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JATA
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トルコツアーガイド

アンタルヤおすすめ観光スポット


トルコ観光業を担う最も重要な都市アンタルア.北西のカライン洞窟からは石器時代の品々が出土している。
B.C.1900~1400年の間はヒッタイト帝国の領地であり、後にパンフィリア、リキア、キリキアの各州に分裂独立した。 B.C.1100~800年にはフリギアとリディア人の、後にはペルシアの支配下におかれ、一時アレキサンダー大王に征服ざれたが、王の死後はその武将に引き渡された。その名を設立者であるベルガマ王アッタロス2世(B.C.2世後半)に因んだアンタルアは、B.C.67年にローマの属州となっている。
13世紀の初期にセルジューグトルコ人に征服されヽ短期間ビザンチン帝国の支配下に入った後、1426年にはオスマン・トルコの領土に組み入れられた。

1919年、イタリアに占領されて、これは1921年の撤退まで続いた。十字軍はパレスチナに向かう為に広大な小アジアの大地を横断するより、アンタルアから海路をとる方法を採用した。イヴリ・ミナーレ、ハドリアヌスの門、カレイチ、考古学博物館等が見所である。

アンタルヤ
◆イヴリ・ミナーレ◆
 町の象徴とされ、セルジューク時代からのこるイヴリ・ミナーレは、四角い土台の上に煉瓦を用いて造られた尖塔である。青い石をモザイクの様に埋め込み、装飾用にタイルも用いられている。高さ45m。隣接するビサンチンの教会をセルジュークの皇帝アラエッディン・ケイクバトがモスクに改築した際に造られたもので、取り壊された後、14世紀後半(セルジユーク時)に建築されたのが、現在残るモスクである。

◆アンタルア考古学博物館
 美しく、人々の興味を引き付ける展示物にあふれている。先史時代からヘレニズム、ローマ、ビザンチン、セルジューク、そしてオスマン帝国に属する品々を年代順に見学できる。

テルメッソス(ギュッルク山)
 アンタルアの北西30Km、二つの山の間に広がる平地、海抜1050mの地点に設けられたこの古代都市は、アレキサンダー大王が征服できなかった唯一の町として史上に名を残している。ヘレニズム時代に迎えた第一期繁栄期の後、ローマの支配下での第二黄金期になるとテルメッソスは自らの法を自ら制定できる権利を得たが、この後5世紀頃になって町は完全に過疎化した。
テルメッソス入は碑文に自らをパンフィリアの原住民であるソリムヤ人であると記している。
都市には北と南の谷から入ることができる。ジムナズィウムをオデオンから劇場へと、ストアを小路を通って見学することができ、その大部分が2世紀に道られた道路の下や端には、水路の設備が見られる。
都市の南では七つの神殿が発見されている。此れらのうちゼウス・ソリメラスの神殿は高さ4m。小規模ではあるが保存状態の良いアルテミスの神殿の門の上には、アウレリア・アルマスタという名の女性がこれを建造する為に出資した事や、彫像を夫の援助でつくらせた等、詳細にわたる内容が刻まれている。また、ローマ時代の後期に造られたコリント様式の神殿も見ることができる。この他、4,200入を収容できたヘレニズムの劇場、岩に彫られた貯水槽とオリーブオイルの瓶、そしてテルメッソスで最も良好な状態を保ち、石造りの傑作品に挙げられる演武場などがある。


ペルゲ(アクス)
 碑文の中には、「トロイ戦争から帰還した三人によって建設された」と記されている。反面、ボアズキョイで発見された粘上阪に、町の名“パルハ”とあり、貨幣に土地の女神の名が刻まれている事実などを考えると、建国の歴史はトロイ以前に潮ると思われる。

B.C.2000年頃にはアカイアが、B.C.7世紀にはエピルや西アナトリアの沿岸地方からやって来たギリシア人が集落を形成した土地は、B.C.6世紀にリディア人の、後にはペルシアの支配下におかれた。 B.C.333年になるとアレキサンダー大王によって征服され、王の死後はセレウコスに、そしてベルガマ王国に支配された。2世紀以降はローマ人の手に落ち、4世紀にはキリスト教を認可している。ビサンチン、セルジューク、ハミトオール族の支配の後、1391年にオスマンの領土としてこれに続合された。町はアクロポリスと下町に分かれて、最初は50mのアクロポリスの丘に建設されたものが、拡大するに従って下の平地の方まで境を広げたのである。平地、つまり下町にあたる部分の町造りはヒポグモスの“碁盤の目模様”による。 15,000人の収容能力をもつ劇場の高い舞台は損傷が少なく、壁には演劇と葡萄酒の守護神ディオニソス(バッカス)の浮き彫りが施されている。その誕生と生涯をテーマにしたこの浮き彫りには、未熟児であったディオニソスがゼウスの体内に住まい、ヘルメスによってとりあげられた後、妖精に授けられて、豹のひく御車に神として座っている様子が表現されている。

観客収容能力12,000人の競技場の東手客席の下には30の部屋があり、観客はこのうちの10の部屋を、その三ケ所から入る入り口として利用し、残る20の部屋は商店として使用されていたようである。ローマの門、円錐形の屋根のあるヘレニズムの門、そしてプランスィア・マグナという女性の遣らせた三つの仕切りのある凱旋門と、町には合計三ケ所から入る事ができた。アゴラ、記念泉、ローマ浴場、中央に水路として使用された溝が刻まれる通りなども興味深い。

アスペンドス
 ユリメドン河畔にアルゴスからの移民が建設したこの町には、完璧な姿をとどめる美しいローマ時代の劇場がある。町は既にB.C.5世紀に於いてシデを除き、唯一銀貨を鋳造していた。
ヘレニズム時代の城壁にはローマ時代後期からビサンチン初期にかけて修復が加えられている。アスペンドスは上市と下市の二部に分けて考える必要がある。上市にはアゴラ、教会堂、演武場、記念泉が、下市には劇場、競技場、ローマ浴場、水道橋等があり、どれも必見の価値ある遺跡の数々である。

アンタルヤ アスペンドス
◆アスペンドス劇場◆
皇帝マルクス・アウレリウス(2世紀後半)の治世下で、アスペンドス出身の建築家ゼノンが建造した15,000人の客席を有するこの劇場は、古代から残る同種の遺跡の中では、ほぼ完璧と言える姿を留め、最も損傷の少ない作品である。ヘレニズムの習慣を重視して、一部アクロポリスの丘に寄りかかる様に設計されており、外部と内部を遮断する客席の最上部に設けられた高い壁は一部修復され、音響効果も更に良好となった。セルジューク時代にキャラバンサライとして使用されていた為に、常時、保全の手が入れられていた御蔭で、まるで当初有していた特徴を、何一つ失わずにそっくりそのまま今日に伝えることができたのである。今も定期的な音楽祭に会場として使用されているが、こんな劇場で耳にするメロディーは、また格別であるに違いない。

◆シデ◆
 ストラボンによるとアンタルアの北に住むキメのアイオリス人達によって建国された。
 “シデ”とは、古い地方の言葉で “サクロ”を意味する。発見された出土品から見るに、シデはB.C.3世紀にエジプトはプトレマイオスの、後にアッシリア王国の支配下に入り、独立を宣言したのはB.C.188年のことであった。B.C.78年以降はガラタ王国の属国となったが、B.C.25世紀になって再び独立を手にしている。
海賊やアラブ人の襲撃の的とされ、ここも3世紀からは急速に衰退してしまった。
城門を潜ると二本の主要道路の起点である平たい石を敷き詰めた広場に出る。
大通りの西側には、後方に商店の並ぶ柱廊が設けられ、美しいコリント式の柱頭で飾られていた。
門の向かいには大きな記念泉“ニンファイオン”がある。
三方に商店がおかれ、四角の基盤の上に造られたアゴラはぐるりを柱廊のギャラリーに包囲され、その中央には都市の運命を司ると信じられていた歴史と運命の女神ティチエに捧げられた祭壇の一部が残っている。
隣接する劇場も美しく、ここから神殿や記念道路、古代の港の跡など、素晴らしい景観が楽しめる。
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