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トルコの人気世界遺産

カッパドキアの岩窟群(複合遺産・1985年)


 カッパドキアは1985年に世界遺産に登録された。

 目前には、地質学上も世界に類を見ない不思議な景観がひろがっている。ここは、アクサライ~ニーデ~ネヴシェヒル~カイセリ地方に挟まれて位置する中央アナトリアのカッパドキア。まるで慎重な彫刻家の繊細さで、何千、何百もの月日をかけて自然が造り上げた岩層。そしてこの火山灰に覆われた一帯を、必要に応じて彫り、削って暮らした村人達。自然と人間が一体となって創造した見事な調和の世界が、我々の目の前に姿をあらわす。

歴史の初期以来、様々な民族が集落を形成してきたカッパドキアには数知れない遺跡や古代都市が存在するに違いなく、此れらが発掘され、一帯の歴史の解明に役立つ考古学的な調査活動が一日も早く実施される事が望まれている。

 例えば、カイセリ近郊のキュルテペ、アクサライ近郊のアジェムホユックは、今日までに発掘された非常に興味深い都市遺跡のほんの数例と言える。

アナトリアで偉大な文化を育て上げた民族の中でも筆頭に挙げられるヒッタイト人達・・・。
そのヒッタイト文化が華麗に開花し、繁栄の舞台となったカッパドキアでは、彼等の生きた証しをそこここに見る事ができる。帝国の滅亡後、ダバル王国と呼ばれたカッパドキアは、フリギア、リディア、ペルシア、マケドニアそしてアリアラテスによって支配され、ローマ時代にあっては軍の要地であった。

カッパドキア旅行・観光の案内ビデオ

詳しくは右側のカッパドキア旅行・観光の案内ビデオをご覧になってください。 → → →
 
2分31秒

 地方への人口集中はキリスト教の浸透と共に始まることになる。
4世紀のカッパドキアを生きた高名な宗教家聖バシリウスの教えである修道院の暮らしに従い、地方一帯には無数与の教会や修道院が建設されたが、ビザンチン時代になり東部、南部からの大襲撃を受けると、村人達はこれらの建物を主要道路から離れた、人目につきにくい谷間に造らざるをえなくなった。7世紀以降、東からペルシアが、南からはアラブの民が地方に進攻して暴れまわると、カッパドキアの人々は避難場所として、今日土地っ子が「世界七不思議に続く、八番目の不思議」と呼ぶ、火山灰などの堆積層を削った大規模な地下都市を建設した。

また、同時期、その初期にあっては絵やイメージに対するある種の反抗と受け取られても、実のところは教会への権力集中にストップをかける為に始められた偶像破壊運動の波が、ビザンチンはもとよりこのカッパドキアにも押し寄せてきた。後に、アラブの襲撃と偶像破壊の動きが下火になると、カッパドキアには新たに何百もの教会が建設され、再び宗教画で装飾される様になったのである。地方にて最も大掛かりな調査を実施したジェルファニオンは、此れら初期の教会を《アルカイック期》の教会と呼び、偶像破壊時代に対する一種の反抗精神から生まれた当時の造りを、非常に闊達で自由な精神をもって装飾されたものである、としている。10世紀以降、大規模で壮麗な教会が造られたカッパドキアは、その黄全期を11世紀に入って迎えることになる。特にギョレメとその近郊に建設された教会は、外観、内部の宗教画ともに注目に値するものと言える。

同じ11世紀、アナトリアは大きな攻防戦の舞台となった。この地に進攻し、国家を形成したセルジューク・トルコ人をアナトリアの大地から解放し、聖地奪回を目指す十字軍やビサンチンの間の戦いが頻発した時代でもあった。セルジューク・トルコはこの波乱の時代から彼等の黄金期とされる13世紀までに、アナトリアを宗教的、軍事的な様々な建造物で飾り立てた。

当時造られたウフララ谷の聖ジョージ教会には、セルジュークのスルタン・メスドとビザンチン皇帝アンドロニコスの名が記されており、キリスト教徒がセルジュークの支配下におかれていた当時の状況を踏まえて考える時、教会を自由に建てて、支配者と非支配者の代表者の名を並べて掲げた意味で、大変重要なものと言える。

セルジューク建築の代表作は、カッパドキアに続くあのシルクロード沿線と、周囲のアクサライ、ニーデ、ネヴシェヒル、カイセリ等、当時の主要都市にて目にすることができる。

カッパドキアの岩窟群
モンゴルによって歴史の舞台から姿を消したセルジュークの後を継いだのは、13世紀にアナトリアに進出して以来、短期間のうちにヨーロッパ、アジア、アフリカの三大陸に跨がる大帝国を形成したオスマン帝国であった。同帝国に属する建造物は、カイセリ、ニーデ、ウルギュプ、アヴァノス、ネヴシェヒルに多く、殊にチューリップ期の名宰相イブラヒム・パシャの時代には、その故郷であるネヴシェヒルに数多くの施設が設けられている。長い間、「田舎の芸術作品」と軽んじられたカッパドキア地方の教会は、しかしその初期から末期まで継続してビザンチン芸術の何たるかを表現していると言う意味に於いて大変重要なものと言える。実際、ビザンチン時代の初期から建設されたここの教会では、宗教画、イコン、建築など、その時代の歴史を一歩一歩辿る様にして見届けることができる。

 実施された調査の結果、同一工房や同一画家の手による装飾画が発見された事は、即ち皇帝をはじめ高貴な身分にある人々の為に建てられた教会や、そのお抱え芸術家の存在を裏付ける。

 ウフララ谷の教会に顕著なエジプトやパレスチナの影響は、カッパドキアがこれら外部からの要素に独自の文化を混合し、自らの解釈をつけた証拠と言えよう。この岩窟教会を単に芸術的見地から分析しようとするのは実際のところあまり正解とは言い難く、何千もの岩窟教会に見られる宗教画は、当時の信仰、習慣、修道院生活などをも今に伝える大切な証人でもあるのである。

 我々一人一人に、カッパドキアの自然の奇跡、信じ難い文化遺産を保護していく責任が課せられていることは、この地を訪れた者であれば誰でも強く感じるところであろう。この美の創造主である自然の力は、同時に、新しい美を作り上げる為に過去の自身の作品である風景を破壊してしまう力でもある。かつてこの岩層を造り上げた侵食の作用は、同じ作用で岩層を蝕み続け、これを無くし、人々の生活した区域をゴーストタウンに変えている。また、自然や文化遺産に直接影響を及ぼさないまでも、世界で唯一無二のカッパドキアの景観を乱す近代建築には、一定の制限を加える必要があろう。

ネヴシェヒルからウチヒサルヘ向かう時に目に付く、カッパドキアの象徴とも言えるウチヒサルの風景にそぐわないホテル、ホテル、そしてホテル・・・。あるいは、ギョレメからオルタヒサルを眺める時にエルジェスと美しいカッパドキアの景観に全くもってちぐはぐな建物など・・・。観光業推進の名の下に犯されたこの過ちを見つめ、この世のものとは思えない魅力に溢れた一帯を大切に保護して後世に伝えてゆく義務を、現代人として我々はしっかりと認識しなくてはならない。

カッパドキアの岩窟群
カッパドキア
 カッパドキアの地層は地上に見られる自然の奇跡の一つであり、中央アナトリアの火山が盛んに活動し、溶岩や火山灰に覆われた「堆積期」、そして火山活動の停止と共に始まった「侵食期」に於いて、自然の持つ相反する二つの作用が作り上げた作品と言える。
 ヨーロッパのアルプス山脈同様、南アナトリアのトロス山脈も地質年代上、新生代の第三紀(6500万~200万年前)に形成された。この時期、中央アナトリアでは活発な地殻の変動で深い亀裂や地盤の沈下が見られ、亀裂を這って地表に噴出しだしたマグマは、エルジェス、デヴェリ、メレンディス、ケチボイドゥラン火山を作り上げた。

度重なる激しい噴火の後、中央アナトリアでトロス山脈に並行して走る火山連ができあがったのである。火山の吐き出した噴出物は既に形成されていた丘や谷の上に長い時間をかけてゆっくりと降り積もり、周辺一帯は巨大な台地と化した。


◆妖精煙突◆(ペリバジャ)
 カッパドキアを御伽噺の舞台足らしめている妖精煙突は、何百年もの間の地質変化の賜物である。世界中でただカッパドキア地方でのみ見られる妖精煙突の誕生は、中央アナトリア全域に影響を及ぼした火山活動にはじまる。最も美しい妖精煙突は、北からクズルウルマックの18kmあたり、東からダムサ川、西よりネヴシェヒル川、南からはオイル、ケルミル山に囲まれた約288k㎡にわたる一帯に見られる。全く侵食されていない部分の断面を見てみると、下に凝灰岩、上部には玄武岩が層を成していることがわかる。かつては凝灰岩の表面を完全に覆っていた玄武岩の層は、今日ごく一部にのみ残り、例えば円錐形の妖精煙突の上に頂いた帽子にも似た部分、あるいは火山灰の上部の岩の棚がそれである。

この妖精煙突が形成されたのは、地質時代第四紀、雨による侵食と風化によるもので、あるものは高さ40m程にも達し、円錐形で頭部には玄武岩の“帽子”を頂いている。初期の形成期の後、帽子の下部にある軟らかい部分は侵食されて徐々に細くなり、更には支え切れずに帽子が転げ落ちてしまった煙突もある。あるいは完全に削り去られ、もはや姿形も無くなってしまった煙突もある様に、この侵食作用は今なお続いているのである。

 ウルギュプ~ウチヒサル~アヴァノスを結んだ三角形の内側を妖精煙突の見所としてお薦めしたい。

ウルギュプ
◆エルジェス◆
 カイセリの南西に3,917mの雄姿を誇るエルジェス山は、アナトリアの山々の中でも屈指の高峰である。地方で最も重要な火山と言え、太古の昔に始まった火山活動は歴史時代まで続いた。直径18㎞、1500km2の面積におよび、地方にとっては同様に重要な意味合いをもつハサン山に比較すると年老いて疲れた表情をみせており、火山活動初期の噴出物が火山灰の、中期のものが玄武岩の層を形成した。

 年間を通じて雪を頂くこの山をヒッタイト人は「ハルカソス」即ち「白の山」と呼び、神々を奉るヒッタイトの聖地に於いて殊に重要な位置を占めていた山の神々の中でも、一帯の最高峰であるエルジェスは特別な意味を担っていたと思われる。発見されたヒッタイトの浮き彫りにも山の神々が刻まれており、その後も続いたエルジェスを山の神として崇拝する行為はローマ時代の皇帝とジュピター信仰と交わって浸透していった。地方で鋳造された貨幣にも見られるエルジェスは、当時、アルジエウスと呼ばれていたという。

エルジェス

◆ハサン山◆ 
 裾野から2,300m、海抜3,300mの高さにあり、アナトリアの山々の中でもその優美さで名高い。エルジェス山と同時期に誕生したにも拘わらずより若々しく、カッパドキアを訪れる人々を深い懐に抱く様に出迎えてくれるこの山の頂は年間を通じて雪に覆われている。

ハサン山
◆メレンディス川◆
 カッパドキア地方の重要な川の一つは、メレンディス山の麓を水源とし、セリメ村を流れて名高いウフララ渓谷をつくりあげた。

◆クズルウルマック◆ 
 トルコ最長のクズルウルマック川は、国の東から大きなうねりを描いて黒海に流れ出す。長さ約1,182km。何本もの支流を持ち、その色からクズル(赤い)ウルマック(川)と呼ばれる川は、カッパドキアの信じ難い景観を作り上げた“芸術家”の一人と言える。

ヒッタイト人は「マラッサンティア」と呼び、ギリシア・ローマ時代になると「ハリス」川と変わったこの川は、ヒッタイト帝国の発祥地を流れつつ、歴史を通じて数々の民族の栄枯盛衰をみつめてきたのである。 

クズルウルマック川
カッパドキアの歴史

◆チャタルホユックのフレスコ画:
 中央アナトリアに於ける最古の新石器時代の集落跡チャタルホユックで発見された壁画を語りながら、カッパドキアの長い歴史を紐解いてみたい。

世界最古の風景画と言われるハサン山を描いたこの壁画は、B.C.6200年もの昔にアナトリアの人達が家々の壁をこんな美しい絵を用いて飾りたてていた事実を表す貴重な作品である。手前にチャタルホユックの家並み、後方に火山から昇り立つ噴煙、溶岩を描いたフレスコ画で、現在はアンカラのアナトリア文明博物館に保管されている。

また、地方で屈指の火山であるハサン山の、その当時、活火山として活発な活動をしていた様子をチャタルホユックのある画家がこの様な方法でそこに永遠にとどめようとした意味でも重要である。

B.C.5000~4000年の間、カッパドキアには小さな、しかし独立した君侯国がいくつも存在していた。この頃からアナトリアの人々は北、束、南の隣国と交易を始め、時としてこの取引が滞り、あるいは悪化し、B.C.2300年には団結したアナトリアの17の王達(カッパドキア―カニシ王ズィハ二も含む)が、アッシリア王ナラムスィンに対して戦いを挑んだ事が知れている。この事実はアナトリアの歴史上はじめて組織された連合体制として重要である。

◆アッシリア交易都市時代 :
 B.C.2000年初期、黄金期を迎えつつあったアナトリアには急激な勢いの人口流入が始まった。地方の富みに注目した“商いの天才”アッシリア人はアナトリア各地にカルンと呼ばれる貿易センターを設け、中でもカニシの町に設定されたキュルテペ・カルンは重要な役割を担っていた。一定の交易路を利用した彼等は、アナトリアに香料、錫、布、消耗品の数々を持ち込み、代わりに金銀銅を持ち帰った。アナトリア~アッシリア間の商取引は約150年間続いたが、各地の小王国間の戦の影響を受けてB.C.1850~1800年頃には途絶えている。一帯は19世紀初期より専門家達の興味の的となり、1925年にカッパドキアはキュルテペでアッシリアの交易都市跡が発掘されると一層の注目を集めた。その際の出土品《カッパドキアの粘土板》は、アナトリアの歴史を解明するのに重要な役割を演ずる最古の記録として大変に貴重である。

カッパドキア
◆ヒッタイト人 : 
 B.C.2000年の始まりと共にアナトリアにはヒッタイトと呼ばれる民族が定住し始め、既に高度な文明を築いていた先住のハッチ族と混住して王国を建設した。彼等がどこから、どの経路でやって来たのかは未だ明確になっていないが、コーカサス説が有力視されている。同期のものと思われる粘土板には多くの国王の名が刻まれているものの、並み居る強豪を倒しキュルテペに都を置いたアニッタは特筆に値する王であった。カッパドキアに興り、以後の月日の中でアナトリア最大の帝国を形成したヒッタイト人はアレッポとバビロニアを征服し、かの有名なハムラビ王朝をも歴史の表舞台から引きずり下ろした。この進攻はヒッタイト人とメソポタミア、シリア人との関係を緊密にもした。急速に拡大する帝国は、特にB.C.15、14世紀に強い権力を手中にし、シリア、パレスチナ、エジプト、ヒッタイト間の激しい攻防戦で知られるB.C.1286年のカデシの戦いでは、ヒッタイト王ハットゥシリス三世がエジプトのファラオ、ラムセスニ世とカデシ平和条約に調印し戦いも終結をみた。B.C.12世紀、ヨーロッパ大陸から“海の民”と呼ばれる民族がこの地に襲撃をかけてきた。これにはさしもの大帝国も太刀打ちできずに衰退の一途を辿り、以降、中央アナトリアを取り巻いた暗黒の時代は“海の民”の一派とされるフリギアがここに王国を建設するまで続いたのである。

◆タバル国: 
 ヒッタイト帝国の滅亡後タバル国の名で呼ばれたカッパドキア地方は、友好関係を望んだアッシリアから度重なる攻撃を受けた。B.C.10~7世紀に相当するこの時期をカッパドキアを含むアナトリアの暗黒時代と言う。

◆ペルシア : 
 B.C.6世紀、ペルシアが高名なリディア王クロイソスを破ると同時に、リディア王国の支配下にあったカッパドキアはペルシアの監督下に敷かれた。この状態はアレキサンダー大王がこの地に遠征してくるまで続き、その間、ペルシアはアナトリアを多くの州に分割し、監督者としてサトラップを配置した。彼等の政治は寛容かつ柔軟で、続治下の民と良い関係を築こうとしたと言える。ペルシア経済を支えたのは、エフェスとサルデスに起点し、マザカ(カイセリ)を経由してメソポタミアからシリアの都スサヘ至る有名な "王の道" であった。サトラップ達は税として金、羊、ラバ、そして知る人ぞ知るカッパドキア産の馬をペルシアに贈ったと言う。
 火を奉るペルシア人は火山地帯のこの地を愛し、自らの信仰を全うする為に最適な土地と認めていた。    


-カッパドキアの馬-
 史書や資料を紐解いてもカッパドキア産の名馬と畜産については頻繁に触れられている。貢ぎ物として馬を供する習慣はカッパドキアに端を発したと思われ、古い資料にはアッシリア王アッシュール・バニパルに、ダレイオスに、クセルクセスに土地の名馬を贈呈したとあるが、そもそもその地名も“美しい馬の国”を意味する“カトゥパトゥクヤ”に由来しているのである。カッパドキアに近い関係にある人物と言えば、あのゴルディオンの結び目を一刀両断にしてからここへやって来たアレキサンダー大王であろう。大王の訪問以降、一帯はマケドニアの支配下に入り、王の死後にはアリアラテス朝に統治されて、カイセリは独立したカッパドキア王国の都としてユーセビアの名で呼ばれ始めた。

アナトリア全土に大小の勢力争いが広がる中、この独立王国の国民達は他の国の人々と婚姻関係を結んで融合していった。こうして出来上がった政治、家族等の関係は、その後、ポントス、ビティニア、ローマ帝国の間に権力争いを引き起こす要因ともなった。アリアラテス一族の治世はポントス王ミトリダテスがB.C.90年に王子をカッパドキア王と宣言するまで保持され、B.C.66年になると地方は再びローマ人の手に渡った。この様な飽くなき攻防はカッパドキアがローマの属州となった西暦17年まで続いたのである。

カッパドキアの馬 ◆ローマ時代: 
 ローマ時代は皇帝ヴェスパスィアヌスの治世下、東はパルティアの脅威から地方を防御する目的で常駐のローマの軍隊が配備されたほか、皇帝トラヤヌスの支配下では軍用路を敷き、万全の防衛策を組んだ。 129年の後半、皇帝ハドリアヌスは東側ルートから直々にカッパドキアを訪れている。3世紀の初期になるとエフェス、イズミル、カッパドキア間での商取引が拡大し、これらの都市の名を掲げた貨幣が鋳造され始めた。東西を結ぶこの交易路上に位置する都市間で、一種の経済共同体が形成されたと言うことができる。

◆ビザンチン時代 : 
 4世紀、カッパドキアでは三人の高名な聖者による宗教活動が展開された。聖バシリウス、ニサのグレゴリウス、そしてナズィアンススのグレゴリウスの思想は地方の修道院生活の規則を作り上げる基礎となったが、カイセリの裕福な名家出身のバシリウスは、これにあたり最初はパレスチナ、エジプト等の僧院を訪ね、ここでの生活様式を研究した。これらの僧院で高潔な魂の誠に達する為の行として認められた。

《忍耐》と《隠遁》の生活に同意しかねた彼は、新しい規律を敷いたのである。過度にストイックな忍耐生活を防ごうと、修道僧達を小集団に分けて共同生活をさせ、上からの命令形態を敷くと共に、俗世からきれいさっぱり隔離された隠遁生活をする僧よりも、病人や貧しい人々を救済し、彼等の日々の暮らしに援助の手を差し伸べる僧の育成に心を砕いた。この教訓はカイセリ近郊にバシリウスが建設したとしてバシリアドの名で呼ばれた町で実践に移され、修道僧の精神的バランスを崩すのは何よりも怠慢であり、奉仕は最も貴い修養であると主張した。後にその教えを継承して何干もの修道院を建設した修道僧の日々は、ギリシアはアトス山やメテオラ修道院の様に人々から隔離された完全な隠遁生活の代わりに、人の日常生活の中で彼等に奉仕しながら暮らしたものである事がわかる。

 地方で宗教画を施した教会が建設される様になったのは、6~7世紀のことである。特に7世紀以降、カッパドキアはまずペルシア、つづいてアラブの攻撃の的となり、一帯で最も重要な町カイセリはこれに屈して何度か征服された。このように常に敵の脅威にさらされて暮らしていた土地の人々とビザンチン国家の中央は、起こり得る攻撃に対して何らかの対策を構じる必要に造られた。南部から地方に続く路に沿って無数の要塞が設けられる一方、近づく敵の襲来をいち早く同胞、及び(現)イスタンブールに知らしめる為“光りでの伝達方法”が工夫された。光りを信号化したこの方法で、南部から迫りつつある危険は一時間以内でイスタンブールヘ知らせる事ができたと言う。ビザンチン軍はそれぞれに独立して行動し、戦い、作戦をたてることができる部隊に分割されており、彼等の攻撃と防御の常日頃からの備えに加えて、一般の人々は危機に際して非難する為の、そしてそれが去るまで暮らしを営む為の地下都市を建設した。 726~843年の間、ビザンチン帝国には絵画を破壊する動きが蔓延し、偶像破壊時代と呼ばれるこの時期に、人物像を中心に多くの作品が被害を受けた。

 964~965年、カッパドキアは高名な皇帝ニケフォロス・フォカス一家を迎えた。カッパドキアに生まれビザンチンの最高司令官の一人となったフォカスは、特にアラブの襲撃に対して活躍し、皇帝ロマノスニ世の死後、皇后テオファノと結婚したことで皇位についたのであった。故郷への凱旋帰郷のおり、偉大な軍人であるにも拘わらず彼は修道院生活にも深い理解を示し、その記念にチャヴシン教会が建設された。

カッパドキア 

◆セルジューク時代 : 
 9世紀、アナトリアには遊牧トルコ民族の一派がやって来た。 1071年に勃発し、セルジュークとビザンチンを敵対させたマラズギルトの戦いは、アナトリアの大地にトルコ民族がしっかりと足を踏み入れ、支配者となるきっかけとなった。これに続く100年の間、アナトリアはセルジューク、十字軍、ビザンチンの間で繰り広げられる激しい争奪戦の的となり、十字軍の襲撃に際して最初の都イズニックを失ったセルジュークは、中央アナトリアの有名な町コンヤに中心を移した。戦いに明け暮れ、短命ではあったものの、セルジューク帝国が短期間で手にした商的、軍事的、政治的な成功の数々は我々を驚愕させる質のものである。後に歴史の舞台に登場してくるオスマン帝国の為に、あたかも基礎を固めたセルジューク帝国の存在は、アナトリアの大地で初のトルコ系国家を形成した意味でも、非常に重要である。

カッパドキア
1082年にカイセリを征服するとセルジュークは活発な建築活動を展開させ、カッパドキアも無数のセルジューク建築で飾られる結果となった。 1135~1150に建造されたカイセリのウル・ジャーミ(モスク)、1156年のアクサライはアラエッディン・ジャーミ、1202年のカイセリ、チフテ神学校などはこの良い例である。また、1206年、カイセリで設立された医学専門学校、ニーデのアラエッディン・ジャーミ、カイセリのサーヒビエ神学校(1268年)等も同期の重要建築物として列挙しておきたい。しかし、何と言ってもこの時代を代表する施設といえば、キャラバンサライ、即ち隊商宿であろう。他のイスラム諸国と商取引を結ぼうと努め、地中海、黒海に出て造船所を設けたセルジューク・トルコ人は、取引の拡大を目指すと共に、快適な旅を提供し、旅人を保護することを目的に、今や全人類の遺産とも言うべきこの見事な設備を設けたのであった。主要交易路上に位置するカッパドキア、殊にコンヤ~カイセリ間の街道上に造られた隊商宿の数は20にもおよぶ。

商業を重視した彼等は、スルタン・クルチ・アルスランニ世以来、旅人に床と食料、健康管理を供する設備を建築し始めた。内部のモスク、ハマム(浴場)、保健所、厩などを見ても、単にこれらが宿泊の為だけに使用されていなかった事は一目瞭然である。約30~40km間隔で置かれた宿は、同時に高い壁と塔をもつ防衛の要でもあったのである。        

◆スルタンハヌ◆
 アクサライ~コンヤ街道上には1229年にセルジュークのスルタン・アラエッディン・ケイクバトによって造られた4,500㎡もの面積を有するアナトリアで最も壮大なトルコ芸術の一つスルタンハヌがある。
夏と冬用の宿から構成され、高い壁と見張り用の塔とて、あたかも要塞にも似た様相を呈している。

これを建築したムハメッド・ビン・チャヴランの名が印される美しい内扉をくぐって隊商宿の内庭に出てみよう。左手に旅入用の宿、浴場、倉庫がおかれ、中央には高い東屋風の礼拝所も設けられている。 
次の扉を抜けると五本の小径にて分離された、このキャラバンサライの奥の間に出る。

スルタンハヌ
◆ウフララ渓谷◆
 ハサン山の裾野、ウフララ渓谷の自然美は御伽噺の世界そのものである。この有名な火山と側にそびえるギョッル山からの溶岩や火山灰は辺り一面を覆い尽くし、厚さ100mにもおよんだ層をメレンディス川が少しづつ削り取る様にして流れ、やがて長さ15km、深さ150mもの切り立つ谷が口をあけた。セリメ村とヤプラクヒサル村の妖精煙突がアクセントとなって美に美を添えるここウフララ渓谷へと世界中から人々の足を向かわせるのは、単にその自然美のみではなく、同時にここが歴史的遺産の宝庫だからでもある。ウフララ渓谷はウフララ村に始まりセリメ村まで続き、直線距離としてほんの8km程であるが、谷の切り口が約30ケ所ほどもあって湾曲を描く為、渓谷の長さは15kmと表現するのが妥当であろう。

ウフララ渓谷
新石器時代と鉄器時代に属する出土品で注目されるアクサライ近郊のアシクルホユック(ホユック=塚)、アナトリア最大の塚にあげられる同じくアクサライのアジェムホユック。地方の歴史については実施された発掘調査で見つかったこれらニケ所の塚が多くを物語っており、アジェムホユックの解明は、そのままハサン山一帯についての深い、しかも重要な史実の解明となると言える。
主要交易路、そして軍事路上に位置するアクサライ地方は7世紀以来激しい襲撃の的となり、多くは南方からの攻撃に対して地元の人々はもとより、中央のビザンチン帝国は非常に慎重な対策を構じていたことがわかる。

キリスト教時代の初期以来、ウフララ及びベリスルマ渓谷には権威ある修道院が数多くおかれ、難路の為にあたかも外部から遮断された様なこの谷の地理的条件のおかげで、古代より一帯はさほど被害を受ける事がなかった。アラブがこの地に襲撃をかけた時さえも、この谷は人々の注意を集めることがなかったと言え、ここに建つ7、8世紀の教会などはその事実を裏付ける良い一例である。

セルジューク・トルコがアナトリアに侵入して帝国を建設して以来、セルジュークの支配下におかれた一帯で、教会の一つにセルジュークのスルタンとビザンチンの皇帝の名が一緒にしるされているのは、セルジュークがキリスト教徒に示した寛容さにほかならない。エジプト、パレスチナ、シリアをはじめ、アナトリアの様々な小国からやって来た牧師や行商人の避難所でもあったウフララとベリスルマ谷の建造物は、建築様式にしてもフレスコ画等の宗教画にしても、他の谷のものには見られない独特のものがある。

 人目につきにくく目立たない、しかも交通の不便な谷に注目した学者は多くはない。フランスのニコル&ミシェル・ティエリーが1950年にカッパドキアで始めた調査は、1958年にウフララ谷周辺で集中的に継続され、その末に出版された文献は次第に人々の視線を当地に引き付ける結果となった。

ウフララ
【アーチアルト キリセ】(木の下の教会)
 カッパドキア一帯で最古の教会の一つである聖ダニエル教会の歴史は6世紀に遡る。十文字の基礎の上に建ち、中央ドームにはキリストの昇天の模様が描かれているほか、吉報、訪問、エジプトヘの逃避、三人の王の訪問などをテーマにしたフレスコ画が残る。
教会の名は、一部は良い状態に保たれている西側の聖ダニエルと獅子の絵柄に由来している。

【プレンリ セキ教会】 
 10世紀の小さな教会で、身廊にはセバスタの40人の聖人、最後の審判などを主題にしたフレスコ画が描かれている。内部にはキリストの誕生、聖母のエリザベスヘの訪問、東方の三博士の絵が見られる。 

【ユランル キリセ】(蛇の教会) 
 シリアやエジプトの影響が顕著な宗教画は、その色といい、選択されたテーマといい、他の教会のものとは歴然とした違いがある。最も重要なフレスコ画は教会の入り口にあり、蛇に襲われる女性が描かれている。彼女の犯した罪が何であるかは側の文字にて説明されており、即ち不義(姦通)をおかし、子供に乳を与えず、人を中傷し、柔順でない女が蛇に罰せられている模様が表現されている。

【エーリタシ教会】 
 9世紀、川の対岸に建てられた教会で、損傷は激しい。建物の周囲に散在する数多くの墓は、ここが一帯で最古の修道院であったことを裏付けると言える。
天井には大きな十字架が描かれ、受胎告知、東方の三博士などのフレスコ画が描かれている。

◆ベリスルマ渓谷◆ 
 この谷を訪れる観光客は稀である。谷間に建つ教会のほとんどはビザンチンの伝統を守ったもので、例えばスンブッル、ディレキリ、アラ教会などはビザンチン時代は10、11世紀に遡る美しい一例である。特にディレキリ教会は殊の外見事なフレスコ画をして、アラブの襲撃以降に迎えた黄金期の到来を告げるものとされている。1295年に建設された聖ジョージ教会にはセルジュークのスルタン・メスドとビザンチン皇帝アンドロニコスの名が並んで印されており、セルジュークの支配下にあったキリスト教徒達が自由に教会を建設できたことといい、如何に寛大な扱いをされていたかをしめすものと言える。

◆ギュゼルユルトゥ◆
 古代に於いてはゲルヴェリと呼ばれ、ウフララ谷の西12kmに位置する頂きとその裾野に形成された重要な居住区は、石造りの家、各々に特徴ある造りの教会、岩を削って造られた集落など、訪れる人々に強い印象を与えるスポットである。特に有名な宗教家グレゴリウスに献呈され、今日ではモスクとして機能するかつての教会は注目に値する,十文字の基礎上に石のブロックを用いて造られた、ドームのある美しい教会である。セルジューク、及びオスマン帝国時代、宗教の教えに忠実に沿って建物を造り続けたキリスト教徒達は、1924年、ローザンヌ条約に基づいて実施されたトルコ・ギリシア間の民族交換までこの地を住まいとしてきた。ギュゼルユルトゥ近郊には4kmにわたる“修道院の渓谷”があり、その教会や修道院の数からして、如何に大切な宗教活動の中心地であったかがうかがえる。

◆アライハン◆
 アクサライ~ネヴシェヒル街道上にセルジュークのスルタン・クルチ・アルスランニ世が1192年に建造させた隊商宿である。アクサライから35km、セルジュークの歴代スルタンによって設置された多くの隊商宿の中でも、初めてのものとして大変重要である。壁は破損し、記念門も時の流れと人々によって破壊されたにも拘わらず、当時の豪華さを偲ばせるものと言える。特に記念門は名高いセルジュークの石細工が如何に高い技術を有していたかを証明するもので、二つの胴体に一つの顔をもつ獅子はスルタン・アルスランニ世を象徴すると考えられており、注目に値する。 

アーズカラハン
◆アーズカラハン◆
 アクサライを過ぎたところに非常に保存状態良好な設備がある。有名なコンヤ~カイセリ街道上に数多く見られるキャラバンサライ(隊商宿)の一つで、冬用に使用された部門につながる記念扉上の文には、1231年、セルジュークのスルタン・アラエッディン・ケイクバトの治世下にホジャ・メスド・アブドゥッラによって着工、グヤセッディン・ケイフスレヴの時代に完成した、とある。この美しい記念扉の装飾には、人物、動物、植物のモチーフはあまり多く使用されておらず、むしろ幾何学的な図柄で飾られている。ここから入る内庭の中央にたつのが礼拝堂である。

◆ネヴシェヒル◆
 18世紀初期までムスカラと呼ばれたアナトリアの小さな村ネヴシェヒルの運命は、この地に生まれ、土地の人々と故郷を生涯忘れることのなかったイブラヒム・パシャと共に激変した。イスタンブールの宮殿でヘルヴァ(菓子の一種)職人の見習いとして働いていた彼は、その真面目さと賢さで頭角を現し、オスマン帝国の最高位にまで出世した。スルタン・アフメット三世の治世下で最初は相談役、次にパシャ(総督)となり、皇女ファトマ・スルタンと結婚すると宰相の地位を得た。パシャの活性化政策をきっかけに拡大を始めた彼の故郷は、“新しい町”を意味するネヴシェヒルと改名された。時はチューリップ期、繊細な神経をもつ芸術愛好家イブラヒム・パシャは、自らの資金でモスク、神学校、ハン(商館)、図書館、ハマムを造らせる一方、近郊から新天地を求めてやって来た人々には税の控除を認めて人口を増大させたので町は大いに活気づいた。国有地を一般に払い下げ、郊外には桑畑を設けて、一帯への養蚕業導入にも力を注いだ。こうして交易の要所への一歩を踏み出したネヴシェヒルの人口は間もなく17,000人に達した。彼の没した1730年、建設活動は一旦停滞したとは言うものの、町の重要性はオスマン帝国、トルコ共和国を通して何ら変わることなく、1954年には同名で呼称される県の県庁所在地に指定されている。セルジューク、オスマン帝国期の建造物で最も古いものは、イブラヒム・パシャが修復させた町を見渡すセルジューク時代の城塞で、二つの門と塔とで厳しい風情をみせている。

ネヴシェヒル
18世紀に建設されたイブラヒム・パシャ学問所はモスク、神学校、図書館、浴場などを包含する総合施設で、最も注目したい建物のひとつと言える。この施設の中のクルシュンル・ジャーミの内庭入口部には当時の高名な詩人ネディムの詩文が残り、噴水のドームやモスクの内装などにはチューリップ期の特徴が顕著にあらわれている。

地下都市 
 地下都市巡りをせずにカッパドキアを語るべからず。人を驚愕させる数多くの造りの中で最も知名度の高いものがネヴシェヒル~ニーデ間にあるカイマクルとデリンクユの地下都市である。火山灰の層を削り、時には地下8から9階にも及ぶこれらの設備は、狭い通路、換気孔、生活の場などをしてあたかも迷路を想わせる。

地下都市
地下都市での生活はキリスト教時代以前に既に営まれていたが、頻繁に利用されたのはアラブの勢力に対しての避難所としてであった。アラブの脅威には様々な対策が練られたがどれも効を奏せず、キリスト教徒であった地元の人々はここに隠れて敵の撤退までの仮住まいとした。危機に際しては円い石臼状の扉で遮断できた狭い通路、通気孔、非難用のトンネルなどをして、この地下都市が完璧な防御の機能も有していたことに気づかれることだろう。大小様々な部屋、寝室、馬屋、テーブル、ワインの醸造所、教会等、日常生活に必要な全ての機能や道具は岩を削って作られた。巧く設けられた通気孔のお陰で、地下の最も深い所に於いてさえ楽に呼吸する事が可能であった。

地下都市建設に際して、掘り出した土や岩をどこに捨てたのか、この信じ難い規模の設備を完成させるまでには一体どの位の年月を要したのか、そしていつ、誰が利用してきたのか…。確かな答えは未だ得られていない。
カッパドキア地方に大きな危機が訪れた時代のものと想定されるが、碑文も装飾も皆無な為に、年代解明も困難を極めている。

◆カイマクル◆
 ネヴシェヒルの南20kmに位置し、ここ数年で重要な観光スポットに成長している。“カイマクルの要塞”と呼ばれる村の東の頂きの下にあって1964年から公開されているカイマクル地下都市は、6~10世紀にかけてこの地を襲ったペルシア、アラブの襲撃に際して建設されたと考えられている。

合計2.5k㎡の面積を有し、未だ全貌が解明されていないが、およそ地下7~8階の規模であろうと想定されている。デリンクユ地下都市と比較して構造上の相違点を指摘するとすれば、例えば、各階をつなぐ通路はカイマクルの方が狭く、天井も低いうえに傾斜も急である。現在は地下4階まで整備されており、居間が通路の周囲に集まっているのが特徴と言える。迷路の様な都市の1階には馬屋があるが、規模は非常に小さい。まだ整備されていない他の階に更に広い馬屋があるのだろう。直ぐ左の通路を通って地下2階の小さな教会に入ることができるが、壁にフレスコ画が皆無なことから年代を想定するのは難しい。同じ階には墓もおかれており、修道僧達が使用していた階と思われている。地下都市で最も重要な部門は地下3階に集中している。食料倉庫、ワイン醸造所、台所などに注目してみたい。地下倉庫の大きさ、集会所の広さ、多くの居間からして、いかに沢山の人達が一時にここで生活することができたか想像できる。

カイマクル地下都市
◆デリンクユ◆
 かつてメレンギュビュの名でよばれたデリンクユは、ネヴシェヒル~ニーデ街道上、ネヴシェヒルの南29kmに位置している。地方の人々は農業を生活の糧としているが、同時にこの地下都市のお陰で観光収入も軽視できないものがある。

周囲にある墓や出土品をして、7世紀以降ここに集落が形成されたと言え、これはここから9kmのカイマクルでの集落形成より少し古い時期にあたると考えられている。

カッパドキア一帯を覆う火山灰を削り取って造ったこの地下都市の規模は18~20階、深さ40m程度と想定されているが、現在はこのうちの8階までが整備され公開されている。地下1階の入り口すぐ横には、家畜用の飼料を保存していたと思われる窪みが残る馬屋がある。つづいて、葡萄をしぼってワインをつくっていた場所、宗教の集いが催された丸天井のある部屋が目につく。

人々が共同で暮らした迷路に似たこの都市ではプライバシーの侵害などはまったく問題にもならず、各々に入り組んだ部屋で使った火で黒く煤けた壁は、訪れる者を当時の生活にタイムスリップさせてくれる。

炊事場では食材や調理器具を置いた壁の窪みが見られ、厨房施設の直ぐ横には葡萄を絞るワイン醸造所がおかれているが、絞った果汁が流れるように岩に施された溝を見落とさずにいたい。地下3階のほとんどの部屋は食料倉庫として使用されていたもので、この階には水辺に出る為のトンネルもある。地下4階も生活の為のスペースと食料倉庫で占められる。3階に始まる長いギャラリーはそのまま地下5階にまで続き、これを途中で遮断する為には大きな円形の石が用いられていた。

地下5、6階の間のトンネルの両側には居間が設けられ、通路の壁に削られた大小の窪みには照明用のオイルランプが置かれていたと思われる。

デリンクユ
地下7階には三本の柱で支えられるデリンクユ地下都市で最も広い空間があるほか、十文字形の教会、井戸、狭い通路の行き当たりにある墓地なども興味深い。地下8階では小さな部屋と通気孔が目につく。

貯水槽、食料倉庫を備え、約52ケ所に通気孔をもつこの地下都市には、敵の襲撃などの危険時に約100,000人が避難したと言われている。
十字形の大きな教会、集会所なども発見されているが、年代解明の手口となりそうなものは何ら残されていない。

◆オズコナック◆ 
 アヴァノスの北14kmのオズコナック地下都市は1972年に発見されたが、未だ全貌が明らかになっていない。
川辺のスロープにあって損傷も激しいが、各階の連絡用に開けられた穴、14の部屋の入り口を遮断する石白状の円形扉は興味深い。通常、この様な扉の中央には防御の際に煮えたぎった油を注いだり弓矢を放つ為と思われる穴が開けられているが、ここの扉にはそれが見られない。
入り口の階には馬屋として使用されていたと推定される二つの広間があり、厨房、食堂には瓶や炉の跡がのこる。

◆アジギョル◆ 
 アクサライ~ネヴシェヒル街道上に位置するアジギョル地下都市は、市当局による美化整備と照明設置のあと一般公開が始まった。
三ケ所の入り口があり、現在は一階のみ見学することが可能である。

小さな部屋や通路を遮断する為の石白状の円形扉、換気用の通気孔など、一帯に多く見られる他の地下都市と類似点が多い。
ネヴシェヒルに通じる主要道路上にある為アクセスは容易と言える。

アジギョル
◆マズ◆ 
 カイマクルの東10km、古代名をマサダとするマズ村にはまた別の地下都市がある。
村の西手、岩場の麗につくられ、周辺に見られるローマ時代の岩窟墓はマズ村の過去を探る糸口となっている。
あたかも古代の神殿を思わせる岩窟墓の一つは、三本の柱と記念門をして注意を引き付ける。

◆タトラリン◆ 
 アジギョルの北10km、タトラリン村にも1991年より一般公開が始まった地下都市がある。
現在は二つのフロアーのみ見学することができるが、当時の入り口は完全に破壊されている為、西手に位置する小部屋から入る。
部屋と倉庫が他の地下都市と比較して大きいことから、恐らくここは軍事的な目的で使用されていたと想像される。

◆アチュクサライ◆
 ネヴシェヒル~ギュルシェヒルの間には、岩を刳り貫いて造った家々、馬屋などが、約1k㎡にわたる範囲に散在するアチュクサライ地区がある。

修道院、隊商宿、軍の施設、大きな居住施設、またはこれらの混在した地区とその使用目的には諸説あるが、ただ彩色された教会が皆無なことを考慮すると、ここが修道院であった可能性は低くなる。

また、同じ理由、つまり壁画の無い事がら、ここの年代について見解を述べることも困難になってくる。 

◆オレスィン ハン◆
 アーズカラハン程近くには、13世紀の末頃に建てられたと想定される隊商宿がある。
セルジューク帝国時代に建設された他の宿に比較すると面積520㎡と非常に小規模であり、記念門や壁はかなり激しく損傷を受けている為に、そこから建築された年代を辿っていくのは残念ながら不可能と言える。

◆ハジベクタシ◆
 ネヴシェヒル県の北、ネヴシェヒル~クルシェヒル街道上にある郡の中心ハジベクタシの経済は農業が担う。
高名なベクタシ教団の設立者ハジ・ベクタシ・ヴェリの町として知られ、13世紀に教祖がここに教団を置いたことで宗教色の濃い場所と言え、現在は訪れる観光客も多い。 

【ハジベクタシ博物館】 
 ハジベクタシ僧院と西から東へと連なる三つの内庭、その周囲に設けられた様々な施設から構成されている。主要門から入る第一内庭には浴場と洗濯場、及び1897年に造られたウチレルの噴水泉がある。

第二内庭には碑文の記された噴水とアスランルの泉(獅子の泉)があり、対面には現在、調理器具類や大鍋が展示されるかつての貧民救済の為の無銭食堂と、スルタン・マフムットニ世の命による礼拝堂が見られる。

書物によると、1367年に遡る中央の館は、この教えに入信の際、様々な儀式が執り行われた所である為に最も重要な場所とされ、階級を示す上衣など、教団に係わる品々が保存されている。廟のおかれる第三の内庭には、ベクタシ教団上層部の人々に属する葛籠の他、ハジ・ベクタシ・ヴェリの棺もある。典型的なセルジュークの廟の特徴を有するここの壁、及び天井には、植物の図柄、文字による装飾が美しく施されている。

◆ギョレメ◆
 古代にマチャンと呼ばれた現在のギョレメは7世紀に遡る歴史をもつ地方一帯の最古の集落で、「聖ヒエロンの勤め」と題される資料に「ギョレメ」の名で登場している。他の集落の様に目につきにくい場所にあるとは言い難く、特にアラブの襲撃では村人の多くを失った。初期に於いては村を流れる川の近くに集落があったと思われ、支柱のある二つの墓もこの事実を裏付けると言える。ギョレメ村と近郊には五つの教会があり、これらのうち最大のものは6世紀、もしくは7世紀に建設されたと思われるドゥルムシカディル教会で、大きな柱と説教壇を備えて保存状態も非常に良い。それ以外、アラブの襲撃の後にあたる10~11世紀の造りと考えられる教会の内で最も新しいものは11世紀、マチャンに司祭館が置かれていた時期に建設されたユスフ・コチ教会であり、最も離れた場所にあるのは、約30分から40分程度の距離にある11世紀のカラブルット教会である。 

ギョレメ
自然の作りあげた岩層と、人間が手を加えた造りの素晴らしいハーモニーと言えるギョレメ村は一帯で最も注目されている地区である。今日もなお岩を掘って造った家に住む人々がおり、彼等は岩を住まいとすると同時に、これを倉庫としても利用し、過去からの生活様式を何ら変える事なく岩と共に暮らしている。ギョレメ村では岩の家の他、岩を刳り貫いた洞窟レストランやホテルも観光客に人気が高い。村を包囲して直立する妖精煙突と共に、ギョレメの美しさは強いインパクトをもって人々の心に焼き付くに違いない。

◆エル・ナザール◆ 
 テントを思わせる岩層の内部に設けられたエル・ナザール教会は、ギョレメにて見られる同種の施設の中でも特徴のある珍しいものである。

10世紀に建築された教会の壁は崩壊し、フレスコ画も何百年もの時の中で風化して傷んではいるか、しかしそれでもかつてのうつくしさを彷彿とさせている。中央のドームには虹とその上を昇天するキリストが描かれている。

西のアーチには、吉報、訪問、献上が、南のアーチには誕生、東方の三人の博士、エジプトヘの逃避などをテーマにフレスコ画が描かれており、その他にも黄泉の国へ、傑、洗礼、キリストの変容なども表現されている。
また、皇帝コンスタンチヌスと母御ヘレンの姿も図柄として用いられている。

【ギョルギュンデレ渓谷】 
 ギョレメ村とギョレメ屋外博物館の間にのびる遊歩道を利用して出ることができる。
美しい妖精煙突と岩層で是非とも訪れてみたい谷のーつであるが、車の乗り入れは禁止されているので注意したい。葡萄とヒマワリ畑の間に屹立する不思議な岩の塊は、悠然としてダイナミックである。

ギョルギュンデレ
◆クルチラルの谷◆
 アクテペとギョレメ渓谷の間に位置するカッパドキア一美しい谷と言っても過言でないが、徒歩でのみ入り込める為に訪れる者は多くない。有名なクルチラル教会をはじめ、多くの岩窟教会があり、特に写真愛好家にはたまらない題材のころがるスポットである。

"アイナル・キリセ"(鏡の教会)の名で親しまれるクルチラル教会は、十文字の基礎の上に建ち、四本の柱をもつ10世紀の建物として注目に値する。中央のドームにはキリストの昇天が表現される他、聖書を記した四人の聖者も描かれている。カッパドキア出身の宗教家や聖人が描かれているのも興味深く、同世紀に建築された教会の中では、その規模とフレスコの質に於いて、大変重要な建造物に挙げられている。

クルチラルの谷
◆ギョレメ屋外博物館◆
 今日、屋外博物館として保護下にあるギョレメの岩窟教会は、食堂、居間等の設備を有して、9世紀以来、修道院生活の中心を成してきた。土を耕して日々を営む村、と言うよりも、完全な宗教活動の要と言うのが相応しい。数多くの教会の中で、6、7世紀に遡るものはたった一軒だけで、ギョレメ地方が本格的な発展を遂げた9世紀後半以降は概して小規模の教会が建設されており、内、10世紀のクルチラル教会とトカル教会はビザンチン芸術の美しい例として特筆に値する。ビザンチン芸術の“黄金期”は、その装飾と建築様式をしてストゥンル・キリセ(支柱の教会)で顕著に表れている。装飾に用いられた宗教的なシーンにしても建築様式にしても、他の教会とは完全に異質なもので、11世紀の貴族芸術を代表するものと言える。

同一のアトリエに属する画家達によって作成された作品が多く見られ、そのテーマの選択、画材、そして花、草木のモチーフが頻繁に用いられているなど、多くの共通点が指摘できる。繊細で洗練された人物画に注目すると、あたかも濡れて体に密着したかのような衣を纏っており、体のラインが強調されていると同時に、その表情も穏やかで和んだ雰囲気に満ちている。

ドーム、アーチ、そして壁に描かれた宗教上のシーンの分配も大変に調和がとられ、巧い配置がなされている。

クルチラルの谷
数多くの教会があり、本来は見学するのに数日を要するギョレメ、クルチラル、エル・ナザール渓谷で、修道院生活かいつ終焉を迎えたか予想するのは困難と言うものの、11世紀以降建設された教会の数が少ない事を前提に思いをめぐらせてみることは可能である。これらの教会の幾つかに岩を彫って作った卓、居間の設備、倉庫、寝室などがある事実は、つまりここで修道院生活が営まれていたとの考えを裏付けるものと言ってよいかもしれない。

ギョレメの教会のフレスコ画の中で、18、19世紀にその壁画に記されていることが確認された幾つかの名は、訪れたキリスト教徒達が自らの名を刻印したもので、ギョレメがある種の聖地として巡礼の対象になっていたことを物語っている。

【クズラル修道院】
 ギョレメ屋外博物館の入り口すぐ横にある大きな岩の塊を人々はこの名で(=女子修道院)呼んでいる。
四つの階に分けられた内部には、教会、食堂、通路などがあり、修道院としての総合設備であったことを物語っている。
まず、金属の階段を使って良く保存された食堂へ入ってみると、岩を削って作った食卓が目にはいる。
この大きな岩の塊の中には四つの教会の跡があるが、食堂の側、三つの後陣のある教会には、キリストの誕生に関わるシーンが描かれている。

クズラル修道院
南面の壁を飾るのは、カッパドキアの高名な聖グレゴリウスの生涯と、その殉死の場面である。
二番目の教会は修道院の名にもなっているクズラル教会であり、十文字の基礎に建って、中央のドームは四本の柱によって支えられる。立ち姿のキリストを描いたものがここの唯一のフレスコ画である。

【エルマル・キリセ】
 エルマル・キリセ、即ち“林檎の教会”には四本の柱と三つの後陣があり、本来は南手に入り口が設けられていたが、現在は使用されていない。
アーチ、ドーム、壁に巧みに配置されるフレスコ画は、まず、中央後陣に聖母、キリスト、洗礼者ヨハネの聖家族が、四本の細い支柱に乗るドームの中央には、福音書を著した四人の聖人を描いた円に囲まれたキリストが表現されている。
後陣側の小ドームのフレスコ画は大天使が、南手のドームのものはキリストの昇天がテーマとなっている。 
《フレスコの内容》
左側後陣  :聖母とキリスト
左側後陣上部:キリストの埋葬
主要後陣  :マリア、キリスト、洗礼者ヨハネ
右側後陣  :天使長ミカエル
右側後陣上部:最後の審判
北手壁面  :キリストの誕生、エルサレムヘの旅
西手壁面  :ラザロの甦り、聖母と12使徒、洗礼
南手壁面  :キリストの変容、磔、黄泉の国へ

エルマル・キリセ
【聖バルバラ教会】
 そのフレスコ画で、いつの時も論争の的となってきた教会である。
規模は小さいが、中央ドームと二本の柱をもち、設計、横に設けられた入り口、三つの後陣をしてチャルクル教会と多くの類似点がある。
主要後陣には王座に座るキリストが、入り口の対面、即ち北手壁面にはカッパドキアの高名な二人の聖人ジョージとテオドールが龍(大蛇)を退治している場面が表現されている。

西手壁面には教会に名を掲げる聖バルバラが描かれているが、ここの建築者は、教会の資料に名が記されているファリボンとレオンであるというのが通説である。
教会のあちらこちらには、幾つもの十字架と意味不明な図柄が見られる。主にオークルレッド色を用いて描かれたこれらの柄(十字、三角形、柱、メダリオン、動物)は、凝灰岩を削ってここを造った人々が魔よけの意味で描ぃたと推測されている。

聖バルバラ教会
【ユランル教会】
 丸天井に覆われる教会(別名:蛇の教会)の南手には墓所がおかれている。フレスコ画には全体を通じて一貫するストーリー性がなく、教会の名が由来するカッパドキアの高名な聖ジョージと聖テオドールが退治した龍(大蛇)の図の直ぐ続きには一帯の教会装飾画には頻繁に登場する、皇帝コンスタンチヌスと母御ヘレンが描かれていたりなどしている。

対面の壁にはオノフリウス、聖トマス、聖バシリウスのフレスコ画が見られる。言い伝えによれば、ここに登場するオノフリウスはエジプトの砂漠で60才まで生きた宗教家だったが、フレスコ画上の強調された胸部のせいで、本来 “彼”は美貌の女性であったが、信仰の道に自らを捧げる為に男性に変貌したのである、と信じられている。

ユランル教会
【エスキ・トカル教会】(旧トカル教会)
 カッパドキア地方で最も素晴らしい教会で、異なる時代に造られた二つの建物から構成されている。その一つが、10世紀初頭のエスキ(古い)トカル教会で、まるで映画のストーリーの様な続きものの壁画をして、アルカイック教会の範暗に入れられる。一帯にある他の教会の壁画を作成したアトリエの作品と思われ、ビザンチン以前、そしてビザンチン及びオリエントをルーツとする特徴が顕著である。
シンボル化された人物画の手、腕、体の動きにはそれぞれ意味がある。
《フレスコの内容》
丸天井南側(入って右)
最上部分  :受胎告知、エリザベスの訪問、ベツレヘムヘの旅、キリスト誕生
中部    :追われるエリザベスと幼少のヨハネ、洗礼者聖ヨハネに関するシーン、カナンの結婚
下部    :最後の晩餐、ピラトの審判、ゴルゴタヘの道
丸天井北側 :三人の王の崇拝、幼児大虐殺、エジプトヘの逃亡
中部    :葡萄酒になった水、12使徒招集、パンを増やす奇跡、盲目の完治ラザロの甦り
下部    :磔、十字架から降ろされるキリスト、埋葬、

エスキ・トカル教会
【イェニ・トカル教会】(新トカル教会)
 エスキ・トカル教会は増築されたイェニ(新)トカル教会とともに十字形の大きな施設となった。アーチ、壁などに分散するフレスコ画と建物の調和は素晴らしく、メソポタミアからアナトリアに伝わった建築様式を用いて、五つの丸天井に覆われた身廊と小部屋の長い壁には後陣としての窪みが設けられている。 950年~960年に建設されたこの教会は、ビザンチンに於ける“マケドニア・ルネッサンス”黄金期の代表作と言える。北後陣に見られる碑文から、フレスコ画はニコフォロス、建造者はコンスタンチヌスとレオンと名乗る人物であることがわかる。フレスコ画の様式と用いられた色彩は、エスキ・トカルと明確な違いがあり、図柄もより洗練されて美しい。

特に、地色として使用されている紺色の美しさは他に比類のないものである。その場面もエスキ・トカルを思わせはするが、比較すると更に詳細にわたり、エレガントでさえある。
《フレスコの内容》
左手後陣 :キリストと天使達、エジプトのマリア、聖アブラハムの歓待
主要後陣 :磔、十字架から降ろされるキリスト、埋葬、黄泉の国へ
中部東側 :聖母と天使に囲まれたキリストの昇天
中部西側 :使徒を祝福するキリスト
中部南側 :二列に並んだ12使徒とキリスト、王者と民衆
南東側  :七人の若い司祭
南西側  :エルサレムを離れる使徒
北東側  :訪問、水をワインに
北西側  :キリストの誕生と三人の王者
北フリーズ:聖ヨハネとキリスト、キリストを誘惑しようとする悪魔、キリストと使徒
東フリーズ:盲目患者の完治、らい病患者の完治、未亡人の子供の完治、腕を病む患者の完治
南フリーズ:麻輝患者の回復、エルサレムヘの入場、最後の晩餐

イェニ・トカル教会
【カランルク教会】(暗闇の教会)
 ギョレメ屋外博物館にみられる支柱を用いた教会のうち最も有名なカランルク教会は、総合修道施設とも言え、小さな内庭を囲んで様々な設備が設けられている。同じ建築様式に属する教会としては古い順に、カランルク教会、エルマル、チャクル教会で、どれも同一の人物によって建設された、と言うのが多くの学者の一致した見解である。何百年もの間、ほとんど光りが差し込まなかったおかげで、内部のフレスコ画の状態は大変良好である。四本の支柱、六つのドーム、入口にはアーチのある正方形の外廊と、埋葬用の空間が設けられている。外廊にはキリストの昇天、12使徒の祈りの場面が表現され、対の虹の上に座ったキリストの、四人の天使に導かれていく様子が美しい。

カランルク教会
《フレスコの内容》
主要後陣 :聖母マリア、キリスト、洗礼者聖ヨハネ
北手後陣 :聖母
中央ドーム:円の中の天使とキリスト
南丸天井 :エホバの裏切り
北丸天井 :キリストの誕生、三人の王
西丸天井 :エルサレムヘの入場
西手壁面 :ラザロの再生、キリストの変容、洗礼
北手壁面 :ベツレヘムへ、キリスト誕生、マタイとヨハネ
南手壁面 :聖墓所の三人の女、礎、炉に投げられる三人のユダヤ人
東手壁面 :最後の晩餐、ルカスとマタイ


カランルク教会
【チャクル教会】
 ギョレメ屋外博物館のシルエットに弧を描く大きな岩の塊の中で、最も高い所に位置する。金属製のステップで内部に入ると、一部破損を受けているものの概して良い状態にある宗教画が人々の視線を奪う。教会のすぐ下にある食堂は、ここが他の重要な教会と同様に総合修道施設に含まれるーつの造りであったことを物語っている。
岩で造られた食堂の後ろにある “最後の晩餐” が美しい。
中央のドームは東手の二本の柱と西手の壁で支えられている。
チャクル、即ち “革の浅靴” と言う一風変わった名は、一見足跡に見える床の窪みに由来する。
特に西手の壁面、教会の建造者達をはじめとした宗教画や頭部にターバンを巻いた人物には注目してみたい。
《フレスコの内容》
主要後陣  :聖母マリア、キリスト、聖ヨハネ
北手後陣  :聖母、キリスト
北手後陣上部:アブラハムの歓待
南手後陣  :ガブリエル
中央ドーム :キリストと天使

チャクル教会
【サクル教会】
 交通の不便な所にあることでサクル(隠れた)教会と呼ばれる11世紀の造りで、ギョレメとエル・ナザール渓谷の間にある。
トカル教会同様にメソポタミア様式が用いられ、二本の柱が全体を支えている。

ヴェロニカのフレスコ画の他、ドームに描かれた大きな十字架は過度に装飾が施されたもので、これは初期の特徴として最大のポイントと言える。

サクル教会
◆チャヴシン◆
 脆くなった層の落岩で無人化した旧チャヴシン村は、カッパドキアの集落の中でも興味深い場所である。
家々の壁を飾る素晴らしい壁画を見れば、ここがその昔いかに美しい村であったかを想像するも難くない。

【洗礼者ヨハネの教会】 
チャヴシン要塞の頂きにあって、どこからも目についたこの教会は、一帯で最も古いものの一つとして、同時に初期の教会のみに見られる異なる壁画のシーンをして重要視されている。

5世紀に建造されたと推測され、非常に損傷が激しいものの、ヨハネの断頭、サロメの舞などの場面は今だに鮮やかである。
ギョレメで生まれた皇帝ディオクレティアヌスの続治下でマラティアで殺害された聖ヒエロンの手が保存される教会としても知名度が高い。ビザンチン時代に同聖人に属する貴い品々を預かったこの教会の装飾を見ても、ここがいかに重要な位置を占めていたかがうかがえる。

【ブユック・ギュヴェージンリック】 
チャヴシンで二番目に重要な教会は高名なビザンチン皇帝ニケフォラス・フォカスに捧げられたもので、“大きな鳩小屋”と呼ばれている。
“マケドニア・ルネッサンス”期の一例で、丸天井があり、皇帝の来訪と名誉を祝してフォカスとその家族が北側後陣に描かれている。

チャヴシン
◆ギュッルデレ◆
◆クズルチュクル◆
 チャヴシンに始まる小道を辿って美しいニつの谷に出ることができる。木々の間に造られた初期の教会と岩層は、人々にまるで別世界に迷い込んだかの様な錯覚を与えることだろう。ギュッルデレには五つの教会があり、一つには皇帝コンスタンチヌス・ポルフィロゲネトゥスヘ献呈された碑文が記されている。(7世紀~10世紀の建築)

クズルチュクルと呼ばれる二つ目の谷では、保存状態の良好な聖アン教会、アラブの襲撃の際に避難所として利用されたハチル教会などが見られる。

パシャバー
◆パシャバー◆
カッパドキアの名を世界中に轟かせた “妖精の煙突”が最も美しいのは、ゼルヴェ近郊はパシャバーの谷であろう。ここで見られる“妖精遠の住家”は、一つの岩から二本、三本とのびる複数の首に“帽子”を被った格好をしており、辺りに広がる葡萄やヒマワリ畑の中にこれらが屹立する様子は全くの別世界を思わせる。

妖精煙突はビザンチン時代に隠遁生活を選択した修道僧達の隠れ家でもあり、当時の有名な聖人スィメオンの生涯を表現した壁画も見られる。

パシャバー
◆ゼルヴェ屋外博物館◆
 岩を削って造った家屋の最も良い例を見ることができる。
人間が自然と自然の提示する条件と協調しながら暮らした場所と言える。
パシャバーから続く道に従って出た赤土に覆われた一帯が、ゼルヴェ屋外博物館であり、水をはじめとした自然の風化作用や、岩の崩れから出来上がった三つの谷と、屹立する岩層、何千もの岩の家々、岩窟教会、通路などをして、訪れる人々に忘れ得ぬ一時を贈ってくれる。

 冬暖かく、夏は涼しい岩の家を造り上げた地元の人々は、長い年月をかけて生活の場、例えば教会、修道院、鳩の巣穴(肥料になるフンを集める為)、倉庫などを彫ってきた。

現在までのこった教会は絵画が否定された偶像破壊期とその以前に建設されたものであり、多くは十字架、魚、葡萄、鹿などのシンボル化されたものが壁画として用いられている。

 宗教的な場面のみでその壁を飾り立てたものが皆無である事をみると、ゼルヴェの人々が8世紀に浸透した偶像破壊期以前に於いても肖像画に対して何らかの反発を感じていた事が伺える。

ゼルヴェ
 最も広く、雄大な第一の谷には、崩壊した岩のせいで直接入り込むことは不可能であり、少し遠回りになるが、第二の谷に始まる道をたどらなければならない。

天井の大きな十字架の浮き彫りや、鹿と十字架のフレスコ画で知られるゲイクリ(鹿の)教会もこの沿道にある。ゼルヴェの第一の谷にある石造りのモスク、岩の中に石やセメントを用いて色々な設備を有するさまざまな造りは、ここで近年まで地元の人々が生活を営んでいたことを語る、声なき、しかし重要な証人と言えよう。

ゼルヴェ谷の特徴として注目したいのは、特に第一の谷に見られる鳩の巣穴である。何百年もの間、カッパドキアの人々がその肉を食用としてきた、あるいは、フンを肥料として用いた鳩の為に作られたもので、鳩の出入り用に削って開けられた穴の周囲を彩る図柄や人物画は、学者達に新しい研究課題を提供している。

ゼルヴェ
 あまり人の入り込まない第三の谷には、偶像禁止期以前に造られたウズムル教会(葡萄の教会)と、偶像禁止期の真っ只中で建設されたハチル教会(十字架の教会)がある。

◆デルベントの谷◆ 
アヴァノス~ゼルヴェ~ウルギュップ間にあり、その土の色をして“ピンクの谷”とも呼ばれている。
谷の間にひかれた新しい道のお陰で、ここの美しさを満喫する事が可能になったのは嬉しいことである。
妖精煙突と岩層を分析するにも適したポイントと言え、人が住まいを求めなかった為に教会や岩の家もない。
大変珍しい形状をした妖精煙突を見るには、道を離れて丘の裾野を登るとよい。

デルベントの谷
◆アヴァノス◆
 古代名ヴェネッサ。
近郊のトパクル・ホユック(塚)で実施された発掘調査で出土した旧、中期ヒッタイト時代に属する品々や、その形跡が現在もうかがえるゼウス信仰の跡、ヘレニズム時代の墓などは、この町が様々な時代に重要な役割を担ってきた事を物語っている。

ビザンチン時代の後、長い間にわたってセルジューク・トルコの支配下におかれた町は、1466年にオスマンの領土に組み込まれた。
セルジューク時代のアラエッティン・モスクと、16世紀はオスマン帝国時代のイェルアルト・モスクの二つの回教寺院に注目してみたい。
 トルコ最長の川クズルウルマクによって二分されるアヴァノスは、今日、窯業と手織り絨毯の町として、全国的に名を馳せている。

ヒッタイト時代から続く窯業は、町の経済を担うもので、クズルウルマク川の堤の土に砂を混ぜたものが使用される。外気を遮断する為に中に入れた水などを冷たく保つことができ、昔は日用品としてその需要もたかかったが、1960年代からの冷蔵庫の普及や水道が引かれたことで、かつての重要性はすっかり影をひそめてしまった。
今日では伝統工芸品として主に観光客への土産用に作成されている。

ウチヒサル
◆ウチヒサル◆
 それぞれに美しく独特なカッパドキアの岩層の中で最も高い点である“ウチヒサルの要塞”は、一帯の雄大な自然が一望のもとにできる、おすすめのポイントである。

三角形の大きな二つの岩は人が手を加えていない全くの自然の形であるが、その外観をして土地の人々は“要塞”と呼ぶ。
地元の人々は避難所として利用する為に大きな岩の塊を選び、この内部を彫り削って多くの要塞を造ったが、それらの中で最も良い例を、カッパドキア地方でも“岩の町”と呼ぶに相応しいここウチヒサルやオルタヒサルに見ることができる。ビザンチン、トルコ時代にも住まいとして利用された岩の塊には、現在でも人間の暮らしの跡をそこここに見つける事が可能である。

ウチヒサルの要塞とその足元にはここ最近まで人々が住んでいたが、岩の風化で脆くなって危険なことから立ち退いている。

ウチヒサル
◆オルタヒサル◆
 要塞を思わせる大きな岩の塊の周囲にできた町である。かつて、居住用、軍事用に使用されたこの岩には、現在、階段を使って頂きまで上る事ができ、一帯の美しい景色を満喫することが可能である。最も美しい景色を望む為には、川へ向かって歩き、石橋を渡って対岸の丘に登るのがよいが、中央の大きな岩とその周囲に集中する石造りの家々は、遠くからでも一目瞭然である。

オルタヒサル
【ジャンバズル教会】 
 一帯で最も大掛かりで組織立った調査を実施した司祭ジェルファニオンが足を踏み入れなかった稀な教会で、別名、“アッシャウ・バー教会”とも呼ばれる。オルタヒサルの麓にあって、一般に解放され始めたのはさほど古いことではない。壁画はギョレメのストゥンル教会(支柱のある教会)のそれを思わせるが、教会の建設された年代については明確にされていない。 

【ハッラチ修道院】 
 四角形の内庭のある修道院で、オルタヒサルの北東にある。施設の中で、聖バシリウスに献呈された教会には10世紀、11世紀のフレスコ画が見られるほか、墓所、台所がおかれ、小部屋の一つには人物の図柄が残っている。 

ハッラチ修道院
【バルカン・デレスィ教会群】 
 オルタヒサルから2kmのバルカン川にある教会群には、徒歩、あるいはロバに乗って行く。宗教画の禁止された偶像禁止時代、及びアルカイック期に遡るここの宗教施設は、ビザンチン初期に造られた事で、重要視されている。

◆ウルギュプ◆     
 古代名をアッスィアナとし、歴史を通じていつの時代も重要な居住区であり続けてきた。
セルジューク時代に於いてはバシヒサルと呼ばれ、ネヴシェヒルから18kmの場所に位置している。
町の中心に屹立する巨大な要塞はトルコ期に造られ、重要な居住区としても利用されてきた。

ウルギュプはビザンチン、オスマン時代の岩を削って造った家の他に、美しく装飾を施した石造りの家でも有名で、一帯で最も素晴らしい家がここで見られると言っても過言ではない。

トルコ期の建造物として、カドゥの要塞、カラマンオールラル・モスク、アルトゥンカプ霊廟、タフスィナー図書館を挙げる事ができる。
町の中心には多くの宿泊施設があり、一帯の観光業の担い手として重要な役割を果たしていることがうかがえる。

ウルギュプ
◆ムスタファ・パシャ◆
 ウルギュプヘ6㎞。外壁に様々な動物の図柄を描いた家々、オスマン時代の隊商宿、岩窟教会などを見学したい。ここに残る文化遺産に注目すると、ムスタファ・パシャがビザンチン時代とそれに続くトルコ民族の支配下に於いて、一帯の中で重要な位置を占めていたことがわかる。
また、地方で最も新しい、19世紀に造られた岩窟教会にも注目してみたい。

◆ソーアンル渓谷◆
 ウルギュプの34kmには景観の美しさと教会で知られるソーアンルの谷がある。そこここに見られる鳩の巣穴、その当時の名高い画家達によるフレスコ画で彩られた教会・・・、ただの岩の塊を、外観からもいかにも“教会”らしく削った岩層に、自然の美しさが加われば、人気のある観光スポットとして人々の注目を集めないはずがない。

 初期キリスト教時代から人が住み着いた谷には9世紀~13世紀の間に教会が造られたが、うちのいくつかの建築年代が明確にされたことは、カッパドキア一帯に存在する他の教会の歴史を探る手懸かりとして大いに役立った。

 谷の教会は各々に異なるフレスコ画と建築様式を以て、他の地区の教会と明確に区別することができる。
特に岩を外側から削り、かつての石造りの教会に似せた“クッベリ・キリセレ”(ドームのある教会群)は、カッパドキア全域を見渡してもこの谷だけのものである。 

ソーアンル渓谷""
【ジャナワル教会】(怪物の教会) 
 一帯の多くの教会と同様、その名を聖ジョージが退治した龍(大蛇)に由来するこの教会も11世紀~13世紀のフレスコ画をして、カッパドキアの最も美しい教会の一つに挙げられている。

後陣には聖母とヨハネに囲まれたキリスト、使徒にパンとワインを分けるキリストが描かれている。丸天井のア-チには詳細にわたる“最後の審判”が見られる。

【カラバシ教会】(褐色の頭の教会) 
 1060年~1061年に建造されたことが解明されたことで重要な意味をもつ。長い碑文によるとコンスタンチン・ドゥカスの時代に造られ、当時の有名な画家によって装飾画が作成されたことがわかる。セルジューク・トルコがアナトリアに進攻して間もなく造られたことを考えると、その壁画の見事さにも別の輝きが見いだせよう。

深く削られた後陣の、使徒にパンとワインを分け与えるキリストの図に注目してみよう。
又、キリストの誕生、献呈、磔、黄泉の国へ、などの場面も表現されている。

カラバシ教会
【クッベリ教会】(ドームの教会) 
 石造りの教会を見本にして円錐形の岩を削りながら造った三つの教会があり、特に鋭角なドームは珍しい。
概して10世紀のフレスコ画で装飾される教会のうちで最も重要なのは“サクル・キリセ”(隠れた教会)であろう。フレスコ画はかなり損傷が激しいが、聖ペテロと聖パウロが表現されており、共に描かれる皇帝ネロと拷問される二人の聖人、そしてその殺害の場面はカッパドキア一帯でも稀に見られる珍しいテーマと言える。 

【バルバラ教会】 
 11世紀の前半に建築されたことがその碑文からわかる。
教会の保護者として登場するバシリウスは、一帯を支配した軍人であろう。専門家達の論争の的となっている壁画は、あたかも映画のシーンの様にストーリー性があり、アルカイック期とギョレメの有名なストゥンル教会群建設の間の過渡期に造られたとされている。壁画にはエフェスの眠れる七人の聖者、キリストの誕生、黄泉の国へ、水をワインに、等も表現されている。

◆カイセリ◆
 エルジェス山の北側斜面、カラス川の灌漑でできた平地の端に位置するカイセリは、今日、織物、砂糖の精製、飛行機の保全などで生計を支える活気ある町である。
歴史の初期から人々が集落を形成し、考古学の専門家達によって発掘されたキュルテペとエーリキョイ・ホユックは有名である。初期青銅器時代、アッシリア交易植民市の時代、ヒッタイト期に重要な役割を担ったカイセリと近郊は、後期ヒッタイト時代にタバル国の名で呼ばれていた。

アッシリア等に続き、550年以降はペルシアの支配下におかれてサトラップ制のもとでカッパドキア郡の中心都市として活躍した。その当時の名を“マザカ”とし、アレキサンダー大王の来訪と共にマケドニアの手に渡ったが、大王の死後はペルシアに祖をもつアリアラテス族の支配下にしかれ、独立国であるカッパドキア王国の中心としてユーセベイアの名で知られる様になった。アリアラテスの勢力はポントス王ミトリダテスがB.C.90年に自らの子息をカッパドキア王として宣言するまで続いている。B.C.66年、カッパドキアは再びローマ人の手中に落ち、長い間ビザンチンの支配下におかれた。アラブの襲撃に際して何度か崩壊の危機に瀕したが、1071年のマラズギルトの戦いの後は、セルジューク帝国の要地としてその地位を一時、確立させている。

1097年、第一回十字軍により征服され、以降、ダニシメンオール、セルジューク、そして1243年に勃発したキョシェダーの戦以後モンゴルに支配され、多くの戦いをくぐり抜けたアナトリアの中心に位置するここカイセリが、終にオスマンの領土に包含されたのは1515年のことであった。 

カイセリ
【カイセリの要塞】 
 地理学者ストラボンによると、古代カエサレアの町には城壁がなかった。最初の城壁は東からの脅威ペルシアの襲撃を仮定して建造されたと推測される。6世紀の資料によると、有名なビザンチン皇帝ユスチニアヌスの時代に造られ、長きにわたって町を守り続けたこの要塞には、セルジューク、カラマンオール族、オスマン時代に修復、増築の手が入れられた。内外の二重の造りをもち、トルコ軍事建築の最も見事な一例である。 

【ウル・ジャーミ】 
 資料によると1135年~1150年の間に建築され、約1750㎡の面積をして、カイセリで当時最大のモスクであった。ミヒラブ(メッカの方向におかれた壁の窪み)に並行して八つの区画がとられ、二つのドームに覆われている。 

【ファンド・ハートゥン学問所】 
 アナトリアで最初の、そして最も美しい学問所は、モスク、神学校、ハマム、霊廟を備えた総合施設で、1238年、セルジュークのスルタン・アラエッディン・ケイクバトの母御マフペリ・ハートゥンの命によって建造されている。 

【クルシュンル・ジャーミ】 
 オスマン帝国お抱えの建築家スィナンが1584年に造らせたと言われる小規模なモスクである。外側をクルシュン、即ち鉛で塗装したドームがその名の由来である。

【ドネル・キュンベト】 
 霊廟の町とも言われるカイセリで最も有名な記念墓は、町の南西に位置している。セルジュークのスルタン・アラエッディン・ケイクバトの娘ジハン・ハートゥンの為に1276年に造られた廟で、動物、植物、幾何学模様を用いた装飾が、セルジュークの石細工の美しさを披露している。 

カイセリ
【シファイエ学校】 
 1202年~1206年、セルジュークのスルタン・グヤセッティン・ケイフスレヴによって造られ、アナトリアに見られるセルジューク時代の最も古い医学校、病院として特筆に値する。 

【考古学博物館】 
 各時代の最も美しい作品を以てアナトリア文明を物語るこの博物館は、長く、複雑に絡み合ったカッパドキアの歴史を理解する為に手助けをしてくれるに違いない。 1969年に開館して以来、中央アナトリアの地方博物館として独自の位置を保ってきた。

庭にはカイセリの南で発見されたフラクティンの記念碑の模倣作品があるほか、ヒッタイト時代はギョッルダーの獅子も有名である。展示品として、アナトリアの母神像、ヒッタイトの土器、ヒッタイトの嵐の神を表す浮き彫りなどがあり、ギリシア、ローマ時代に属する作品も必見の価値がある。

◆スルタンサズルー◆
 カイセリ近郊の鳥の楽園スルタンサズルーでは約251種の鳥が見られる。絶滅の危機に瀕する72種のうち20羽がここで抱卵し、保護下におかれている。また、黒鶴、アオサギ、フラミンゴ、ペリカンなどが同じ場所で抱卵していることでも珍しい場所と言える。 

◆ニーデ◆
 要塞の裾野に広がる町ニーデには、セルジューク、オスマン時代のモスク、神学校、霊廟が多い。
その長い歴史にもかかわらず、重要視され始めたのは12世紀と遅い。
かつてヒッタイト時代には“ナヒダ”もしくは“ニキタ”と呼ばれ、その後 “ニクデ”となり、共和制になってから現在のニーデに改名された。
町はセルジュークのスルタン・アラエッディン・ケイクバトの時代に修復、再建され、中央アナトリアの要地の一つに成長した。

1333年、アラブの地理学者イヴン・バトゥーダが来訪し、「ニーデがカラマンオール族とモンゴル人の戦いにより、廃墟同然となった」と記している。その後、異なる民族の支配下に入り、1470年、征服王スルタン・メフメットの時代にオスマン帝国の領土となった。
 セルジューク、オスマンの歴史を反映する多くの記念碑や建造物の保存状態は良好と言える。

ニーデ
◆エスキギュムシ◆ 
 ニーデの北東にあるギュムシレル村のこの岩窟教会には、ニーデ~カイセリ街道の5kmの地点で東に別れる道を辿って行く。長い回廊をわたって出るエスキギュムシ修道院の内庭の周りには、様々な用途の為に設けられた小部屋がおかれている。

フレスコ画がビザンチン以前の年代に属することや、テーマも宗教に無関係な狩りの場面などによる事を考えると、ここがかなり古い時代から使われていたと推定することが可能である。

修復作業によって、ここのフレスコ画が三人の画家の手でそれぞれ異なる時代に作成されたことが解明された。
11、12世紀のフレスコ画で飾られるこの総合施設には、一帯の最も大きな修道院の一つがある。
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