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トルコの人気世界遺産

エフェソス遺跡(文化遺産・2015年)


 古くからの伝説では、エフェソスは女性戦士として名高いアマゾネスにより建設されたと言われている。この町の名はKINGDOM OF ARZAWA (地母神の王国) という意味を持つ "APASAS(アパサス)" から由来しているらしい。エフェソスには青銅時代末期頃から既に人が住み始めていたようだが、その時々の生活環境や条件の変化に応じて長い歴史の中ではその位置が何度も変わった。

エフェソスの最初の定往者はカリア人とレレジア人とされている。BC1200年にはイオニア人の移民活動が始まった。言い伝えではエフェソスの町はアテネ王コドロスの息子アンドロクロスにより2度造られたと言われていて、予言者の言葉で「魚と猪に導かれた地」とされたカイステル(小メンデレス川)の湾口に建設された。移民により大きく成長したイオニアの諸都市は次々とエフェソスの同盟都市となっていった。BC7世紀初頭、エフェソスはキンメル人の攻撃で崩壊したが、リディア王の統治下では地中海世界の中で最も裕福な町となった。その後ペルシャ王キュロスはリディア王クロエソスを破り、エーゲ海沿岸地域でのペルシャの覇権拡大に乗り出した。

5世紀初めイオニアの諸都市がペルシャの支配に反撃していた頃、エフェソスは町の崩壊を避けるためそれら都市との同盟関係をすばやく断ち切った。そしてBC334年にアレキサンダニ大王が登場するまでの50年間、エフェソスはペルシャの支配下で平和な安定した時期を送った。アレキサンダー大王の12人の将官の一人で、大王の死後その地の支配者となったリシマコスは町の開発に力を注いだ。そして彼の妻アルシノエに因んで町の名をアルシネイアとした。彼は港を整備して町全体を2.5km南西へ移し、パナユル山とブルブル山の斜面に城壁を巡らした。しかしエフェソス人はそれまで住んでいた町を離れようとはしなかった。しかしその後の洪水で町の下水道が塞がり家々が崩壊したことから、リシマコスは住民を強制的に移させることにした。BC281年にエフェソスの町は再建され、地中海沿岸地域の中でもとりわけ重要な商業港の一つとなっていった。エフェソスは2015年に世界遺産に登録された。


詳しくは右側のエフェソス旅行・観光の案内ビデオをご覧になってください。 → → →
 
2分03秒  (日本語字幕版)

BC129年、ローマ人はペルガモン王アッタロスの遺言だと偽り、小アジアの全ての領土をローマ皇帝に寄進させた。古代の記録によるとその当時の町の人口は20万人とされている。BC1世紀、住民はローマ帝国に強いられていた重税を理由に反対運動を起こし、やがてそれは暴動へと発展していった。彼らはミトリダテスを指導者として立て蜂起した。BC88年町に住むローマ人は虐殺された。そしてこの暴動はスラ帝率いるローマ軍の力で鎮圧された。我々が今日感嘆するエフェソスの遺跡の数々はアウグストゥス帝時代以後のものである。

 古文書によるとエフェソスはAD17世紀の地震で倒壊した。しかしその後復興し貿易と商業の中心地となっていった。歴史家アリスティオの記録には、エフェソスが小アジアで最も重要な交易地であることは誰もが認めるところであると記されている。エフェソスはエーゲ海地域で二番目の哲学学校を有し、また他の都市をリードする政治・学問の中心地でもあった。

 1世紀後、エフェソスにキリスト教信仰を広めようとする一人の使徒がやって来た。彼は住民をローマ人の迫害から全力で保護しようと努めた。東西を結ぶ接点にあるエフェソスは温暖な気候に恵まれ、何よりアルテミス信仰の地としての重要性を強く帯びていた。キリスト教徒にとってエフェソスの町は生活水準の高さはもとより、町の人□が正確に管理されている点や多信教崇拝の要素を含んでいることなとがら、理想的な布教地域であったようだ。記録によると、聖パウロは65年から68年迄の3年間この地にいたことがわかっている。彼はここで人々を集め、神は形あるものではなく、いかなる時、いかなる場所にでも存在するものであるとキリスト教の教理を説いた。この教えは当時金・銀などで作られたアルテミス小像を売り、莫大な利益を得ていた手工職人達の反感を買った。特にその中でデメトリウスという名の銀細工師はその反対運動の中心となり、何千ものエフェソスの市民を率いて劇場へと行進をした。そして口々に“エフェソスのアルテミスは偉大なり!エフェソスのアルテミスは偉大なり!”と叫びながら聖バウ口達を野次り小石を投げつけた。群衆はやがて暴動化しバウ口達は命からがらその場より逃げ出したという。後にエフェソス人に宛てた聖パウロの書簡には、エフェソスで投獄されていたことが記されていた。

 一方、使徒聖ヨハネは聖母マリアを伴いこのエフェソスにやって来たと言われている。更に福音書を著し、最終的に埋葬されたのもここエフェソスであったと考えられている。


エフェソス

 269年、エフェソスと周辺の都市はゴート人に侵略された。当時エフェソスにはアルテミス信仰のための神殿が残されていた。381年テオドシウス帝の命令によりこの神殿は閉鎖され、翌世紀には神殿の石材が切り出されそのまま放置された。

 地理的に恵まれていたエフェソスであったが、この時代の破壊が原因ですっかり衰退していった。

 それまで町の繁栄は入り江を巧く利用した天然港の存在に因るものであった。しかし水路が狭くなり船の航行が困難になったことから、この港はローマ時代迄にはアルテミス神殿から1.5kmのピオン山の西側に移された。これはエフェソスの西、エーゲ海に注ぐメンデレス(カイステル)川によって運ばれる土砂が何千年以上もの間に堆積し三角州に成ってしまったことが大きな理由だった。

 ビザンティン時代後期迄に水路はもうそれ以上機能出来ないほど塞がれてしまった。海は段々後退し、その上、港周辺の湿地帯にはマラリア等の病気が蔓延し始めた。キリスト教思想の広がりにより、それまでアルテミス信仰に使われていた建築物は段階的にキリスト教会へと改修されていった。大変重要なキリスト教公会議が431年と449年の2回エフェソスで開催された。6世紀以後、聖ヨハネ教会は神聖な巡礼地となり、ユスティニアヌス帝の命で町の周囲に城壁が設けられた。それからまもなくアラブ人の攻撃により聖マリア教会を始めとするキリスト教の建物は破壊された。

 7世紀に町は現在のセルチュク市街の場所に移り、ビザンティン時代はアヤスルクの丘周辺に落ち着いた。そしてアイドゥンオウルラル族のセルジュク朝期に大きな繁栄を見せた。中世の時代には貿易港としての町の役割はすっかり無くなった。

 20世紀迄にメンデレス川の堆積した土砂により海岸線は更に5km後退した。

エフェソスの発掘

 エフェソスの最初の発掘は、1859年から74年にかけて大英博物館の後援でJ.T.ウッドによってオデオン(音楽堂)と劇場が発見された。更に1869年5月にはアルテミス神殿も見つかった。

  定期的な発掘調査はウィーンアカデミーの一員オットー・ヴェンドルフの指揮下で1895年に開始された。オーストリア考古学協会のR・ヘベルグが中心になり行われた発掘ではアゴラ、劇場、アルカディアンそしてセルシウス図書館が新たに発見された。

 これらの発掘作業は第1次世界大戦中に一時中断されたが、1926年再開された。

 更に発掘はオーストリア考古学協会のヘルマン・ヴェッテル指揮下の大規模な発掘チームにより継続された。ローマ時代の居住地跡が複雑に重なっていたことから、ヘレニズム時代の層に達したのは1960年になってのことだった。

古代遺跡エフェソス

 ヘレニズムとローマ時代の古代遺跡エフェソス。入口は二箇所ある。クシャダス方面から来るのであればハーバーゲート(港の門)がある入口から入場しよう。まず最初に目にする建物はジムナシウム(体育場)である。

ヴェデウスのジムナシウム(体育場)

 このジムナシウムはエフェソスの財産家ヴェデウス・アントニウスによりAD150年に建てられた。建物の東側ファサード(前門)の発掘調査の際発見された碑文によると、このジムナシウムはアルテミス神と執政官アントニウス・ピウスに捧げらたものであるという。発掘されたジムナシウムの部屋からは崇拝されていたアントニウス・ピウス像が見つかっているこの場所からかなり多くの像が出土しているが、その中の2体の水神の彫刻像は、現在イズミル考古学博物館に展示されている。トイレもかなり保存状態が良い。

スタディウム(競技場)

 ジムナシウムのすぐ南側に面しているスタディウムはネロ帝(54-68AD)の命で建てられた。広さは228×38m。パナユル山の斜面を利用して観客席か設けられ、カヴェアの北側は丸天井で支えられていた。発掘物には大理石製の粗彫りの柱頭が多く含まれている。その後、ビザンティン時代になってから城砦を建設するためスタディウムの石材が再利用され、現在はごくわずかの遺跡しか残されていない。

 スタディウムは戦車競争や運動競技また剣の決闘に利用された。この剣の決闘の様子を描写した大理石のレリーフはマーブル通り沿いに飾られている。スタディウムの向かい側の小高い丘のところには、年代不詳の建物が数多く発見されている。これらの発掘物には魚市場やビザンティン時代の泉、エフェソスを建設したアンドロクロスのものと推定される墓が含まれている。アルテミス神殿からスタディウムを通り、町の中心へと延びる道がマーブル通りであった。現在このスタディウムでは、今や伝統行事となったラクダのレスリング大会が開催される。毎年春に行われるエフェソス芸術文化フェスティバルには世界中から沢山の観光客が訪れる。



聖母マリアのダブル教会 (ローマ株式取引所)
このローマ式の建物はAD2世紀のもので、広さは265×9 0m。3つの回廊からなる教会である。AD4世紀に教会に改修されるまでは商業的な目的で使われていた建物だった。港に近いことから様々な商品がこの場所に集まり市場取引されていた。そして後にビザンティンの教会が健物の西側に増築された。
聖母マリアのダブル教会 オーストリアの考古学者が調べた結果、ここに当時の大司教の公邸があったことは確かなようである。教会は二度の重要な宗教公会議に利用され、その会議ではキリストの神性と処女マリアについてが討議された。アンチオキアの宗教学校の創設者でありコンスタンティノープルの大司教であったネストリウス(380-451)は、キリストの生まれながらの神性を否定し、またマリアを神の母と見ることに反対の立場をとっていた。これに対しアレキサンドリアの宗教学校はマリアは神の母であるとのより自然で伝統釣な見方を主張し続けていた。結局、ネストリウスは異端者とされ国外へ追放された。この様にエフェソスはキリスト教世界において重要な位置を占めるようになり、エフェソスでの聖母マリア信仰もその後増していった。
449年の第2回宗教会議では、キリストの人間性は完全に否定され生まれながらの神であることが公認されたのである。この理論は後に東洋社会での一神論に発展した。

アルカディアン(港の大通り)
長さ600m、幅口11mのこの通りはアルカディウス帝(395-408)の命で修復されたことから、皇帝の名をとって呼ばれる様になった。劇場と港を結ぶ大通り、の両側には円柱が並び、モザイク敷きの舗道が設けられていた。商店の連なる柱廊は冬は風や雨、夏は照りつける太陽を遮る屋根が設けられていた。ユスティニアヌス帝(525-566)により建てられた4本のコリント式のどっしりした柱には、それぞれ4人の福音伝道者の銘が刻まれている

劇場
劇場はパナユル山の斜面を利用して造られた。劇場を飾っていた数々の美しい装飾物は現在ほとんど残されていない。舞台から客席の最上段まで60mの高さを持つこの劇場はエーゲ海沿岸地方でも最大規模の劇場であった。客席は三段階式になっていて、通路部分も含めて2万4千人収容であったが、最大2万5千人を収容出来たようだ。劇場の大がかりな修復工事はクラウディウス帝の時代に始まり、トラヤヌス帝の時代に終了したと言われている。客席の石段は後に建築用の石材に使われた。ステージビルの一階と二階はネロ帝(54-68)の時代に建設され、三階がセプティムス・セベルス帝(193-211)の時代に増築された。舞台のファサード(前門)は壁がんや円柱、レリーフ、像で飾られていた。また舞台はオルケストラ(半円形の踊り場)より2,70m高く造られ、左右に設けられた階段で昇り降りした。

マーブル通り(大理石通り)

 マーブル通りは劇場とセルシウス図書館を結んでいる。今日見られる通りはAD5世紀のものと思われる。円柱が並ぶ通りの下には下水道設備が整えられている。舗道の中程、右手には娼婦宿の道しるべがある。左足跡、女性の似顔絵、そして穴の開いたハートが刻まれている。娼婦宿は鉄製の欄干で囲まれていたらしい。

アゴラ(市場)

 元々はBC1世紀に造られた広さ110×110mの野外市場であった。3世紀初頭、カラカラ帝によって修復されたが、4世紀に起こった大地震で倒壊し現在の規模になった。町の商業の中心で、食料品とかあらゆる種類の商品がこの市場で売り買いされた。柱廊に沿って商店が連なり、裏手には貯蔵庫が設けられていた。アゴラの中央には水時計と日時計が置かれてあった。

マゼウスとミトリダテスの門

 大理石で造られたこの門はBC3世紀に奴隷の身分から開放されたマゼウスとミトリダテスが、アウグストゥス帝と義理の息子アグリッパに感謝の意を敬すため建てたと言われている。アゴラにつながるこの門は近年行われた修復工事で生まれ変わった。


マゼウスとミトリダテスの門

セルシウス図書館

 建物は主に文化的目的のために造られたのだが、実は墓所でもある。エフェソスの知事を務めたセルシウス・ポレマエヌスの死後、彼の息子は父の墓の上に壮麗な図書館を建設した。2世紀に造られたこの建物は260年火災に見舞われたが、ファサード(前門)は大きな被害を免れた。幅21m、高さ16m。 正面階段の左右の台座の上には馬上の騎士の像が立っていた。またファサードの壁がんには4体の像が置かれていた。内側の部屋は広さ16×10m。建物の地下の墓所には保存状態の良い石棺が残されている。20世紀の始めにオーストリアの考古学者チームが行った発掘では正面中庭に置かれていた4世紀の泉やパルチア人と戦うマルクス・アウレリウスとルキウス・ヴェルスの精巧なレリーフが見つかっている。このレリーフとファサードにあった4体の女性像は発掘の際に、ウィーンの博物館へと不正に運び出されてしまった。 今日我々が目にするファサードは1970年代に行われた修復後のものである。円柱の上下には鉛の板がはめ込まれていて、東西軸の震度9の地震にも耐えられるように50cmの隙間が設けられている。そして各々の円柱の中心には10cmの穴が開けられていて、鉄の芯が通っている。正面のファサードで修復作業が行われていた時にローマ式建築では知られていなかった階段の底部で0、円柱の底部で4,5cm程の歪みが傍見された。普通はそれと逆の方法で10cm程の歪みを付けるギリシャ式建築が用いられていた。この建築方法は幅21m以上の建物を造る時、建物の外観を良くするために採り入れられていた。1978年には修復作業が完了し、全て一般公開された。


セルシウス図書館

セラピス神殿

 この神殿は2世紀のものでエジプトの神の一人セラピス神を祀っている。多くの様々な信仰か一気に増えた国際都市エフェソスで、人々は宗教に関してはかなり寛容だったことを表している。コリント式の神殿で大変質の良い大理石が用いられている。

円柱の何本かは12mに届く高さで1枚岩のその柱の巨大さには驚くばかりである。

回転式の扉を入ると、エジプト産の花圈岩で作られた像が立っていた礼拝室へと繋がっていた。地面に転がっている1枚岩の重さは50トンを超えるという。これらの石片はどれも未完成のまま放置されたらしい。何の銘も刻まれていない。

娼婦宿

 今日残されている建物全体は4世紀のものである。セルシウス図書館のすぐ向かい側に位置している。娼婦宿は20.5×20.5mの中庭を囲むようにして配置されたサロンと部屋から構成されていて、それらは廊下で繋がっていた。入□の左手には訪問客が服の泥や埃をはらうホールが設けられていた。建物は見事なモザイク模様で装飾されている。エフェソスの娼婦達は知的で教養があることで知られていた。彼女達は自分の家を所有したり、デモや選挙に参加出来たりと、普通のローマ人女性にはなかった特権を所有していたようだ。


ラトリネ(トイレ)

 かなり保存状態が良い。元々は屋根付きの長方形の部屋で、換気の役目をする溝と中央に大理石が置かれ、ブロンズ像と円柱で囲まれていた。トイレは水の流れる大理石の溝があり、大理石で作られた便座が横一列に並んでいる。床はモザイクが敷かれ壁は大理石製のパネルで覆われていた。トイレの利用者は人□でお金を払って中へ入った。公衆トイレはヴェスパシアヌス帝の命令で建設された皮工場で、羊や山羊の皮をなめすのに使う尿酸を得るために造られた。


ラトリネ(トイレ)

テラスハウス

 テラスハウスは修復工事が終了した1985年に初めて一般公開された。この地区はBC1世紀以降に都市開発が進められたことが明らかにされている。住宅は7世紀迄次々と所有者が変わった。2世紀から4世紀にかけての時期、この場所は繁栄のピークを迎え、財産家や身分の高い祭司が居住した。建物は一階建てでパーティや食堂に利用されていたオープン式の中庭を囲んで広々とした部屋が並んでいた。台所やブドウ酒の貯蔵室の他に多くの寝室が発掘されている。モザイクで飾られた泉からは水が流れていた。壁の高さは4m程である。上階へ繋がる階段も発見された。部屋の床材としては大理石よりモザイクの敷石が好まれていたようだ。大理石は主に敷居の部分で頻繁に用いられていた。壁の塗装は漆喰が使われている。テラスハウスから出土した壁画や家具、生活用品などはセルチュクの考古学博物館に展示されているので訪れてみるとよい。

テラスハウス

スコラスティカ浴場

 浴場は初めAD1世紀に造られたが修復されながら5世紀にはスコラスティカという財産家の女性により更に拡大された。浴場に隣接するプリタネと呼ばれる建物と他の付属の建築物は建築資材として切り出され再使用された。高温浴場と浴場の入口に立つ創建者スコラスティカの像はかなり良好の保存状態で現存する。

クレテス通り(神官通り)

 セルシウス図書館からヘラクレスの門を通り、オデオン(音楽堂)へと真っ直ぐ延びている通りである。右手にあるハドリアヌスの門は現在修復作業が続いている。またこの通りの“オクタゴン”と呼ばれる墓地からは20才代の若い女性のものと思われる人骨が発見された。オクタゴンは元々1世紀に造られたもので、4世紀に記された大理石の碑文には、墓地は358年から368年にかけて、当時行政官だったエウトロピウスとフェストゥスにより修復されたという記録が残されている。

ハドリアヌス神殿

 2世紀に建てられたコリント様式の神殿は、4世紀に一度修復され、最近になって神殿の石片が残されていたことから、再び修復された。門の上の部分のレリーフは模造で、本物は現在セルチュクの考古学博物館に保管されている。この建物はローマ式建築を採り入れた他に類を見ない最高傑作と言えよう。神殿はアテナ女神(石片の両端に描写されている)、エフェソスのアルテミス女神、猪を追うアンドロクロス、更に皇帝テオドシウスI世と妻と息子のアルカディウス等のレリーフ模様で飾られている。ファサード(前門)の正面には、4人の重要な皇帝ディオクレティアヌス、コンスタンティヌス、マクシミアヌス、ガレリウスの像が立っていた。編み目模様のペディメント(破風)には女神テュケの胸像のレリーフが、卵模様で飾られた入□のアーチの上部にはメドゥーサのレリーフが彫られている。


トラヤヌスの泉

トラヤヌスの泉

 2世紀に診られ現在部分的な修復が続いている。正面のファサードにはトラヤヌスの等身大の像が置かれてあった。右足とトルソ(頭や手足のない裸体像)の一部が残されている。寄り添う2人の森の神を描いた彫刻と女神アフロディテの像は現在セルチュクの博物館に納められている。正面の泉を三面から囲むように高さ12mの二階建ての建物があった。

ヘラクレスの門

 4世紀末あるいは5世紀初頭に造られたものと思われる。現在少し離れて置かれている勝利の女神ニケのレリーフは、ヘラクレスのネメアのライオン退治を描くレリーフと共に、元々この門を飾っていたものらしい。門のすぐ左手前の台座には4本の円柱を持つヘレニズム式の泉がある。

メミウスの記念碑

 この記念碑はBC86年、ローマ帝国の象徴とされていた独裁者スラの命で造られた。記録によると、当時ローマ支配に反対していたエフェソスの市民は、その頃その地の進出を図っていたポントス王ミトリダテス側に加勢した。勢いを得たミトリダテスはたった一晩でその地域に住む8万人のローマ人の虐殺を命じたという。記念碑はこの時の犠牲者の霊を慰めるために建てられたものだった。

ポリオの泉

 AD1世紀に造られたこの泉はマルナス水道橋建設で功績のあるセルヴィリウス・ポリオに捧げられた。彫りの深いファサードが設けられている。ウルイセス(ギリシャ神オデュセウス)の冒険の一部を物語った彫刻群はこの場所で発見され、修復の後現在はセルチュクの博物館に展示されている。


ドミティアヌス神殿

 フラヴィウス朝の王子ドミティアヌスはAD81年に皇帝に即位した。始めは厳格な行政官であった彼は、後に“君主と神” と宣言して独裁的な支配をするようになった。しかしながら妻ドミティアの裏切で暗殺された。死後、元老院の決定で彼の功績は否定され像は全て破壊された。8×13の巨大な円柱が連なる柱廊を持つ神殿は町でも最大規模の神殿の一つだった。大理石の1枚岩で作られたと思われる巨像の頭と握り拳の腕はこの場所で発見された。ドミティアヌス帝に関する遺跡が殆ど残されていないことから、エフェソスの神殿や大理石像はとりわけ貴重な存在となっている。

プリタニオン(市庁舎)

 アルテミス神に捧げられた礼拝所だったプリタニオンは、アウグストゥス帝時代に建設された。その後3世紀に修復されたものの4世紀末には破壊されてしまった。建物は黒白色の大理石で造られた四角形の神殿で中庭にはアテナ像、そして女神ヘスティアの小像の前には壁がんを利用した祭壇が設けられていた。ここには当時町の人々の生活の象徴となっていだ聖火”が灯され続けていたという。建物にはポーチ式の小部屋に囲まれた中庭、集会場、4本のコリント式円柱(内3本は現存)に支えられた屋根付の長方形の部屋があった。また建物は堅固に守られていたようだ。町の行政官や外国の使節、地元の財閥家等が集まって、ここで晩餐を楽しんだ。この場所からほぼ完全な伏態で出土したアルテミス像は現在考古学博物館に展示されている。

オデオン(音楽堂)

 小劇場形式の建物は、隣接した浴場と大体同時期の2世紀にヴァリウス・アントニウスと妻フラヴィア・パピアナによって建設された。劇場とはその性質が異なり市議会の集まりや音楽会に利用されていたようだ。太陽や雨を遮る木製の屋根が設けられていた点からも劇場の設計とは違いが認められる。

 1千5百~2千人の収容。オルケストラ(踊り場)から5段目迄がオリジナルで、階段はライオンの足の模様で飾られている。保存状態は極めて良い。オルケストラから発見された優美なエロスの頭部像は現在セルチュクの博物館に展示されている。


オデオン(音楽堂)

ステートアゴラ(行政広場)

 AD4世紀迄を調査したところでは、ステートアゴラではあらゆる政治的活動(選挙・集会・デモ等)が行われていたらしい。アゴラは聖道沿いに造られた墓地の更に下の層から発見された。またアゴラの西側で1世紀に建造された3面を円柱で囲まれていたイシス神殿の土台部分が発掘された。ステートアゴラとオデオンの間には屋根付きの3列の柱廊を持つ長さ160mのバシリカ(聖堂)があった。聖堂の列柱には雄牛の頭の彫り物で飾られたコリント式とイオニア式の柱頭が載っていた。ここはまた金貸しと銀行家が互いに金を交換しあう金融取引所としても利用されていたらしい。建物は6世紀の末には完全に破壊されてしまった。

 ステートアゴラの向かい側にマグネシア門がある。ヴェスパシアヌス帝(69-79)の時代に造られたもので、勝利の門と言う意味を待つ。門はパナユル山とブルブル山を囲む城壁の起点にもなっている。この門を跡にすると“ウーメンズジムナシウム(女子体育場)”と呼ばれる東側のジムナシウムが左に見えて来る。ジムナシウムはAD3世紀にソフィスト(古代ギリシャの学者)だったドミアヌスと妻ヴェダファエトリナにより建設された。古代でも女子の教育には力を入れていたようで、ここから沢山の女性像が出土した。設立者の中に女性の名が含まれていることからもこれは確かなことと言える。

セブンスリーパーズの洞窟

 この洞窟から見つかった1世紀のものと思われるキリスト教最古の文献メクデリによると、聖母マリアはエフェソスに住みこの地に埋葬されたと言う。オーストリアの発掘チームによる調査では「聖フェオティニ(高名な信者)ここに眠る」という意味の古代ギリシャ語で書かれた碑文が発見された。7人の若い男達がデシウス帝の迫害の時代に眠りにつき、目を覚ました時はキリスト教が公認されたテオドシウスの時代になっていたと言う伝承が残されている。この洞窟はリシマコスによって築かれた城壁の外側、パナユルの山の麓にあるが、長い間その場所は秘密にされていた。この伝説の訳文はコーラン(イスラムの聖典)の中にも見られる。

聖母マリアの家

聖母マリアの家 

 アナトリアは数々の文明と宗教の発祥地であり、聖母マリアの家は人類の宗教の発展を知る上で重要な他の一つとなっている。聖母マリアの家はエフェソス都市遺跡のマグネシア門から約4km、標高358mの山の上にあり、交通手段の極めて不便なところにある。大変温暖な気候に恵まれここからはセルチュクの美しい田園風景が見渡せる。聞こえるのは鳥のさえずりだけ。焼けつく様な夏の暑さも、ここまで来ると一時忘れることが出来るほどだ。目の前に広がる大地が地平線を境に青空と重なり感動的な情景を描き出している。

 車を止め、左手の水槽を通り過ぎると、右側には訪問者のために数カ国語で書かれた案内板が見えて来る。このすぐ左手には両腕を差し延べて優しく訪問者を迎えてくれる聖母マリアの像がある。このブロンズ像は19世紀の初頭に行われた発掘で出土し、折れていた腕はその後修復された。もう少し進むと前方のプラタナスの木々の下に聖母マリアの家が見えて来る。この家で本当に聖母マリアが余生を送ったかどうかは今尚多くの学者の間で討論されている課題である。今日まで伝えられている話はエフェソスの住民に代々語り継がれて来た伝説が根拠となっているのである。ドン・ルナルト(1657-1707)、バロンウス(1528-1607)、ティレモント(1637-1698)やポープ・ベノイトXIV(1675-1758)らは全員、聖ヨハネは37年から45年の聞にマリアと共に小アジアヘ移り住んだという説で一致している。

 聖母マリアの生誕を祝って、山の中の礼拝堂“パナヤカパウル”への道を整備するために地元信徒に課せられた税の負担は重く長かった。しかし彼らは聖母マリアの最期の地”という先祖からの話を頑に信じていたのである。

 19世紀に“La vie De La Sainte vierge”という本を発表したドイツ人のキャサリン・エメリッチ(1774-1824)は床につきっきりの病弱な女性であったが、ある時自らの霊感によって驚くべき予言をした。彼女は一度もその地を訪れたことがなかったにもかかわらず、山の上の礼拝堂の位置を正確に言い当てた。そしてイズミルの聖ポリュカルプ教会のラザリスト司教がその場所を突き止めることに成功したのも彼女の本と予言のお陰だった。

 聖母マリアがこの地に住んでいたと言われている話以外にもエフェソスには幾つかの事実が残されている。

*100年頃エフェソスで亡くなり埋葬された聖ヨハネの墓地は聖ヨハネのバシリカ (聖堂)にある。バシリカはセルチュクのイサベイモスクに隣接する。

*宗教公会議が431年と449年にエフェソスで聞かれた。

*エフェソスに残るダブルチャーチは聖母マリアを祀る最古の教会である。

*聖パウロにより著されたエフェソス市民への書簡。

*エフェソスの七人の眠り男の伝説の場所。

 1892年、イズミルのMgr.トモニウ大司教は聖母マリアの家を公式に巡礼の地として宣言した。

 またバチカンも疑いようのない歴史上の証拠を重んじ、聖母マリアの家を巡礼池として公認した。

 これらの証拠を調査した考古学者のグループは、礼拝堂は6世紀に使われていたものだがこの家の壁は1世紀のものと断定、更に暖炉の中で石化された1.2㎥の灰を発見した。聖母マリアの家には“聖なる水”と呼ばれている泉がある。ともかく最終的な結論は分かれるが、この簡素な家はその後修復され礼拝堂となり世界中のあらゆる宗教、あらゆる人種の人々の関心を集めている。



アルテミス神殿

 アヤソルクの丘から約400m南、今日、多くの円柱の部分が散乱する平地にはかつて世界七不思議の一つに数えられたアルテミス神殿が立っていた。B,C,7世紀から120年を費やして完成した広さ115×55mの神殿は両長辺に二列の、短辺には三列の列柱が並び、直径1.2m、高さ19mの円柱が127本使用されていた。神殿は歴史にその名を残したいと切望した狂人エロストラトスの放火でアレキサンダー大王の出生日に火事にあい、エフェソス人は直ちにこの新築にとりかかっている。旧神殿の設計を多少変更して高さ2.7mの基台の上に建設され、11段の階段が設けられた。広さ105×55m、高さ18mの円柱を使用した神殿は当時の建築技術を総結集したものと言える。この美しい建物はローマ時代後方のアヤソルクの丘とアルテミス神殿に皇帝ネロの命で荒らされ、更にゴート人によって破壊された。最後にはキリスト教徒によって決定的なダメージを受け、石塊等は教会の建築資材とされてしまった。浮き彫りの施された円筒の幾つかは、今日、英国博物館に展示されている。

アヤスルクの丘

 これは古代都市のアクロポリスである。時が経つにつれて、城壁内は人々の居住地となった。後に港が土砂で塞がり機能しなくなると、貿易診市としてのエフェソスの重要性は次第に下落していった。そしてビザンティン時代にはこのアヤスルクの丘に城砦が築かれた。 11世紀、セルジュク朝に攻略されて以後、この丘はビザンティンとアナトリアセルジュクの間で何度も支配者が変わった。1438年にアイドゥンオウルラル朝の支配下では、商業の中心地として発展した。しかし結局は1402年オスマン帝国の領土に統合された。 1919年から1922年にかけてギリシャの管轄下に置かれたが、1957年から今日に至る迄町はイズミル県の一地方に属している。19世紀に一時行政がアヤスルクからチルキンジェ(シリンジェ)のギリシャ人村に置かれたことがある。

アヤスルクの丘

イサベイモスク

 これはアイドゥンオウルラル朝の創設者イサベイにより、1375年に建てられた。セルジュクトルコ様式のモスクで、アシメトリー方式が用いられた代表的な建築例である。モスクの中庭は以前ドーム屋根の回廊で囲まれていたのだが、もはや現存しない。窓は全て同じ形式で造られた。大理石の彫刻は大変価値が高い。中庭は後に墓地として利用された。

伝適者聖ヨハネ教会

 キリスト最愛の弟子で、はりつけの時ただ一人傍に居合わせたヨハネは、キリストの母聖母マリアの保護をキリストより託された。そして彼は後にキリスト教の普及に努め、ドミティアヌス帝(81-96AD)の時代に、迫害によって弾圧された人々を不満と抑圧から奮起させる目的でアポカリプセを著した。アポカリプセは新約聖書の最終巻として編纂されている。 AD100年頃、パトモス島での流刑から戻ったヨハネはエフェソスに移り住んだと言われている。彼の死から数年後、彼の名が付けられた最初の教会が墓地の上に建てられた。そしてユスティニアヌス帝の時代になって大聖堂が建設された。1926-28年に墓所を調査したところ、聖ヨハネ教会は4世紀以前に建てられたことが分かった。13世紀のセルジュク朝の領土侵攻では放置され、1402年のモンゴル民族侵略の際焼け落ちたという。

 教会は40×110mの大きさで、西側にある入口は東西軸上に正確に配置されている。聖堂の左手に11世紀に造られたとされるフレスコ画のある小さな礼拝堂がある。そして司祭が祈りを捧げていたこの部屋のすぐ左隣には、聖骨が保管されていた小宝物庫がある。洗礼堂の保存状態は良く現在も修復が続いている。この洗礼堂は教会よりも更に以前から存在していたことが明らかにされている。発掘によりユスティニアヌス帝と妻テオドラにより追られた柱頭が見つかっている。


セルジュク城

 城は聖ヨハネ教会の北側に位置している。ビザンティン様式の建築で、アイドゥンオウルラル朝の時代に修復された。建物は様々な時代の手法が採り入れられている。城の周囲は約1.5km。15の砦と14世紀に追られたモスクがある。

追撃の門

 これはアヤスルク・ビザンティン時代に丘の上に出来た町を囲んでいた城壁の門である。6世紀もしくは7世紀に築かれたと思われる。この門は建設の際、エフェソスのスタディウムの門に使われていた石材が用いられている。

考古学博物館

 比較的小規模ではあるがトルコで最も充実した且つ重要な博物館の一つである。6つの展示室と中庭から構成されている。

サロン1:テラスハウスからの発掘品。展示品にはイルカに乗ったエロス像”。“エロス頭部像”“プリアポスの小像”“ソクラテスの頭部像”や壁画、司祭像等がある。

サロン2:泉からの発掘品。主な展示品はポリオの泉とトラヤヌスの泉のファサード(前門)、“水神トリトンの像”や数多くの胸像等である。

サロン3:古代コイン。金の装飾品やコイン、エフェソスの最も重要な象徴の一つだった蜂の模様の大メダル等がある。

演劇用仮面と家具屋内中庭(アトリウム):ベレヴィ墓地出土の発掘品、アルテミス神殿出土の石片、大変珍しい雄牛の頭のある円柱等。

サロン4:墓地出土の発掘品6世紀の石棺、骨壷や埋葬に使われた器等。

サロン5:アルテミス神殿出土の発掘品珍しい2体の女神像や神殿から出土の他の発掘品,。

サロン6:皇帝達の部屋ハドリアヌスやドミティアヌス神殿出土の発掘品。

クシャダス

クシャダス

 クシャダスは,エーゲ海沿岸イオニア地方の中でも重要な観光産業の中心に位置し、トルコ地中海沿岸のアンタルヤに次いで人気のあるホリデーリゾート地となっている。

これは、トルコ西海岸を南下するクルーズ船の最初の寄港地になっていることにも因るのであろう。その上、エフェソス古代遺跡を紡れるために、対岸のギリシャ頷サモス島から、毎日何千もの旅行者がクシャダスヘとやって来る。

 クシャダスの歴史はBC2000年末のトロイ戦争まで遡ることができよう。国王アガメムノンはここ古代フィゲイラに軍隊の基地を建設した。しかしヘレニズム時代には人々の定住地となった。 BC3世紀に入って町はエフェソスに住む富裕市民のための夏の保養地として大きな発展を見せた。後にクシャダスが知られる様になったマラテションの初期の記録は、地理学者であり旅行家として名高いストラボの記述の中にも見られる。

 中世になってスカラ・ノバ”と呼ばれたクシャダスは、ベネチアやジェノバの商人達の盛んな交易の拠点となった。オスマン朝に征服されてからは、海軍がこの地に駐屯した。そして16世紀には城砦と武器庫が町の由来となった島に築かれた。この島は現在アスファルト道で本土と結ばれている。17世紀、急激に成長した交易活動は広大な隊商宿の建設につながった。この隊商宿は現在もクシャダスの町の中心に残されている。19世紀の半ば、城砦は拡大され、より堅固に改修された。

 1970年代まで静かで平和な美しい田舎町だったクシャダスは、近年トルコにおける観光産業の急激な成長に伴い、50kmにわたる海岸線はリゾート開発が進み、観光地として目ざましい発展を遂げた。何百件ものホテル、モーテル、ホリディビレッジ、ペンション等が密集する商業地クシャダスは今、それらのコンクリートビルの洪水の中に埋もれようとしている。



ミレトス

 西アナトリアのイオニア州の南部、メンデレス川の河口に位置していた古代都市ミレトスは小アジア12のイオニア諸都市の中でも最も力を持ち、且つ古くからの町であった。マルマラ海・黒海の沿岸に10以上の植民地を所有し、またその一方で遥かエジプトまで商業活動を広げていた。学校教育で優れた知識人を養成し、地中海沿岸地域の学問の発達を促していた。ミレトスが生んだ最も偉大な学者タレスによる幾何学や科学の分野の功績なしにミレトスを語ることは不可能な程である。


ミレトス

 ミレトスはまた近代都市設計の原理を最初に採り入れた都市としても知られている。ヒポダモスにより考案されたグリッドプラン(碁盤の目)は後に全てのローマ都市の基本となった。メンデレス川によって運ばれる土砂の堆積の結果、現在町は海岸から数キロメートル後退した所にある。これは以前ミレトスに4つの港があったという事実と考え合わせて見ても、町の歴史の中でこのメンデレス川が与えている影響が如何に大きいかを表していると言えよう。

 ミレトスのアルファベットは古代ギリシャ文字の基本である。

 ミレトス出身の哲学者が残した言葉の幾つかを挙げてみよう。

 “健康で教養ある人間程、幸福な人間である。”

 “美とは美しい肉体ではなく、美しい行動から生じる。”

 “汝自身の親に尽くしただけ、子より孝行を受けるものだ。”

                     ミレトスのタレス

 “腕のいい人間は、力の強い人間より優る"

 “両論を聞かずして、結論を出すな"

 “ほんの小さな火花であっても、森を暁きつくすには充分である"

 “戦死者に手を貸せ”

                     ミレトスのフォシリデス

ミレトスの歴史

 ミレトスの起源と先史時代については今尚論議のテーマとなっている。ヒッタイトの句の中に出て来る“ミラワンダ”という名がミレトスの語源ではないかとされている。これまでの発掘の結果、解明されているのは青銅時代迄である。最初の発掘はドイツ人の考古学者テオドル・ウエガンドにより行われたが、戦争やその他様々な事件が原因で調査は何度も中断された。発掘はジェルハード・クレイナーにより再開しウェナー・ミュレルウィナーにより継続された。

 ミレトスの歴史はBC2000年に逆上ることが出来る。町を固めたギリシャ本土からのミュケナイ人に続いて、クレタ島からの移民がBC1500年にこの地に辿り着いた。古代のギリシャ人の作家によると、最初の居住者はカリア人とレレジア人だと言われている。 BC1000年、彼らの支配者ネイレウスの時代に起きたイオニア人の町の占領後、侵略者達はミレトスの男達を殺し、町に残った女達と結婚した。こうして新しい町が形成されていったのだが、ミレトスの女達は夫を殺された恨みを持ち続け、新しい夫と同じ食卓に着かないことで無言の抵抗を示していたという。

 町は暫くの間、ネイレウス帝の血筋を引く国王により支配された。その後、BC800年、町の行政は貴族社会の手に委ねられた。BC687年以後は“ティランツ(暴君)”として知られた独裁者遠の支配を受けた。ミレトスが海外の植民地開発に乗り出しだのは、この時期であった。 BC6世紀半ば迄にミレトスは、植民地の成果で巨大な海運帝国に成長した。その時代にタレス、アナクシメネス、アナクシマンデルやヘカタエウス等の自然哲学者を始めとする優れた学者がこの町から誕生した。最初に日食を予測したタレスは幾何学と天文学の分野で新しい定理を説いた。アナクシマンデルは神の支配ではない宇宙の法則を石版に記し、またへカタエウスは地理学に秀でた。ミレトスはクロエソス王と特別な条約を結んでいたが、BC547-546年のリディア国の崩壊後は、町はペルシャ人の支配下に置かれた。BC479年、ミュカレの海戦においてギリシャ軍がペルシャ軍を打ち負かしてからは、ミレトスは地元の有名な建築家や都市設計家のヒポダモスの力で新しいグリッドプラン(碁盤の目)の町を再建した。BC334年、ミレトスはアレキサンダー大王に攻略された。大王の死後、BC313年にはアンティゴヌスが、BC301年にはセレウシデス朝が実権を握った。ミレトスはBC188年自治権を取り戻した。BC133年、ペルガモン王国がローマ帝国領に統合された時、ミレトスは小アジア州の一都市となった。ビサンティンの支配下劇場の裏手にあるパラティアと呼ばれる城で行政が管理された頃から町の力は衰えていった。1328年セルジュク朝が支配権を取ってからは、バラットという小さい村のまま現在に至っている。

 ミレトス遺跡の南門から入場して最初に目にする建物はアテナ神殿である。BC5世紀半ばに建てられ、細い6本のイオニア式円柱とそれよりも太い10本の円柱が立っている。神殿のすぐ北側にはヘレニズム時代に造られたアゴラがある。また一方、アゴラの東側にはAD150年に建設されたローマ競技場がある。北側の少し離れた所にある劇場はBC4世紀の建物である。

この建物は3度大がかりな改修が行われたこともあって、アナトリア地方の中でもとりわけ保存状態の良い劇場の一つとなっている。玄関とドームで覆われた廊下のある建物はローマ時代の際立った特徴が見られる。競技場の東側には、ファウスティナ浴場があり、この浴場に隣接してユスティニアヌス帝時代の城壁がある。またここにはAD3世紀に造られたセラペウム(セラピス神殿)がある。この神殿から南側アゴラヘ向かおう。アゴラは南棟と東棟を持つ商店街でヘレニズム時代に建てられた。アゴラの北東の隅にある入場門は町の中心へ至っている。この門の近くに置かれていた豪華な装飾のあるニンフェウム(噴水)は現在ベルリンのペルガモン博物館に保管されている。ニンフェウムの西側にはBC2世紀に建設された1500入収容のブレウテリオン(議場)がある。

ミレトス<

劇場

 考古学に特別興味を特っていようがいまいが、とりわけ最高の状態で現存するこの劇場を一目見るならば、忘れ得ぬ感動を抱くことであろう。観客数1万5千人収容の劇場はBC4世紀に建設され、ヘレニズム時代に拡張された。しかし今日見ても分かる様に完全なローマ様式建築である。カヴェアの上部にある展望塔と壁はビザンティン時代のものである。

 小高い丘の南側斜面にある直径140mの大きさの壮大な劇場からは、遠くミレトスの4つの港全てを見渡すことが出来た。劇場のファサードは地上30mの高さだった。

 長さ34mの舞台の建物は3列の円柱で支えられ、幾つかの像で飾られていた。ポストセニウムと呼ばれる舞台の最後部は大変良い状態で現存する。

 保存状態の良いカヴェアは18列からなる座席が3段階に分かれていた。また観客が昇り降り出来る通路も設けられていた。

5段迄の下段、更に10段の中段、もう20段の上段の階段で、観客は自由に席に座ることが出来た。オルケストラの前には“インペリアルボックス(貴賓席)”があって現在は2本の柱が残されている。

 上段の左側の列の一つに、劇場建設に雇われた職人達の騒動の様子を記した碑文が残されている。この騒動は最終的にはディディマのアポロン神殿の神託を得ることで解決された。これは歴史上晨初に記録されたストライキだという見方もある。

 ヘレニズム時代の遺跡は舞台の下からも発見されている。劇場の鏝上部の北側にはこの劇場の石を利用して建てられたAD8世紀のものとされる小さなビザンティン城がある。

 当時ここからの眺めは特に素晴らしく半島全体を望むことが出来た。また港の一つは“ライオンハーバー”と呼ばれていた。これは港の出入り口にライオンの像が立っていたことからこの名が付けられたらしい。他に斜面に面して英雄の墓や家々が残されている。

港の記念碑

 この碑はBC31年のアクティウムの海戦の勝利を記念して建てられたものであった。記念碑は半人半魚のトリトンのレリーフで飾られている。記念碑の北側に浴場跡、更に小高い丘にはユダヤ教会跡が見える。

ローマ浴場

 この浴場はBC1世紀のものである。建物にはパラエストラ(アスレティック施設やフィジカルトレーニングのためのオープンスペース)や広々とした中庭に面して設けられた5つの大部屋がある。更にその周りには小部屋がある。南側の1室は大司教の公邸とされる部屋に隣接したビザンティン教会である。またその先にはモザイク画や大理石の断片が残る小さな建物がある。もう少し進むと町の宗教の中心地だったデルフィニオンに出る。

デルフィニオン

 アポロン=デルフィニウスに捧げられたこの神殿は、町の中でも最も重要な神殿だった。内陣は壁に囲まれていて、中央には古風な祭壇と共に、ヘレニズム時代に作られたヘルーン(英雄の記念碑)と思われる建物がある。発掘はBC494年のペルシャ時代から年代順に下の層から進められている。

何度も修復が行われたビザンティン教会の高い壁を越えてすぐ南側の所に15世紀に造られた小さなオスマン浴場が見えて来る。ローマ時代のドーリア式ストアは神殿に向かって真っ直ぐ延びていて、長さは160m、その神殿から優美な幅の広い柱廊はアゴラヘアゴラから更にディディマのアポロン神殿へと続いていたと言う。

聖道

 聖道は長さ100m、幅28m(舗道部分は含めず)であった。舗道の敷石はトラヤヌス帝の時代に修復されたものと思われる。左側にはイオニア式ポーチ、またこの裏手には見学が困難な2つの建物がある。手前の建物は1世紀に作られたカピト浴場そして北側にあるもう一つの建物はジムナシウムで、5つの部屋を備え、その中の一部屋は教室に当てられていた。(BC2世紀)


ミレトス

北のアゴラ(市場)

 北のアゴラは南のアゴラからライオンハーバーへ延びる道に面していて、当時は柱に囲まれていた。アゴラはヘレニズム時代とローマ時代に修復・改築が行われた様だ。古代、商店が並んでいた市場や、ディオニソス神殿は丁度その裏手に位置していた。アゴラは後に拡張された。南の方へ順路を進めると噴水の跡が目の前に見えて来る。

ニンフェウム(噴水)

 AD3世紀に造られた。噴水の石片があちこちに転がっている。ニンフェウムは三階建てで豪華な装飾が施されていた。近づきにくいが東側へ少し入った所には、三列の廊下と大きな後陣を備えた大きな教会が建っている。南側のモニュメントゲートは南のアゴラヘ繋がっている。現在、196×164mの敷地全体に雑草が生い茂っている。

プレウテリオン(議場)

 ここはセナラ(議員)が集まる建物であった。1500人収容出来る傍聴席の前には三面をポーチに囲まれた中庭と、中央には墓または祭壇が設けられていた。後期遺跡から発掘された碑文によると、建物はBC175年から164年にかけてティマルケスとヘラクレイダスにより建てられたもので、セリウキドの王アンティオコスIVエピファネに捧げられた。ブレウテリオンの右側の2つの建物の内一つは皇帝崇拝で最も重要なアスクレピウス信仰に利用されていたらしい。南側にはセラピス神殿がある。

セラピス神殿

 美しいペディメント(破風)が見られるだけで、他の部分は密生した雑草に覆われていて殆ど見ることが出来ない。3世紀に聖堂として建てられた。全面にはポーチ(4本の柱のある)が設けられていた。北側にはポーチ付きのヘルーン(英雄の碑)がある。

ファウスティナ浴場

 ミレトスで注目すべき建物の一つである。それらの浴場(161-180AD)はローマ皇帝マルクス・アウレリウスの妻ファウスティナの資金援助で建設された。煉瓦と化粧石片で造られた巨大な建造物の一部は現在も残されている。特に見応えのある所は浴場のすぐ隣の遺跡のパラエストラである。冷温室(フリギダリア)の浴槽の傍には川の神メンドロスの像がある。東側には15mの高さの壁で仕切られた高温室(カルダリウム)が、南側にはもう一つの冷温室があり、更衣室(アポディテリウム)が設けられている。通りの反対側に沿ってストアが広がっている。

スタディウム(競技場)

 ミレトスにはBC5世紀のイオニア式のアテナ神殿やBC3世紀のペルガモン王エウメネスⅡ世神殿等の遺跡が残されているが、この競技場はそれら遺跡の中でも最古の建造物とされている。

 競技場は長さ230m、幅74m。以前客席として使われていたアーチ状の建物の土台の上に、地面と同じ高さに建てられた。また、青銅時代中期(BC1600年)のものとされる遺跡がアテナ神殿と競技場の近辺で発見された。

聖門

 地元の住民にアイアンゲート(鉄の門)と親しまれていたこの門はBC5世紀に築かれた城壁の一部でもある。トラヤヌス帝(AD98-117)により修復された。この場所から出土したBC100年のものと思われる碑文によると、この門はデルフィニオン、ライオンハーバーとディディマのアポロン神殿とを結ぶ聖道の起点となっていた様だ。

イルヤスベイ・モスク

 モスクはアゴラから200mの所にある。ファサードはその殆どがスポリアと呼ばれる再使用の石材で造られている。

 1404年にメンテシエ朝のイルヤスベイにより建設された。天蓋の端に設けられた扉は2本のピラスター(壁柱)で支えられていた。礼拝堂はドーム屋根で1本の煉瓦製のミナレット(尖塔)が立っている。内部のミンベル(説教壇)とミフラブ(メッカ方向の窪み)のどちらも見逃さない様にしたい。ミンベルはアラベスク模様が施され、また床と壁は大理石が用いられている。小規模ではあるが、建物は大変精巧な技術で作られている。

 モスクは以㈲ま神学校や隊商宿等の施設を含む複合建築であったが、それらの建物は現存しない。モスクは聖門から1kmほど離れた場所にある。現在、モスクの中庭と周囲は墓地となっている。


イルヤスベイ・モスク

ディディマ

ディディマはエーゲ地方アイドゥン県ソケ近くのイエニヒサル村(ヨラン)の傍に位置している。この地はアポロンの神託を授かった重要な地域であった。ミレトスとは海路で結ばれていて、船でパノルムスの港に着くと聖道がディディマヘと続いていた。BC494年のペルシャ人による攻撃迄は、アポロン信仰に熱心だったブロンコスの子孫であるブランキダイー族に管理されていた。聖道の終点の2kmにはブランキダイー族の座像が並んでいた。BC334年、アレキサンダー大王はミレトス攻略後の町の支配を神託に委ねた。BC331年、神託はアレキサンダ十大王を“ゼウスの息子”と宣言した。

 BC300年、ミレトス人はギリシャ世界に見られる様な巨大神殿の建設に取りかかった。工事はAD2世紀の中頃迄続けられたが結局完成しなかった。後年、教会と他の建物が建てられ、またビザンティン期にはその場所に兵舎が建てられ、軍隊が駐屯した。


ディディマ

 その後、建物は火災に見舞われ、15世紀には大地震による酷い被害を受けた。アポロン神殿はアナトリアでも最も規模が大きく豪華なイオニア様式神殿で、聖骨、宝物、聖なる泉、聖なる月桂樹の森で人々に知れ渡っていた。

 アポロン神殿の調査は1834年に初めて、ハリカルナッソスの発掘を手掛けたフランス人旅行家チャールズ・テキセルとイギリス人のチャ-ルズ・T・ニュートンにより開始された。1904年にベルリン博物館の後援で、テオドル・ウエガンドにより発掘が初められ、1913年迄継続された。1962年より再開された発掘はドイツ考古学協会のクラウス・タチェルドが中心となっている。

 初めアポロン神殿はアルカイク時代に建設され、その後、ヘレニズム時代に前の神殿の石材を利用して、元の土台の上に再建された。今日現存する神殿は60×118mのイオニア様式神殿で、両側に21本、前後に10本の円柱が二列に並んだ二重柱廊式である。異なった橋隊のレリーフが施された台座の上には円柱が聳えていた。柱の上にはアカンサスの葉とゴルゴンの首(メドゥーサ)で飾られたフリーズ模様のアキトレーブが載っている。階段の最上部にあるプラナオス(前庭)は更に2本の円柱が立つ内庭へと繋がっていた。そして円柱と高い壁で囲まれたオープン式の中庭にはセーラと呼ばれる聖域があり、ここの小さなイオニア式神殿の中には神体が置かれていた。


ディディマ

 ディディマは決して大きな町ではなかったが、聖なる泉と神殿の存在で広く知れ渡ってていた。古代ギリシャ人はこの聖域をそのまま引き継ぎ修復した。

 ディディマは聖道でミレトスと繋がっていて、道の終点部分には石棺やライオン、スフィンクスの像が並んでいた。ブランキダイー族は聖道の整備に力を入れていた。

 後期の建造物の中に残されている初期の遺跡はBC8-7世紀のものである。遺跡内には約24×10mの聖なる壁、オープン式の聖域、長さ16mのポーチ、聖なる井戸、奉納用祭壇等がある。

神託の儀式

 聖道の終点までたどり着いた信者は、神殿に入る前に、全員建物の前に集まり、聖なる井戸の水で体を清めた。それから占いの重要度に応じて一定の税金を納めた。特に個人的な占いの場合は通常より11倍もの税を払わなければならなかった。そして神が喜んで信者の願いを受け入れたかどうかを見るために動物(山羊が使われた)の生賛が棒げられた。生賛に差し出される動物には先ず冷たい水が掛けられた。動物が何の反応も示さなければ、同じ手順が最初から繰り返された。それが終わると信者は前庭へと進み祭司に占いの内容を告げた。一度に多くの信者が占いを希望した時は抽選で決めた。占いを受け取った祭司は神殿内部へと入り、アポロン神の巫女に占いの内容を伝えた。巫女は予め数日間断食をし聖なる井戸の水で全身を清め、占いに備えていた。

 内陣に入った巫女はまず聖なる井戸の水を飲み、月桂樹の葉を口で噛みながら、井戸から立ちのぼるガスを吸い込んだ。巫女は暫くすると明らかに意味不明の言葉を発したり、呻き声をあげたりしながら神託を告げた。そのお告げは直ちにプラナオスに隣接するクレスモグラフェイオンという神託部屋で一句洩らさず分かりやすい言葉に訳され、祭司の説明を受けながら信者は神託を授かったのである。

 伝説によるとアレキサンダー大王は神託で来たるべきペルシャ戦の勝利を知ったと言われている。

オラクレ(神託)

 神託とは自然の現象や物体を支配していると思われていた神の力を通して予言する方法であった。予言というのはその形がどうであれ、どの時代にも、どの国々にも共通しているもので、その中で一般的な占いとして知られている占星術は西洋の社会へと一気に広がっていった。

プラナオス(前庭)

 13段の階段を昇った所がプラナオスと呼ばれていた前庭で12本の円柱に囲まれていた。天井の装飾はかなり豪華なもので柱はどれも際立って高かった。この場所で信者はアポロンの神託を待っていた。

 神託は観察と解釈に基づいているものであって、そこから生じる結果を予言として表したものである。観察に重点が置かれる予言の場合、それは占う人間の直観に依って判断される偶然的事象の考察に他ならない。生賢に捧げられた動物の内臓や肩甲骨、足跡を観察する予言者は神託の信用性が失われることのないよう特別な方法を用いる義務があったのである。

 古代ローマにおいての予言者の主な務めは運勢を占う事ではなくて、神の政治的・軍事的判断を授がるためであった。 古代ギリシャやローマの予言者が用いた観察の対象としては、くしゃみやつまずき等の偶然的事象の他、稲妻や雷鳴、鳥の移動や鳴き声、聖なる鶏、塩を撒く等の事象もあったらしい。

 “オラクレ”と言う語はラテン語の“オラレ”から引用されている言葉で、予言者と神の関係そのものと予言が授けられる場所の両方を意味していた。最古の神託地としてはコリント湾の先端にあるパルナッソス山麓のデルフィのアポロン神殿が有名である。初め神託は地の女神ガイアのものであったが、ガイアの子蛇のピトンがデルフィに住み着いてからは、ピトンの神託として知られる様になった。その後神託はアポロンに引き継がれたが、ピュティアと呼ばれる神殿で神託を授かる巫女がより知れ渡るようになった。

 アポロンの生誕地デロスにも神託所が置かれていた。

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