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ペルガモン(文化遺産・2014年)



ペルガモンの発掘

 イスタンブルーイズミール間の鉄道建設に携わっていたドイツ人カール・フーマンが、工事現場から出たフリーズ(建物の小壁)の破片を目にした時が、古代都市ペルガモン発見の第一歩だった。

フーマンはそれをベルリンに持ち帰り、考古学者のアレクサンダー・コンツに見せた。コンツは直ちにその破片の持つ重大な意味を悟ったのだった。翌年、オスマントルコ当局からの許可を得て、1877年には破片が見付かった辺り、ゼウスの祭壇周辺の発掘が開始された。

その後アテナ神殿、劇場、土のアゴラ、ディオニソス神殿そして王宮の跡が発掘により判明した。たくさんの彫像や小品が次々に掘り出され、ベルリンに運ばれて行った。

 1900年、ウイルヘルム・ドープフェルトが発掘の責任者となり1913年までの間に体育館、ヘラ神殿、下のアゴラ、アクロスの家、そしてデメテル神殿が発掘された。又、彼はペルガモン南部の古墳も幾つか調査している。1927年から38年まで発掘の指揮を執ったのはテオドール・ウィガドだった。アクロポリス北端の武器庫や、王家の社一帯、デメテル神殿の境内が発掘されている。

 トルコ共和国になってからの出土品は、初代大統領アタチュルクの指示とオスマン.バヤトルの尽力によりベルガマに集められ、収集展示のためにベルガマ博物館が建設された。

 1957年にはエリッヒ・ボフリンガーが発掘調査にあたり、アスクレピウス神殿の一帯と下のアゴラ、その近辺の住宅跡を発掘した。1972年からはウォルフガング・ラットを中心にペルガモン北部の聖域カプカヤ(岩の門)、それにアクロポリスから下の平野への道路に沿った住宅や公共建築物が調査された。それと同時にトラヤヌス神殿の修復工事も始められた。1977年以来、トルコ文化観光省のセラハッティン・エルデムギルの下で、陶房のあった一画の発掘も行われている。これはアクロポリスの東を流れるケティウス川の岸辺にある。

 古代都市ペルガモンは約6平方km、それに対してこの百年間に発掘が行われたのはわずか2-3%にすぎない。新劇場、円形闘技場、競技場など、ローマ時代の歴史を語る重要な建物も確認されているがまだ発掘は始められていない。


ペルガモン

城壁と市街

 最初のペルガモンの城壁は紀元前4、5世紀に遡る.アクロポリスの一番高い所に、不揃いな石を積んだ城壁がごく一部だけ残るのがそれである。アクロポリスの北部、武器庫と王宮、アテナ神殿がこの城壁で囲まれていた。小さな砦のような形のメイングートがアテナ神殿の南側に位置していた。このあたりは現在“中の砦”と呼ばれている。この門の東側には角型の塔があった。

 この最初の城壁はフィレタイロスの時代に南に拡大して再建された。防衛、特にセレウコス朝の攻撃に備えた処置だった。デメテル神殿と体育館北側に残る城壁がこの時のものである。ストラボンの記述によると、ペルガモンの城壁は何度も作り替えられたが、最後のそれはエウメネスニ世の治下、アクロポリスの丘の南側麓にまで拡張されたという。その内部面積は222ヘクタールに及び、多数の塔で強化されていたが北と東は急な地形で守られていたため塔は設計されなかった。南西と南側には城壁の名残は見られない。

 ローマ時代になると、町は南西側、丘の麓に向かって拡張していった。そのあたりの城壁は崩され、石は建材として利用されたのだった。エウメネスの城壁には東、北、南にそれぞれ門が設けられていた。正門は南側の門だったらしく、ヘレニズム期の特徴である中庭付きの美しい門である。その基礎の跡はアクロポリスヘのアスファルト道路の登り口に近いジャーマンハウス(発掘隊の家)近くに残っている。中央の方形の中庭は高い壁と3つの塔に囲まれていた。この門から市中に入る道はS字型に大きくうねり、アクロポリスヘと続いていた。中庭には歩行者用と車馬用と2つの門があった。ヘレニズム期によく見られたこの種の中庭を備えた城門は、防衛上の利点を持っていたのである。城壁のウイークポイントである城門に塔を備えた中庭を設計して、もしも敵が門から雪崩れ込んできても、中庭に閉じ込めて高い塔や城壁の上から攻めることができたのである。

 ペルガモン王国時代、町は順調に発展し、王や王妃は次々と新しい建物を建設した。紀元前2世紀には、町は丘の上の上市と中腹から麓に広がる下市に分けられた。政治、軍事の要所は上市で、北側に兵舎や武器庫が置かれ、丘の東側に王の館が、宗教施設や劇場は西に位置していた。町の中央を走る人通りが行政区と宗数的地区とを区切り、上市は劇場を要として扇のように設計されていたことになる。

 一般の人々はアゴラ(広場、市場)や体育館、デメテル神殿などのある下市一帯に住んでいた。

 ペルガモンの町はテラス状の段丘をそのまま利用して建設されていた。南のエウメネスニ世の城門からのメインストリートは大きくうねりながら上市へと続き、細い小道が階段状に分かれ出て建物を結んでいた。1階又は2階建てのストア(柱廊)や回廊がテラスの壁を利用して建設されるなど土地は効果的に利用され、それが又、ペルガモンの町造りの特長の一つとなっていた。

ペルガモン

ヘルーン(王家の社)

 アクロポリスの駐車場からコンクリートの坂道を登る時、左手に広がる遺跡はアタロス一世(前241一197年)とエウメネスニ世(前197-159年)の栄誉を記念して建設した社(やしろ)だった。ヘレニズム時代には英雄は死後もあつい尊敬を受け、この世での罪は清められ神格化されてヘルーン(社)にまつられ信仰されたのだった。

 ペルガモンのヘルーンは中庭を小部屋が取り巻く形で、これらの小部屋は祭りやその他の目的に使われた。大理石のドーリア式円柱が中庭を囲んでいたが、東側には円柱ではなく大い角柱が使われていた。その後ろの広いホールは儀式の際にみんなが一緒に食事をとる広間でこのホールの東にあった6×2mの小部屋の東壁に、神像を安置する壁龕が設けられていた。

 ローマ時代になるとヘルーン、特にこの小部屋は大幅に改造され、12×13mの大きなホールとなり、壁痛のある壁には狭い腹壁が据えられ、壁は大理石張りとなっている。部屋が広くなると同時に天井も高くされ、コリント式の柱頭が壁の上部に据えられて、部屋は二階建てのように演出された。こうして祭りの間は円柱の並ぶ塔に似たものとなった。

 発掘の中で、同じ場所に他の社や住宅があった事が判明した。これらの住宅の一つが、町の水道管理に従事する役人の住まいだったことを示す碑文が出土し、水道管や貯水槽もその近くで発見された。

王宮

 アクロポリスの駐車場からのコンクリート道路は土の要塞の門の跡まで続いている。門は崩れ落ち、東の塔のみ残っているが、地元産の安山岩を使ったこの塔には、古代の巧みな建設技術がうかがえる。ビザンチン後期まで、この塔から伸びる城壁は様々な技法や材料を用いた修復が無造作に繰り返されてきた様子がわかり、興味を引く。

 この門を入ると左手にアテナ神殿やトラヤヌス神殿などが広がり、右手は城壁に沿って王宮が建っていた。その土台は今日も残されている。この王宮が壊されたのはローマ時代だった。特にトラヤヌス神殿の建設にあたり、取り壊された石は建材として利用されていた。


ペルガモン

 ヘレニズム時代の住宅建築では中庭式の設計がもてはやされ、ペルガモンでもほとんどの家が中庭を設けていた。アクロポリスの丘の住宅の中でも王宮の破損はいちじるしいが、その床面の様子は今も伺うことができる。およそ40から50平方メートル又はそれ以下の小さな中庭を中心に居間、食堂、寝室、召使の部屋などが並んでいた。遺構から推定して、王宮内部の壁はフレスコ両やモザイクで飾られ、外壁はシンプルなものだったらしい。窓はなく、吹き抜けの中庭から採光していたが幾つかの部屋は薄暗かったことだろう。

 王宮跡からの出土品によって各時代を推測すると、一番高い場所にあるのがペルガモンの建国者フィレタイロスの住まいだった。その後このあたりは駐屯地に変えられ、フィレタイロスの館も兵舎として使われた。]王宮が兵舎に転換された時、東側の城壁との間に一列に小部屋が建設された。今は土台が残るのみだが、これらの部屋からは武器の破片などが発見されている。

 アタロス一世、エウメネスニ世、アタロスニ世の館はフィレタイロスの館の前の階段状の道に沿って並んでいた。そのうち、一番目立つのは南側の建物である。ここからはゼウスの祭壇の建材の一部が発見され、この宮殿が前]60年に建てられたことが判明した。北東の隅からは祭壇とヘバイストスのサインのあるモザイクが発見されている。

 王宮から東に連なる城壁には塔が設けられ、その隣は空き地になっていたが、その空き地がどのように使われていたのかはまだ解明されていない。現在、プレハブの建物が建っているここはアクロポリスの北からの水道橋が要塞に達する地点に当たるので、市中への水の供給と関連した施設があったのではないかと推定されよう。事実、円形の水槽がかなりよく保存されて残っている。


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