トルコツアーガイド
シャンル・ウルファ|ハラン
標高540mに位置する人口75万人の都市です。古代にはエデッサと呼ばれ、その壮麗さと富で世界に名を轟かせていました。
シュメールやアッカド人のくさび形文字の文献によると紀元前17世紀頃ウルファはフルリ帝国の中心都市でした。紀元前14世紀になるとヒッタイト皇帝シュピリリウマがここを落としましたが、ヒッタイトの崩壊と共にカルガムシュ州の支配下に入り、オルハイと呼ばれる様になりました。紀元前3世紀、アレキサンダー大王の部将の一人であるセレウコス1世はこの地を征服して地名をエデッサと変更しました。115年になるとトラヤヌス帝の侵略を受け、3世紀にはローマの属州となっています。(カラカラ帝が殺害されたのもこの地です)ユスチニアヌス帝によって再建された町は6世紀にササン王朝の攻撃を受け、大きな損害を被りました。
11世紀にはアラブの支配下に置かれましたが、彼等は1030年にエデッサの町をビザンチンの総督に売却しています。1070年になり、セルジュークのアルプ・アルスランに征服されると、救済の為に直ちに十字軍が呼ばれました。続く数世紀、地方の統治はセルジュークからモンゴルに移り、1516年にはスルタン・セリム1世の指揮の下にオスマン族の手中に落ちています。17世紀、スルタン・ムラト4世の治世下でエデッサはオスマン帝国の領土に組み込まれました。第1次世界大戦から1920年まで、ウルファと周辺はフランスに征服されています。
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ハリル・ラフマンの名で知られる池の南岸に建つモスクです。池の北側にはゼリハ池と呼ばれるもう一つの池があり、イスラム教徒にとって聖地とされるロハスの泉からの湧き水が此れ等2つの池を満たしています。ウルから神がイスラエル人に約束したとされる地までの途中でアブラハム(イブラハム)はここで一息入れたと言われています。伝説には、まさにアブラハムが火葬壇に投げ込まれようとするその時、神は火を消す為に2つの池をつくり、池に落ちた灰は鯉になったとされています。無数の鯉に餌を与える事はできますが、釣りや食用する事は禁止されています。
ウルファの南45km、特筆すべきものは多いとはいえませんが、「トゥルッリ」と呼ばれる蜜蜂の巣箱の様な形をした土の家は、土地の気候に適したもので、興味を引かれます。
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ウルファの歴史
シュメールやアッカド人のくさび形文字の文献によると紀元前17世紀頃ウルファはフルリ帝国の中心都市でした。紀元前14世紀になるとヒッタイト皇帝シュピリリウマがここを落としましたが、ヒッタイトの崩壊と共にカルガムシュ州の支配下に入り、オルハイと呼ばれる様になりました。紀元前3世紀、アレキサンダー大王の部将の一人であるセレウコス1世はこの地を征服して地名をエデッサと変更しました。115年になるとトラヤヌス帝の侵略を受け、3世紀にはローマの属州となっています。(カラカラ帝が殺害されたのもこの地です)ユスチニアヌス帝によって再建された町は6世紀にササン王朝の攻撃を受け、大きな損害を被りました。
11世紀にはアラブの支配下に置かれましたが、彼等は1030年にエデッサの町をビザンチンの総督に売却しています。1070年になり、セルジュークのアルプ・アルスランに征服されると、救済の為に直ちに十字軍が呼ばれました。続く数世紀、地方の統治はセルジュークからモンゴルに移り、1516年にはスルタン・セリム1世の指揮の下にオスマン族の手中に落ちています。17世紀、スルタン・ムラト4世の治世下でエデッサはオスマン帝国の領土に組み込まれました。第1次世界大戦から1920年まで、ウルファと周辺はフランスに征服されています。
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城塞
町の南、トプ山の麓にある十字軍の城ですが保存状態は良くありません。外壁は3ケ所に門を持ち、内壁には25の塔が備わっています。ハリル・ラフマン・ジャーミ
ハリル・ラフマンの名で知られる池の南岸に建つモスクです。池の北側にはゼリハ池と呼ばれるもう一つの池があり、イスラム教徒にとって聖地とされるロハスの泉からの湧き水が此れ等2つの池を満たしています。ウルから神がイスラエル人に約束したとされる地までの途中でアブラハム(イブラハム)はここで一息入れたと言われています。伝説には、まさにアブラハムが火葬壇に投げ込まれようとするその時、神は火を消す為に2つの池をつくり、池に落ちた灰は鯉になったとされています。無数の鯉に餌を与える事はできますが、釣りや食用する事は禁止されています。
デルサ・ジャーミィ
鯉の泳ぐ池の東にあるモスクは予言者ハリル・イブラヒムの隠れ家となった場所で、内部に泉があります。予言者エユプの墓
町の南には地下に玄室の置かれた予言者の墓があります。ウルファ考古学博物館
ウルファ周辺から発見された先史時代の墓や土器、アッシリアやヒッタイトの浮き彫り、碑文等を展示して1968年から一般公開されています。ハラン(アルトゥンバシャク)
ウルファの南45km、特筆すべきものは多いとはいえませんが、「トゥルッリ」と呼ばれる蜜蜂の巣箱の様な形をした土の家は、土地の気候に適したもので、興味を引かれます。
ハランの歴史
かつての聖地ハランは旧約聖書によれば、ウルから神の約束した地に向かう途中にアブラハムが立ち寄った町とされています。当時最も尊い崇拝の対象であった月の神シンの神殿(紀元前8世紀)もこの地にありました。アッシリア最後の王アッシュール・バニパルはハランを都と制定し(紀元前7世紀)公式名をカッライとしました。後にローマ人によってカルハエと改名されたこの地でシン神殿(トラヤヌス帝が滅ぼしている)から宮殿に帰る途中のカラカラ帝は殺害されています。ハランの支配権はローマ、アラブ、モンゴルと交替し、1516年にはスルタン・セリム1世によってオスマン帝国の領土に含まれました。城壁
ほと<んど崩壊寸前の壁を12世紀に再建したものです。城塞
市の南西、月の神の神殿の中に14世紀に造られています。ウル・ジャーミ(大モスク)
非常に見事な装飾が施されていたモスクと内庭は8世紀のもので、ここからは現在ウルファの博物館にて保存されるバビロニア王の3つの墓標が発見されました。1950年の調査ではウルファの南16kmのスルタンテペからアッシリアとシュメール人の言葉が刻まれた土壁が見付かっています。悪路を約58km走ると聖なる惑星崇拝の場が見え始め、金星、木星、土星、水星、月、そして太陽神に祈りを捧げた建物の跡が残っています。(17世紀まで使用されていました。)オーダーメイドツアーのお問合せ