トルコ旅行(ツアー・観光)専門の人気ナンバーワン旅行会社『ターキッシュエア&トラベル』ペルガモン・ベルガマ|トルコ 世界遺産 | トルコ旅行(ツアー・観光)専門の人気ナンバーワン旅行会社『ターキッシュエア&トラベル』

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トルコの人気世界遺産

ペルガモン・ベルガマ(文化遺産・2014年)


ペルガモン・ベルガマ、その起源

 2014年に世界遺産に登録されたペルガモンは東にケティウス川、西にセリヌス川に囲まれた土地にあった。2つの川は今日のベルガマの町の南で合流しカイコス川(バクルチャイ)に注ぐ。カイコス渓谷のデイルメンデレではペルガモン地方最古と見られる居住跡地が確認されている。アクロポリスの発掘でもデイルメンデレと同時代と見なされる、先史時代の出土品がごくわずか発見されているが、アクロポリスに先史時代の居住地があった証拠はない。又、ペルガモンの遺跡からは、紀元前12世紀頃から10世紀頃まで続いたギリシャからの植民時代、あるいはその移動に伴うものと見なされる発見は何一つ確認されていない。ギリシャから移住してきた人々はエーゲ海の島々や半島の開けた土地を選んだから、25km内陸のペルガモンにはその波が届いていなかった。

 ペルガモンの建国に関しては明らかではないが、神話によるとペルガモンの名はトロイ戦争当時にさかのぼる。トロイの滅亡炎上の後、ヘクトールの妻アンドロマケはアカィア軍に捕らわれ、アキレウスの息子ネプトレムスと結婚し3人の子供を設けたという。その一人ペルガモスが建設したペルガモンスが後にペルガモンに、さらにベルガマに変わったという。

 アクロポリスの発掘ではアルカイック期の品がごくわずか発見されてはいるものの、居住跡は確認されていないから、アルカイック期に既に町ができていたとする仮説には根拠がない。それらの品は、ヘレニズム期のペルガモン王達が海岸の諸都市から運び込んだものと考えられよう。


ペルガモン アクロポリス

 紀元前560年にはこの西アナトリア一帯はリディア王国のクロイソスの支配下に入っていた。しかし間もなくクロイソスはペルシャのキュロス大王に敗れ、アナトリアはペルシャの支配下に入れられた。ペルシャはイオニア、ヘレスポント、キリキア、リディアの4つの州に分けて総督を置いた。ペルガモンはリディア総督府のミシアに組み込まれていた。ペルシャは内政には干渉しなかったが、人々は重税や兵役に苦しめられ、苛酷な支配の下で文化的、社会的な活動は低下し、いわゆる古典期は終りを告げた。この時代の出土品はアスクレピオンからわずか数点出ているだけである。

 ペルガモンの名が初めて史料に現れるのは、古代の歴史家として有名なアテネのクセノフォン(紀元前430-352)によってである。彼は、前399年に東部アナトリアからの帰途ペルガモンに立ち寄り、当時の支配者ゴンギロスの未亡人ヘラのもてなしを受けている。ヘラはクセノフォンにペルシャの領主アシダテスから助けてと頼んだという。その見返りとして、アシダテスの財産を譲り受けることになったクセノフォンは神に生け賛を捧げ、その意を伺った。結果は吉と出たので300人の兵をアシダテスの根拠地に向かわせたが、アシダテスの部下が、のろしでペルシャ軍に救援を請うたため、引き上げざるを得なかった。その翌日、クセノフォンはペルガモンを退却するかのように装いながら、アシダテスの龍る小さな村に全面攻撃を仕掛け、妻や子、財産を奪い取ってペルガモンに戻り、勝利を感謝し神に生け賛を捧げたという。

 紀元前362年、アナトリアの人々はペルシャ王アルタクセルクセスに反旗を翻す。アテネ王と親密だったミシア総督のオロンテスが反乱のリーダーとなった。オロンテスはペルガモンを根拠地として当初は次々と勝利を重ねたものの、結局はペルシャの強大な力に屈した。

ペルガモン

アレクサンダー大王の時代

 紀元前334年、マケドニアの若き王アレクサンダーはダーダネルス海峡を渡り、アナトリアに遠征してきた。グラニコス川(今日のビガチャイ)の河原でペルシャのダリウス三世を打ち破り、西アナトリアはペルシャから解放された。アレクサンダーはロードス出身のペルシャ軍司令官メムノンの未亡人バルシネにペルガモンの行政を任せる事にした。アレクサンダーとバルシネの親密さが噂され、後(前310年)にペルガモンを支配したヘラクレスは彼等の子かと噂された。

 前323年にアレクサンダーが亡くなると、その広大な帝国は重臣たちによって分割された。セレウコスがメソポタミアとシリア、東アナトリアを、リシマコスが南と西アナトリアを、カサンドロスがギリシャとマケドニアを、プトレマイオスがエジプト、リビアと北アラビアを領有することになった。

 リシマコスはペルガモンの地理的利点に着目し、そこを軍事基地とした。アンティゴノスは金アナトリアの支配を狙っていたが、リシマコスはライバル、アンティゴノスの武将のフィレタイロスをペルガモンの司令官に指名した。リシマコス側に付いたフィレタイロスは有能かつ勤勉だったのでリシマコスの信頼を受け、アレクサンダーの遺産の金貨9000タラントの保管を任された。


ペルガモン

 領土を拡大するため、リシマコスは他の王国と婚姻などにより外交関係を強めた。自身も妻を離縁し、プトレマイオスの娘アルシノエと再婚、息子のアガトクレスにはアルシノエの妹を娶らせている。アルシノエはリシマコスの先妻の子で長男のアガトクレスを押し退け自分の子を王位につけようと謀略をめぐらし、アガトクレスを殺害させた。これに対して国民や軍は反乱に立ち上がり、国内には不穏な空気がたちこめる。アガトクレスの妻と妹、子供達はシリア王セレウコスに援助を求めていった。フィレタイロスも又、アルシノエに嫌われていたため、身の危険を察して密かにセレウコスと連絡をとり、リシマコスを討つならば主君の財産を渡そうと申し出た。セレウコスはこの申し出を受け、コロペディオンでリシマコスと戦い、勝利した。紀元前281年のことである。


ペルガモン王国

 リシマコスが戦死するとフィレタイロスが跡を継いだ。まもなくシリア王の使者が、かねて約束の財産分割を要求してやってきたがフィレタイロスはこれを拒否し、その金の一一部をペルガモンの城壁の修理や兵を募る資金に当てている。その一方では新しい貨幣を鋳造するにあたり、セレウコスの肖像を刻ませて敬意を示している。

 やがてフィレタイロスは自ら王を名乗り、近隣諸国とは友好関係を保ちながらその領土をマルマラ海沿岸にまで拡張していった。古代の歴史家ストラボンも述べているように、リシマコスの信任を受けてアレクサンダーの遺産を保管させられたフィレタイロスは、ペルガモンの防衛しやすい地理的条件を見抜いた。この有能なフィレタイロスによってペルガモンの新しい時代が切り聞かれたのだった。


ペルガモン

ローマ帝国の時代

 アタロス三世の遺志では、ペルガモン王国の請都市は独立を保ちながらローマに経済的に服属し、王の私的財産、王冠や財宝、土地をローマの人民に贈るという条件だった。しかしローマは、これをペルガモン王国のすべてを譲るものと解釈し全国土を要求した。

前129年執政官M.アキラが10人の元老院議員と共にペルガモンを訪れて事態をおさめ、新規の行政機構を造り上げた。アタロスの遺志は曲げられ、国家の財宝もローマに送られた。このようにして最初のローマ帝国アジア州が誕生した。旧ペルガモン王国の人々の反抗は長く続き、ようやく落ち着いたのは皇帝アウグストゥスの時代だった。

 アウグストゥスは紀元前31年と20年にペルガモンを訪問している。この時の皇帝の温厚な扱いに感謝した市民は、皇帝とローマ帝国に捧げる神殿の建立を願い出て許可された。そのアウグストゥス神殿とディア・ローマ神殿の跡は確認されていないが、ネオコロス、つまり皇帝神殿を建立する勅許を得た都市としてペルガモンは大きな栄誉を受けたのだった。その後のペルガモンに建てられる碑文には、ネオコロス ペルガモンという文字が誇らしく加えられることになる。

 紀元後14年にアウグストゥスが亡くなり義理の息子ティベリウスが皇帝となった。17年に西アナトリアを襲った大地震でペルガモンも大きな被害を受け、ティベリウスは税を免除するなど被災地の援助に力を入れている。

 皇帝トラヤヌスの時代に、ペルガモンは再び皇帝神殿を建立する。アクロポリスの丘の絶景の地に建てられたそのトラヤヌス神殿は、近年修復作業が進められ、当時のペルガモンの栄華を忍ばせてくれる。

 皇帝ハドリアヌス(117-138)の治下、エジプトの神に捧げる神殿(通称赤い館)を建立するなど、ペルガモンの町はかつての賑わいを取り戻し、アスクレピオンも近代化され世界一の医療センターとして人気を集めていた。 166年にはこの地方にペストが流行した。

「偉人なるゼウスよ。疫病がアスクレピウスの都市を破滅させようとしています。我らを救いたまえ。」と記された碑文が発見されている。

 ローマ皇帝カラカラはトラキア遠征の帰途、ガリポリで事故のため重傷を負った。ペルガモンのアスクレピオンで治療を受け、回復した彼は、ディオニソス神殿を大理石で立派に改築し、ペルガモンの町に感謝を示している。

 この当時、ペルガモンの町は人口15万人に増え、アクロポリスの丘から麓の平野へと急速に拡大し、商工業も大きく発展している。

ペルガモン

ビザンチン時代

 イエス キリストがエルサレムで十字架刑に処せられて後、弟子の聖ヨハネは聖母マリアを伴いエフェソスに移ってきた。高齢にもめげず、エフェソスを中心としたヨハネの布教活動が始まり、ペルガモンやスミルナにも信者組織ができていった。新しい宗教、キリスト教に対しては激しい弾圧がなされていた時代である。ヨハネもローマに連行され拷問を受けている。ローマからパトノス島へ流されたヨハネはそこで黙視録を書き上げた。アジアの各都市、エフェソス、スミルナ、ペルガモン、サルディス、フィラデルフィア、テアテラ、ラオディキアのいわゆる小アジアの7つの教会については黙視録にもでている。

聖パウロもこれらの小アジアの7つの教会やペルガモンのキリスト教信者について記している。ペルガモンは多神教の盛んな土地で、キリスト者に対する迫害も行われていたから、ヨハネは黙示録の中でペルガモンを“悪魔の座”と呼んでいる。

 3世紀の退廃したローマ帝国では、闘士と猛獣の戦いなどに人気が集まっていた。皇帝ディシウスは闘技場で3人のキリスト教徒を猛獣の餌食にさせたが、これは大きな反響を呼び起こした。皇帝ディオクレティアヌス(285-305)の頃にはペルガモンのキリスト教社会はささやかなものだったが、テオドシウス帝(379-395)の時代にはエフェソス、スミルナ、トラレスと並んで4大クリスチャン都市となっていた。しかし、ビザンチン時代のペルガモンは古の栄華は失われ、エフェソス主教区に組み込まれている。


ペルガモン

 7、8世紀になると、他のアナトリア請都市と同様に、海と陸の両面から攻めてくるアラブの勢力におびやかされねばならなかった。ペルガモンも他の町も、次第に縮小される市街地に合わせて新たな城壁が作られた。現在残るペルガモンの城壁はその当時のものがほとんどである。

12世紀、ヘレニズム時代やローマ時代に比べたら、ほんのわずかの人々がアクロポリスの丘やケティウスの谷に住んでいた。14世紀にトルコ族がやってきた時にも、ごく少数のキリスト教徒が暮らしていたにすぎなかった。しかし、中央アナトリアヘの幹線道路に位置していたため、間もなくペルガモンは活気を取り戻し、セルジュク、オスマントルコの平和な時代、交易が盛んになって町は賑わった。当時の公共建築やイスラム建築が今日にまで残されている。


ペルガモンの発掘

 イスタンブルーイズミール間の鉄道建設に携わっていたドイツ人カール・フーマンが、工事現場から出たフリーズ(建物の小壁)の破片を目にした時が、古代都市ペルガモン発見の第一歩だった。

フーマンはそれをベルリンに持ち帰り、考古学者のアレクサンダー・コンツに見せた。コンツは直ちにその破片の持つ重大な意味を悟ったのだった。翌年、オスマントルコ当局からの許可を得て、1877年には破片が見付かった辺り、ゼウスの祭壇周辺の発掘が開始された。

その後アテナ神殿、劇場、土のアゴラ、ディオニソス神殿そして王宮の跡が発掘により判明した。たくさんの彫像や小品が次々に掘り出され、ベルリンに運ばれて行った。

 1900年、ウイルヘルム・ドープフェルトが発掘の責任者となり1913年までの間に体育館、ヘラ神殿、下のアゴラ、アクロスの家、そしてデメテル神殿が発掘された。又、彼はペルガモン南部の古墳も幾つか調査している。1927年から38年まで発掘の指揮を執ったのはテオドール・ウィガドだった。アクロポリス北端の武器庫や、王家の社一帯、デメテル神殿の境内が発掘されている。

 トルコ共和国になってからの出土品は、初代大統領アタチュルクの指示とオスマン.バヤトルの尽力によりベルガマに集められ、収集展示のためにベルガマ博物館が建設された。

 1957年にはエリッヒ・ボフリンガーが発掘調査にあたり、アスクレピウス神殿の一帯と下のアゴラ、その近辺の住宅跡を発掘した。1972年からはウォルフガング・ラットを中心にペルガモン北部の聖域カプカヤ(岩の門)、それにアクロポリスから下の平野への道路に沿った住宅や公共建築物が調査された。それと同時にトラヤヌス神殿の修復工事も始められた。1977年以来、トルコ文化観光省のセラハッティン・エルデムギルの下で、陶房のあった一画の発掘も行われている。これはアクロポリスの東を流れるケティウス川の岸辺にある。


ペルガモン

城壁と市街

 最初のペルガモンの城壁は紀元前4、5世紀に遡る.アクロポリスの一番高い所に、不揃いな石を積んだ城壁がごく一部だけ残るのがそれである。アクロポリスの北部、武器庫と王宮、アテナ神殿がこの城壁で囲まれていた。小さな砦のような形のメイングートがアテナ神殿の南側に位置していた。このあたりは現在“中の砦”と呼ばれている。この門の東側には角型の塔があった。

 この最初の城壁はフィレタイロスの時代に南に拡大して再建された。防衛、特にセレウコス朝の攻撃に備えた処置だった。デメテル神殿と体育館北側に残る城壁がこの時のものである。ストラボンの記述によると、ペルガモンの城壁は何度も作り替えられたが、最後のそれはエウメネスニ世の治下、アクロポリスの丘の南側麓にまで拡張されたという。その内部面積は222ヘクタールに及び、多数の塔で強化されていたが北と東は急な地形で守られていたため塔は設計されなかった。南西と南側には城壁の名残は見られない。

 ローマ時代になると、町は南西側、丘の麓に向かって拡張していった。そのあたりの城壁は崩され、石は建材として利用されたのだった。エウメネスの城壁には東、北、南にそれぞれ門が設けられていた。正門は南側の門だったらしく、ヘレニズム期の特徴である中庭付きの美しい門である。その基礎の跡はアクロポリスヘのアスファルト道路の登り口に近いジャーマンハウス(発掘隊の家)近くに残っている。中央の方形の中庭は高い壁と3つの塔に囲まれていた。この門から市中に入る道はS字型に大きくうねり、アクロポリスヘと続いていた。中庭には歩行者用と車馬用と2つの門があった。ヘレニズム期によく見られたこの種の中庭を備えた城門は、防衛上の利点を持っていたのである。城壁のウイークポイントである城門に塔を備えた中庭を設計して、もしも敵が門から雪崩れ込んできても、中庭に閉じ込めて高い塔や城壁の上から攻めることができたのである。

 ペルガモン王国時代、町は順調に発展し、王や王妃は次々と新しい建物を建設した。紀元前2世紀には、町は丘の上の上市と中腹から麓に広がる下市に分けられた。政治、軍事の要所は上市で、北側に兵舎や武器庫が置かれ、丘の東側に王の館が、宗教施設や劇場は西に位置していた。町の中央を走る人通りが行政区と宗数的地区とを区切り、上市は劇場を要として扇のように設計されていたことになる。

 一般の人々はアゴラ(広場、市場)や体育館、デメテル神殿などのある下市一帯に住んでいた。

 ペルガモンの町はテラス状の段丘をそのまま利用して建設されていた。南のエウメネスニ世の城門からのメインストリートは大きくうねりながら上市へと続き、細い小道が階段状に分かれ出て建物を結んでいた。1階又は2階建てのストア(柱廊)や回廊がテラスの壁を利用して建設されるなど土地は効果的に利用され、それが又、ペルガモンの町造りの特長の一つとなっていた。

ペルガモン

ヘルーン(王家の社)

 アクロポリスの駐車場からコンクリートの坂道を登る時、左手に広がる遺跡はアタロス一世(前241一197年)とエウメネスニ世(前197-159年)の栄誉を記念して建設した社(やしろ)だった。ヘレニズム時代には英雄は死後もあつい尊敬を受け、この世での罪は清められ神格化されてヘルーン(社)にまつられ信仰されたのだった。

 ペルガモンのヘルーンは中庭を小部屋が取り巻く形で、これらの小部屋は祭りやその他の目的に使われた。大理石のドーリア式円柱が中庭を囲んでいたが、東側には円柱ではなく大い角柱が使われていた。その後ろの広いホールは儀式の際にみんなが一緒に食事をとる広間でこのホールの東にあった6×2mの小部屋の東壁に、神像を安置する壁龕が設けられていた。

 ローマ時代になるとヘルーン、特にこの小部屋は大幅に改造され、12×13mの大きなホールとなり、壁痛のある壁には狭い腹壁が据えられ、壁は大理石張りとなっている。部屋が広くなると同時に天井も高くされ、コリント式の柱頭が壁の上部に据えられて、部屋は二階建てのように演出された。こうして祭りの間は円柱の並ぶ塔に似たものとなった。

 発掘の中で、同じ場所に他の社や住宅があった事が判明した。これらの住宅の一つが、町の水道管理に従事する役人の住まいだったことを示す碑文が出土し、水道管や貯水槽もその近くで発見された。

王宮

 アクロポリスの駐車場からのコンクリート道路は土の要塞の門の跡まで続いている。門は崩れ落ち、東の塔のみ残っているが、地元産の安山岩を使ったこの塔には、古代の巧みな建設技術がうかがえる。ビザンチン後期まで、この塔から伸びる城壁は様々な技法や材料を用いた修復が無造作に繰り返されてきた様子がわかり、興味を引く。

 この門を入ると左手にアテナ神殿やトラヤヌス神殿などが広がり、右手は城壁に沿って王宮が建っていた。その土台は今日も残されている。この王宮が壊されたのはローマ時代だった。特にトラヤヌス神殿の建設にあたり、取り壊された石は建材として利用されていた。


ペルガモン

 ヘレニズム時代の住宅建築では中庭式の設計がもてはやされ、ペルガモンでもほとんどの家が中庭を設けていた。アクロポリスの丘の住宅の中でも王宮の破損はいちじるしいが、その床面の様子は今も伺うことができる。およそ40から50平方メートル又はそれ以下の小さな中庭を中心に居間、食堂、寝室、召使の部屋などが並んでいた。遺構から推定して、王宮内部の壁はフレスコ両やモザイクで飾られ、外壁はシンプルなものだったらしい。窓はなく、吹き抜けの中庭から採光していたが幾つかの部屋は薄暗かったことだろう。

 王宮跡からの出土品によって各時代を推測すると、一番高い場所にあるのがペルガモンの建国者フィレタイロスの住まいだった。その後このあたりは駐屯地に変えられ、フィレタイロスの館も兵舎として使われた。]王宮が兵舎に転換された時、東側の城壁との間に一列に小部屋が建設された。今は土台が残るのみだが、これらの部屋からは武器の破片などが発見されている。

 アタロス一世、エウメネスニ世、アタロスニ世の館はフィレタイロスの館の前の階段状の道に沿って並んでいた。そのうち、一番目立つのは南側の建物である。ここからはゼウスの祭壇の建材の一部が発見され、この宮殿が前]60年に建てられたことが判明した。北東の隅からは祭壇とヘバイストスのサインのあるモザイクが発見されている。

 王宮から東に連なる城壁には塔が設けられ、その隣は空き地になっていたが、その空き地がどのように使われていたのかはまだ解明されていない。現在、プレハブの建物が建っているここはアクロポリスの北からの水道橋が要塞に達する地点に当たるので、市中への水の供給と関連した施設があったのではないかと推定されよう。事実、円形の水槽がかなりよく保存されて残っている。


武器庫(軍用倉庫)

 王宮から北に小道をたどると、5棟の建物が平行に並ぶ武器庫の跡に出る。今は土台が残るのみだが、その跡を見ると建物の壁はぴったりとくっつくように並び、がっしりした構造だったと推定される。ここには武器や武具ばかりでなく、食料なども蓄えられていた。換気も考慮されていたから、長期間にわたって食糧を保存することもできたことだろう。

今日、下のアゴラに並べられている13個の様々な石の砲弾はここの発掘で見付かったものである。城壁の上に据えた砲台から投げ込まれる石弾は、敵を撃退するのに大きな効果があったにちがいない。この建物ができたのは紀元前2,3世紀で古代世界最古の軍用倉庫といえるものである。この地方では、ローマ帝国時代に軍の本営があった所からも、似たような貯蔵庫跡が発見されている。

水道橋

 海抜300m以上の高地に位置する都市ペルガモンに水を供給することは常に大きな問題だった。ヘレニズム時代以前からあった貯水槽では、町が大きくなると不十分だったので紀元前2世紀、44km北のマドラ山(T50m)の泉から水を引くことになった。アクロポリスの北部376mの丘の上の貯水槽まで3本の水道が引かれ、そこから鉛管を通してアクロポリスの各所へ配水された。長さ50-75cm、直径16-19cmのパイプが20万本以上も使われ、毎秒45リットルの水が引かれていたことになる。

 武器庫跡から北方を見下ろした時に目に入る水道橋は2世紀、ローマ帝国期にペルガモンの町が下の平野にまで拡張された頃に建設されたものである。当時、増大する需要に対してソマ地区にも新たに水道が建設された。ソマのカイコス川の水源からの水は53kmの距離を水道とトンネルで町へと運ばれた。水路の直径は平均90cmだった。

 一方、イリヤス川にかかった水道橋は長さは550m、高さ40mの大規模なもので、世界でも最も印象的な水道橋だった。いずれも今日では、そのごく一部が残されるのみである。

 178年の大地震はペルガモンの水道橋にも大きな被害を与えた。災害の後、マドラ山からの水道橋の下の層にリバース式の取水塔が建てられた。ソマからの水路はルート変更され、水道橋は撤去、新たなトンネルが聞かれた。中にはアクロポリスの西の麓をめぐり下市まで続くトンネルもあった。ソマからの水は王宮の北端から町に達し、普通ここの貯水槽から小さな粘土のパイプで各所に配水されていた。


トラヤヌス神殿

トラヤヌス神殿と皇帝崇拝

 王宮の西にトラヤヌス神殿の華麗な大理石の列柱が我々の目を引く。ローマ帝国時代、皇帝に神殿を捧げるのは選ばれた都市のみに与えられる大きな栄誉だった。このネオコロス==皇帝神殿を建立した都市としての許可を得るために帝国各地の大都市はしのぎを削った。ペルガモンもエフェソスやスミルナ(イズミール)と金に糸目をつけず張りあった。ローマにとって、これは属州の非ローマ市民をまとめる政治的意味があった。初代ローマ皇帝アウグストゥスはビティニアのニコメディアと小アジアのペルガモンに、ローマの守護女神ディア・ローマ神殿と並べて建てる、という条件付きでアウグストゥス神殿建立を許した。ペルガモンには既にディア・ローマ神殿ができていた。

 アウグストゥスが亡くなると、ペルガモンの人々はネオコロスの資格と、エフェソスやスミルナなどライバル都市に対する優越を失う恐れを感じ、新しい皇帝の勅許を得るために粘り強く運動して、ついに皇帝トラヤヌスから許しを得たのだった。ところが不幸にも117年、その神殿の完成を見ずして皇帝トラヤヌスは世を去った。再び危機に直面したペルガモンだったが、後継者のハドリアヌス帝の理解を得て建設は続行された。完成すると、人々はトラヤヌスと共にハドリアヌスの像も安置して感謝を捧げた。これらの像の一部と見られる大理石片が発掘で発見されている。

 ペルガモンの皇帝神殿は信仰というよりも、都市の力を示す場にすぎなかった。ローマ時代の皇帝崇拝は最後まで真の信仰とはほど遠いものだったのである。

 アクロポリスの丘の中でもトラヤヌス神殿の立地条件は最高である麗まで市街が広がっていたローマ時代、町のどこからもこの白い大理石の壮麗な神殿を仰ぎ見ることができた。それはV字型の急斜面に建てられたが、神殿と境内を配するためにアーチ型の丸天井の建物を設計してテラスを作っている。神殿の敷地となる以前、ここには一般市民の住宅があったことも発掘により明らかになった。東部分には王宮に付属した建物もあったらしい。

 高い腰壁に乗った神殿は平野を見下ろしていた。アクロポリスのほとんどの建物は灰色やピンクがかった安山岩でできていたので、白大理石のこの神殿はかなり遠くからも人目を引いたに違いない。

 トラヤヌス神殿は周柱式建築で、コリント式柱が6×10本並び、3方を回廊が取り巻いていた。北側の柱の土台は他の側よりも5mも高く据えられ、下から仰ぎ見たとき、よりいっそう豪壮なものに見えるのだった。北側回廊の西端に半円形の壁龕と像の台座が、東の端にも台座の跡が確認されている。

 この神殿は現在、オリジナルに沿った修復作業が進められている。

アテナ神殿

 ペルガモンの劇場の上の広いテラスに位置するアテナ神殿は紀元前4世紀、ペルガモンの神殿としては最古のものである。6X10本のコリント式柱が並んでいたが、今日では土台しか見る事ができない。これも貝柱式神殿で、奥の院は2つの部分に分けられる。12.72×21.77mの広さで2段のクレピドーマが、安山岩でできた神殿を取り巻いていた。ほっそりした高い柱の間にメトープ(2本の縦筋装にはさまれた面)がついていた。ここの発掘で出土した円柱や軒の破片はベルリンに運ばれた。

 エウメネスニ世はガラティヤ人、セレウコス朝、マケドニアとの戦いの勝利を記念して、境内の北と東に二階建ての回廊を建設した。東側の二層の柱からなる前門が境内への入り目で、この前門はベルリンのペルガモン博物館に再建されたが、それによると回廊と同様に下の柱はドーリア式、上の柱はイオニア式になっていた。中央の2本の柱の間の間隔は他よりも大きい。上下の柱の間におかれた軒縁には銘が刻まれ、「王メネラウスより、勝利を授けてくれた女神アテナヘ」と記されている。

 北回廊の一階は中央に並ぶ円柱で2つの部分に区切られる。古代の歴史家プリニウスによると、この回廊の後方の壁には壁痛が設けられ、エピゴノス、フィロマキオス、ストラトニコス、アンティゴノス等の手による彫刻や浮き彫りで飾られていたという。二階には同じ芸術家による、ガラティア人の武器を表した浮き彫りがあった。ローマ時代になると、皇帝アウグストゥスのブロンズ像が境内中央の大理石の円形台座に置かれていた。ガラティア人との戦いで奪った武器や武具がその隣の台座に展示されていたという。

ペルガモン図書館

 アテナ神殿境内の北側回廊に隣接して、エウメネス二世が建設した図書館は学問芸術の都市ペルガモンの誇りでもあった。その遺構を検証すると道路にも広場にも接していないことからして、アテナ神殿北側回廊の二階から図書館に入る設計になっていたらしくドアも窓も回廊に面していた。4つのホールが続く形で、東端のホールは13×16mで一番広く、閲覧室として使われていた。木製の書棚が置かれていた跡を示す穴が今も確認できる。側面の壁は2別に分かれ、湿気から書物を守るための隙間が設けられていた。これは古代図書館に共通した特徴である。

 閲覧室の北側壁の前の台座に立っていた女神アテナの像は、ベルリンのペルガモン博物館に運ばれ公開されている。台座を含めた高さは4.5mという大きなもので、アテネのアテナパテノスの像と同じ形だった。像の大きさから考えるとホールの天井の高さは6mと推定されている。他の部屋には書棚を置いていた痕跡を示すものはない。

 ペルガモン図書館は20万巻もの蔵書を誇る、古代財界に有名なものだった。おそらくこの近くに書庫のような別館もあったと思われる。エジプトのアレキサンドリア図書館はその世界一の地位をペルガモンに脅かされそうになると、パピルスの輸出を止めてライバルを困らせようとした。それに対してペルガモンの人々は羊皮紙を考案して乗り切ったのだった。英語のparchment=羊皮紙の語源はペルガモンにあるという。


パピルス

劇場とディオニソス神殿

 古代ペルガモンではその長い歴史を通じて、3つの劇場が建設されたが、最も重要なのがこのアテナ神殿の西の斜面に展開するヘレニズム時代の劇場である。ローマ帝国時代に改修されているが、扇型に上に向けて広がり、観客席は2つの踊り場で大きく3つに分かれている。収容人員は1万人だった。下の方に設けられた貴賓席は大理石造りで一般の席は粗面岩と安山岩でできている。観客席の最上階とアテナ神殿との境界には、アーチや壁翁を備えた壁をぐるりと回すことによって、豪華な雰囲気を出すと同時に音響効果を高めていた。その壁の南側の一部が今日に残されている。この壁と貴賓席、ステージビルの石の腰壁はローマ時代の改修の際に作られたものである。

 合唱隊の立つオーケストラとステージビルは、下の劇場テラスと呼ばれる平坦な地に作られている。ヘレニズム時代の劇場のほとんどに見られるように、ここでもステージビルと腰壁は木造だった。ステージを支える太い木の支柱の跡を示す溝が残っている。劇場テラスの北の端にあるディオニソス神殿の眺めを邪魔するため、芝居が終わるごとにステージビルは解体され片付けられるのだった。

 劇場テラスは250mの細長い廊下のように走り、その両側には商店や柱廊が並んでいた。西側の回廊には地下室が設けられ、取り外したステージビルはここに収められていたらしい。

 劇場の出入り目は南の端にあった。3本の通路に分かれた立派な門だったが、今は何も残っていない。

 劇場の底部に伸びる、いわゆる劇場テラスの北の端にディオニソス神殿があった。もともと演劇は神ディオニソスに捧げる儀式に源を発したものだったから、劇場の近くにディオニソス神殿が建てられた例は各地に見られ、演劇の前にディオニソスに犠牲を捧げる神事がそこで執り行なわれるのだった。

 最初にここに神殿が建てられたのは紀元前2世紀のことで、地元産の安山岩を使った前柱式建築のイオニア式神殿だった。ローマ皇帝カラカラはトラキア遠征の帰途、ガリポリで海難事故のため重傷を負った。ペルガモンのアスクレピオンで治療を受け、全快した皇帝は感謝を示すため、アスクレピオンを援助すると共に、自らの像を建てている。その頭像はベルガマ博物館に展示されている。又、ディオニソス神殿を大理石の立派なものに改修したので、ペルガモン市民は彼を新ディオニソスと称え、敬意と親しみを示したという。

ゼウスの祭壇

ゼウスの祭壇(大祭壇)

 アテナ神殿の南側、一段低くなったテラスにゼウスの祭壇跡がある。70×77mの敷地の東にその前門が建っていた。このゼウスの祭壇は下市はもちろん、西のセリヌスの谷からも東のケティウスの谷からも良く見える位置にあり、ヘレニズム時代のペルガモンの最も重要な記念碑的建物だった。

 前190年、ペルガモン王国の黄金時代を築いたエウメネスニ世が宿敵ガラティヤ人との戦いの勝利を神に、特にゼウスとアテナに感謝して捧げた祭壇である。長い年月の後、ドイツの鉄道技師カール・フーマンが偶然にこの祭壇やヘルーン、上のアゴラなどの建物の一部を発見したのは1871年の事だった。その後、続々と重要な発見が相次ぎ、出土した品はベルリンに運ばれていった。現在、ゼウスの祭壇も復元されてベルリンのペルガモン博物館の人気を集めている。そしてここ、アクロポリスの祭壇跡では松の古木の下に土台のみが寂しく残されたのだった。オリジナルの祭壇は3つの部分に分かれていた。5段になったクレピドーマ、その土にフリーズ(小壁)の土台、そして見事な高浮き彫りに飾られた高さ2.3mのフリーズがあり、その上にドーリア式の回廊が取り巻いていた。この祭壇は西側が開いた馬蹄型で、20段の階段を登ると円柱に囲まれた本殿があった。

 36.44×34.21mの白大理石の壮大な祭壇の最大の見どころは外側のフリーズに描かれた浮き彫りである。長さにして120mの壁いっぱいにヘレニズム期の最高傑作といわれる浮き彫りが施されていた。描かれたテーマはオリンポスの神々と巨人族や冥途の一族との戦いの勝利である。東側には主神ゼウス、ペルガモンの守護女神アテナそれに日の出と関連してアポロンとアルテミス、そしてこの双子の母レトなどが描かれている。北側に美と愛の女神アフロディテ、星の神オリオン、運命の女神モイライ、夜の女神ニュクスなどが見える。オケアヌス、アンピトリテ、ネライド、トリトンといった海と関係のある神々は西側、つまり海の方向に、馬車に東った太陽の神ヘリオスやあけぼのの女神、月の女神たちは南側に描かれていた。

 回廊内側にはペルガモンの伝説的建国者とされている、ヘラクレスの子テレフォスの生涯を示す浮き彫りが描かれていた。このように、古代の神々が一堂に描かれているという点ではヒッタイトの部ハットゥシャシュの近く、ヤズルカヤの屋外神殿を連想させる。

 馬蹄型の祭壇はマグネシアとプリエネでも発見されているが。最も古いのはサモス島のヘラ神殿の祭壇である。これらの祭壇は神殿の前に置かれるのが普通だったが、ペルガモンでは独立した祭壇として神に捧げられたのだった。規模の点でも建築学的にも、芸術的観点からもペルガモンのゼウスの祭壇は古代世界の美がみごとに調和した、記念すべき傑作だったといえよう。


上のアゴラ

 ゼウスの祭壇の南にペルガモンの二つのアゴラ(広場又は市場)のひとつ、上のアゴラがあった。古代都市のアゴラは、普通長方形や正方形だったが、ここではL字型の設計になっていた。町の真ん中を通るメインストリートがアゴラを2分して突き抜けていた。アゴラの東側と南側は柱が並ぶ回廊となり、その後に商店が軒を連ねていた。南側の回廊は斜面になっていたので地下街風の下の回廊も造られた。ここは上の商店の倉庫として利用されていた。アゴラの西部分に祭壇を備えた小さな神殿がある。ドーリア式とイオニア式がミックスした前柱式神殿だった。その近くにも神殿かと思われる建物跡があるが、まだ解明されていない。

 北東コーナーに建つ半円形の後陣のある建物を別として、上のアゴラはヘレニズム期の建築である。後陣のある建物はローマ時代に改築されている。このような建物は古代アゴラにはよく見られたものだがその機能は明らかになっていない。毎日、一定の時間に役人がここに座って市民の相談ごとにのっていたともいわれている。

 上のアゴラの約100m南、下に向かう道路に沿って浴場があった。温浴室の他はすべて完全に崩れてしまったので、どれがローマ時代かなど確認できない。円形の温浴室には南側に壁癩がついている。浴場が建つ以前のものと見られる床モザイクが発見されている。


アクロポリス

小体育館(浴場、音楽堂、ヘルーン)

 浴場から石畳の古道に沿って150mほど下ると建物の跡が集中している一画がある。最近発掘も終り、一部は修復も行われたここは浴場、小音楽堂(オデオン)、社(ヘルーン)が一つの屋根の下に並び、小体育館として使われていた跡である。浴場はメインストリートと北への細い小道の間にあり、入り口の左に方形のトイレットがあるが、かなり破損している。トイレの下の下水道はメインストリートの下の木管に合流していた。浴場の中央を占める冷浴室は中庭風の大きな建物だった。北側の壁に接して半円形の冷水プール、その上方の水を溜めておいた場所は良い状態で残っている。壁と床は水に強い漆喰が使われている。冷浴室の南に円形の熱浴室があり、その下の焚口はメインストリートに面していた。

 西側の道に面して、同じ規模の商店が2軒並んでいた。焚口に隣接して東に建つ一連の建物はヘルーンの台所、倉庫として使われていた。修復に際して道路脇の建物は屋根で覆われている。冷浴室には西向きに2つの入り口がついている。その一つから出ると上にはオデオン(音楽堂)があった。このオデオンは小規模ながら観客席の保存状態は非常に良い。半円形のオーケストラの真ん中から階段が上に伸びて、弓形の観客席を2つに分けている。

 オデオンの隣の大理石のホールは、ペルガモンの慈善家として知られるダイドロス・パスパロスをまつった社だった。方形のホールの北壁には三角のフロンタルのついた壁龕が設けられ、ダイドロス・パスポロスの像が安置されていた。今日ここにあるのはコピーで、オリジナルはベルガマ博物館に展示されている。この人物は紀元前70年頃の人なので、オデオンやへルーンの年代も推定できる。このへルーンの壁も床も大理石で、闘鶏を描いたモザイクや、ディオスクーロイ(ゼウスの息子たち)の星の飾りのついたヘルメット、刀、鎧や槍が壁パネルに描かれている。これらのパネルはコピーであるが、本来は長い壁にそれぞれ9枚のパネルがはめ込まれていた。これらはダイドロス・パスポロスより後の時代の作でもある。17年の大地震の後、皇帝ティベリウスはペルガモンに復旧援助金を送り免税措置をとっている。おそらくその時に、パネルも新規に作り替えられたのだろう。近年の修復作業の中で、東のファサードは豊穣のシンボル、ファロスの浮き彫りで飾られた。このへルーンと音楽堂は4世紀まで使われていた。

食堂と商店

 アクロポリスの南麓、エウメネスニ世の門から頂上まで続く大通りの両側に平屋や二階建ての商店が並んでいた。このうち、ヘルーンの側に並ぶ何軒かの跡は発掘も終了している。

 ヘルーンに隣接した商店は2つのセクションから成っていた。奥の方の北側壁の岩に掘られた壁癩から、グリルの跡と土に混じってチキンその他の鳥、豚などの骨が発見された。ここには簡易食堂があった。隣接した2つの続き部屋からなる建物も同じような食堂だったと考えらるが、後に他の目的に変えられたらしくひどく破損している。3軒目の店からは、床下の柔らかな岩を掘った穴にはめ込まれた大きな土器の壷が発見されている。壁に備えられたカウンターは、ここでワインやオイルも売られていたことを示している。

アクロポリス

ディオニソス神殿と腹壁のあるホール

 3軒目の商店の東側の狭い階段を登ったテラスにディオニソス神殿があった。ペルガモンの、特に一般庶民の間で根強い人気があったディオニソスはワインと自然の神として知られるが、その偉大な力は自然と人間の間を取り持つ事にあった。自然の秘密を知る事、すなわち神格を得ることを人々は切望した。そしてディオニソスはワインで酩酊することで、その神秘の門を開いてみせた。信者たちは神殿に集いワインの敷かれた床や大理石の腰壁に座ったり、寝そべったりしながら、飲んで酔ってエクスタシーを味わうのだった。

 ホールは広さ24×10mで、高さ1m、幅2.5mの腰壁がこのホールを取り巻いていた。壁にはディオニソス信仰と切っても切離す事のできない葡萄のフレスコ画が描かれていた。中央の祭壇には神に捧げる供物が置かれ、北側の壁癩にはディオニソスの像が安置されていた。正面には土を敷いたテラスが、西側には儀式の前に身を清める泉、東にはサービスのための部屋があった。

 ディオニソス神殿から細い道が上に延びている。その東側に一部修復された大きな中庭式住宅と浴場がある。ヘレニズム時代に建設された住宅をローマ時代に拡張して浴場も増築したのだが、その結果、東からの道は浴場と水槽の下になってしまった。

 大通りの側の荒廃した遺構は商店とその背後の住宅の跡である。その中の、アーチが修復されている建物は泉で、貯水槽は背後の岩を掘って作られた。

キベーレ神殿(メガレシオン)

泉の近く、道路の右側に発掘された中庭式の住宅がある。ヘレニズム時代の建築を4世紀に改築し、骨細工その他の工房として使っていたらしいが、さらにその後、その上に他の建物が建設された跡がある。

 ここから100mほど下手、右側にも中庭式住宅風の大きな建物跡があり、今世紀半ばに発掘も終わっている。これは普通の住宅にしては大規模で設計も異なっていることから、地母神キベーレの神殿(メガレシオン)だったと推定されている。


 キベーレはアナトリア最古の女神で、その主な神殿はアンカラに近いシヴリヒサルのペシヌスの遺跡で発見されている。このあたりでキベーレ信仰が始まっガのは青銅器時代だった。ペシヌスでは、人々はディオペデス(空の女神)の姿に似せた限石を、地母神キベーレとして長い間崇拝していた。この神像はペルガモン王国のアタロス一世の時代、ローマに運ばれていった。ローマの対カルタゴ戦の勝利を祈願するためだった。ペシヌスの神殿から厳粛な儀礼とともに、ペルガモンのこのメガレシオンに運ばれ、1年間をここで過ごした後、いよいよローマに渡ったのだった。

 中央に大きな中庭があり、その東の列柱の奥に神像安置所があった。


デメテル

デメテルの神域

 小体育館や商店の下の古代のメインストリートを横切り、下のテラスに移ると広々とした美しい遺構が目に入る。これがデメテル神殿の神域で、その起源はフィレタイロス以前にまで遡る古い歴史を持つ。神殿そのものの位置は変わっていないが、紀元後3世紀まで何度も建て直され、ペルガモン市の拡大に伴い、境内のテラスも4度にわたって南側に拡張された。様々な様式の壁がそれを証明している。神殿の側に「ボア デメテル」の文字を記した石が見える。この銘は紀元前3世紀、フィレタイロスと弟のエウメネスが母親のボアを記念して建設した事を示している。当時のペルガモンでは、次々と大きな建物の改築が行われていたのだった。同じ頃、コリント式の柱は大理石に変えられた。デメテル神殿は前柱式建築で、東側ファサードと前門との間に祭壇が5つ並び、正面の祭壇が一番大きかった。このしゅろ飾りのついた祭壇はヘレニズム期のものだが、近年修復がなされている。他の4つの祭壇は土台が残るだけである。

 携帯の3方を列柱が取り巻いていた。南側の柱廊はアタロス1世の妻アポロニスが建設したものである。境内を拡張するため、彼女は南側のテラスの壁の前に新たな壁を築き、古い壁の前に柱廊を建てたのだった。王妃はまた境内入口にしゅろの葉飾りのついた柱を用いた前門を建てた。これらの柱も最近修復されている。

 境内の北の端には競技場のように座席が並んだ一画がある。儀式の際に信者達がここに集うのだった。大地の女神デメテルに捧げる秘儀は深夜に行われた。最も良く知られているのは、毎年10月に行われるテスモフオリアの祭りである。これに参加できるのは既婚の女に限られ、女神デメテルとその娘ペルセポネに捧げる特別な祭儀だった。境内から発掘された浮き彫りに、デメテル神が松明を手に祭壇の側に立っている様子が描かれている。このレリーフはベルガマ博物館に保存されている。

 境内入り口の前には、願掛けの井戸があった。祭に参加するため、あるいは願い事のために神殿を訪れた女達は粉菓子、鶏、豚などの供物をここに捧げたという。南側柱廊の前に一列に並ぶ碑文は、女達が祈願や感謝をこめてここに奉納したものだった。前門の隣の泉は他の神殿にも見られるように儀式の前の泳浴に使われていたものである。

 前門の北、斜堤のついた道に残る遺構はペルガモンのプリタニオン(市役所)の跡と推定されているが、これまでのところ実証する遺物は発見されていない。

ヘラ神殿とその神域

 デメテル神殿の南側に広大な場を占めているのがペルガモンの体育館で、この体育館の北、高さ50mの狭いテラスに女神ヘラの神殿が建っていた。ここまで、デメテル神殿境内からも小道が通じている。

 ヘラ神殿はドーリア式の前柱式神殿で、幅広い階段がついていた。狭い柱廊が周りを囲み、その西側の階段の上には半円形の壁龕があり像が置かれていた。

 奉納文によるとこの神殿はアタロスニ世(前159-138)が建立したという。内陣から背の高い像の一部が発見されたが、これは女神ヘラの夫ゼウスとも、あるいはアタロスニ世とも考えられている。

 ヘラ神殿を下から見上げると、その正面に建つ体育館と完全に調和した建物だったことがわかる。この調和を考えたからこそ、狭いテラスに建設されたのだった。

 ヘラ神殿から体育館に下るとき、西に見えるのは後に建設された前柱式神殿の跡である。ここで出土した像から、この紀元前2正規の神殿は医神アスクレピウスに捧げたものだと判明した。


デメテル

体育館

 ペルガモンの体育館は広大な3段のテラスを占めて建つ壮大なものだった。一番上のテラスは年長者、中のテラスは若者、下のテラスは少年達のためだった。

 上のテラスは一段と広く、構造も複雑になっている。中央に柱で囲まれた中庭があり東と西には浴場がついていた。西の柱廊の真ん中に競技の前後に水浴びする一両があり、アーチのついた泉と大理石製の浴槽があった。北側回廊の後ろにまず見えるのは講堂、小劇場風に半円形に座席が並び、1000入収容できた。木造の腰壁は崩れているが5つの出入り口はよく保存されている。古代劇場のステージビルに見られるように、中央のドアは左右のそれより大きく設計されている。観客席部分を拡張するために、講堂の両脇に丸天井の建物が造られ、いっそう劇場風の外観となっている。東側の丸天井は保存状態が良い。

講堂は後に貯水池として使用されたらしく、石灰の跡が壁に残る。

 碑文や建築様式から、北側回廊の半円形の壁龕のついた部屋が皇帝ホールだったと推定されている。その隣の部屋も北壁に壁龕がついているがこれは図書室だった。この二つの部屋は2階建てで、美しいカラフルな大理石が使われていた。

 体育館の北の端を占める浴場はペルガモン最大の、そして保存状態 も最良の建物でテラスいっぱいに建っていた。その東側は城壁に接し、ファサードは東側回廊に向いており、ここからも入ることができたがメインの出入り口は北回廊の東端にあった。ここを入ると円柱の並ん だ中庭風の部屋が見えるが、これが冷浴室だった。ここから後陣のあるホールと細長い温浴室に通じている。温浴室には更衣室もついていた。その隣が高温浴室だった。

 この浴場のすぐ東に小さな城門がある。ここを入る時、バスタブ型の黒大理石の給水タンクが目に入る。タンクに開けられた12の穴は水位を計るためだった。おそらく一番大きな穴は入ってくる水のため、他の穴は出ていくためだったのだろう。このタンクの水は浴場や体育館の各所に配られていた。体育館の西の端にもやや小さな浴場があり、その遺構は良い状態で残されている。

 上のテラス南側に伸びた200mの細長い通路は屋内トラックとして使われ、雨の日の競技や練習はここで行われた。南側に窓があったが、後に壁で塞がれている。

 ペルガモンの青年たちのためだった、中のテラスはエウメネスニ世の時代に作られている。長さ150mと、上のテラスよりは小さいが当時の体育館建築の特徴がよく残されている。競技トラックの東の端に、小さな神殿と祭壇の跡がある。ヘレニズム期、コリント式建築の前柱式神殿で、西の入り口正面に祭壇が置かれていた。この神殿の壁やテラスの壁には優勝者の名前が刻まれている。テラスの北に腰壁を据えて回廊が建設された。ここから上のテラスまで小さな階段がついているが、メインの階段は東の端にあった。下のテラスにも階段状の道が2本、東の端と中央から出ていた。ヘレニズム期に造られた道である。町が縮小された時、この2つのテラスの上に城壁が築かれ、城門風の円形の塔が門の上に建てられた。

 階段状の道を下るとき、右手にニムファイオン(泉水殿)が見える。長さ25mの列柱式建築である。 下のテラス、少年達のためのトラックには簡素な門があったが完全に崩れ去ってしまった。


下のアゴラ

 ペルガモンの下のアゴラは上のアゴラよりも小さい。方形の広場の3方を列柱の回廊と小さな二階建ての商店が取り巻いていた。エウメネスニ世の城門からのメインストリートはこのアゴラの東と北を走っていた。道は高い位置にあるので、北回廊二階の商店が道路に面し、テラスの端にあたる回廊の南端、一階にある商店は上地が斜面になっているため、広場に背を向け外側を向くことになった。

 アゴラの中心に貯水槽があり、北にあるアクロスの家の大型水槽から土管で水を引いていた。このアゴラの発掘で、ペルガモン市の規則や規定を記した碑文がまとまって発見されている。その碑文と、武器庫からの安山岩の砲弾がここに展示されている。

 アゴラの北東にニムファイオン(泉水殿)が建っているが、これはアクロポリスの東のダムが改造されたとき、ここに移転修復されたものである。アギオス・ストラティゴスの泉として知られるこの泉はドーリア式円柱とプールから成り、ヘレニズム期に建設されたがビザンチン時代に修復されでいる。

執政官アクロスの住宅

 アゴラの上方、北のテラスに中庭式の住宅跡がある。ヘレニズム時代の建築だがローマ時代に改築されており、中庭を取り巻く柱は二層で、上はイオニア式、下はドーリア式となっている。この家の中心は中庭の西の広いホールで、集まりや宴会など男達専用の広間だった。現在、ベルリンの博物館にある執政官アクロスの胸像は、この部屋に置かれた石の角柱の台座に乗っていたものである。台座には“執政官アタロス、友を招き人生を共に楽しむ”と記されていた。この家の一部には保護のため屋根を披せている。

赤い館(エジプトの神々の神殿)


赤い館(エジプトの神々の神殿) いわゆるローマの平和(パクス ロマーナ)の時代、市の城壁は重要性を失い、市域はアクロポリスの下にまで広がった。この頃に、競技場、新劇場、円形闘技場、エジプトの神々をまつった神殿など重要な建物が建設されているが、その中で発掘が行われたのはこの神殿だけである。この赤レンガの巨大な建物は「赤い館」としてベルガマの町の人々に親しまれている。
100×200mの広大な境内に、60×26mの堂々たる本殿が建っていた。上の部分は崩れているが、現存する壁の高さは19mに達する。東側に建つ2つの円形の建物はローマ時代から今日に残るドーム建築として非常に珍しい例といえよう。北側のものはモスクとして、南側の建物は博物館の倉庫として使われている。
本殿の3方に回廊がついていたが、円柱の代わりに使われていた背と背を合わせたカリヤテドが二体、残っている。一つは男性、もう一つは女性像でエジプトの神々の像に似通っている。これらのカリアテドは一つの大理石からなるのではなく、腕と胸部は別々に制作し体躯に繋いだものである。この像がエジプトの神像と似ていること、回廊の前に水路とプールが設けられていることから、この建物がエジプトの神に捧げた神殿と判明した。おそらく、イシスとセラピスがまつられていたのだろう。高さ14m、幅7mの神殿入り目には、一枚板の大理石の敷居が残され、そのすぐ後ろに、大理石のカウチがある。神殿内部の中央には浅いプールと井戸が作られていた。東の端の半円形壁の前に腰壁が設けられ、その上の台座に巨人な女神、又は男神の像が立っていた。神殿の規模と台座の大きさから推測すると、その像の高さは10mはあっただろう。神官は腰壁の下の通路を通って神像の体内に入りその口のところから説教したのだった。

 建物の内部は大理石の柱が二階建ての回廊のようにぐるりと取り巻いていた。側面の壁に設けられた5つの壁龕の上にはそれぞれ窓があり、外の光がさしこんできていたが、奥の方には窓もなかったのでいつも薄暗かった事だろう。後陣壁の両側から狭い階段が内部の回廊と屋根裏に通じていた。この建物の屋根の様子を示す手掛かりはほとんど残されていない。

 赤い館はローマ皇帝ハドリアヌスの時代に建設され、当初は大理石で全面を覆っていた。建築当時、敷地の下をセリヌス川が流れていたので、直径9mのトンネルを2本、境内の下に埋めこまなければならなかった。トンネルは保存状態良く残され、両脇のローマ橋は今日も使われている。ビザンチン時代、ここには聖ヨハネに捧げる教会が建立されたが、今はわずかに壁が残るのみである。


トルコの世界遺産ペルガモン

円形闘技場とローマ劇場

 ローマ時代、アクロポリスとアスクレピオンの間の丘にはたくさんの市民の住宅が密集していた。この丘に、ローマ劇場と円形闘技場、競技場が建設されている。大規模なアーチや壁が今もよく残っているが、まだ発掘は始まっていないので、詳しいことは今後の発掘調査を待だなければならない。

 川の流れを跨いで建設されたローマ劇場は直径610mだった。必要に応じて、劇場に川の水を引き込み、水を必要とする場面をよりリアルに演出できたという。


アスクレピオン

 ベルガマの町に入り、アクロポリスの方向にまっすぐ伸びる道を進むと間もなく、左にアスクレピオンヘの坂道が分かれている。

 ペルガモンやエピダウルス、コス島のアスクレピオンは医療センターでもあり、医学の神の聖域でもあった。パウサニウスによると、ペルガモンにアスクレピオンが造られたのは紀元前4世紀の事というが、今日、目にする遺跡のほとんどはローマ皇帝ハドリアヌスの時代のものである。

 ヴィラン カプ(廃墟の門)にあったローマ劇場からスタートした聖なる道が、ローマ時代の町並みを抜けてアスクレピオンまで達していた。この聖なる参道“ヴィア テクダは820m、幅は18mでアスクレピオンに近い部分の40mはハドリアヌス帝の治下、円柱の並ぶ美しい道路に改修され、安山岩の大きな石で舗装された。その道の中央地下には水路が走っていた。


アスクレピオン

 この参道の南側に頂上が崩れた円形の陵墓が残るが、これは皇帝アウグストゥスの時代のもので、入り口は南に、内部には四角な墓が作られていた。後世の泉や、今も発掘中の幾つかの建物などがこの陵の向こうに見えている。参道の発掘では、貴重なヘレニズム時代の彫像が出土している。

 “ヴィア テクダの終点にアスクレピオンの前門が建っている。皇帝アントニウス・ピウスの治下、クラウディス・カラクス(131-161年)という執政官で歴史家でもあった人が建設し、ペルガモン市に捧げたのだった。

 前門の手前には3方をコリント式円柱で囲んだ庭があった。前門をアスクレピオン内側から見ると、4本の柱が破風を支え、石段がついていた。庭の西に置かれた破風、そのアクロテリオンは現在、ベルガマ博物館に展示され、当時の建築装飾の水準の高さを示している。その一つはベルガマ博物館のシンボルとなっている、勝利の女神ニケの像である。

 門を入ると広大な敷地が広がり、紀元前4世紀から後2世紀にかけての合計18の建物跡が確認されている。北、南、西には回廊が設けられ、東側は建物が集中している。前門のすぐ左(北)には祭祀用の壁龕、その隣には広々とした皇帝ホールが位置していた。このホールは図書館としても使われていた。今日ベルガマ博物館に展示されている皇帝ハドリアヌスの像は、このホールの東壁の壁翁に立っていたものである。神格化されたヌードのハドリアヌス像は、台座に残る銘によるとメリティンという人物が造らせて皇帝に捧げたものという。ホールの壁はハドリアヌスの頃、色大理石が張られていた。書棚がのっていた腕木の跡が今も目に入る。古代の図書館に共通した特徴であるが、書物を湿気から守るために壁は二重に設計されていた。

 北側回廊は近年修復が行われた。細身の高い柱にイオニア式柱頭が見える。図書館に近いほうの10本の柱は、175年に西アナトリアを襲った大地震で倒れ、その後コリント式に変えられている。新しい柱は短かったので土台の上に乗せなければならなかった。当時の習慣に従って、回廊の床は上が敷かれていた。背後の壁には装飾的な大理石が使われて独特な雰囲気丞醸し出していた。


アスクレピオン

 この回廊の後ろに小さな劇場がある。演劇やコンサートで病人を慰め、楽しませることはアスクレピオンの特徴ある治療法の一つだった。3500人収容の観客席の最上段の背後に、イオニア式円柱に支えられた低い丸天井の建物がある。大理石の貴賓席も残っている。ステージビルは3階建てで、典型的なローマ劇場の形を備えていた。

 西側回廊も北側同様、イオニア式建築だった。1967年、その背後の丘に延びるドーリア式のストアが見付かり、一部修復された。このストアは、アスクレピオンの西側にあった建物と回廊を繋ぐものだったと考えられる。このストアには安山岩のみが使用されていた。


アスクレピオス

 西側回廊と南側回廊がぶつかる地点に残る印象的な遺構はホールと2棟のトイレットである。小さな方が女性用、大きな方は男性用で、女性用トイレットは簡素な造りで17人分、男性用は40人収容の装飾的な大理石を用いた豪華なものだった。トイレットの近くのホールは集会などに使われていたらしく、4本のコリント式柱で屋根を支えていた。完全に大理石で覆われたこのホールは光と新鮮な空気を取り入れるために屋根なしで建てられたという説もある。

 南側回廊は二階建てで、一階の天井は低く、太い安山岩の柱が二階を支えていた。その二階はイオニア式建築だったが、今は何も残っていない。アスクレピオンの治療法は自然を基本としていた。ここで行われたさまざまな治療法に触れた碑文がたくさん出土している。2世紀中期の雄弁家として知られるアエリウス・アリステデスは、ここに13年間滞在して療養している。ハドリアヌス帝の頃にあたり、ペルガモンのアスクレピオンの最盛期だった。古代世界に広く知られた医者のサテュロスやカリノスがこの当時活躍していた。信仰、自己暗示、心理療法、スポーツ、泥んこ風呂、聖なる泉での水浴などが主な療法として知られている。劇場の前に今も3つのプールが残り、大理石造りのブールには階段もついている。今も清水が絶えることがない聖なる泉は、水質分析でも薬効のある成分が確認されている。

 死、黄泉の神ハデスはこのアスクレピオンに入り込めないと信じてこのアスクレピオンの門をくぐる事は、病人に大きな安心感を抱かせたにちがいない。病人は裸足で参道を歩いてくる。アスクレピオンに近付くにつれて、一歩一歩と死に神から遠のくと信じ込ませる事がまず、治療の始まりだった。水浴びした後、患者は地下道を抜けて治療棟に向かう。 80mの地下道は薄暗く静かだ。聖なる泉からの水が石段を伝わり流れ落ち、その音が神秘的に響き渡る。


アスクレピオン

 地下道の突き当たりに、直径26.5mの円形二階建ての治療棟がある。上の階は完全になくなったが、一階に残る壁龕は患者の横たわるベッドが置かれる場所だった。患者は眠りに落ちるまで祈りを捧げ、睡眠中にみた夢は、アスクレピオン専属の経験豊かな占い師が解釈するのだった。広いテラスでは日光浴する患者たちが見られた事だろう。

 アスクレピオンの中心は医学の神アスクレピウスをまつる神殿で、直径23.85mの円形の建物が治療棟と前門の間に位置していた。150年に執政官L.カスピウス・パクトゥメウス・ルフィノスが建設して市に捧げたものである。入り口に階段と円柱があり、20年前に建設されたローマのパンテオンとよく似た建築だった。壁龕には健康や医療に関わる神々の像が並んでいた。医神アスクレピウスの像は正面の大きな壁龕に納められていた。

 劇場の前に散在する礎石は、ヘレニズム時代に遡るプールや神殿、睡眠室の跡である。神殿はアスクレピウス・ソテル、アポロン・カリテクニスと健康の女神ヒゲィアをまつっている。


ペルガモン博物館

1936年に開設されたベルガマ博物館には、古代都市ペルガモンとその周辺の考古学的調査、発掘で出土した貴重な品々を収め展示している。それ以前は出土品のほとんどはベルリンに運び出されたり、イスタンブルの考古学博物館に保管されていた。

 ベルガマ博物館の門から入ってすぐの庭には、紀元前1世紀から紀元後2世紀のこの地方、特に東リディアの請都市から出た大理石の墓碑がたくさん並んでいる。又、アクロポリスから運ばれたフリーズ、柱頭その他さまざまな建築の一部も展示されている。庭の石棺や骨箱の幾つかはアクロポリスの麓の共同墓地跡から発見されたものである。

 階段を上って中庭の正面に置かれている大理石の石棺は1世紀、ケティウス川に近いチョムレクチレル(陶工の意)地区で出土した。そのあたりは当時ネクロポリス(共同墓地)だった。人煙石棺の中に更に鉛の棺が収められ、その中には11,12才くらいの少年の焼けた骸骨が入っていた。これは中を荒らされること無く発見された石棺として貴重な例である。車の付いた鳥のおもちゃ、焼成粘土のミニチュアかまど、ミリナ産の小像、1世紀後半のコインがこの棺の中から発見されている。

 中庭の軒下にアテナ神殿、デメテル神殿そして体育館跡から発見された彫像や碑文、浮き彫り、フリーズなどが並んでいる。中央に配置されている2つのアクロテリオンのうち、右側の美しい像が“ニケ” アスクレピオンの前門の破風を飾っていた勝利の女神像である。その前の大きな鍋はアクロポリスのディアドロス・パスパロスの社から出土した。数種類の大理石からできており、古代に修理された跡が見られる。


ベルガマ

 博物館の庇の下に並ぶ大理石像はペルガモン派彫刻の不朽の名作である。特に、右側にあるヘルメスの胸像は素晴らしい技工がうかがえよう。南側にはゼウスの祭壇の模型と、犠牲の牛が祭壇に引かれていく様子を描いた大理石パネルなどがある。

 博物館内に入って、まず正面に立っている軟らかな大理石製のコロスの像は紀元前6世紀にまで遡り、ピタネ(今日のチャンダルリ)で発見されたもの。ピタネの発掘ではこの像の他にも考古学上、非常に重要な副葬品が出土している。紀元前6世紀頃のペルガモンは未開地で、海に近いピタネが重要な都市だったのである。

 右手の壁に沿ったショーケースにはペルガモンで発見されたローマ時代の小像が並んでいる。土から吊り下げたのは操り人形で、ほとんどペルガモン出土のものである。その隣には2体からなる群像、ほっそりした若い男はディオニソス、もう一人はサテュロス・シレノスだが上半身は壊れている。他の博物館の像やペルガモン出土の陶器の浮き彫りなどを参照して考えると、酔いどれのディオニソスがシレヌスの肩に腕をまわして歩いている様子と思われる。

 髪を垂らした男の胸像は皇帝カラカラで、彼がアスクレピオンで療養した際に遣らせたのだった。


ベルガマ

 モザイクの脇にある大理石パネルはディアドロス・パスパロスの社の壁パネルで、武器、闘鶏、ディオスクーロイの兜がそれぞれ3枚の  パネルに描かれていた。ディオスクーロイは死後、星の双子座となっ  たからヘルメットに星が描かれている。

 壁に沿って並んだ像のうち中央の裸の立像は皇帝ハドリアヌスで、アスクレピオンの図書館跡から出土した。アスクレピオンヘの皇帝の援助に感謝のしるしとして造られたのだった。

 その左、豊饒の角(コルヌコピア)を手にした女神ティケの像は1世紀の作で、その隣の胸像は高名な哲学者や、ペルガモンの町の功労者である。


 第ニホールヘと続く通路に置かれたケースにはオイルランプとそれを造るための鋳型、はめ細工の陶器などが展示されている。鋳型から造った陽刻をボウルなどに押して模様をつけるのだが、ディオニソスなどエロティックな絵が多い。ペルガモンはヘレニズム時代、この種の器の需要供給のトップをいっていた。ケティウス川(ケステル)の近くに、陶工たちが集団で制作していた窯跡がある。もう一つのケースにはコインが年代順に陳列されている。ペルガモン王国時代のコインが最も重要なものである。左側のケースにはケステルの発掘調査で見付かった様々な品が並んでいる。ケステルの窯場は紀元前3世紀から紀元後5世紀まで生産を続け、製品の多くは輸出に回されていた。

ベルガマ 右手最初の小さなケースには大理石のキベーレ小像が展示されている。一つはペルガモン王国時代のアクロポリスから、もう一つはケステルで出土している。ペルガモンではキベーレ信仰がさかんだった。他のショーケースの焼成粘土の小像はミリナで造られたもの。 ミリナはヘレニズム、ローマ時代を通じてこの種の小像造りの中心で、ペルガモンに運ばれて副葬品などとして使われた。
第二のホールに進むと、ビザンチン時代の陶器や初期のヨルタン産容器(黒)、中央の大きなショーケースにはクレーター、スキフォス、カンタロスなどいろいろな種類の器が並べられている。ほとんどがヘレニズム時代の品である。真ん中の大きなクレーター(広口の壷)にはウエスタンスロープ”風の装飾が施されている。この種の壷はアテネのアクロポリスの西スロープで初めて発見されたので、このように呼ばれている。しかし、このタイプの陶器の制作はペルガモンが先だったという説もある。
南側のケースにはグリネイオンの町で造られた器が展示されている。幾何学模様の装飾が施され、紀元前6世紀に遡る古いものでベルガマ博物館が行った発掘で出土した。
中庭から右手のホールに入ると民俗学セクションとなっており、ベルガマ地方の伝統的な衣装、絨毯、キリム、袋物その他ローカル色豊かな手工芸品などが展示され興味を引く。

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