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トルコの人気世界遺産

イスタンブール歴史地域(文化遺産・1985年)


1985年に世界遺産に登録されたイスタンブールが世界有数のコスモポリタンとしてこれ程までに拡大した最大の要因は、その地理的条件にあるといえる。北緯48度、東経28度、世界て唯一アジアとヨーロッパの二大陸に跨がって位置し、ヨーロッパ側イスターブールは7kmにわたる金角湾を境に、南側に歴史の中心舞台であり続けた小半島のある旧市街、北側には新市街と二分できる。ビジネスの中心が置かれるヨーロッパ側に対し、アジア側には宅地が多い。

イスタンブールをヨーロッパとアジアに分けるボスフォラス海峡は、同時に黒海とマルマラ海を結び、この立地条件をして古い時代から常に要地として注目され続けた。欧亜両大陸支配の野望に燃える多くの民族や国家は、その為には兎も角、まずはイスタンブールを征服する必要に迫られた。

今日も尚、バルカン、中近東諸国、中央アジアのトルコ系共和国にとってイスタンブールは政治、経済の要として重要な役割を担い続けている。
 
初代設立者の名に因んで〈ビザンス〉と呼ばれた町は、ローマ皇帝コンスタンチヌスの都市造り以降、"コンスタンチヌスの都" を意味する〈コンスタンチノープル〉、オスマン民族によって征服された後は〈イスタンブール〉と改名されて、現在は7,50kmの面積を有するヨーロッパでも最大の、そして最も人口の多い都市の一つにあげられている。



トルコ観光・ツアーと言うとまず頭に浮かぶのはイスタンブール観光。。。もしかしたらイスタンブールと言うとエキゾチックな町って言うイメージしか浮かばないのでは?

トルコのツアーをお考えの皆様、まずは右側の2分間のイスタンブール散歩のビデオをご覧
ください。 → → →


地方から新天地を求めて流入してくる人々により毎年50万人の割合で人口増加を続けており、1,200万~1,500万人の人口を抱えて都市は東西に拡大を続けている。年間人口増加率を5%とすると約12年で元の数の二倍に達する事になり、全トルコで5人に1人はイスタンブールに住んでいる計算となる。
 
イスタンブールを訪れる年間1000万人の旅行者は都市の歴史と景観の美しさを堪能してゆく。東西の、ヨーロッパとアジアの、そしてキリスト教とイスラム教の出会うイスタンブールは、異なった文化と宗教が互いを圧する事なく混在し続けてきた場所といえ、豊かな遺跡や文化財を抱えるという意味に於いてはローマと比較されることが多い。

ローマ、ビザンチン、そしてオスマン各帝国の首都として重要な役割を演じ続けたイスタンブールには、支配者達が時代の最も高名な専門家に依頼した傑作品といわれる建築物が多く存在する。ボスフォラス海峡、金角湾、周囲の島々の織り成す自然美、穏やかな気候、昼と夜との全く異なる顔と賑やかなナイトライフ、種類豊富で美味しいトルコ料理等に加えて、何よりも人懐っこくて親切な国民性は外国人旅行者を魅了してやまない要素である。この美しい神秘の古都をよく知るには、少なくとも10日を裂く必要があろう。


イスタンブールの歴史
 
イスタンブール周辺に於ける最初の集落跡はアジア側にみられ、出土品からして新石器時代に遡ると推定される一方、ヨーロッパ側はトプカプ宮殿辺りでは青銅器時代に住まいが構えられ始めたと推測されている。
紀元前680年頃、ドーリア人から逃れたメガラ人はアジア側にカルケドンの町を建設し、紀元前660年になるとビザスに率いられたメガラの移民達は、カルケドンの対岸、現在の主要観光スポットが集中するヨーロッパ側はサライブルヌに集落を形成した。
理想的な地の利と商取引にはぴったりの自然港の存在で、ビザスの町ビザンスは短期間のうちに財力をつけて目覚ましい成長を遂げた。
紀元前513年、町はペルシアに、続いて紀元前407年にはアテネの、その二年後にはスパルタの監督下に敷かれたのである。

都の平和は、紀元前146年、ローマとの間に交わした文書、所謂今でいう安全保障条約により保たれていた。西暦196年、ローマ皇帝セプティミス・セヴェルスは都市をローマ帝国の領土に組み入れた。

330年、コンスタンチヌス大帝は都の名をコンスタンチノープルと改め、同年5月11日、ここをローマ帝国第二の都と宣言して、周囲を頑強な城壁で防御した。
敬虔な信者である母親の影響を強く受けた同皇帝の努力で瞬く間にキリスト教が浸透し、391年には国教に制定されている。395年、テオドシウスⅠ世の死をきっかけにローマ帝国は東西に分断し、コンスタンチノープルは東口ーマ、即ちビザンチン帝国の首都とされ、5世紀初期には今なお威風堂々と姿を留める城壁が建築された。

イスタンブール
476年、西口ーマ帝国は滅亡したが東口ーマの勢力に衰えはみられず、ユスチニアヌス帝の支配下で帝国は黄金期を迎えたのである。666年から870年までに都市は八度にわたるアラブの包囲をうけて陥落の危機に瀕した。カトリックとギリシア正教間の不協和音は日をおって大きくなり、とうとう1054年に完全に袂を違えるとコンスタンチノープルはギリシア正教の総本山として揺るぎない地位を得た。

1096年、第一次十字軍は何の被害も与えず都市を通過しており、この頃ガラタ地区にはジュノア人やヴェニス人が商業区を開設している。1204年、第四次十字軍が都市を占領してラテン帝国を建国した為に東口ーマ帝国は一時断絶したが、1261年になってパレオロゴス族が都を奪回して帝国は再興した。一方、オスマン民族が都を包囲し始めたのは14世紀末あたりのことである。

1390年にべヤズィットⅠ世に、1422年にはムラトⅡ世によって追い込まれた東口ーマは、終に1453年、メフメットⅡ世率いるオスマン軍によって完全に征服され、その名もイスタンブールと改名されたのである。オスマン民族にとってはブルサ、エディルネに次ぐ第三の都となり、1517年にエジプトを征服してカリフの座を奪ってからは全イスラム国家の中心地として宗教活動の要ともなった。

オスマン帝国の勢力に陰りがみえはじめた18世紀まで、各地に美しいモスクや宮殿が建設されたが、しかし残念なことに地震や火災で被害を被ったものも少なくはない。また、19世紀、西洋化に伴って、それまでの典型的オスマン建築からバロック、ロココ調への移行もみられている。第一次世界大戦で帝国は同盟国側について大敗に大敗を重ね、1919年3月15日夜、イスタンブールには連合軍が進駐してきた。

亡国の危機を救国戦争の勝利によって切り抜けると、スルタン制とカリフ制は廃止されて共和国の宣言がなされた。1923年10月13日、アンカラに新首都が設置された後もイスタンブールはトルコ経済の中心として成長し続けている。

イスタンブール サライブルヌ

サライブルヌ
 
最も重要な観光スポットが集中しているのがサライブルヌとスルタンアフメット広場である。ローマ、ビザンチン、オスマン帝国の各時代で都市の中心はいつの時も皇帝の宮殿が設けられこの一帯におかれ、その為に都市最大のモスクや最も麗美な寺院、博物館もこの地に多い。

イスタンブールは七つの高台の上にたつが、うちの二つがサライブルヌの近郊にあり、トプカプ宮殿とスルタンアフメット・モスク(ブルーモスク)はこの丘の上に位置している。また、
ビザンチン、オスマン帝国時代を通じて都の心臓部として機能してきた競技場ヒポドロムもこの広場にある。重要史跡のほとんどがサライブルヌとスルタンアフメット広場にあってそれぞれ近いうえ、他にもトルコ・イスラム芸術博物館、モザイク博物館など興味深い場所へも数分の為、観光客は必ず立ち寄るポイントである。

展示品などの一点一点を鑑賞するにはここだけに数日を裂く必要があるが、トルコ旅行観光省公認ガイドの案内によるツアー参加なら、時間的に制約のある旅行者も時を有効に使い、かつ正しい知識が得られることから最良の策といえるだろう。

アヤソフィア
 
360年、ビザンチン皇帝コンスタンチヌスは今日のアヤソフィアの場所に'大寺院'を意味する'メガロ・エックレスィア'を建設させた。404年6月20日の大火で全焼したその木造の寺院の跡に404年から416年、建築家ルッフィノスによって更に大きく頑丈な寺院が建てられ、416年10月10日に人々の参拝を受けるに至った。

現在もアヤソフィアの入り口左手にて、階段、羊の浮き彫りが施された正面壁の装飾などを目にすることのできるこの二番目の寺院はビザンチン皇帝テオドシウスの出資によって造られたものであったが532年1月13日から14日に勃発したニカ(勝利)の乱の際、反皇帝勢力によって修復不可能なまでに破壊されてしまった。乱の終結後、玉座についたたユスチニアヌスは532年から537年に寺院を再建させたが、これが現在我々の前に威容を誇るアヤソフィアである。

当時のアナトリア(小アジア)で最も有名なトラレス(現アイドゥン)出身の学者アンテミオスとミレトス出身のイシドロスの二人は、寺院建設の為の任命を受けると四ケ月のうちに建物の図面を完成させ、こうして532年2月23日に着工されたこの大事業は、ときに五年と10ケ月という短期間で完成をみたのである。

アヤソフィア
537年のクリスマスに一般に公開された寺院は、その巨大さと華麗さをしてソロモンがエルサレムに建設した神殿を凌駕するもので、完成式典で感極まった皇帝は「おお、ソロモンよ。余はそなたを超えたり。」と叫んだとされている。木材は全く使用されず、完成までには、延べ100人の監督と10,000人の土木工や大工が汗を流したといわれている。

用いられた大理石は、アナトリアはもとより地中海諸国からイスタンブールに搬入され、例えば、本堂にみられる四つずつの緑色をした花崗岩などはエフェスは'港の体育館'から、コーナーに二本ずつ使用された紅色の柱は現レバノンはバールベックのアポロ神殿より運ばせている。巨大なドームを軽量に仕上げる為に煉瓦は特別にロードス島で焼かせ、建物に用いられた計107本の円柱のうち40本が本堂に、67本が上段のギャラリーにて利用された。

建造には約7,500万$の資金が投入されたと推測されている。726年に始まった偶像破壊期に、都市の他の教会とともにアヤソフィアの宗教シーンや聖人を表現したモザイクは壊され、簡素な十字架などがこれらにとってかわった。843年に破壊期が終わると、主に皇帝の意向による宗教シーンをテーマにしたモザイクで天井や壁が美しく飾られた。

1204年、ここにラテン帝国が建設された際、アヤソフィアの財宝は第三次十字軍によって略奪され、金色の地の上に表現されたモザイク画の多くはダメージを受けた。コンスタンチノープルをオスマン・トルコ民族が征服してイスタンブールと改名すると、1453年6月3日、聖なる金曜の大礼拝を初めてアヤソフィアで捧げたオスマンの征服王スルタン・アフメットは、ここをモスクに変換させる為の命を下した。これにより先ずはメッカの方向にミヒラブ、モスクの後角には煉瓦のミナレット(尖塔)、内庭、150人が学べる神学校などが増築され、偶像崇拝が禁じられるイスラム教の教えに従ってモザイクは薄い漆喰で塗り固められた。

はずされた壁の十字架に代わって高名な書道家のアラビア文字によるモハメッドの言行が掲げられ、こうしてかつての教会はあまり大きなダメージを受けずに、新たにイスラムのモスクとして機能しはじめたのである。15世紀に加えられた二番目のミナレットは高名な建築家スィナンの作であり、続く16世紀には三本、四本目の尖塔も増築された。

時代が変わって共和制に移行すると、しばらくの間モスクとして使用されたアヤソフィアは、1934年10月24日、アタテュルクの要請と議会の決定を以て閉鎖された後、アメリカのビザンチン研究所によってモザイクを覆っていた漆喰が剥がされた。ボロボロと剥がれ落ちたモザイクの片は注意深く元の位置に埋め込まれ、こうして1935年2月1日、新たに博物館として一般に公開されたのである。


◆設計上の特教◆
 
〈ドームをのせた三つの身廊のある礼拝堂〉としては初の建物といえる。高さ55.6mのドームはトルコのみならず、全世界で五番目の高さにあげられるもので、553年の地震の後、558年から562年の間に6.5m高さを増して再建されており、その直径は31mから33mと緩やかに楕円をえがいている。敷地7,570m2、本堂は75m×70m。

アヤソフィア

◆外・内席◆ 
 
各地の建物からはずされて搬入されたモザイク板、石棺、洗礼盤、12世紀の公会議に於ける決定事項を記した浮き彫りなどが展示されている。建物の美しい装飾は内廊に始まる。壁を覆う多彩色の大理石板は対称的に並べられ、天井のモザイクの金色が目を射ってくる。

大理石の小片と色石は建物の内部を16,000m2にわたって覆っているが、これは建物自体の敷地の約二倍をこえる。内廊から本堂へは真横に並んだ九つの門が開いている。うち、最も大きな中央の門は皇帝の、その両側、比較して多少小さめの二つの門は帝国上層部の人々専用、そしてそれぞれの横に三つずつ並ぶのが一般の市民用のものである。

皇帝用門と両側の二つの門を覆っていた金銀の箔は、残念ながらラテン帝国の時代に剥がされてしまったが、皇帝用門のすぐ上には右と左にマリアと大天使ガブリエル、中央にキリストとその足許に平服する皇帝レオⅦ世(886~912)を表現した9世紀のモザイクが美しい。一方の手で人々に祝福を与えるキリストが、もう一方の手に携えた本の上には「我はこの世の光なり」の文字が見られる。


◆本堂(ナオス)◆
 
内廊から本堂に入ると、まず宙に浮かぶかの様に全体を覆う巨大なドームに圧倒される。ぐるりに40の窓をもつドームの中央には、かつてビザンチン帝国時代にキリストのフレスコ画が描かれていたが、オスマン民族による征服後にはその上からコーランからの節が筆された。中央ドームを支える四隅の柱、そのアーチの上には知識を司る天使達のフレスコ画が見られる。

入り口左右両手に置かれる容量1,250ℓの巨大な大理石の水瓶は16世紀にべルガマ(ベルガモン)の古代都市から搬入されたものである。左手コーナーにある大理石の角柱は〈嘆きの柱〉あるいは〈湿った柱〉と呼ばれ、ここに親指を入れて願い事をすると必ず成就すると言われている。ギャラリーの角、巨大な円形のパネルにはイスラム教世界の指導者達の名がアラビア文字で表現されている。

まず、ミヒラブの右にアッラー、左にモハメッド、そして四人のカリフエブ・ベキル、オメル、オスマン、アリ、更に入り口の上のパネルにはモハメッドの孫ハサンとフセインの名が見られる。

高さ7.5mの位置に設けられたこの大パネルの文字はイスラム世界に残る最も大きな文字といわれる。ドームの下、有色の大理石で囲まれた場所ではビザンチン帝国期に代々の皇帝の戴冠式が執り行われた。玉座は中央の円の中に設けられ、国家の指導者達は他の小さな円の中に位置した。

美しい大理石で装飾された後陣にはオスマン帝国時代になってメッカのカーベの位置を示すミヒラブが設けられたが、教会時代の後陣が東の方向を向くのに対して、イスタンブールからメッカの方角は南東にあたる為に、本堂の中央線より多少右手にずれている。後陣の左手には19世紀にスルタン用の座が置かれ、右側にある階段は金曜日の礼拝で説教僧が使用したものでミンベルと呼ばれている。

このすぐ手前には、16世紀に造られ、その中で、あるいは上でコーランが詠まれたムエッズィンの間がある。後陣に向かって右手、スルタン・マフムットⅠ世の時代は18世紀に宮殿から移した図書館は、見事なイズニックタイルで装飾されており、蔵書は今日また別の博物館にて保管されている。

ビザンチン期には皇族の入り口として、そして現在は一般の出口として使用されている内廊の横口、壁の上部にはアヤソフィアで最も保存状態良好なモザイクがのこる。幼少のキリストとマリアを中央に、右手にコンスタンチノープルの模型を手にした皇帝コンスタンチヌス、左手にはアヤソフィアの模型をもった皇帝ユスチニアヌスが表現されている。

各々に自身の作品といえる都と教会を聖母子に捧げているこのモザイク上で、4世紀と6世紀の異なる時代を生きた二人の皇帝が出会ったわけである。 

アヤソフィアのモザイク ◆ギャラリー◆
 
主に女性の礼拝の場として用いられた上階のギャラリーには、今日、内廊左手の石畳の回り通路を上って出ることができる。因みに、北ギャラリー(左側)には何ものこされていないが、反して、右側の南ギャラリーは必見物である。

左側の大理石パネル上には、イスタンブールにやって来た海賊達が残したといわれる文字がみられる。コーナーから南ギャラリーに移る時にくぐる〈天国の門〉は美しく彫刻の施された大理石のもので、その後ろには二つの十字架のモチーフがのこる。ここを通ってすぐ右、おそらくイスタンブールに存在する同類の作品中で最も美しく印象的なモザイクには、キリストとマリア、そして洗礼者ヨハネが表現されている。ラテン帝国建国期、このモザイクの下部は大きなダメージを受けたにもかかわらず、使用された色彩とモザイクの破片の細かさにより、非常に価値のある作品とされている。

14世紀のこのモザイクで、聖母とヨハネの表情は深い悲しみに満ちており、罪深い人々を天国に導くよう、キリストに哀願している様子が伝わってくる。この向かいにある壁の前には、1204年にラテン軍と、共に都にやって来てここを征服した後、1205年に亡くなったベニスの司令官ダンド一ロの墓石が置かれている。

ギャラリーの突き当たりの壁面には二つのモザイクが隣同士に並んでいる。向かって右のものには、幼少のキリストを膝に抱く聖母と共に、皇帝ヨハネス・コムネノスとハンガリー出身の后イレーネ、子息アレクシオスが表現されている。

左手の作品は、玉座のキリストを中心にして、両側に女帝ゾエと彼女の三番目の夫コンスタンチン・モノマコスを表したものであるが、これは元々11世紀に最初の夫ロマノスⅡ世が描かれていたものを、ゾエが結婚を繰り返す毎に新しい夫の首から上と名の部分のみを作り替えたものである。

後陣の上のモザイクは聖母と幼少のキリスト、天使(ミカエルとガブリエル)を表した9世紀の美しい作品で、保存状態も非常に良い。

ブルーモスク(スルタン・アフメット・モスク)
 
在位期1603年~1617年、オスマン帝国第14代のスルタン・アフメットⅠ世によって建立されたもので、イスタンブールで最も美しい寺院といえる。

高名な天才建築家スィナンの弟子の一人メフメット・アーの監督により1609年に着工、1616年に完成。神学校、貧民救済の為の簡易食堂、隊商宿などを抱えた総合施設である。

14才で権力の座についてからの14年間、スルタンとしての手腕を多方面で発拝したアフメットⅠ世は、身を捧げて取り組んだモスク完成から数週間の後に、癌と思われる病で28年の短すぎる生産を閉じた。メフメット・アーは、かつてスルタンの親衛隊であるイェニチェリの兵士であったが、異色な才能で頭角をあらわし、まずは水路、橋の建設に従事した後、建築責任者としてメッカはカーベの修復にもあたっている。
モスクの敷地として白羽の矢が立てられたのは、かつてより都の中心であった場所であったが、何よりもトプカプ宮殿に目と鼻の先ということが重要な理由の一つとなった。

建設にあたっての慎重な姿勢は資材、内装品の選択にもうかがえる。使用された21,043枚のタイルはイズニックに造られた宮殿専用の窯元で、何百㎡もの床を覆う絹の絨毯も同様に宮殿御用達の工房の作で、何百ものクリスタルのランプは外国から取り寄せられた。5ケ所に扉が設けられている内庭の広さは72m×64m。中央には六本の柱をもつ六角形の泉噴が美しく、四方には計26本の花崗岩の柱上に30のドームがのせられている。 

ブルーモスク
この寺院はイスタンブールはもとより、全トルコでも唯ひとつ六本のミナレットを有するモスクとしても特筆に値する。内庭と本堂のそれぞれコーナーにそびえるミナレットのうち四本には三つずつ、残り二本の尖塔には二つずつ、計16のバルコニーが設置されているが、ミナレットに関する言い伝えによると、アフメットⅠ世はメフメット・ア一に「黄金(ALTIN=アルトゥン)」でこれを建設するように命じたところ、これでは非常に高額につくため「六本(ALTI=アルトゥ)」と聞き間違えた事を理由にしてこのような形をとったとされている。

しかしそうなるとカーベにある六本の尖塔をもつ寺院と同等に並んでしまったことで、同スルタンはそこに七本目のミナレットを寄贈しなくてはならなくなった。こうして、スルタン・アフメット・モスクはカーベの七本のミナレットを有する寺院に次いで尖塔の多いモスクとなったのである。

モスクの基本的な設計は、中心の大ドームとその四方に一つずつの半ドームをもつ形式が使われ、ほぼ正方形の本堂は51m×53mの広さがある。ここの建設にあたって、建築学上メフメット・アーが他のオスマン帝国期のモスクには見られなかった新しい試みに挑んだとはいえないが、しかし、内装に関しては他の追随を許さない華麗さを誇っている。

全世界で〈ブルーモスク〉の名で知られる理由も、壁とドームに用いられた青と緑を基調にしたタイルやフレスコのせいである。中世に於ける芸術の発達を調査して気づくのが、建築物と宗教の深い関わり合いである。宗教庁によって支持された手工芸をはじめ、イスラムにしてもキリスト教世界にしても金銭管理をする宗教関係の諸機関が、その方面に主に融資した為、芸術分野は著しい発達をしるしたのに対して、他の分野について同様のことは言い難い。

例えばキリスト教の場合、教会に像や宗教画を置くことが許され、礼拝の際に賛美歌が斉唱された為に、彫刻、絵画、音楽が発達した。一方、イスラム教では人物を掲げてこれを拝むことが禁じられている為に、また、賛美歌のような音楽も用いられないせいで、これらの代わりにイスラム書道、ステンドグラス、タイル等の分野が発達した。地にひれ伏すようにして祈りを捧げるイスラム世界で手織り絨毯が必要不可欠であるのに対し、着席をする形のキリスト教世界ではこれが必要なかったせいで、絨毯の製造技術は発達しなかった。

ブルーモスク
12世紀以来トルコ民族が手掛けてきたタイル芸術は、絨毯と同様、産地によって使用される色、図柄が様々で、トルコで窯業といえばまずキュタヒヤの地名がうかぶ。木の葉、若芽、蕾、チューリップ、バラ、カーネーション、葡萄の房、ヒヤシンス、唐草模様などは、モスクの装飾として好んで用いられた図柄の幾つかである。建物は人を圧倒する巨大さとともに、華麗で繊細でさえある中央ドーム、それを支える半円ドームや柱との調和、そして柔らかい印象を与えようと、尖った角を全て丸く削り取った工夫、ミヒラブの上を飾る美しいステンドグラス、ドームの周辺に設えられた窓からの採光で息づくフレスコやタイルの模様など、どの点から見ても考え抜かれた技法が駆使されている。内部には計260の窓があるが、残念ながら建設当時に用いられていたベネチアグラスは残っていない。

高さ43m、直径23.5mの中央ドームは、各々、直径約5mの(象の足〉とよばれる四本の柱によって支えられている。ミヒラブにはイスラム教徒にとっての聖地メッカはカーベから持ち帰られた黒い石が置かれ、その隣にはミンベルとよばれる階段状の説教壇、そして左手にはスルタンが祈りを捧げた場所がある。中央ドーム及び半円ドームと、円柱の周囲そして壁を飾る古い時代の書には、コーランの中の節、預言者モハメッドの言葉などが表現されている。

つい最近まで本堂の床を覆っていた様々な色や大きさの、しかし、どれもが貴重な手織り絨毯は残念ながら今風の“つまらない”ものにとって代わられてしまった。メッカの方向の壁を除いて三方は、女性が礼拝する為の、あるいは宗教上の集いに利用されたギャラリーとなっている。モスクの北東にあり、子息オスマンⅡ世によって建立されたスルタン・アフメットⅠ世の廟には同スルタンの墓をはじめとして、17世紀に即位したオスマンⅡ世、ムラトⅣ世、そしてアフメットⅠ世が熱愛した寵妃キョセム・スルタンが埋葬されており、また、スルタンの一族32名の墓もここに置かれている。


モザイク博物館
 
賃貸料でモスクの諸経費を賄う事を目的にブルーモスクの裏側に造られたアラスタバザール内には、主に4~6世紀のモザイクを展示する博物館がある。1935年~1938年の間に実施された発掘調査で見つかったモザイクは修復され、後に発見されたものと共にここに収められている。博物館は本来、ブルーモスクより海まで続く敷地にたっていた旧ビザンチン皇帝の宮殿の、未だ考古学的調査が実施されていない大広間と内庭の上に位置している。モザイクに主に用いられている図柄として狩りと舞、神話上の獣があげられる他、日常生活からのシーンも興味深い。

ヒポドロム
  
スルタン・アフメット広場ともよばれ、観光地イスタンブールの心臓部である。ヒポドロムの建設は203年、ローマ皇帝セプティミス・セヴェルスの時代に始まり、ビザンチン皇帝コンスタンチヌス大帝がここをローマ帝国第二の都と宣言した式典の為、330年5月11日に完成をみている。U字形のトラックの周囲には40列の席があり、観客30,000人の収容能力があったといい長さ400m、幅120mの造りは古代世界の競馬場としても屈指の設備であった。かつてはトラックの中央に〈スピナ〉とよばれる美しく飾られた壁があった。

ビザンチン帝国時代にシャリオットレースをはじめ様々な競技の他、時として集会や暴動で流血の舞台ともなり、オスマン帝国時代にも娯楽や政治的集いのもたれた重要な広場であった。
 
ビザンチン時代、ヒポドロムの機能は主に三つに分類できた。まず第一はスポーツと芸術の舞台となったこと。特に競馬は当時最も人気のあったもので、剣士達の熱戦も観客をわかせた。第二には、政治などの集会の中心となったことで、殊にオスマン帝国時代になるとイェニチェリはここに集まり暴動をおこした。第三は、ビザンチンの皇帝達によって蛤も屋外博物館の様に利用されたことといえる。

トラック中央のスピナ上には世界各地から持ち込まれた柱、像、日時計、オベリスクなどが展示されていたが、これらのうち今日まで残るのはたった三点で、それ以外は破壊されたり、別の場所に移されたりしている。

ヒポドロム

◆ディキリタシ(オベリスク)◆
 
イスタンブールで最も古い記念碑といえ、その歴史は紀元前15世紀に遡る。つまり、この柱の年齢は3500才。エジプトのファラオ・トトメスⅢ世がメソポタミアの勝利を記念して造らせたもので、エジプトはもとよりヨーロッパ各地でこれに似た作品を目にすることができる。西暦390年、ビザンチン皇帝テオドシウスⅠ世は、エジプトはルクソール、カルナックのアモン神殿にあったこの柱をここに搬入させた。ピンク色の花崗岩でできており、重さ約300t、本来は32.5mの高さがあったが運搬に便利なようにと全体の40%程度の部分を下部から切り落としており、現在の高さは20mである。四面にはトトメスⅡ世の偉業を称える象形文字が見られ、最高部では神アモンとファラオが手を握りあっている。基盤が水平でないために、大理石の基板上に四本の青銅の柱で支えられるように据え付けられている。基盤にはロイヤルボックスでの皇帝一家、オベリスク建立、競技を前に踊る少女たち、シャリオットレースなどのシ―ンが浮き彫りにされており、ブルーモスクとイブラヒム・パシャ宮殿側の面には、それぞれラテン文字と旧ギリシア文字が彫刻されている。                    


◆蛇の柱◆
  
ヒポドロムに残る二番目に古い記念碑である。紀元前479年に遡るもので、326年にコンスタンチヌス大帝によりギリシアはデルフィのアポロ神殿から持ち込まれた。ギリシアの都市同盟がペルシア軍に勝利を収めたプラタイアの戦いを記念した柱の本来の姿は、三匹の絡み付く蛇の頭部の上に、直径2mもの巨大な金の釜がのるものであった。

しかし、イスタンブールに移動される前に既に釜はなくなり、オスマン期になって蛇の頭部は石で破壊された。この頭部のうちの一つは、今日、イスタンブール考古学博物館に、もう一つはロンドンの大英博物館に保管されている。もともと6.5mあった柱の高さは現在約5m。


◆コンスタンチノープルの柱◆
   
コンスタンチヌスⅦ世が祖父帝バシレウスⅠ世を記念して造らせたもので、かつてはヒポドロムの真ん中に吃立していた。32mの高さがある10世紀のこの柱は、もともと銅と真金が表面を覆っていたが、13世紀初期のラテン人の侵略の際に剥がされて貨幣鋳造に利用されてしまったという。1895年の地震でダメージを受けた柱には修復の手が入れられている。

ドイツの泉 ◆ドイツの泉◆
  
1898年のもので、カイザー・ウィルヘルムの泉ともよばれている。第二東方遠征の際、イスタンブールでのもてなしに感激したドイツ皇帝ウィルヘルムは、帰国の後自らの設計で美しい泉を造らせ、イスタンブールに贈呈した。

ドイツの泉はその時代に基礎をもつ二国間の友情の証しなのである。皇帝とスルタンの頭文字がしるされ、金モザイクで飾られたドームは、泉の上に八本の緑色をした斑岩の柱で支えれている。同皇帝はこの泉と共に、ベオグラードの森の水源からここへ水を引く水路も整備させている。


◆トルコ・イスラム芸術博物館◆
  
ヒポドロムの角、ブルーモスクの対面にあるイブラヒム・パシャ宮殿は、1520年に時のスルタン・スレイマン大帝が宰相イブラヒム・パシャに贈ったもので、オスマン帝国時代のスルタン一族以外の人に属する唯一の宮殿である。イブラヒム・パシャは側近としてスルタン幼少の頃よりその側を片時も離れず、最も信頼された人物であったが、1536年、スルタンの寵妃ヒュッレムの陰謀にはまりトプカブ宮殿で絞首されている。13年間宰相を務めた彼は非常に優秀な政治家であった。

トルコ・イスラム芸術博物館  
パシャの死後、宮殿はスルタンに仕える小姓達の寄宿舎、縫製工房、刑務所として利用された後、しばらくは荒廃するままに放置されていたが、1970年に修復された後、1983年になって本来スレイマニエにおかれていたトルコ・イスラム芸術博物館が移されてきた。

8~19世紀の書物、陶芸品、彫金などの見事な傑作が保管され、1984年にヨーロッパ評議会から、1985年にはユネスコから賞されている。特に、巨大なトルコ絨毯は必見の価値がある。現代的認識のもとに管理される博物館の中にあって、アナトリアの独特の生活様式と手工芸品は、生き生きとその色彩を放ち我々を魅了する。

旅の疲れを癒すなら内庭にしつらえられた典型的なトルコ茶屋で、本場のトルココーヒーを召し上がれ。
 

◆ソコッル・モスク◆
  
ヒポドロムを後にする前、広場の西端に敷かれた道を下ってソコッル・モスクに立ち寄ってみたい。
スレイマン大帝にはじまり三人のスルタンの宰相を務めたセルビア出身のソコッル・メフメット・パシャの妻であり、スルタン・セリムⅡ世の皇女エスマハンが1571年~1572年に高名な建築家スィナンに造らせたものである。高さ22mのドーム、採光用の56ケ所の窓、濃紺の地に白の書、多彩色のイズニックタイルなど、小さいながらも訪れるに値する美しいオスマン時代の建造物である。

トプカプ宮殿
 
 約400年に亘って、世界でも稀に見る巨大な帝国、すなわちオスマン帝国の管理中枢が置かれたトプカプ宮殿は、イスタンブールで外せない観光スポットの、しかも疑いなくトップにあげられる。年間150万人が来訪する、トルコでは第一位の、ヨーロッパでも屈指の見学者数を誇る博物館である。

 1453年、当時のコンスタンチノープルを征服した後、ベヤズィット地区は現在のグランドバザールの近くに小さな宮殿を住まいとしたオスマン帝国スルタン・メフメットは、1475年~1478年、旧ローマ市街の跡にトプカブ宮殿の核となる建物を造らせた。その後、19世紀に立ち退くまでの数百年の間、ここに住まった各時代のスルタンが自らの必要や趣味に応じて宮殿を美しく飾り、広げていったのである。大砲(TOP=トプ)が扉(KAPI=カプ)の前に置かれていたことに由来して一般に "トプカプ" の名でよばれる宮殿の本来の名称は "Saray-i Cedide-i Amire"。周囲を全長5kmに及ぶ城壁で繊細で美しい装飾が施されている。第二内庭は幅130m、長さ160m。糸杉、プラタナスなどが影を落とす庭に歩を進めるまえに、門のすぐ右手にある宮殿の縮小模型を見てその大きさと位置をつかんでおきたい。

平屋の造りに囲まれた第二内庭は厨房、枢密院に出入りをする外部の人々にも解放されており、スルタンが宮殿滞在中は禁語令が敷かれていた。何百人もの庭師の丹精による庭園には鹿や孔雀が戯れ、あたかも天上の花園のごとくであったという。第二庭園の右手には端から端まで厨房の設備が並んでいる。

トプカプ宮殿
◆厨房と陶器◆
  
もともとメフメットⅡ世の治世下で造られ、後16世紀のセリムⅡ世の時代に高名な建築家スィナンによって修復された宮殿の台所では1,200人が働いていた。これは、宮殿がマイホームであり職場であった人々の数が5,000人程度であった事を考えると、スタッフの約25%が食べる事の為に配属されていた計算となる。厨房の設備はスルタン用、それ以外の人々用、デザートと大きく三部に分けられ、料理長達や配膳係の宿舎、モスク、浴場と倉庫などを完備していた。

メインキッチンは10部屋から成り、各々、皇太后、寵姫達、皇太子、黒人宦官達などの食事の準備専用になっていた。厨房を覆うドームは15世紀からのもので、その突き出す煙突は1574年の大火のあとにスィナンによって増築されたものである。毎日20,000食がここで準備されていた事から、常時宮殿に暮らす5,000人分の一日三食、計15,000食以外にも5,000食分を隊商隊や貧民用に提供していたようである。年間の生鮮食材の消費量はおよそ小さな町のそれを超えるもので、資料によると20,000頭の羊、15,000頭の牛、30,000羽の鶏、そして厳選された‘山ほどの’果物や野菜が用いられた、とある。

旧厨房は、今日、中国、ドイツに次いで中国、日本の陶磁器12,000点を保存して、世界第三のコレクションを誇る陶磁器の展示室として機能している。しかし面積の関係で公開されているのは所蔵の1/4、つまり3,000点程であり、これらは戦利品、外国からの贈呈品、購入したもの、死亡した政治家達の寄贈品などで構成されている。まず、大部分を構成する中国陶器を、年代順に唐(7~10世紀)、宗(10~13世紀)、元(13~14世紀)、明(14~17世紀)と追ってみたい。17世紀以降、焼き釜を閉鎖されて衰退期に入った中国窯業にとって代わって、日本の陶器が名を轟かせ始め、18、19世紀のセーヴル、ヴェネチア、マイセン、ベルリン、ワルシャワ等で製作されたヨーロッパの作品も見学する事ができる。

中でも最も貴重なものは欧米では見られない青磁や白磁、そしてエンペラー・イエローとよばれる黄色を用いた作品であろう。青磁の食器は、その性質から毒が混入したものを盛ると表面の色が変色するといわれ、皇位をめぐって権力争いの激しかったオスマン宮廷では重宝されたようである。

陶磁展示館の隣、デザートが用意された〈ヘルヴァハーネ〉では、厨房で使用された当時の巨大な鍋や釜、まな板などの道具に驚かされる。
ここに隣接した通路の突き当たりには、宮廷御用達のガラス工房やヴェネチアで作られた品々が展示されている。
また、通路の反対側、宮殿に贈呈されたり宮殿付きの職人の手による銀の品々も素晴らしい。
再び第二内庭に戻って、厨房の対面、内庭左手の建物に目を移してみたい。手前から、スルタンの厩舎、そして隣にはハレムが続いている。


◆ハレム◆
 
アラビア語で "禁断の" "秘められた" の意味にあたるハラムに由来し、公務を終えたスルタンがプライベートな時間を過ごした場所をハレムとよぶ。 

トプカプ宮殿建設後、全ての政治機能は旧宮殿から新宮殿に移動されたが、スルタンの家族は約80年の間ベヤズィットの旧宮殿に住まい続けていた。

スルタン・スレイマン大帝の時代に旧宮殿が火災で焼かれると、第二夫人ヒュッレムの強要もあってトプカプ宮殿内部に木造の "大奥" が設けられ、夫人や子供達、そして多くの召使が揃ってこのハレムに越して来たのである。
こうして政治の中枢に隣接して暮らすスルタンの夫人達が、帝国の運命を舞台裏から操る機会も増えたのであった。
これを境に再び修復された旧宮殿は、降位した、あるいは死亡したスルタンに属する夫人や子供達の住まう、忘れ去られた場所となったのである。

トプカプ宮殿 ハレム
 1666年の大火で全焼した木造の造りに代わって、各部屋が迷路のように入り組む多くの新しい部所が新設され、300部屋を有するハレムが出来上がった。今日、一般公開される部分はそのわずか一部であり、ほとんどが16~18世紀に建設されたものである。ハレムを見学するには第二内庭でまた別に入場券を購入する必要があり、30分毎に各国語でのガイドの案内でグループに分かれて移動しなければならない。

外の世界とは完全に遮断されたハレムに入城するのは、スルタンに最も近い親族と、ここで働く人間だけに与えられた特権であった。三つの職-健康を管理する医者、皇子達の教育にあたる学者達、祝日に呼ばれる楽団-にある男性には、決められた日のみ、決められた広間に入ることが許されていた。

非イスラム教徒のハレム入殿は夢にも不可能なことであったが、しかし、例外中の例外としてトルコ人の治療が不可能な場合のみヨ一ロッパの医者に、あるいは稀に時計類の点検の為に外国人の職人に、短時間のみ入城許可が与えられたという。ハレムではスルタンの夫人や寵妃たち、母御以外に、ゆくゆくは権力の座に就く可能性のある皇子達、そして彼らの世話にあたる女性や宦官が生活していた。当時のイスラム教が許す範囲でスルタン達も自らに四人までの妻を迎えていた。勿論、それ以上の妻を娶る例外を除いては。

"ジャーリエ" "オダルク" などの階級で呼称される女性達は、征服地から連れて来られて名前と宗教を変えさせられた後、宮殿に相応しく厳しく躾けられた少女達であった。このうちスルタンの目にとまり子供を身ごもった女達には個室が与えられたが、その他大勢組はスルタンや家族の召使として空しくここで一生を終えるか、あるいは名のある政治家などと結婚させられ、-つまり体よくお払い箱となり-ハレムを下がるのであった。

スルタンの夫人達から召使まで、もともとハレムに暮らす女性達のほぼ全ては、前述のように "戦利品" として征服地から連れて来られたり、奴隷市場で買い取られた、または、"献上品" としてスルタンに贈られたものであった。各国からイスタンブールに連れて来られたこの美貌の少女らはスルタンの最も身近に侍り、その後継者を身ごもることに躍起になった一方で、自身に降りかかった捕らわれの身という立場故に、スルタンはもとよりオスマン国家に対して決して真の親近感を抱くことはなかった。

その見掛けのきらびやかさの裏側で、女性達は常に駆け引きと根回しの世界で気の休まる時などなかったのである。オスマン帝国で帝位は直系の父から長男へとではなく、現スルタンの後は一族の中で最年長の男子に継がれ、寵妃達は兎も角ライバルより早くスルタンの第一皇子を出産することに懸命になった。つまり“ハセキ”の称号を得て初めて将来安泰という訳であるが、しかしそれでもなお、ハレムを支配し、スルタンに次ぐ位置にある母御(ヴァーリデスルタン=皇太后)と皇帝の寵愛を受けた女達との確執はさけられないものがあった。

ハレムの最高権力者である皇太后は、40の部屋と多数のお付きを抱えていた。6,700m2の敷地にあって300の部屋と、46のトイレ、8つの浴場、4つの小台所、2つのモスク、6つの倉庫、病院、プール等の設備も完備されていた。黒人宦官達(カラアー)は主に故郷アフリカでの戦争で捕虜となったか、あるいは奴隷市場で買い取られた者で、ハレムで“男”の力の必要な仕事は全て“彼等”に任されていた。ハレムに従事した約40人の黒人宦官の中の最高権力者は黒人宵宮長(クズラルアー)で、その地位はスルタン、皇太后に次ぐNo.3、嫡子の教育、育成の責任をも負う宦官長の部屋は、他の宦官達より広く美しかった。

トプカプ宮殿 ハレム
絶世の美女に囲まれながらも彼女らの間に確固として存在する目に見えない厚い壁、去勢された体、不自由な奴隷の身分...いくらスルタンに忠誠を誓ってはいてもこれら負の要素は、時として宮廷内部の陰謀に宦官達を深く係わらせる要因ともなった。 

ハレム専属のガイドの案内ですすむ見学で、宦官達の部屋、タイルに装飾された内庭、嫡子の学問所、寵妃達の内庭とそれを取り囲む部屋、皇太后の美しい寝室、食堂、礼拝の間などを目にすることができる。その他、常に暗殺の危険と背中合わせにあったスルタンの、青銅の格子がはめられた大理石の浴室、18世紀を支配したアブドゥルハミットⅠ世の寝室、アフメットⅠ世の図書館、当時の最高の手法によるアフメットⅡ世の食堂‘果実の聞’、スルタンの兄弟達が半ば囚われの身で暮らした小部屋や女達がスルタンの御成りを迎えた46mの‘黄金の道”も興味深い。ハレム見学を終了すると第三庭にでるが、その前に第二内庭のポイントを記しておきたい。 

ハレム入り口のすぐ横、帝国政治の中枢であった枢密院クッベアルトゥには、その上階に宰相等の会議の様をスルタンがこっそりと監督した鉄格子のはまったガラス窓のみえる部屋がある。枢密院の上に立つ正義の塔は高さ41m。本来は15世紀に監視の目的で設けられたものであるが、今日、これは単にトプカプ宮殿のみならず、全イスタンブールの象徴となっている。オスマン帝国時代には宝物殿として利用されていた建物は、今日、武具展示室となっている。征服王の鉄砲、中東を手中に収めたスルタン・ヤウズ・セリムの馬具のほか、16から19世紀の世界各国の武器、武具などが興味深い。第二内庭から第三内庭にはバービュスサーデ、またはアクアーラル(白人宵宮達)の門とよばれる第三の門をくぐって出る。

宮殿はこの門を境に、帝国の政の中心とスルタンの私的な場とに分けられる。400年間にわたり重要な儀式や祝賀会がこの門前で執り行われてきたが、その際には現在その上を石にて保護されている穴にオスマン帝国旗が据えられ、前にはスルタンの玉座が置かれた。帝国上層部の政治家、軍人もこの門の前で半円を描くように位置したのである。
 
バービュスサーデをくぐって第三内庭にはいるとすぐ、目前にアルズ・オダス、即ち謁見の間がひかえている。枢密院での決定事項をスルタンの御前に献上したり、または外国の大使や賓客がスルタンの謁見を仰いだ場所で、装飾タイルの美しさが印象的である。向かって左の壁際には貴石をちりばめた玉座が置かれている。壁に設けられた大理石の水桶は、密談が外部に漏れる事を防ぐためにそこに落ちる音で話し声を消す役目をおっていたものである。謁見の間の向かい、バービュスサーデの上部にはアラビア文字を用いた装飾とスルタンの花押(トゥーラ)が見られる。

第三内庭に入って右手の部分はかつての宮廷学問所であり、現在は博物館管理事務局がオフィスとして使用している。スルタンの身辺に侍って奉仕した小姓達の中で〈セフェッリ・アー〉の位置にあった者達の宿舎であった場所は内庭の右側に位置し、今日ではスルタンと皇子達の衣装展示室となっている。この建物に隣接するのが、宮殿で最大のみどころと言うべき宝物殿である。

トプカプ宮殿 ハレム
◆宝物殿◆
  
オスマン帝国時代は17世紀以来、宮殿の財宝を管理する為の部屋として使用されてきた。コレクションの大部分は宮廷お抱えの宝石職人の手によるもので、資料によると15世紀には70人の職人が宮廷の為に腕をふるったとされている。因に、今日、トルコ宝飾芸術を生かし続けているのはイスタンブールに定住したアルメニア系トルコ人である。宮廷の財宝を構成するものとしては、これ以外にも戦利品や献上品としてここにおさめられたものがある。展示室は四つの部屋から構成される。

〈第一室〉 黒檀に象牙と真珠貝で象限細工を施した17世紀のムラトⅣ世の玉座、黄金の燭台、水晶の水パイプや琥珀の吸い口、インドからの黄金の象のオルゴール、宝石の散らされた杖等に注目したい。

〈第二室〉 アフメットⅠ世に属する玉座は17世紀のもので天蓋つきである。ここには宮殿一の傑作品 "トプカプの短剣" とよばれるエメラルドの剣が展示されている。これは元々、マフムッドⅠ世がイランのシャー・ナーディルに贈呈する為に作らせた品であったが、道すがらシャーの死を知らされて再び宮殿に持ち帰ったものである。

〈第三室〉 発見者の職業から‘匙職人のダイヤモンド’と呼ばれる、周囲を49ケのブリリアントカットのダイヤで取り囲まれた86カラットのダイヤが置かれるのがここである。預言者モハメッドの墓用に、各々6,666ケのダイヤがはめられた対の黄金の燭台も必見の価値がある。ここに据えられた玉座は、エジプト総督イブラヒム・パシャが16世紀にムラトⅡ世に献上したもので、胡桃の素材に黄金が張られている。

〈第四室〉 イランのシャー・ナーディルがマフムッドⅠ世に贈呈した25,000ケの真珠が用いられた金の玉座が中央に置かれている。洗礼者聖ヨハネの骨や数珠の他、書の道具、煙草盆や嗅ぎ煙草ケースなど、美しい芸術品の数々が並んでいる。 
宝物殿を後にすると、博物館管理事務所として使用されている北側の建物の間に、第四内庭に下る通路がのびている。この小路を挟む様にして
"ハズィネ・アー" の宿舎とよばれる、今日、手書きの書物やスルタンの肖像画をおさめた能書と肖像画の展示室がある。また、13~17世紀のトルコ・イスラム細密画にも注目してみたい。連なる時計展示室では、16~20世紀の作品が管理されている。中でもロシア皇帝ニコラスがアブドゥルメジットⅡ世に贈った宝石使いの一品は見事である。ここの隣には、宮殿の中で最も神聖な場、宗教遺産の間がひかえている。


◆宗教遺産の間◆
 
1517年、エジプトを征服したヤウズ・スルタン・セリムが預言者モハメッドに属する品々をイスタンブールに持ち帰って以来、皇位についた全てのオスマン帝国スルタンは、全イスラム世界の指導者を意味する〈カリフ〉の称号をも冠すことになった。外壁、内壁をともに覆うブルーのイズニックタイルで人目を引くこの建物は二部に分かれており、入り口の間にはカーベからの雨樋や鍵と共に、モハメッドを継ぐ最初の四人のカリフに属する剣も見られる。続きの間には、ガラスに仕切られて保存されるモハメッドの聖なる外套、剣、軍旗、弓矢や、足跡、歯、髭、そして親書等が展示されている。 

トプカプ宮殿
第三内庭で最も新しく、見逃せないものとして、1719年にアフメットⅡ世によって庭園の中央に建築された図書館をあげることができる。大理石を用いて造られたこの図書館には約4,000冊の手書きの書物がおさめられ、内部を覆う多彩色のタイルも美しい。宮殿の最も奥、第四内庭には二ケ所から入ることができる。まず左手、黒い小石が敷かれた通路をぬけると、かつて庭の隅に建つ東屋、ソファの館からスルタン達がその美しさを愛でたチューリップの庭園がひろがる。ここの横にある大理石の階段をあがると、噴水のあるプールと青銅の天蓋をそなえたバルコニーが目をひく大理石のテラスに出る。エミノヌとガラタ地区、そして金角湾にかかる橋・・・。

テラスの一角には1638年のムラトⅣ世のバグダット征服を記念した、バグダットの館が見られる。青いタイル、金で彩色されたドーム、真珠貝や象牙の象限細工が美しい扉など、17世紀はオスマン装飾の最も優雅な作品の一つといえる。別の一角にはスルタンの嫡子達の割礼の儀式がとりおこなわれた割礼の間がある。

再びチューリップの庭園に沿って歩を進めると先ず主侍医の館の横を過ぎ、そこから階段をおりてメジディエの館へと出る。アブドゥルメジットⅠ世の命で建築家サルキス・バルヤンによって建てられたこの東屋は、トプカプ宮殿の歴史上、一番最後につくられた1840年の作品である。

メジディエの館の前は ボスフォラスのテラス とよばれ、対岸に広がるアジア大陸、マルマラ海、島々、ボスフォラス海峡の息を呑む様に素晴らしい景色が一望できる。広大な宮殿を見学した後は、下のカフェでトルココーヒーを召し上がれ。


アヤイリニ教会
 
 西暦300年代にかつてのアフロディーテ神殿跡に造られたアヤイリニ教会は、532年のユスチニアヌスによる改築によって今日の姿となった。アヤソフィア建築以前、ここはギリシア正教会の大聖堂として機能しており、381年には第二回宗教書議会も開催されている。アヤソフィア完成後においてもアヤイリニは都市の第二の教会として、その威光には何らの陰りも見られなかった。偶像破壊期に取り壊された為にオリジナルのモザイクは残っていないが、後陣の巨大な十字架はその当時の(726~841年)ものである。 

見学には特別の許可が必要であるが、近年、その見事な音薯効果をしてクラッシック音楽のコンサートなどにも舞台を提供している。

アヤイリニ教会

考古学博物館
 
 アヤイリニ教会の横、かつての鋳金所の坂道を下ると、その規模に於いて世界の五本の指に数えられるイスタンブール考古学博物館がある。

イスタンブール考古学博物館の総合設備は、〈古代オリエント博物館〉〈チニリ・キョシュク〉そして〈考古学博物館〉の三部から構成されている。

古代オリエント博物館では、エジプト、アナトリア(小アジア)、メソポタミア地方からの傑作品が展示されている。チニリ・キョシュクは1466年にメフメットⅡ世によって建設されたもので、トプカブ宮殿内の建物としては最古のものである。オスマン帝国期においては娯楽の為の別館として使用されていたが、1967年以降はトルコ及びイスラム諸国のタイルや陶磁器の作品が展示されている。1887年、レバノンはシドン地区やコンヤのスィダマラの石棺とともに発見された数多くの発掘物がイスタンブールに持ち運ばれると、これらを保存する新しい博物館が必要となった。

考古学博物館
トルコに於ける博物館事業の先駆者である画家オスマン・ハムディの尽力によって、1891年、今日の建物が建設されたのである。1991年になると付属の建物も一般公開されるようになちた。

展示物の多くはヘレニズム、ローマ時代に属するもので、庭園や館内に据えられる石棺の他、多くの石像、浮き彫りが訪れる者に無言で語りかけてくる。
 
これらに加えて、各時代の日用生活品、オイルランプ、胸像、貴金属品、アナトリア地方やかつてのオスマン帝国領土からの出土品が、テーマと年代順に展示されている。

海側の城壁沿にて
 
かつてのイスタンブールは、その周囲をビザンチン時代の城壁によって包囲されており、マルマラ海沿いの部分は "海側の城壁"、イェディクレと金角湾の間を‘陸側の城壁,、そして金角湾に沿う部分は‘金角湾側の城壁,とよばれている。マルマラ海に沿ってサライブルヌからイェディクレへと続く‘海側の城壁’は約8.5kmにわたる。

4世紀にコンスタンチヌス大帝、5世紀に入ってはテオドシウスⅡ世によって建築され、ビザンチン時代に頻繁に改築の手が入れられたこの城壁は、海側からの勢力侵入の可能性が薄れたこともあってオスマン帝国時代になると人々の記憶の隅に追いやられたかたちとなった。

本来は海岸線ギリギリに立っていた城壁も、19世紀末に敷かれた鉄道や海岸通りによって、今日では海岸からかなり陸側に入り込んでいる。城壁の跡が皆無であるガラタ橋とサライブルヌ間に見られる17世紀のセぺッチ.カスル(籠職人の館)はトプカブ宮殿に属する別邸の一つであり、スルタンの金角湾での船遊びは、ここから出発したのである。チャトラデュカプ地区で、城壁後方に見える尖塔のある建物は、ビザンチン帝国時代のセルギウス・バッカス教会で、現在はキュチュック.アヤソフィア・ジャーミ(小アヤソフィアモスク)として利用されている。


クムカプ
 
 海岸通りに沿ってカドゥルガ地区を過ぎると、魚市場や海鮮料理のレストランが軒を連ねる有名なクムカプに出る。
地元の人々が、新鮮な魚介類といえばクムカプと太鼓判を押すこの地区は、外国人旅行者も必ず一晩は、選りすぐりのトルコ料理魚バージョンを堪能する為に時間を割くポイントとなっている。通りを挟んで両側に並ぶ沢山のレストランは、夏の盛りともなるとテーブルを外に出し、ベリーダンサーや楽団を相手に飲めや踊れの大騒ぎである。

イェニカプから海岸沿いに走り続けるとサマトゥヤ地区にでる。オスマン民族が都市を征服した後、少数のアルメニア人が住まいを構えた場所で、最初のアルメニア教会もここに建てられている。アイオス・テオドロス教会、スル修道院、アイオス・メノス教会など、大小の教会の多い場所である。イェディクレの城塞に着く前、海側の城壁に設けられた最後の門であるナッルカプは、すぐ後方に位置するストゥディオン修道院に海から詣でる人々が利用したものである。

チューリップ

イェディクレの城塞
 
城壁に沿って海から陸側にしばらく歩くと、城壁の中でも最も印象的な城塞が姿を現す。陸側の城壁が建設される前、ここにはテオドシウスⅠ世が凱旋門を建設させたといわれている。

413~429年の陸側の城壁建設に当たり、この凱旋門は壁の一部となり、重要な勝利の祝いや儀式がこの前で執り行われたとされている。大理石に黄金を張ったこの高さ15mの門は、その為に‘黄金の門’ともよばれている。

大理石の塔の上には、当時、金や青銅の像がおかれていた。ここは皇帝のみが使用したもので、一般用の門はこれとは別に設けられた。
1457~58年に崩壊した部分に三つの新しい塔を遣らせた征服王メフメットは、ここを都市警備員の駐在署として使用させ、宮殿の財宝もここで管理させていた。

ムラトⅢ世が財宝を宮殿に移動させると城塞は1831年まで、政治家や役人、大使達の牢獄として使われたが、内部には当時の囚人達が刻んだ壁書きが残っている。しばらくの間放置されるままになっていたが、1959年に修復された後は博物館として機能している。


陸側の城壁 
 
5世紀に都市の総督アンテミオスの監督下で建設されたもので、長さ6km。96ケ所の塔で強化され、最も高いポイントは海抜76m。
陸側の城壁には大小46の門があり、番外側には幅20m、深さ10mの濠をしたがえているが、この直ぐ内側には、それぞれ7mと11mの二重の壁が10mの間をあけて設けられている。

イェディクレの城塞の後、順にベオグラード門、スィリブリ門、メヴレヴィ門、トプカプの門、エディルネの門と並び、金角湾に近づくと、テクフル宮殿やアネマス牢獄の遺跡が見えてくる。


商店街エミノヌ地区
  
スルタンアフメット広場から陸側の城壁へと続くディヴァン通りに沿うチェンベッリタシ広場から商店街が広がっている。非常に活気のある一帯で、ショッピングの合間に、ローマ、ビザンチン、オスマン帝国時代から現在に残る興味深い建物にも注目してみたい。 

まず、チェンベッリタシからグランドバザールを通ってベヤ・ズィット広場に歩を進めてみよう。そこからスレイマニエー・モスクを見学して、メルジャン坂をエジプシャンバザール(ムスル・チャルシュス)へと下ると良いだろう。


チェンベッリタシ
 
ローマ時代、ヒポドロムに最も近い広場として造られたフォルム・コンスタンチヌスから今日に残るものは、残念ながら‘焼けた円柱’としても知られるチェンベッリタシのみである。皇帝コンスタンチヌスが4世紀に造らせた約50mの円柱の上には、1105年まで皇帝のブロンズ像が据えられていた。強度の地震や大火でかなりのダメージを受け、現在の高さは37m。

柱の周囲には強化保護の為に金属の輪(チェンベリ)がかけられ、円柱の名前もこれに由来している。

ヌールオスマーニエ・モスク ヌールオスマーニエ・モスク
 
オスマンのスルタン・マフムットⅠ世の命で1748年に着工し、その死後オスマンⅢ世に継がれて1755年に完成をみた寺院で、一帯はこのモスクに由来してヌールオスマーニエ地区とよばれている。グランドバザールの正面入り口にあり、18世紀のヨーロッパ・バロックのテイストをオスマン建築様式に加味して造られた一例である。

旧コンスタンチノープルの城壁内にある七つの丘の一つに造られ、典型的なオスマン時代のモスクとは、たっぷりと装飾された正面壁のアーチとミナレット、本堂の外にはみ出す様に設えられたミヒラブをして、異色な位置づけをされている。

泉のない半円形の内庭は14のドームを支える12本の柱で取り囲まれており、これらも、それ以前のモスク建築では用いられなかったバロック的特徴である。

本堂に入ると、高さ25.75mの単独ドームを支える柱が皆無であることに気づく。五列の窓からは十分な光りが差し込み、説教壇やアラビア文字でコーランの一節が記された壁のタイルの美しさを引き立てている。


グランドバザール(カパルチャルシュ)
 
 イスタンブールのグランド・バザールについて「成功する客引きの方法」「バザールの近くに駐車場を確保する秘訣」「盗みのテクニック、その発達の歴史15~20世紀」などというタイトルで分厚い書物がそのうちできるにちがいない。しかし、学究的アプローチはここでは何の役にも立つまい。グランド・バザールは「体験」してみるしかない。

毎日グランド・バザールの19の門から20万人の人間が出入りする。全部が全部、観光客というわけではない。観光客の好きな革、宝石、絨毯の店のほかに、家具屋、下着屋、靴、詩集、レコード屋などで買い物するトルコ人を見ればわかるだろう。

よく聞く質問は「いかにして値切るか」「いくらまで値切るか」であるが、それは誰にもわからない。値切る秘訣があるとしても、それを言葉で説明するのは難しい。


ベヤズィットモスク

T字形の古典的ブルサ式と、その後の古典的オスマン様式のモスク両者の特徴を持ち合わせて、所謂過渡期の寺院として重要である。1481~1512年に権力の座にあったスルタン・ベヤズィトの命で、建築家ヤークプ・シャー、またはハイレッティン・パシャによって1501~1506年に建設されたとある。基本的にアヤソフィアの設計に酷似しており、古典的オスマン建築の最初の一例といえる。25のドームを支える20本の柱に囲まれた内庭の中心には、優雅なシャドゥルヴァン(礼拝を前に体を清める為の泉)がみられる。周囲の赤と白が織り成すコントラストと地面を覆う彩色大理石の美しさは特筆に値する。ミヒラブの正面に位置する入り口の扉は冠と碑文を彫った鍾乳石を思わせる見事なものである。

モスクの両端には87mの距離をおいてバルコニーのあるミナレットが吃立している。中央ドームの東西に設えられた半円のドームは象の足と呼ばれる角柱と二本の円柱によって支えられ、柱によって分断された形の側廊は四つずつのドームで覆われている。
主ドームと半円ドームの周囲の装飾は、オスマン民族の祖先である遊牧の民が住まいとしたテントのモチーフを偲ばせるものである。大理石使用のスルタンの御座所も非常に洗練されている。

モスクの後方には、スルタン・ベヤズィットの、これに並んでその皇女セルチェク・ハートゥン、そして1857年に息をひきとった宰相ブユック・レシット・パシャの霊廟が見られ、モスク施設の一部であった学問所は、今日、図書館として利用されている。


イスタンブール大学
ベヤズィットの塔
ベヤズィットモスクの後方、高い壁に囲まれた塀の中には、1866~1870年 にフランス人建築家オグストゥ・ボルゲによって建てられた元国防省の建物がある。(これ以前、ここにはオスマンのスルタンがトプカプに移る前の旧宮殿がおかれていた。)首都がアンカラに移されると同時に空になった建物はイスタンブール大学に譲渡されている。大学事務局の前に立つ85mのベヤズィットの塔は、1828年にマフムットⅡ世が火の見櫓として造らせたもので、多くの宮殿を監督した建築家バルヤンのセネケリム・カフヤによる白大理石を用いた作品である。180段の階段があり、それぞれ "順番" "合図" "駕篭" "旗" と呼称される四階建て。(塔の頂きのランプは天気予報用。)

イスタンブール大学

ラーレリ
アクサライ
ベヤズィット広場からオルドゥ通りを下るとラーレリ地区のラーレリ・モスクに出る。通りの向かい、ボドルム・モスクはビザンチン時代は10世紀、ミレライオン教会を15世紀にイスラムの寺院に転換させたものである。アクサライ広場のヴァーリデ・モスクは19世紀のオスマン建築を理解するのに役立つ、見学に値する建造物といえる。


スレイマニエモスク
ベオグラード、ロードスの征服に始まり、ドイツ、ハンガリー、ウィーンに遠征をしかけた同スルタンの治世下に於いて帝国領土は最大となり、それは皇帝ユスチニアヌスの時代に迎えた黄金期にビザンチン帝国が有してした面積にほぼ等しいものとなった。オスマン帝国で最も偉大なスルタンの一人にも拘わらず、在位30周年目にしてようやくその記念にモスク建造の機会に恵まれたスレイマンは、イスタンブールで最大にして最も荘厳なモスクに自らの名を冠することとなったのである。

スレイマン大帝の時代はオスマン帝国の上昇期の末期にあたり、ヨーロッパでも賢哲さで一目おかれたその46年の治世下で、帝国は文学、科学、芸術などの分野で目覚ましい発展をしるした。建築家スィナンは「図面を必要とすることなしに傑作を生み出すことのできる天才」といわれる。歴代五人のスルタンの建築顧問を務めた彼は、1490~1588年の生産で50年を建築家として生き、およそ400に近い作品を残した。

カイセリの非イスラム教徒の家庭に生を受け、22歳の時に宮殿に奉仕に上がった後は19年間、近衛兵イェニチェリに所属した。建築方面での才能で頭角をあらわしたスィナンは、この分野に専念することとなり、メッカの神学校やブダペストのモスクなど、遠隔地にも多くの作品を残している。

完成に七年を要したモスクと周囲の施設建設は、3,000人の土木工を使って6~7mを掘り下げる基礎工事に最初の三年を費やしたといわれている。因みに総工費は現在の米ドル建てで約6,000万ドルとされている。スィナン独自の耐震設計が適用され、これをして「世界があり続ける限りこのモスクもここに立ち続ける」とスィナンはスルタンに言上したという。実際、イスタンブールで今日まで残る24の彼の建造物のうち、この500年間に起こった地震でダメージを受けたのは極僅かである。

スレイマニエモスクは規模とドームの高さはさておき、全体的な優雅さ、付属機関の充実さに於いてアヤソフィアに酷似している。16世紀、この地区は主に非イスラム教徒が居を構えた一帯で、イスタンブールの七つの丘の一つに位置している。

ブルーモスクが古いビザンチン宮殿の遺跡の上に建てられたのと同様、このモスクは都市の征服後、暫くの間オスマン民族が生活をしていたオスマンの小宮殿跡に建立されている。

スレイマニエモスク
スィナン自身が「修行期の作品」と言うモスクは200m×140mの庭園の中心に、前庭、そしてスレイマン大帝と后ヒュッレムの墓を含む後方に広がる88墓地を従えて吃立している。庭園の周囲にはモスクと同時にスィナンが建てた平屋の付属設備があり、特に、宗教教育の場であった神学校は重要であった。

ここの下手には土産物を売る店が入るバザール〈ティリヤキ・チャルシュス〉(病み付き達のバザールの意)があるが、この名称はオスマン帝国時代、ここが阿片を吸う人達のたまり場となっていた事に由来している。

また、モスクの西手には貧民救済用の食堂や隊商宿もおかれ、これらは全て付属施設の一部を構成していた。施設の中央の外苑には11ケ所の門から入ることができ、モスクの南壁には清めの泉が設けられている。西手の前庭には3ケ所の門が開いており、28のドームを支える花崗岩と大理石の24本の柱に取り囲まれている。

前庭に面するモスクの窓上にはタイルのパネルがあり、征服の賞賛に関するコーランからの一説がアラビア語で記されているが、これはハンガリーの征服後にここから得られた収益でこのモスクが建設された為に掲げられたものである。前庭中央、メッカのカーベを思わせる長方形の泉にも注目したい。

4本のミナレットのうち2本には3つずつ、残りの2本には2つずつ、計10ケのバルコニーがあるが、これはスィナンが、尖塔の数をしてスレイマン大帝が都市征服後から四代目、バルコニーの数でオスマンの創立から第十代目のスルタンであることを表現したものであるといわれている。

天才スィナンが69歳の時に建築にかかったモスクの規模は57m×60m、4,500㎡の敷地を有しており、一人当たりの礼拝用の面積を1㎡と仮定すると、同時に5,000人は祈りを捧げることができる。その規模と美しさで、ブルーモスクとともにイスタンブールにあるモスクの双壁といえる。高さ50m、直径26.5mの中央ドームはそれぞれ、レバノンはバールベックのゼウス神殿、アレキサンドリア、イスタンブールのヴェファ、そしてトプカプ宮殿周辺から搬入した4本(イスラムの最初の4人のカリフを象徴)の柱と東西の半円ドームに支えられている。南北両側には2本ずつの紅色の花崗岩の柱に支えられたアーチが見られる。ドームのぐるりには32、モスク全体では136の窓がはめられており、中央ドームを支える半円ドームは直径23m、高さ40m。

外装に勝るとも劣らない内装の繊細さは、特に、当時その分野では右に出る者無しとされた〈酔いどれのイプラヒム〉の作品であるステンドグラスにおいて顕著である。また、イスラム世界の指導者達やコーランの一部を記した高名な書家ハサン・チェレビの書は、モスクのオイルランプの煤を集めて利用した下地の黒の中に浮かび上がっている。

大々的な修復は参拝を受け始めて400年目にあたる1957年に実施された。説教壇とミヒラブは白大理石が使用され、彩色ガラスを用いた窓ガラスは16世紀当時のそのままのものである。モスクの数ある特徴の中でも、際立つものは何といっても見事な音響効果に違いない。

点火が容易な様に、また十分な明かりが得られる様に、照明(当時はオイルランプを使用)はかなり低めにさげられている。この間に下がる球状の黒い物体はダチョウの卵であるが、各種の香辛料と薬草で茄でられた卵の匂いがクモ避けに効果があるとされている。本堂裏手の墓地は、屋外墓標博物館の様相を呈しており、帝国上層部の面々が葬られたこの場に見られる墓石は、どれもが一つの芸術作品といえる程に繊細で美しい。死者の頭上のみならず、足元にあたる部分にも墓石がおかれているのに注目したい。

1566年にこの世を去ったスレイマン大帝は、墓地の中央に設けられた霊廟に埋葬された。スルタン・アフメットⅡ世、スレイマンⅡ世、そして大帝の皇女ミフリマーもここに葬られており、廟を覆う二重のドームの内側には夜空の星を思わせる石が刺繍されている。スレイマン大帝の霊廟のとなりにはロシアの僧侶の娘で、大帝の后となった後、次のスルタン・セリムⅡ世の母として帝国の政治を裏から牛耳ったヒュッレムの廟がある。本名をロクセラーナとする彼女は、帝の寵愛に付け込んで大帝に実の皇子ムスタファと宰相イブラヒムを殺害させ、帝国の運命に関わる重大な決断を強いたりしたしたたかな女性であった。

尚、モスクの生みの親スィナンの墓も、付属施設の北西端にみられる。派手ではないが繊細で洗練された彼の霊廟は、毎年4月9日の〈スィナンを偲ぶ日〉に公開される。
恰も自身の傑作品に署名を記すかの様に、施設の隅に彼の墓はたっている。

シェッザーデモスク

ベヤズィットとウンカパヌの間、16世紀当時のイスタンブールで都市の中心地であった場所に、1543~1548年にスィナンが建設したモスクがある。スレイマン大帝が、最愛の皇太子メフメットの死を悼んで造らせたもので、高さ37m、直径柑mの中央ドームと、その四方を取り囲む半円ドームは、スィナンの一番弟子の作である後のブルーモスクを思わせる。

バルコニーと彫刻の美しいミナレットを二本従え、説教壇とミヒラブは大理石製。神学校、貧民救済の食堂、隊商宿と共に皇太子(シュッザーデ)メフメットの霊廟もここにおかれている。


ルステムパシャモスク
 
スレイマン大帝の娘ミフリマーが夫の宰相ルステム・パシャの為、スィナンに依頼して1561年に造らせたモスクである。タフタカレ地区はナルブルラル・バザールの内部にあり、宰相の遺体はモスクの周囲に適当な場所がなかった為、別のモスクにて自らの名を冠した霊廟で埋葬されている。ルステム・パシャはイブラヒム・パシャと並んで当時最も影響力を持った宰相であり、しかもやり手の商売上手でもあったせいで、その財産はいつも人の噂にのぼったという。

建設用地として選択された場所がこの様な建物に適切ではないとみたスィナンは、解決策としてモスクを商店から成る土台の上に建てることに決め、こうして周囲のどこからも寺院が人の目に触れることを可能にした。方形の基盤にたち、中央ドームは四本の柱とアーチで支えられており、スィナンの円熟期最高の作であるセリミエ・モスクの前作ということもできる。

内壁全てと外壁の一部はタイルに覆われ、殊に外面のそれは他のモスクには例を見ない装飾と美しさである。セリムⅠ世がイズニックに遣らせたタイル工房の最も美しく価値ある作品が使用されているが、これほど多くの、しかも貴重なタイル製作を実現するにあたっての融資は、ルステム・パシャの様な裕福な人物によってこそ可能であった訳である。図柄としてはチューリップや幾何学模様が多く使用されている。


エジプシャンバザール エジプシャンバザール(スパイス・バザール)
 
オスマン帝国時代、エジプトからイスタンブールに持ち運ばれた香辛料の市がたったことからこの名でよばれている。ガラタ橋の正面、旧市街に入って直ぐの赤レンガ造りの建物で、イェニ・ジャーミ(新モスクの意)の推持費集めを目的に1660年に完成をみている。6ケ所に出入り口が設けられたL字形の建物の屋根は鉛使用のドームに覆われている。

内部の約80の店は主に香辛料や薬草をあつかっており、他には燻製品、チーズ、ジャム類、海綿、ナッツ類も種類豊富である。
プンと鼻をつく香辛料の香りが独特のエジプシャン・バザールは、もう一つの有名なバザール "グランドバザール" に比べてよりオリエンタルな雰囲気につつまれており、周囲には植物やペットを扱う店、木陰で一息つくのにうってつけのカフェ、行商人の屋台など、興味を引かれる店、物、人が溢れている。

バザールの裏手に広がるタフタカレ地区は主に行商人が露店販売をしている一帯で、オスマン帝国時代から続く精力剤に始まり輪入品の電気製品、香水、文房具、衣類など、ありとあらゆる物が売られている。


イェニ・ジャーミ
 
イスタンブールでも土地柄、最も多く信者が集まるモスクで、これ以前、アジア側のウスキュダルにヴァーリデ・ジャーミ(皇太后のモスク)が造られた為に、ここは最初イェニ・ヴァーリデ・ジャーミと呼ばれ、後に簡単に今の名前で呼称されるようになった。
イスタンブールのモスクの中で、建設期間が66年と最も長期に亙ったもので、トルコ語で "新モスク" を意味するその名前に反して、着工1597年と古い寺院の一つである。

スルタン・セリムⅡ世の后であり、メフメットⅢ世の母であるヴェニス出身のサーフィエ・スルタン(本名バフォ)の依頼で、建築家ダヴゥト・アーが着手した建立事業は、建築家の死と資金繰りの行き詰まりのせいで1605~1661年の間、未完成のまま建設ストップの状態におかれていた。

イェニ・ジャーミ
メフメットⅣ世の母トゥルハン・スルタンに命じられたムスタファ・アーは中途のままのモスクを1663年に完成させている。 
建設当時はモスクの土台3mの所まで海が接近していた為に、技術上も豊富な経験と知識が必要とされた。モスクの図面は、これ以前にシェッザーデモスクでスィナンが、ブルーモスクでメフメット・アーが適用した、四方に一つずつの半円ドームと四本の象の足(太い円柱)で支えられる中央ドームプランが用いられており、古典的オスマン宗教建築の最後の大規模な一例といえる。 

中央ドームの高さは36m、径17.5m。窓のステンドグラスや扉に見られる真珠貝の螺細細工、窓の上部に描かれたコーランからの一節など、オスマン芸術の繊細で美しい作品の数々で装飾されているが、残念ながら内部のタイルはそれ以前のものに比較して質的に劣るものである。 

5ケ所に設けられた扉の一つをぬけると24のドームを乗せた20本の支柱の並ぶ柱廊が見える。
それぞれ3つずつのバルコニーを備えた2本のミナレットが天に向かって吃立している。

ガラタ橋
 
19世紀初期より金角湾の北岸側の居住区が拡大すると、湾の両岸を結ぶ為に幾つものプロジェクトが立てられた。これについては、その一世紀前にあのレオナルド・ダ・ヴィンチまでが、作成した橋の青写真をスルタンに献進したとされている。

自然港として大変重要な金角湾の入り江を封鎖する事のないよう、開閉式の橋建設技術が開発される以前は、小船を以て両岸の連絡をとっていたが、帝国の主要宮殿をトプカプからドルマバフチェ宮殿へと移動させる件が本格化すると、橋の必要性はどうしても避けられない話となった。

湾に最初の橋が渡されたのは1836年、ウンカパヌとアザプカプの間にである。間もなく都市の中心地ガラタ地区への交通を考慮してイェニ・モスクの前に1845年に渡された第二の橋は、構想段階の陣頭指揮をとったベズミ・アーレム・ヴァーリデ・スルタンの名前からヴァーリデ橋と呼称された。

1863年と1875年に修復された後、1912年、ドイツのMAN社によって建造された468mの橋は1992年までイスタンブールっ子に親しまれてきたが、火災で損傷を受け、再びドイツはTHYSSEN社によって現在のガラタ橋が建設された。長さ80m、直径2mの114本の鋼鉄の杭の上に乗る484mの橋は、湾内部にあるドックヘの出入りの必要上、跳ね橋となっている。


ファーティ地区
 
エユップ、金角湾 
スルタンアフメット広場程ではないが、金角湾沿岸にも多くの歴史上のスポットが集中している。以降、まずウンカパヌのヴァレンスの水道橋から始まって、ファーティ地区、そして陸側の城壁へと歩みをすすめてみたい。


ヴァレンスの水道橋
 
 ビザンチン皇帝ヴァレンスが375年、サライブルヌの第三、四の丘の間に建てた水道橋は、郊外のベオグラードの森の湧き水を都市に引いてくる為のものであった。

地面からの高さは20m(海抜64m)あり、本来は1kmに亙ったこの設備も、800mの部分のみ現存している。大きなアーチから成る下部と小さめのアーチの上層部からの二重で、建築資材としてカルケドンの水道橋に使われていたストーン・ブロックが利用された。
1,500年間の使用に耐えた水道橋は、オスマン帝国時代になって17世紀に修復されている。

ヴァレンスの水道橋

ファーティ・モスク
 オスマン民族がイスタンブールを征服した後、初めてスルタンによって建立されたモスクである。
ビザンチン帝国期、現在モスクが建つ第四の丘には、コンスタンチヌス帝が建てた都市最大の教会聖アポストリ教会がおかれていたが、征服10周年にあたってオスマンの征服王メフメットは廃墟同様の状態であった教会を壊し、自らの名を冠した参拝と文化の中心となるべく建物の建設に踏み切った。

ビザンチンの上昇期にみられた巨大な建造物に勝る作品を目的に、まず初代ファーティ・モスクと付属機関が8年の歳月をかけてギリシア出身のアティク・スィナンの指揮で完成した。スレイマニエ・モスク以前、これは高さ50m、直径26mのドームを有する都市最大のモスクで、設備の一環として設けられたファーティ学問所はオスマン帝国最初の大学とされる。

神学校、図書館、小学校、隊商宿、托鉢僧用の宿、診療所、トルコ風浴場ハマムなども有して、1766年の地震で修復不可能なダメージを被るまで、市民の集う場所であった。1771年に新しいファーティ・モスクがスルタン・ムスタファⅢ世の資金提供で、メフメット・ターヒル・アーの指揮で完成し、アーチのある4本の柱で支えられた中央ドームが堂々とした姿をあらわした。かつてのミナレットにはバルコニーが増設され、バロック様式のミヒラブも美しい。
 
二列の窓があけられた内庭には、壮麗な門をくぐって入る。
壁、壁のタイル、シャドゥルヴァン、門、ミヒラブ、ミナレット等は、その全て、または一部の部分を初代ファーティ・モスクのものからそのまま利用している。

内庭に見られるアラビア文字による祈りの言葉がとても美しい。また、このパティオには、1877~1878年のロシアとの戦争の英雄ガーズィ・オスマン・パシャと、征服王メフメットの后ギュルバハル・スルタンの霊廟もおかれている。 
ファーティ・モスクの前を走る通りの向こうにはビザンチン時代、広場の中心に置かれたという高さ17mの〈クズタシ〉がある。


フェティエ・モスク(パンマカリストス教会)
12世紀にヨハネス・コムネノスが建立した教会は、オスマンによる都市征服後の1591年、グルジアとアゼルバイジャンの征服を称えてモスクに転換された。ここは今日、一部をモスク、一部は博物館として利用されており、イスタンブールに於いてカリエ、アヤソフィアに次いで美しいモザイクを目にすることができるビザンチン時代の建造物といえる。

イスタンブール征服後、正教の教会であった聖アポストリ教会の閉鎖にあたり、1455~1586年にかけてここに正教の礼拝堂がおかれた。
聖母に捧げられた‘幸福なる神の母’と呼称されるモザイクは、ビザンチンルネッサンスの典型的な一例といえる。石と煉瓦を用いた外壁、寺院の屋根を覆うフリルの帽子にも似たドームは、ビザンチン建築の特徴を顕著に表すものである。
 
再び通りに出て陸側の城壁に向かって進むと右手に折れる小路がある。ここを入った所が、ビザンチン時代の小親模ではあるが貴重で保存状態も最高のモザイクが残るカリエ博物館(チョラ教会)である。

カリエ博物館(コーラ教会)

カリエ博物館(コーラ教会)
 
4世紀に初めて建設された際、城壁の外側に位置していた為‘田舎の、郊外の’の意味にあたるコーラの名がつけられた教会は、後の城壁拡張事業と共に城壁内におさまったものの、名称は昔のままである。今日の建物は11世紀にマリア・ドゥカエナの依頼で造られたものを12世紀にイサアク・コムネノスが修復したもので、14世紀になってテオドール・メトキテスが外廊とパラクレスィオン(埋葬の間)を増築している。

1316~1321年に教会をモザイクとフレスコ画で装飾させた帝国最高官吏メトキテスは、文化・芸術に精通し、財産を惜しみ無く慈善事業へ提供した政治家であった。1511年、アティク・アリ・パシャによってモスクに転換された教会は、ミナレットが追加され、内部に残る教会時代の宗教画やモザイクも1765年に漆喰で固められた。第二次世界大戦後の修復を経て博物館として一般解放されて以来、イスタンブールで最も美しいビザンチン帝国期のモザイクが残る場所として多くの見学者を魅了し続けている。 

礼拝堂の床は彩色大理石のモザイク、壁は大理石張りで、室内には明るい雰囲気が漂う。ここには14世紀のモザイク三点が残るが、後陣の右手、幼少のキリストと聖母、左手のキリストを表した作品は多少ダメージを受けている。対して、入り口の上部、マリアの死を表現したモザイクは美しい。

中央の寝台に横たわる聖母をキリストと彼の使徒達、そして天使達が囲むものである。最も美しい外・内廊のモザイクは内容の豊かさ、使用される色彩の変化、仕事の細かさと、どの点についてもビザンチン時代の作品中、これらの右に出るものなしといえる。モザイクにて表現されるのは、概して聖書のストーリーからのものであるが、例えばマリアの誕生やその幼少期など、新約聖書の題材による作品も見られる。これらが作成された目的は、文盲の、あるいは聖書を得る事のできない信者達にイエスとその家族を身近に知らしめる為であった。躍動的で現実的、生き生きとした場面は、モザイクの破片としてマルマラ海の小石が用いられ、絵画芸術再興の先掛けとなるものであった。

カリエ博物館(コーラ教会)
年代を追いながら、まず内廊の入り口に向かって左手の壁、天使から受胎を告知されるマリアの母アンナのモザイクから始めてみたい。続いてマリア誕生、その幼少期、寺院への信奉、ヨセフとの結婚が表現されている。内廊から礼拝堂へと開く扉の両側には聖パウロと聖ペテロ、その上部にはテオドール・メトキテスと玉座についたキリストが、扉右手のドームには聖約書から聖人と預言者達が描かれている。

この下部、〈イエスの奇跡〉では病人を治療する、盲人に光りを与える、死人を復活させるキリストが表現されている。ここで、壁の一つを完全に覆う作品にはキリストとマリア、イサアク・コムネノス、そして修道女メラニーが描かれているが、下部の損傷が激しいとはいえ、このキリストは市内に残る同種の作品中、最も美しいものとされている。外廊の物語りは、左手、ベツレヘムへと向かうマリアとヨセフに始まる。

キリストの誕生のシーンに続き、真ん中の辺りには悪魔に試されるキリストがみられる。入り口上部のものはキリストの奇跡から、パン造りやカナンの結婚である。外廊入り口の右側に、赤児のキリストを探させるヘロデと、キリストの奇跡からのシーンがあるが残念ながら損傷が激しい。
 
外廊とはL字の通路でつながり二本の柱で分けられるかのような部屋は、14世記にメトキテスが造らせた埋葬の間パラクレスィオンである。長さ16m、幅5mの通路はメトキテスの他、政治家ミカエル・トルニケスと身元不明二人の埋葬されている場所で、モザイクの代わりに死をテーマにしたフレスコ画が描かれている。ここの最も奥まった部分にある半円形の後陣には、アダムとイヴを地獄から助け出すキリストが表現されている。この直ぐ前のアーチに描かれるのは最後の審判、地獄へと落ちる罪深き人のシーンで、通路中央のドームには聖人達に取り囲まれたマリアとキリストが見られる。 

博物館を後に再びエディルネカプに戻ると、城壁の端にはスィナンの傑作の一つミフリマー・スルタン・モスクがたっている。

テクフル宮殿 
オスマン帝国時代、都市からエディルネへと続く路がここを始点とした為に〈エディルネカプ〉と呼ばれた門がある。ここから城壁の内部に沿って金角湾へと下るとビザンチン時代に属するいくつかの遺跡に出る。

まずは11~14世紀にかけて造られた宮殿の跡で、外壁に使用された白い石と赤レンガのテクフル宮殿が注意を引く。 
18世紀にはタイル工場として使用された宮殿を後に湾の沿岸に出たら、回教徒達にとって聖地の一つとされるエユップ地区のエユップ・スルタン・モスクを訪れてみよう。


エユップ・スルタン・モスク
アラブ人による第一次コンスタンチノープル包囲(674~678年)の際、この地で殉教したハリッド・ビン・ゼイド(エユップ・エル・エンサーリとしても知られる)を追悼してイスタンブール征服後の1458年に征服王メフメットが寺院を建立した。

1766年の地震で全壊したモスクの代わりに1798~1800年にセリムⅢ世が新築させたものが現在のそれである。特にここの霊廟に回教の祖である預言者モハメッドの友であり、旗手でもあったエル・エンサーリが埋葬されている事実において、エユップ・スルタン・モスクは敬謙なイスラム教徒にとって、最も神聖な寺院の一つとされる。

1453年、オスマン民族がコンスタンチノープルを完全包囲し、今日明日にもここを落とすという時、若き征服王の師であるアクシェムセッディンの夢にこの霊廟があらわれたといわれている。

このお陰で発見されたエル・エンサーリの墓の存在は戦士の覇気を高め、都市の征服も成功裏に終わったとある。彼の霊廟は1458年に造られた単ドームの八角堂で、青と緑を基調にした16世紀のタイルが素晴らしい。方形の基盤に立つ中央ドームの周囲には、八つの半円ドームが見られる。

イスラム世界で指導的立場にあったエル・エンサーリの側で永遠の眠りにつこうとした宰相をはじめ、司令官達、皇族など、帝国上層部の人々の墓がここの周囲には多い。外苑では大木が陰をおとす中に、優美な清めの泉シャドゥルヴァンがある。付属施設として設けられた神学校、隊商宿、貧民用の食堂等のうち、今日まで残ったのは浴場の一部のみである。 

割礼の儀式に臨む少年、病人、新郎新婦、大会を前にした選手達等、祈廟成就を願う多くの信者がここを訪れる。 後方に広がる墓地の石畳をのぼると、足元に広がる金角湾を一望しながらトルココーヒーが楽しめる〈ピエール・ロティの茶屋〉がある。この地をこよなく愛した19世紀のフランス人作家の名を冠した茶屋は、典型的トルコ風の内装でも興味そそられる場所といえる。


フェネル - バラト
エユップから再び金角湾へ向かい、市の中心へとルートをとると多くの教会やシナゴグがある湾の沿岸バラト地区に出る。裕福なユダヤ人達が低所得者達の治療の為に建設したバラト病院(1858年)にも注意したい。 

フェネル地区には三つの重要な建物が存在する。まず、赤い外壁と特徴ある建築様式で人目をひくルム男子高校。15世紀に遡るこのギリシア系学校は多くの名士を輩出させている。(現在の建物は1880年のもの)

二番目は、1896年に造られたブルガリア教会(本来の名:聖ステファン教会)で、建設にあたってはオーストリアにて準備された後、ドナウ川と黒海を船で運んだ鋳鉄パネルが使用されている。三番目の建物は、金角湾沿いの建造物のうち最も重要なものといっても過言でないフェネル・ギリシア正教総大司教館である。

それまで小さな教会で活動していた正教の信者達は1602年にここに本拠地を移した。司教館は新しいが、隣の教会は1720年建築のものである。正教の総本山として、地元は勿論のこと、隣国ギリシアをはじめ世界中から多くの信者を迎え入れている。
 
ウンカパヌの手前ジバリ地区には、9世紀に建立され、16世紀にモスクに転換されてからはギュル・モスク(薔薇の寺院)と呼ばれたかつての聖テオドシア教会がのこっている。

フェネル

ゼイレク・モスク(パントクラトール修道院)
12世紀の初期は皇帝ヨハネス・コムネノスⅡ世と后イレーネ(アヤソフィアのモザイクで表現されている皇帝一家)の治世下で、当時の有名な建築家ニケフォロスによって建てられた総合施設は、隣接する二つの教会とチャペル、病院、養老院、精神病院、僧侶の宿舎等から構成されている。

教会はキリストとマリアに、チャペルは大天使ミカエルに捧げられたものである。 
イスタンブールで今日まで残る同種の建造物の中では、アヤソフィアに次いで二番目の規模をもつパントクラトール教会の修道院では、その昔700人が宗教、奉仕活動にあたっていたとされている。

オスマン民族による征服後、教会はモスクに、修道院は神学校にと変換されたものの以降、重要性を失って使用されなくなっている。残念ながら、手入れの行き届かないまま放置されてはいるが、床のモザイクや窓のステンドグラスはかつての建物の美しさを無言のうちに語りかけている。


ガラタとタクシム
ガラタ橋を渡ると観光スポットの多い旧市街に対して新市街と呼ばれる一帯、ガラタ地区、タクシム広場に出る。ビザンチン期、辺りはヴェニスやジェノア人の支配下にあったが、彼らの暮らしの跡を示すものは皆無で、最古の建造物としてはガラタ塔とアラビアン・モスクをあげることができる。

都市を征服した後もオスマン民族は彼等の信条とする寛大な態度をとり続け、占領した土地の人々の引き続いての居住と宗教の自由に何らの制約をつけることはなかった。この為、辺りには今でも多くの教会やシナゴグが存在する。オスマン時代は特に18世紀、ベイオール地区といえばヨーロッパの商館や大使館のある一帯として知られ、今日ではイスタンブールの繁華街として夜も遅くまで沢山の人で賑わっている。

ガラタ地区

トゥネル
 ガラタ橋から新市街に入るとすぐ、ガラタとベイオールを結ぶ、非常に短距離の地下鉄がある。フランス人技師が設計し、1871~1876年に英仏間で設立した会社によって建設されたもので、世界で三番目に古く、距離570m、乗車時間2分と最も短い地下鉄である。


ガラタ塔 
都市のどこからも望める高さ61mのガラタ塔からの景観は絶品の一言につきる。
143段の階段かエレベーターを利用して頂上のバルコニーにでると、足元のボスフォラス海峡、金角湾、マルマラ海の中に、横たわるアジア、ヨーロッパの両大陸が一望できる。

早くも5世紀にしてこの辺りの塔の存在を記す資料があるが、ガラタ塔が現在の姿になったのは1348~1349年のことである。
元々はビザンチンからこの地をジェノア人が防御壁の一部として造ったもので、当時の名称を〈イエスの塔〉といった。
海抜140m、内径9m、オスマン帝国時代には、牢獄、倉庫、灯台、火の見櫓としても利用され、1964~1967年の修復時には頂きに円錐形の屋根が被せられた。

伝説によると、オスマン時代は17世紀、自ら作った翼を背負って学者ハゼルフェン・アフメット・チェレビは、塔から対岸のアジア側ウスキュダルまで飛んだ、とされている。
夕食を頂きながらのベリーダンスや民族舞踊のディナーショーは有名である。

イスティクラル通り

イスティクラル通り
トゥネルの上駅とタクシム広場をつなぐ通りをイスティクラル通り(独立通り)とよぶ。オスマン帝国の末期、西側諸国が大使館をおいた地区の中央を突っ切るこの通りにはカフェやブティックがならび、所謂、西洋の商習慣伝播の震源地ともいえる。

歩行者天国の通りには、古き好き時代を偲ばせる〈ノスタルジック・トラム〉が運行している。両側の商店に目を奪われるが、19世紀末から20世紀初期に建設された建物の、細かいレリーフのある美しい外壁にも注意を払いたい。 

トゥネルからタクシム広場へと進むと右手にスエーデン、オランダ、ロシア総領事館、1906~1912年に近代ゴシック様式にて建立され、都市で最も重要なカトリック教会とされるサン・アントゥアン・イタリアン教会などがみられる。尚、イスタンブール最古のデラックスホテルであるペラ・パラス、米、英国総領事館は、通りに並行して走る大通りに位置している。

イスティクラル通り半ほどには、名門ガラタサライ高校や1875年に遡る郵便局、ビヤガーデンやレストランの並ぶチチェキ・パサジ、香辛料や魚、キャビアやカラスミを扱うバルク・パザル、典型的なトルコ風呂ガラタサライ・ハマムが集まるガラタサライ広場がある。さらに歩を進めると、左側には1834年に造られたアー・ジャーミ(モスク)、1898年に建設され、1920年以来フランス領事館として使用されている建物がある。

タクシム広場 
歴史を通じて、重要な政治集会や演説の行われてきた広場である。 
広場の中心にはイタリア人ピエトロ・カニーニが救国戦争と共和国設立をテーマに、1928年に完成させた高さ12mの(共和国の記念碑〉がたつ。広場の一端にあるのが、1950年代に着工の後、タクシム広場1969年に完成したアタテュルク文化センターで、コンサート、展示会場、映画館を備えた設備である。

ここの前からドルマバフチェヘと下るギュムシスユ通り右手にはドイツ、日本総領事館、向かいにイスタンブール工科大学の建物(これらは全て19世紀の建造物)が見られる。

タクシム広場 
広場にはデラックスホテルの一つザ・マルマラホテルと、かつては兵舎のおかれていた公園(ゲズィ公園)が広がり、イスティクラル通り口元の左手には1880年に建立された単ドームと二つの鐘塔のあるアヤ・トリアス教会がたっている。 

タクシムから北へと走る大通りをジュムフリエット通り(共和国通り)という。多くの航空会社や旅行代理店、銀行が両側に並び、エルマダー、ハルビエ地区へと歩くと、都市初のファイブスターホテルであるヒルトンホテル、1949年に放送を始めたラジオ局等が姿をあらわす。

ここを過ぎると通りの右側に、やはりトルコは陸軍の大国と実感させる軍事博物館にでる。1959年に建てられてから、12世紀より朝鮮戦争までにトルコ軍の使用した武器、軍服、テント、戦争に関する多くの絵画を展示してきたこの博物館には、ビザンチン側がオスマン軍の金角湾侵入を防ぐ目的で入り江に張った太い鎖も保存されている。世界で最初に編成された軍楽隊であるメフタルの演奏は是非とも鑑賞したい。


ボスフォラス海峡 

ルーマニア、ブルガリア、ウクライナ、ロシア等、黒海沿岸諸国が地中海へ出るにあたって非常に重要なボスフォラス海峡は、1936年のモントレー条約によってトルコの監督下におかれている。 

ボスフォラス海峡
海峡の形成は、地質時代第4紀の地層の陥没に始まり、現在の姿となったのは今から7,500年前のことで、その名は次の様な神話に由来している。一全能の神ゼウスが妻ヘラの嫉妬から恋人イオを守ろうと彼女を雌牛に変えたが、これを見破ったヘラは雌牛を脅そうと蜂をけしかけた。哀れイオはこれを逃れようと海を分けて突進し、こうしてここが〈雌牛(Bous)の通り道(Phoros)〉と呼ばれる様になった。

有史以来、両大陸間の移動を試みる軍隊の前に越える事不可能な障害として横たわった海峡に、最初の橋が架けられたのはまだ紀元前4世紀の事。軍事遠征を仕掛けたペルシアの皇帝ダリウスが、700,000人の兵を渡す為に筏と船を縛って造った "橋" である。

コンスタンチノープル陥落の為には、ボスフォラスを落とすのが先決であることを十分に弁えていたオスマン民族は、まずはその両岸にアナドルとルーメリの要塞を建造して、そこに設置した大砲によって敵方の海上輪送を封じた。都市の征服後、その初期には漁村が点々としていたのみであった海峡の両岸も、時とともにスルタンが賞与として、あるいは口止め料として辺りの土地を帝国上層部の人間に与えた結果、木造の館やヤル(水面に張り出した形の別荘)の建設が始まったのである。共和制になってからの建設ラッシュの餌食になった感は否めないが、しかし、これらにも拘わらずやはりボスフォラスは世界でも指折りの美を披弄している。

土地っ子、外国人、全ての人々を魅了せずにはおかないこの海峡にとって、第一ボスフォラス大橋が建設され欧亜両大陸が結ばれた1973年は、まさに歴史上の転換期ともいえる。1988年には日本企業の建設による第二ボスフォラス大橋〈ファーテイ・スルタン・メフメット大橋〉もわたされている。

大型タンカー、貨物船が通過するボスフォラス海峡は、今日、世界で最も重要で、最も取引量の多い、そして最も危険な海峡とされている。
以下、海峡沿岸の地区、要所に解説をくわえてみたい。

ボスフォラス海峡

ガラタからルメリフェネルへ
 金角湾がボスフォラスとぶつかるガラタから、まずは左手、つまりヨーロッパ大陸の沿岸に注目してみたい。
ガラタ橋の袂には1894年に造られたカラキョイの桟橋がある。オスマン帝国時代の金融、交易の中心ガラタ地区が、世界との取引が可能であったのは一重にこの桟橋のお陰で、現在では大型客船や主に買い出しにやってくるロシア人の貨物船が利用している。
 
トプハーネ地区には沿岸通り山側に、征服王時代からの建物を壊して、スレイマン大帝の命で建設された16世紀の大砲工場がある。この向いにたつのは、1580年にスィナンがデルヤ・クルチ・アリ・パシャの為に建立した同名のモスクで、隣にはマフムットⅠ世が1732年に建設し、火災で全壊した後1957年に再建された装飾の美しいトプハーネの泉がみられる。

1850年に英国人建築家ジェームス・スミスの建築による線色のトプハーネの館の隣には、都市で最も美しいバロック様式のモスク、ヌスレティエ・モスクがある。ここから、高速のシーバスが出入りするカバタシを過ぎると、海峡沿岸に点在する建造物中、最も豪華絢爛なドルマバフチェ宮殿に着く。


ドルマバフチェ・モスク
 
スルタン・アブドゥルメジットの母御ベズミアーレム皇太后に捧げられたこのモスクは、同名の宮殿の建築責任者でもある高名なアルメニア人建築家バルヤンの作による。自分の財産はもとより、国家から内廷費としてわたされた金を慈善活動に費やした皇太后は、1852年に43歳でモスク完成前年にこの世を去った。

バロック、ルネッサンスの影響を受け、古典的なオスマン様式によるモスクとは様相を異とするもので、ドルマバフチェ宮殿の付属機関の一つとして造られたことから、宗教活動の場というよりはきらびやかなサロンの雰囲気が漂っている。壁の大きな窓から注がれる光りが、内部の彩色大理石の装飾に反射する様子は、大変に美しい。刺繍が多用される室内装飾には欧風のデザインが用いられ、ミヒラブや説教壇、繊細なミナレットはエレガントでさえある。


時計台
 
 宮殿の隣には1890年にスルタン・アブドゥルハミットの命によって建築家サルキス・バルヤンが建設した27mの時計台がたっている。基盤は大理石、上部にはストーン・ブロックが用いられ、塔の四面にはフランスのガルニエの時計とオスマンの紋章がみられる。

ドルマバフチェ宮殿
 
285の部屋に43の大小ホール、6つのバルコニーに6つの浴室…それに14トンの金を加えて気狂いじみたロココスタイルをこねあげ、さらに280の花びん、156の時計、58のシャンデリア、11の火鉢に4555平方メートルの手織絨毯…をかきまぜたもの、それがドルマバフチェ宮殿である。スルタン、アブドゥルメジドは、初めて自分の宮殿を訪れた時に、「こりゃあぜいたくすぎる。もっと簡素にできなかったのかな…」とつぶやいたとか。
ドルマバフチェ宮殿 ドルマバフチェとはトルコ語で「埋めたてられた庭」を意味する。ここは埋め立て地だったのである。19世紀半ば、31代スルタン、アブドゥルメジットは自分がもはや「アラーの影」というよりもただの「影」にすぎない事を忘れてボスフォラスの岸べに新宮殿を建てたのだった。その結果は国家予算の破綻だった…。ヨーロッパ列強の君主からの贈り物は、ナポレオンⅢ世のプール細工のテーブル、ロシアのニコラスI世から白熊の敷物、フランツ・ヨセフオーストリア皇帝からボヘミアグラス、イギリスのヴィクトリア女王から重さ4.5トンという豪華なシャンデリア…など。
浴室はエジプト産のアラバスターでつくられた。大広問の絨毯を織るために、ヘレケ(イスタンブールの近くの有名な絨毯産地)には特別の織機が準備された。

ベシクタシ
  
ドルマバフチェ宮殿を後にして海岸沿いに歩くとベシクタシ地区にでる。ボスフォラス海峡沿岸の中でも早くから人が住み始めた場所で、幾つかの史跡と重要な二つの博物館がある。

海軍大将パルバロス・ハイレッティン・パシャの霊廟と、向いのスィナン・パシャ・モスクは、どちらも有名なスィナンの作品である。一本の尖塔と42枚の窓がはめられたモスクは、スレイマン大帝の海軍大将スィナン・パシャに捧げられたものである。博物館としてはドルマバフチェ宮殿内の美術博物館と海軍博物館があげられる。1961年まで財政局の建物として使用されてきた場所に、現在はオスマン帝国海軍に属する品々、大砲、地図、軍服が展示されている。近くのベシクタシ・バザールの中にはギリシア正教とアルメニアの教会がある。

海岸通りを続けると左手にユルドゥズ・パーク(星の公園)が広がっている。ビザンチン時代に月桂樹で有名だったこの森は、オスマン時代になると園遊会の催される場所となり、アブドゥルハミットⅡ世によって小宮殿や東屋が建設された。公園の向かい、19世紀の元宮殿チュラーン・サライは、現在、超高級なホテルとして利用されている。


オルタキョイ
   
最もヴィヴィットな地区オルタキョイは、回教のモスクとユダヤのシナゴグ、ギリシア正教の教会があることから、イスタンブールの宗教的寛容さを象徴する場所ともいえる。1990年代の初めに再建された広場は、週末や夏になると若者達でごったがえす。

岸辺のオルタキョイ・モスクは1854~1855年に皇帝アブドゥルメジットがバルヤンに命じたもので、対岸のベイレルベイ宮殿を住まいとするスルタンは、小舟にのってこのモスクに礼拝にやってきた。モスクの裏通りには1856年のアイオス・フォカス教会と1915年のアヤイム・シナゴグがある。

モスクの隣、エスマ・スルタンのヤルは1875年に皇帝アブドゥルアズィズが皇女エスマの為に造らせた別荘である。

オルタキョイ

ボスフォラス大橋
 
1950年代から既にプロジェクトにかかっていたこの橋の建設は1970年2月20日に始まり、1973年10月29日のトルコ共和国建国50周年記念に完成を見ている。

独・英の合同による建設事業には35人のトルコ人技師と400人の土木工も参加をし、2,300万米ドルの費用を掛けて全長1,569m、幅33m、高さ165mの橋脚間の距離1,074m、水面からの高さ64mの橋が完成した。

毎日20万台の車両と、それに乗った60万の人々が欧亜両大陸間の移動に利用するこの橋は、吊り橋の長さ部門でヨーロッパで第4、世界第7番目にランキングされている。(有料/歩行禁止)


ルメリの要塞
  
コンスタンチノープル征服の為には、ドナウ川から黒海、そこから海峡を経てビザンチン帝国の心臓部へと送られる物資の輸送経路を断つ事が先決と考えたオスマンの若き皇帝メフメットは、1393年に祖父帝ユルドゥルム・ベヤズィットの建造したアナドルの要塞の対岸に別の要塞を設けることにした。

1452年当時、1,000人の棟梁と2,000人の土木工を使って4ケ月という記録的な速さで完成したもので、3つの監視塔とこれらを結ぶ頑強な壁は如何にも厳しい。塔のうち、海峡側のハリル・パシャの塔は12角柱、この右手には、高さ24m、直径33mのサルジャ・パシャの塔がたつ。左手のザーノス・パシャの塔は海抜57m。1953年にイスタンブール征服500年を記念して修理されたが、内部には大砲が並び、夏には星空の下でコンサートが催される。

海峡長狭ポイント上に架かる第二ボスフォラス大橋(征服王メフメット大橋)と共に広がる景色は絶景である。

ルメリの要塞

征服王メフメット大橋(第二ボスフォラス大橋)
  
第一大橋(別名アタテュルク大橋)が、急増する交通量に対処できなくなると、1985~1988年に第二の橋が建設された。開通式はオスマンの都市征服535年目にあたる1988年5月29日に行われ、橋の名もそれに由来している。水面からの高さ64m、橋脚間の距離1,090m、全長1,510m、幅39m。1億3,000万ドルをかけて日本企業の合同参加で完成したものである。(有料/徒歩禁止)


エミルガン
 
サルイェル
ヨーロッパ側の沿岸を歩き続けると同名の森のあるエミルガン地区にでる。ビザンチン時代には470,000m2をおおう緑地であり、オスマン帝国期に建てられた、それぞれ黄色、ピンク、白の館の名でよばれる東屋が緑の中に点在する美しさは格別である。
1943年には市民に解放され、春にはトルコが原産国であるチューリップ祭りが開催される。

タラビヤの入り江に近づくと左手に、今日、大統領のイスタンブールの官邸として利用されるフーバーの館が姿をあらわす。64,000m2の敷地にあり、もとはトルコ-ドイツ友好に貢献したフーバーの所有物であった。このすぐ隣、スルタン・アブドゥルハミットⅡ世が1889年にウイルヘルムⅡ世に贈呈した地所には、ドイツ領事館の夏の館がたち、木造の建物の後方、第一次世界大戦以来のドイツ共同墓地には265の墓もある。 

魚料理の店が並ぶタラビヤ地区は、ビザンチン時代セラペイアの名でよばれていた。治療効果の高いと言われたここの湧き水の存在に由来するものである。ボスフォラスを海上から観光する場合、おおかたクルーズはタラビヤを終点としている。前方のタラビヤホテルからブユックデレまで、順にイタリア、ロシア、スペイン領事館の夏の館が並ぶ。ブユックデレとサルイェルの間にあるサドベルク・ハヌム博物館は、トルコの産業発展に多大な貢献をしているコチ一族の、個人所有のコレクションを展示しており、考古学的発掘品の他、豊かなアナトリア(小アジア)の暮らし向きがうかがえる、興味深い品々を見学することができる。
大陸間をジグザグに運行する公共の連絡船は、ヨーロッパ側では次のサルイェルが終点となる。ここまで来るともう黒海も間もなくである。古い要塞と教会の跡、灯台のある小さな漁村ルメリ・カヴァウ以降は、軍用地の為、立ち入り禁止である。

カドゥキョイ
 
 この地区では、イスタンブールの近辺で最初の集落跡として、先史時代は紀元前4,000年頃の出土品が発見されている。伝説の建国者ビザスが対岸のサライブルヌにビザンチンの核となる町をつくる前、既に紀元前7世紀にここカルケドンにやって来たメガラからの移民が、町を‘盲人達の町’とよんだことはよく知られている。

451年にはキリスト教公会議の舞台となったことも町の重要性を物語るものと言える。オスマンの征服後、海岸沿いに贅沢なヤルや広い庭のある美しい邸宅が造られたが、急増する都市人口を背負って、高層の集合住宅がこれらにとってかわりつつあるのは残念である。
一帯に歴史を物語るものははとんど残っていないが、洒落たブティックやカフェの並ぶバーダッチャッディス(バグダット大通り)はイスタンブールがヨーロッパの一部であることを感じさせてくれるハイセンスな場所である。 

カドゥキョイの港の反対側には、イスタンブールで最も大きな貿易港ハイダルパシャの港と、アジア側の主要駅ハイダルパシャ駅がある。ドイツの企業が19世紀の末から20世紀初期にかけて敷いたバグダット鉄道の一部であり、駅舎は1906~1908年に建設された。
海に打ち込まれた1,700本の杭に支えられた4,000m2の面積に、4本のプラットホームを有する駅で、この前の桟橋には1915~1917年に造られたタイルの窓間壁が美しい建物がみえる。 

カドゥキョイからウスキュダルへと向かうと、四つの角にそれぞれ塔を掲げたセリミエ・クシラス(市内で最も大きな軍用施設:セリミエの兵舎)がある。もとはセリムⅢ世の時代に木造の兵舎が建設されたが、これは全焼しており、現在の建物はマフムットⅡ世によって1825~1827年に造られたものを、アブドゥルメジットが修復したものである。

クリミア戦争中、フローレンス・ナイチンゲールは、当時、野戦病院と化したこの兵舎で負傷兵の看護にあたり、現在も彼女の使用した部屋はそのまま保存されている。また、この近くにはその戦いで命を落とした英国兵士達の墓もある。

広大なカラジャアフメット共同墓地はオスマン帝国時代からの何千もの異なった造りの墓石をして、あたかも‘野外墓石博物館’の様である。オスマン時代、預言者モハメッドの墓があるメディナにより近いことから、信仰心厚いイスラム教徒はアジア側の墓地に埋葬されることを望んだという。

ウスキュダル

ウスキュダル
アジア側で最も歴史のある居住区である。他と同様、西洋的で合理的な建物に押され気味とはいえ、オリエンタルな面影を湛える典型的トルコ建築等、パーソナリティーを守り続けている貴重な町である。古代“黄金の町”と呼ばれていた訳は諸説ありで、その自然美をして、とか、あるいは日没時の海の色から、はたまた海峡通過料として金貨が支払われたから、とか定説はない。

紀元前6世紀にこの他を支配していたペルシア人が撤退の際、アナトリアで集めた金をここに忘れたから、などというのもある。ローマ、ビザンチン時代、ウスキュダルは都市の境界外にあって、守備隊駐屯地として利用されていた。皇帝はここから、守備隊の意味にあたるスクタリを町の名とし、これが現在の地名ウスキュダルの基となったといわれている。

オスマン帝国期、ここには特にスルタンの妃や娘達の出資によって運営された様々な公共施設がおかれた。スレイマン大帝とヒュッレム・スルタンの娘であり、宰相ルステム・パシャの妻であったミフリマー・スルタンが1547年にスィナンに依頼したミフリマー・スルタン・モスク(スィナン初期の作)が、桟橋の後方に建っている。その正面には1728年にアフメットⅢ世が母親の為に造らせた記念泉噴が見える。表面に残る、当時の有名な詩人の筆による詩文も興味深い。

スルタン・メフメットⅣ世の后でアフメットⅢ世の母ギュルヌシ・エメトゥッラ・ハートゥンの為に1710年に建立されたイェニ・ヴァーリデ・モスクも見てみたいが、タイル装飾は可もなく不可もなく、という程度の作品である。海岸から町中に少し入ると、1580年にスィナンがスレイマン大帝の宰相の一人であったシェムスィ・パシャの為に造った、小さいが優雅で美しい同名のモスクがのこっている。単独ドームと尖塔を備えるとともに、特徴的なのは、海岸に面していて基盤が海へと崩れる心配があった為に、一種のアラームとして、その際にはミヒラブの二本の柱が回転してコトコトと音を立てる工夫がされている。


乙女の灯台
 レアンドロスの塔としても知られる灯台は、ウスキュダルはサラジャクの、岸から200m離れた海中に建てられている。どちらの名称も伝説に由来し、乙女・・の方は愛娘を守ろうとして彼女をここに閉じ込めたビザンチン皇帝に関係している。呪い師が贈った果物籠から這い出した蛇に噛まれて、可哀想に彼女は、予言どおり死んでしまう。二つ目レアンドロスの方は、こじつけの感がしないでもない。つまり、アフロディーテの巫女ヘラと、彼女との逢瀬に毎晩海を泳いで来る美男子レアンドロスの恋物語は、ボスフォラスではなく、ダーダネルス海峡が舞台なのだから・・・。

しかし、人々はこれをボスフォラスにあてはめて、次の様な逸話にしている。"ヘラの掲げるランプの光りを目印にして泳ぐレアンドロスは、ある嵐の晩、風に消されて光を失い溺死してしまった。哀れヘラも彼を追って海中に身を投げた" と。 
紀元前5世紀、アテネとスパルタの戦いの頃、既にここに要塞が置かれた、とする文献がある。オスマンによる征服後、スルタン・メフメットの造らせた要塞は1600年頃に灯台として使用される様になり、19世紀はマフムットⅡ世の時代に現在の形に直されている。

乙女の灯台

ベイレルベイ宮殿
16世紀、スルタン・ムラトⅢ世の時代に、最高指揮官(ベイレルベイ)メフメット・パシャがここに大きなヤルを造らせた。現在の宮殿は、1861~1865年、スルタン・アブドゥルアズィズの命により、マフムットⅡ世の焼失した木造宮殿の跡に、建築家サルキス・バルヤンが建造したものである。

5,000人の人夫がリズムに乗って働ける様に特別編成のオーケストラが工事の横で演奏をしたとの伝えがのこっている。海峡沿岸に建設された二番目のこの宮殿は、外国の客人をもてなすための夏の離宮で、エドワードⅧ世とシンプソン夫人、オーストリア皇帝フランツ・ヨセフ、ナポレオンⅢ世の后ユージーンなどの要人を迎えている。3ケ所に門があり、趣味よくまとめた6つの大広間と24の部屋を抱える建物は65×40m。エジプトの絨毯、ボヘミアンクリスタルのシャンデリア、フランスの時計や中国、日本の陶磁器が飾られ、ドルマバフチェと同様にへレケに特注した絹の手織り絨毯も好んで使われている。後方の木蓮の庭には、泉噴水と二つの水辺の東屋がたつ。第一次世界大戦の最中、皇位を廃されたアブドゥルハミットⅡ世は、生涯最後の6年をこの宮殿で過ごし、ここで息を引き取っている。(現在は博物館)

ベイレルベイ宮殿

チャムルジャの丘
ベイレルベイ宮殿裏手にはイスタンブールで最も高いチャムルジャの丘がある。海抜263m、見晴らしは最高で、眼下には絵のようなマルマラ海や島々、ボスフォラス海峡や新市街、旧市街が広がり、胸のすく様な絶景である。

1980年代にトルコ自動車旅行協会の実施した整備活動で、緑深い木立の間に古き良き時代を彷彿とさせるオスマン風茶屋も建てられ、心和む場所ができあがった。そのせいか、式を挙げたばかりの新婚カップルが、ウェディングドレスのままここで家族や友人と喜びを分かち合うシーンがよく見られる。


キュチュクスの離宮
1856~1857年にバルヤンはスルタン・アブドゥルメジットの為に、キュチュク・ギョクス川の側に二階建ての夏の離宮を建てた。アタチュルクも一時ここを執務用に使っており、1980~1983年に修復された後は、博物館として解放されている。ボスフォラス海峡に流れ込むこの小川の周囲にはピクニックに出向く人も多いが、その昔はスルタンが専用の小舟を出して遊んだという川も、現在は汚染が激しくその面影もないのは本当に残念なことである。


アナドルの要塞
ルメリの要塞の対岸にあるアナドル(小アジア)の要塞は、オスマン民族がコンスタンチノープルに仕掛けた第一次包囲の際、1393年にスルタン・ユルドゥルム・ベヤズィットによって造られたものである。海峡を通過する敵方の船を、ここから放った大砲で穴をあけて沈没させるのが目的であった。18、19世紀、この周辺には帝国の要人達が多くのヤルを築いており、その内のいくつかは今もエキゾチックで美しい姿をとどめて居る。

ここからベイコズまでの岸辺にはバフリイェリ・セダト・ベイのヤル、18世紀初期のザリフ・ムスタファ・パシャのヤル、海峡周辺で最古のアムジャザーデのヤルは17世紀の作、第二大橋の真下に赤い壁を披露するサーリヒ・エフェンディのヤル、カンルジャに1905年に造られたヤージ・シェフィク・ベイのヤル等が並び、大変印象的である。カンルジャに着いたら桟橋の挟で売られているヨーグルト、その名もズバリ "カンルジャ・ヨーグルト" を是非ともお試しあれ。

普通は、"ヨーグルトはプレーンが通" を信条とするトルコ人も、ここでは必ず上にパウダーシュガーをたっぷりと振りかけている。 
ボスフォラスを行き交う船を眺めながらゆったりとした時間を過ごすのも、更に言えば、時を忘れてこの様な風景に心を放つ事こそが、旅の醍醐味かも知れない。


皇子達の島々
 
アジア側はボスタンジの船着き場から数kmのマルマラ海上に、土地っ子がアダラール(群島)と呼ぶ美しい島々がある。9つの島と2つの岩から成り、外国人には‘紅の島’とか‘皇子達の島’の名で知られている。古代名デモネソイ(人々の島)、ビザンチン時代の名はパパダニスィア(僧侶の島)である。

ビザンチン期、皇子達をはじめ、貴族、僧侶、后などが島流しにされた場所で、名前もここに由来する。今でも島に住む多くは少数系のギリシア、アルメニア系トルコ人で、19世紀には1,200人のみであった人口も、今世紀初期に12,000人となり、現在は20,000人、特にシーズンの夏には、日帰りの旅行者で、その数200,000人に膨れ上がる。

以上の内、注意書を添えなかったものは有人島で、管理当局の車以外エンジン付きの車乗り入れは禁止されている。その為、島の足は自転車か、ファイトンと呼ばれる可愛らしい馬車に頼ることとなる。遺跡や歴史に食傷気味の方、澄んだ空気、海と太陽を堪能したい方にはヘイベリかブユックアダがお薦めである。まずはファイトンで島巡り、海水浴で疲れたら海辺のレストランで海の幸を召し上がれ。

あとは心地よい風の通る木陰で、ひたすらボーッとする。歴史マニアの方は、ブユックアダのアヤ・ヨルギ教会、クナルアダのフリストス修道院、ヘイベリアダの神学校、ブルガズアダのヨハネス・プロドロモス教会などを訪れるとよい。

皇子達の島々
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