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キリスト教とはどんな宗教か?誕生から教えなどを徹底解説!


キリスト教は、絵画、音楽、文学、ヨーロッパのあらゆる文化、社会の発展に計り知れない大きな力を与えてきました。日本でも町中で教会を目にすることは多いと思いますが、日本のキリスト教徒の数は人口の1割にも満たない程度と大変少ないです。ですが、クリスマスをはじめ身近なところでキリスト教は浸透しています。教会で結婚式を挙げられる方も多いと思いますが、そのほとんどが「キリスト教式」になります。

ただ、キリスト教がどのように生まれ、どのように広がっていったなど、詳しく知る人は少ないと思います。そこで、ここではキリスト教の誕生から教え、聖書や聖地についてなど、キリスト教にまつわる事を徹底解説していきます!

目次

イエス・キリストとは?~誕生から昇天まで~

イエス・キリスト
誰もが耳にしたことのある人物【イエス・キリスト】はキリスト教の教えを説いた人物です。
キリストは今から2000年以上前の紀元前6年頃、パレスチナのユダヤの国、南ユダヤのベツヘレムで誕生しました。日本でも当たり前に使われている西暦ですが、実は、イエス・キリストが生まれたとされた年を元年(紀元)としています。それでは、先ずはイエス・キリストの誕生から最期までを解説していきます。

イエス・キリストの誕生

イエス・キリスト
イエス・キリストの母マリアは、古代イスラエル王国のダビデ王の血を引いており、同じくダビデ家の末裔である大工ヨゼフと婚約をします。婚約中のある日、マリアの前に神の使いである天使ガブリエルが姿を現し、聖霊によってマリアが神の子キリストを妊娠したという“受胎告知”を受けました。やがてマリアからこのことを知らされた婚約者ヨゼフは、妊娠していることを知ると、結婚前に子供が生まれることは信じられないとマリアと縁を切ろうとします。しかしそんなヨゼフの元にも天使ガブリエルが現れ、マリアが生む神の子に「イエス」と名付けること、神の子とマリアを守るようにと告げます。信仰心の厚いヨゼフはお告げのとおり、マリアを妻として迎えることにしました。
キリストの母は誰もが知る「聖母マリア」ですが、マリアは“聖霊によってキリストをみごもった”とあることからヨゼフは実父ではなく「イエスの養父」と表現されています。

この頃二人は北ユダヤのナザレという町にいましたが、間もなくユダヤの国で人口調査が行われることとなり、当時ユダヤの国を支配していたローマ帝国の皇帝アウグストゥスの命令で、ユダヤの全国民が祖先の生まれた土地へ行き住民登録をしなければならないことになります。マリアとヨゼフの祖先であるダビデ王の出身地は南ユダヤのベツヘレムであったため、二人はベツヘレムへ向かいました。
二人は長い時間をかけてベツヘレムへ到着します。しかし、キリストを身ごもっていたマリアはベツヘレムの町に着いた時には疲れ果てていてすっかり体調を崩していました。町は各地から住民登録に訪れた人々でごったがえしていて、空いている宿屋もない状況でした。そんな中、ある宿屋の主人の計らいで町外れにある今は使われていない馬小屋を借りることができました。
その夜マリアは急に産気づき、そのまま馬小屋でキリストを生みました。

神の子キリストは、煌びやかに飾られた宮殿の部屋などではなく、旅先の町外れにあった貧しい家畜小屋でこの世に生を受けたのです。そして名前はお告げのとおり、「イエス」と名付けられました。
こうして、聖書に記されていた「ダビデ王の血をひいた子孫の中から、救世主(キリスト)が生まれる。」という預言が現実のものとなりました。

因みに、【イエス・キリスト】と表記していると「どっち苗字?」と思われるかもしれません。この当時、ユダヤのほとんどの人々は苗字を持っておらず、「大工のヨゼフ」や「アルパヨの子ヤコブ」のように、職業や父親の名前、出身地などを苗字のように使って同名の人を区別していました。キリストも最初は「ナザレのイエス」と呼ばれていました。なお、キリストには「救世主」と言う意味があり、イエス・キリストとはすなわち、「救世主イエス」という意味なのです。

イエス・キリストの宣教活動

イエス・キリスト
実は、後にイエスが起こしたキリスト教はユダヤ教から生まれた宗教なのです。キリストが誕生した頃のユダヤの国は、「ヤハウェ」という唯一の神を信じ、その神との契約である「律法」を守る「ユダヤ教」が信じられていました。その頃のユダヤの国は強大なローマ帝国に支配されていて、ローマ帝国やユダヤの権力者たちに収める税金は高く、多くの人々が苦しい生活をしていました。
そもそも、ユダヤ教は「神からもらった決まりを守る者だけが幸せである」というものだったのに対し、イエスは「神を信じる人は全て救われる」とし、イエスは全ての人は神を信じる事で“平等”に幸せになれると説きました。

イエスの宣教活動の始まりは紀元27年

死海に近い南ユダヤのヨルダン川の畔に立って新しい救い主の出現を待ち望んでいる人々に、「心を悔い改めなさい。神の国は近づいた」と、熱心に説く「ヨハネ」と言う預言者が現れました。ヨハネのことは噂となって広がり、イエスもその噂を耳にしました。そして自分も洗礼を授かろうと、イエスは30歳を過ぎた頃、ナザレの町を出てヨハネを訪ねて行きました。ヨルダン川の畔でヨハネと出会ったイエスはすぐに洗礼を願い出て、ヨハネから洗礼を授かりました。洗礼が終わるとイエスは聖霊に導かれるようにそのまま荒れ野へ歩んで行き、野獣の住む荒れ野の奥にある険しい岩山に入って行くと、40日40夜、何も食べずに断食しながら、祈りと瞑想の生活に入り、新しい教えを広める強い意志を固めていきました。
40日が終わり、空腹で痩せ衰え、意識も薄らいでいたイエスの前に悪魔が現れ様々な誘惑をかけます。ですが、イエスは悪魔の誘惑を全て退け、いよいよ新しい福音(より良い知らせ)を人々に説き始めます。イエスはガラリヤ地方を中心に宣教の旅に出て、弟子を作り、宣教活動を行っていきました。

その後イエスは、ガラリヤ湖の北岸の町カファルナウム(カペナウム)に移り住み、会堂で説教を行います。だんだんイエスの名前は知られるようになり、地方からもイエスの教えを聞こうとする人が沢山集まってくるようになりました。イエスは死者を蘇らせたり、嵐を静めるなど、数々の奇跡もおこなっていました。
この頃、イエスは12人の弟子を選んでは「使徒」と名付け、ガラリヤ湖の西岸で「山上の垂訓(説教)」も行いました。この説教は最も有名で多くの名言もあります。その名言の中には私たちが知っている言葉もあるかもしれません。例えば、“右の頬を打たれれば、左も向けなさい”や“地の塩、世の光”、“汝の敵を愛せよ”などは非常に有名な言葉です。

しかし、イエスの人気や声が高まるにつれ、律法を頑固に守ってきたユダヤ教の祭司、貴族は警戒心を強めるようになり、ファリサイ派(当時、民衆の間で尊敬され影響力を持っていたユダヤ教の一派)の学者はイエスを律法破りとして裁判に訴えようとしはじめます。

最後の晩餐

最後の晩餐
ユダヤ教には「過越祭(ペサハ)」と呼ばれる祭日があります。これは、イスラエルの民がエジプトで奴隷になって苦しんでいたとき、神のお告げを受けたモーセ(ユダヤ教の預言者)の先導により、イスラエルの民だけが神の裁きを逃れることができ(過ぎ越していった)、奴隷から解放されエジプトを脱出したことに起因しています。
紀元30年4月6日木曜日、イエスはこの過越祭の始まりを12人の弟子たちと祝うため、この日の夕方、エルサレムにある知人の家の2階で12人の弟子たちと夕食を共にしました。結果、これが“最後の晩餐”となってしまいます。

晩餐でイエスは話し始めます。
「私は苦しみを受ける前に、この過越祭の食事を皆と一緒にしたいと願っていました。父(神)の国で、本当の過越祭をあなたたちと祝うまで、もう二度とこの過越の食事をすることがないのですから。」
イエスは話し終えると、たらいに入れた水で弟子たちひとりひとりの足を洗って布で拭きました。
そして弟子たちにこう言います。
「私のしていることは、今あなたたちには分からないが後になれば分かる。あなたたちが私のしたとおりのことをするように、それを示したのです。人の上に立つ者は、へりくだった心を持って人々に尽くしてもらいたいのです。」そして続けて、
「あなたたち12人は私が選んだ者たちです。それなのに、あなたたちの中に私を裏切ろうとしている者が1人います。その“事”が起った時に、あなたたちが信じるようにと今、事の起らないうちに言っておきます。」
とはっきり言いました。イエスはユダの裏切りによって自身が捕えられることを預言したのです。

これがいつどこで起こるかまでは口にしませんでしたが、この前日に、12使徒の1人「イスカリオテのユダ」は、ユダヤ教の大祭司カヤファたちに、銀貨30枚というわずかなお金でイエスを売っていたのです。
銀貨30枚の価格を現在の日本円で例えるならば、100万円にも満たない金額だと考えられます。
そしてこの日の真夜中、裏切り者のユダは武器を持った兵士たちを引き連れ、イエスは兵士たちに縄をかけられて大祭司の館へ連れて行かれました。この時、ペトロをはじめとする弟子たちは皆、どこかへ逃げてしまいました。

イエスの処刑、十字架への道

十字架への道
大祭司たちはイエスをローマ帝国の総督ポンティオ・ピラトの前に連れて行き、死刑執行許可をもらおうとします。罪状を聞いたピラトは最初、ローマの法律に照らして、何も触れるようなことはしていないと判断しました。しかし、これ以上騒ぎが大きくなったら面倒なことになると考えたピラトはしばらく考えこう言いました。
「過越祭のときは囚人をひとり釈放する“ならわし”があろう。殺人の罪で監獄に繋がれているバラバとこの男を代えたらよかろう。」
大祭司たちは頷き、こうしてイエスの処刑が決まりました。

紀元30年4月7日金曜日、イエスは100kg近くもあると言われている重い十字架を背負わされて、ピラトの官邸からゴルゴダの丘の刑場へ向かうこととなったのです。町にはイエスの処刑を悲しむ人、反対に悪口を浴びせる人たちなどで溢れており、多くの群衆に囲まれながら約1,6kmの距離をイエスは倒れそうになりながら歩きました。途中、見かねた2人の男性が道から飛び出して、共に十字架を担いだそうです。

ゴルゴダの丘
ゴルゴダの丘の刑場に着くと、イエスを真ん中にして、2人の罪人が右と左の十字架にはりつけられました。イエスが手足に釘を打たれて、十字架にはりつけられたのは午前9時頃と言われています。
死刑執行を許可したピラトの書いた罪状がイエスの十字架の上にかかげられました。そこには「ユダヤの王、ナザレのイエス」とだけ書かれていました。これを見て沢山の人々がイエスを嘲り、笑いました。その中には、涙を拭いながら悲しんでいる女性の信者たちの姿もありましたが、「主のためなら、命も捨てます」と言った使徒たちの姿はありませんでした。

この後のことを弟子の1人、マタイは次のように記しています。
「正午12時から闇が全地を襲い、午後3時まで続いた。午後3時頃にイエスは大声で『エリ、エリ、レマ、サバクタニ』と叫ばれた。それは『我が神、我が神、どうして私をお見捨てになったのですか』という意味である。」

ですが、イエスが叫んだこの言葉は、聖書に記された68行もある長い詩の最初の部分でした。この詩は、イエスの神に対する絶望を示したもののように思われていますが、この長い誌は最後、自分の魂が永遠にすくわれるよう神に願い、神を褒めたたえる詩になっています。イエスは詩の最初の部分を唱えたときに、力尽きました。

 
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イエス・キリストの復活

キリストの復活
イエスが処刑されて3日目の4月9日、日曜日の朝、イエスに仕えていた「マグダラのマリア」ら女性たちが、イエスの遺体を香料で清めようとイエスのお墓へ出かけました。ところが、お墓の入口を塞いでいた大きな岩が転がされてお墓が開けられていたのです。マリアたちは驚いてお墓の中へ入りましたが、イエスの遺体は消えていて、包んであった布だけが散らかっていました。
イエスの遺体が何者かに盗まれたと思ったマリアは、すぐに弟子のペトロとヨハネに知らせに行きました。ペトロとヨハネはお墓の中を調べましたが、マリアの言う通りでした。2人が帰った後もマリアはお墓の前に立って泣いていました。そうすると後ろから「なぜ、泣いているのですか?」と声をかけられ振り返ると、なんとそこにはイエスが立っていたのです。マリアはイエスの足にすがりつこうとしましたが、イエスの姿はそのまま消えていきました。
やがて、死者から蘇ったイエスの姿を見たという人たちは500人にものぼりました。

もちろん、イエスは使徒たちのところにも姿を現していました。
11使徒たちが食卓についているところに姿を現し、8日後には再び使徒たちの前に姿を現し、復活を信じない使徒の1人トマスに自分の手と脇腹の傷を見せました。
またある時は、漁をしていた7人の使徒たちの元に現れ、船の右側に網を打つよう指示すると、153匹もの大きな魚ばかりが入っていました。

イエス復活から40日目、エルサレムに近いオリーブ山にイエスは使徒たちと一緒に登りました。そして、
「あなたたちは、全ての国の人々を弟子にしなさい。父(神)と子(イエス)と聖霊の御名によって洗礼をさずけ、わたしがあなたたちに命じたことを、全て守るように教えなさい。私は世の終わりまでいつもあなたたちと共にいます。」
と語ると、使徒たちに見守られながらゆっくりと天に昇って行きました。

イエスが誕生した当時のユダヤの国は、強大なローマ帝国が支配していました。多くの人々は、人種差別、重い税金、病気、貧困に苦しんでいました。けれども、人々は絶望していたわけではありません。遠い祖先たちからの歴史や律法、自分たちの生き方などが記された、ユダヤ教の教典でありタナハやミシュナーを信じていました。そして教典に記されている、新しい救世主の出現を待ち望んでいました。それが“イエス”だったのです。
神の子であるイエスは、罪のない完璧な生活を送りましたが、最期は自分自身を犠牲にして十字架にかけられて、人間の罪を全て背負ってその生涯を閉じました。

キリスト教の基礎知識

キリスト教
キリスト教は、イスラム教、仏教と並ぶ世界三大宗教のひとつで、その中でも信者数が約24億人(世界人口の約32%)と、宗教人口世界第1位を誇っています。
イエス・キリストが刑死する3年ほど前にガラリヤ(現在のイスラエル北部の地域とヨルダンの一部)で宣教活動を開始し、キリスト昇天後は弟子たちが宣教活動を行って世界に広がっていきました。イエス自身が宣教活動を行った期間は僅かだったにもかかわらず、今日までキリスト教の教えが説かれているのです。
次は、そんなキリスト教について解説していきます!

キリスト教の教えとは?

キリスト教の教え
キリスト教とは、“神の子”である「イエス・キリスト」の教えを信じる宗教です。天地宇宙の創造者にして唯一絶対の支配者が、キリスト教における神です。キリスト教の神は、基本的にユダヤ教の神の理解を引き継ぎ、それは、人間と契約を結び、救おうとしますが、同時に神に背く者には厳しい裁きを下す神であります。「新約聖書」では、神が罪に満ちた人間を救済するために、神の子であるイエスを地上に遣わしたとされています。

律法学者から「最も重要な掟とは?」と聞かれたイエスはこう答えます。
「心を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」、「隣人を自分のように愛しなさい」
つまり、イエスは「神への愛と隣人愛」が大切と説いています。ですが、イエスの「愛」についての教えはこれにとどまりません。
人は一般に隣人を愛し、敵を憎みますが、イエスは「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」と言います。イエスの説く「愛」は、深く、そして限りなく、誰にでも注がれる無限の愛で、この愛をギリシャ語では「アガペー」と呼びます。

ギリシャ語には愛を表現する言葉として、「アガペー(真の愛)」、「ストルゲー(家族愛)」、「エロース(性愛)」、「フィリア(隣人愛)」の4つがあります。
この中で、イエスの使徒パウロや福音書の記者が、神の愛として相応しい言葉として「アガペー」を用いたと言われています。この“アガペー”は、神様が人間を愛することで、何かの利益を得る訳ではないので、「無償の愛」をも意味しています。

キリスト教での大切な教えとは、決して身近な人や好きな人だけではなく、自分の目の前に現れるあらゆる人を愛せよという“隣人愛”なのです。

キリスト教・イスラム教・ユダヤ教の違いは?

コーラン
3つの宗教を比較して先ず大きく異なるのが「預言者」です。この預言者が、キリスト教では“イエス・キリスト”、ユダヤ教では“モーセ”、イスラム教では“ムハンマド”となります。ちなみに、預言者とは「神の言葉を預かる者」を指し、未来などを予知する予言者とは異なります。
そして、その預言者の違いからくる神の言葉の違いが影響している教義になります。

キリスト教で最も重要視されることに、死後の魂の救済があります。キリスト教の場合、いつか訪れる最後の審判に常に備えていなければならない、ということが協調されます。救世主であるイエスを信じるものは天国へ行くことが出来るが、信じない者は地獄へ落ちるという思想です。一方で、イスラム教でも死後の世界は説かれ、ユダヤ教でも復活信仰が基本ではありますが、復活に与るか否かは、日頃の信仰や善行により決まるとされています。

ですが、キリスト教もユダヤ教もイスラム教も根はひとつで、唯一絶対神を信仰する宗教「一神教」になります。一神教は世界の主要宗教の中でキリスト教、ユダヤ教、イスラム教の3つだけです。
この3つの宗教間では様々な対立の歴史もありますが、実は一神教という意味では、この3つの宗教は同じ概念=絶対神を崇拝する兄弟宗教とも言える関係なのです。

ただ、キリスト教はユダヤ教やイスラム教とは異なり、父なる神・子なる神・聖霊なる神を信仰の対象とする三位一体論があります。三位一体とは、神が3つ合わさって1つという意味ではなく、1つの神の中に3つの位格があるという考え方です。そのため、「一神教」には変わりはありません。

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旧約聖書・新約聖書の違いって?

旧約聖書
そもそも聖書とは、全世界のキリスト教徒が、人生の道標として最も大切にしている書になります。聖書は元々、神の言葉を人間の言葉にしたものと考えられていて、いくつかのまとまった文章で成り立っています。
ちなみに、このような聖典は同じ世界三大宗教であるユダヤ教とイスラム教にもあり、ユダヤ教はタナハ(=旧約聖書)とミシュナー、イスラム教はコーランになります。なお、キリスト教の聖書はひとつではなく、旧約聖書と新約聖書があります。

旧約聖書とは、イエスが現れる前、聖書記者と呼ばれる特別な立場の人たちが、イスラエルの歴史の中で色々な時代に神の声を聞いて書き留めたものを集めたものになります。古くからのこうした言葉(預言)がまとまったものが旧約聖書の元になりました。ユダヤの人々が守っている決まり事の「律法」も、この中に含まれています。旧約聖書は、ユダヤ教の人々にとっては唯一の聖書なので、“旧約聖書”とは呼ばず「タナハ」と呼びます。キリスト教の旧約聖書は、もともとはユダヤ教の聖典タナハであり、イスラム教のコーランとも共通する内容でもあります。
そして、旧約聖書では、やがて救い主(ギリシャ語でキリスト)がやってくると約束しており、旧約聖書で預言されたとおりに、イエス・キリストは生まれてきました。

次に新約聖書ですが、イエスが言ったことや行ったこと、復活についてのことなどを書き留めたものになります。これらのことは、神との新しい約束を表したものと考えられ、“新約”聖書と呼ばれるようになりました。
新約聖書は、福音書と教会の歴史、手紙、預言という3種類でできており、全部で27の書から成り立っています。「福音書」とは、イエスの教えをまとめた新約聖書を形づくるものでもあり、キリストの弟子のヨハネ、マタイ、マルコ、ルカの4人がイエスの教えを書いた、言わばイエスの生涯と教えを伝える書です。同じ出来事や場面をそれぞれの弟子が書いていますが、書いた人物によって少しずつ受け止め方や表現などの違った部分はあります。

旧約聖書と新約聖書では違うところは沢山あります。その中でも特に、神との約束(契約)についての考え方が違っています。例えば・・・

  • 神から誰を通じて与えられたか
    旧約→モーセ
    新約→イエス・キリスト

  • どんな人が救われるか
    旧約→律法を厳しく守る人
    新約→神を信じる全ての人

  • 人間は元々「正しいものか」
    旧約→正しくない
    新約→正しい

  • 何に刻まれている
    旧約→石の板
    新約→人の心

などです。ですが、違いがあっても、キリスト教においては旧約聖書と新約聖書を合わせて1つの聖書としています。そのため、片方の聖書だけでは聖書として成り立たないのです。

 
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キリスト教はこうして世界に広がった!

キリスト教は元々ユダヤ教の一派として始まりました。当初、異教徒が改宗するには、ユダヤ教の戒律を守る必要がありました。そんな中、異教徒への宣教を積極的に行ったのがイエスの使徒パウロです。
パウロはユダヤ教の律法(食物禁忌や割礼など)を批判、廃止していきました。その結果、キリスト教は民族を問わない宗教へと転換し、ローマ人やギリシャ人にも受け入れられるようになりました。そして、迫害期を経て、当時の世界帝国であったローマ帝国の国教となり、世界中に広がっていきました。

「カトリック」と「プロテスタント」って?

プロテスタント
イエスの昇天後、弟子たちは様々な場所でキリスト教の布教活動を行ってきました。そして1500年ほど経った頃、当時のローマ・カトリック教会を中心とする教えとは異なる考えを持つ人が出てきます。それが、“プロテスタント”で、この頃の「宗教改革」によって生まれた新しい派です。カトリックが旧教、プロテスタントが新教と呼ばれるのはこのためです。
ですが、カトリックもプロテスタントも、旧約、新約、両方の聖書を神の言葉と考えている点では、根本は同じです。

他にも「東方正教会」という教派もあり、この3つがキリスト教の3大教派になっています。中央集権的なカトリック以外は、教派の中にさらに細かい諸派があり、その数は800とも言われています。カトリックは1枚岩ですが、カトリックへの異議申し立てから生まれたプロテスタントからは、意見の違いで多彩な分派が生まれています。

ミサとは?

ミサ
ミサとは、イエスの死と復活を記念したのもので、カトリック教会で最も重要な典礼儀式です。プロテスタントでは聖餐式に相当します。
ミサの始まりは「最後の晩餐」と言われています。「最後の晩餐」において、イエスはパンを手に取って割ると、弟子たちに与え「これは私の体。私を忘れないように、これから記念として行いなさい」と言い、パンを食べると、ぶどう酒を杯に注いで、「これは、沢山の人たちのために流す私の血。人々を救う新しい約束のしるしです。これも記念として行いなさい」と弟子たちに言いました。以来、カトリック教会は一貫してこの教えを守り、ミサを行っています。

ミサは大きく分けて、聖書のことばを聞く「ことばの典礼」と、キリストの最後の晩餐と復活を記念する「感謝の典礼」に分けられます。キリスト教信者は、ミサを通して家族と共に集まり、イエスの体を受けることで、日々の信仰生活の糧としています。

ちなみに「クリスマス(Christmas)」は、「キリスト(Christ)」の「ミサ(Mass)」=「キリストのミサ」が語源と言われています。

聖母マリアって?

聖母マリア
聖母マリアは言わずと知れたイエスの生みの母です。前述のとおり、古代イスラエル王国のダビデ王の血を引いていました。
キリスト教の信仰の対象は、神と神の子であるイエスですが、布教の早い段階から、イエスの母マリアや殉教者も崇拝するようになりました。特に聖母マリアの人気は絶大で、カトリックではマリアへの信仰心が篤く、聖母マリアの像は多くの教会にも置かれています。
ただ、プロテスタントは聖人への信仰は否定しており、聖母マリアも崇拝していません。そのため、聖母マリアとは呼ばず「イエスの母マリア」と呼ばれています。

トルコに聖母マリアの家が?!

聖母マリア
トルコのエフェソス遺跡近くの山の上には、「聖母マリアの家」があります。
イエスは生前、使徒ヨハネに、「自分の死後、マリアを自分の母として世話をするように」と託していました。
イエスの昇天後、ヨハネはマリアと共にトルコのエフェソスに移り住み、マリアはこの地で、64歳で亡くなったと言われています。トルコのエフェソスは、聖母マリアが晩年を過ごし、そこで亡くなったという伝承の地でもあります。
この地方には昔から、そのような伝承が残っていたものの、マリアが実際にどこで亡くなったかは長い間分からないままでした。おそらく、キリスト教は当時ローマ帝国からの迫害を受けていたため、聖母マリアを守るためには明らかにしてはいけなかったのではないかと考えられます。

では何故、聖母マリアの家が判明したか?
なんと、それはドイツ人修道女が19世紀に受けた夢でのお告げが根拠だったのです。お告げを受けたという修道女の話を基に調べてみたら、夢のお告げのとおりに4世紀頃の教会跡や1世紀の壁が発見されました。そして更なる調査の結果、バチカンも聖母マリア終焉の地として公認するに至ったのだとか。現在は、この聖母マリアの家一帯はバチカンが管理しています。

★聖母マリアについてさらに詳しく知りたい方は、是非下記の記事も読んでみてください!
聖母マリアってどんな人?その生涯や絵画の特徴、キリスト教における意味 | トルコ旅行専門の人気ナンバーワン旅行会社『ターキッシュエア&トラベル』

キリストの弟子たち

キリストの弟子たち
宣教活動を行っているうちに、イエスに従う弟子たちも日ごとに増えてきました。その中から、最初に弟子となったヨハネなど12名を選んで、イエスは「使徒」と名付けました。使徒というのは、人々に教え(福音)を伝える、重要な役目を担った弟子を指します。
キリストの昇天後、裏切ったユダを除く弟子たちは、キリスト教を世界に広める重要な仕事をしてきました。
そんなキリストの12使徒たちを紹介します。

ヨハネ

ヨハネ
キリストに洗礼を授けたヨハネと同じ名前だけれど別人。キリストの一番弟子で、とても可愛がられていたと言われています。イエスに従っていた間に見聞きしたことを、「ヨハネの福音書」に書き残しました。イエスの昇天後、聖母マリアと共にトルコのエフェソスの地に移り住み、キリストの教えを伝え始めました。ヨハネは活動中に何度か捕らえられたりもされましたが、12使徒の中で唯一殉教していない人物でもあります。最期はエフェソスで天寿を全うしました。ヨハネが晩年を過ごしたエフェソスには、ヨハネが亡くなった数年後に、墓地の上に「聖ヨハネ教会」が建てられました。同じくエフェソスには、聖母マリアの終の棲家として知られる「聖母マリアの家」もあります。

エフェソス遺跡の見どころ46選 | トルコ旅行専門の人気ナンバーワン旅行会社『ターキッシュエア&トラベル』

ペトロ

ペトロ
アンデレの兄で本名はシモン。漁師でしたが、イエスの弟子になってペトロ(岩という意味)という名を与えられました。弟子の中ではお兄さん的存在でしたが、何回か心が迷っていたこともありました。しかし、イエスの復活を目にしてからは強い信仰心で教えを広め、キリスト教の中心であるカトリック教会の初代ローマ教皇になりました。聖書には、ペトロはキリストから天の国の鍵を預かったと書かれています。カトリックではローマ教皇はこの天の国の鍵をペトロから受け継いでいると考えられています。バチカンにある「サン・ピエトロ大聖堂」はこの地でペトロが殉教したという伝承から、ペトロを祀るために建てられました。

アンデレ

アンデレ
ペトロの弟でペトロと一緒にイエスの弟子になりました。イエスの昇天後、ギリシャ方面で宣教活動をしていましたが、ローマ総督に捕まってしまい十字架刑が決定してしまいます。しかし、イエスと同じ十字架刑は恐れ多かった為、斜めにした「X十字架刑」にしてもらったと言われています。その後、X字型の十字架は「アンデレの十字架」と呼ばれ、スコットランドの国旗などに使用されています。

マタイ

マタイ
税金を集める仕事をしていましたが、貧しい人からお金を徴収することに悩んでいました。そんな時にイエスから「私についてきなさい」と言われ、その一言で仕事や家族など、これまでの全てを捨ててイエスの弟子になりました。イエスの昇天後は、エチオピアやペルシアなどへキリストの教えを広めにいき、紀元42年から50年くらいの間には、ヨハネと同じようにイエスの行い、教えを記した「マタイによる福音書」を書き残しました。マタイの最期は、エチオピアの教会での説教が王様を怒らせ、針で刺され殉教したと言われています。

大ヤコブ

大ヤコブ
ヨハネの兄で、ヨハネやペテロと並ぶイエス三大側近の一人です。同名の弟子がいたため「大ヤコブ」と呼ばれていました。また、弟のヨハネと共にイエスから「雷の子」と呼ばれており、その理由のひとつに、雷と言うくらい気性が荒い性格だったと言われています。大ヤコブは、ユダヤやサマリア、スペインなどで宣教活動を行っていました。その後エルサレムに戻ると、凄まじいキリスト教迫害によりユダヤの王に殺されてしまいます。12使徒の中で最初に殉教した人物でもあります。スペインにはカトリックの聖地として有名な「サンティアゴ・デ・コンポステーラ」という町がありますが、9世紀に大ヤコブのお墓がこの地で発見され、お墓の上には「サンティアゴ・デ・コンポステーラ大聖堂」が建てられました。

フィリポ

アンデレと同じ町から出た人物で、イエスに「私についてきなさい」と言われた最初の弟子でもあります。弟子たちの食料を集める係を担っていました。イエスの昇天後は、サマリアやスキュティア、ギリシャ、小アジアなどの地で宣教活動を行い、悪霊を取り除いたり、病気を癒したりして多くの人々をキリスト教に導いたと言われています。最期は、当時のローマ帝国の都市「ヒエラポリス」で2人の娘と共に捕えられ、十字架にかけられ、石打ちにされて殉教しました。このヒエラポリスは、現在はトルコ西部の都市であり世界遺産にもなっています。

 
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小ヤコブ

大ヤコブと区別するために「小ヤコブ」と呼ばれていました。小ヤコブの外見は“イエスの兄弟”と言われるほどイエスに似ていたと言われています。裏切り者のユダがイエスを捕まえるローマ兵を引き連れてやってきたとき、ローマ兵が間違えてイエスに似た小ヤコブを捕まえてしまわないように、自分が口づけした人物がイエスだとローマ兵に合図を送ったというエピソードもあります。小ヤコブの最期はエルサレムの神殿の屋根から突き落とされ、石打ちにされ、こん棒で頭を殴られて殉教したと言われています。

バルトロマイ(ナタナエル)

バルトロマイ
バルトロマイはフィリポに誘われてイエスの弟子になりました。ヨハネの福音書では「ナタナエル」という名前で登場しています。イエスの昇天後は、フィリポと共にフリギアで宣教を始めます。その後アルメニアに行き宣教を続けますが、そこで他宗教の指導者の反感を買い、皮はぎの刑によって殉教しました。バチカンのシスティーナ礼拝堂にあるミケランジェロの作品「最後の審判」では、バルトロマイは自分の皮を持っている姿が描かれています。

トマス

トマス
イエスの復活をすぐに信じなかったことで知られており、復活を確かめるためキリストの傷に触れたと言われています。イランからインドにかけて宣教活動をしていたと言われており、最期は南インドで異教徒に槍で刺されて殉教しました。南インドにはトマスを祀る「サン トメ聖堂(San Thome Cathedral)」があります。

カナンのシモン

カナンのシモン
熱心党のシモンとも呼ばれています。情熱的な性格だったためこのあだ名が付いたと言われています。ちなみに熱心党とは、神だけが本当の支配者であるという考えを持ち、武力でローマ帝国からの独立を目指す過激な宗教的政治集団です。その為、元はローマ帝国の下で徴収人として働いていたマタイとは仲が悪かったとも言われています。エジプトで宣教活動を行い、ペルシアやアルメニア辺りで殉教したと言われていますが、聖書に記述がないため諸説あります。なお、最期はノコギリで切断されるという残酷な方法で処刑をされたと言われています。

タダイ(ユダ)

タダイ(ユダ)
イスカリオテのユダとは別人で、「タダイ」や「ヤコブの子ユダ」などと呼ばれています。聖書には名前が登場するだけであまり語られていることがありません。また、カトリックではイエスを裏切ったイスカリオテのユダと混同しないためにタダイへのお祈りが避けられており、「忘れられた聖人」という呼び名を付けられてしまっています。イエス昇天後は、バルトロマイと共にアルメニア地方で宣教を行っていました。最期は斧によって殉教し、その後遺体はローマのサン・ピエトロ大聖堂に埋葬されたと言われています。

イスカリオテのユダ

イスカリオテのユダ
イエスの教えに疑問を抱き、銀貨30枚と引き換えにイエスを裏切った弟子です。このユダの密告によりイエスは捕まり、処刑されてしまいました。ユダの素顔は以外にも真面目な常識人だったそうです。そのため、かなり信頼をされており、イエスたちの会計係も任されていました。実際に、最後の晩餐でイエスが12使徒の中に裏切り者がいると切り出したときも、他の弟子たちは誰もユダを疑わなかったと言われています。そんなユダは、イエスの処刑を前に後悔し首を吊って自殺しました。

イエスに従った人々は12使徒だけでなく他にも多くの人々がいて、その中には女性もいました。その中の女性の1人「マグダラのマリア」は、イエスに仕えていた女性たちの中でも中心人物だったと考えられており、イエスの十字架、埋葬を見届け、復活したイエスと話しもしています。イエスが捕えられてしまった時、男性の弟子たちは逃げてしまったけど女性たちは十字架のそばにいたと、マルコの福音書に書かれています。
また、12使徒には含まれていませんが、キリスト教の発展に大きな影響を与えた「伝道者パウロ」も使徒と呼ばれています。

使徒パウロの伝道活動

使徒パウロ
12使徒の他にも熱狂的に伝道に生涯を注いだ人物がいます。それが「伝道者パウロ」です。“聖パウロ”とも呼ばれ、キリスト教の発展に大きく貢献しました。パウロは、イエスの死後に使徒となったにもかかわらず、最も有名な伝道者および聖人となった人物でもあります。
パウロがイエスの教えを信じるようになったきっかけや、どのようにキリスト教を伝道していったのかなどを説明していきます。

キリスト教の迫害者から改心、キリスト教の大伝道者へ

西暦5年頃、ローマのキリキア属州タルソス(現トルコのメルスィン県)にて、ユダヤ人ディアスポラの家庭で生まれたパウロは、生まれながらにしてローマ市民権保持者であり、ギリシャ語が話せるファリサイ派の熱心なユダヤ教徒でした。
元々はイエスをメシア(救世主)と信じていなかった為、メシアを冒涜する者としてキリスト教徒を酷く迫害していました。しかし、ダマスコ(ダマスカス)に向かう途中に突然天からのイエスの声を聞き、イエスが本当のメシアであったと悟り改心します。

「目からうろこが落ちる」の語源はパウロの改心

ちなみに、パウロの改心のきっかけになった「なぜ私を迫害するのか」「私はあなたから迫害されているイエスである」と言う天からのイエス・キリストの声を聞くと急に眼が見えなくなるのです。そして、ダマスコで同じく「パウロを助けるのです」とイエスの声を聞いたアナニアと言う者が、3日後にパウロの元に行き目に手を置き祈ると、パウロの目から鱗の様な物が落ちて目が見えるようになったと言います。
これが、“何かがきっかけでぱっと鮮明に解るようになる”と言う意味のことわざ「目から鱗が落ちる」の語源となりました。

パウロの生涯をかけた伝道の旅

パウロの旅
改心してイエス・キリストが「人々が待ち望んだメシアであり、神の子である」と信じるようになったパウロは、アンティオキア(現トルコ南東部アンタキヤ)を拠点に、キプロス出身のユダヤ人バルナバやアナトリアのリュストラ出身テモテ、バルナバの従兄弟マルコなどと共に、アナトリア半島と南ヨーロッパのギリシャやマケドニアなどを中心に、3回にも渡る熱心な伝道活動を行い、ユダヤ人以外の異邦人へも積極的に伝道しました。
パウロが数年かけて行った、伝道の旅のルートを紹介します。

  • 第一回伝道旅行 (西暦47~49年頃)
    アンティオキア出発⇒(海路)⇒キプロスのサラミスやパフォス⇒(海路)⇒ペルゲへ上陸
    (陸路)⇒ピシディアのアンティオキア(現ヤルヴァチ)⇒イコニウム(現コンヤ)⇒リストラ(現ハットゥンサライ)⇒デルべ(現カラマン付近)⇒折り返し、来た道を戻ってアンタルヤ港から海路でアンティオキアへ帰る

  • 第二回伝道旅行(紀元前49~52年頃)
    アンティオキア出発⇒タルソス(現メルスィン)⇒デルべ⇒ルステラ⇒イコニオン⇒ピシディア・アンティオキア⇒アンキュラ(現アンカラ)⇒西へ、トロアス(北西トルコのチャナッカレ県アッソスとトロイの間)⇒海路にてここから初めてキリスト教がヨーロッパへ!
    サモトラキ島⇒東マケドニアのネアポリス(現ギリシャのカヴァラ)⇒フィリピ(現カヴァラへ併合)⇒アンフィポリス(現ギリシャのセレス県)⇒テッサロニケ(ギリシャ)⇒べリア(北ギリシャのヴェリア)⇒ピュドナ(ギリシャ)⇒海路で、アテネ⇒コリント⇒海路、小アジアのエフェソス⇒海路、カイサリア(イスラエルのカエサリエ)⇒エルサレム⇒アンティオキア

  • 第三回伝道旅行(西暦52~56年頃)
    アンティオキア出発⇒タルソス、キリキア門⇒アンキュラ(アンカラ)⇒エフェソス※ここで投獄経験、
    コロッサイ(現デニズリ地方)へ旅行も⇒海路、コリントへ⇒ラミア(ギリシャ)⇒オリュンポス(ギリシャ)⇒テサロニケ(ギリシャ)⇒ネオポリス(ギリシャのカヴァラ)⇒海路、トロアス(現トルコのチャナッカレ県の町)⇒徒歩でエフェソスへ⇒トロアス⇒海路、マケドニアへ⇒エフェソス⇒スミルナ(現イズミール)⇒ペルガモン(現ベルガマ)⇒アッソス⇒トロアス⇒ネオポリス⇒テサロニケ⇒コリント⇒テーベ(ギリシャ)⇒ラミア(ギリシャ)⇒べリア(ギリシャ)⇒テサロニケ⇒フィリピ⇒ネアポリス⇒海路、トロアス⇒アッソス⇒サモス島⇒ミレトス(現トルコのミレト)⇒クニドス(現トルコのダッチャ)⇒コス島⇒ロドス島⇒パタラ(現トルコ)⇒パレスチナのティルス⇒プトレマイ(現イスラエルのアッコ)⇒カイサリア(現イスラエルのカエサリエ)⇒エルサレム

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パウロの殉教、処刑を決定したのは暴君ネロ?

パウロ
パウロはエフェソスのユダヤ人の訴えによりエルサレムで捕まりローマへ移送されます。その際に、トルコ南部のミュラへ寄港しています。
パウロの斬首の刑を決定したのは、「暴君ネロ」でも知られる第5代ローマ皇帝ネロと言われており、パウロはローマ市民権保持者であったため、磔刑ではなく斬首となったとの事です。
なお、パウロはローマで裁判を待つ2年間の間も、ローマで伝道活動を行っていました。この様にイエス・キリスト死後20年あまりで、イスラエルからローマまでローマ帝国の各地にキリスト教徒の小集団コミュニティが形成されたのです。

イエス・キリストの奇跡

奇跡なんて・・・そんな事が本当に起きるのか?!と思う人もいると思います。そもそも、イエスは人々の幸せのために奇跡をおこないました。そして、その気持ちを理解し、本当に神を信じた人にだけ奇跡は起きたと考えられています。そこで、聖書で語り継がれている代表的な“キリストの奇跡”をいくつか紹介します。

水がぶどう酒に!

水がぶどう酒に
イエスが母のマリアや弟子たちと共に、知り合いの結婚式に招かれたときのことです。宴会のために沢山用意されていたぶどう酒がたちまち無くなってしまいます。その時イエスが給仕をしている人に、「井戸からこの水がめに水をいっぱい入れてきなさい」と言いました。イエスに言われたとおり給仕たちは水を汲み、その水を世話役のところへ持って行くと、汲んだ水は最高に美味しいぶどう酒に変わっていました。
この奇跡はイエスが初めておこなった奇跡です。

嵐を一瞬で静める!

嵐を一瞬で静める
イエスが弟子たちと共に小舟に乗ってガラリヤ湖の東岸にあるケラサ人たちの町へ出かけたときのことです。激しい嵐がイエスたちを襲います。慌てた弟子たちがイエスに助けを求めると、イエスは嵐に向かって「静まれ。」と命じました。すると、たちまち嵐は止みました。イエスの一言で嵐を一瞬にして静め、ガラリヤ湖は素晴らしい凪になりました。

5つのパンと2匹の魚が5000人分の食料に!

パンと2匹の魚
イエスを慕う人々が群衆となって追いかけてきたときのことです。イエスは人々をエル・バティハの草原へ連れていき、教えを説き、病人たちを癒し続けていました。弟子たちが、そろそろ人々を帰して町へ戻るようにと促します。草原は人里離れており、食べる物も泊まるところもない場所でした。促す弟子たちに対してイエスは「あなたたちが何か食べ物をこの人たちにやりなさい。」と言います。しかし、その時手元にあった食料は5つのパンと2匹の魚だけでした。約5000人分の食料には到底足りません。弟子たちがそれをイエスに伝えると、イエスは5つのパンと2匹の魚を手に取り、天を仰いで(神に)賛美を捧げ、パンを手で割り弟子たちに渡しました。弟子たちはそれを群衆に与え、人々は満腹になりました。余ったパンくずの残りを集めると、12の籠がパンでいっぱいになりました。イエスはこの奇跡で5000人もの群衆の心を、目の前でひとつにしてしまいました。
イエスはこの奇跡を2度起こしています。1回目はこの5つのパンと2匹の魚でしたが、2回目は7つのパンと少しの魚で4000人を満腹にさせました。

湖の上を歩く?!

湖の上を歩く
5000人もの人々を満腹にさせた後、イエスは群衆を解散させている間に弟子たちを舟に乗り込ませ、向こう岸へやろうとします。そしてイエスは群衆を解散させると、1人山奥に入って静かに祈っていました。夕方になると船は湖の真ん中に出ていましたが、イエスだけが陸地にいる状況でした。やがて風が出て湖が荒れ始め、逆風により舟はなかなか前へ進みません。弟子たちが漕ぎ悩んでいると、真っ暗闇の中からぼんやりとした白い人影が船に近づいてきました。弟子たちは幽霊だと思い怯えながら声を上げると、「安心しなさい。私だ。恐れることはない。」というイエスの声が。弟子の1人のペトロが本当にイエスか確かめようと、「本当に主なら私に水の上を歩いて来いと命じて下さい」と言います。イエスが「来なさい。」と言うと、ペトロは舟から降りて水の上を歩き始めます。しかし、強い風に吹かれて水の中に沈みかけます。ペトロはイエスに助けを求めると、イエスはすぐにペトロを抱きかかえ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか。」と言って、ペトロを舟に乗せました。2人が舟に乗り込むとたちまち風は静まりました。

病気を治す!

イエスが奇跡をおこすことを知られると、イエスの行くところには沢山の人が集まるようになりました。ある日、中風と言う病気で歩けない人が運ばれてきました。その人の目に神を信じる心を見たイエスが言葉をかけると、その人はすぐに立ち上がって歩きだしました。他にも、12年間出血が止まらず苦しんでいた女性が後ろからイエスに近づき、イエスの服の端に触れた途端に出血が癒えたという奇跡や、38年間病気で苦しんだ人を癒したり、生まれつき盲目だった人の目を見えるようにしたりなど、沢山の人々を数多くの病気から癒す奇跡もおこなっていました。

死者を生き返らせる!

ある時、イエスの前に会堂の管理をしているヤイロという男性が現れました。ヤイロはイエスの前にひれ伏し、「12歳になるたったひとりの可愛い娘が死にかけているので助けてください。」と言いました。イエスはその願いを聞き入れ、ヤイロの家に向かいます。ところが、ヤイロの家に近づくと、ヤイロの家から使いの者が走ってきて、「お嬢さんはたった今亡くなりました。」と伝えました。それを聞いて泣くヤイロに対してイエスは、「信じなさい。お嬢さんは亡くなったのではありません。ただ眠っているだけです。」と言うと、ヤイロの家へ行きました。そして娘の手を取って「子よ、起きなさい。」と一言命じると、ヤイロの娘は目を開いて起き上がりました。
死者を生き返らせる奇跡はこれだけでなく、イエスは他にも何人もの人を生き返らせる奇跡をおこないました。

イエスが起こした奇跡を紹介しましたが、これらはほんの一部にしか過ぎません。他にも、大漁の奇跡や悪霊を追い出すなど、様々な奇跡をおこなっています。そして、イエス自身が処刑後3日目に復活したことも、イエスがおこなった奇跡のひとつです。
“イエスの行くところでは奇跡が起こる”ということが、圧政や病気に苦しんでいる人々にとって大きな希望でした。神の意志に任せて静かに祈っていれば必ず幸せになれる、そう信じることの大切さを伝えていました。

日本のキリスト教の歴史

キリスト教
日本に初めてキリスト教が伝えられたのはいつか?歴史の勉強で習った人も多いと思いますが、ここでは今一度おさらいをしていきたいと思います。

フランシスコ・ザビエルの到来!

キリスト教の日本到来については諸説ありますが、その中でも歴史的・学問的に見ても多くの証拠があって、キリスト教の日本への最初の伝来となっているのが、1549年のスペインの宣教師「フランシスコ・ザビエル」による布教です。ザビエルは、イエスズ会(カトリックの一派)の創設メンバーの1人で、西インドで宣教活動を行っていた際、マレーシアのマラッカで知り合った「ヤジロウ(アンジロウ)」という日本人によって日本のことを知り、興味を持ったことが日本への宣教活動のきっかけとなったと言われています。その後、ザビエルは鹿児島に上陸し、延べ2年3ヶ月にわたって日本での布教活動を行いました。
この頃、一番力の強かった大名が織田信長。信長はキリスト教を信じてはいませんでしたが、西洋の文化は珍しく見えとても気に入り、キリスト教を保護していました。ちょうどその頃、仏教の僧侶たちが信長の考えに逆らっていたこともあり、僧侶たちの力を押さえるためにも、外国の宗教を保護することは都合が良かったとも言われています。

伴天連(バテレン)追放令

日本でも、キリスト教(カトリック)を信じる殿様が九州や中国地方を中心に増えていきます。このような殿様は「キリシタン大名」とも呼ばれていました。
しかし、天下を統一した豊臣秀吉の安土桃山時代に入ると、勢力を拡大したキリスト教徒が、神道や仏教を迫害する事例が起きてしまいます。また、ポルトガル商人によって日本人が奴隷貿易の商品となって海外に人身売買されているという話も出て、これを耳にした秀吉が「伴天連(バテレン)追放令」を出し、宣教を禁止しました。しかし発令当初は、宣教師を追放しようとするも激しい弾圧は行っていませんでした。

 
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江戸幕府による禁教令

その後時代は変わり、徳川幕府になって、1612年、徳川家康が禁教令を出し、これによって鎖国政策が採られ、宣教師はもちろん、外国人も許可なしでは日本に入国できなくなりました。同時に本格的なキリスト教の迫害も始まり、処刑されたキリスト教信者は4000人以上とも言われています。江戸時代には何回か激しい迫害があり、処刑されたり、信仰を捨てたりする人々が多くなります。この時代は、信仰を守るのはまさに命懸けでした。

踏み絵と隠れキリシタン

江戸時代の禁教令以降、禁じられているキリスト教の信者を探しだすために考え出されたのが踏み絵でした。踏み絵は、イエス・キリストや聖母マリアの姿を浮き彫りにした板のようなもので、真鍮などでできていました。
この頃のキリスト教信者は、表向きは仏教信者のように見せて暮らしており、こういった信者たちは「隠れキリシタン」と呼ばれていました。そんな隠れキリシタンをあぶりだすために、イエスを足で踏みつけにできるかどうかを試す踏み絵が行われていました。この踏み絵は、1628年に長崎で始まって1858年までと、230年もの長い間続けられてきました。これにより隠れキリシタンは200年以上もの間、司祭などの指導を受けることなく独自に信仰を伝えていました。
伴天連追放令が出される頃、長崎が貿易の中心となっていた事もあり、長崎県は隠れキリシタン縁の地となっています。隠れキリシタンは、サビエルの来日から始まって、迫害を受け、差別と闘って乗り越えてきたという深い歴史を持っています。

信教の自由

第二次世界大戦後が日本の敗北で終わると、日本国憲法・第20条で信教の自由が保障され、晴れてキリスト教は不自由のない布教活動が行なえるようになりました。
現在ではキリスト教の文化は日本の文化に様々な影響を与えています。教会の結婚式や、これから説明するクリスマスなどがまさにキリスト教の象徴です。

キリスト教の三大祭日

キリスト教にはいくつもの祭日があります。中でも、クリスマスは特に有名ですよね。キリスト教の数ある祭日の中でも最も重要とされている、クリスマスも含めたキリスト教の三大祭日を紹介します。

イースター(復活祭)

イースター
イースターとは、十字架にかけられたイエスが3日後に復活したことを祝う祝日です。日付は固定されておらず、“春分後の満月の次の日曜日”と定められています。
そしてイースターには、綺麗な絵を描いた卵を送る習慣があります。「イースター・エッグ」という言葉を耳にしたことがある人もいるかも知れません。なぜ卵なのかと言うと、卵は復活したイエス同様、新たな命が生まれる蘇りの象徴とされているからです。
日本ではイースターはまだあまり馴染みがなく、どちらかというとクリスマスの方が盛り上がりますが、キリスト教徒にとってはイースターの方がより重要な行事となっています。

ところが、実は本当の始まりはキリスト教ではなく別の宗教で、北ヨーロッパに住んでいた、古代サクソン人の女神のお祭りでした。昔は、新しい土地に行ったキリスト教の伝道者たちはその土地のお祭りを取り入れ、馴染みやすくしてキリスト教の教えを広めていったと言われています。

ペンテコステ(聖霊降臨祭)

こちらはさらに日本では馴染みがなく、知っている人も少ないかもしれません。「ペンテコステ(聖霊降臨祭)」とは、12使徒も含めた120人もの信徒の上に聖霊が降臨した日をお祝いする日です。
ペンテコステとはギリシャ語で「50日目」を意味しており、イースターで復活したイエスが40日目に昇天し、その10日後の日曜日(イースターから50日目後)に祝われます。
聖霊が降臨したことによって色々な国の言語を話せるようになった弟子たちは、世界中にキリスト教を伝道することが出来るようになりました。これにより教会が生まれていくので、この日は「教会の誕生日」とも呼ばれています。

クリスマス|12月25日

クリスマスツリー
12月25日はイエス・キリストの降誕祭。降誕祭とはイエスの誕生日のことですが、実はこの日がイエスの誕生日だったかどうかは分かっていません。では、なぜクリスマスが12月25日なのか?
その由来ですが、12月25日は元々、当時ローマ帝国で信仰されていた太陽神ミトラの光の祭りの日でした。この光の祭りは、1年で最も日が短い冬至の日に行われ、このお祭りで太陽の復活が祝われていました。
紀元392年、ローマ帝国のテオドシウス帝がキリスト教を国教としますが、国民にはあまり浸透しませんでした。そこで、ローマ皇帝はキリスト教を広めるために光の祭りの日をイエスの降誕祭として取り入れてしまったのです。その結果、キリスト教がより広まるきっかけになったと言われています。

日本で行われているクリスマスは、プレゼントのやり取りはイタリアから、クリスマスツリーは北ヨーロッパのお祭りから、といったように、キリスト教以外からも影響を受けています。
誰もが心待ちにするクリスマス。キリスト教徒でもないのにこれだけクリスマスが盛り上がるのは日本くらいかもしれません。
また、サンタクロースは3世紀頃にいた、子供を守る聖人「聖ニコラス」のことで、後の世の人たちが少しずつ今のようなサンタクロース像を作っていったのです。

★サンタクロースについてもまとめています!是非下記の記事も読んでみてください!
サンタクロースの起源はトルコ!モデルとなった聖ニコラウスとは? | トルコ旅行専門の人気ナンバーワン旅行会社『ターキッシュエア&トラベル』

キリスト教の三大聖地

キリスト教にも当たり前に聖地があります。イスラム教では「ハッジ」と言われる、生涯に一度は果たさなくてはならない「聖地巡礼」がありますが、キリスト教では聖地巡礼を強調していませんが、キリスト教徒なら一生に一度は聖地を訪れてみたいのかもしれません。キリスト教徒でなくても、聖地を訪れることによってよりキリスト教の理解が深まると思います。そこで、ここではキリスト教の三大聖地を紹介します。

エルサレム(イスラエル)

エルサレム
キリスト教の一番の聖地は何と言ってもイスラエルの「エルサレム」です。エルサレムはキリスト教以外にも、ユダヤ教とイスラム教も聖地としています。根は同じ兄弟宗教とも言える関係から、3つの宗教がエルサレムを聖地とするのは無理のないことです。世界三大宗教の聖地が集まっていることから、「世界で最も聖なる都市」とも呼ばれています。

キリスト教にとってのエルサレムは、イエスが最後の1週間を過ごした場所でもあり、十字架に処せられたのも、その後に復活した地でもあります。イエスが葬られ、そこから復活したお墓を記念して建てられた「聖墳墓教会」もあります。教会内には、十字架から降ろされたイエスの聖骸に香油を塗布した赤大理石の板があり、何とも言えない重みがあります。聖墳墓教会は、キリスト教にとって世界で最も重要な巡礼地のひとつです。
また、イエスが十字架を背負って歩いた、人生最後の道のり「ヴィア・ドロローサ」もあります。

バチカン市国

ローマ バチカン市国
カトリックの総本山である「バチカン市国」は世界で一番小さい国でもあります。イタリアの首都ローマの中に位置しており、面積は約0,44㎢と皇居の半分以下の大きさしかありません。バチカン市国は街全体が世界遺産に登録されており、キリスト教の建造物の中でも世界最大規模を誇る「サン・ピエトロ大聖堂」やキリスト教芸術を展示している「バチカン美術館」があります。
サン・ピエトロ大聖堂は、12使徒のひとりであるペトロの墓の上に建設された聖堂が元になっています。サン・ピエトロ大聖堂という名はペトロの名が由来となっており、ペトロの遺体は現在も大聖堂の真下に埋葬されています。
元の聖堂は324年に建設されましたが今のような姿ではありませんでした。1200年経った1506年、教皇ユリウス2世によって、老朽化した聖堂の建て替えが開始され、建設期間は120年を要しました。設計や監修には、ミケランジェロ、ブラマンテ、ラファエロなど、10人以上もの天才芸術家が携わりました。

 
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サンティアゴ・デ・コンポステーラ(スペイン)

3つめの聖地は、スペインの北西部に位置するガリシア州の州都「サンティアゴ・デ・コンポステーラ」です。9世紀にこの地で、12使徒のひとりである大ヤコブの墓が発見されました。ヤコブの墓の上には「サンティアゴ・デ・コンポステーラ大聖堂」が建てられ、その後ヤコブの崇拝が広まり、三大聖地のひとつとなりました。
また、「サンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路」の終着地として、フランスやポルトガルなど、ヨーロッパ中から巡礼の道が伸びており、長いルートでは800kmにも及ぶそう。この距離を歩くとなると、通常で約30日~40日はかかる計算です。スペイン国内の巡礼路には、道筋を示す矢印があり、矢印を辿って行くと終着地の大聖堂に辿り着きます。スペイン国内にある巡礼路は、「サンティアゴ・デ・コンポステーラ大聖堂:カミノ・フランセスとスペイン北部の道」として、1993年に世界遺産に登録されました。

初期キリスト教の聖地が多数あるトルコ

イエスの昇天後に使徒や伝道者がイエスの教えを広めたことでエルサレムにてキリスト教が成立し、教会も誕生しました。キリスト教は多くの迫害を受けながらも、使徒たちによりエルサレムから小アジアと言われる現トルコのアナトリア、そしてギリシャやローマへと布教され、教会が作られていきました。そのような使徒たちの伝道の足跡がイスラエルの次に多いのが実はトルコなのです。
そこで、初期キリスト教として歴史深いトルコにある聖地を紹介します。

異邦人布教の拠点《アンティオキア》

パウロ
トルコ南東部ハタイ県のアンタキヤは、古代名アンティオキアと言い、パウロが中心となってイエスの教えをユダヤ人以外の異邦人に初めて伝道した地で、初期キリスト教の布教の拠点でもありました。
現代の研究者によれば、新約聖書『マタイによる福音書』の成立地としても有力視されていると言います。
また、新約聖書『使徒行伝』11章26節によると、この地で初めて信者のことを”キリスト者(クリスチャン)”と呼ぶようになったと言います。ちなみに、これは信者以外が信者に対して使っていた呼称で、信者が自分のことをキリスト者と言うようになったのは、これより後の2世紀になってからです。
シリア正教会などの東方正教会は、12使徒の一人聖ペテロがアンティオキア教会の創始者で初代のアンティオキア総主教であるとしています。

アンティオキアは、その後も常にキリスト教の重要地でありました。そして692年トゥルーリ公会議において、ローマ、コンスタンティノープル、アレクサンドリア、エルサレムと共に主教座格付けを与えられ五大総主教座とされました。アンティオキア総主教は、“アンティオキアおよび全東方の総主教庁”として、現存するキリスト教会の中でも最古の教会に属しています。
しかし、残念ながら現在アンティオキア総教会としての活動は、シリアのダマスカスに移されて行われています。
ですが、トルコのアンタキヤはキリスト教にとって切っても切れない重要な都市なのです。

アンティオキア | トルコ旅行専門の人気ナンバーワン旅行会社『ターキッシュエア&トラベル』

聖ペトロ洞窟教会

聖ペトロ洞窟教会
アンタキヤ東部のスタウリス山の岩肌にあった自然の洞窟を使い作られた奥行13m、幅9.5m、高さ7mの洞窟教会です。初期教会の中でも最も古い教会の内の一つであり、最古の洞窟教会とされています。岩の壁から染み出でて受け石に溜まった水で洗礼を行っていたようです。

西暦29~40年に12使徒の一人ペテロがアンティオキアに訪れて、この教会で伝道したと伝えられています。当初、迫害されていたキリスト教徒たちが隠れて集会をする為に使われていたと言い、ここに集まった信者たちのことを「クリスチャン」と初めて呼び始めたことから、最古の教会の一つとされています。

この教会は、ローマ帝国がキリスト教を国教と承認した後に、増築されてゴシック調の教会になりました。そして、12~13世紀にアンタキヤを占領した十字軍は、教会を数メートル拡大し、2つのアーチで正面に繋げられたと言います。

1983年にローマ教皇パウロ6世によって、ここはキリスト教徒の巡礼地として宣言されました。毎年6月29日にカトリック教会によってここでミサが行われています。
現在は、聖ペトロ記念博物館として人気の観光スポットにもなっています。

名称 Saint Pierre Kilisesi
場所 Küçükdalyan Mh. Senpiyer Cd. 31000 Antakya
定休日 無し
開館時間 夏季<4/1~10/31> 08:30~19:00
冬季<11/1~3/31>08:30~17:00
※最終入場は閉館30分前まで
入場料 40 TL

トルコにある《ヨハネの黙示録の7つの教会》

エフェソス
12使徒の一人聖ヨハネがキリスト教迫害に遭い、エーゲ海のパトモス島に流刑している時に、イエスからの啓示を受けて「世界の終末、最後の審判、新しい世界の到来」などの未来の出来事を幻視します。そして、イエスはこれを当時激しく迫害に遭っていた小アジア(現トルコ)のエーゲ海地方にある7つの主要教会に文面で伝える様に啓示します。これが4つの福音書の一つで新約聖書の最期を飾る『ヨハネの黙示録』です。

イエスの啓示の通りに、ヨハネは7つの教会のキリスト教徒達へ手紙を送ります。下記がその7つの教会と教会へのイエスの指摘メッセージとなります。これら7つの教会は、パウロが西暦53~56年に行った伝道活動により小アジアで初めて作られた教会たちでもあり、それぞれの地名で呼ばれるようになりました。

  • エフェソス (現セルチュク)
    偽りを避けたが、最初の愛から離れてしまった。
  • スミルナ (現イズミール)
    貧しさと迫害に耐えたが富んでいる。死に至るまで忠実であれ。
  • ペルガモン (現ベルガマ)
    サタンの王座がある場所で忠実であるが、間違った教えを持ち込んだ。ニコライの教えを悔い改めよ。
  • ティアティラ (現マニサ県アクヒサル)
    忍耐を知っているが、誤った女預言者により惑わされている。
  • サルディス (現マニサ県サーリフリ)
    死んでいる。目を覚まして悔い改めよ。
  • フィラデルフィア (現マニサ県アラシェヒル)
    門を開く。言葉に従い、名を否まず、辛抱強く耐え最初の愛と兄弟愛を守っている。
  • ラオディキア (現デニズリのエスキヒサル)
    生ぬるい。冷たいか熱くあれ。

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