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JATA
観光庁長官登録旅行業第1997号
日本旅行業協会 正会員
東京商工会議所 会員
トルコツアーガイド

イスタンブールのハイライト観光スポット、ヒポドローム・競馬場


 コンスタンティノープルの市民生活はヒポドローム(競馬場)なくしては語れない。4世紀にキリスト教徒の皇帝が闘士の戦いを禁止してから、馬に引かせた戦車競争が市民の第一の楽しみとなった。競馬のある日は、人々はお弁当やワインをたっぷりバスケットにつめてぞくぞくとここに集まってきたのだった。競技が始まると青、緑、白、赤の4台の馬車が、今日観光バスの入ってくる側から入場してトラックを7周する。 

観客も当初ごひいきのチームごとに4つのグループに別れていたが、後には青党と緑党だけが力を特つようになった。政治や宗教のグループも、皇帝や妃さえもそれぞれ、ごひいきのチームや騎手があったらしい。神の大守を自認していたビザンチン皇帝は、宮殿から特別の廊下を通って競馬場の皇帝席(現在のブルーモスクあたりに設けられていた)に向かい、ごひいきのチームが負けたりすると、恐らくかんしゃくをおこしてすぐさま席を立って宮殿へ戻ったことだろう。

エジプト産の白砂をしきつめたトラックの一方の端には、7個の卵形の大理石のついた棒、反対側の端にはいるか型の大理石のついた棒が立てられ、馬がトラックを一周するごとに大理石がひとつずつ動かされ、何周したか表示できるようになっていた。 

レースの前に、馬は興奮剤を飲まされていないかどうか、検便(しかも味見され)され、騎手はお守りなど身につけていないかチェックされた。しかし、レースには特別な規則はなく何でも許されていた。むち打ち、罵言雑言、妨害…特にターン地点ではひどかった。競技場中央のスピンは、並んでいる彫像を保護するためにバンパーでかこまれていた。レ-スが終わると勝者は皇帝席へと向かい、花の冠、赤マント、賞金、配当金、それにファンからのプレゼントや次回のためのワイロまで(?)おくられた事だろう。花びん、皿、みやげもの、Tシャツに彼の写真やサインを使う権利を売ることもできた。町中の市場、居酒屋、床屋、元老院……どこでも彼のうわさでもちきりだった。

ヒポドローム・競馬場

最初の競馬場は都になる前のA.D.203年にセプティミウス・セヴェルス帝によって作られ、4世紀末頃には10万人を収容できたといわれている。レースのあい間には、ラクダやダチョウに引かせた戦車競争、レスリング、ボクシング、野獣の競争にチアーガール……たのしみは尽きなかった。政治好きな男たちは口笛や野次をものともせずに一席ぶっていたし、大理石の席に敷く座ぶとんやコカ・コーラにアイスクリーム、ビザンチン風マクドナルドを売り歩くものもいた。皇帝のごきげんうるわしい時には、大観衆にワインが無料で配られ、なつめやしやローストチキンまでふるまわれた。つまり、ヒポドロームこそコンスタンティノープルの高鳴る心臓だったのである。 

スピンを飾っていた数々のモニュメントで現在まで残されたものはごくわずかしかない。そのひとつはテオドシウスI世(379~395)のオベリスクである。本来これは、エジプトのファラオ・トトメスIII世(BC.1490~1436)がシリア遠征とユーフラテス川越えを記念してナイル河畔カルナク神殿に建てたものといわれている。全重量800トンという巨大なもので、ようやくその3分1だけここへ運ばれてきた。 13世紀初めに十字軍が一時コンスタンティノープルを占領し、ヒポドロームの皇帝席を飾っていた4頭のブロンズ馬像など貴重な品々を略奪していったが、このオベリスクはその重さのおかげで持ち去られずにすんだのだった。(その馬の像は現在もベニスの聖マルコ寺院広場にある。)


土台部分のレリーフはテオドシウスと息子たちの競馬見物の様子などが彫られている。西側のギリシア語碑文ではこのオベリスクを建てるのに32日かかったと記しているが、反対側のラテン語碑文には30日となっている。 
次の大きな柱の由来は定かではないが、土台にロードス島の神像に比較したことばが見られ、コンスタンティン・ポーフィロゲニトゥス帝(913~959)が、修復に関わったという記録もある。この皇帝について少々つけ加えると、彼の「儀式の書」から、ビザンティン皇帝の宮殿生活を仔細に伺い知ることができる。彼は「ビザンティン皇帝になる方法」という本も書いたといわれる。しかしこの本のタイトルは息子によってまちがって解釈され、まもなく皇帝は亡くなった。跡をついだ息子はコンスタンティン・ポーフィロゲニトゥス・ポイゾナス(毒入りの)”と名乗ったとか。 

ヒポドローム・競馬場
台座と頭部の欠けた「蛇の円柱」は、二つのオベリスクにはさまれて小さくなっている。もともと、これはデルフォイのアポロ神殿に奉納されたものである。BC479年、プラトーでペルシアを破ったギリシア車は、敵兵の武器を溶かして、3匹の蛇がからみあった像を作ったのだった。この戦いでの勝利はギリシアにとっては復活のしるしだった。蛇は年に一回、脱皮する事から再生のシンボルとされていた。今でも医療関係でよくこのシンボルが使われている。
 
じゃがいも、玉ネギ、スイカなど売り歩くやせこけたトルコの馬を見て、いにしえのビザンティンの競馬を想像できる方には、ヒポドロームで観光バスを降りたとたんに往時の狂乱がまざまざとよみがえって感じられるだろう。絵ハガキ、本、笛、靴みがき(5年間保証付き)、時にはタンバリンを持ったジプシーと熊のカップル…有名な皇后テオドラの父親はこの手の熊使いだった事を思い出すならけっして軽くみてはいけない。それに、いじけて言うわけではないが、ハンサムな熊ともなればツアーガイドの何倍もの日給をかせぐということもつけ加えておきたい…。 

ヒポドロームで目につくもうひとつのモニュメントは、ドイツのカイセル・ウィルヘルムII世の泉である。約一世紀前にトルコ訪問を記念して贈ったもので、今この近くのホステルやペンションに泊まる若者たちの早朝の沐浴におおいに役立つ存在となっている。
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