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JATA
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ペルガモン(文化遺産・2014年)



上のアゴラ

 ゼウスの祭壇の南にペルガモンの二つのアゴラ(広場又は市場)のひとつ、上のアゴラがあった。古代都市のアゴラは、普通長方形や正方形だったが、ここではL字型の設計になっていた。町の真ん中を通るメインストリートがアゴラを2分して突き抜けていた。アゴラの東側と南側は柱が並ぶ回廊となり、その後に商店が軒を連ねていた。南側の回廊は斜面になっていたので地下街風の下の回廊も造られた。ここは上の商店の倉庫として利用されていた。アゴラの西部分に祭壇を備えた小さな神殿がある。ドーリア式とイオニア式がミックスした前柱式神殿だった。その近くにも神殿かと思われる建物跡があるが、まだ解明されていない。

 北東コーナーに建つ半円形の後陣のある建物を別として、上のアゴラはヘレニズム期の建築である。後陣のある建物はローマ時代に改築されている。このような建物は古代アゴラにはよく見られたものだがその機能は明らかになっていない。毎日、一定の時間に役人がここに座って市民の相談ごとにのっていたともいわれている。

 上のアゴラの約100m南、下に向かう道路に沿って浴場があった。温浴室の他はすべて完全に崩れてしまったので、どれがローマ時代かなど確認できない。円形の温浴室には南側に壁癩がついている。浴場が建つ以前のものと見られる床モザイクが発見されている。


アクロポリス

小体育館(浴場、音楽堂、ヘルーン)

 浴場から石畳の古道に沿って150mほど下ると建物の跡が集中している一画がある。最近発掘も終り、一部は修復も行われたここは浴場、小音楽堂(オデオン)、社(ヘルーン)が一つの屋根の下に並び、小体育館として使われていた跡である。浴場はメインストリートと北への細い小道の間にあり、入り口の左に方形のトイレットがあるが、かなり破損している。トイレの下の下水道はメインストリートの下の木管に合流していた。浴場の中央を占める冷浴室は中庭風の大きな建物だった。北側の壁に接して半円形の冷水プール、その上方の水を溜めておいた場所は良い状態で残っている。壁と床は水に強い漆喰が使われている。冷浴室の南に円形の熱浴室があり、その下の焚口はメインストリートに面していた。

 西側の道に面して、同じ規模の商店が2軒並んでいた。焚口に隣接して東に建つ一連の建物はヘルーンの台所、倉庫として使われていた。修復に際して道路脇の建物は屋根で覆われている。冷浴室には西向きに2つの入り口がついている。その一つから出ると上にはオデオン(音楽堂)があった。このオデオンは小規模ながら観客席の保存状態は非常に良い。半円形のオーケストラの真ん中から階段が上に伸びて、弓形の観客席を2つに分けている。

 オデオンの隣の大理石のホールは、ペルガモンの慈善家として知られるダイドロス・パスパロスをまつった社だった。方形のホールの北壁には三角のフロンタルのついた壁龕が設けられ、ダイドロス・パスポロスの像が安置されていた。今日ここにあるのはコピーで、オリジナルはベルガマ博物館に展示されている。この人物は紀元前70年頃の人なので、オデオンやへルーンの年代も推定できる。このへルーンの壁も床も大理石で、闘鶏を描いたモザイクや、ディオスクーロイ(ゼウスの息子たち)の星の飾りのついたヘルメット、刀、鎧や槍が壁パネルに描かれている。これらのパネルはコピーであるが、本来は長い壁にそれぞれ9枚のパネルがはめ込まれていた。これらはダイドロス・パスポロスより後の時代の作でもある。17年の大地震の後、皇帝ティベリウスはペルガモンに復旧援助金を送り免税措置をとっている。おそらくその時に、パネルも新規に作り替えられたのだろう。近年の修復作業の中で、東のファサードは豊穣のシンボル、ファロスの浮き彫りで飾られた。このへルーンと音楽堂は4世紀まで使われていた。

食堂と商店

 アクロポリスの南麓、エウメネスニ世の門から頂上まで続く大通りの両側に平屋や二階建ての商店が並んでいた。このうち、ヘルーンの側に並ぶ何軒かの跡は発掘も終了している。

 ヘルーンに隣接した商店は2つのセクションから成っていた。奥の方の北側壁の岩に掘られた壁癩から、グリルの跡と土に混じってチキンその他の鳥、豚などの骨が発見された。ここには簡易食堂があった。隣接した2つの続き部屋からなる建物も同じような食堂だったと考えらるが、後に他の目的に変えられたらしくひどく破損している。3軒目の店からは、床下の柔らかな岩を掘った穴にはめ込まれた大きな土器の壷が発見されている。壁に備えられたカウンターは、ここでワインやオイルも売られていたことを示している。

アクロポリス

ディオニソス神殿と腹壁のあるホール

 3軒目の商店の東側の狭い階段を登ったテラスにディオニソス神殿があった。ペルガモンの、特に一般庶民の間で根強い人気があったディオニソスはワインと自然の神として知られるが、その偉大な力は自然と人間の間を取り持つ事にあった。自然の秘密を知る事、すなわち神格を得ることを人々は切望した。そしてディオニソスはワインで酩酊することで、その神秘の門を開いてみせた。信者たちは神殿に集いワインの敷かれた床や大理石の腰壁に座ったり、寝そべったりしながら、飲んで酔ってエクスタシーを味わうのだった。

 ホールは広さ24×10mで、高さ1m、幅2.5mの腰壁がこのホールを取り巻いていた。壁にはディオニソス信仰と切っても切離す事のできない葡萄のフレスコ画が描かれていた。中央の祭壇には神に捧げる供物が置かれ、北側の壁癩にはディオニソスの像が安置されていた。正面には土を敷いたテラスが、西側には儀式の前に身を清める泉、東にはサービスのための部屋があった。

 ディオニソス神殿から細い道が上に延びている。その東側に一部修復された大きな中庭式住宅と浴場がある。ヘレニズム時代に建設された住宅をローマ時代に拡張して浴場も増築したのだが、その結果、東からの道は浴場と水槽の下になってしまった。

 大通りの側の荒廃した遺構は商店とその背後の住宅の跡である。その中の、アーチが修復されている建物は泉で、貯水槽は背後の岩を掘って作られた。

キベーレ神殿(メガレシオン)

泉の近く、道路の右側に発掘された中庭式の住宅がある。ヘレニズム時代の建築を4世紀に改築し、骨細工その他の工房として使っていたらしいが、さらにその後、その上に他の建物が建設された跡がある。

 ここから100mほど下手、右側にも中庭式住宅風の大きな建物跡があり、今世紀半ばに発掘も終わっている。これは普通の住宅にしては大規模で設計も異なっていることから、地母神キベーレの神殿(メガレシオン)だったと推定されている。


 キベーレはアナトリア最古の女神で、その主な神殿はアンカラに近いシヴリヒサルのペシヌスの遺跡で発見されている。このあたりでキベーレ信仰が始まっガのは青銅器時代だった。ペシヌスでは、人々はディオペデス(空の女神)の姿に似せた限石を、地母神キベーレとして長い間崇拝していた。この神像はペルガモン王国のアタロス一世の時代、ローマに運ばれていった。ローマの対カルタゴ戦の勝利を祈願するためだった。ペシヌスの神殿から厳粛な儀礼とともに、ペルガモンのこのメガレシオンに運ばれ、1年間をここで過ごした後、いよいよローマに渡ったのだった。

 中央に大きな中庭があり、その東の列柱の奥に神像安置所があった。


デメテル

デメテルの神域

 小体育館や商店の下の古代のメインストリートを横切り、下のテラスに移ると広々とした美しい遺構が目に入る。これがデメテル神殿の神域で、その起源はフィレタイロス以前にまで遡る古い歴史を持つ。神殿そのものの位置は変わっていないが、紀元後3世紀まで何度も建て直され、ペルガモン市の拡大に伴い、境内のテラスも4度にわたって南側に拡張された。様々な様式の壁がそれを証明している。神殿の側に「ボア デメテル」の文字を記した石が見える。この銘は紀元前3世紀、フィレタイロスと弟のエウメネスが母親のボアを記念して建設した事を示している。当時のペルガモンでは、次々と大きな建物の改築が行われていたのだった。同じ頃、コリント式の柱は大理石に変えられた。デメテル神殿は前柱式建築で、東側ファサードと前門との間に祭壇が5つ並び、正面の祭壇が一番大きかった。このしゅろ飾りのついた祭壇はヘレニズム期のものだが、近年修復がなされている。他の4つの祭壇は土台が残るだけである。

 携帯の3方を列柱が取り巻いていた。南側の柱廊はアタロス1世の妻アポロニスが建設したものである。境内を拡張するため、彼女は南側のテラスの壁の前に新たな壁を築き、古い壁の前に柱廊を建てたのだった。王妃はまた境内入口にしゅろの葉飾りのついた柱を用いた前門を建てた。これらの柱も最近修復されている。

 境内の北の端には競技場のように座席が並んだ一画がある。儀式の際に信者達がここに集うのだった。大地の女神デメテルに捧げる秘儀は深夜に行われた。最も良く知られているのは、毎年10月に行われるテスモフオリアの祭りである。これに参加できるのは既婚の女に限られ、女神デメテルとその娘ペルセポネに捧げる特別な祭儀だった。境内から発掘された浮き彫りに、デメテル神が松明を手に祭壇の側に立っている様子が描かれている。このレリーフはベルガマ博物館に保存されている。

 境内入り口の前には、願掛けの井戸があった。祭に参加するため、あるいは願い事のために神殿を訪れた女達は粉菓子、鶏、豚などの供物をここに捧げたという。南側柱廊の前に一列に並ぶ碑文は、女達が祈願や感謝をこめてここに奉納したものだった。前門の隣の泉は他の神殿にも見られるように儀式の前の泳浴に使われていたものである。

 前門の北、斜堤のついた道に残る遺構はペルガモンのプリタニオン(市役所)の跡と推定されているが、これまでのところ実証する遺物は発見されていない。

ヘラ神殿とその神域

 デメテル神殿の南側に広大な場を占めているのがペルガモンの体育館で、この体育館の北、高さ50mの狭いテラスに女神ヘラの神殿が建っていた。ここまで、デメテル神殿境内からも小道が通じている。

 ヘラ神殿はドーリア式の前柱式神殿で、幅広い階段がついていた。狭い柱廊が周りを囲み、その西側の階段の上には半円形の壁龕があり像が置かれていた。

 奉納文によるとこの神殿はアタロスニ世(前159-138)が建立したという。内陣から背の高い像の一部が発見されたが、これは女神ヘラの夫ゼウスとも、あるいはアタロスニ世とも考えられている。

 ヘラ神殿を下から見上げると、その正面に建つ体育館と完全に調和した建物だったことがわかる。この調和を考えたからこそ、狭いテラスに建設されたのだった。

 ヘラ神殿から体育館に下るとき、西に見えるのは後に建設された前柱式神殿の跡である。ここで出土した像から、この紀元前2正規の神殿は医神アスクレピウスに捧げたものだと判明した。


デメテル

体育館

 ペルガモンの体育館は広大な3段のテラスを占めて建つ壮大なものだった。一番上のテラスは年長者、中のテラスは若者、下のテラスは少年達のためだった。

 上のテラスは一段と広く、構造も複雑になっている。中央に柱で囲まれた中庭があり東と西には浴場がついていた。西の柱廊の真ん中に競技の前後に水浴びする一両があり、アーチのついた泉と大理石製の浴槽があった。北側回廊の後ろにまず見えるのは講堂、小劇場風に半円形に座席が並び、1000入収容できた。木造の腰壁は崩れているが5つの出入り口はよく保存されている。古代劇場のステージビルに見られるように、中央のドアは左右のそれより大きく設計されている。観客席部分を拡張するために、講堂の両脇に丸天井の建物が造られ、いっそう劇場風の外観となっている。東側の丸天井は保存状態が良い。

講堂は後に貯水池として使用されたらしく、石灰の跡が壁に残る。

 碑文や建築様式から、北側回廊の半円形の壁龕のついた部屋が皇帝ホールだったと推定されている。その隣の部屋も北壁に壁龕がついているがこれは図書室だった。この二つの部屋は2階建てで、美しいカラフルな大理石が使われていた。

 体育館の北の端を占める浴場はペルガモン最大の、そして保存状態 も最良の建物でテラスいっぱいに建っていた。その東側は城壁に接し、ファサードは東側回廊に向いており、ここからも入ることができたがメインの出入り口は北回廊の東端にあった。ここを入ると円柱の並ん だ中庭風の部屋が見えるが、これが冷浴室だった。ここから後陣のあるホールと細長い温浴室に通じている。温浴室には更衣室もついていた。その隣が高温浴室だった。

 この浴場のすぐ東に小さな城門がある。ここを入る時、バスタブ型の黒大理石の給水タンクが目に入る。タンクに開けられた12の穴は水位を計るためだった。おそらく一番大きな穴は入ってくる水のため、他の穴は出ていくためだったのだろう。このタンクの水は浴場や体育館の各所に配られていた。体育館の西の端にもやや小さな浴場があり、その遺構は良い状態で残されている。

 上のテラス南側に伸びた200mの細長い通路は屋内トラックとして使われ、雨の日の競技や練習はここで行われた。南側に窓があったが、後に壁で塞がれている。

 ペルガモンの青年たちのためだった、中のテラスはエウメネスニ世の時代に作られている。長さ150mと、上のテラスよりは小さいが当時の体育館建築の特徴がよく残されている。競技トラックの東の端に、小さな神殿と祭壇の跡がある。ヘレニズム期、コリント式建築の前柱式神殿で、西の入り口正面に祭壇が置かれていた。この神殿の壁やテラスの壁には優勝者の名前が刻まれている。テラスの北に腰壁を据えて回廊が建設された。ここから上のテラスまで小さな階段がついているが、メインの階段は東の端にあった。下のテラスにも階段状の道が2本、東の端と中央から出ていた。ヘレニズム期に造られた道である。町が縮小された時、この2つのテラスの上に城壁が築かれ、城門風の円形の塔が門の上に建てられた。

 階段状の道を下るとき、右手にニムファイオン(泉水殿)が見える。長さ25mの列柱式建築である。 下のテラス、少年達のためのトラックには簡素な門があったが完全に崩れ去ってしまった。


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