トルコの人気世界遺産
イスタンブール歴史地域(文化遺産・1985年)
1985年に世界遺産に登録されたイスタンブールが世界有数のコスモポリタンとしてこれ程までに拡大した最大の要因は、その地理的条件にあるといえます。
北緯48度、東経28度、世界で唯一アジアとヨーロッパの二大陸に跨がって位置し、ヨーロッパ側イスターブールは7kmにわたる金角湾を境に、南側に歴史の中心舞台であり続けた小半島のある旧市街、北側には新市街と二分されています。ビジネスの中心が置かれるヨーロッパ側に対し、アジア側には宅地が多いです。
イスタンブールをヨーロッパとアジアに分けるボスポラス海峡は、同時に黒海とマルマラ海をも結び、この立地条件により古い時代から常に要地として注目され続けました。
欧亜両大陸支配の野望に燃える多くの民族や国家は、その為に兎に角、まずはイスタンブールを征服する必要に迫られていました。
今日も尚、バルカン、中近東諸国、中央アジアのトルコ系共和国にとってイスタンブールは政治、経済の要として重要な役割を担い続けてます。
初代設立者の名に因んで〈ビザンス〉と呼ばれた町は、ローマ皇帝コンスタンチヌスの都市造り以降、"コンスタンチヌスの都" を意味する〈コンスタンチノープル〉、オスマン民族によって征服された後は〈イスタンブール〉と改名されて、現在は7,50kmの面積を有するヨーロッパでも最大の、そして最も人口の多い都市の一つにあげられています。
イスタンブール散歩のビデオ
地方から新天地を求めて流入してくる人々により毎年50万人の割合で人口増加を続けており、1,200万~1,500万人の人口を抱えて都市は東西に拡大を続けています。
年間人口増加率を5%とすると約12年で元の数の二倍に達する事になり、全トルコで5人に1人はイスタンブールに住んでいる計算となります。
イスタンブールを訪れる年間1000万人の旅行者は都市の歴史と景観の美しさを堪能していきます。東西の、ヨーロッパとアジアの、そしてキリスト教とイスラム教の出会うイスタンブールは、異なった文化と宗教が互いを圧する事なく混在し続けてきた場所といえ、豊かな遺跡や文化財を抱えるという意味に於いてはローマと比較されることが多くあります。
ローマ、ビザンチン、そしてオスマン各帝国の首都として重要な役割を演じ続けたイスタンブールには、支配者達がその時代で最も高名な専門家に依頼した傑作品といわれる建築物が多く存在します。
ボスポラス海峡、金角湾、周囲の島々の織り成す自然美、穏やかな気候、昼と夜との全く異なる顔と賑やかなナイトライフ、種類豊富で美味しいトルコ料理等に加えて、何よりも人懐っこくて親切な国民性は外国人旅行者を魅了してやまない要素です。
この美しい神秘の古都をよく知るためには、少なくとも10日を裂く必要があるでしょう。
紀元前680年頃、ドーリア人から逃れたメガラ人はアジア側にカルケドンの町を建設し、紀元前660年になるとビザスに率いられたメガラの移民達は、カルケドンの対岸、現在の主要観光スポットが集中するヨーロッパ側はサライブルヌに集落を形成しました。
理想的な地の利と商取引にはぴったりの自然港の存在で、ビザスの町ビザンスは短期間のうちに財力をつけて目覚ましい成長を遂げました。
紀元前513年、町はペルシアに、続いて紀元前407年にはアテネの、その二年後にはスパルタの監督下に敷かれたのです。
都の平和は、紀元前146年、ローマとの間に交わした文書、所謂今でいう安全保障条約により保たれていました。
西暦196年、ローマ皇帝セプティミス・セヴェルスは都市をローマ帝国の領土に組み入れました。
330年、コンスタンチヌス大帝は都の名をコンスタンチノープルと改め、同年5月11日、ここをローマ帝国第二の都と宣言して、周囲を頑強な城壁で防御しました。
敬虔な信者である母親の影響を強く受けた同皇帝の努力で瞬く間にキリスト教が浸透し、391年には国教に制定されています。
395年、テオドシウスⅠ世の死をきっかけにローマ帝国は東西に分断し、コンスタンチノープルは東ローマ、即ちビザンチン帝国の首都とされ、5世紀初期には今なお威風堂々と姿を留める城壁が建築されました。
476年、西ローマ帝国は滅亡しましたが東ローマの勢力に衰えはみられず、ユスチニアヌス帝の支配下で帝国は黄金期を迎えました。
666年から870年までに都市は八度にわたるアラブの包囲をうけて陥落の危機に瀕しました。
カトリックとギリシア正教間の不協和音は日をおって大きくなり、ついに1054年に完全に袂を違えるとコンスタンチノープルはギリシア正教の総本山として揺るぎない地位を得ました。
1096年、第一次十字軍は何の被害も与えず都市を通過しており、この頃ガラタ地区にはジュノア人やヴェニス人が商業区を開設しています。
1204年に第四次十字軍が都市を占領しラテン帝国を建国した為に、東ローマ帝国は一時断絶しましたが、1261年になってパレオロゴス族が都を奪回して帝国は再興しました。
一方、オスマン民族が都を包囲し始めたのは14世紀末あたりのことです。
1390年にベヤズィットⅠ世に、1422年にはムラトⅡ世によって追い込まれた東ローマは、終に1453年、メフメットⅡ世率いるオスマン軍によって完全に征服され、その名もイスタンブールと改名されたのです。
オスマン民族にとってはブルサ、エディルネに次ぐ第三の都となり、1517年にエジプトを征服してカリフの座を奪ってからは全イスラム国家の中心地として宗教活動の要ともなりました。
オスマン帝国の勢力に陰りがみえはじめた18世紀まで、各地に美しいモスクや宮殿が建設されましたが、残念なことに地震や火災で被害を被ったものも少なくはありません。
また、19世紀の西洋化に伴い、それまでの典型的オスマン建築からバロック、ロココ調への移行もみられています。第一次世界大戦で帝国は同盟国側について大敗に大敗を重ね、1919年3月15日夜、イスタンブールには連合軍が進駐してきました。
亡国の危機を救国戦争の勝利によって切り抜けると、スルタン制とカリフ制は廃止されて共和国の宣言がなされました。
そして、1923年10月13日、アンカラに新首都が設置された後もイスタンブールはトルコ経済の中心として成長し続けています。
アヤソフィアは、ビザンチン帝国時代にはキリスト教の教会として、オスマン帝国時代にはモスクとして使われ、トルコ共和国が誕生した後に博物館として利用されるようになったという経緯があります。
したがって、大聖堂正面にはキリスト教の聖母子像とイスラム教の円盤が共に置かれていて、博物館として利用されなければ、実現しなかった風景といえるでしょう。
アヤソフィアは、近代以前に建てられた建築物としては比類なき大きさを持ち、一方内部ではモザイク画や繊細な装飾などもあり、見どころがたくさんあります。
彫刻や絵画の一つ一つが重厚な味わいを持っており、ダイナミックな形状はずっしりと心に響いてくるような、荘厳なイメージを感じることでしょう。
スルタンとは君主のことで、モスクとは一般的に知られているとおり、イスラム教の寺院や礼拝堂を意味します。
ブルーモスクは世界で最も美しいモスクであるともいわれていて、圧倒的な建築美が見る者をうならせるでしょう。大理石とタイルで作られた外観から内部へ足を踏み入れると、一変して緻密な模様が天井まで装飾されており、鮮やかな内装が広がっています。
ドームの窓を覆うステンドグラスを通った太陽光が、淡く青い光となってドーム内を照らし、同時にステンドグラスの青色が美しく浮かび上がります。
ドームの天井を見上げたときの幻想的な風景によって、まるで不思議の国に迷い込んだような独特の気分に浸ることになるでしょう。
1935年~1938年の間に実施された発掘調査で見つかったモザイクは修復され、後に発見されたものと共にここに収められています。
博物館は本来、ブルーモスクより海まで続く敷地にたっていた旧ビザンチン皇帝の宮殿の、未だ考古学的調査が実施されていない大広間と内庭の上に位置しています。
モザイクに主に用いられている図柄として狩りと舞、神話上の獣があげられる他、日常生活からのシーンも興味深いです。
ヒポドロムの建設は203年、ローマ皇帝セプティミス・セヴェルスの時代に始まり、ビザンチン皇帝コンスタンチヌス大帝がここをローマ帝国第二の都と宣言した式典の為、330年5月11日に完成としています。
U字形のトラックの周囲には40列の席があり、観客30,000人の収容能力があったといい長さ400m、幅120mの造りは古代世界の競馬場としても屈指の設備でした。
かつてはトラックの中央に〈スピナ〉とよばれる美しく飾られた壁がありました。
ビザンチン帝国時代にシャリオットレースをはじめ様々な競技の他、時として集会や暴動で流血の舞台ともなり、オスマン帝国時代にも娯楽や政治的集いのもたれた重要な広場でした。
ビザンチン時代における、ヒポドロムの機能は主に三つに分類されます。
第一はスポーツと芸術の舞台となったことです。
特に競馬は当時最も人気のあったもので、剣士達の熱戦も観客をわかせました。
第二には、政治などの集会の中心となったことで、殊にオスマン帝国時代になるとイェニチェリはここに集まり暴動をおこしました。
第三は、ビザンチンの皇帝達によって蛤も屋外博物館の様に利用されたことといえます。
トラック中央のスピナ上には世界各地から持ち込まれた柱、像、日時計、オベリスクなどが展示されていましたが、これらのうち今日まで残るのはたった三点で、それ以外は破壊されたり、別の場所に移されたりしています。
つまり、この柱の年齢は3500才です。
エジプトのファラオ・トトメスⅢ世がメソポタミアの勝利を記念して造らせたもので、エジプトはもとよりヨーロッパ各地でこれに似た作品を目にすることができます。
西暦390年、ビザンチン皇帝テオドシウスⅠ世は、エジプトはルクソール、カルナックのアモン神殿にあったこの柱をここに搬入させました。
ピンク色の花崗岩でできており、重さ約300t、本来は32.5mの高さがありましたが運搬に便利なようにと全体の40%程度の部分を下部から切り落としており、現在の高さは20mです。
四面にはトトメスⅡ世の偉業を称える象形文字が見られ、最高部では神アモンとファラオが手を握りあっています。
基盤が水平でないために、大理石の基板上に四本の青銅の柱で支えられるように据え付けられています。
基盤にはロイヤルボックスでの皇帝一家、オベリスク建立、競技を前に踊る少女たち、シャリオットレースなどのシ―ンが浮き彫りにされており、ブルーモスクとイブラヒム・パシャ宮殿側の面には、それぞれラテン文字と旧ギリシア文字が彫刻されています。
ギリシアの都市同盟がペルシア軍に勝利を収めたプラタイアの戦いを記念した柱の本来の姿は、三匹の絡み付く蛇の頭部の上に、直径2mもの巨大な金の釜がのるものでした。
しかし、イスタンブールに移動される前に既に釜はなくなり、オスマン期になって蛇の頭部は石で破壊されました。
この頭部のうちの一つは、今日、イスタンブール考古学博物館に、もう一つはロンドンの大英博物館に保管されています。
もともと6.5mあった柱の高さは現在約5mとなっています。
32mの高さがある10世紀のこの柱は、もともと銅と真金が表面を覆っていましたが、13世紀初期のラテン人の侵略の際に剥がされて貨幣鋳造に利用されてしまったそうです。1895年の地震でダメージを受けた柱には修復の手が入れられています。
第二東方遠征の際、イスタンブールでのもてなしに感激したドイツ皇帝ウィルヘルムは、帰国の後自らの設計で美しい泉を造らせ、イスタンブールに贈呈しました。
ドイツの泉はその時代に基礎をもつ二国間の友情の証しなのです。
皇帝とスルタンの頭文字が記され、金モザイクで飾られたドームは、泉の上に八本の緑色をした斑岩の柱で支えられています。
同皇帝はこの泉と共に、ベオグラードの森の水源からここへ水を引く水路も整備させました。
イブラヒム・パシャは側近としてスルタン幼少の頃よりその側を片時も離れず、最も信頼された人物でしたが、1536年、スルタンの寵妃ヒュッレムの陰謀にはまりトプカブ宮殿で絞首されています。13年間宰相を務めた彼は非常に優秀な政治家でした。
パシャの死後、宮殿はスルタンに仕える小姓達の寄宿舎、縫製工房、刑務所として利用された後、しばらくは荒廃するままに放置されていましたが、1970年に修復された後、1983年になって本来スレイマニエにおかれていたトルコ・イスラム芸術博物館が移されてきました。
8~19世紀の書物、陶芸品、彫金などの見事な傑作が保管され、1984年にヨーロッパ評議会から、1985年にはユネスコから賞されています。
特に、巨大なトルコ絨毯は一見の価値があります。
現代的認識のもとに管理される博物館の中にあって、アナトリアの独特の生活様式と手工芸品は、生き生きとその色彩を放ち我々を魅了します。
旅の疲れを癒すなら内庭にしつらえられた典型的なトルコ茶屋で、本場のトルココーヒーを召し上がってみて下さい。
スレイマン大帝にはじまり三人のスルタンの宰相を務めたセルビア出身のソコッル・メフメット・パシャの妻であり、スルタン・セリムⅡ世の皇女エスマハンが1571年~1572年に高名な建築家スィナンに造らせたものです。
高さ22mのドーム、採光用の56ケ所の窓、濃紺の地に白の書、多彩色のイズニックタイルなど、小さいながらも訪れるに値する美しいオスマン時代の建造物です。
トプカプ宮殿は、海に囲まれた丘の上に建つ豪華絢爛な宮殿で、世界遺産となっています。
敷地面積は、70万平方メートルにも及び、大勢の人が住んでいたというのも納得の広さで、見どころも多いです。
オスマン帝国時代、歴代スルタンが建て増しを行ったため、トプカプ宮殿では異なった時代の建築様式を見ることができます。
継ぎ足しを重ねた建物は、沢山の建物が合体したような外観を持っており、普段の生活でも見かけることは少ない構造かもしれません。
創作物もしかりで、16世紀に建てられた壁の上に18世紀に流行した壁画が描かれているといった、独特なタッチの芸術を堪能することができます。
トプカプ宮殿には、美しい庭もさることながら、陶磁器や家具、武具などさまざまな種類の作品が展示されていて、見る者を飽きさせないでしょう。
豪華な装飾の「ハレム」は、多いときには奴隷を含めて1000人以上の女性が暮らした場所です。女性たちの歴史を垣間見ることで、におちいるかもしれません。
アヤソフィア建築以前、ここはギリシア正教会の大聖堂として機能しており、381年には第二回宗教書議会も開催されています。
アヤソフィア完成後においてもアヤイリニは都市の第二の教会として、その威光には何らの陰りも見られませんでした。
偶像破壊期に取り壊された為にオリジナルのモザイクは残っていませんが、後陣の巨大な十字架はその当時の(726~841年)ものです。
見学には特別な許可が必要ですが、近年、その見事な音薯効果をしてクラッシック音楽のコンサートなどにも舞台を提供しています。
イスタンブール考古学博物館の総合設備は、〈古代オリエント博物館〉〈チニリ・キョシュク〉そして〈考古学博物館〉の三部から構成されています。
古代オリエント博物館では、エジプト、アナトリア(小アジア)、メソポタミア地方からの傑作品が展示されています。
チニリ・キョシュクは1466年にメフメットⅡ世によって建設されたもので、トプカブ宮殿内の建物としては最古のものです。
オスマン帝国期においては娯楽の為の別館として使用されていましたが、1967年以降はトルコ及びイスラム諸国のタイルや陶磁器の作品が展示されています。
1887年、レバノンはシドン地区やコンヤのスィダマラの石棺とともに発見された数多くの発掘物がイスタンブールに持ち運ばれると、これらを保存する新しい博物館が必要となったのです。
トルコに於ける博物館事業の先駆者である画家オスマン・ハムディの尽力によって、1891年、今日の建物が建設されました。
1991年になると付属の建物も一般公開されるようになりました。
展示物の多くはヘレニズム、ローマ時代に属するもので、庭園や館内に据えられる石棺の他、多くの石像、浮き彫りが訪れる者に無言で語りかけてきます。
これらに加えて、各時代の日用生活品、オイルランプ、胸像、貴金属品、アナトリア地方やかつてのオスマン帝国領土からの出土品が、テーマと年代順に展示されています。
しかし、学究的アプローチはここでは何の役にも立つことはありません。
グランドバザールは「体験」してみるしかないでしょう。
毎日グランドバザールの19の門から20万人の人々が出入りをします。
全てが観光客というわけではなく、観光客の好きな革、宝石、絨毯の店のほかに、家具屋、下着屋、靴、詩集、レコード屋などで買い物するトルコ人も見ればわかるでしょう。
よく聞く質問は「いかにして値切るか」「いくらまで値切るか」ですが、それは誰にもわかりません。値切る秘訣があるとしても、それを言葉で説明するのは簡単ではありません。
1481~1512年に権力の座にあったスルタン・ベヤズィトの命で、建築家ヤークプ・シャー、またはハイレッティン・パシャによって1501~1506年に建設されたとあります。
基本的にアヤソフィアの設計に酷似しており、古典的オスマン建築の最初の一例といえます。
25のドームを支える20本の柱に囲まれた内庭の中心には、優雅なシャドゥルヴァン(礼拝を前に体を清める為の泉)がみられます。
周囲の赤と白が織り成すコントラストと地面を覆う彩色大理石の美しさは特筆に値します。
ミヒラブの正面に位置する入り口の扉は冠と碑文を彫った鍾乳石を思わせる見事なものです。
モスクの両端には87mの距離をおいてバルコニーのあるミナレットが吃立しています。
中央ドームの東西に設えられた半円のドームは象の足と呼ばれる角柱と二本の円柱によって支えられ、柱によって分断された形の側廊は四つずつのドームで覆われています。
主ドームと半円ドームの周囲の装飾は、オスマン民族の祖先である遊牧の民が住まいとしたテントのモチーフを偲ばせるものです。
大理石使用のスルタンの御座所も非常に洗練されています。
モスクの後方には、スルタン・ベヤズィットの、これに並んでその皇女セルチェク・ハートゥン、そして1857年に息をひきとった宰相ブユック・レシット・パシャの霊廟が見られ、モスク施設の一部であった学問所は、今日、図書館として利用されています。
ベヤズィットモスクの後方、高い壁に囲まれた塀の中には、1866~1870年 にフランス人建築家オグストゥ・ボルゲによって建てられた元国防省の建物があります。
(これ以前、ここにはオスマンのスルタンがトプカプに移る前の旧宮殿がおかれていました。)
首都がアンカラに移されると同時に空になった建物はイスタンブール大学に譲渡されています。
大学事務局の前に立つ85mのベヤズィットの塔は、1828年にマフムットⅡ世が火の見櫓として造らせたもので、多くの宮殿を監督した建築家バルヤンのセネケリム・カフヤによる白大理石を用いた作品です。180段の階段があり、それぞれ "順番" "合図" "駕篭" "旗" と呼称される四階建てになっています。(塔の頂きのランプは天気予報用。)
ベヤズィット広場からオルドゥ通りを下るとラーレリ地区のラーレリ・モスクに出ます。
通りの向かい、ボドルム・モスクはビザンチン時代の10世紀、ミレライオン教会を15世紀にイスラムの寺院に転換させたものです。アクサライ広場のヴァーリデ・モスクは19世紀のオスマン建築を理解するのに役立ち、見学に値する建造物といえます。
スルタンアフメット広場程ではありませんが、金角湾沿岸にも多くの歴史上のスポットが集中しています。以降、まずウンカパヌのヴァレンスの水道橋から始まり、ファーティ地区、そして陸側の城壁へと歩みを進めてみましょう。
地面からの高さは20m(海抜64m)あり、本来は1kmに亙ったこの設備も、800mの部分のみ現存しています。
大きなアーチから成る下部と小さめのアーチの上層部からの二重で、建築資材としてカルケドンの水道橋に使われていたストーン・ブロックが利用されました。
1,500年間の使用に耐えた水道橋は、オスマン帝国時代になって17世紀に修復されています。
ビザンチン帝国期、現在モスクが建つ第四の丘には、コンスタンチヌス帝が建てた都市最大の教会聖アポストリ教会がおかれていましたが、征服10周年にあたってオスマンの征服王メフメットは廃墟同様の状態であった教会を壊し、自らの名を冠した参拝と文化の中心となるべく建物の建設に踏み切りました。
ビザンチンの上昇期にみられた巨大な建造物に勝る作品を目的に、まず初代ファーティ・モスクと付属機関が8年の歳月をかけてギリシア出身のアティク・スィナンの指揮で完成しました。
スレイマニエ・モスク以前、これは高さ50m、直径26mのドームを有する都市最大のモスクで、設備の一環として設けられたファーティ学問所はオスマン帝国最初の大学とされています。
神学校、図書館、小学校、隊商宿、托鉢僧用の宿、診療所、トルコ風浴場ハマムなども有して、1766年の地震で修復不可能なダメージを被るまで、市民が集う場所でした。
1771年に新しいファーティ・モスクがスルタン・ムスタファⅢ世の資金提供で、メフメット・ターヒル・アーの指揮で完成し、アーチのある4本の柱で支えられた中央ドームが堂々とした姿をあらわしました。
かつてのミナレットにはバルコニーが増設され、バロック様式のミヒラブも美しいです。
二列の窓があけられた内庭には、壮麗な門をくぐって入ります。
壁、壁のタイル、シャドゥルヴァン、門、ミヒラブ、ミナレット等は、その全て、または一部の部分を初代ファーティ・モスクのものからそのまま利用しています。
内庭に見られるアラビア文字による祈りの言葉がとても美しいです。
また、このパティオには、1877~1878年のロシアとの戦争の英雄ガーズィ・オスマン・パシャと、征服王メフメットの后ギュルバハル・スルタンの霊廟もおかれています。
ファーティ・モスクの前を走る通りの向こうにはビザンチン時代、広場の中心に置かれたという高さ17mの〈クズタシ〉があります。
イスタンブール征服後、正教の教会であった聖アポストリ教会の閉鎖にあたり、1455~1586年にかけてここに正教の礼拝堂がおかれました。
聖母に捧げられた‘幸福なる神の母’と呼称されるモザイクは、ビザンチンルネッサンスの典型的な一例といえます。
石と煉瓦を用いた外壁、寺院の屋根を覆うフリルの帽子にも似たドームは、ビザンチン建築の特徴を顕著に表すものです。
再び通りに出て陸側の城壁に向かって進むと右手に折れる小路がある。ここを入った所が、ビザンチン時代の小親模ではあるが貴重で保存状態も最高のモザイクが残るカリエ博物館(チョラ教会)です。
ここから城壁の内部に沿って金角湾へと下るとビザンチン時代に属するいくつかの遺跡に出ます。
まずは11~14世紀にかけて造られた宮殿の跡で、外壁に使用された白い石と赤レンガのテクフル宮殿が目を引きます。
18世紀にはタイル工場として使用された宮殿を後に湾の沿岸に出たら、回教徒達にとって聖地の一つとされるエユップ地区のエユップ・スルタン・モスクを訪れてみましょう。
1766年の地震で全壊したモスクの代わりに1798~1800年にセリムⅢ世が新築させたものが現在のそれにあたります。
特にここの霊廟に回教の祖である預言者モハメッドの友であり、旗手でもあったエル・エンサーリが埋葬されている事実において、エユップ・スルタン・モスクは敬謙なイスラム教徒にとって、最も神聖な寺院の一つとされています。
1453年、オスマン民族がコンスタンチノープルを完全包囲し、今日明日にもここを落とすという時、若き征服王の師であるアクシェムセッディンの夢にこの霊廟があらわれたといわれています。
このお陰で発見されたエル・エンサーリの墓の存在は戦士の覇気を高め、都市の征服も成功裏に終わったとされています。
彼の霊廟は1458年に造られた単ドームの八角堂で、青と緑を基調にした16世紀のタイルが素晴らしい。方形の基盤に立つ中央ドームの周囲には、八つの半円ドームが見られます。
イスラム世界で指導的立場にあったエル・エンサーリの側で永遠の眠りにつこうとした宰相をはじめ、司令官達、皇族など、帝国上層部の人々の墓がここの周囲には多いです。
外苑では大木が陰をおとす中に、優美な清めの泉シャドゥルヴァンがあります。
付属施設として設けられた神学校、隊商宿、貧民用の食堂等のうち、今日まで残ったのは浴場の一部のみです。
割礼の儀式に臨む少年、病人、新郎新婦、大会を前にした選手達等、祈廟成就を願う多くの信者がここを訪れます。
後方に広がる墓地の石畳をのぼると、足元に広がる金角湾を一望しながらトルココーヒーが楽しめる〈ピエール・ロティの茶屋〉があります。
この地をこよなく愛した19世紀のフランス人作家の名を冠した茶屋は、典型的トルコ風の内装でも興味そそられる場所といえます。
裕福なユダヤ人達が低所得者達の治療の為に建設したバラト病院(1858年)にも注目してみましょう。
フェネル地区には三つの重要な建物が存在します。
まず、赤い外壁と特徴ある建築様式で人目をひくルム男子高校、この15世紀にまで遡るギリシア系学校は多くの名士を輩出させています。(現在の建物は1880年のものです。)
二番目は、1896年に造られたブルガリア教会(本来の名:聖ステファン教会)で、建設にあたってはオーストリアにて準備された後、ドナウ川と黒海を船で運んだ鋳鉄パネルが使用されています。
三番目の建物は、金角湾沿いの建造物のうち最も重要なものといっても過言でないフェネル・ギリシア正教総大司教館です。
それまで小さな教会で活動していた正教の信者達は1602年にここに本拠地を移しました。
司教館は新しいですが、隣の教会は1720年建築のものです。正教の総本山として、地元は勿論のこと、隣国ギリシアをはじめ世界中から多くの信者を迎え入れています。
ウンカパヌの手前ジバリ地区には、9世紀に建立され、16世紀にモスクに転換されてからはギュル・モスク(薔薇の寺院)と呼ばれたかつての聖テオドシア教会が残っています。
教会はキリストとマリアに、チャペルは大天使ミカエルに捧げられたものです。
イスタンブールで今日まで残る同種の建造物の中では、アヤソフィアに次いで二番目の規模をもつパントクラトール教会の修道院では、その昔700人が宗教、奉仕活動にあたっていたとされています。
オスマン民族による征服後、教会はモスクに、修道院は神学校にと変換されたものの以降、重要性を失って使用されなくなっています。
残念ながら、手入れの行き届かないまま放置されてはいますが、床のモザイクや窓のステンドグラスはかつての建物の美しさを無言のうちに語りかけています。
海峡の形成は、地質時代第4紀の地層の陥没に始まり、現在の姿となったのは今から7,500年前のことで、その名は次の様な神話に由来しています。
全能の神ゼウスが妻ヘラの嫉妬から恋人イオを守ろうと彼女を雌牛に変えましたが、これを見破ったヘラは雌牛を脅そうと蜂をけしかけたのです。哀れイオはこれを逃れようと海を分けて突進し、こうしてここが〈雌牛(Bous)の通り道(Phoros)〉と呼ばれる様になりました。
有史以来、両大陸間の移動を試みる軍隊の前に越える事は不可能な障害として横たわった海峡に、最初の橋が架けられたのはまだ紀元前4世紀の事です。軍事遠征を仕掛けたペルシアの皇帝ダリウスが、700,000人の兵を渡す為に筏と船を縛って造った "橋" です。
コンスタンチノープル陥落の為には、ボスフォラスを落とすのが先決であることを十分に弁えていたオスマン民族は、まずはその両岸にアナドルとルーメリの要塞を建造して、そこに設置した大砲によって敵方の海上輪送を封じました。
都市の征服後、その初期には漁村が点々としていたのみであった海峡の両岸も、時とともにスルタンが賞与として、あるいは口止め料として辺りの土地を帝国上層部の人間に与えた結果、木造の館やヤル(水面に張り出した形の別荘)の建設が始まったのです。
共和制になってからの建設ラッシュの餌食になった感は否めませんが、しかし、これらにも拘わらずやはりボスフォラスは世界でも指折りの美を披弄しています。
地元の人々、外国人、全ての人々を魅了せずにはおかないこの海峡にとって、第一ボスフォラス大橋が建設され欧亜両大陸が結ばれた1973年は、まさに歴史上の転換期ともいえます。
1988年には日本企業の建設による第二ボスフォラス大橋〈ファーテイ・スルタン・メフメット大橋〉もわたされています。
大型タンカー、貨物船が通過するボスフォラス海峡は、今日、世界で最も重要で、最も取引量の多い、そして最も危険な海峡とされています。
以下、海峡沿岸の地区、要所に解説を加えてご紹介します。
金角湾がボスフォラスとぶつかるガラタから、まずは左手、つまりヨーロッパ大陸の沿岸に注目してみましょう。
北緯48度、東経28度、世界で唯一アジアとヨーロッパの二大陸に跨がって位置し、ヨーロッパ側イスターブールは7kmにわたる金角湾を境に、南側に歴史の中心舞台であり続けた小半島のある旧市街、北側には新市街と二分されています。ビジネスの中心が置かれるヨーロッパ側に対し、アジア側には宅地が多いです。
イスタンブールをヨーロッパとアジアに分けるボスポラス海峡は、同時に黒海とマルマラ海をも結び、この立地条件により古い時代から常に要地として注目され続けました。
欧亜両大陸支配の野望に燃える多くの民族や国家は、その為に兎に角、まずはイスタンブールを征服する必要に迫られていました。
今日も尚、バルカン、中近東諸国、中央アジアのトルコ系共和国にとってイスタンブールは政治、経済の要として重要な役割を担い続けてます。
初代設立者の名に因んで〈ビザンス〉と呼ばれた町は、ローマ皇帝コンスタンチヌスの都市造り以降、"コンスタンチヌスの都" を意味する〈コンスタンチノープル〉、オスマン民族によって征服された後は〈イスタンブール〉と改名されて、現在は7,50kmの面積を有するヨーロッパでも最大の、そして最も人口の多い都市の一つにあげられています。
地方から新天地を求めて流入してくる人々により毎年50万人の割合で人口増加を続けており、1,200万~1,500万人の人口を抱えて都市は東西に拡大を続けています。
年間人口増加率を5%とすると約12年で元の数の二倍に達する事になり、全トルコで5人に1人はイスタンブールに住んでいる計算となります。
イスタンブールを訪れる年間1000万人の旅行者は都市の歴史と景観の美しさを堪能していきます。東西の、ヨーロッパとアジアの、そしてキリスト教とイスラム教の出会うイスタンブールは、異なった文化と宗教が互いを圧する事なく混在し続けてきた場所といえ、豊かな遺跡や文化財を抱えるという意味に於いてはローマと比較されることが多くあります。
ローマ、ビザンチン、そしてオスマン各帝国の首都として重要な役割を演じ続けたイスタンブールには、支配者達がその時代で最も高名な専門家に依頼した傑作品といわれる建築物が多く存在します。
ボスポラス海峡、金角湾、周囲の島々の織り成す自然美、穏やかな気候、昼と夜との全く異なる顔と賑やかなナイトライフ、種類豊富で美味しいトルコ料理等に加えて、何よりも人懐っこくて親切な国民性は外国人旅行者を魅了してやまない要素です。
この美しい神秘の古都をよく知るためには、少なくとも10日を裂く必要があるでしょう。
イスタンブールの歴史
イスタンブール周辺に於ける最初の集落跡はアジア側にみられ、出土品からして新石器時代に遡ると推定される一方、ヨーロッパ側のトプカプ宮殿辺りでは青銅器時代に住まいが構えられ始めたと推測されています。紀元前680年頃、ドーリア人から逃れたメガラ人はアジア側にカルケドンの町を建設し、紀元前660年になるとビザスに率いられたメガラの移民達は、カルケドンの対岸、現在の主要観光スポットが集中するヨーロッパ側はサライブルヌに集落を形成しました。
理想的な地の利と商取引にはぴったりの自然港の存在で、ビザスの町ビザンスは短期間のうちに財力をつけて目覚ましい成長を遂げました。
紀元前513年、町はペルシアに、続いて紀元前407年にはアテネの、その二年後にはスパルタの監督下に敷かれたのです。
都の平和は、紀元前146年、ローマとの間に交わした文書、所謂今でいう安全保障条約により保たれていました。
西暦196年、ローマ皇帝セプティミス・セヴェルスは都市をローマ帝国の領土に組み入れました。
330年、コンスタンチヌス大帝は都の名をコンスタンチノープルと改め、同年5月11日、ここをローマ帝国第二の都と宣言して、周囲を頑強な城壁で防御しました。
敬虔な信者である母親の影響を強く受けた同皇帝の努力で瞬く間にキリスト教が浸透し、391年には国教に制定されています。
395年、テオドシウスⅠ世の死をきっかけにローマ帝国は東西に分断し、コンスタンチノープルは東ローマ、即ちビザンチン帝国の首都とされ、5世紀初期には今なお威風堂々と姿を留める城壁が建築されました。

476年、西ローマ帝国は滅亡しましたが東ローマの勢力に衰えはみられず、ユスチニアヌス帝の支配下で帝国は黄金期を迎えました。
666年から870年までに都市は八度にわたるアラブの包囲をうけて陥落の危機に瀕しました。
カトリックとギリシア正教間の不協和音は日をおって大きくなり、ついに1054年に完全に袂を違えるとコンスタンチノープルはギリシア正教の総本山として揺るぎない地位を得ました。
1096年、第一次十字軍は何の被害も与えず都市を通過しており、この頃ガラタ地区にはジュノア人やヴェニス人が商業区を開設しています。
1204年に第四次十字軍が都市を占領しラテン帝国を建国した為に、東ローマ帝国は一時断絶しましたが、1261年になってパレオロゴス族が都を奪回して帝国は再興しました。
一方、オスマン民族が都を包囲し始めたのは14世紀末あたりのことです。
1390年にベヤズィットⅠ世に、1422年にはムラトⅡ世によって追い込まれた東ローマは、終に1453年、メフメットⅡ世率いるオスマン軍によって完全に征服され、その名もイスタンブールと改名されたのです。
オスマン民族にとってはブルサ、エディルネに次ぐ第三の都となり、1517年にエジプトを征服してカリフの座を奪ってからは全イスラム国家の中心地として宗教活動の要ともなりました。
オスマン帝国の勢力に陰りがみえはじめた18世紀まで、各地に美しいモスクや宮殿が建設されましたが、残念なことに地震や火災で被害を被ったものも少なくはありません。
また、19世紀の西洋化に伴い、それまでの典型的オスマン建築からバロック、ロココ調への移行もみられています。第一次世界大戦で帝国は同盟国側について大敗に大敗を重ね、1919年3月15日夜、イスタンブールには連合軍が進駐してきました。
亡国の危機を救国戦争の勝利によって切り抜けると、スルタン制とカリフ制は廃止されて共和国の宣言がなされました。
そして、1923年10月13日、アンカラに新首都が設置された後もイスタンブールはトルコ経済の中心として成長し続けています。

アヤソフィア
アヤソフィアは、キリスト教とイスラム教の両方の芸術が一度に見られる、歴史的価値も高く非常に貴重な施設です。アヤソフィアは、ビザンチン帝国時代にはキリスト教の教会として、オスマン帝国時代にはモスクとして使われ、トルコ共和国が誕生した後に博物館として利用されるようになったという経緯があります。
したがって、大聖堂正面にはキリスト教の聖母子像とイスラム教の円盤が共に置かれていて、博物館として利用されなければ、実現しなかった風景といえるでしょう。
アヤソフィアは、近代以前に建てられた建築物としては比類なき大きさを持ち、一方内部ではモザイク画や繊細な装飾などもあり、見どころがたくさんあります。
彫刻や絵画の一つ一つが重厚な味わいを持っており、ダイナミックな形状はずっしりと心に響いてくるような、荘厳なイメージを感じることでしょう。
ブルーモスク(スルタン・アフメット・モスク)
ブルーモスクは正式名称を「スルタンアフメット・ジャーミィ」といって、オスマン帝国14代スルタンのアフメット1世によって1609年から7年の長い月日をかけて建造されたものです。スルタンとは君主のことで、モスクとは一般的に知られているとおり、イスラム教の寺院や礼拝堂を意味します。
ブルーモスクは世界で最も美しいモスクであるともいわれていて、圧倒的な建築美が見る者をうならせるでしょう。大理石とタイルで作られた外観から内部へ足を踏み入れると、一変して緻密な模様が天井まで装飾されており、鮮やかな内装が広がっています。
ドームの窓を覆うステンドグラスを通った太陽光が、淡く青い光となってドーム内を照らし、同時にステンドグラスの青色が美しく浮かび上がります。
ドームの天井を見上げたときの幻想的な風景によって、まるで不思議の国に迷い込んだような独特の気分に浸ることになるでしょう。
モザイク博物館
賃貸料でモスクの諸経費を賄う事を目的にブルーモスクの裏側に造られたアラスタバザール内には、主に4~6世紀のモザイクを展示する博物館があります。1935年~1938年の間に実施された発掘調査で見つかったモザイクは修復され、後に発見されたものと共にここに収められています。
博物館は本来、ブルーモスクより海まで続く敷地にたっていた旧ビザンチン皇帝の宮殿の、未だ考古学的調査が実施されていない大広間と内庭の上に位置しています。
モザイクに主に用いられている図柄として狩りと舞、神話上の獣があげられる他、日常生活からのシーンも興味深いです。
ヒポドロム
スルタンアフメット広場ともよばれ、観光地イスタンブールの心臓部です。ヒポドロムの建設は203年、ローマ皇帝セプティミス・セヴェルスの時代に始まり、ビザンチン皇帝コンスタンチヌス大帝がここをローマ帝国第二の都と宣言した式典の為、330年5月11日に完成としています。
U字形のトラックの周囲には40列の席があり、観客30,000人の収容能力があったといい長さ400m、幅120mの造りは古代世界の競馬場としても屈指の設備でした。
かつてはトラックの中央に〈スピナ〉とよばれる美しく飾られた壁がありました。
ビザンチン帝国時代にシャリオットレースをはじめ様々な競技の他、時として集会や暴動で流血の舞台ともなり、オスマン帝国時代にも娯楽や政治的集いのもたれた重要な広場でした。
ビザンチン時代における、ヒポドロムの機能は主に三つに分類されます。
第一はスポーツと芸術の舞台となったことです。
特に競馬は当時最も人気のあったもので、剣士達の熱戦も観客をわかせました。
第二には、政治などの集会の中心となったことで、殊にオスマン帝国時代になるとイェニチェリはここに集まり暴動をおこしました。
第三は、ビザンチンの皇帝達によって蛤も屋外博物館の様に利用されたことといえます。
トラック中央のスピナ上には世界各地から持ち込まれた柱、像、日時計、オベリスクなどが展示されていましたが、これらのうち今日まで残るのはたった三点で、それ以外は破壊されたり、別の場所に移されたりしています。

ディキリタシ(オベリスク)
イスタンブールで最も古い記念碑といえ、その歴史は紀元前15世紀に遡ります。つまり、この柱の年齢は3500才です。
エジプトのファラオ・トトメスⅢ世がメソポタミアの勝利を記念して造らせたもので、エジプトはもとよりヨーロッパ各地でこれに似た作品を目にすることができます。
西暦390年、ビザンチン皇帝テオドシウスⅠ世は、エジプトはルクソール、カルナックのアモン神殿にあったこの柱をここに搬入させました。
ピンク色の花崗岩でできており、重さ約300t、本来は32.5mの高さがありましたが運搬に便利なようにと全体の40%程度の部分を下部から切り落としており、現在の高さは20mです。
四面にはトトメスⅡ世の偉業を称える象形文字が見られ、最高部では神アモンとファラオが手を握りあっています。
基盤が水平でないために、大理石の基板上に四本の青銅の柱で支えられるように据え付けられています。
基盤にはロイヤルボックスでの皇帝一家、オベリスク建立、競技を前に踊る少女たち、シャリオットレースなどのシ―ンが浮き彫りにされており、ブルーモスクとイブラヒム・パシャ宮殿側の面には、それぞれラテン文字と旧ギリシア文字が彫刻されています。
蛇の柱
ヒポドロムに残る二番目に古い記念碑です。紀元前479年に遡るもので、326年にコンスタンチヌス大帝によりギリシアはデルフィのアポロ神殿から持ち込まれました。ギリシアの都市同盟がペルシア軍に勝利を収めたプラタイアの戦いを記念した柱の本来の姿は、三匹の絡み付く蛇の頭部の上に、直径2mもの巨大な金の釜がのるものでした。
しかし、イスタンブールに移動される前に既に釜はなくなり、オスマン期になって蛇の頭部は石で破壊されました。
この頭部のうちの一つは、今日、イスタンブール考古学博物館に、もう一つはロンドンの大英博物館に保管されています。
もともと6.5mあった柱の高さは現在約5mとなっています。
コンスタンチノープルの柱
コンスタンチヌスⅦ世が祖父帝バシレウスⅠ世を記念して造らせたもので、かつてはヒポドロムの真ん中に吃立していました。32mの高さがある10世紀のこの柱は、もともと銅と真金が表面を覆っていましたが、13世紀初期のラテン人の侵略の際に剥がされて貨幣鋳造に利用されてしまったそうです。1895年の地震でダメージを受けた柱には修復の手が入れられています。
ドイツの泉
1898年のもので、カイザー・ウィルヘルムの泉ともよばれています。第二東方遠征の際、イスタンブールでのもてなしに感激したドイツ皇帝ウィルヘルムは、帰国の後自らの設計で美しい泉を造らせ、イスタンブールに贈呈しました。
ドイツの泉はその時代に基礎をもつ二国間の友情の証しなのです。
皇帝とスルタンの頭文字が記され、金モザイクで飾られたドームは、泉の上に八本の緑色をした斑岩の柱で支えられています。
同皇帝はこの泉と共に、ベオグラードの森の水源からここへ水を引く水路も整備させました。
トルコ・イスラム芸術博物館
ヒポドロムの角、ブルーモスクの対面にあるイブラヒム・パシャ宮殿は、1520年に時のスルタン・スレイマン大帝が宰相イブラヒム・パシャに贈ったもので、オスマン帝国時代のスルタン一族以外の人に属する唯一の宮殿です。イブラヒム・パシャは側近としてスルタン幼少の頃よりその側を片時も離れず、最も信頼された人物でしたが、1536年、スルタンの寵妃ヒュッレムの陰謀にはまりトプカブ宮殿で絞首されています。13年間宰相を務めた彼は非常に優秀な政治家でした。

パシャの死後、宮殿はスルタンに仕える小姓達の寄宿舎、縫製工房、刑務所として利用された後、しばらくは荒廃するままに放置されていましたが、1970年に修復された後、1983年になって本来スレイマニエにおかれていたトルコ・イスラム芸術博物館が移されてきました。
8~19世紀の書物、陶芸品、彫金などの見事な傑作が保管され、1984年にヨーロッパ評議会から、1985年にはユネスコから賞されています。
特に、巨大なトルコ絨毯は一見の価値があります。
現代的認識のもとに管理される博物館の中にあって、アナトリアの独特の生活様式と手工芸品は、生き生きとその色彩を放ち我々を魅了します。
旅の疲れを癒すなら内庭にしつらえられた典型的なトルコ茶屋で、本場のトルココーヒーを召し上がってみて下さい。
ソコッル・モスク
ヒポドロムを後にする前、広場の西端に敷かれた道を下ってソコッル・モスクに立ち寄ってみましょう。スレイマン大帝にはじまり三人のスルタンの宰相を務めたセルビア出身のソコッル・メフメット・パシャの妻であり、スルタン・セリムⅡ世の皇女エスマハンが1571年~1572年に高名な建築家スィナンに造らせたものです。
高さ22mのドーム、採光用の56ケ所の窓、濃紺の地に白の書、多彩色のイズニックタイルなど、小さいながらも訪れるに値する美しいオスマン時代の建造物です。
トプカプ宮殿

トプカプ宮殿は、海に囲まれた丘の上に建つ豪華絢爛な宮殿で、世界遺産となっています。
敷地面積は、70万平方メートルにも及び、大勢の人が住んでいたというのも納得の広さで、見どころも多いです。
オスマン帝国時代、歴代スルタンが建て増しを行ったため、トプカプ宮殿では異なった時代の建築様式を見ることができます。
継ぎ足しを重ねた建物は、沢山の建物が合体したような外観を持っており、普段の生活でも見かけることは少ない構造かもしれません。
創作物もしかりで、16世紀に建てられた壁の上に18世紀に流行した壁画が描かれているといった、独特なタッチの芸術を堪能することができます。
トプカプ宮殿には、美しい庭もさることながら、陶磁器や家具、武具などさまざまな種類の作品が展示されていて、見る者を飽きさせないでしょう。
豪華な装飾の「ハレム」は、多いときには奴隷を含めて1000人以上の女性が暮らした場所です。女性たちの歴史を垣間見ることで、におちいるかもしれません。
アヤイリニ教会
西暦300年代にかつてのアフロディーテ神殿跡に造られたアヤイリニ教会は、532年のユスチニアヌスによる改築によって今日の姿となりました。アヤソフィア建築以前、ここはギリシア正教会の大聖堂として機能しており、381年には第二回宗教書議会も開催されています。
アヤソフィア完成後においてもアヤイリニは都市の第二の教会として、その威光には何らの陰りも見られませんでした。
偶像破壊期に取り壊された為にオリジナルのモザイクは残っていませんが、後陣の巨大な十字架はその当時の(726~841年)ものです。
見学には特別な許可が必要ですが、近年、その見事な音薯効果をしてクラッシック音楽のコンサートなどにも舞台を提供しています。

考古学博物館
アヤイリニ教会の横、かつての鋳金所の坂道を下ると、その規模に於いて世界の五本の指に数えられるイスタンブール考古学博物館があります。イスタンブール考古学博物館の総合設備は、〈古代オリエント博物館〉〈チニリ・キョシュク〉そして〈考古学博物館〉の三部から構成されています。
古代オリエント博物館では、エジプト、アナトリア(小アジア)、メソポタミア地方からの傑作品が展示されています。
チニリ・キョシュクは1466年にメフメットⅡ世によって建設されたもので、トプカブ宮殿内の建物としては最古のものです。
オスマン帝国期においては娯楽の為の別館として使用されていましたが、1967年以降はトルコ及びイスラム諸国のタイルや陶磁器の作品が展示されています。
1887年、レバノンはシドン地区やコンヤのスィダマラの石棺とともに発見された数多くの発掘物がイスタンブールに持ち運ばれると、これらを保存する新しい博物館が必要となったのです。

トルコに於ける博物館事業の先駆者である画家オスマン・ハムディの尽力によって、1891年、今日の建物が建設されました。
1991年になると付属の建物も一般公開されるようになりました。
展示物の多くはヘレニズム、ローマ時代に属するもので、庭園や館内に据えられる石棺の他、多くの石像、浮き彫りが訪れる者に無言で語りかけてきます。
これらに加えて、各時代の日用生活品、オイルランプ、胸像、貴金属品、アナトリア地方やかつてのオスマン帝国領土からの出土品が、テーマと年代順に展示されています。
グランドバザール(カパルチャルシュ)
イスタンブールのグランドバザールについて「成功する客引きの方法」「バザールの近くに駐車場を確保する秘訣」「盗みのテクニック、その発達の歴史15~20世紀」などというタイトルで分厚い書物がそのうちできるに違いないでしょう。しかし、学究的アプローチはここでは何の役にも立つことはありません。
グランドバザールは「体験」してみるしかないでしょう。
毎日グランドバザールの19の門から20万人の人々が出入りをします。
全てが観光客というわけではなく、観光客の好きな革、宝石、絨毯の店のほかに、家具屋、下着屋、靴、詩集、レコード屋などで買い物するトルコ人も見ればわかるでしょう。
よく聞く質問は「いかにして値切るか」「いくらまで値切るか」ですが、それは誰にもわかりません。値切る秘訣があるとしても、それを言葉で説明するのは簡単ではありません。
ベヤズィットモスク
T字形の古典的ブルサ式と、その後の古典的オスマン様式のモスク両者の特徴を持ち合わせて、所謂過渡期の寺院として重要な建物です。1481~1512年に権力の座にあったスルタン・ベヤズィトの命で、建築家ヤークプ・シャー、またはハイレッティン・パシャによって1501~1506年に建設されたとあります。
基本的にアヤソフィアの設計に酷似しており、古典的オスマン建築の最初の一例といえます。
25のドームを支える20本の柱に囲まれた内庭の中心には、優雅なシャドゥルヴァン(礼拝を前に体を清める為の泉)がみられます。
周囲の赤と白が織り成すコントラストと地面を覆う彩色大理石の美しさは特筆に値します。
ミヒラブの正面に位置する入り口の扉は冠と碑文を彫った鍾乳石を思わせる見事なものです。
モスクの両端には87mの距離をおいてバルコニーのあるミナレットが吃立しています。
中央ドームの東西に設えられた半円のドームは象の足と呼ばれる角柱と二本の円柱によって支えられ、柱によって分断された形の側廊は四つずつのドームで覆われています。
主ドームと半円ドームの周囲の装飾は、オスマン民族の祖先である遊牧の民が住まいとしたテントのモチーフを偲ばせるものです。
大理石使用のスルタンの御座所も非常に洗練されています。
モスクの後方には、スルタン・ベヤズィットの、これに並んでその皇女セルチェク・ハートゥン、そして1857年に息をひきとった宰相ブユック・レシット・パシャの霊廟が見られ、モスク施設の一部であった学問所は、今日、図書館として利用されています。
イスタンブール大学
ベヤズィットの塔ベヤズィットモスクの後方、高い壁に囲まれた塀の中には、1866~1870年 にフランス人建築家オグストゥ・ボルゲによって建てられた元国防省の建物があります。
(これ以前、ここにはオスマンのスルタンがトプカプに移る前の旧宮殿がおかれていました。)
首都がアンカラに移されると同時に空になった建物はイスタンブール大学に譲渡されています。
大学事務局の前に立つ85mのベヤズィットの塔は、1828年にマフムットⅡ世が火の見櫓として造らせたもので、多くの宮殿を監督した建築家バルヤンのセネケリム・カフヤによる白大理石を用いた作品です。180段の階段があり、それぞれ "順番" "合図" "駕篭" "旗" と呼称される四階建てになっています。(塔の頂きのランプは天気予報用。)

ラーレリ地区
アクサライベヤズィット広場からオルドゥ通りを下るとラーレリ地区のラーレリ・モスクに出ます。
通りの向かい、ボドルム・モスクはビザンチン時代の10世紀、ミレライオン教会を15世紀にイスラムの寺院に転換させたものです。アクサライ広場のヴァーリデ・モスクは19世紀のオスマン建築を理解するのに役立ち、見学に値する建造物といえます。
ファーティ地区
エユップ、金角湾スルタンアフメット広場程ではありませんが、金角湾沿岸にも多くの歴史上のスポットが集中しています。以降、まずウンカパヌのヴァレンスの水道橋から始まり、ファーティ地区、そして陸側の城壁へと歩みを進めてみましょう。
ヴァレンスの水道橋
ビザンチン皇帝ヴァレンスが375年、サライブルヌの第三、四の丘の間に建てた水道橋は、郊外のベオグラードの森の湧き水を都市に引いてくる為のものでした。地面からの高さは20m(海抜64m)あり、本来は1kmに亙ったこの設備も、800mの部分のみ現存しています。
大きなアーチから成る下部と小さめのアーチの上層部からの二重で、建築資材としてカルケドンの水道橋に使われていたストーン・ブロックが利用されました。
1,500年間の使用に耐えた水道橋は、オスマン帝国時代になって17世紀に修復されています。

ファーティ・モスク
オスマン民族がイスタンブールを征服した後、初めてスルタンによって建立されたモスクです。ビザンチン帝国期、現在モスクが建つ第四の丘には、コンスタンチヌス帝が建てた都市最大の教会聖アポストリ教会がおかれていましたが、征服10周年にあたってオスマンの征服王メフメットは廃墟同様の状態であった教会を壊し、自らの名を冠した参拝と文化の中心となるべく建物の建設に踏み切りました。
ビザンチンの上昇期にみられた巨大な建造物に勝る作品を目的に、まず初代ファーティ・モスクと付属機関が8年の歳月をかけてギリシア出身のアティク・スィナンの指揮で完成しました。
スレイマニエ・モスク以前、これは高さ50m、直径26mのドームを有する都市最大のモスクで、設備の一環として設けられたファーティ学問所はオスマン帝国最初の大学とされています。
神学校、図書館、小学校、隊商宿、托鉢僧用の宿、診療所、トルコ風浴場ハマムなども有して、1766年の地震で修復不可能なダメージを被るまで、市民が集う場所でした。
1771年に新しいファーティ・モスクがスルタン・ムスタファⅢ世の資金提供で、メフメット・ターヒル・アーの指揮で完成し、アーチのある4本の柱で支えられた中央ドームが堂々とした姿をあらわしました。
かつてのミナレットにはバルコニーが増設され、バロック様式のミヒラブも美しいです。
二列の窓があけられた内庭には、壮麗な門をくぐって入ります。
壁、壁のタイル、シャドゥルヴァン、門、ミヒラブ、ミナレット等は、その全て、または一部の部分を初代ファーティ・モスクのものからそのまま利用しています。
内庭に見られるアラビア文字による祈りの言葉がとても美しいです。
また、このパティオには、1877~1878年のロシアとの戦争の英雄ガーズィ・オスマン・パシャと、征服王メフメットの后ギュルバハル・スルタンの霊廟もおかれています。
ファーティ・モスクの前を走る通りの向こうにはビザンチン時代、広場の中心に置かれたという高さ17mの〈クズタシ〉があります。
フェティエ・モスク(パンマカリストス教会)
12世紀にヨハネス・コムネノスが建立した教会は、オスマンによる都市征服後の1591年、グルジアとアゼルバイジャンの征服を称えてモスクに転換されました。ここは今日、一部をモスク、一部は博物館として利用されており、イスタンブールに於いてカリエ、アヤソフィアに次いで美しいモザイクを目にすることができるビザンチン時代の建造物といえます。イスタンブール征服後、正教の教会であった聖アポストリ教会の閉鎖にあたり、1455~1586年にかけてここに正教の礼拝堂がおかれました。
聖母に捧げられた‘幸福なる神の母’と呼称されるモザイクは、ビザンチンルネッサンスの典型的な一例といえます。
石と煉瓦を用いた外壁、寺院の屋根を覆うフリルの帽子にも似たドームは、ビザンチン建築の特徴を顕著に表すものです。
再び通りに出て陸側の城壁に向かって進むと右手に折れる小路がある。ここを入った所が、ビザンチン時代の小親模ではあるが貴重で保存状態も最高のモザイクが残るカリエ博物館(チョラ教会)です。

テクフル宮殿
オスマン帝国時代、都市からエディルネへと続く路がここを始点とした為に〈エディルネカプ〉と呼ばれた門があります。ここから城壁の内部に沿って金角湾へと下るとビザンチン時代に属するいくつかの遺跡に出ます。
まずは11~14世紀にかけて造られた宮殿の跡で、外壁に使用された白い石と赤レンガのテクフル宮殿が目を引きます。
18世紀にはタイル工場として使用された宮殿を後に湾の沿岸に出たら、回教徒達にとって聖地の一つとされるエユップ地区のエユップ・スルタン・モスクを訪れてみましょう。
エユップ・スルタン・モスク
アラブ人による第一次コンスタンチノープル包囲(674~678年)の際、この地で殉教したハリッド・ビン・ゼイド(エユップ・エル・エンサーリとしても知られる)を追悼してイスタンブール征服後の1458年に征服王メフメットが寺院を建立しました。1766年の地震で全壊したモスクの代わりに1798~1800年にセリムⅢ世が新築させたものが現在のそれにあたります。
特にここの霊廟に回教の祖である預言者モハメッドの友であり、旗手でもあったエル・エンサーリが埋葬されている事実において、エユップ・スルタン・モスクは敬謙なイスラム教徒にとって、最も神聖な寺院の一つとされています。
1453年、オスマン民族がコンスタンチノープルを完全包囲し、今日明日にもここを落とすという時、若き征服王の師であるアクシェムセッディンの夢にこの霊廟があらわれたといわれています。
このお陰で発見されたエル・エンサーリの墓の存在は戦士の覇気を高め、都市の征服も成功裏に終わったとされています。
彼の霊廟は1458年に造られた単ドームの八角堂で、青と緑を基調にした16世紀のタイルが素晴らしい。方形の基盤に立つ中央ドームの周囲には、八つの半円ドームが見られます。
イスラム世界で指導的立場にあったエル・エンサーリの側で永遠の眠りにつこうとした宰相をはじめ、司令官達、皇族など、帝国上層部の人々の墓がここの周囲には多いです。
外苑では大木が陰をおとす中に、優美な清めの泉シャドゥルヴァンがあります。
付属施設として設けられた神学校、隊商宿、貧民用の食堂等のうち、今日まで残ったのは浴場の一部のみです。
割礼の儀式に臨む少年、病人、新郎新婦、大会を前にした選手達等、祈廟成就を願う多くの信者がここを訪れます。
後方に広がる墓地の石畳をのぼると、足元に広がる金角湾を一望しながらトルココーヒーが楽しめる〈ピエール・ロティの茶屋〉があります。
この地をこよなく愛した19世紀のフランス人作家の名を冠した茶屋は、典型的トルコ風の内装でも興味そそられる場所といえます。
フェネル - バラト
エユップから再び金角湾へ向かい、市の中心へとルートをとると多くの教会やシナゴグがある湾の沿岸バラト地区に出ます。裕福なユダヤ人達が低所得者達の治療の為に建設したバラト病院(1858年)にも注目してみましょう。
フェネル地区には三つの重要な建物が存在します。
まず、赤い外壁と特徴ある建築様式で人目をひくルム男子高校、この15世紀にまで遡るギリシア系学校は多くの名士を輩出させています。(現在の建物は1880年のものです。)
二番目は、1896年に造られたブルガリア教会(本来の名:聖ステファン教会)で、建設にあたってはオーストリアにて準備された後、ドナウ川と黒海を船で運んだ鋳鉄パネルが使用されています。
三番目の建物は、金角湾沿いの建造物のうち最も重要なものといっても過言でないフェネル・ギリシア正教総大司教館です。
それまで小さな教会で活動していた正教の信者達は1602年にここに本拠地を移しました。
司教館は新しいですが、隣の教会は1720年建築のものです。正教の総本山として、地元は勿論のこと、隣国ギリシアをはじめ世界中から多くの信者を迎え入れています。
ウンカパヌの手前ジバリ地区には、9世紀に建立され、16世紀にモスクに転換されてからはギュル・モスク(薔薇の寺院)と呼ばれたかつての聖テオドシア教会が残っています。

ゼイレク・モスク(パントクラトール修道院)
12世紀の初期は皇帝ヨハネス・コムネノスⅡ世と后イレーネ(アヤソフィアのモザイクで表現されている皇帝一家)の治世下で、当時の有名な建築家ニケフォロスによって建てられた総合施設は、隣接する二つの教会とチャペル、病院、養老院、精神病院、僧侶の宿舎等から構成されています。教会はキリストとマリアに、チャペルは大天使ミカエルに捧げられたものです。
イスタンブールで今日まで残る同種の建造物の中では、アヤソフィアに次いで二番目の規模をもつパントクラトール教会の修道院では、その昔700人が宗教、奉仕活動にあたっていたとされています。
オスマン民族による征服後、教会はモスクに、修道院は神学校にと変換されたものの以降、重要性を失って使用されなくなっています。
残念ながら、手入れの行き届かないまま放置されてはいますが、床のモザイクや窓のステンドグラスはかつての建物の美しさを無言のうちに語りかけています。
ボスフォラス海峡
ルーマニア、ブルガリア、ウクライナ、ロシア等、黒海沿岸諸国が地中海へ出るにあたって非常に重要なボスフォラス海峡は、1936年のモントレー条約によってトルコの監督下におかれています。
海峡の形成は、地質時代第4紀の地層の陥没に始まり、現在の姿となったのは今から7,500年前のことで、その名は次の様な神話に由来しています。
全能の神ゼウスが妻ヘラの嫉妬から恋人イオを守ろうと彼女を雌牛に変えましたが、これを見破ったヘラは雌牛を脅そうと蜂をけしかけたのです。哀れイオはこれを逃れようと海を分けて突進し、こうしてここが〈雌牛(Bous)の通り道(Phoros)〉と呼ばれる様になりました。
有史以来、両大陸間の移動を試みる軍隊の前に越える事は不可能な障害として横たわった海峡に、最初の橋が架けられたのはまだ紀元前4世紀の事です。軍事遠征を仕掛けたペルシアの皇帝ダリウスが、700,000人の兵を渡す為に筏と船を縛って造った "橋" です。
コンスタンチノープル陥落の為には、ボスフォラスを落とすのが先決であることを十分に弁えていたオスマン民族は、まずはその両岸にアナドルとルーメリの要塞を建造して、そこに設置した大砲によって敵方の海上輪送を封じました。
都市の征服後、その初期には漁村が点々としていたのみであった海峡の両岸も、時とともにスルタンが賞与として、あるいは口止め料として辺りの土地を帝国上層部の人間に与えた結果、木造の館やヤル(水面に張り出した形の別荘)の建設が始まったのです。
共和制になってからの建設ラッシュの餌食になった感は否めませんが、しかし、これらにも拘わらずやはりボスフォラスは世界でも指折りの美を披弄しています。
地元の人々、外国人、全ての人々を魅了せずにはおかないこの海峡にとって、第一ボスフォラス大橋が建設され欧亜両大陸が結ばれた1973年は、まさに歴史上の転換期ともいえます。
1988年には日本企業の建設による第二ボスフォラス大橋〈ファーテイ・スルタン・メフメット大橋〉もわたされています。
大型タンカー、貨物船が通過するボスフォラス海峡は、今日、世界で最も重要で、最も取引量の多い、そして最も危険な海峡とされています。
以下、海峡沿岸の地区、要所に解説を加えてご紹介します。
