トルコ旅行(ツアー・観光)専門の人気ナンバーワン旅行会社『ターキッシュエア&トラベル』 | ペルガモン・ベルガマ

JATA
観光庁長官登録旅行業第1997号
日本旅行業協会 正会員
東京商工会議所 会員
トルコツアーガイド

ペルガモン・ベルガマ


ペルガモンの興りについては未だ解明されていない。内陸に位置するためにギリシア人による初期植民を免れたが、この立地条件から古代世界に於いてさほど重要な位置にはなく、B.C.3世紀の初期までは小さな山国としてのみ存在した。ペルガモンが歴史に登場するのはアレキサンダー大王の部将リシマコスとの関係に於いてである。彼は9000タレント(1タレント=$7500)にも及ぶ莫大な大王の財宝をペルガモンに運び知事フィレタイロスに保管を一任した。リシマコスの死後、フィレタイロスは財産を継承し、自らペルガモンの君主として周辺を続治した。(彼の王朝は150年間続いた。)甥であり養子でもある後継者のエウメネス(263~241 B.C.)はこの若い王国を他民族から守り、後を彼の甥であるアッタロス1世(241~197 B.C.)に譲った。彼は勝利の記念碑を建立する等、都市を重要な文化の中心として盛りたてた。この後を継いだエウメネス2世(197~159 B.C.)の時代にはローマと手を組んで王国はその最盛期を迎え、タウロス山脈辺りまで韻地を拡大した。都市を見下ろす丘の眺めアクロポリスが築かれ、アテネ神殿やゼウスの祭壇、アゴラ、休背鰭、図書館等、都市を飾った壮麗な建物は全てこの時期に属するものである。エウメネス2世を継いだ弟のアッロタス2世(159~138 B.C.)の時代は容易ならぬ数々の戦いがありローマに伺いを立てずには何もしないいわゆる着実な政策を遂行した。次の王、即ちペルガモンの最後の王アッタロス3世(138~133 B.C.)の時には人口12万人を抱えエーゲ一の大都市となったが世継ぎが無かった事もあり王国をローマに寄贈してしまった。トラヤヌス神殿やセラピス神殿(赤の広間)など壮大な建物が建造されたのはこの時期である。古代の名医ガレノスは500以上の医学的調査書を書き、多くの患者が訪れた療養所アスクレピオンで研究を続けた。キリスト教の流行により洗礼者聖ヨハネに捧げられた教会堂の中にセラピスの神殿が再建された。8世紀になると都市はアラブ人の攻撃を受けた。1330年頃ペルガモンと領地はオスマン・トルコの手に落ち、モスクやバザールが建設されベルガマと呼ばれる様になった。アスクレピオン、考古学博物館、赤の広間等がみものである。

ペルガモン 〔城壁〕
最も古い部分はB.C.4世紀に遡り現在も目にできるが、良い状態で残っているほとんどはB.C.2世紀のエウメネス2世の時代のものである。ブロックと石を混ぜて造ってある部分はローマ、ビザンチン時代に属する。

〔ヘロン〕
アクロポリスの門の前、都市を見下ろす丘の上部に亡くなったペルガモン王達をまつった場所がある。部屋が中庭を囲む様に配置されていた様である。へロンの下には部分的に現在も残るヘレニズムの居住区跡が発見されている。

〔上のアゴラ〕(市場)
ゼウスの祭壇の南、下の段丘にはドーリア式の柱に三方を囲まれ、谷側には商業の神ヘルメスに捧げた小さな神殿(B.C.2世紀)を備えた市場があった。アゴラの東、平たい御影石の下にはぜウスの祭壇を発見したカール・プーマン(1839~1896)の墓がある。

〔アテネの神殿〕
ペルガモンで最も古いこの神殿はB.C.4世紀に建てられ、6×10本の柱はドーリア式である。B.C.2世紀のエウメネス2世の時代に北側に回廊が造られている。破風の下のフリーズにはアテネを象徴するフクロウとゼウスを象徴する鷲が彫られていたが、ビザンチン時代に完全に崩壊している。後、ユスチニアヌスがここに教会堂を建設したが現在は建物の基礎が残るのみである。

〔王宮〕
東側城壁辺りにはヘレニズムの王達の住まいと付属の建物があった。初代の王フィレタイロスのものと思われる北の宮殿は後に軍の兵舎に変換されている。北から南へ歩を進めるとアッタロス1世やエウメネス2世、そしてアッタロス2世達の宮殿が目に入ってくる。貯水槽が水の供給源となっていた。

ペルガモン
〔武器庫〕
アクロポリスの最も守りの固い場所に長方形をした5棟の武器格納庫が並んでいる。後には穀物の貯蔵の為の倉庫として使用されたらしい。南手には近衛兵の宿舎があり、ヘレニズム時代の要塞も見られる。

〔図書館〕
エウメネス2世の時代に建てられ、20万巻の蔵書を以って古代世界で二番目に大きな図書館であった。アテネの神殿の後方に位置し、多くの彫像で飾られる部屋の中央には有名なアテネの模倣傷も立っていたと思われる。当時ベルガモン図書館の唯一のライバルはアレキサンドリアの図書館であり、互いの競争意識は激しいものであった。エジプトがパピルスの使用を禁止するとベルガモンは代用品としてその昔イオニア人達がやった様に羊や山羊の皮を採用してこれに対抗した。皮はパピルスよりも厚い為に書簡よりも本に適していた様である。後にマーク・アウレリウスはここの蔵書を全てクレオパトラに贈ったが、7世紀のカリフ・オマールのエジプト征服の際に破壊されてしまっている。


〔トラヤヌスの神殿〕
偶像化して崇拝された皇帝トラヤヌス(98~117A.D.)が着工し彼の後継者ハドリアヌス(117~118A.D.)によって完成を見た神殿である。およそ18mの高さがあるコリント式の建物には6×10本の支柱があり、広さ60×70心の舞台の中央に立っていた。神殿は27×20mを覆い、三方はイオニア式の柱廊に囲まれていた様である。

ペルガモン
〔劇場〕
丘の斜面に建ち、古代劇場の中では最も傾斜の急なものである。地形的な制約から十分な半円を確保できず、この様な並み外れた高さとなったのである。87段の席が、水平に区切られた二ケ所の踊り場で三つに分かれ、1万人の収容能力があったと言う。おそらく舞台は取り外し可能な木製の造りであったに違いないが、段丘に見られる石の舞台を支えた正方形の石から考えてエウメネス2世の頃に石の固定したものに変えられたと考えられる。劇場の正面は都市で最も長い段丘となっており、長さ240m、幅16mの通りの両側にはドーリア式の広場が見られる。段丘の北端にはディオニソスに捧げたイオニア式の神殿がある。本来の建物はB.C.2世紀に造られたが、現在のものはローマ時代に属するものである。セプティミウス・セベルスの息子で跡継ぎのカラカラ帝は3世紀に葡萄酒と舞台の神ディオニソスの司祭となっている。

ペルガモン 〔ゼウスの祭壇〕
180~160 B.C.に建てられたこの有名な祭壇はガリア人との戦いで勝利をもたらしたゼウスに感謝を込めて、その名誉の為に捧げられた。69×77mの段丘に高さ6mの盛りの上、三方を壁に囲まれた祭壇(広さ36.5×34.2m)が建っていた。西側は幅20mの階段がついて開放されている。階段に従うと支柱に囲まれた中庭に出、その中央に祭壇が設置されていた。長さ120m、高さ2.3mの巨大な浮き彫りは神と巨人の戦いを描いたもので、ケルト人に対するベルガモン文化の勝利を象徴している。柱廊に面した内壁を飾る2番目のフリーズは建国の歴史と神話上の祖先テレフォスを表わしている。建築素材の断片やレリーフはビザンチンの城壁に使用されてきたがカール・フーマンの発見によりベルリンに輸送された。今日、祭壇はベルリンのペルガモン博物館にて保存されている。劇場を離れ、古代の道を歩いて行くと右手に見えてくるのはへラの神殿である。

〔へラの神殿〕
古代の道を南東に折れると体育館の上部の神殿に出る。碑文によればこれはB.C.2世紀にアッタロス2世によってゼウスとへラに捧げられたものである。西には半円形の屋外談話場があり、東にはドーリア式のストアが見られる。

〔デメテルの神殿〕
B.C.3世紀にフィレタイロスとエウメネス1世によって造られたベルガモン最古の建造物の一つである。聖域(50×100m)の西側に祭壇のあるデメテルの神殿(7×13m)が立っていたのである。三方に広間があり中央の広間には約800名を収容できる9列の席が設けられ、神秘の儀式が行なわれていたと言う。元々はイオニア式であった神殿であるが、ローマ時代にコリント式の前柱式建物に変換されている。

〔体育館〕
B.C.2世紀、エウメネス2世によって建てられた古代世界で最も王威な建築物である体育館は、肉体面のみならず精神修養の場でもあった。18才以上の若い市民の為の上のテラス、15~18才までの青年達の為の中のテラス、そして15才以下の少年達の為の下のテラスと3部構成となっている。

上のテラス:3方に柱廊あり、北側には西から東に半円形の席が並ぶ読書室、皇帝の彫像がある大きな儀式用広間、そして大浴場等が備わっていた。此れ等の前にはエウメネス2世の時代に遡る、支柱に囲まれた36×74mの中庭があり、床はモザイクで装飾が施してあった。

中のテラス:上のテラスに比較すると小規模である。深さ14m、長さ212m、幅7mの体育館闊技場の東端にはヘラクレスとヘルメスに捧げた小さなコリント式の神殿が立っていた。

下のテラス:少年達の遊び場である下の館は今日でも一部残る円天井のついた階段で中のテラスと連絡されていた。

アクロポリス
〔アッタロスの家〕
B.C.2世紀、この素晴らしいヘレニズム時代の住居は2世紀にローマの執政官アッタロスによって再建されている。広間は2階建てで、最も広い部屋は西向きである。建築様式と装飾で非常に興味深い建造物である。

〔アクロポリスの門〕(主要門)エウメネスの城壁(B.C.2世紀)の中で最も重要と言える。1900年に発見された。東側に列柱のある四角い門庭があり泉が趣きを添えていた。

〔赤の広間〕
現在のベルガマ市内に位置するベルガモン時代の巨大な建物はおそらくハドリアヌス(117~138A.D.)によってエジプトの神セラピスに奉納されたと考えられている。ビザンチン時代に於いて、建物は3つの身廊のある教会堂に変換され聖ヨハネに捧げられた小アジアの主要7教会の一つであったが、8世紀にアラブ人の侵略を受けて破壊された。広さ60×26mの建物の中にはおよそ大人の背丈程の壁が現在もあり、かつては色つきの大理石に覆われた床が張られていたと見られる。北と南には浴場として機能した2つの円筒形の建物があり、左手の円形のものは現在モスクとして使用されている。神殿の内部には大理石の円柱に支えられた回廊がある。入り口右手の聖域にはニル川の水が貯水され、神殿前の広い庭(260×110m)の下にはセリノス川が涜れていた。アスクレピオンの北手、列柱の道の後方には約3万席を備えたローマ劇場と5万席の円形野外劇場が見られた。


〔アスクレビオン〕(療養所)
医学の神アスクレピオスに捧げられた聖域の起源はB.C.4世紀に遡る。伝説によると狩りの途中で落馬したペルガモンのアルキアスはエビダウロスにて治療を受けた。ここで医学技術を習得した彼はペルガモンに戻って聖なる泉の側に医学の神アスクレピオスの為に神殿を建立し、患者達の治療に当たったのである。ハドリアヌスとアントニウス・ピウスの治世に於いてアスクレビオンはその最盛期(2A.D.)を迎え、ヒポクラテスに次ぐ高名な医師ガレン(131~210A.D.)等がここで働いた。コス島やエビダウロスとともに6世紀まで機能したこの有名な療養所では暗示・睡眠、日光浴、薬草、温水浴、泥風呂等の療法が試みられたと言う。

アスクレビオン
〔聖なる道〕
かつては下市と聖域を結んだ1kmの参道であった。現在残る150m程の道を歩いてみると柱の並んだ当時の壮大な儀式の通路をしのぶ事ができる。

〔プロフィロン〕
ここを潜ると円柱の並んだ内庭に出る。「神の御名に於いて、死はここへの立ち入りを禁止す」との碑文が門に記されている。アスクレビオンを訪ねたが診察してもらえなかった重病の男は帰宅の途中で絶望のあまり自殺しようとした。その時、丁度椀の中に2匹の蛇がいるのを見つけた男は、その毒を飲み干したが、しかし死ぬどころか忽ち病は回復してしまったのであった。中庭の中央に残る2匹の蛇と椀を刻んだ円柱の一部はこの話に由来している。この男に会った時、医師ガレンは「毒が解毒剤として作用する事は知っていたが患者に試してみる危険は犯せなかった」と言い、これ以降、蛇と椀はアスクレビオンの象徴となっている。

アスクレビオン
〔図書館〕
プロフィロンの側、聖域の北端に建つB.C.2世紀の造りである。11×16mの広さを持つ内部のホールには選び抜かれた大理石が使われ、二重の壁で湿気から保護されたパピルスの書簡は小さな壁がんに保管されていた。入り口の向かい、最も大きい壁がんには、現在ベルガマ博物館に展示されているハドリアヌスの像が立っていた。保存状態の良好な北の柱廊の壁に治って(125m)歩くと西端に劇場が見えてくる。

〔劇場〕
劇場と図書館は治療を受けにやってくる患者達に憩いのひとときを提供していた。半円形の典型的ローマ様式の劇場は観客席3,500席を備え、舞台は3階建てであったと思われる。舞台に近い前方の席は貴賓席であった。アタテュルクの訪問の際に修復の手入れがされている。

〔西の回廊〕
柱廊の斜面にかつて体育館があったと考えられている。幅90mのドーリア式広間と連絡している。

アスクレビオン
〔南の回廊〕
二階建てで、柱に支えられた地下室が備わっていた。

〔トイレ〕
西と南の回廊がぶつかった所にあり、木の屋根はコリント式の4本の柱に支えられていた。男女別になっており、屋根は採光と換気の為に開閉式であった。

〔聖なる泉〕
アスクレビオンの中心にあるこの泉の水は医学的効力は無かったが患者達はそれを飲用したり体を清めたりした。今日でも水は湧き出ている。この他、聖域には、劇場の手前と西の回廊の手前に一つずつ泉が造られていた。(泥風呂治療用)

〔沈黙の間〕(睡眠の神殿)
地盤のみ残っている。ここでは幾つかの謎めいた儀式が行なわれていた様である。白い衣に身を包んだ患者達はオリーブの枝で飾った羊を神殿に捧げなければならなかった。眠りから覚めた後、患者達は夢の内容を語り、それによって司祭は患者に適した治療方法を決定したと言う。驚くべき事に、発掘調査中にここから多くの白骨体が見付かっている。おそらく治療中に死亡した患者達は秘密のうちにここに葬られたのに違いない。治癒率の高い療養所の名声は、死亡した患者の数をこうして隠滅する事で保たれていたのかもしれない。

〔地下通路〕
長さ82m、幅2.5mの通路で聖なる泉とテレスフォロスの神殿が連絡されていた。
悪天候の時には聖なる泉とテレスフォロスの神殿を結ぶ通路となった他、暑い夏には患者達が涼をとるにも適していた。この通路に仕掛けられた穴からの声により患者連に治療効果を更に信用させたと言われている。

アスクレビオン
〔テレスフォロスの神殿〕
全地域の中で最も神聖とされる二階建ての神殿である。一階には丸天井つきの通路が敷かれ、溝や泉は治療の為に使用されたものである。広い階段を登った上階には、6つの後陣を備えた円形の部屋が中央に設置されていた。

〔ゼウス・アスクレビオスの神殿〕
2世紀、アントニウス・ビウス帝の時代に建てられたこの神殿は本来20mの高さがあり、壁がんはもとより、7方の角には彫像が飾られていた。プロフィロンのすぐ左手に位置している。


〔ベルガマ考古学博物館〕
ベルガモンと周辺からの出土品の数々を展示して1936年に開館した、二棟の長い建物と中庭から構成されている博物館である。入り口の後方にある中庭にはニケの像、トラヤヌス神殿の破風の装飾、ゼウスの祭壇の模型、大理石像、墓碑、皇帝達の胸像等が展示されている。中庭の後方、第1室にはエロスの胸像を含める多くの像の他、土器や宝石、ランプ等、古代の小さな出土品が見られる。アスクレビオンの図書館にあったハドリアヌス像もここに置かれている。その前手にあるメドゥーサの頭部を描いたモザイクの床はベルガマの個人の家から発見されたものである。右手の第2室は民族学のセクションでアンクリアの各地からの家庭用品やじゅうたん、キリムが展示されている。
ページの先頭へ トップページへ