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「ビザンツ(ビザンチン)帝国」の基礎知識!千年の繁栄と歩みを徹底解説!


古代ローマ帝国の東の地にて、中世の時代に千年もの長きに渡り存続し、後世にも多大な影響を残した「ビザンツ帝国」。誰もが世界史で聞いたことがある有名な帝国ですが、ビザンツ帝国がどの様な帝国であったか詳しく御存じの方は少ないのではないかと思います。

ビザンツ帝国の名を知らしめ帝国の長期存続を可能にした要因は何だったのでしょう?
東ローマ帝国がビザンツ帝国と呼ばれた由来、ビザンツ帝国の特徴や千年の歩み、この帝国が生み出したものなどビザンツ帝国にまつわる事をここで徹底解説致します!

目次

ビザンツ帝国の場所は?

ビザンツ帝国
ビザンツ帝国の首都は、「コンスタンティノープル」でした。即ち現トルコのイスタンブールのヨーロッパ側旧市街地で、大宮殿や競馬場などがある町の中心地は現在世界遺産となっているスルタンアフメット地区に有りました。
首都コンスタンティノープルを中心に、全盛期はバルカン半島からアナトリア半島、北アフリカや東地中海沿岸諸国と広範囲に渡り、ビザンツ帝国の領土でした。

世界の中心「コンスタンティノープル」ビザンツ帝国の首都を徹底解説! | トルコ旅行専門の人気ナンバーワン旅行会社『ターキッシュエア&トラベル』

ビザンツ帝国と東ローマ帝国は同じ?

ビザンツ帝国=東ローマ帝国と認識されていることが多いのですが、実は微妙な違いがあるのです。東ローマ帝国はなぜビザンツ帝国と呼ばれるようになったのでしょうか?

「東ローマ帝国」は、ローマ帝国の東方領土

ローマ帝国
395年に死去したローマ皇帝テオドシウス1世が、二人の息子に東西を二分して統治させたため、結果的にローマ帝国が東西分裂することになりました。東西分裂の際に、東方正帝がコンスタンティノープルを首都とし統治した東方領が「東ローマ帝国」です。西には西方正帝がメディオラーノム(現ミラノ)を首都として統治した西方領土「西ローマ帝国」がありました。

即ち、古代ローマ帝国の東方領土が東ローマ帝国となり、この東西が分かれた395年が東ローマ帝国の誕生と言われています。

東ローマ帝国の人は自分たちを何と呼んでいた?

実は、当時の東ローマ帝国の人々は自分たちの国の事を、東ローマ帝国ともビザンツ帝国とも呼んだことはありませんでした。

この時代、東西に分割統治されていても統治者=皇帝が二分されているだけでどちらもローマ帝国の領土であることに変わりないと言う概念があった為、「ローマ帝国」、「ローマ人たちの帝国」、「ロマニア」、「ローマ共和国」などと呼んでいたそうです。東ローマ帝国の歴代皇帝たちもローマ帝国皇帝と認識していました。

尚、住民の多くはギリシャ人でしたが、12世紀まで自分たちの事をギリシャ語で“ローマ人”を意味する「ロメイ」と呼んでいました。しかし、西方のローマの人たちは、東方の国の人たちがいくら自称「ローマ人(ロメイ)」と言っていたとしても東方領土の人のことを「ギリシャ人」と呼んでローマ人とは区別していた様です・・・。

その後、東ローマの人たちも徐々に13世紀以降自らを“ギリシャ人”を意味する「ヘレーネス、イリアス」と呼ぶようになります。その後は、国外からも東ローマ帝国はギリシャ人の国として認識されるようになりました。しかし、1453年に滅亡するまで、基本的にはローマ人と自称していたようです。

「ビザンツ帝国」は後世に命名された呼び方

ビザンツ帝国
実はビザンツ帝国と初めて呼ばれるようになったのは、ずっと後の16世紀になってからなのです。
東ローマ帝国は、ローマ帝国を後継していましたが、ギリシャ人地域であった為ローマの性質は弱く、7世紀以降はラテン語の代わりにギリシャ語を採用するなどローマ帝国とは全く違う性質を持った独自の「キリスト正教会を信仰するギリシア人のローマ帝国」となっていました。

1544年にドイツ人歴史家でギリシャ史に力を入れていたヒエロニムス・ウルフ氏が、この特質化した7世紀以降の東ローマ帝国を表す為に『Corpus Historiae Byzantinae』と言う書籍で初めて「ビザンツ(Byzanz)」を使用したことが「ビザンツ帝国」と言われる様になったきっかけです。

そう、本質的にローマの伝統を継承していた帝国であった頃とキリスト教化されたギリシャ人の時代を区別する為に生み出された名前なのです。
ですので、正しくは7世紀以降の東ローマ帝国の呼称がビザンツ帝国となります。

しかし、現在はこの様な選別をせず、東ローマ帝国=ビザンツ帝国と呼ぶのが一般的になっています。

「ビザンツ帝国」の名は都市名ビザンティオンが由来

ビザンティオン
この「ビザンツ」は、首都コンスタンティノープルの旧名である、元はこの地に都市を築いたメガラ人の王の名“ビュザス(又はビュザンタス)”が由来のギリシャ人植民都市「ビザンティオン」が語源となっています。尚、「ビザンツ」はドイツ語の名詞で、同様に使用されている「ビザンティン/ビザンチン」は英語の形容詞からきています。

因みに、コンスタンティヌス1世が330年にこの都市を支配し、ローマ帝国の首都コンスタンティノープルと改名されてからは何世紀もの間、歴史的及び文学的な文献以外に旧都市名ビザンティオンの名が使用されることはほぼありませんでした。

16世紀に「ビザンツ」という言葉が登場してからこれが西欧学者の間に広がり、東ローマ帝国の中期「ギリシャ語を話すキリスト教化されたギリシア人のローマ帝国」文学を表すために、徐々に「ビザンツ/ビザンチン」という用語が使用されるようになったのです。
1648年にフランスで『Byzantine du Louvre (Corpus Scriptorum Historiae Byzantinae)』、そして、1680年にビザンツ学の祖とされているシャルル・ドゥ・フレスネの『Historia Byzantina』が出版されると、「ビザンツ」と言う語はモンテスキュー等のフランス人作家の間で人気になりました。

しかし、この呼称は学者間で使われていただけで、19世紀半ばまで「ビザンツ」という呼び方は西欧諸国で一般的に使われることはありませんでした。

ビザンツ帝国の特徴はここ!

ビザンツ帝国
  • ペルシャ帝国、ノルマン人、イスラム勢力等々外部からの脅威に常にさらされ、またクーデターにより何度も王朝が替わりながらも395年~1453年まで1058年間の長期間存続しました。
  • 民主政治ではなく、皇帝の専制君主制が行われていました。
  • 皇帝は世襲制でしたが、皇后も権力を持ち、女帝も存在しました。
  • 1058年間で14の王朝、共同皇帝を含めて90人以上の皇帝が統治しました。
  • 住民の大多数がギリシャ人でした。
  • 当初はラテン語が使われていましたが、620年以降はギリシャ語が公用語になりました。
  • 国教としてキリスト教の正教会が信仰されていました。
  • 首都コンスタンティノープルには、古代の五大総主教の一つコンスタンティノープル総主教座が置かれていました。
  • 中世のドルと呼ばれる高純度のノミマス金貨の流通により、首都は貨幣経済の中心地として繁栄しました。
  • テマ制と言う、兵農一致の地方制度が取られていました。
  • 難攻不落の強固な城塞やギリシャの火薬と言う焼夷兵器で首都陥落の危機を何度も乗り越えました。

ビザンツ帝国の略年表

ビザンツ帝国
  • 286年4月1日
    ローマ帝国の最初の分裂(二頭政治)
  • 330年5月11日
    ローマ皇帝コンスタンティヌス1世が帝国の首都をコンスタンティノープルへ遷都
  • 380年
    皇帝テオドシウス1世がキリスト教を国教に制定
  • 395年1月17日
    ローマ皇帝テオドシウス1世の死去により帝国が東西分裂
    コンスタンティノープルを首都としてビザンツ帝国が成立
  • 480年4月25日
    西ローマ帝国が正式に滅亡
    東ローマ帝国皇帝がローマで唯一の皇帝となる
  • 533年
    『ローマ法大全』完成
  • 537年
    アヤソフィア大聖堂の再建完成
  • 620年
    皇帝ヘラクレイオスにより公用語がラテン語からギリシア語へ
  • 800年
    西ではカール大帝がローマ皇帝に即位し西ローマ帝国を継承したとする神聖ローマ帝国が成立。ローマ教皇と共に権力向上
  • 1054年
    東西教会の分裂
  • 1204年4月12日
    第4回十字軍がコンスタンティノープルを征服
    ビザンツ帝国は一度消滅し、皇帝たちは亡命
    カトリックの十字軍によりラテン帝国が樹立
  • 1261年
    ミカエル8世パレオロゴスがコンスタンティノープルを奪回
    ビザンツ帝国が復活
  • 1261年5月29日
    オスマン帝国がコンスタンティノープルを陥落
    ビザンツ帝国滅亡

ビザンツ帝国の王朝リスト

コンスタンティヌス朝
  • 1.コンスタンティヌス朝(306~363年)
    ‐‐‐空白期間(363~364年)
  • 2.ウァレンティニアヌス朝(364~378年)
  • 3.テオドシウス朝(379~457年)
    ※395年東西分裂し、東ローマ帝国が成立
  • 4.レオ朝(457~518年)
  • 5.ユスティニアヌス朝(518~602年)
    ‐‐‐空白期間(602~610年)
  • 6.ヘラクレイオス朝(610~711年)
  • 7.イサウリア朝(717~802年)
  • 8.ニケファロス朝(802~813年)
    ‐‐‐空白期間(813~820年)
  • 9.アモリア朝/フリギア朝(820~867)
  • 10.マケドニア朝(867~1056年)
    ‐‐‐空白期間(1056~1057年)
  • 11.コムネノス朝(1057~1059年)
  • 12.ドゥーカス朝(1059~1081年)
  • 13.コムネノス朝(1081~1185年)⇒後1204年に黒海地方でトレビゾン帝国を建国
  • 14.アンゲロス朝(1185~1204年)
  • 15.ラスカリス朝 ※ニカイア帝国・東ローマの亡命政権(1204~1261年)
  • 16.パレオロゴス朝(1259~1453年)

ビザンツ帝国の千年の歩み

395年から1453年まで1000年以上に渡り帝国を持続させたビザンツ帝国の歴史は、主に前期(330~717年)、中期(717~1204年)、後期(1204~1453年)の3期間に分けられます。少し長くなりますがビザンツ帝国の歴史を主な時代に区分しながらご紹介致します。

ビザンツ帝国が成立するまで

アレキサンダー大王
3世紀になるとローマ帝国は巨大化し、南西ヨーロッパと北アフリカを含めた東地中海沿岸の地域をほぼ掌握していました。これらの地域は、都市部及び農村部を含む様々な文化的集団であったため一律でなく、一般的に東方の方が、西方よりも都市化が進んでいました。
東方の州は、アレキサンダー大王後のマケドニア系の帝国の下で統一されたこともあり、ギリシャ文化を通してヘレニズム化されていたからです。

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西側の都市は、3世紀に起こったローマ帝国の235年セウェルス朝の終焉から軍人皇帝時代、そして284年のディオクレティアヌス帝の即位までの未曽有の混乱による危機を東側の都市よりもはるかに大きく受けていました。既に定着しヘレニズム化しきっていた東側と新しくラテン化した西側との差は徐々に開いていき、数百年後にはかなり大きく重要な差が生まれてしまうのです。

西側と東側二つの世界の距離は、この様にして生まれ始めました。

共同皇帝による皇帝権の分権化

293年、ローマ皇帝ディオクレティアヌスは共同皇帝制「テトラルキア」と言う新しい統治制度を作り出し、巨大化した帝国の外部から脅威の危機にある地域の安全を確保しようと努めました。皇帝は、共同皇帝を立ててローマから離れた帝国の東方と西方の前線にそれぞれ正帝として留まり、またそれぞれの副帝も他の地に留まり、実質四人の皇帝が行政区域毎に職務分担して帝国統治を共有していきました。

この様に、広大な帝国領土の支配を維持する事と行政を改善する事を名目にローマ皇帝の職務は分業されました。数名の皇帝が分担してそれぞれの行政区を統治する共同皇帝制が行われていたのです。
どんなに管理分割が多様化したとしても、通常は西方と東方の間のそれぞれの正帝が確立していて分担が明確化していました。

しかし、内戦により313年にこのテトラルキア制は崩壊してしまいます。その数年後の324年にコンスタンティヌス1世が共同皇帝を廃止し東方と西方を統一して、ローマ帝国の「唯一の正帝」を宣言しました。

新たな集権化 コンスタンティノープルへ遷都

コンスタンティノープル
ドナウ川方面のセルビア人やゲルマン人、東のユーフラテス川方面のペルシャ人など外部の脅威から領土を攻防するために、ローマより更に前線に近い場所に軍事的・政治的中心地を置く必要がありました。

皇帝コンスタンティヌス1世は、アジアとヨーロッパ、黒海と地中海の貿易ルートにあるビザンティオンに目を付け、第二のローマとして大都市建設を行い、ローマ帝国の首都をここに遷都するのです。当初この新首都は“新ローマ”を意味する「ノヴァ・ローマ」と名付けられましたが定着せず、コンスタンティヌス1世死後に“コンスタンティヌスの都市”を意味する「コンスタンティノープル/コンスタンティノポリス」と呼ばれる様になります。

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コンスタンティヌス1世は、帝国の軍事、金融、市民、宗教機関で大きな改革を行いました。特に、彼が始めた高質なソリドゥス金貨は安定した通貨として経済を変えて、発達を促進しました。

コンスタンティヌス1世の治世、キリスト教は国教ではありませんでしたが、皇帝が惜しみなく支持していたため、帝国が支持している宗教という特権がありました。

コンスタンティヌス1世は、皇帝たちが宗教原理において探ることを防ぐために原則を定め、皇帝たちが今後宗教原理を探る際は公会議を申し込むことが必須となりました。アルル教会会議と第一回ニカエア公会議の招集が行われたことは、コンスタンティヌス1世の教会統一に対する関心と彼自身がその先頭に立つと言う意図を示しています。

その後、361年に皇帝にユリアヌス帝が即位すると、多神教が国中で復活するために断固とした政策を踏みキリスト教の布教が中断されますが、これはユリアヌス帝が363年に死去すると共に廃止され短期間で終わりました。因みに、後世ユリアヌス帝はキリスト教徒から背教者と言われることになります。

テオドシウス1世が即位すると、彼は391年と392年に一連の勅令を出してキリスト教を国教としたことに因り、異教の宗教を根本的に禁止しました。 異教の祭り、生贄、異教の神殿や礼拝所への入場は禁止され、古代オリンピックも393年の第293回大会を最後に行われなくなったと言われています。

因みに、テオドシウス1世はローマ帝国の東方と西方の両方を統治していた最後の皇帝となります。

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ローマ帝国東西分裂の決定、ビザンツ帝国成立

テオドシウス1世
395年テオドシウス1世は死に際し、既にテオドシウス治世下で正帝を名乗っていた二人の息子にローマ帝国を分担統治させます。コンスタンティノープルを首都とする東ローマを息子のアルカディウスが、西のメディオラーノム(現ミラノ)を首都とする西ローマをもう一人の息子ホノリウスが分担統治を始めました。ここで後にビザンツ帝国と呼ばれる東ローマ帝国が成立しました。

この東西の国を通称で東ローマ帝国と西ローマ帝国と呼び、これ以後帝国の東西領域を実質的に一人で統治する支配者は現れず、東西で運命が分かれることになって行くのです。

西ローマ帝国の滅亡

二つに分裂した東西の国は、経済格差などにより明暗が分かれて違う道をたどる運命となります。
元々、375年からフン族の西進によりゲルマン人ゴート族が南下してローマ帝国に侵略し始めていました。いわゆる「ゲルマン民族の大移動」です。東西分裂後もゲルマン人の侵攻が続き、さらに立て続けの戦争により奴隷の供給不足や国庫不足などで経済的不安も伴い、西ローマ帝国は段々と衰退してしまいます。

そんな中、476年に西ローマ帝国のゲルマン系傭兵隊長オドアケルが反乱を起こし、西方皇帝ロムルス・アウグストゥルスを退位させます。そして、「もはやローマに皇帝は必要ではない」とする勅書と共に西ローマ皇帝の帝冠と紫衣を、元老院を通じて東ローマ帝国の皇帝ゼノンへ送り、ここで西ローマ帝国の皇帝が廃止され、よって西ローマ帝国が滅亡となりました。
滅亡と言うより、西方正帝が廃止されたことにより、帝政から元老院とローマ市民への政治へと政治形態が変容したと言えます。

なお、ロムルス・アウグストゥルスの退位後も西方皇帝の称号をユリウス・ネポスが名乗っていましたが、480年に彼が暗殺されると遂に東方皇帝ゼノンのみがローマにおける唯一の正帝となり、東西の皇帝権が再統一されました。
この西ローマ帝国の西方皇帝の消滅を以て、古代の終わり、中世の始まりとされています。

因みに、西方皇帝ロムルス・アウグストゥルスを退位させて皇位を東ローマ皇帝ゼノンに返上したオドアケルは、ゼノンより報奨としてパトリキ(貴族)の地位およびイタリア本土の統治権が与えられてイタリア領主となりました。オドアケルは名目上皇帝ゼノンの宗主権下にありながらも完全な自治権を持って行動し、ゼノンとも当初は良好な関係を築いていましたが、宗教上の相違から最終的には皇帝に対する反乱を支援します。

東ローマ帝国がゲルマン人の侵入を防げた理由

コンスタンティノープル
5世紀に西ローマが多くの問題に直面したにも拘らず、東ローマでは大きな問題が起こりませんでした。その主な理由の1つは、東部のより発達した都市文化と豊富な財源によって敵を抑圧できたこと、そして傭兵を保持することが可能であったことでした。

東ローマ帝国の繁栄により、ゲルマン人達は強固な東ローマを避け、より弱体化している西ヨーロッパ帝国を徹底的に攻撃したそうです。

これにより攻撃を受けなかった東ローマにおいて、例えばテオドシウス2世はローマ法の成文化やコンスタンティノープルの城壁の増設など多くのプロジェクトに集中する機会が得られ、東の首都コンスタンティノープルは1204年までどの様な攻撃にも耐えられる難攻不落の強固なものとなり得ました。

国の源となる豊かな穀倉地帯がアナトリアやシリアやエジプトなど前線地から遠い所に有ったため、ゲルマン人に侵略されることなく、豊富な穀物を保持することができたのも国を強固にしていた要因の一つです。

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ユスティニアヌス王朝下での繁栄

ユスティニアヌス王朝
ユスティニアヌス王朝は、古代末期の最も重要な皇帝としても知られるユスティニアヌス帝の叔父で養父でもあったユスティヌス1世から始まります。

ユスティヌス1世は貧農出身で読み書きも出来ませんでしたが、軍入隊後に活躍して将軍、その後皇帝となった人物です。ユスティヌス1世は皇帝となる前の近衛隊にいた時に、甥のユスティニアヌスをコンスタンティノープルに呼び寄せ養子にして学ばせました。

518年ユスティヌスが皇帝に即位すると、博識であったユスティニアヌスは腹心として養父の皇帝を助けながらも事実上の統治者となり、527年にユスティヌスが死去すると、ユスティニアヌスが単独統治者となります。

ユスティニアヌス帝は野心的で帝国の復活を部分的に実現しました。彼の執政には、20歳年下で踊り子から皇后に伸し上がった妻テオドラも大きく影響しています。
ここでユスティニアヌス帝治世下の主な出来事を取り上げてみましょう。

  • 法務長官トリボニアヌスやテオフィルスを筆頭とした10名に編纂を命じ、529年『ローマ法大全(コルプス・ユーリス)』を刊行させました。これは後世、多くの近代ヨーロッパ国家の法的秩序の基礎となりました。
  • 529年、異教徒の学校禁止により、紀元前387年プラトンが創立してから続いていたアテネの学園アカメディアが歴史に幕を閉じました。
  • 532年1月、コンスタンティノープルの中心地にて、競馬場(ヒッポドローム)を舞台に競馬支持団体が皇帝に対して起こした暴動「ニカの乱」が勃発します。これによりアヤソフィア聖堂など多くの物が焼失しました。暴動鎮圧の為、3万人近いとも言われる市民が殺されたと言われています。
  • 532年6月、東の国境安全確保のために、ササーン朝ペルシャのホスロー1世に多額を支払い、永年平和条約を締結しました。
  • 533年ベリサリウス将軍を北アフリカへ派遣し、ゲルマン人が南下して429年よりカルタゴを首都として建国していたヴァンダル王国を征服させ、アフリカ州を取り戻し、一時地中海沿岸の大半を再統一することに成功しました。
  • 537年、ニカの乱で焼失したアヤソフィアを再建します。その後、コンスタンティノープル総主教座が約800年間置かれ、現在残っている建物はこの時に再建された物です。
  • 6~7世紀に流行したペストにより、帝国の人口減少と共に経済も損失して弱体化してしまいます。皇后テオドラもペストにより死去したそうです。

ユスティニアヌス大帝が565年に死去した後、ユスティヌス2世が帝位に就きます。その後はササーン朝ペルシャとの関係悪化、イタリアも大部分を失い6世紀末まで領土の3分の1程のみしかビザンツ帝国の手中にありませんでした。

578年ユスティヌス2世の後、ティベリウス2世が婿のマウリキウスと共に共同政治を行い、東の国境を保持することに成功しますが、アヴァール人によって582年にシルミウム(現セルビア西部)を陥落されます。

その後、帝位に就いたマウリキウスは、ペルシャの内戦に介入し、ペルシャのホスロー2世と娘を結婚させて彼をササーン朝の帝位に就かせます。マウリキウスは、婿ホスロー2世と合意した上で帝国の東の国境を広げることに成功しました。

東国境の安全が確保できたことで精力的にバルカン半島に集中することが可能となり、602年からバルカン方面遠征に成功したことで、侵攻していたアヴァール人とスラヴ人をドナウ川より後退させることが出来ました。
しかし、アヴァール人の捕虜となったローマ人数千人の身代金を皇帝マウリキウスが拒否した上、真冬に軍隊をドナウ川に強制送還して越冬命令を出したことにより、フォカスという名のドナウ川国境に駐屯する軍の下士官(百人隊長)がその皇帝命に反対し、軍隊をコンスタンティノープルに連れ戻して反乱を起こし、皇帝マウリキウスとその家族は逃げる途中に殺されてしまいました。

フォカスは、軍の兵士たちによって推戴され皇帝に即位します。ペルシャのホスロー2世は妻の家族である皇帝マウリキウス一家が殺されたことを復習の口実に、東ローマ帝国メソポタミア州へ遠征軍を送り一進一退の戦いを続けることになります。
因みにフォカスは、“暴君”と呼ばれ、市民の支持を得ない皇帝となり下がっていました。

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ビザンツ帝国領土の縮小

西暦610年頃からビザンツ帝国は中期に入り、イスラーム帝国の台頭により多くの領土を失い縮小されてしまいます。

ヘラクレイオス朝での改革

ウチヒサル
608年カルタゴ総督であったアルメニア系カッパドキア貴族出身の大ヘラクレイオスが反乱を起こし、610年に息子のヘラクレイオス1世が艦隊を率いて首都コンスタンティノープルに攻め入って皇帝フォカスを処刑します。そしてヘラクレイオス1世が皇帝に即位し、ヘラクレイオス朝が始まりました。

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ラテン語からギリシャ語が公用語に!

4世紀以降、徐々に東ローマ帝国領土ではラテン語の重要性が低迷してきていました。その変容を皇帝ヘラクレイオスが認め、620年にギリシャ語を東ローマ帝国の公用語として公認しました。

イスラーム帝国の台頭とビザンツ帝国の危機

7世紀初めヘラクレイオスが即位した頃、ササーン朝はレバント(東部地中海沿岸地方)まで進行してダマスカスとエルサレムを占領し、聖十字架をササーン朝首都クテシフォンに持ち去っていたため、ヘラクレイオス1世は、聖十字架奪回の聖戦を名目に東方遠征を行ないます。そして627年ニネヴェの戦いにてササーン朝に勝利し、エジプト、東地中海沿岸地方、メソポタミア、アルメニアの地と聖十字架を奪回しました。

この戦争は10年以上にも及んだためビザンツ帝国とササーン朝ペルシャ帝国の両国を大いに弱体化させ、このすぐ後に出現した正統カリフ・イスラーム国のアラブ人達の脅威に対して非常に脆弱になっていました。

ビザンツ帝国は、636年のヤルムークの戦いでアラブ人に対して大敗を喫し、クテシフォンは637年に奪われてしまいました。この大敗により、領土であるアナトリアやシリアやエジプトへイスラーム帝国の侵略が進んで行くのです。

イスラーム帝国のコンスタンティノープル包囲

ルーム・セルジューク朝
東地中海沿岸地域とシリア地方を把握したウマイヤ朝(661年成立)のアラブ人達は、頻繁にアナトリアに侵略軍を送り込んでおり、669年には首都コンスタンティノープルの対岸カルケドン(現カドゥキョイ)まで侵攻し、674~678年にはコンスタンティノープルがウマイヤ朝の海軍に包囲されてしまいます。

絶体絶命の危機に面したビザンツ帝国でしたが、強固な城壁と最新兵器である焼夷兵器「ギリシャの火薬」でウマイヤ朝海軍を退けて、30年間の停戦条約を締結することに成功しました。

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北方ブルガール人との争い

680年、バルカン半島に進出するブルガール人との戦いに負け、681年に皇帝コンスタンティノス4世はブルガールと講和条約を結びドナウ川下流流域の領土を与えたことで、北方に独立した第一次ブルガリア帝国が建国されました。

687~688年、ヘラクレイオス王朝最後の皇帝ユスティニアヌス2世は、スラブ人とブルガリア人に対する遠征を行なったことによって顕著な利益を上げました。しかし、皇帝がトラキア地方からマケドニアまで戦わなければならなかったと言う事実は、ビザンツ帝国の権威と支配がバルカン半島北部で失われていたという事でもありました。

ユスティニアヌス2世は厳しい課税と外国人を管理職へ配置することで、都市貴族の力を打破しようとしまが、695年に彼はクーデターに遭い鼻を削がれてクリミア半島に追放されてしまいます。しかし、復権を掲げて黒海北東のハザール帝国、次にブルガリア帝国に亡命しながら、705年にブルガリアを後ろ盾としてコンスタンティノープルに戻り、帝位を奪回しました。

その後711年、クーデターによりユスティニアヌス2世は殺され、ヘラクレイオス王朝は終焉しました。

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帝国統治の変容 テマ制へ

ビザンツ帝国
7世紀を通して帝国統治の方法が一新しました。この世紀に大きな領土喪失にあったビザンツ帝国では、古くからの中央集権型の軍事と行政が分担していた地方制度も消滅した為、これに代わってアナトリアを軍管区に分割し、帝国政権が配置した指揮官の下で直轄の軍隊に農兵を任せた統治システム「テマ制」に変えられました。

テマ制は、所属する兵士に農地を与えて平時は自由農民として農耕に従事させ、その収入により武器や装備を自弁させるものとし、戦時には兵士として召集して国土の防衛に当たるという兵農一致の制度です。

これにより、戦争が無い時は常駐軍隊の膨大な糧食需要を兵士が農民として自活することで補うことが可能となり、戦時には兵士たちは自分の土地を守るために戦うこととなりますので、士気は高く有効な戦力となり、また異民族の侵入に素早く対応できるようにもなったようです。

イサウリア朝からバシレウス1世の時代まで

717年に即位しイサウリア朝を創始したレオン1世は、718年にアラブ人により第二次コンスタンティノポリスの包囲に遭いますが、これを撃退し、そしてアナトリアのテマを再編成して強化することに専念しました。

後継者のコンスタンティノス5世は、8世紀中頃にシリアの北方でウマイヤ朝に大勝し、東の国境を広げることに成功します。また、皇帝直属の中央軍タグマを編成したのも功績で、彼はブルガリアに対しても数々の勝利を収めてブルガリアの力を弱めることにも成功しました。

スラブ人のトマスが820年台初頭に反乱を起こした後、ビザンツ帝国の弱体を機にアラビア人達は立ち直り、827年頃クレタ島を征服して独立王国を建国します。さらに、アラビア人達はシチリア島への遠征も成功させますが、863年にビザンツ帝国のパトロナス将軍が当時帝国の最強の脅威でもあった小アジアのアッバース朝メリテネ(現マラティヤ)総督ウマル・アル・アクタを大敗させました。

クルム率いるブルガリア帝国からの危機も再発していましたが、815~816年頃にクルムの息子オムルタグとビザンツ帝国の皇帝レオン5世との間で30年不戦条約がなされました。

聖像破壊運動による宗教論争

カッパドキア
8~9世紀にかけて1世紀以上に渡り、聖像破壊運動「イコノクラスム」が帝国で最も大きな議論となっていました。
それまで掲げられていた聖像を意味する「イコン」に対し、726年に皇帝レオン3世が聖像禁止令を出したこと、またその息子のコンスタンティノス5世により徹底的な聖像弾圧が行われました。

これにより、東西の教会の関係が悪化し、イコン支持派の反乱が勃発しますが、結局787年にコンスタンティノス5世の息子レオン4世の皇后エイレーネーが主宰した第2回ニカイア公会議によって、イコンを崇拝するのではなく敬意を示すことのみの正統性が再確認されます。

815年に再度レオン5世により聖像禁止令が出されますが、843年に皇后テオドラが教皇メソディオスの助けを借りてイコン崇拝の復活を成し得ます。

聖像破壊運動により、フォティオス1世が総主教である事にローマ教皇ニコラス1世が反発したことで、ローマ教会とコンスタンティノポリス教会間の対立が高まった状態「フォティオスの分離」が起こりました。

ニケフォロス1世の時代

防衛策と財政政策に重きを置いたニケフォロス1世は、7世紀以来続いているテマ制下での地方守備兵ストラディオッドを基礎とした防衛制度に小さな改革を行いました。

有力な軍隊を形成するのに十分な人数を維持できなかった為、自分の装備費用を賄う経済力を持っていたストラディオッドに加え、より収入の少ない農民もこのシステムに含められました。装備費を徴収する名目で所属する土地を数名で共有する自由を与えることで、軍隊の兵員を増加できたのです。

尚、この試みはその時までこの制度に属していなかった船員に対しても適用されるようになり、船員たちは政府の定めた値段で公地を強制的に購入させられました。

前世紀に見られた居住政策と同様に、小アジアの市民を北方のスクラビニア(スラブ人の土地)へ住まわせたニケフォロス1世は、この市民たちをその土地の地方守備兵であるストラディオッド制度に組み込みました。
また、ニケフォロス1世は、バルカン半島でのビザンツ支配を強化するためにペロポネソスを占領してこの地域で新しいテマ制度を確立し、小アジアからテマ制度を持ち出した最初の人物になりました。尚、この小アジアの人々をこの地域に居住させたことは、バルカン半島政府への忠誠心が強い人々を住まわせたことにもなりました。

811年に皇帝ニケフォロス1世は、第一次ブルガリア帝国に侵攻しましたが、撤退時のプリスカの戦いで戦死し、彼の軍も完全に破壊されてしまいます。

マケドニア王朝と復活(867~1025年)

ビザンツ帝国
867年にバシレイオスが即位したことで、2世紀半続くマケドニア王朝が開始されました。
この王朝は、ビザンツ帝国時代の中で最も有能と言われる統治者を数名輩出し、王朝を通して帝国を復活させることが出来ました。帝国外部の敵に対してもそれまでに奪われた土地を奪回し、領土を広げることに成功したため、ビザンツ帝国時代の黄金時代とも言われています。

また、軍事的および行政的権威の回復に加えて、哲学や芸術などの分野で文化的な発展もしました。10世紀、皇帝コンスタンティノス7世の下では「マケドニア朝ルネサンス」とも呼ばれる古代ギリシア文化の復興が進められました。

全盛期のビザンツ帝国

10世紀末~11世紀初頭には、北シリア、南イタリア、バルカン半島全土を征服して、東はアルメニアから西はイタリアのカラブリアまで、東地中海世界を支配する大帝国に返り咲きました。

マケドニア朝の皇帝たちは、特に絹や貴金属製品による、西ヨーロッパとの貿易を通じて国の富を大幅に増やし、9~11世紀、首都コンスタンティノープルは多い時で40万人もの人口を持つ、ヨーロッパで最大かつ最も富んだ都市になりました。

正教会とカトリックの分裂(1054年)

ビザンツ帝国
マケドニア朝時代、宗教上で重要な出来事が起こりました。ブルガール人、セルビア人、キエフ大公国がビザンツ帝国からキリスト教正教会を取り入れたことで、ヨーロッパの宗教地図を変え、永久的なものに決定づけ、現在でもこの影響が続いています。

ビザンツ帝国下テッサロニキ出身のギリシャ人兄弟であるキュリロスとメトディウスは、セルビア人達のキリスト教徒化に大きく貢献し、この際にキリル文字の祖先として知られるグラゴル文を考案しました。

また、1054年には「東西教会の分裂」と呼ばれる決定的な危機が起こりました。何世紀にもわたって徐々に増加していた東西の教会の溝は、1054年6月16日の聖典礼の間に教皇が総主教座であるアヤソフィアに入り、総主教に対して宝座に破門状を叩きつけたことで頂点に達しました。そしてローマ教皇とコンスタンディノープル総主教とが相互破門を行なったことで、東西教会は分裂しました。

恐慌と分裂

ビザンツ帝国は、広範囲でのテマ制度の崩壊と軍の傲慢が原因となって困難な期間に入ります。皇帝ニケフォロス2世フォカス、ヨハネス1世ツィミスケス、バシレイオス2世の3人は、軍構造を早急に対処し、多数が防衛的な市民で構成されていた軍から、徐々に専門的で遠征に出陣するプロの傭兵に頼った軍隊に変更していきました。

しかし、10世紀までに侵略の脅威が衰え始めると、この高価な傭兵や大きな駐屯地や高価な防衛施設を持続する必要性も低下します。

偉大な功績を残した皇帝バシレイオス2世ですが、彼の死後に後継者がすべき事を計画して整えておくことをしておりませんでした。残念ながら、直ぐ後の後継者で特別な軍事的または政治的才能を持つものは誰もおらず、帝国の管理は徐々に役人の手に渡って行くことになってしまいます。

そして、ビザンツ帝国の経済を復活させる試みが行われますが、これはインフレと劣化した金通貨制度につながるだけでした。軍隊は今や不必要な出費と政治的リスクと見なされてしまっていたため、地方の軍隊は解散され、その代わりに軍隊は主に特定契約された外国人傭兵が採用されました。

ノルマン人とセルジューク朝の侵攻

セルジューク朝
同時期、帝国には新たな敵が出現します。南イタリアの州は11世紀初頭にイタリアへ進出してきたノルマン人の脅威にさらされました。1054年に東西教会の分裂をもたらした様にコンスタンティノープルとローマ間で争っている間、ノルマン人達はゆっくりと、しかし確実にビザンツ帝国支配下のイタリアへ拡大し始めており、1060年にカラブリア州の皇帝直属の常備軍タグマの中心地レッジョ、1068年にはオトラント、1071年にはプッリャ州のバーリが攻略されてしまいました。

しかし何よりも最悪なことは、アナトリア内にセルジューク朝トルコ人が出現したことです。1065~1067年間、セルジューク朝のトルコ人はビザンツ帝国下東国境にあるアルメニアを征服します。この緊急事態によりアナトリアの国民と貴族は強力な軍事政権の成立を望み、ロマノス4世ディオゲネスが皇帝に即位するものの、1071年のマラズギルトの戦いで皇帝が捕虜となって大敗し、セルジューク朝にアナトリアのほぼ全域を占領されてしまいました。

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コムネノス王朝と十字軍遠征

1081年から1185年までコムネノス王朝の5人の皇帝(アレクシオス1世、ヨハネス2世、マヌエル1世、アレクシオス2世、アンドロニコス1世)が統治しました。ビザンツ帝国の軍事、地域、経済、政治的立場は慢性化しましたが、結果的には不完全な復興政策が実施されたことになりました。

セルジューク朝にアナトリアの中心地を占領されてはいましたが、ビザンツ帝国の力の矛先の大半はノルマン人を含めた西方の脅威に向けられていました。

アレクシオス1世が起因となって起こった聖地への十字軍遠征は、歴史において重要な役割を果たします。特にヨハネス2世とマヌエル1世の治世に、ヨーロッパ、近東、地中海沿岸において文化と政治の面で大きな権威を行使しました。

また、この王朝時代にビザンツ帝国と十字軍を含む「ラテン」西部との関係性は大きく進展しました。ヴェネツィア人とその他のイタリア人商人たちの多くの人々が、コンスタンティノープルを始めとした地域に住み着き、当時のコンスタンティノープルの人口30~40万人の内、ラテン人が6万人を占めていたというほどです。

更にこれに加えて、マヌエル1世によりビザンツ帝国に駐屯させていた多数のラテン人の傭兵が組み込まれたことで、帝国の技術、美術、文学、文化がラテン西部に浸透し、それと引き換えに西洋思想が帝国内にも入りました。尚、この時代、コンスタンティノープルはキリスト教世界において規模と富と文化の面でリーダー的都市であったと言われています。
ビザンチン美術と文学は、ヨーロッパで卓越した地位を築き、この影響は長期にわたり続きました。

アレクシオス1世と第1回十字軍遠征

ルーム・セルジューク朝
コムネノス王朝創始者のアレクシオス1世には、セルジューク帝国に奪われた土地を取り戻すための人材がいませんでした。
1095年皇帝アレクシオス1世の使節は、ピアチェンツァ公会議にて教皇ウルバヌス2世へ「東方のキリスト教徒が迫害されおり、西側の助けがなければキリスト教徒はイスラム教徒の支配下で迫害され続けるだろう」と訴えます。

教皇ウルバヌスにとって、皇帝アレクシオス1世のこの要請は、西ヨーロッパを強化し、東方正教会とローマカトリック教会を統合する良い機会となりました。

1095年11月27日、教皇ウルバヌス2世はクレルモン公会議を招集します。そして、十字架のシンボルの下で団結し、軍事巡礼の形でイスラム教徒からエルサレムと東部を奪還するよう参加者たちに呼びかけました。これが十字軍です。

十字軍はコンスタンティノープルを通ってアナトリアの端から端まで進むため、皇帝は十字軍隊長たちに、聖地に向かう途中に通る都市全てをイスラム軍から奪回してビザンツ帝国へ戻す誓いを立てることを条件とさせ、その見返りに皇帝は西側の軍へ案内と軍事支援を提供しました。

それにも拘らず、十字軍隊長の一人ノルマン人君主ターラント公ボエモンは、この第1回十字軍遠征で奪回した重要地アンティオキア(現アンタクヤ)をビザンツ帝国下に置くことを拒否して1098年に独立したアンティオキア公国を建国します。そして、この公国は1268年まで続きました。

ヨハネス2世とマヌエル1世、及び第2回十字軍遠征

皇帝アレクシオス1世の息子ヨハネス2世は、1118年に後継してから1143年まで統治しました。ヨハネス2世は宗教家で決断的な皇帝で、半世紀前にマラズキルトの戦いで帝国が受けた屈辱の復習をすることを腹に決めていました。

しかし、宗教家で知られているヨハネス2世の時代は、目に見えて穏やかで公正であり、当時残酷さが当たり前だった時代に、彼は珍しく倫理的支配者として例を示したのです。

ヨハネス2世は25年間の治世、西側の神聖ローマ帝国と同盟を結び、周辺諸国の脅威を退けました。治世の末期には東方の攻防に力を入れ、トルコ民族に奪われた多くの領地を奪回します。
ヨハネス2世は、キリスト教世界でのリーダーシップを見せる為に十字軍国家と共に十字軍遠征に立ち聖地へ侵攻しますが、一部の十字軍の裏切りにより成功しませんでした。そして、1143年春に滞在先のアンティオキアにて狩りの際の事故で死去してしまいます。

息子のマヌエル1世コムネノスが皇位に就くと積極的に外部隣国へ遠征し、一時アンティオキア公国、キリキア・アルメニア王国、ルーム・セルジューク朝に権力を見せつけることが出来ましたが、1176年のミュリオケファロンの戦い(現コンヤのベイシェヒル湖付近)にてルーム・セルジューク朝に大敗し、これにてビザンツ帝国の国威の凋落を他国に印象付けると共に衰退が決定的となってしまいました。

12世紀ルネサンス

ルネサンス
古典文化がイスラムとビザンツの文化を通してヨーロッパに伝わり大きな影響を与えたのが「12世紀ルネサンス」です。

1081~1180年の約一世紀の間、コムネノス王朝軍は帝国の安全を確保していたため、ビザンチン帝国は豊かに発展することが出来ました。帝国の西部の州で経済復興がなされるなど、一部の学者によると、コムネノス時代は、7世紀のペルシャの襲撃以来最も豊かな時代であったと言います。12世紀を通して人口が増加し、広大な土地が耕作の為に開拓されました。

ヨーロッパとアナトリアは共に新しい入植者が急速に増加し、また商業活動に於いても大きな進歩が見られた時代でした。ヴェネチィア人やジェノバ人等がエーゲ海沿岸の港を開港して貿易を行ったことで、第1回十字軍後に東地中海沿岸に出来た十字軍国家群ウトラメールやエジプトのファーティマ朝からコンスタンティノープルへ品物の流入がありました。

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美術においてはモザイク画が再復活し、地元の建築学校では様々な文化的情報源にインスピレーションされて独特のスタイルを発展させました。西部でゴシック建築が花開いたのもこの時代です。
また、12世紀を通してビザンツ帝国の人達は、初期のヒューマニズムのモデルを発展させ、古典作家への関心が復活しました。哲学においては、7世紀以降見受けられなかった古典学習が復活し、古典作品の評価本や訳書が多く出版されるようになりました。

帝国の衰退と崩壊

皇帝マヌエル1世が1180年に死去した後、アンドロニコス1世が強行政治で帝国統治を行いますが、貴族たちの反対に遭い失敗します。

その後にイサキオス2世が即位してアンゲロス朝が始まりますが、ヴラフ人やブルガリア人の反乱に遭ったり財政管理が弱かったため帝国の権威は落ち、権力は崩壊の危機にまで暴落しました。

第4回十字軍遠征

1198年に教皇インノケンティウス3世は、アイユーブ朝支配のエジプトと力の中心地となっていた東地中海沿岸地域ラバントを占領する目的で新しい十字軍遠征を行なうことを、大使と告知書によって広めました。
フランスとヴェネツィアが十字軍に参加することになりましたが、資金不足の為に予定を変更し、資金補填を目的にハンガリー保護下のザラ市(現クロアチアのサダル)を攻略します。
そこに東ローマ帝国皇帝イサキオス2世の息子で廃位されて逃亡していたアレクシオス4世が、再度皇位に就くために十字軍に援助を請い、見返りとしてビザンツ帝国の教会をローマ教会への統合、ビザンツ帝国の十字軍への参加、20万銀マルクの支払い、エジプトへの進軍の際の様々な援助を約束して合意しました。

1203年、第4回十字軍がコンスタンティノープルを包囲し攻略します。そして、アレクシオス4世は父イサキオス2世と共に共同皇位に就きますが、十字軍への約束を果たせなかった為に仲が険悪となり、その上1204年2月に先帝の甥アレクシオス5世が、アレクシオス4世とイサキオス2世を殺して帝位に就くと、十字軍との決別は決定的になりました。

滅亡へ

十字軍
1204年4月13日、第4回十字軍の侵略に遭い、コンスタンティノープルは陥落されてビザンツ帝国は一時滅亡してしまいます。そして、十字軍はローマ教皇の制御から離れて聖地奪回の目的を無視し、コンスタンティノープルに「ラテン帝国」を建国しました。

ビザンツ帝国皇族たちが建てた亡命政権

コンスタンティノープル陥落の際に命からがら各地に逃れた皇族たちは、亡命政権であるニカエア帝国、トレビゾン帝国、エピロス専制公国を建てます。そして、ラテン帝国に抵抗しながら奪回の危機をうかがっていました。

コンスタンティノープルの奪回と帝国の復活

亡命政権の中で最も国力をつけていたラスカリス朝ニカエア帝国は、1261年にコンスタンティノープルをラテン帝国から奪回し、ビザンツ帝国を復活させました。そして、ミカエル8世パレオロゴスが皇帝に即位し、ビザンツ帝国最後で最長のパレオロゴス王朝を創設します。

帝国は復活しましたが、13世紀に強大化したモンゴル勢力が西方進行して黒海北岸に建国したプチャク・ハン国に苦戦を強いられ、それでも同盟を結んで世紀末まで踏ん張りますが、14世紀初めから帝位争いなど、数年にも及ぶ内戦で国政・国力は大きな打撃を受け、帝は壊滅的に貧弱していきました。

その機会を見てセルビア人達は、帝国の広範囲に侵入し、1346年セルビア帝国を建国します。

オスマン帝国の台頭とコンスタンティノープル陥落

コンスタンティノープル陥落
アナトリアのセルジューク朝は、モンゴル人の襲撃により権力を失い、幾度も続く戦争の結果、幾つかの侯国に分割されました。これらの分離された侯国のうちの一つが、オスマン・ガーズィによって設立され後に1299年にオスマン帝国となるオスマン侯国でした。

力をつけたオスマン帝国が領土を広げてくると、ビザンツ帝国の領土は1352年にはコンスタンティノープル近郊とギリシャの一部のみにまで縮小されてしまいました。
1354年のガリポリでの地震により砦が破壊され、オスマン帝国がヨーロッパでの最初の土地を得ることに成功すると、ビザンツ帝国はオスマン帝国の属国となりました。ビザンツ帝国は西方へ援軍要請をしますが失敗に終わり、コンスタンティノープルはこの頃ほぼもぬけの殻状態に人口が急減していました。

1453年4月2日、メフメト2世率いる8万人のオスマン帝国軍がコンスタンティノープルを包囲し、これに対してビザンツ帝国軍は7千程の僅かな兵で最後の運をかけて約2か月間必死に攻防するも、1453年5月29日コンスタンティノープルは陥落されてしまいます。ビザンツ帝国最後の皇帝コンスタンティノス6世は、最後までオスマン軍と戦いながら命を落とし、ここで1000年以上続いたビザンツ帝国は遂に滅亡しました。

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メフメト2世

絶えなかった皇帝継承争い

ビザンツ帝国の皇位継承争いは、帝国の歴史を通して常に行われてきて、時には帝国弱体化の原因にもなってきました。皇位に就く為、また皇位を守る為に強硬手段が行われてきたのです。

失脚し目をえぐられた皇帝たち

ビザンツ帝国では皇帝の条件として五体満足でなければならないという決まりがありました。その為、失脚して皇位から引きずり降ろされた皇帝たちは、復位出来ない様に目を潰されるか、または鼻や耳がそがれるなど、残酷な運命が待っていました。

皇帝になれなかった皇族たちの流刑地 プリンスィズ諸島

皇帝は父から息子への世襲制が一般的でありましたが、皇帝は地位を確実にするため、地位を脅かす可能性のある兄弟とその家族をコンスタンティノープルの南東約20㎞のマルマラ海に浮かぶ島々「プリンスィズ諸島」に追放していました。
島々の中でも本島に近いクナル島が亡命者から特に人気があったそうです。

特に8世紀以降、支持を失った聖職者、政治的ライバルと見られた廷臣や皇子達や摂政、さらに皇帝や皇后の殆どが厳しい拷問を受けた後に目をくり抜かれて島々に追放され、そこで一生苦しむか死ぬことを余儀なくされていました。

因みに、現在このプリンスィズ諸島は、イスタンブール市内から気軽に行けるリゾート地として大変人気です。

ビザンツ帝国が現在に残した遺産

1000年以上の歴史を誇ったビザンツ帝国は1453年に終焉しましたが、現在でも大帝国が残した偉大な遺産を見ることができます。沢山残っている遺跡の中でも代表的な物をいくつかここでご紹介致します。

アヤソフィア(ハギア・ソフィア)

アヤソフィア
コンスタンティウス2世が360年に完成させた木造の聖堂から始まり、2度の消失の後537年に皇帝ユスティニアヌスの命により再建された3番目の建物が現在のアヤソフィアです。
キリスト教正教会として建設され、後に正教会の首位であるコンスタンティノープル総主教座が置かれていた由緒正しく格式高い大聖堂であるアヤソフィアは、長年コンスタンティノープル総主教座が置かれた後、オスマン帝国時代には君主が毎週金曜礼拝に訪れた最も格式の高いモスクの一つとして利用されるなど、現在まで支配した主権国家により変容し歴史に翻弄されてきました。世界でも無二の壮大な大聖堂で、ビザンティン建築の最高傑作とも言われる素晴らしい遺構です。
  • 537~1054年 大聖堂
  • 1054~1204年 ギリシャ正教大聖堂(総主教座)
  • 1204~1261年 ローマ・カトリック大聖堂
  • 1261~1453年 ギリシャ正教大聖堂(総主教座)
  • 1453~1934年 イスラム教モスク
  • 1934~2020年 博物館(無宗教の文化財として公開)
  • 2020年~ イスラム教モスク

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アヤソフィア・モスク 観光基本情報

アヤソフィア
住所 Sultan Ahmet, Ayasofya Meydanı No:1, 34122 Fatih/İstanbul, トルコ
入場料金 無料
服装 宗教施設の為、膝上スカート・ショートパンツ・ノースリーブ等の露出の多い服装での入場は不可です。男性もタンクトップにショートパンツ等露出の多い服装はお控え下さい。
女性はスカーフを被らなければなりません。ショールは事前にご自身にてご準備下さい。無い場合、アヤソフィア入口左手の売店にて使い捨てのスカーフが5TL、全身マントが20TLにて販売されています。モスク内は土足禁止ですので、入場の際に入口にて靴を脱ぎます。
脱いだ靴はモスク入口にある下駄箱に入れるか、ご自身でご用意された袋に入れてモスク内に入ります。
写真撮影 モスク内での写真撮影は可能ですが、フラッシュは禁止されております。
また、宗教施設ですのでお祈りをしている人やムスリム女性を被写体にすることは原則として避けて下さい。
ウェブサイ https://ayasofyacamii.gov.tr/en

ヒッポドローム(コンスタンティノープル競馬場)

ヒポドローム
コンスタンティノープルがまだビザンティオンと呼ばれた頃から存在していた古代競馬場は、ローマ帝国そしてビザンツ帝国の時代には競馬だけでなく市民生活の大切な中心地となっていました。

皇帝の即位式、公開処刑、凱旋式、政治的会議など多目的に使われ、ニカの乱など反乱軍の中心地ともなった場所です。

当時10万人収容可能な観客席が存在し、東側に設置されていた皇帝専用席には隣接していた大宮殿と専用通路で直接つながっており、皇帝と一族はその専用通路を使って直接ヒッポドロームの皇帝専用席に行ける造りとなっていました。現在、ヒッポドローム跡には3つの柱のモニュメントが立っています。

  • 北の柱:テオドシウス1世のオベリスク
    390年にテオドシウス1世が、戦勝祈念としてエジプトのカルナック神殿からコンスタンティノープル競馬場へ3つに分割させて運ばせたオベリスクです。
    このオベリスクの白い大理石の台座はテオドシウス1世が作らせており、テオドシウス1世皇帝一家の浅彫りが刻まれています。

    因みにこのオベリスク、元々は紀元前1940年頃エジプトで作られたとされるトトメス3世時代のもので、コンスタンティウス2世が357年に在位20年を記念してカルナック神殿からナイル川を使ってアレクサンドリアまで運ばせたものでした。

  • 中の柱:蛇の柱
    324年にコンスタンティヌス1世が、ギリシャのデルフォイのアポロン神殿から新首都であるコンスタンティノープルへ持ってこさせた柱です。元々は、紀元前479年プラテイアの戦いでペルシャを負かしたギリシャの31都市連合軍が、勝利の記念に戦いで手に入れた青銅を溶かして3匹の蛇が交わる形で作り、デルフォイのアポロン神殿の前に建てたのがこの柱です。
    首都設立当時、コンスタンティノ―プルでは蛇や虫が蔓延していたため、コンスタンティヌス1世はそれらから町を救う魔力があると信じられていたこの柱を持ってこさせたそうです。

    柱の頭についていた3匹の蛇の頭の内、発見された一つは現在イスタンブール考古学博物館に所蔵されています。

  • 南の柱:コンスタンティノス7世のオベリスク
    切石で造られた高さ32mのモニュメントで、10世紀にコンスタンティノス7世の命にて作られました。
    当時は、コンスタンティノス7世の祖父バシレイオス1世の勝利が描かれた金箔加工された青銅プレートで覆われ、上には地球儀が乗っていたといいますが、第4回十字軍により盗まれて溶かされてしまったそうです。

ヒッポドローム 観光基本情報

トルコ語名称 At meydani
住所 Binbirdirek, Sultan Ahmet Parkı No:2, 34122 Fatih/İstanbul
※トラム「スルタンアフメット駅」から降りて直ぐ目の前の広場。
入場料金 無料

テオドシウスの城壁

テオドシウスの城壁
コンスタンティノープルを難攻不落の都市となし得ていた街の西側に聳える大城壁です。ビザンティオンであった時代にも狭い範囲で城壁は在りましたが、ローマ皇帝セウェルスが196年にこの地を侵略しその城壁を崩壊しまい、その後に町を再建する際、現在のガラタ橋の辺からヒッポドロームの南に繋がるより広範囲の城壁を造りました。

その後、首都となったコンスタンティノープルは、コンスタンティヌス1世によってより西側に城壁が再建されますが、5世紀初頭にテオドシウス帝がそれよりもより西に造ったのが現在でも保存状態が良く残っているテオドシウスの城壁です。

ビザンツ帝国の巨大化により、城壁内だけでは人口を抱えきれなくなりコンスタンティヌスの城壁の外まで溢れていた状態のところを、皇帝テオドシウス2世がコンスタンティヌスの城壁よりも約2㎞西に町を拡大し、外壁、内壁、彫からなる三段構造の強固な城壁を造りました。

南はマルマラ海沿岸の現イェディクレにある「大理石の塔」から北東の「ポルフュロゲネトス宮殿」まで全長5,632m、その上には守備塔が96棟ある壮大な城壁で、1000年以上コンスタンティノープルを守り続けて来ました。
しかし、1453年5月29日に皇帝メフメト2世率いるオスマン帝国軍の侵入を防げず、この都市は侵略されてしまいましたが、城壁が崩壊された為ではなく、実際はビザンツ側の傭兵隊長の負傷による混乱と、西側の城壁の門の一つケルコポルタ門の通用口は施錠されていなかったため、ここからオスマン軍が城内に侵入し、陥落されたと言われています。

オスマン帝国が征服した後も、修復されながら19世紀頃まで維持管理されてきました。
このテオドシウスの城壁は現在でも当時の状況を伝える様にイスタンブール旧市街を取り囲み続けています。

テオドシウスの城壁 観光基本情報

トルコ語名称 Theodosius Surları
住所 ※トラムT1線「パザルテッケ駅」から徒歩5分。
※トラムT5線「アイヴァンサライ駅」から徒歩約15分。
入場料金 無料

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