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トルコ基本観光情報

【トルコ建国の父】ムスタファ・ケマル・アタテュルクの歴史と偉業


ムスタファ・ケマル・アタテュルク(ケマルパシャ)は、トルコ共和国の初代大統領です。

トルコに行くとどこでもその名を目にしたり耳にしたりするほど、トルコ人の心の中で生き続けるアタテュルク。ここではそんなトルコ人が敬愛してやまないトルコ建国の父アタテュルクの生い立ちや偉業などを徹底解説します。

「ムスタファ・ケマル・アタテュルク」の名の意味・由来

本来の名はムスタファ(Mustafa)です。ケマル(Kemal )中学校の数学教師ムスタファ・サブリ大尉から授かった名で、「完璧・成熟」を意味します。

アタテュルク(Atatürk)は、自身がトルコ共和国の初代大統領になってから制定した創姓法によって与えられたものです。トルコ語でアタは「父」、テュルクは「トルコ」を意味します。文字通り「トルコの父」。アタテュルクの治績がなければ、近代トルコの誕生はなかったかもしれません。

日本の教科書では「ケマルパシャ」と紹介されているかもしれません。「パシャ」というのは、オスマン帝国将校時代に功績をあげたことで与えられた称号です。

アタテュルクの生い立ち|軍人になりたかった少年時代

ムスタファ・ケマル・アタテュルク幼年期(1881~1892年)

1881年、当時オスマン帝国領であった現ギリシャのテッサロニキにて、現マケドニア(又はアルバニア)出身であり税関員で材木商を営んでいた父アリ・ルザと中央アナトリアのカラマン出身のトルクメン人系であった母ズベイデの6人兄弟の5番目の子として誕生し、「ムスタファ(Mustafa)」と名付けられます。ちなみに妹のマクブレ以外の兄弟は幼いうちに亡くなっています。

ムスタファの教育に関して、敬虔なムスリムであった母親は地元の小学校を、父親は当時の近代的なシステムで教育を行っていた世俗的な私立の小学校にと両親は常に意見が合わず、結局母の希望通りに地元の小学校に入学しますが、数日後には父親が世俗的な私立学校に編入させ、ムスタファは父親のこの判断を生涯感謝し続けます。

しかし、1888年小学一年生の時に父アリ・ルザが亡くなってしまうと、伯父の農場へ引っ越してしまいます。ただ、そこには学校が無かったので、テッサロニキの叔母の家に再度引っ越し、そこの小学校で学び卒業します。

軍人教育期(1892~1905年)

ムスタファの大きな夢は軍隊に入ることでした。しかし、母親はムスタファが軍人になることを断固として反対していたため、母親に内緒でセラーニク軍事中等学校の試験を受け見事合格し、入学します。

この中学校の数学教師ムスタファ・サブリ大尉が「私と同じムスタファと言う名だからあなたを今日から“ムスタファ・ケマル”とする」と、“完璧・成熟”と言う意味の「ケマル」の名を授け、それ以降「ムスタファ・ケマル」と名乗ることになりました。

また、この学校のフランス語教師ナーキーユッディン大尉から受けた自由な考え方は若いムスタファ・ケマルの精神に大きく影響したと言います。

その後は、1896年にマケドニアのマナストゥル軍事高等学校に入学、歴史教師メフメット・テヴィフィクにより歴史的興味への影響をうけ、1898年に成績第2位でこの学校を卒業しました。

1899年イスタンブールの陸軍士官学校へ入り2か月で軍曹となり、1902年に歩兵少尉クラス549人中8位の成績で卒業し、同年2月に中尉の階級で陸軍大学に入ります。

この期間、学校の友人達と一緒に政府の行政と政策に対しての不足点や間違った点を解説した手書きの新聞を発行していましたが、学校運営側によりマークされつつも罰せられることなく卒業まで新聞を書き続け、1905年1月に参謀大尉の階級で卒業します。

その後、ムスタファ・ケマルはトルコのために人生をかけていきます。

世界史におけるアタテュルクの偉業|トルコ共和国建国までの道

オスマン帝国将校時代(1905~1919年)

陸軍大学卒業後、参謀大尉として軍務を始めたムスタファ・ケマルは、伊土戦争やバルカン戦争で活躍をしながら頭角を現して出世していき、特に第1次世界大戦中のチャナッカレ戦争(ゲリボル戦争)でアンザック・英・仏の連合国地中海遠征軍の上陸作戦に対して勝利し国土防衛に成功したことで一躍有名になり、世界に名を知られるようになりました。

1917年3月にパシャの称号が与えられ、1918年8月には第36代オスマン帝国最後の皇帝メフメト6世より“スルタンの名誉副官”の称号を得ます。

ムスタファ・ケマル・アタテュルク
オスマン帝国軍は抗戦を繰り広げておりましたが、第一次世界大戦中東戦線の終止符の為に1918年10月30日に結ばれたムドロス休戦条約では敗戦国と見なされ、オスマン帝国にとって理不尽で重い条約内容が課せられてしまいました。

その内容は軍の分散、武器の撤収、オスマン帝国国土を連合国が占領できるというものでした。条約の後、着々とイスタンブールを含めた帝国領土が連合国の列国によって分割され、イスタンブールは連合国、コンヤとアンタルヤはイタリア、キリキア地方はフランス、イズミールはギリシャに占領されてオスマン帝国は実質的に滅亡状態となってしまいました。

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トルコ独立戦争における祖国解放軍指揮官時代(1919~1923年)

オスマン帝国は欧州各国に領土を分割され、衰微の一途をたどっており帝国解体の危機にあるにもかかわらず、当時の皇帝は外国の支配下に入ってもいいと考える無力な人でしかありませんでした。

ムスタファ・ケマルは、外国に支配される状況を受け入れることができず、祖国を開放する徹底抗戦を行うため、イスタンブールにて愛国家の将校達と密かに集結し綿密に計画をします。

オスマン政府よりアナトリアへ配属されたことを逆手に取り、第一次世界大戦の翌年1919年5月16日にアナトリアで国土解放戦争の決意を説明するためにバンドゥルマ号という名の船でイスタンブールより出発、5月19日に黒海沿いのサムスンという町へ上陸し会議(カンファレンス)を開きました。

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サムスンの後にはアマスヤ、スィワス、エルズルムでも会議を開きトルコ全土に分散されていた軍人達を収集し、侵略した連合軍に対する各地の抵抗組織を終結させた「アナトリア・ルメリ攻防権利委員会」を結成し、連合国軍からの真の独立を求め挙兵します。

これがトルコ独立戦争の幕開けとなり、ムスタファ・ケマル率いるトルコ軍は欧州各国軍と3年間に渡り戦い続けます。ちなみに、現在トルコではこの5月19日がトルコ祖国解放戦争開始の記念日とみなされています。

ムスタファ・ケマル・アタテュルク
1920年4月23日にアンカラにてトルコ大国民議会を開かれ、ムスタファ・ケマルは投票により議会と政府の議長に選出されました。トルコ大国民議会は構成議会のように機能しながら国家攻防を実行するアナトリア政府の基礎を確立しました。

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同時に、イスタンブールのスルタン制オスマン帝国政府とアンカラの大国民議会の二重政権が生まれたことになり、イスタンブールにいるスルタンのメフメト6世はこれを認めず、ムスタファ・ケマル及び首謀者たちを国家反逆罪として死刑もあり得ることを宣告をしたうえで逮捕状を出しますが、時代はもちろん国土防衛抵抗指揮官であったムスタファ・ケマル一派に向いていたため、オスマン政府に捕まることはありませんでした。

1920年8月オスマン政府は、帝国領土のほとんどの部分を失うとともに、ほぼ帝国解体を意味する内容のセーヴル条約を連合国と結んでしまいます。ムスタファ・ケマル軍はこれに反対し、独自の方法で国土を攻防する為に疾走します。

モスクワ条約で東方領土の保全が確立すると西部の占領国ギリシャへ反転攻勢に力を注ぎ、1922年ギリシャ軍を破りイズミール奪還に成功したことをきっかけに国土のほとんどを取り返すことに成功します。

同年10月に各国との停戦協定であるローザンヌ条約を結び、漸くトルコ独立戦争が終結しトルコの平和を回復することに成功しました。

その後、トルコ大国民議会は1922年11月1日にオスマン帝国スルタン制を廃止し、ヴァフデッティン(メフメト6世)を退位させ、ここで623年間続いたオスマントルコ帝国が終焉しました。

1923年10月29日月曜日午後8時半に共和国が宣言され、ここにトルコ共和国が成立。ムスタファ・ケマルは選挙で大統領に就任します。

トルコ初代大統領 ムスタファ・ケマル・アタテュルク

「アタテュルク」の誕生:トルコ共和国初代大統領時代(1923~1938年)

ムスタファ・ケマルは、トルコを「現代文明レベルへ上げる」目的で一連の根本的な改革を行いました。

一党独裁で欧化政策を実行していき、その中の1934年に成立した創姓法により全国民が姓を持つことを義務化した際に、11月24日大国民議会より“トルコの父”を意味する「アタテュルク(Atatürk)」の姓が与えられ、ムスタファ・ケマル・アタテュルクとなりました。

1923年の後、1927年選出、1931年選出、1935年選出と4期にわたり残りの生涯を大統領としてトルコの近代化に努め、アタテュルク革命を成し遂げた建国の父は、1938年57歳の生涯を閉じました。

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アタテュルクが行った改革

ムスタファ・ケマル・アタテュルク
アタテュルクの偉大さは一党独裁政権であったにもかかわらず独裁支配に陥らず、近代的ナショナリズムでトルコを民主主義共和国に導く改革を矢継ぎ早に実現したことです。

例えば男女同権は1926年、当時最も進歩的といわれたスイスの法律にならい実現します。それ以前は聖典コーランに基づくシャリーア(イスラム法)で女性の権利が制限されていました。

女性参政権は日本よりは約30年に確立します。1937年には政教分離を宣言します。イスラム教国で初めてのこと。現在でも宗教が政治をコントロールするイスラム教国がある中で、トルコの近代国家への歩みは政教分離政策に負うところが大きいといえます。

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ムスタファ・ケマル・アタテュルク
アタテュルクが行った改革は数多くありますが、中でもメインとなった改革を下記にてご紹介いたします。

  • 1.近代的学校の導入(1924年3月3日):まず初めに行ったのが、イスラーム神学校(マドラサ)を廃止して全国の学校を教育省管轄下に置くことでした。教育機関が一堂に会することで、教育は全国的に一律の質を保持することに成功しました。

  • 2.帽子改革(1925年11月25日): フェズ(トルコ帽)やターバンなどの着用を禁止し、大国民議会の会員及び国家公務員は帽子を被ることが義務付けられました。また、トルコ国民もこれに準ずることとなりました。

  • 3.西暦の導入(1926年1月1日):イスラーム暦であるヒジュラ暦では他国との公務や国際貿易に支障が出ると言う事から、西暦へ移行しました。

  • 4.一夫多妻制の禁止(1926年10月4日):一夫一婦制が導入され、公的婚姻が義務づけられました。また、相続権において平等が確立されました。

  • 5.文字改革(1928年11月1日):新しいトルコ語文字として、それまでのアラビア語表記の代りにアルファベット表記を採用しました。法律決定後、成人の国民に読み書きを教える為に国立学校が各地に設立され、同年11月24日には国立学校の教頭(主席教員)として宣言されました。

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  • 6.計量単位の改革(1931年):オスマン帝国の計測・軽量単位から、国際的な計測単位m(メートル)とKg(キロ)が採用され、全国で統一されました。

  • 7.女性の参政権の導入(1934年):女性の選挙権と被選挙権が確立されました。

  • 8.創姓法の導入(1934年6月21日):全国民が姓をもつことを義務付けられました。また、同年11月26日にはそれまでの敬称や称号が廃止されました。

  • 9.服装改革(1934年12月3日):宗教・宗派に関係なく聖職者であっても礼拝所と礼拝以外での宗教的な服装の着用が禁止され、政府は各宗教と各宗派から適した一人の聖職者のみに礼拝所と礼拝以外での宗教的な服装の着用を許可しました。ショールやブルカは好まないものとし近代的な服装の着用を推進しました。

  • 10.週休日の変更(1935年):イスラム教国では金曜が休日でしたが、週休日を土曜の午後と日曜に変更されました。

  • 11.近代的工場の建設

など、他にも多数あります。

ムスタファ・ケマル・アタテュルク
なお、均質で統一された国家を作るためにトルコ化政策が実施されました。それに伴い、国内にいるトルコ人以外の少数派民族も公共の場ではトルコ語を話すことが義務づけられ、トルコ語ではない地名や姓もトルコ語に変更されました。

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アタテュルク廟|アタテュルクが永遠に眠る場所

祖国トルコのために尽くしたアタテュルクですが、1937年頃から体調を崩し始め、1983年初頭に肝硬変と診断されます。

国内外から医師が治療にあたりますがその甲斐なく、アタテュルクは1938年11月10日午前9時5分に執政室のあったドルマバフチェ宮殿にてその生涯を閉じました。

ムスタファ・ケマル・アタテュルク
アタテュルクの遺体は、葬儀の後に涙にくれるイスタンブール市民に見送られながらアンカラへ送られ、11月21日アンカラで行われた告別式の後にアンカラ民俗学博物館のお墓に一時安置されました。

それから15年後の1953年11月10日に彼のために作られたアタテュルク廟(Anıtkabir:アヌトゥカビル)に埋葬され、ここがアタテュルクの永遠の住処となり、数十年経った現在でも毎日国内外からお参りに来る人が後を絶ちません。

アタテュルク廟は、アンカラ中心地の街の喧騒から離れた町を見渡すことができる小高い丘の上に作られた、アナトリア形式を供えた広大な廟となっています。

アタテュルクがなくなった後、アタテュルク廟を建設するに当たり1941年国際コンペティションで国内外から設計案を募り、最終的にトルコの建築家エミン・オナト(Emin Onat)とオルハン・アルダ(Orhan Arda)が選ばれました。

設計選出に1年、1944年10月に着工し、1953年10月に長い歳月がかかりやっと完成したのが現在のアタテュルク廟です。全く宗教色の無い、第二次国家建運動に影響した新古典派建築の造りですが、トルコの大地に君臨した過去のヒッタイト、古代ギリシャ、セルジューク、オスマン帝国などのアナトリアの建築の特徴を備えた威厳のある建物です。

アナトリアを保護したいという願望からメインの霊廟ホールはハリカルナッソス廟をモデルとしたともいわれています。

ライオンの道と呼ばれる262mの参道を通り、63万㎡の平和広場に入り、左手奥にある12万㎡のメインの“名誉の殿堂”と言われる霊廟ホールにシンボルとなるアタテュルクの石棺がありますが、彼の遺体はその下の墓室に埋葬されています。

廟の回廊は「アタテュルクとトルコ独立戦争博物館」となっており、アタテュルクの愛用品・遺品などが展示され、彼の成し遂げた業績やトルコ共和国の独立の歴史を学ぶことができます。

アタテュルク廟 アンカラ
なお、1973年に亡くなったトルコ共和国初代首相であり第2代大統領であったイスメット・イノニュ(İsmet İnönü)も、アタテュルクの石棺がある霊廟の広場を挟んで向かい側の回廊中央に埋葬されています。

ちなみにこのアタテュルク廟は大統領府ではなく、トルコ共和国参謀本部(Türkiye Cumhuriyeti Genelkurmay Başkanlığı)、すなわち軍が全てを管轄・運営しています。微動だにしない憲兵が廟を守っており、1時間に1回の憲兵交代の時間は大変見ものです。

トルコの国民の祝日とアタテュルクの命日の11月10日は、政府によって公式記念式典が行われます。

トルコ建国の父が眠る廟を訪れ、是非トルコに尽くしたアタテュルクに思いをはせてみて下さい。

名称 アタテュルク廟(Anıtkabir)
住所 Yücetepe, Akdeniz Cd. No:31, 06570 Çankaya/Ankara, Turkey
開館時間 9:00~17:00(冬季は16:00まで)
定休日 なし
※共和国関係の祝日はセレモニー・公式式典が行われる可能性がありますので、
その間は入場できません。
(場合によっては前日午後も式典準備のため入場できないこともございます。)
入場料 無料
公式サイト https://www.anitkabir.tsk.tr/index_eng.html

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アタテュルクの命日(11月10日)はトルコ全土が止まる日

ドルマバフチェ宮殿
トルコ全土が年に1度止まる日をご存じでしょうか。

トルコ共和国建国の父・初代大統領であるムスタファ・ケマル・アタテュルクがドルマバフチェ宮殿で亡くなった命日の11月10日9時5分、毎年この時間トルコ全土で1分間の黙祷が捧げられます。

この日はトルコ人にとってとても大切な日で、アタテュルクが息を引き取った9時5分になった瞬間にトルコ全土でサイレンが鳴らされ、働いている人は建物の前に並び、通勤中や移動中の人はバスや車を止めて外に出て、学生や幼稚園生は学校で、歩行中の人は足を止め、家の中の人は窓際にて、直立不動で敬服しアタテュルクを偲び黙祷を捧げます。

なんと運航中の路面電車のトラムさえ、この時間に停車して乗車客全員が起立をし、ドルマバフチェ宮殿の方向へ向いて黙祷をするほど、アタテュルクはトルコ人から今でも愛され最高の敬意が払われる存在なのです。この日、アタテュルクを偲び涙する人がトルコ全土どのくらいいるのでしょうか…。

なお、ドルマバフチェ宮殿のアタテュルクが永遠の眠りについたベッドはトルコ国旗で包まれ、当時のままの状態で展示され、永遠の喪に服されております。トルコに生涯を捧げたアタテュルクが最後に見た景色を、是非見に訪れてみてください。

名称 ドルマバフチェ宮殿(DOLMABAHÇE SARAYI)
住所 Vişnezade, Dolmabahçe Cd., 34357 Beşiktaş/İstanbul
アクセス イスタンブール新市街。Tramvay(トラム)のKABATAŞ(カバタシュ)駅にて降車、徒歩3分。
タクシム広場よりFüniküler(ケーブルカー)にてKABATAŞ(カバタシュ)に下り、徒歩3分。
開館時間 9:00~18:30 (チケット販売・最終入場時間17:30まで)
定休日 月曜日、元旦、5/1メーデー、砂糖祭り及び犠牲祭の初日
※その年により変更になる可能性多々あり。前もって必ずご確認ください。
入場料 セラームルック 90TL、ハレム 60TL
所要時間 1時間半~2時間
服装 特に無し
写真撮影 宮殿内撮影禁止
公式サイト https://www.millisaraylar.gov.tr/en/palaces/dolmabahce-palace

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「私がトルコだ!」アタテュルクの残した名言

ムスタファ・ケマル・アタテュルク
無政府状態の当時、独裁者としてトルコの礎を築いたアタテュルクですが、普通の独裁者と違うところは、極度の民族主義、世俗主義、共和主義で祖国トルコと国民のみが念頭にあったこと、また生産者であり弱者である農民に重きを置き政策をとったこと、政教分離を徹底したことなどにより、近代ナショナリズムでトルコ国家の安定に成功したことだと言われています。

1926年の議会における演説で「私がトルコだ!」と発言したエピソードからも、祖国トルコに対するアタテュルクの思いが見て取れます。

そんなアタテュルクの信念を垣間見ることができる、彼が残した数ある名言のいくつかをご紹介したいと思います。

  • Ne Mutlu Türk’üm Diyene!
    “なんて幸せであろう 「私はトルコ人」と言う人たちは! (私がトルコ人と言える人たちは、な んて幸せであろう)”
    ※共和国設立10周年の1933年10月29日の講演での言葉。

  • Benim naçiz vücudum elbet bir gün toprak olacaktır, ancak Türkiye Cumhuriyeti ilelebet payidar kalacaktır. Ve Türk milleti güven ve mutluluğun kefili olan ilkelerle, uygarlık yolunda, tereddütsüz yürümeye devam edecektir.
    “私の取るに足らない体はいつの日か土になる、しかしトルコ共和国は永遠に不滅である。
    そして信頼と幸福を保証する原則をもって、ためらうことなく文明の道を歩み続けるだろう。”

  • Eğer bir gün benim sözlerim bilimle ters düşerse bilimi seçin
    “もしいつか私の言葉が科学に反すことがあれば、科学を選べ”

  • Beni görmek demek mutlaka yüzümü görmek değildir. Benim fikirlerimi, benim duygularımı anlıyorsanız ve hissediyorsanız bu kafidir
    “私と会うと言うことは必ずしも私の顔を見ると言うことではない。
    私の思考・感情を理解して感じているならば、これで充分である”

  • Gençler cesaretimizi takviye ve idame eden sizlersiniz. Siz, almakta olduğunuz terbiye ve irfan ile insanlık ve medeniyetin, vatan sevgisinin, fikir hürriyetinin en kıymetli timsali olacaksınız. Yükselen yeni nesil, istikbal sizsiniz. Cumhuriyeti biz kurduk, onu yükseltecek ve yaşatacak sizsiniz
    “若者たちよ!私達の勇気を強化して維持していくのはあなた達です。
    あなたたちは、受けている教育と知識で人類と文明と愛国心と思考の自由の最も貴重な象徴となるでしょう。台頭する新世代、未来はあなた達です。共和国を私たちが造りました。これを成長させて生かせていくのはあなた達です。”

  • Ben, manevi miras olarak hiçbir nass-ı katı, hiçbir dogma, hiçbir donmuş ve kalıplaşmış kural bırakmıyorum. Benim manevi mirasım, bilim ve akıldır. Benden sonra beni benimsemek isteyenler, bu temel mihver üzerinde akıl ve ilmin rehberliğini kabul ederlerse manevî mirasçılarım olurlar.
    “私は精神的な遺産として条文、協議、固定された条件を残しません。私の精神的な遺産は、化学と知性です。私の後に私を模範とするものは、この基本的な軸において知恵と化学の導きを認めるならば、私の精神的な相続人となれるでしょう。”

  • Kadınlarımız için asıl mücadele alanı, asıl zafer kazanılması gereken alan, biçim ve kılıkta başarıdan çok, ışıkla, bilgi ve kültürle, gerçek faziletle süslenip donanmaktır. Ben muhterem hanımlarımızın Avrupa kadınlarının aşağısında kalmayacak, aksine pek çok yönden onların üstüne çıkacak şekilde ışıkla, bilgi ve kültürle donanacaklarından asla şüphe etmeyen ve buna kesinlikle emin olanlardanım
    “女性にとって本当の戦いの場は、本当の勝利を得る必要がある場所であり、形や服装ではなく 栄光と知識と文化で本当の美徳で飾って咲き誇る事です。私は、私たちの立派な女性達がヨーロ ッパの女性に劣ることなく、それよりも多くの点で勝る形で栄光と知識と文化で咲き誇れるこ とを決して疑うことなく確信している一人です。”

ムスタファ・ケマル・アタテュルク

アタテュルクとトルコ国歌

愛国心で満ち、祖国を救出して近代国家を築いたトルコの父アタテュルクを敬愛してやまないトルコ人。トルコでは、どこもかしこもアタテュルクでいっぱいです。公園、学校、会社、役所、企業、どこでもアタテュルクの肖像画や銅像が飾ってあります。

老若男女問わず、当たり前に祝日には堂々と国旗を掲げ、当たり前に声を大にして国家を歌う姿は勇ましく、祖国を思う気持ちであふれています。

トルコの国歌であるメフメト・アーキフ・エルソイ(Mehmet Akif Ersoy)作詞「独立行進曲(İstiklal Marşı イスティックラル・マルシュ)」は、アタテュルクが先導した独立戦争を歌ったもので、独立戦争中の1921年3月のアンカラでの大国民議会にて国歌として決定されました。独立に向け祖国を守り抜くトルコ人のたちと祖国への感情が込められた曲です。

ムスタファ・ケマル・アタテュルク
作詞家メフメット・アーキフは「独立行進曲」で、独立戦争に勝利すると言う信念、トルコ人兵士の勇気と献身への信頼、トルコ国民の独立、権利、祖国、信仰への愛情を表現しています。

トルコのどの学校、どの教室、どの教科書にもこの歌詞が掛かれており、トルコ人は子供の時から、もしくは生まれた時から愛国教育を受けながら祖国とアタテュルクを敬愛する心が育てられます。

独立行進曲の詩は10節ありますが、通常国歌斉唱で歌われる1節と2節をご覧ください。

『İstiklal Marşı(独立行進曲 イスティックラル・マルシュ)』

Korkma! Sönmez bu şafaklarda yüzen al sancak,
(恐れるな!消える事の無い暁にはためく紅の旗)
Sönmeden yurdumun üstünde tüten en son ocak.
(消える事無く祖国の上で燃え上がる最後の灯)
O benim milletimin yıldızıdır, parlayacak.
(それは我が民族の星、光り輝く)
O benimdir, o benim milletimindir ancak.
(それは我が物である、それは我が民族の物である)

Çatma, kurban olayım, çehreni ey nazlı hilâl!
(顔を歪めるな、お前の為に犠牲になろう、ああ 新月旗よ!)
Kahraman ırkıma bir gül! Ne bu şiddet, bu celâl?
(勇敢な我が民族に微笑め!何という強さ、何という怒りであろうか?)
Sana olmaz dökülen kanlarımız sonra helâl…
(お前にはダメだ 我らの流れた血は 後で許せ…)
Hakkıdır, Hakk’a tapan, milletimin istiklâl!
(権利である、真実(の神)を信じる我が民族の独立は!!)

なお、北キプロス・トルコ共和国でもこの独立行進曲が国家として歌われています。

また、トルコの国民の祝日では、街中トルコ国旗で真っ赤に染まり、イズミル攻防戦を鼓舞する“Yaşa Mustafa Kemal Paşa,yaşa!(万歳ムスタファ・ケマル・パシャ、万歳!)”の歌詞が印象的な「イズミル行進曲(İzmir Marşı)」や、共和国10周年記念日を祝う「10. Yıl Marşı (10周年行進曲)」が流れ、祝福モードでいっぱいになります。こちらも一度ぜひ聞いてみて下さい。

アタテュルクだけでなく、祖国の為に命を懸けて戦った先人に対して感謝と敬意、郷土愛に満ちた熱い国民、それがトルコ人です。

アタテュルクの名を冠するトルコの施設

アタテュルク国際空港

イスタンブールにあるアタテュルク国際空港は、トルコ最大の空港として長年活躍してきましたが、現在は2019年4月に全面開港したイスタンブール空港にその機能を移転しています。

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アタテュルク・オリンピヤト・スタドゥ

アタテュルク・オリンピヤト・スタドゥは、トルコ最大の多目的スタジアムです。サッカーの試合でよく利用され、2004-05のUEFAチャンピオンズリーグ決勝でACミランと対戦したリヴァプールが逆転勝利した「イスタンブールの奇跡」の舞台としても知られています。

2020-21のUEFAチャンピオンズリーグ決勝も、ここアタテュルク・オリンピヤト・スタドゥで開催されることが決まっています。

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アタテュルクの養女|世界初女性軍用機パイロット サビハ・ギョクチェン

サビハ・ギョクチェン
イスタンブールのアジア側にある第2空港の名で知られるサビハ・ギョクチェン。実はこの方、トルコ初の女性パイロットの一人であり、世界初の女性軍用機パイロットの名である事は御存じでしょうか。しかもサビハは、アタテュルクの8人の養子・養女の一人でもあるのです!

サビハは1913年マルマラ海南岸のヤロワで生まれましたが、幼いころに両親を亡くし、兄に育てられていました。1925年12歳の時、ヤロワに滞在していたアタテュルクに教育を受けたい旨を直訴する機会があり、アタテュルクは彼女の生活が困難なことを知り、兄から許可を得た上でサビハを養子に迎え、アンカラのチャンカヤ宮殿で育てました。サビハはアタテュルクにより英才教育を受けさせられます。

1934年の創姓法の際、アタテュルクより“空”を意味する「Gökçen(ギョクチェン)」と言う姓を授けられますが、これは未だ彼女がパイロットになる前のことです。

その後、1935年テュルククシュ民間航空学校に入学して航空免許を取得し、1936年アタテュルクはサビハに世界最初の軍用機パイロットになるように薦め、彼女は空軍士官学校に入り特別な訓練を受けます。1937年戦闘実践に参加し、世界初の戦闘機パイロットとなりました。

1938年にはバルカン半島諸国の政府より招待を受け、単独飛行で5日間のバルカン周遊を行います。その後は、テュルククシュ航空学校のチーフ教官として1955年まで多くのパイロットを育成し、また数々の賞も受賞しました。1996年に83歳でフランス人パイロットが同伴の元Falcon 2000機で行ったのが彼女の最後の飛行でした。

イスタンブールの第2空港の名となっているサビハ・ギョクチェンは、このような先進的な女性であったことを頭の片隅に入れて頂くと、また違う気持ちでこの空港を利用頂けるかと思います。

アタテュルクはサビハを始め、女性や未来を担う子供たちの教育に力を注ぎ、世界でも通用する人たちを育成してきました。アタテュルクの精神は今のトルコ人にも引き継がれています。

トルコを独立させて近代化に生涯をかけたアタテュルク。彼が作ったトルコ共和国に是非訪れて、今でも発展が進んでいる近代トルコをご自身の目でご覧になってみてください。

 
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