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エフェソス遺跡(文化遺産・2015年)


エフェソスの歴史

エフェソス
古くからの伝説では、エフェソスは女性戦士として名高いアマゾネスにより建設されたと言われています。
この町の名はKINGDOM OF ARZAWA (地母神の王国) という意味を持つ "APASAS(アパサス)" から由来しているそうです。

エフェソスには青銅時代末期頃から既に人が住み始めていたようですが、その時々の生活環境や条件の変化に応じて長い歴史の中ではその位置が何度も変わりました。

エフェソスの最初の定往者はカリア人とレレジア人とされています。
紀元前1200年にはイオニア人の移民活動が始まりました。

言い伝えではエフェソスの町はアテネ王コドロスの息子アンドロクロスにより2度造られたと言われていて、予言者の言葉で「魚と猪に導かれた地」とされたカイステル(小メンデレス川)の湾口に建設されました。

移民により大きく成長したイオニアの諸都市は次々とエフェソスの同盟都市となっていきました。紀元前7世紀初頭、エフェソスはキンメル人の攻撃で崩壊しましたが、リディア王の統治下では地中海世界の中で最も裕福な町となりました。その後ペルシャ王キュロスはリディア王クロエソスを破り、エーゲ海沿岸地域でのペルシャの覇権拡大に乗り出しました。

5世紀初めイオニアの諸都市がペルシャの支配に反撃していた頃、エフェソスは町の崩壊を避けるため、それらの都市と同盟関係を素早く断ち切りました。
そして紀元前334年にアレキサンダニ大王が登場するまでの50年間、エフェソスはペルシャの支配下で平和で安定した時期を送りました。

アレキサンダー大王の12人の将官の一人で、大王の死後その地の支配者となったリシマコスは町の開発に力を注ぎました。
そして彼の妻アルシノエに因んで町の名をアルシネイアとしました。彼は港を整備して町全体を2.5km南西へ移し、パナユル山とブルブル山の斜面に城壁を巡らしました。

しかし、エフェソス人はそれまで住んでいた町を離れようとはしませんでしたが、その後の洪水で町の下水道が塞がり家々が崩壊したことから、リシマコスは住民を強制的に移させることにしたのです。

紀元前281年にエフェソスの町は再建され、地中海沿岸地域の中でもとりわけ重要な商業港の一つとなっていきました。そして、エフェソスは2015年に世界遺産に登録されました。

エフェソス旅行・観光の案内ビデオ  2分03秒  (日本語字幕版)

紀元前129年、ローマ人はペルガモン王アッタロスの遺言だと偽り、小アジアの全ての領土をローマ皇帝に寄進させました。
古代の記録によるとその当時の町の人口は20万人とされています。

紀元前1世紀、住民はローマ帝国に強いられていた重税を理由に反対運動を起こし、やがてそれは暴動へと発展していきました。
彼らはミトリダテスを指導者として立て蜂起しました。

紀元前88年、町に住むローマ人は虐殺されました。
そして、この暴動はスラ帝率いるローマ軍の力で鎮圧されました。
我々が今日感嘆するエフェソスの遺跡の数々はアウグストゥス帝時代以後のものです。

古文書によるとエフェソスは17世紀の地震で倒壊しました。
しかし、その後復興し貿易と商業の中心地となっていったのです。

歴史家アリスティオの記録には、エフェソスが小アジアで最も重要な交易地であることは誰もが認めるところであると記されています。
エフェソスはエーゲ海地域で二番目の哲学学校を有し、また他の都市をリードする政治・学問の中心地でもありました。

 
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1世紀後、エフェソスにキリスト教信仰を広めようとする一人の使徒がやって来ました。
彼は住民をローマ人の迫害から全力で保護しようと努めました。

東西を結ぶ接点にあるエフェソスは温暖な気候に恵まれ、何よりアルテミス信仰の地としての重要性を強く帯びていました。

キリスト教徒にとってエフェソスの町は生活水準の高さはもとより、町の人□が正確に管理されている点や多信教崇拝の要素を含んでいること等から、理想的な布教地域であったようです。

記録によると、聖パウロは65年から68年迄の3年間この地にいたことがわかっています。彼はここで人々を集め、神は形あるものではなく、いかなる時、いかなる場所にでも存在するものであるとキリスト教の教理を説きました。

この教えは当時金・銀などで作られたアルテミス小像を売り、莫大な利益を得ていた手工職人達の反感を買いました。
特にその中でデメトリウスという名の銀細工師はその反対運動の中心となり、何千ものエフェソスの市民を率いて劇場へと行進しました。

そして口々に“エフェソスのアルテミスは偉大なり!エフェソスのアルテミスは偉大なり!”と叫びながら聖バウ口達を野次り小石を投げつけたのです。
群衆はやがて暴動化しバウ口達は命からがらその場より逃げ出したそうです。後にエフェソス人に宛てた聖パウロの書簡には、エフェソスで投獄されていたことが記されています。

一方、使徒聖ヨハネは聖母マリアを伴いこのエフェソスにやって来たと言われています。
更に福音書を著し、最終的に埋葬されたのもここエフェソスであったと考えられています。

エフェソス
269年、エフェソスと周辺の都市はゴート人に侵略されました。当時エフェソスにはアルテミス信仰のための神殿が残されていました。その後、381年にテオドシウス帝の命令によりこの神殿は閉鎖され、翌世紀には神殿の石材が切り出されそのまま放置されたのです。

地理的に恵まれていたエフェソスでしたが、この時代の破壊が原因ですっかり衰退していきました。
それまで町の繁栄は入り江を巧く利用した天然港の存在に因るものでした。

しかし、水路が狭くなり船の航行が困難になったことから、この港はローマ時代迄にはアルテミス神殿から1.5kmのピオン山の西側に移されました。
これはエフェソスの西、エーゲ海に注ぐメンデレス(カイステル)川によって運ばれる土砂が何千年以上もの間に堆積し三角州に成ってしまったことが大きな理由でした。

ビザンティン時代後期迄に水路はそれ以上機能出来ないほど塞がれてしまいました。
海は段々後退し、その上、港周辺の湿地帯にはマラリア等の病気が蔓延し始めました。

キリスト教思想の広がりにより、それまでアルテミス信仰に使われていた建築物は段階的にキリスト教会へと改修されていきました。
大変重要なキリスト教公会議が431年と449年の2回エフェソスで開催されました。

6世紀以後、聖ヨハネ教会は神聖な巡礼地となり、ユスティニアヌス帝の命で町の周囲に城壁が設けられました。
それから間もなくアラブ人の攻撃により聖マリア教会を始めとするキリスト教の建物は破壊されました。

7世紀に町は現在のセルチュク市街の場所に移り、ビザンティン時代はアヤスルクの丘周辺に落ち着きました。

そして、アイドゥンオウルラル族のセルジュク朝期に大きな繁栄を見せましたが、中世の時代には貿易港としての町の役割はすっかり無くなりました。
20世紀迄にメンデレス川の堆積した土砂により海岸線は更に5㎞後退しました。

エフェソスの発掘

エフェソスの最初の発掘は、1859年から74年にかけて大英博物館の後援でJ.T.ウッドによってオデオン(音楽堂)と劇場が発見されました。
更に1869年5月にはアルテミス神殿も見つかりました。

定期的な発掘調査はウィーンアカデミーの一員オットー・ヴェンドルフの指揮下で1895年に開始されました。
オーストリア考古学協会のR・ヘベルグが中心になり行われた発掘ではアゴラ、劇場、アルカディアンそしてセルシウス図書館が新たに発見されました。

これらの発掘作業は第1次世界大戦中に一時中断されましたが、1926年に再開されました。
更に発掘はオーストリア考古学協会のヘルマン・ヴェッテル指揮下の大規模な発掘チームにより継続されました。ローマ時代の居住地跡が複雑に重なっていたことから、ヘレニズム時代の層に達したのは1960年になってのことでした。

古代遺跡エフェソス

ヘレニズムとローマ時代の古代遺跡エフェソスの入口は二箇所あります。
クシャダス方面から来るのであればハーバーゲート(港の門)がある入口から入場しましょう。最初に目にする建物はジムナシウム(体育場)です。

ヴェデウスのジムナシウム(体育場)

このジムナシウムはエフェソスの財産家ヴェデウス・アントニウスにより150年に建てられたものです。
建物の東側ファサード(前門)の発掘調査の際発見された碑文によると、このジムナシウムはアルテミス神と執政官アントニウス・ピウスに捧げられたものであるとの事です。

発掘されたジムナシウムの部屋からは崇拝されていたアントニウス・ピウス像が見つかっています。
この場所からかなり多くの像が出土していますが、その中の2体の水神の彫刻像は、現在イズミル考古学博物館に展示されています。トイレの保存状態もかなり良いです。

スタディウム(競技場)

ジムナシウムのすぐ南側に面しているスタディウムはネロ帝(54-68)の命で建てられたものです。

広さは228×38m。パナユル山の斜面を利用して観客席か設けられ、カヴェアの北側は丸天井で支えられていました。

発掘物には大理石製の粗彫りの柱頭が多く含まれています。
その後、ビザンティン時代になってから城砦を建設するためスタディウムの石材が再利用され、現在はごくわずかの遺跡しか残されていません。
 
スタディウムは戦車競争や運動競技また剣の決闘に利用されました。
この剣の決闘の様子を描写した大理石のレリーフはマーブル通り沿いに飾られています。

スタディウムの向かい側の小高い丘のところには、年代不詳の建物が数多く発見されています。これらの発掘物には魚市場やビザンティン時代の泉、エフェソスを建設したアンドロクロスのものと推定される墓が含まれています。

アルテミス神殿からスタディウムを通り、町の中心へと延びる道がマーブル通りでした。
現在このスタディウムでは、今や伝統行事となったラクダのレスリング大会が開催されています。

毎年春に行われるエフェソス芸術文化フェスティバルには世界中から沢山の観光客が訪れています。

聖母マリアのダブル教会 (ローマ株式取引所)

聖母マリアのダブル教会 このローマ式の建物は2世紀のもので、広さは265×90mで3つの回廊からなる教会です。
4世紀に教会に改修されるまでは商業的な目的で使われていた建物でした。
港に近いことから様々な商品がこの場所に集まり市場取引されていました。そして後にビザンティンの教会が健物の西側に増築されました。

オーストリアの考古学者が調べた結果、ここに当時の大司教の公邸があったことは確かなようです。
教会は二度の重要な宗教公会議に利用され、その会議ではキリストの神性と処女マリアについて討議されました。

アンチオキアの宗教学校の創設者でありコンスタンティノープルの大司教であったネストリウス(380-451)は、キリストの生まれながらの神性を否定し、またマリアを神の母と見ることに反対の立場をとっていました。

これに対しアレキサンドリアの宗教学校では、マリアは神の母であるより自然で伝統釣な見方を主張し続けていました。

結局、ネストリウスは異端者とされ国外へ追放されました。
この様にエフェソスはキリスト教世界において重要な位置を占めるようになり、エフェソスでの聖母マリア信仰もその後増していきました。

449年の第2回宗教会議では、キリストの人間性は完全に否定され生まれながらの神であることが公認されたのです。この理論は後に東洋社会での一神論に発展しました。

アルカディアン(港の大通り)

長さ600m、幅口11mのこの通りはアルカディウス帝(395-408)の命で修復されたことから、皇帝の名をとって呼ばれるようになりました。

劇場と港を結ぶ大通りの両側には円柱が並び、モザイク敷きの舗道が設けられていました。商店の連なる柱廊は冬になると風や雨、夏は照りつける太陽を遮る屋根が設けられていました。

ユスティニアヌス帝(525-566)により建てられた4本のコリント式のどっしりした柱には、それぞれ4人の福音伝道者の銘が刻まれています。

劇場

パナユル山の斜面を利用して劇場は造られました。
劇場を飾っていた数々の美しい装飾物は現在ほとんど残されていません。

舞台から客席の最上段まで60mの高さを持つこの劇場は、エーゲ海沿岸地方でも最大規模の劇場でした。
客席は三段階式になっていて、通路部分も含めて2万4千人収容であったが、最大2万5千人を収容出来たようです。

劇場の大がかりな修復工事はクラウディウス帝の時代に始まり、トラヤヌス帝の時代に終了したと言われています。
客席の石段は後に建築用の石材に使われた。ステージビルの一階と二階はネロ帝(54-68)の時代に建設され、三階がセプティムス・セベルス帝(193-211)の時代に増築されました。

舞台のファサード(前門)は壁がんや円柱、レリーフ、像で飾られていました。
また舞台はオルケストラ(半円形の踊り場)より2,70m高く造られ、左右に設けられた階段で昇り降りしました。

マーブル通り(大理石通り)

マーブル通りは劇場とセルシウス図書館を結んでいます。今日見られる通りは5世紀のものと思われています。

円柱が並ぶ通りの下には下水道設備が整えられています。
舗道の中程、右手には娼婦宿の道標があります。左足跡、女性の似顔絵、そして穴の開いたハートが刻まれています。娼婦宿は鉄製の欄干で囲まれていたそうです。

アゴラ(市場)

元々は紀元前1世紀に造られた広さ110×110mの野外市場でした。
3世紀初頭、カラカラ帝によって修復されましたが、4世紀に起こった大地震で倒壊し現在の規模になりました。

町の商業の中心で、食料品等あらゆる種類の商品がこの市場で売り買いされました。
柱廊に沿って商店が連なり、裏手には貯蔵庫が設けられていました。
アゴラの中央には水時計と日時計が置かれてありました。

マゼウスとミトリダテスの門

マゼウスとミトリダテスの門
大理石で造られたこの門は紀元前3世紀に奴隷の身分から開放されたマゼウスとミトリダテスが、アウグストゥス帝と義理の息子アグリッパに感謝の意を敬すため建てたと言われています。アゴラにつながるこの門は近年行われた修復工事で生まれ変わりました。

セルシウス図書館

建物は主に文化的目的のために造られましたが、実は墓所でもあります。
エフェソスの知事を務めたセルシウス・ポレマエヌスの死後、彼の息子は父の墓の上に壮麗な図書館を建設しました。

2世紀に造られたこの建物は260年火災に見舞われましたが、ファサード(前門)は大きな被害を免れることが出来ました。
幅21m、高さ16mで、正面階段の左右の台座の上には馬上の騎士の像が立っていました。また、ファサードの壁がんには4体の像が置かれていました。

内側の部屋は広さ16×10mで、建物の地下の墓所には保存状態の良い石棺が残されています。20世紀の始めにオーストリアの考古学者チームが行った発掘では正面中庭に置かれていた4世紀の泉やパルチア人と戦うマルクス・アウレリウスとルキウス・ヴェルスの精巧なレリーフが見つかっています。

このレリーフとファサードにあった4体の女性像は発掘の際に、ウィーンの博物館へと不正に運び出されてしまいました。
今日私たちが目にすることが出来るファサードは1970年代に行われた修復後のものです。

円柱の上下には鉛の板がはめ込まれていて、東西軸の震度9の地震にも耐えられるように50㎝の隙間が設けられています。

そして、各々の円柱の中心には10㎝の穴が開けられていて、鉄の芯が通っています。
正面のファサードで修復作業が行われていた時にローマ式建築では知られていなかった階段の底部で0、円柱の底部で4,5㎝程の歪みが傍見されました。

普通はそれと逆の方法で10㎝程の歪みを付けるギリシャ式建築が用いられていました。
この建築方法は幅21m以上の建物を造る時、建物の外観を良くするために採り入れられていました。1978年には修復作業が完了し、全て一般公開されました。

セルシウス図書館

セラピス神殿

この神殿は2世紀のものでエジプトの神の一人セラピス神を祀っています。
多くの様々な信仰か一気に増えた国際都市エフェソスで、人々は宗教に関してはかなり寛容だったことを表しています。

コリント式の神殿で大変質の良い大理石が用いられています。
円柱の何本かは12mに届く高さで1枚岩のその柱の巨大さには驚くばかりです。

回転式の扉を入ると、エジプト産の花圈岩で作られた像が立っていた礼拝室へと繋がっていました。地面に転がっている1枚岩の重さは50トンを超えるそうです。
これらの石片はどれも未完成のまま放置されたらしく、何の銘も刻まれていません。

娼婦宿

今日残されている建物全体は4世紀のもので、セルシウス図書館のすぐ向かい側に位置しています。
娼婦宿は20.5×20.5mの中庭を囲むようにして配置されたサロンと部屋から構成されていて、それらは廊下で繋がっていました。

入□の左手には訪問客が服の泥や埃をはらうホールが設けられていました。
建物は見事なモザイク模様で装飾されています。

エフェソスの娼婦達は知的で教養があることで知られていました。
彼女達は自分の家を所有したり、デモや選挙に参加出来たりと、普通のローマ人女性にはなかった特権を所有していたようです。

ラトリネ(トイレ)

ラトリネ(トイレ)
かなり保存状態が良いです。
元々は屋根付きの長方形の部屋で換気の役目をする溝と中央に大理石が置かれ、ブロンズ像と円柱で囲まれていました。

トイレは水の流れる大理石の溝があり、大理石で作られた便座が横一列に並んでいます。
床はモザイクが敷かれ壁は大理石製のパネルで覆われていました。

トイレの利用者は入口でお金を払って中へ入りました。
公衆トイレはヴェスパシアヌス帝の命令で建設された皮工場で、羊や山羊の皮をなめすのに使う尿酸を得るために造られました。

テラスハウス

テラスハウスは修復工事が終了した1985年に初めて一般公開されました。
この地区は紀元前1世紀以降に都市開発が進められたことが明らかにされています。

住宅は7世紀迄次々と所有者が変わりました。
2世紀から4世紀にかけての時期、この場所は繁栄のピークを迎え、財産家や身分の高い祭司が居住しました。

建物は一階建てでパーティや食堂に利用されていたオープン式の中庭を囲んで広々とした部屋が並んでいます。台所やブドウ酒の貯蔵室の他に多くの寝室が発掘されていて、モザイクで飾られた泉からは水が流れていました。

壁の高さは4m程です。上階へ繋がる階段も発見されました。
部屋の床材としては大理石よりモザイクの敷石が好まれていたようです。
大理石は主に敷居の部分で頻繁に用いられていました。壁の塗装は漆喰が使われています。

テラスハウスから出土した壁画や家具、生活用品などはセルチュクの考古学博物館に展示されているので訪れてみると良いでしょう。

テラスハウス

スコラスティカ浴場

浴場は初め1世紀に造られましたが、修復されながら5世紀にはスコラスティカという財産家の女性により更に拡大されました。

浴場に隣接するプリタネと呼ばれる建物と他の付属の建築物は建築資材として切り出され再使用されました。高温浴場と浴場の入口に立つ創建者スコラスティカの像はかなり良好の保存状態で現存しています。

クレテス通り(神官通り)

セルシウス図書館からヘラクレスの門を通り、オデオン(音楽堂)へと真っ直ぐ延びている通りです。右手にあるハドリアヌスの門は現在修復作業が続いています。

また、この通りの“オクタゴン”と呼ばれる墓地からは20才代の若い女性のものと思われる人骨が発見されました。

オクタゴンは元々1世紀に造られたもので、4世紀に記された大理石の碑文には、墓地は358年から368年にかけて、当時行政官だったエウトロピウスとフェストゥスにより修復されたという記録が残されています。

ハドリアヌス神殿

2世紀に建てられたコリント様式の神殿は、4世紀に一度修復され、最近になって神殿の石片が残されていたことから、再び修復されました。

門の上の部分のレリーフは模造で、本物は現在セルチュクの考古学博物館に保管されています。この建物はローマ式建築を採り入れた他に類を見ない最高傑作と言えるでしょう。

神殿はアテナ女神(石片の両端に描写されている)、エフェソスのアルテミス女神、猪を追うアンドロクロス、更に皇帝テオドシウスI世と妻と息子のアルカディウス等のレリーフ模様で飾られています。

ファサード(前門)の正面には、4人の重要な皇帝ディオクレティアヌス、コンスタンティヌス、マクシミアヌス、ガレリウスの像が立っていました。

編み目模様のペディメント(破風)には女神テュケの胸像のレリーフが、卵模様で飾られた入□のアーチの上部にはメドゥーサのレリーフが彫られています。

トラヤヌスの泉

トラヤヌスの泉 2世紀に建てられ、現在部分的な修復が続いています。
正面のファサードにはトラヤヌスの等身大の像が置かれてありました。右足とトルソ(頭や手足のない裸体像)の一部が残されています。

寄り添う2人の森の神を描いた彫刻と女神アフロディテの像は現在セルチュクの博物館に納められています。
正面の泉を三面から囲むように高さ12mの二階建ての建物がありました。

ヘラクレスの門

4世紀末あるいは5世紀初頭に造られたものと思われています。現在少し離れて置かれている勝利の女神ニケのレリーフは、ヘラクレスのネメアのライオン退治を描くレリーフと共に、元々この門を飾っていたものらしいです。門のすぐ左手前の台座には4本の円柱を持つヘレニズム式の泉があります。

メミウスの記念碑

この記念碑は紀元前86年、ローマ帝国の象徴とされていた独裁者スラの命で造られました。記録によると、当時ローマ支配に反対していたエフェソスの市民は、その頃その地の進出を図っていたポントス王ミトリダテス側に加勢しました。

勢いを得たミトリダテスはたった一晩でその地域に住む8万人のローマ人の虐殺を命じたとそうです。記念碑はこの時の犠牲者の霊を慰めるために建てられたものでした。

ポリオの泉

1世紀に造られたこの泉はマルナス水道橋建設で功績のあるセルヴィリウス・ポリオに捧げられました。

彫りの深いファサードが設けられていて、ウルイセス(ギリシャ神オデュセウス)の冒険の一部を物語った彫刻群はこの場所で発見され、修復の後現在はセルチュクの博物館に展示されています。

ドミティアヌス神殿

フラヴィウス朝の王子ドミティアヌスは81年に皇帝に即位しました。
始めは厳格な行政官であった彼は、後に“君主と神” と宣言して独裁的な支配をするようになりました。

しかしながら、妻ドミティアの裏切で暗殺されました。
死後、元老院の決定で彼の功績は否定され像は全て破壊されました。8×13の巨大な円柱が連なる柱廊を持つ神殿は町でも最大規模の神殿の一つでした。

大理石の1枚岩で作られたと思われる巨像の頭と握り拳の腕はこの場所で発見されました。ドミティアヌス帝に関する遺跡が殆ど残されていないことから、エフェソスの神殿や大理石像はとりわけ貴重な存在となっています。

プリタニオン(市庁舎)

アルテミス神に捧げられた礼拝所だったプリタニオンは、アウグストゥス帝時代に建設されました。
その後3世紀に修復されたものの4世紀末には破壊されてしまいました。

建物は黒白色の大理石で造られた四角形の神殿で中庭にはアテナ像、そして女神ヘスティアの小像の前には壁がんを利用した祭壇が設けられていました。
ここには当時町の人々の生活の象徴となっていだ聖火が灯され続けていたそうです。

建物にはポーチ式の小部屋に囲まれた中庭、集会場、4本のコリント式円柱(内3本は現存)に支えられた屋根付の長方形の部屋がありました。

また、建物は堅固に守られていたようです。町の行政官や外国の使節、地元の財閥家等が集まって、ここで晩餐を楽しみました。この場所からほぼ完全な伏態で出土したアルテミス像は現在考古学博物館に展示されています。

オデオン(音楽堂)

オデオン(音楽堂)
小劇場形式の建物は、隣接した浴場と大体同時期の2世紀にヴァリウス・アントニウスと妻フラヴィア・パピアナによって建設されました。劇場とはその性質が異なり市議会の集まりや音楽会に利用されていたようです。太陽や雨を遮る木製の屋根が設けられていた点からも劇場の設計とは違いが認められます

1千5百~2千人が収容でき、オルケストラ(踊り場)から5段目迄がオリジナルで、階段はライオンの足の模様で飾られています。保存状態は極めて良く、オルケストラから発見された優美なエロスの頭部像は現在セルチュクの博物館に展示されています。

ステートアゴラ(行政広場)

4世紀迄を調査したところでは、ステートアゴラではあらゆる政治的活動(選挙・集会・デモ等)が行われていたことがわかります。
アゴラは聖道沿いに造られた墓地の更に下の層から発見されました。

また、アゴラの西側で1世紀に建造された3面を円柱で囲まれていたイシス神殿の土台部分が発掘されました。

ステートアゴラとオデオンの間には屋根付きの3列の柱廊を持つ長さ160mのバシリカ(聖堂)がありました。聖堂の列柱には雄牛の頭の彫り物で飾られたコリント式とイオニア式の柱頭が載っていました。

また、ここは金貸しと銀行家がお互いに金を交換しあう金融取引所としても利用されていたそうです。
建物は6世紀の末には完全に破壊されてしまいました。

ステートアゴラの向かい側にはマグネシア門があります。
ヴェスパシアヌス帝(69-79)の時代に造られたもので、勝利の門と言う意味を待ちます。門はパナユル山とブルブル山を囲む城壁の起点にもなっています。

この門を跡にすると“ウーメンズジムナシウム(女子体育場)”と呼ばれる東側のジムナシウムが左に見えて来ます。
ジムナシウムは3世紀にソフィスト(古代ギリシャの学者)だったドミアヌスと妻ヴェダファエトリナにより建設されました。

古代でも女子の教育には力を入れていたようで、ここから沢山の女性像が出土されました。設立者の中に女性の名が含まれていることからもこれは確かなことと言えるでしょう。

セブンスリーパーズの洞窟

この洞窟から見つかった1世紀のものと思われるキリスト教最古の文献メクデリによると、聖母マリアはエフェソスに住みこの地に埋葬されたとの事です。
オーストリアの発掘チームによる調査では「聖フェオティニ(高名な信者)ここに眠る」という意味の古代ギリシャ語で書かれた碑文が発見されました。

7人の若い男達がデシウス帝の迫害の時代に眠りにつき、目を覚ました時はキリスト教が公認されたテオドシウスの時代になっていたと言う伝承が残されています。

この洞窟はリシマコスによって築かれた城壁の外側、パナユルの山の麓にありますが、長い間その場所は秘密にされていました。この伝説の訳文はコーラン(イスラムの聖典)の中にも見られます。

聖母マリアの家

聖母マリアの家
アナトリアは数々の文明と宗教の発祥の地であり、聖母マリアの家は人類の宗教の発展を知る上で重要な他の一つとなっています。聖母マリアの家はエフェソス都市遺跡のマグネシア門から約4km、標高358mの山の上にあり、交通手段の極めて不便なところにあります。

大変温暖な気候に恵まれ、ここからはセルチュクの美しい田園風景が見渡せます。
聞こえるのは鳥のさえずりだけ。焼けつく様な夏の暑さも、ここまで来ると一時忘れることが出来るほどです。目の前に広がる大地が地平線を境に青空と重なり感動的な情景を描き出しています。

車を止め、左手の水槽を通り過ぎると、右側には訪問者のために数カ国語で書かれた案内板が見えてきます。このすぐ左手には両腕を差し延べて優しく訪問者を迎えてくれる聖母マリアの像があります。

このブロンズ像は19世紀の初頭に行われた発掘で出土し、折れていた腕はその後修復されました。もう少し進むと前方のプラタナスの木々の下に聖母マリアの家が見えて来ます。

この家で本当に聖母マリアが余生を送ったかどうかは今尚多くの学者の間で討論されている課題です。
今日まで伝えられている話はエフェソスの住民に代々語り継がれて来た伝説が根拠となっているのです。

ドン・ルナルト(1657-1707)、バロンウス(1528-1607)、ティレモント(1637-1698)やポープ・ベノイトXIV(1675-1758)らは全員、聖ヨハネは37年から45年の聞にマリアと共に小アジアヘ移り住んだという説で一致しています。

聖母マリアの生誕を祝って、山の中の礼拝堂“パナヤカパウル”への道を整備するために地元信徒に課せられた税の負担は重く長いものでした。
しかし彼らは聖母マリアの最期の地という先祖からの話を頑なに信じていたのです。

19世紀に“La vie De La Sainte vierge”という本を発表したドイツ人のキャサリン・エメリッチ(1774-1824)は床につきっきりの病弱な女性でしたが、ある時自らの霊感によって驚くべき予言をしたのです。

彼女は一度もその地を訪れたことがなかったにもかかわらず、山の上の礼拝堂の位置を正確に言い当てました。そしてイズミルの聖ポリュカルプ教会のラザリスト司教がその場所を突き止めることに成功したのも彼女の本と予言のお陰でした。

聖母マリアがこの地に住んでいたと言われている話以外にもエフェソスには幾つかの事実が残されています。

*100年頃エフェソスで亡くなり埋葬された聖ヨハネの墓地は聖ヨハネのバシリカ (聖堂)にある。バシリカはセルチュクのイサベイモスクに隣接する。
*宗教公会議が431年と449年にエフェソスで開かれた。
*エフェソスに残るダブルチャーチは聖母マリアを祀る最古の教会である。
*聖パウロにより著されたエフェソス市民への書簡。
*エフェソスの七人の眠り男の伝説の場所である。
1892年、イズミルのトモニウ大司教は聖母マリアの家を公式に巡礼の地として宣言した。
またバチカンも疑いようのない歴史上の証拠を重んじ、聖母マリアの家を巡礼池として公認した。

これらの証拠を調査した考古学者のグループは、礼拝堂は6世紀に使われていたものだがこの家の壁は1世紀のものと断定、更に暖炉の中で石化された1.2㎥の灰を発見しました。

聖母マリアの家には“聖なる水”と呼ばれている泉があります。
ともかく最終的な結論は分かれますが、この簡素な家はその後修復され礼拝堂となり世界中のあらゆる宗教、あらゆる人種の人々の関心を集めています。

アルテミス神殿

アヤソルクの丘から約400m南、今日、多くの円柱の部分が散乱する平地にはかつて世界七不思議の一つに数えられたアルテミス神殿が立っていました。
紀元前7世紀から120年を費やして完成した広さ115×55mの神殿は両長辺に二列の、短辺には三列の列柱が並び、直径1.2m、高さ19mの円柱が127本使用されていました。

神殿は歴史にその名を残したいと切望した狂人エロストラトスの放火でアレキサンダー大王の出生日に火事にあい、エフェソス人は直ちにこの新築にとりかかっています。

旧神殿の設計を多少変更して高さ2.7mの基台の上に建設され、11段の階段が設けられました。広さ105×55m、高さ18mの円柱を使用した神殿は当時の建築技術を総結集したものと言えるでしょう。

この美しい建物はローマ時代後方のアヤソルクの丘とアルテミス神殿に皇帝ネロの命で荒らされ、更にゴート人によって破壊されました。
最後にはキリスト教徒によって決定的なダメージを受け、石塊等は教会の建築資材とされてしまいました。浮き彫りの施された円筒の幾つかは、今日、英国博物館に展示されています。

 
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アヤスルクの丘

アヤスルクの丘
これは古代都市のアクロポリスです。時が経つにつれて、城壁内は人々の居住地となりました。後に港が土砂で塞がり機能しなくなると、貿易診市としてのエフェソスの重要性は次第に下落していきました。

そしてビザンティン時代にはこのアヤスルクの丘に城砦が築かれました。 
11世紀、セルジュク朝に攻略されて以後、この丘はビザンティンとアナトリアセルジュクの間で何度も支配者が変わりました。

1438年にアイドゥンオウルラル朝の支配下では、商業の中心地として発展しました。
しかし結局は1402年オスマン帝国の領土に統合されました。

1919年から1922年にかけてギリシャの管轄下に置かれましたが、1957年から今日に至る迄町はイズミル県の一地方に属しています。
19世紀に一時行政がアヤスルクからチルキンジェ(シリンジェ)のギリシャ人村に置かれたこともあります。

イサベイモスク

これはアイドゥンオウルラル朝の創設者イサベイにより、1375年に建てられました。
セルジュクトルコ様式のモスクで、アシメトリー方式が用いられた代表的な建築例です。

モスクの中庭は以前ドーム屋根の回廊で囲まれていましたが、もはや現存していません。
窓は全て同じ形式で造られました。大理石の彫刻は大変価値が高いです。
中庭は後に墓地として利用されました。

伝適者聖ヨハネ教会

キリスト最愛の弟子で、はりつけの時ただ一人傍に居合わせたヨハネは、キリストの母聖母マリアの保護をキリストより託されました。

そして彼は後にキリスト教の普及に努め、ドミティアヌス帝(81-96)の時代に、迫害によって弾圧された人々を不満と抑圧から奮起させる目的でアポカリプセを著しました。アポカリプセは新約聖書の最終巻として編纂されています。

100年頃、パトモス島での流刑から戻ったヨハネはエフェソスに移り住んだと言われています。彼の死から数年後、彼の名が付けられた最初の教会が墓地の上に建てられました。

そして、ユスティニアヌス帝の時代になって大聖堂が建設されました。
1926-28年に墓所を調査したところ、聖ヨハネ教会は4世紀以前に建てられたことが分かりました。13世紀のセルジュク朝の領土侵攻では放置され、1402年のモンゴル民族侵略の際焼け落ちたそうです。

教会は40×110mの大きさで、西側にある入口は東西軸上に正確に配置されています。
聖堂の左手に11世紀に造られたとされるフレスコ画のある小さな礼拝堂があります。
そして司祭が祈りを捧げていたこの部屋のすぐ左隣には、聖骨が保管されていた小宝物庫があります。

洗礼堂の保存状態は良く現在も修復が続いています。
この洗礼堂は教会よりも更に以前から存在していたことが明らかにされています。
発掘によりユスティニアヌス帝と妻テオドラにより建てられた柱頭が見つかっています。

セルジュク城

城は聖ヨハネ教会の北側に位置しています。ビザンティン様式の建築で、アイドゥンオウルラル朝の時代に修復されました。建物は様々な時代の手法が採り入れられています。城の周囲は約1.5㎞。15の砦と14世紀に建てられたモスクがあります。

追撃の門

これはアヤスルク・ビザンティン時代に丘の上に出来た町を囲んでいた城壁の門です。
6世紀もしくは7世紀に築かれたと思われます。この門は建設の際、エフェソスのスタディウムの門に使われていた石材が用いられています。

考古学博物館

比較的小規模ではありますが、トルコで最も充実した且つ重要な博物館の一つです。
6つの展示室と中庭から構成されています。

ホール1:テラスハウスからの発掘品で、展示品にはイルカに乗ったエロス像”、“エロス頭部像”、“プリアポスの小像”、“ソクラテスの頭部像”や壁画、司祭像等が展示されています。

ホール2:泉からの発掘品です。主な展示品はポリオの泉とトラヤヌスの泉のファサード(前門)、“水神トリトンの像”や数多くの胸像等があります。

ホール3:古代コイン、金の装飾品やコイン、エフェソスの最も重要な象徴の一つだった蜂の模様の大メダル等があります。

演劇用仮面と家具屋内中庭(アトリウム):ベレヴィ墓地出土の発掘品、アルテミス神殿出土の石片、大変珍しい雄牛の頭のある円柱等が展示されています。

ホール4:墓地出土の発掘品6世紀の石棺、骨壷や埋葬に使われた器等があります。

ホール5:アルテミス神殿出土の発掘品珍しい2体の女神像や神殿から出土の他の発掘品が展示されています。

ホール6:皇帝達の部屋ハドリアヌスやドミティアヌス神殿出土の発掘品があります。

クシャダス

クシャダス
クシャダスは、エーゲ海沿岸イオニア地方の中でも重要な観光産業の中心に位置し、トルコ地中海沿岸のアンタルヤに次いで人気のあるホリデーリゾート地となっています。

これは、トルコ西海岸を南下するクルーズ船の最初の寄港地になっていることにも因るのでしょう。
その上、エフェソス古代遺跡を訪れるために、対岸のギリシャ頷サモス島から、毎日何千もの旅行者がクシャダスヘとやって来ます。

クシャダスの歴史は紀元前2000年末のトロイ戦争まで遡ることができます。
国王アガメムノンはここ古代フィゲイラに軍隊の基地を建設しました。
しかし、ヘレニズム時代には人々の定住地となりました。

紀元前3世紀に入って町はエフェソスに住む富裕市民のための夏の保養地として大きな発展を見せました。後にクシャダスが知られる様になったマラテションの初期の記録には、地理学者であり旅行家として名高いストラボの記述の中にも見られます。

中世になってスカラ・ノバと呼ばれたクシャダスは、ベネチアやジェノバの商人達の盛んな交易の拠点となりました。
オスマン朝に征服されてからは、海軍がこの地に駐屯しました。

そして、16世紀には城砦と武器庫が町の由来となった島に築かれました。
この島は現在アスファルト道で本土と結ばれています。

17世紀、急激に成長した交易活動は広大な隊商宿の建設につながりました。
この隊商宿は現在もクシャダスの町の中心に残されています。
19世紀の半ば、城砦は拡大されより堅固に改修されました。

1970年代まで静かで平和な美しい田舎町だったクシャダスは、近年トルコにおける観光産業の急激な成長に伴い、50kmにわたる海岸線はリゾート開発が進み、観光地として目ざましい発展を遂げました。

何百件ものホテル、モーテル、ホリディビレッジ、ペンション等が密集する商業地クシャダスは今、それらのコンクリートビルの洪水の中に埋もれようとしています。

 
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