拡張が行われました。現在にも見られる陸地側の壮大な城壁は皇帝テオドシウス2世によって築かれたものです。
6世紀に入って人口が50万人を越えたこの都市は、ユスティニアヌス帝の続治下でもう一度黄金時代を迎えます。アヤソフィアの大聖堂はこの皇帝が建立したものです。
ビザンツ帝国とコンスタンティノポリスのその後の歴史は、アラブ、トルコ、ヨーロッパの諸民族の侵略と、頻繁に代わった皇帝の家系の血みどろの抗争に満ちています。

中世の最も豊かな文化と通商の中心として知られたこの都市は、陸と海から様々な民族により絶えず目標とされていました。大城壁、金角湾の入口に張られた鎖、ビザンツ人だけが製法の秘密を知っていた水中でも燃えるギリシャ火、そして陰謀に満ちたビザンツの外交術が、常に都市を攻撃から救ってきました。

11世紀から12世紀のコムネノス家の支配した輝かしい時代では、コンスタンティノポリスは三度目の繁栄と発展の時期を迎えます。1071年に東アナトリアから進出したトルコ系セルジューク帝国の勢力が短期間でアナトリアヘの定着に成功すると、ビザンツ帝国は彼らと境を接するようになっていきました。

コンスタンティノポリスの歴史の中で暗黒時代にあたる「ラテン人の侵略」は、1204年第4回十字軍の侵略によって始まりました。全ての教会、修道院そして記念碑に至るまで、都市は長年にわたって略奪にさらされてきました。1261年にビザンツ人たちによって都市を奪回しますが、コンスタンティノポリスはかつての繁栄を再び取り戻すことはありませんでした。周囲では拡大しつつあったオスマン朝の脅威が次第に増大し、53日間にわたる包囲の結果、1453年にコンスタンティノポリスはついにオスマン軍の手に陥落しビザンツ帝国は滅亡してしまいました。
コンスタンティノポリスの城壁が打ち破られた理由に、ファーティフ(征服者)・スルタン・メフメト2世が戦争史上初めて用いた大口径の巨砲がありました。そして、征服を可能にしたもう一つの理由に、ビザンツ帝国が衰退しもはや寿命に達していたこともありました。

「ビザンツ(ビザンチン)帝国」の基礎知識!千年の繁栄と歩みを徹底解説! | トルコ旅行専門の人気ナンバーワン旅行会社『ターキッシュエア&トラベル』

弱冠21才のメフメト2世はオスマン朝の都をここに移し、国土の様々な地方から移住させた移民によって人口を増加させ荒廃した都市の再建に着手しました。元々いた住民に対しては、信仰の自由と社会的な権利を認め生活を保障しました。キリスト教東方正教会の総主教座が今日までここに存在しているのは、この時メフメト2世が与えた権利に基づくものであります。市内の多くの教会はアヤソフィアをはじめモスクに転用され、荒廃したまま放置されるのを免れました。

トルコ・イスタンブール イスタンブールはオスマン朝の手にわたってまたたく間に発展し新たな繁栄を迎えていきました。征服後一世紀にはトルコ・イスラム美術の刻印が都市に施され、ドームとミナレットがイスタンブールのシルエットを支配するようになっていきました。16世紀初頭以降オスマン朝のスルタンが聖地メッカの保護者となりイスタンブールは全イスラム世界の中心にもなりました。イスタンブールは、カーヌーニー(立法者)・スルタン・スレイマン1世の治世に最も輝かしい時代を迎え、建築家ミマール・スィナンによる傑作が次々と建設されていきました。

オスマン朝時代のイスタンブールでは450年以上戦争がありませんでしたが、度重なる火災は何度も広い範囲を焼き尽くしていました。しかしイスタンブールは、装いを新たにしながら発展を続けていきました。かつてのアクロポリスに建てられたスルタンの宮殿は、ボスポラス海峡と金角湾の景色を望んでいました。

19世紀以降になると、モスクや宮殿はヨーロッパ風の建築スタイルで、ボスポラス海峡沿いに建てられるようになりました。短い間に建設された多くの宮殿は、オスマン帝国の衰退の象徴でもあります。イスタンブールは第一次世界大戦の後、またひとつ世界帝国の滅亡を目撃することになります。オスマン帝国は分割され、内外の敵が自分たちの分け前をめぐって争っている最中、一人の司令官もまたトルコ民族のための闘争に立ち上がったのです。ムスタファ・ケマルの指揮のもとトルコの軍と民族は4年にわたる独立戦争の後、1923年にトルコ共和国を樹立しました。アジア最初の共和国の大統領となったムスタファ・ケマル・アタテュルクは、国家を近代文明へと向かわせていきました。スルタンと家族は国外に追放され、ラテン・アルファベットが採用され、トルコ帽やベールが禁止されました。

新しい共和国の首都はアンカラになったものの、イスタンブールは今もなお現代トルコ最大の都市であり、魅力的な美しさと活気ある生活様式を保っています。

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オスマン帝国

トルコ民族の故地は中央アジアにあります。何世紀にもわたり大集団で移住したり、アジアの様々な地域、さらには中央ヨーロッパにまでも軍事遠征を行ったりしていました。6世紀の半ばには、これらのトルコ系遊牧民は定住して国家を建設し始めました。
そのうち最も重要なのが、13世紀に小アジアに生まれた指導者オスマンが治める小さな君侯国でした。これが600年間にわたって続いた強大なオスマン帝国へと発展したのです。オスマン人たちは征服地では少数者でしたが、効率的な組織と卓越した行政能力のおかげでこれらの土地をうまく統治していました。彼らは臣民たち(ユダヤ教徒、キリスト教徒、イスラム教徒)に 人種、民族、宗教、文化に関わりなく、安全で平和な生活を保障しました。

スレイマン1世の治世(1520-1566年)は帝国の黄金時代でした。ほぼ200年にわたってオスマン帝国は、東はイラクから西はアルジェリア、南はイエメンから北はウクライナ、ハンガリーに至るまでヨーロッパ、アジア、アフリカにまたがる国土を支配したのです。
19世紀末差し掛かると、オスマン帝国支配下の様々な民族が諸外国の勢力に扇動され反乱を始め、帝国の内部構造は弱体化していきます。
そして、第一次世界大戦はオスマン帝国と同盟国の崩壊をもたらした最後の一撃となってしまいました。

帝国の領土は戦勝国に分割されたが、ケマル・アタテュルクは独立戦争でトルコ民族を勝利に導き、1923年オスマン帝国の跡地にトルコ共和国を樹立したのです。

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