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トルコ基本観光情報

アナトリアとは?文明の発祥地である小アジアの歴史や遺跡


トルコ旅行を検討しているのなら、アナトリアについて知っておくのもいいかもしれません。トルコという国自体は知っていても、どのような歴史があるのか知っている人は多くありません。そこで、ここではアナトリアの歴史について詳しく解説していきます。アナトリアの歴史について知っておくことで、歴史に触れることのできる観光スポットなども分かるようになりさらに旅が面白くなること間違いなしです。

アナトリアの概要・歴史

チャタルホユック

アナトリア・小アジアの起源

アナトリアとは、トルコ共和国のアジア部分にある半島のことを指しています。
実は、アジアの起源はアナトリアの起源にも関係しているんです。
アジアの起源を辿ると、紀元前18世紀ごろに勃興(ぼっこう)した「アッシリア」が登場します。
アッシリアは古代オリエント世界最初の帝国とされています。後の紀元前612年に滅びてしまうのですが、その1000年以上も前から、アッシリア語ではエーゲ海の東側を【アス(asu)】(=「東」や「日の出」の意味)、西側を【エレブ(ereb)】(=「西」や「日没」の意味)と呼称していて、いつしかエーゲ海の東部地域を、転じて【アッスーワ(ASSUWA)=太陽が生まれる国】と呼ぶようになりました。

この「アッスーワ」はアジアの起源でもあり、先程の「アス(asu)」にラテン語の接尾辞「イア(ia)」 が付いて、「アジア(Asia)」と呼ばれるようになったとも言われています。
地図を見ると分かりますが、アッスーワ=エーゲ海の東側は、現在のトルコを中心とした地域を指しています。すなわち、古代世界でアジアは“トルコ”のことだったのです。

では、これにアナトリアがどう関係してくるのか?

初めはアジアを指す地域はアナトリア半島のみであり、それより東側の地域はその時に力を持っていた勢力や地域に基づいて様々な呼ばれ方をしていました。
ところが、ヘレニズム時代に入ると、アレクサンドロス大王を皮切りに、ギリシア人が東側の地域に進出して領土を広げていくようになります。そうした中で「アジア」と呼ばれる地名の指す地域も拡大し、もともとのアジアを指していた場所(アナトリア)を区別する必要が生じます。そこで、本来のアジア(アナトリア)を「小アジア」と言って区別するようになります。
そして、この小アジアに「アナトリア(Anatolia)」という地名が名付けられました。

「アナトリア」とは、東ローマ皇帝コンスタンティノス7世の時代、エーゲ海に面した西岸地方に軍管区を置き、「アナトリコン(Anatolikon)」=(ギリシア語で日の出の意味)と名付けたことに由来したとも言われています。
アッシリア語のアッスーワと似た意味を持つアナトリアは、トルコ=アジアだったことをここでも窺い知ることが出来ます。

アナトリアは小アジアも指す古代地方名であり、現在もトルコのアジア側を指しています。
因みに、トルコ語では「アナドル(Anadolu)」と呼ばれています。

ヒッタイト
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アナトリアの歴史

トルコの中核地帯に位置しているアナトリア中部は、高地にあります。そのため、小麦畑やポプラ並木、起伏の激しい大草原が特徴です。アナトリアは、人類の文明の発祥地だとされています。アナトリア地方南部にあるチャタルホユックでは、紀元前8000年の集落跡が発見されるなど、古い歴史のある土地なのです。

また、アナトリアは多くの文明の故郷でもあります。アナトリア中部は、東西の文明がぶつかり合う戦場にもなっているのです。ビザンチン帝国、セルジュク王朝、オスマン帝国も、この地での主導権を握るために激しい戦いを繰り広げ、アナトリア中部を統治しました。非常に知名度が高く偉大な征服者、アレキサンダー大王やティムールなどによって、侵略が繰り返されてきた土地がアナトリアです。

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アナトリアに存在した文明は、数多くあります。世界で初めて鉄器を使用したヒッタイト、ヒッタイト滅亡後に栄えたフリギア、古代ギリシア、ローマ帝国、オスマン帝国など、実に18もの文明が存在しており、非常に歴史深い地域なのです。

アナトリア半島の文明について

人類がアナトリア半島の大地に最初の足跡を刻んだのは紀元前10万年、石器時代に遡ります(カライン洞窟)。
紀元前8000年頃になると集落が形成されるようになり、チャイオヌ(紀元前7250~6750年)、ハジラール(紀元前7000年)、そして先史時代の証人チャタルホユックともなると紀元前6500~5650年の間に12の集落が作られ、人口5,000から10,000人を抱える人類史上初めての組織立った町にまで成長しました。

以降、ジャン・ハサン(紀元前5500年以降)からトロイの最初の集落(紀元前3500年)まで、原始的な農耕社会の文化(アリシャー)と共に穏やかに過ぎたアナトリアの日々は青銅器時代の幕開けと共に目眩く文化の高揚に舞台を提供することになります。
トロイ周辺が青銅器時代を迎える頃、東部は(ベイジェ・スルタン)後期鉄器時代の真っ只中にありました。

紀元前3,000年の半ばからアナトリアの各地ではハッティと共に青銅器文化が頂点に達しましたが、彼等はメソポタミア以外で一つの民族としての特徴を提示した唯一の民と言えます。アッカド(紀元前2350年)からアッシリア王国時代(紀元前8世紀)まで継続されたアナトリア~メソポタミア商業・文化交流の始まりもこの頃で、特に西のトロイ第二市と中部アナトリアが、互いの文化にかなりの影響を受け合った様子は顕著に表れています。

トロイの木馬
トロイでは市が層を重ね(第三~第五市:紀元前2200~1800年)、一方のハッティは歴史の舞台から姿を消し、かわりにヒッタイトが台頭してきました。この過渡期において、特にカニシ(キュルテペ)やその他の集落で組織されたアッシリア交易植民市は、歴史時代の始まりとしたメソポタミア文明の北部への浸透を示すものと言えます。

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ヒッタイト

初期における中央集権の脆弱な旧帝国期を経たヒッタイトは、その後、完全な中央集権を組織した新帝国に包括され、ハットウシャシュ(現ボアズキョイ)に都を制定しました。

紀元前15世紀、14世紀に、上ユーフラテス地方の民族やミタンニ王国、ポントス地方のケスカと呼ばれる未開人と戦い、マルマラからユーフラテス一帯までに領土を拡大した他、シリア分配の件に関してラムセス二世率いるエジプトと衝突し、この結果として史上初の平和条約を締結しています。(カデシュ 紀元前1285年)

やがて中央集権態勢が崩れると同時に地方国家が台頭し、こうして末期を迎えたヒッタイトは紀元前7世紀頃には完全に消滅する結果となってしまいました。

有史以来、アナトリア、あるいは世界で最も重要なこの民族に属する多くの都市国家(ハットゥシャシュ、ヤズルカヤ、アラジャホユック、カラテペ他)から発見された出土品は、その文化がいかに高度なものであったのかを、時を経て如実に物語っています。

イメージ

ウラルト、フリギア

紀元前1190年頃、ヒッタイトの勢力が徐々に衰退するのと時を同じくして、東アナトリアはヴァン湖一帯に非常に興味深い民族が台頭してきました。それが、ウラルト人です。
彼等がフルリ人の後継者であることを裏付ける品々が発掘され、特に青銅についての深い知識と技術を駆使して、紀元前6世紀までこの広大な大地を舞台に、集落を構えた各地に成熟した文化を実らせていきました。

アルトゥンテペ、チャヴシテペ等、東アナトリア一帯には彼らの重要な足跡をうかがうことができます。紀元前13世紀以降、未だにルーツが不明な西からのフリギアの民はダーダネルスとボスフォラス海峡を渡り、中央、北部アナトリアに大きな文明を開花させました。トロイ戦争ではアナトリア人(トロイ人)と同盟国の関係にあったとされています。

ゴルディオン、アスランカヤ、アリシャー、アラジャ等の各地に居を構えて互いに甲乙付け難い作品を残した彼等も、ペルシアの襲撃(紀元前6世紀)を境に衰退していきました。

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リディア、リキア、カリア

同時期、中央、西アナトリアではリディア、リキア、カリア民族が高度な文化を築いていました。既にミノス文明の頃にアナトリアに渡って来たレレグ人を祖とするカリア人は別として、リディア、リキア人はアナトリアの土着民と思われます。

リキアの都ザントスは、彼等の(紀元前600~200年)残した最も美しい作品です。アナトリアに見られる古代ギリシア芸術の源を形成していたサルデスはリディアの首都でした。初めて硬貨を鋳造したのが彼等であったか否かは未だ明確にはなっていませんが、この文化が花開いた「金の川、パクトロス(ゲディス川)」によって潅漑された平野は、伝説の王クロイソスの都として名を馳せました。

世界七不思議の一つ、ペルシア総督マウソロスの廟があるハリカルナソス(ボドルム)、古代において最も華やかで裕福な都市とされるアフロディシアス、アナトリアの沿岸でレレグ族が建国した初めての都市ミレトスとスミルナ(イズミル)等はカリア文明を代表する都と言えます。

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リディア

海の民の到来

古代エジプトの言葉で「海の民」とされる民族が紀元前12世紀に仕掛けた攻撃は、単にアナトリアのみならず近東諸国を混沌の暗闇に引きずり込みました。

アカイヤ、レレグ、イオニア、アイオリス、古代ギリシア、クレタ島のミノス、ミケーネ人等が不毛の岩地を後にしてギリシアやエーゲの島々から肥沃なアナトリアの大地に新天地を求めて次々にやって来ます。まず、黒海沿岸に定住するにはダーダネルス海峡を渡る必要があります。

その為にはトロイ人に通過料を支払う義務が課せられており、これを払うまいと戦いを挑み、勝利をおさめ、終には海峡を越えました。ホメロスは麗美な文章で神々や女神を、パリスや、あのヘレンを語りますが、トロイ戦争の本来の目的が「金」であったことは明白です。
海の民はアナトリアの民族と共生しながら、互いの文化を織り成して、更に魅力的なものに高めていきました。

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何千年もの間アナトリアに根を下ろしていた女神信仰(キベレ、クババ、エオ)は、海の民にも影響を与え、次第にゼウスの影は薄くなり、代わりにイオニア人はアルテミスを、カリア人はアフロディーテを信奉し始めました。アナトリアの大地はここへやって来る新しい民族を迎え入れ、自らの文化と混同させ、より高い城にまで引き上げます。ターレス、ストラボン…
哲学、数学、地理学、天文学、絵画、彫刻、モザイク、窯業… すなわち、科学と芸術の全ての分野で最も高い域に到達したアナトリア文明は、海の民と土着民族の文化の混在の賜物と言えます。

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ペルシアの侵入

紀元前7世紀後半、アッシリアを倒しメソポタミアを征服したメディアは、間もなくアケメネス系のペルシア民族にその座を譲り、舞台を降りることとなる。

紀元前5世紀の初期からアナトリア高原ヘの侵入を開始したペルシアは、皇帝クセルクセスの時代にはギリシアにまで進攻し、マラトン、サラミス、プラタイアの戦いを仕掛け、結局は撤退を余儀なくされますが、しかし、紀元前4世紀後半までアナトリアの大地の支配者であり続けました。

トロイ遺跡

ヘレニズム時代と以降

紀元前334年、ダーダネルス海峡を通過して来たアレキサンダー大王の来訪と共に、アナトリアは活気づきます。ダリウスを何度も破りペルシア帝国を歴史の舞台から引きずり降ろし、インドまで領土を拡大した大王は、東国の文化を西に伝導すると共に、自らの前にペルシア諸国を平服させました。

アイオリス、イオニアに勢力を張ったベルガマ王国(紀元前283~133年)は古代ギリシアの影響を強く受けながら比類無き文化を育て、今日アナトリアで最も注目される古代都市ヒエラポリスやアッタレイアを建設しました。

ミトリダテスのポントス王国とビティニアは東国の影響を受け、非常に重要な数多くの作品を生み出しました。ヘレニズム時代は科学と芸術がその極みに達した時代でもあります。古代の最も有名な建築家や都市計画者を引き継ぎ、彼等の築いた基礎を高める為、イオニアの建築学校が開校され、アルテミス、ディディマ、ユーロモス等に美しい神殿が建築されました。綿密な計画に基づいてプリエネ、ミレトス、テオス、マグネシア等が建設され、エフェスとベルガマでは文化が頂点を極めていきました。

羊皮紙の発明によって20万冊の蔵書を有したベルガマ図書館は、当時の学問の中心だったと言っても過言ではありません。

エフェソス

ローマ時代

紀元前133年にこの世を去った最後のベルガマ王アッタロス三世は、その死の際で自国をローマに寄贈しました。ローマ人はアナトリア侵攻を執拗に試みるポントス王ミトリダテスを破り、この大地を征服します。エフェス、ミレトスをはじめ、フォチャ、タルスス、フィラデルフィア、アッソス等の都市を美しい建築物で飾り立てる一方、イコニウム(コンヤ)やカイセリ、セバステイア等の町造りにも励みました。パンフィリア地方にもペルゲ、シデ、アスペンドス、テルメッソスと美しい都市が建設されました。

ローマ時代にアナトリア東部を短期間にわたって支配したコンマゲネ王国では、紀元前69~34年に王座にあったアンティオコス二世がネムルート山頂に壮大で雄美な記念古墳を建設しています。

キリスト教とビザンチン時代

元々アナトリアは聖なる大地として崇められていました。ノアの方舟が漂着したアララット山、預言者アブラハムゆかりのウルファとハラン。キリスト教の流布と共にアナトリアには新しい風が吹き始めました。

タルススに生を受けた聖パウロはアナトリアを津々浦々渡り歩いて布教に励んでいました。キリストの門弟は初めてアンティオキアの聖ペテロの洞窟で、この教えを《キリスト教》と呼び、エフェスでは福音書が著されると共に、聖母もこの地で晩年を過ごし、ここで生涯を閉じたと信じられています。

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ヨハネ黙示録の七つの教会もアナトリアにおかれ、初回のキリスト教公会議もイズニク(ニケーア)、エフェス、カルケドンヤで開催されています。

330年、コンスタンチヌス帝は帝国の都を東に移し“コンスタンチヌスの都”を意味する「コンスタンチノープル」と命名しました。それが今のイスタンブールです。キリスト教が国教に制定されると共に大帝国の中心として文化の高揚を見せた都は、支配下の全土を美しい建造物で彩りました。7世紀以降アラブの、11世紀からはペチェネグなど他民族の襲撃の的となったにも拘わらず、13世紀のラテン人に屈したことを除いては敵を組み伏せてきた帝国は、計11回の十字軍の遠征の舞台となりました。

皇帝ロマノス・ディオゲネスが1071年、セルジューク系トルコ人を相手にしたマンズィケルトの戦いを落としたたことをきっかけに、急速に勢力を失い、1453年、オスマン民族のコンスタンチノープル征服によって、稀に見る美しくて豊かな多くの作品を遺してコンスタンチノープルは史上から消え去りました。

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セルジューク、オスマン帝国とトルコ共和国

千年もの間続く干ばつのせいで、祖国の中央アジアを後にした一族は、居住の地を求める遊牧の民となり、肥沃なアナトリア高原の各地に無人の土地を見つけては住まいとしました。後に史上に名を残す大帝国となるトルコ系の民族や氏族です。11世紀の後半、モンゴルがアナトリアに襲撃をかけて以降、13世紀の後半にはセルジューク民族が、15~18世紀には世界最大の帝国を建国・支配したオスマン帝国が、ここを美しく高度な芸術で飾り上げていきました。

この地の支配者として初のトルコ系民族であるセルジュークは、原住民や前時代にキリスト教を選択した他民族に対して、宗教上、生活様式上、何ら圧力を加えなかったのみならず、強制的な抑圧から彼等を解放する等、開放的な政策で平和な世の中をつくることに尽力しました。オスマン帝国も同様に平和と人間愛を重視し、支配下にあった民族の自由を認めた為、アナトリアは千年近く、多くの民族が一つの傘下で生活を共にし、結果、モザイクの様な独特の文化が育ったのです。

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コンヤ
シルクロード、香辛料の道、マルコポーロの道… ビザンチン帝国の弱体化に伴う無政府状態を利用した山賊の暴挙で停滞していた欧州~極東交易を活性化する為、セルジュークはこの路上に何百もの隊商宿を設置しました。

オスマン帝国は遊牧から定住へと、その生活様式の変化に伴って独自の建築様式を編み出しました。そしてイスタンブールを要に、各地に美しいモスク、浴場、神学校を設け、科学、芸術、民族学の中心として名を馳せたのです。

第一次世界大戦の末に息絶えた老いた帝国の後、激烈な救国戦争を経て1923年、若きトルコ共和国が誕生しました。イスラム諸国で唯一、政教分離と民主主義を掲げるトルコは、西側諸国のなくてはならない一員であり続け、ヨーロッパ関税同盟に加盟した事は、これを証明する良い一例でもあります。

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中央アナトリア地方を知るのに最適な地|アンカラ/Ankara

中央アナトリア地方を詳しく知るためには、アンカラの地を訪れるのが最適です。アンカラは近代都市でみどころも数多くあります。
そんなアンカラへはどうやって行くのか?どんなところなのか?
詳しく説明していきます!

トルコの首都・アンカラの概要

アンカラはトルコ共和国の首都で、アナトリアの中央部に位置しています。この地域には、非常に豊かな小麦畑があって、北東には森が広がっている自然豊かな土地です。アンカラは大陸性気候の地域であるため、夏季と冬季の温度差が激しいことが大きな特徴です。特に、冬季は気温が非常に低くなるので、しっかりと防寒対策をしていくことをお勧めします。

日本からアンカラまでは、直行便がありません。そのため、羽田国際空港、成田国際空港や関西国際空港からイスタンブールを経由してアンカラまで向かう方法が一般的です。日本からアンカラまでは、約15時間で行くことができます。

アンカラ

アンカラの歴史

アンカラはローマ時代には、文化や交易、芸術の重要な中心地となり、オスマン帝国時代にはシルクロードを介する交易地として栄えました。しかし、19世紀以降にはその繁栄は陰りを見せ、重要性が失われていったのです。その後、ムスタファ・ケマル・アタテュルクが指揮する独立戦争をきっかけにして、アンカラは再び世界的に重要な地となりました。トルコ共和国が樹立した1923年10月13日に、トルコの首都に制定されたという歴史があります。

このように、歴史的に重要な地であるアンカラの歴史は、青銅器時代のハッティ文明から始まっています。ハッティ文明から、紀元前2000年のヒッタイトからフリギア、リディア、ペルシアと脈々と受け継がれていくのです。その後、ケルト人がアンカラに最初の首都を作り上げたといわれています。これが、紀元前3世紀のことで、その頃から、「錨(いかり)」を意味するアンキュラと呼ばれていたようです。

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アナトリアの歴史にふれるアンカラの名所

アナトリアの歴史に触れることのできる、アンカラの名所をいくつか紹介します。

アナトリア文明博物館

アナトリア文明博物館
アナトリア文明博物館は、アナトリア文明とヒッタイトについて学ぶことのできる施設で、「ヒッタイト博物館」とも呼ばれています。アナトリア高原には数多くの遺跡が残っているのですが、そこから出土した貴重なコレクションが並ぶ博物館なので、非常に見ごたえがあるでしょう。各遺跡から集められたレリーフや鉄器はアナトリア文明博物館の見どころの一つです。ヒッタイトは、「鉄を生み出した王国」とも呼ばれているので、特に鉄器は注目したいポイントです。展示されている鉄器は、どれも芸術性が高く、紀元前1700年のものとは思えない美しさを持っています。

また、アナトリア文明博物館の中でじっくりと見ていきたいのが、ヒッタイト陳列室です。ヒッタイト陳列室には、古代オリエント時代のヒッタイトの高度な文明がうかがえる名品が展示されています。高い技術によって作られた名品に驚くことでしょう。



名称 アナトリア文明博物館(Anadolu Medeniyetleri Müzesi)
住所 Kale, Gözcü Sk. No:2, 06240 Ulus/Altındağ/Ankara, Turkey
住営業時間所 8:30~19:00(冬季は18:00まで)
入場料金 45TL(約810円)
ウェブサイト https://sanalmuze.gov.tr/anadolu-medeniyetleri-muzesi

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ヒッタイト帝国の首都「ハットゥシャ遺跡」

ハットゥシャ
トルコの首都アンカラより東に145kmにあるボアズカレ村の近郊にあるのが「ハットゥシャ遺跡」です。アナトリア高原に残るこのハットゥシャ遺跡も、アンカラに行ったら押さえておきたい観光スポットです。

かつて王国として栄えたハットゥシャの遺跡は、ヒッタイトの遺跡を代表するものとしても有名です。また、この周辺には、ヤズルカヤ、アラジャホユックといった貴重な遺跡も残っているので、併せて訪問しておきたいスポットでしょう。

この遺跡は、3000年以上前のものなので、建物などは残っていません。しかし、レリーフなどは一見の価値があります。当時のヒッタイト帝国の様子がわかるレリーフのギャラリーは、アンカラに行ったらぜひ見ておきたいものです。中でも、ヤズルカヤ遺跡のレリーフ群である「大ギャラリー」「小ギャラリー」は必見です。アナトリア文明博物館にもレリーフは多く展示されています。しかし、大きな岩などに彫られたものは遺跡に残されているので、ヒッタイトの歴史を知るためには訪れておきたい場所となっています。

また、ハットゥシャの遺跡は、ユネスコの世界遺産にも登録されており、現在でもライオン門、スフィンクス門が残っています。そのため、当時の姿を思い起こさせる観光スポットとして、人気も高くなっています。



名称 ハットゥシャ遺跡(Hattuşa Örenyeri)
住所 Hisar, 19310 Boğazkale/Çorum, Turkey
入場料金 12TL(約220円) ヤズルカヤ遺跡含む
ウェブサイト https://sanalmuze.gov.tr/muzeler/CORUM_HATTUSA_ORENYERI/

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古代北メソポタミアの地|東・南東アナトリア地方

東・南東アナトリア地方は、壮大な史跡が示すように古代メソポタミア・古代オリエントが色濃く残った大変豊かな歴史と文化遺産に恵まれた地方です。その歴史は新石器時代の紀元前10,000年以上にもさかのぼります。

この土地は古代の北メソポタミア地方にあたります。皆様ご存じのあの有名なユーフラテス(フラット)川とティグリス(ディジュレ)川に挟まれたこの土地には、紀元前10,000年以上前から人が住み文明が築かれてきました。紀元前2000~1500年にフルリ人、紀元前1200年頃にはヒッタイト人がこの地を支配し、いくつもの民族や帝国の興亡が繰り返し起こってきた歴史的にとても重要な土地です。

モザイク
ユダヤ教・キリスト教・イスラム教の三大世界宗教、所謂“敬典の民”が父祖とする最初の預言者アブラハム(イブラヒム)が住んでいました。ある説によれば、アブラハムはカルデアのウル(現在のシャンル・ウルファと言われていますが諸説あります)で生まれ、その後、町を離れて南へ下り、ハランへ移住したと言われています。ハランはメソポタミアの重要な歴史・文化の中心地の一つで、数々の遺跡の中には、最大かつ最古のスケールを誇るイスラム大学の遺跡も見ることができます。18世紀の大邸宅、キュチュク・ハジュ・ムスタファ・ハジュキャーミルオール・コナーウは修復工事が完了し、現在はアートギャラリーとして生まれ変わっています。

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南から少し北方向へメソポタミア平原を越えて旅をすると最初に目にとまる絵のように美しい高い山がネムルート山で、標高2,150メートルの頂上に、紀元前1世紀初頭に創建されたコンマゲネ王国の王アンティオコス1世の古墳があり、この周りには墓を守る巨大な神像たちが並んでいます。これらの神像はギリシャとペルシャの文化が複合したもので、なぜか顔部分は胴体部分から離れて足元付近に散在しており、巨大な神像の頭がゴロゴロ転がっている奇妙な光景で知られています。ヘレニズム時代のシリアから離脱したコンマゲネ王国はギリシア神話とペルシアの信仰のふたつの影響を受け、ヘレニズムの折衷様式の特徴をよく残しています。

又、ネムルト山は美しい日の出を見られることでも有名です。観光シーズンは5月~10月の夏季ですが、真夏でも早朝の山頂は長袖でも寒いほど。開山、閉山はその都市の天候によって異なります。

この地方で最も重要な地域として、市街を囲む城壁が中世の軍事建築の代表的な傑作のひとつとなっているディヤルバクル、地方建築の古い街並みで知られるマルディン、後期ヒッタイトの都市遺跡を有する貿易と産業の一大中心地ガズィアンテップがあります。

現在トルコ系、クルド系、アラブ系、アルメニア系と様々な系統のトルコ人が住む、悠久の時を感じさせる素朴で広大でエキゾチックな東アナトリアの魅力、治安や観光ポイントをここで徹底解説致します!!

東・南東アナトリアの基本情報

東・南東アナトリア

場所

トルコの南東・東部。イスタンブールから一番西のマラティア(Malatya)へは約1,140㎞(車で約14時間)、一番南東で遠いイランとイラクとの国境に接しているハッカーリ(Hakkari)へは約1,550㎞(車で約23時間)の距離です。大体各県には空港があり国内線もイスタンブールから一日に1~2便運行しています。長距離バスも各都市に一日1~2本運航していますが、ほぼ一日もしくは丸一日以上かかる場合もありますので、御予定に合った移動手段をお選びください。

気候

内陸性気候に属しているため、夏はとても乾燥し気温が40度を超えることも有ります。冬は零点下になり雪も降り、特に東トルコでは結構な積雪となります。
観光のベストシーズンは冬と真夏を避けた4~6月、10~11月上旬で、夏場に行かれる場合は唇や肌の乾燥保護に保湿クリームをご持参なさることをお勧めいたします。

トルコ旅行のベストシーズンはいつ?季節別の気候の特徴や服装のポイント | トルコ旅行・ツアー・観光なら、安心の『ターキッシュエア&トラベル』におまかせ!

治安

日常生活や観光する分には特に危ないことはありません。但し、イラン・イラク・シリアに接している県もありますので、国境には近づかない様、ご注意下さい。
イスタンブールや西部アナトリアとは違い、外国人も少なく保守的な地域です。外国人は目立ちますので男女ともにあまり露出の多い恰好は控えることをお勧めいたします。

東・南東アナトリア地方で見逃せない都市と観光スポットを紹介!

東・南東・南東アナトリア地方は広大で歴史が深い分、観光箇所も数多くあります。
その中でも見逃せない定番の観光スポットをここでご紹介していきます!

アナトリア南東部最大の都市|ガズィアンテップ/GAZİANTEP

ケバブとピスタチオで有名な南東部最大の都市です。古くはアインタップ(Ayintap)と呼ばれ、交通の要衝として栄えてきました。第一次世界大戦後、この町を占領したフランス軍に対して勇敢に抵抗した住民にカズィ(戦士)の称号が贈られ「ガズィアンテップ」と呼ばれるようになりました。そんなガズィアンテップの街にも押さえたい観光スポットがあります。

ゼウグマ・モザイク博物館 (Zeugma Mozaik Müzesi)

ゼウグマ・モザイク博物館
世界でも有数のモザイクを所有している博物館です。
3ブロックの建物で計25,000㎡の博物館内にローマと東ローマに関する3,000㎡のモザイク、140㎡の壁画、4つのローマの噴水、20の柱、4つの石灰岩の彫像、ブロンズのマルス神の彫像、墓碑、石棺などが展示されています。

アブラハム所縁の地|シャンル・ウルファ/ŞANLI URFA

人口52万人余りの都市で、旧約聖書、敬典の民の預言者アブラハム所縁の地でもあります。
紀元前2000~3000年頃から栄えたこの町は、セレウコス朝のニカトールが命名した「エデッサ(Edessa)」と言う名で歴史上にもたびたび登場します。

街の名前にある「シャンル」は独立戦争の際に勇敢に戦った住民に贈られた称号で、一般的にはこのシャンルを取って「ウルファ」と呼ばれる事が多いです。

そんなウルファにも観光スポットがあり、近郊には世界遺産にも登録された“ギョベクリテペ遺跡”があります。
そして、代表的なトルコ料理のひとつでもある、「チーキョフテ」や「ウルファケバブ」が名物料理もあります。

ギョベクリテぺ遺跡 (Göbeklitepe) *世界遺産*

ギョベクリテペ
近年発見されたトルコでも話題沸騰の古代遺跡です。ウルファ中心地から北東へ約22㎞にあります。
T字の切石柱が計算されたようにサークルを描いて12本建てられていたのが発見されており、この柱に掛かれた巧妙な動物などのモチーフが大変興味深く、住居ではなく信仰の場・宗教施設として使用されていた事が判明しております。メソポタミア文明よりも7000年も古い12,000年前、少なくても11,600年前から始まり~8000年前には放棄された世界最古の遺跡で、トルコ国内は勿論、世界的にも今注目の遺跡です。
尚、ギョベクリテぺ遺跡は、2018年にユネスコ世界文化遺産に登録されました。

ギョベクリテペ遺跡 ・ギョベクリ・テペ(文化遺産:2018年)| トルコ旅行・ツアー・観光なら、安心の『ターキッシュエア&トラベル』におまかせ!

聖なる魚の池 (Balıklı Göl)

魚の池
ウルファと言えばここ、市内中心地にある聖なる魚の池です。預言者アブラハムがニムロド王に処刑され炎に投げ入れた際に、神が炎は水に、薪は魚に変えたと言います。このアブラハムの軌跡が起こったのがこの池とされています。150mx30mの大きさ、深さ3~5mの池に無数の魚が泳いでおりが、この魚は聖なる魚として崇められているため食べられることはありません。魚はコイ科の魚と言われています。
池の周りのい石造りの建物も風情があり、特に夜のライトアップは一際神秘的です。

アブラハム生誕の地 (Hz.İbrahim’in Doğduğu Mağara)

聖なる魚の池のすぐ隣にあるすごく小さな洞窟が、預言者アブラハムの生誕の地とされています。言い伝えによると、当時の支配者であるネムルート(ニムロデ)は夢を見て、朝その夢を占星術師達に話すと占星術師達は、「今年生まれる子供はあなたの治世を終わらせるだろう」と予言しました。ネムルートは直ちに民にその年に生まれたすべての男の子を殺すように命令を下します。宮殿の偶像職人アーザル(テト)の妻は密かにこの洞窟にやってきてここでアブラハムを産みます。その後、アブラハムは7歳になるまでここに住んでいたとされており、この洞窟内にある泉から流れる湧き水は治癒の水として人々に親しまれています。
トルコ人だけでなく、海外からも聖地として訪れる人は後を絶ちません。

とんがり屋根が並ぶ村|ハラン (Harran)

ハラン
ウルファから南へ約43km、車で約40分の所に在るシリア国境に近い小さな村です。
そこはもう別世界。3千年前のメソポタミアの文化を引き継いでいる円錐形の日干し泥煉瓦でできた民家が点在し、古代にタイムスリップしたかの様に感じられます。
ハランは、アブラハム一行が約束の地カナンに行く際に一時住み着いた場所で、アブラハムの父テトはここで亡くなったと言われています。

古代メソポタミア北部に位置し、商業・経済・宗教・政治等当時の中心的都市であり、古代オリエントにおいて戦略的に重要な都市でもありました。シリアのエブラで発見された紀元前2250年頃の楔形文書に“Ha-ra-an(ハラーン)”の名で初めて記録されており、キュルテペ(カイセリの北約20㎞にあるアッシリア商人居留地があった場所)とマリ(シリアの現テル・ハリリ)で発見された紀元前2千年頃の粘土板には"Har-ra-na(ハッラナ)" 又は "Ha-ra-na(ハラナ)"の名で登場しています。元はシュメール語とアッカド語で「旅」「通り道」「隊商」を意味する“haran-u(ハラヌ)”から都市の名が付けられたと言われておりますので、ハランは4000年以上前に付けられた都市の名が現在まで使われ、ずっと重要都市として存在し、続け途切れることなく人々が住み続けてきた物凄い歴史のある町であることが解りますね!

因みに、現在ハランの日干し煉瓦の家に住んでいる人たちは、18世紀にオスマン帝国政府がここに連れてきて住まわせたアラブ人の氏族の子孫たちになります。
また、ハランは最古の研究の中心地の一つでもあり、世界最古の大学が建てられた所でもあります。
ハラン遺跡内には当時のハラン大学の展望塔も残っております。

4000年以上続くハランの村、この様な所は世界でも珍しいので、是非訪れてみて下さい。
ただ、夏場は灼熱となりますので、帽子やショールなど直射日光を遮る物をご用意なさることをお勧めいたします。

シャンル・ウルファ|ハラン | トルコ旅行専門の人気ナンバーワン旅行会社『ターキッシュエア&トラベル』

エキゾチックな街|マルディン / MARDİN

マルディン
シリア国境に近く、北シリアの広大な平原・メソポタミアの大地が見渡せる、岩山に沿って古い石造りの家が連なる異国情緒満載のエキゾチックな街です。数千年前から人が居住しており、3世紀からはシリア正教会キリスト教徒であるスルヤーニー人(アッシリア人/アラム人)が住んでいるため多くのシリア正教の教会が残っています。

また、シルクロードが通っていた街で、近郊には5つの商館、1つの隊商宿がありました。石造りの家々の間は細い裏道が張り巡らされており、散策するだけでも魅力的な街です。色々な言語、色々な宗教が共存しているマルディンにも観光スポットが数多くあります。

40人の殉教者の教会 (Kırklar/Mor Behnam Kilisesi)

マルディン旧市街の中心地にある569年にスルヤーニー人(アッシリア人/アラム人)によってモル・ベフメン(Mor Behmen)と妹のサロの為に建てられた教会です。1170年、3世紀頃にキリスト教迫害によりシワスの湖で殉教した40人のキリスト教徒の遺骨がここに収められたことから、40人の殉教者教会と呼ばれています。また、現在ここはマルディン総主教教会でもあります。

ウル・ジャーミー (Ulu Camii)

マルディン旧市街にある12世紀アルトゥク朝時代に建てられた、マルディンで一番大きなモスクです。すっと伸びた一本のミナレットと長方形のモスクの真ん中にある小さな一つのドームが特徴的です。

ズィンジルイェ神学校 (Zinciriye Medresesi)

又の名をイーサー・ベイ神学校と言い、マルディン旧市街にある1385年にアルトゥク朝スルタンのメリック・ネジメッティン・イサ・ビン・ムザッフェル・ダヴドゥ・ビン・エル・メリク・サリフ(Melik Necmettin İsa bin Muzaffer Davud bin El Melik Salih)によって造られました。このスルタンはマルディンで起きたティムール軍との戦いに敗れた後、ここに幽閉されていたとの事です。因みにティムール軍によりアルトゥルク朝は滅亡しました。とても美しく、ここからの景色は絶景ですので、是非訪れてみて下さい。

マルディン城 (Mardin Kalesi)

マルディンのどこからでも見ることができるこの町のシンボルであるマルディン城は、自然の岩山の天辺にあり、この山肌に町が形成されています。“鷹の巣”とも呼ばれているこのお城の歴史は約三千年にも及び、シュメール、バビロン、ミタンニ、アッシリア帝国、ペルシャ帝国、ローマ帝国、ビザンツ帝国、ウマイヤ朝、アッバース朝、ハムダーン朝、セルジューク朝、アルトゥク朝、黒羊朝、白羊朝、サファヴィー朝、オスマン帝国と数々の王朝・帝国時代に活躍した非常に重要なお城です。

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マルディン博物館 (Mardin Müzesi)

マルディン博物館
マルディン旧市街にあり博物館。元々は1895年にアッシリア東方教会総主教座として建てられ、建物の東側には聖マリア教会があります。2000年より博物館として開館しました。
マルディン及び近郊の遺跡から発掘された紀元前4000年からオスマン帝国時代までの考古学コレクション、マルディンやミディヤット等の周辺地域の民俗学的コレクションが展示されています。

ディルルザファラン教会 (Deyrulzafaran Manastrı)

ディルルザファラン教会
マルディン郊外、東へ約4㎞の所に在る5世紀に建てられたアッシリア東方教会の重要な修道院。1932年までの640年間、スルヤーニー(アッシリア人キリスト教徒)アッシリア東方教会の総主教座となっていました。紀元前は元々太陽の神殿として、その後ローマ人に城塞として使われていた場所に建てられた修道院で、何回もの改修・増築と改名を得ながら、15世紀に修道院の周辺に咲いていたサフランからDeyrul-zafaran=サフラン修道院の名が付けられたと言われています。現在もスルヤーニー教会にとって宗教上の重要な中心地の一つであり、世界中に散らばってしまったスルヤーニーが巡礼に絶えず訪れる場所です。
3階建ての修道院の建築、またここからの景色も素晴らしいので、マルディンから足を延ばして訪れてみて下さい。

ダラ古代遺跡 (Dara Ören Yeri)

マルディン中心地から南東へ30㎞のオゥズ村(Oğuz Köyü)にある古代北メソポタミアの最重要都市の一つであった遺跡です。紀元前3世紀には既にここには町が出来ており、紀元前330年頃のアレクサンダー大王とペルシャ帝国のダレイオス王との戦いの舞台になった場所でもあります。ビザンツ帝国皇帝アナスタシウス1世が東のササーン朝ペルシャに対して領土防衛のための駐屯地として505年にこの都市を建設したと言われています。周りを4㎞に及ぶ城壁で囲まれており、石灰岩の上に建てられた城塞都市遺跡です。東のエフェソスともいわれています。

ミディヤット(Midyat)

ミディヤット
マルディンより東へ約67㎞、この町の歴史は古く、紀元前2000年頃には居住者がおり、古代フルリジンの町でもありました。
古代アッシリア・アラム人の末裔と言われ、早い時期にキリスト教を受け入れシリア正教会のキリスト教徒であり、古代から続くアラム語を現在でも話す中東の少数民族であるスルヤーニー人も住んでおります。1960年代ではこの町にキリスト教徒が570世帯、イスラム教徒が30世帯との構成調査の統計があり、現在もスルヤーニーが多い町です。

彼らが昔からの土地で数千年前からずっと同じ製法で作るワイン「スルヤーニーワイン(Süryani Şarap)」は独特ですので、是非この地に足を運んで御賞味下さい。

トルコの人々は皆イスラム教徒?政教分離の国トルコの宗教事情 | トルコ旅行専門の人気ナンバーワン旅行会社『ターキッシュエア&トラベル』

モル・ガブリエル修道院 (Mor Gabriel Manastırı)

モル・ガブリエル修道院
マルディン中心地から東へ約90㎞、ミディヤットから南東へ約22㎞に位置する、現存する世界最古のアッシリア東方教会の修道院です。スルヤーニー人にとって故郷と知られている神の僕の山を意味するトゥル・アブディン(Tur Abdin)高原にあります。西暦397年、元々ゾロアスター教の神殿があった場所にサムエルとシモンによって建てられた修道院ですが、この時代かなり名声を得ることができ、それは東ローマ皇帝アルカディウス、西ローマ皇帝ホノリウス、その後はテオドシウス2世、アナスタシウス1世が寄付をした程だと言います。615年と1049年には総主教座がおかれました。
造りも状態も良く、見ごたえのある修道院です。

アドゥヤマン(ADIYAMAN)/キャフタ(KAHTA)

アドゥヤマンとキャフタはネムルート山への旅の起点となる、ヒッタイト時代には既に居住者がいた歴史の深い街です。昔は「フスヌマンスル (Hısnımansûr)」との名で呼ばれていました。

トルコ料理のひとつ、野菜とお肉をオーブン焼く「アドゥヤマン・タヴァス(Adıyaman Tavası)」やトルコの伝統的スイーツ「ブルマ・タトゥルス(Burma Tatlısı)」といった名物料理があり、ネムルート山の起点にとどまらず近郊にはいくつかの見どころもあります。

世界遺産|ネムルート山 (Nemrut Dağı)

ネムルート
1987年にユネスコ世界文化遺産に登録されたネムルート山は、アドゥヤマンから北東へ約70㎞、キャフタの町から約40㎞にある標高2,150mの山で、美しい日の出を見られることでも有名です。山頂はかつてヘレニズム時代にこの地周辺を統治していたコンマゲネ王国の第3代国王アンティオコス1世(治世紀元前70~紀元前38年)が紀元前62年に建て彼自身の墓寺院とギリシャとペルシャの神々の8~10mにもなる巨大石造が存在しておりました。現在、ち巨大石造は地震により崩れ、落ちた石造の頭部のみが地面からニョキっと首が生えた様に奇妙な姿で佇んでいます。

頂上にはこぶし大の石が積まれた円錐状の山の様な墳墓、東側テラスと西側テラスにはアンティオコス1世テオスの頭部像、神や女神の頭部像、鷹やライオンの像が見られます。西側テラスにはライオンのレリーフがありますが、ライオンの上に16本の光線がある3つの星が描かれています。これは火星、水星、木星の惑星を表すと考えられており、これは歴史上最も古いホロスコープとして知られている貴重な物です。

東テラスからは早朝、太陽がメソポタミアの大地から段々と昇り始め、朝日が目下のユーフラテス川と広大な大地、ネムルートの神像達を赤く照らし出す光景は言葉に表せない程神秘的。

観光シーズンは5月~10月。開山、閉山はその都市の天候によって異なります。夏でも日の出前はかなり冷えますので、上着を必ずご用意ください。また、山頂付近まで車両で行く事はできますが、そこから山頂までは山道を10分程登らなければなりませんので、歩きやすい運動靴又はトレッキングシューズをお勧めいたします。
1987年にユネスコ世界文化遺産に登録されました。

ネムルート山(文化遺産・1987年)| トルコ旅行・ツアー・観光なら、安心の『ターキッシュエア&トラベル』におまかせ!

アルサメイア(Arsemia)/エスキ・キャフタ(Eski Kahta)

アルサメイア
ネムルート山の裾野南西側のエスキ・キャフタには、紀元前2世紀にコンマゲネの始祖アルセメズによって造られた町で、コンマゲネ王国の夏の王宮があったと言われています。アンティオコス1世(第3代国王ミトリダテス1世とも言われる)とヘラクレスが握手をしているレリーフがあります。その前にはアナトリアで最大と言われているギリシャ語の碑文が残っており、碑文の場所からは158m下まで続くトンネルがありますが、入ることはできません。入口から中を覗けますが暗いので懐中電灯をお持ちください。

カラクシュ (Kara Kuş)

キャフタ中心地の北約10㎞の所に、こぶし大の石が山の様に積み上げられたコンマゲネの女性王族の墳墓があります。その南側に高さ20mの柱が建っておりその頭部に鷹の石像が乗っていることから“カラクシュ”=黒鳥と呼ばれています。

ジェンデレ橋 (Cendere Köprüsu)

キャフタからネムルート遺跡へ向かう道のカラクシュを過ぎて10㎞の所にあるジェンデレ川に掛かるローマ時代の石橋です。ローマ皇帝セプティミウス・セウェルス(治世193~211年)の命で建てられました。幅7m、高さ30m、全長120m。

アタトゥルク・ダム (Atatürk Barajı)

アタトゥルク・ダム
アドゥヤマンとシャンルウルファの間、ユーフラテス川に作られたトルコ最大、世界でも上位の大きさのダム。ダム湖でありますので夏場は遊泳して涼んでいる人や岸でピクニックをする人で賑わいます。
キャフタ中心地から東へ約5㎞程行くとダムの支流に到達できます。

ピリン/ペッレ遺跡 (Pirin/Perre Ören Yeri)

アドゥヤマン中心地より北東へ約4㎞。コンマゲネ王国の主要5都市の一つであった都市遺跡です。マラティヤから王国の首都サモサタ(現Samosat)を結ぶ道の途中にあったため、地政学的に重要であったことが解っています。ビザンツ帝国時代にもペルシャに続く王の道上にあったためこの時代も重要性が続いていました。この頃、聖なる都市ヒエラポリスとなっていたこの都市は325年にニカイア公会議にもペルシウス州の一都市として参加していることから宗教的にも重要な場所でありました。ビザンツ帝国時代を最後にここは荒廃したと言われています。

遺跡のネクロポリスであり、200にも及ぶ岩窟墓が存在し、その他に貯水池、ワイン工房、祭壇、洞窟の家の跡、城壁、が見つかっております。特に、現在まで市民に使われ続けている泉が見所です。

城壁で囲まれた町|ディヤルバクル/DİYARBAKIR

ディヤルバクル
メソポタミア文明を生んだティグリス川(Dicle Nehri)上流にある、古代から交通・貿易の要所として栄え、それと共に30以上の民族や支配者の興亡を見てきた歴史ある町です。

古くはアミダ(Amida)またはアーミド(Amid)と呼ばれていましたが、トルコ共和国時代に至ってから「バクル族の国」や「銅の国」の意味を持つ“ディヤルバクル”が町の正式名称となりました。
現在は住民の殆どがクルド人ですが、さまざまな人が住む南東部の中心都市です。
スイカが有名な町でもあります。

ディヤルバクル城塞とヘヴセル庭園の文化的景観 *世界遺産* (Diyarbakır Kalesi ve Hevsel Bahçeleri Kültürel Peyzaj Alanı)

市内中心にあるディヤルバクル城は、7000年もの歴史を持ち、色々な時代の跡が残っている世界でも歴史的・文化的に重要な遺産です。
ディヤルバクルの城壁は4世紀に作られ、計5.8㎞。万里の長城には到底及びませんが、世界2位の長さになります。城壁の高さは場所により8ⅿ~22ⅿ。外壁には82ヶ所、内城には19ヶ所に約20mの高さの3階建ての櫓があり、東西南北4つの主要門が造られています。

へヴセル公園は、30以上の民族・支配者の興亡があった地域で8000前程前からずっと庭として存在してきました。町とティグリス川を結んできたこの場所は、ティグリス川の水量が減ったことに因り現れ、肥沃の三日月と言われたメソポタミアの恵みを存分に受けた豊穣な土地で、古代から様々な農作物が育てられてきました。

現在は、南東アナトリア地方で一番多く野鳥が住む地となっており、渡り鳥の羽を休める地でもあり、その他にキツネ・リス・カワウソ・ハリネズミなどの動物も多く生存しています。ディヤルバクルの城塞と減ヴセル公園は2015年にユネスコ文化遺産に登録されました。

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ウル・モスク (Ulu Camii)

ディヤルバクル城壁内にあるアナトリアで一番古いと言われるモスクです。639年にこの地に侵入したムルリムのアラビア人により、ここで一番大きな教会であったマルトマ教会をモスクに変えてしまったのが始まりです。その後、1901年セルジューク朝のメリクシャーにより大規模な修復が行われ、その後も何度か修復がされげんざいの姿になっています。大きな内庭の南側にはハニフィレル・ジャーミー、北側にはシャフィイレル・ジャーミーとメスディエ神学校、モスクの西入口の傍にはズィンジリイェ神学校があります。見ごたえのあるモスクですので、是非城壁と合わせて訪れてみて下さい。

古き良き町|スィヴァス/シヴァス(SİVAS)

スィワスはアナトリアでも最も歴史のある都市の一つで、新石器時代の紀元前7000~紀元前5000年頃から居住地となっていたとの事です。ホームメイドのパスタとレンズ豆の料理「ケスメ・アシュ(Kesme Aşı)」やヘーゼルナッツ・クルミ・アーモンド・干しブドウ・シナモン等を薄いパイ生地で包み熱々のシロップを掛けたスイーツ「ケッレ・タトゥルス(Kelle Tatlısı)」が名物料理です。

カンガル犬(Kangal Köpeği)

カンガル犬
トルコの犬と言ったらまずはこのトルコ原種のカンガル犬が挙げられます。ライオンの様に強く獰猛で賢く勇敢で、飼い主に忠実なカンガル犬は、アナトリアで羊飼い達がオオカミや野犬から羊たちを守る為に、牧羊犬・番犬として昔から飼っている犬です。大きさは成犬の雄で体高75~90㎝、体重50~75㎏、雌は体高70~80㎝、体重40~60㎏となる大型犬で、足で立つと人間の大人と同じくらいの大きさにもなります。頭部が大きく顎が強い為オオカミを噛み殺せる強さを持っています。

カンガル犬の耳は大きく、元々三角形で前に垂れていますが、オオカミや野犬と取組合になった際に耳を食いちぎられない様にと、子犬の時に予め耳を切ってしまう習慣も有ります。
カンガル犬は元々中央アジア・トゥルキスタンにいた犬種であり、トルコ系民族が西方進出すると共に一緒にアナトリアへ来たと言われています。

他の言い伝えもあり、それによると、インドのマハラジャよりオスマン帝国スルタン・セリム1世(又はムラト4世)に犬が贈呈されました。宮殿内でライオンと格闘しライオンを殺したことで、スルタンの目に留まります。オスマン軍が東方遠征の際にこの犬を同行させていましたが、カンガルのデリクタシュ村付近で行方不明となり捜索しても最終的に見つからなかったと言う事です。特徴が似ていることからカンガル犬はこの犬の子孫だとも言われています。

カンガル犬は17世紀ごろからオスマン帝国で繁殖されていたらしく、オスマン帝国先鋭軍部隊のイェニチェリは軍用犬として使用していたと言われています。

トルコを旅していると、大きな野良犬を良く目にしますが、このカンガル犬の血が入っている犬も多いので、純粋種ではなくても面影を見ることが出来るかと思います。
因みに、カンガルードックと言う犬種もありますが、これは全く別の物でオーストラリアの犬種ですのでお間違いなく。

ドクターフィッシュ (Kangal Balığı)

ドクターフィッシュ
日本でも知る人ぞ知るドクターフィッシュは、トルコやイラン等の西アジア周辺に生息する淡水魚で、ドクターフィッシュは通称で、学名はガル・ラファと言い、トルコではカンガル・バルーゥ(Kangal Balığı)と呼ばれるコイ科の魚になります。
こちらとても珍しい魚で全長は3㎝から10㎝と小さいのですが、PH 7.0~7.4, KH 3~16, 水温 28 ~ 34 度(それ以上高い37度でも)生きられるため、温泉等でも生息することができます。
通常は河川や池や沼で生息しますが、トルコではスィヴァス県カンガル郡カルクム(Kalkım)村近辺の温泉や小川で生息しています。

ドクターフィッシュの一番の特徴はタンパク質栄養素の欠乏のため、人が水に入ってくるとここぞとばかりに接近し、皮膚と角質をかじり取ることです。塩分のある唾液がかじるときに皮下に混入し、様々な遺伝性皮膚疾患やアトピー性皮膚炎、乾癬の皮膚疾患を治癒すると考えられています。

歯がない魚ですので、吸われても噛まれることが無いので肌を傷つけず、少しくすぐったい感じがする位です。
1917年までこの温泉地は無法地帯となっていましたが、その後は自治体により管理されるようになり、1988年よりリ近代的なハビリテーションホテルとしてトルコ温泉連盟(TÜRKAP)、ヨーロッパ温泉連盟(ESPA)に加盟し、トルコ保健省の許可の元に営業管理されております。

ドクターフィッシュの効果と注意点とは?トルコ発祥の角質を食べる魚 | トルコ旅行専門の人気ナンバーワン旅行会社『ターキッシュエア&トラベル』

ディヴリー・ウル・ジャーミー(Divriği Ulu Camii) *世界遺産*

大モスク
スィヴァスのディヴリーィにあるモスクです。セルジューク朝時代、この地域がメンギュジュック君侯 (Mengücekoğulları) の支配下にあった1228年から1229年の間に、君主アフメット・シャー(AhmetŞah)の命でウル・ジャーミー(大モスク)が、妻トゥラン・メレッキ(TuranMelek)の命でモスクの南に隣接する形で病院施設が、ヴァン湖西岸アフラット出身の建築家フュッレムシャー(Hürremşah)により建設されました。完成は15年後の1243年と言われています。イスラム建築の傑作であり、設計プランと装飾の特徴の点において、他に二つと無い作品となっています。

モスクは隣接する病院施設ダルシュシファ(Darüşşifa)と2つのドーム型の霊廟で構成されています。  
モスクは石細工で作られた驚くほど華やかで贅沢な3つの門が見事であり、ジャミィ内部にある慈善行為を目的として造られた病院施設も外観はシンプルですが、中はユニークな工夫が凝らしてあります。

病院施設は、2階建てで中庭があり、イーワーン(三方が壁で囲まれた天井がアーチ状となっているホール)が備わった建物です。当時、精神病患者を水の音で治していたと言う独特の特徴を持った病院でした。中央にある池から溢れ出た余分な水は、池の周りの正方形に計画された水路を通り池の周りを円を描きながら一周することによって排出されます。

各門も芸術的な細工が施されていますので、一見の価値があります。
こちら、1985年に世界文化遺産に登録されました。トルコの建築物として一番最初に登録された施設でもあります。

ディヴリーイの大モスク「ウル・ジャーミィ」(文化遺産・1985年)| トルコ旅行・ツアー・観光なら、安心の『ターキッシュエア&トラベル』におまかせ!

猫でも有名、美しい湖のほとりの町|ヴァン/ワン (VAN)

ターキッシュバン
紀元前7000年頃から最初の居住が始まり、紀元前2千年ごろにはフルリ人の地となり、その後ミタンニ、アッシリア、ウラルトゥ、等古代国家の支配下で繁栄し、オスマン帝国時代まで重要な都市として続いてきた町です。20世紀までアルメニア人、トルコ人、クルド人、アラビア人が住んでいました。
ヴァンと言えば、自然の食材で多くの品数のある朝ごはん「ヴァン・カフヴァルトゥ(Van Kahvaltısı)」や、お肉とひよこ豆とハーブや葉野菜を炒めてヨーグルトと赤トウガラシとバターのソースをかけた料理「ケレドシュ(Keledoş)」が名物料理です。

ヴァン湖(Van Gölü)

ヴァン湖は“トルコ最大の湖”で、湖面の標高1646m、面積3713㎢、湖岸線約500㎞という巨大さを誇っています。日本最大の湖である琵琶湖と比べて6倍弱もの大きさがあります。
ヴァン湖の特徴は湖であるのに塩水であること。その為、湖水は強アルカリ性となっています。ですが、塩湖といっても死海のように体が浮くようなことはありません。濃度は場所によって違いがある為、川の付近では魚が豊富に獲れ、岸辺付近では泳ぐこともできます!

ヴァン湖は流出する河川が無いため、流入する河川の酸素濃度によっては化学変化を起こして湖水が白濁したり、快晴の日にはトルコブルーに見えたりし、非常に美しい景観が見られます。また、濃度の違いや天候によっては違う色にも見えることから「水の色が七色に変わる」と言われているとても美しい湖です。
ヴァンを訪れた際は必ず訪れて頂きたい観光スポットのひとつです。

近年では、水位の上がった湖に沈んだままになっていた、3000年ほど前のウラルトゥ王国の時代のものと見られる遺跡が発見されました。湖底の堆積物の下にはさらに多くの遺跡が残されている可能性もあり、今後研究が進められることで文明がどのようなものであったかが解き明かされることになるかもしれません。
また、ヴァン湖には昔から巨大生物「ヴァン・ジャーナヴァル(Van Canavarı)」が生息しているという噂も。1997年6月にこの巨大生物がビデオで撮られたとして当時のトルコ国内では大きな話題にもなり、日本でもテレビで放映されました。

因みに、湖水には「炭酸ナトリウム(別名:炭酸ソーダ)」も含まれているので、洗濯洗剤を使わずとも衣類の汚れを落としてくれると言われていますよ。

ヴァン城 (Van Kalesi)

ヴァン城塞
トルコ最大の湖であるヴァン湖の西側にあるヴァン城は、ヴァン中心地から西へ約5㎞にある紀元前8世紀に作られたウラルトゥ王国のお城です。ウラルトゥ第3代国王サルドゥリによって紀元前840~825年に作られ、ウラルトゥ王国の首都としてトゥシュパ(Tuşpa)の名で機能していました。ヴァン平原の東西に延びる岩盤の上に建てられ、岩盤は幅20~120m、全長1800m、高さ100mの一つの岩で出来ています。ウラルトゥ王国の物として、マドゥル(サドゥル)櫓、母娘(Analı-Kızlı)野外神殿、国王であったアルギシュティ1世と建国者とメヌアとサルドゥリ2世の岩窟墓、千段の階段とメインの岩に刻まれた城壁の基盤と城壁が残っています。

夕方、ヴァン城の天辺から臨む西のヴァン湖に沈む夕日はとても神秘的で絶景です。ただ、岩場の遺跡で足物がとても悪いので、日が暮れた後に城から降りる際に危険ですのでお気を付けください。

アクダマル島アルメニア教会 (Akdamar Adası Ermeni Kilisesi)

ヴァン
アクダマル島はヴァン湖の東部に浮かぶ湖で一番大きい島です。この島にはこの辺りがアルメニア王国であった時代の10世紀に建てられた「聖十字架教会」と言うアルメニア教会が島の南東部に残っています。エルサレムからペルシャに持ち出された後、7世紀にヴァン地方に持ち込まれたと噂されている聖十字架の一部を保管するために、アルメニア公国ガギク1世の命令により915~921年に建築家マヌエル修道士によって建てられました。褐色の安山岩で造られた教会の外観は、低いレリーフの形で聖書の場面や豊かな植物や動物のモチーフで飾られています。教会はアルメニア建築史において特別な位置を占め、中世アルメニア建築の栄華さを伝える建物となっております。

2007年よりこの教会はアクダマル記念博物館として運営されています。
アクダマル島には橋がありませんので、ヴァン市内からミニバスで最寄のエドレミット(Edremit)又はゲヴァシュ(Gevaş)の船着場迄移動し、そこから連絡船で島に渡らなくてはなりません。

ホシャップ城 (Hoşap Kalesi)

ホシャプ
ヴァン中心地から南東へ約60mの場所、ギュゼルス地区北西にある急勾配の岩盤の上に建てられた城跡です。ウラルトゥ時代からこの場所に城がありその後支配者は何回も変わりましたが、現在残っているのはオスマン帝国の支配下にあったクルド人領マフムディ侯国領主マフムディ・スレイマンによって1643年に建てられた物です。19世紀中ごろに放棄されました。

3つの城壁に囲まれた城は、2つのモスク、3つのハマム、泉、地下牢等があります。 内城の門上部の紋章の両サイドにはチェーンで繋がれた2頭のライオンのモチーフがあります。また城の下のホシャップ川には、ゼイネ・ベイによって建てられた歴史的な橋があります。

チャヴシュテぺ城 (Çavuştepe Kalesi)

ヴァン中心地より南東に約24㎞、ギュルプナル郡チャヴシュテぺ村に位置する、ウラルトゥ国王サルドゥリ2世により紀元前764~734年に作られた城の遺構です。創設者への敬意を示してサルドゥルの町を意味する「サルドゥリヒニリ(Sardurhinili)」と名付けられました。上部と下部の2つの城で構成されています。上部の城は下部の城より30m高い場所にあり、中にはウラルトゥで崇拝されていたハルディ神を祭るハルディ神殿と野外神殿が存在し、周りには大きな石のブロックで組まれた城壁があります。

下部の城は丘の尾根を800mに渡る領域を覆っている形で作られています。両端が城塞となっているのが特徴的で、性格に切られた石灰岩のブロックで構築された城壁は、岩盤の上に直接作られています。 また東から西に向かって納屋、倉庫、神殿、宮殿、貯水池が並んでいます。 神イルムシーニの名で建てられた神殿には、楔形文字で書かれた碑文があり、突起型の塔の造りの神殿として重要な建物です。

チャヴシュテぺでの発掘は続いており、2019年にはネクロポリスでブレスレットをした子供の骨等も見つかっており、今後も新たな発見が期待されています。

ヴァン猫の家 (Van Kedi Evi)

ヴァン猫
トルコのヴァン周辺原種の白い毛並みのヴァン猫。ヴァン猫は絶滅危惧種のため、個体数を増やすために繁殖保護しているのがヴァンのユズンジュ・ユル大学(Yüzüncü Yıl Üniversitesi)内のヴァン猫繁殖研究センター「ヴァン猫の家」です。目の色がヴァン猫の特徴ですが、“両目がターコイズブルーの青眼”、“両目が黄色に近い琥珀色”、“一つがターコイズブルーの青眼でもう一つが琥珀色の目のオッドアイ”と色により3つのグループに分かれます。また、オッドアイの子猫には両耳の間に一つ又は二つの黒い斑点があるのが特徴です。また、水遊びが好きで泳ぎも得意という猫には珍しい特徴も持っています。

ここでは写真を撮ったり猫と触れ合うことも出来ますので、貴重種のヴァン猫と是非触れ合ってみて下さい。
因みに、「ターキッシュ・バン」という種の猫もいますが、ヴァン猫とは異なります。

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アララト山の麓の町|ドゥバヤズット(DOĞUBAYAZIT)

トルコ東端のアール県の中心地から東へ約93㎞にあるドゥバヤズットは、北へ約50㎞でアルメニア共和国、東へ約35㎞行くとイランへ抜ける、トルコとイランを繋ぐ通り道にある国境の町です。

この国境の町はトルコの最高峰「アララト山(Ağrı Dağı)」の麓にあり、町の中から見る山の威容が見事ですが、その他にもイスハック・パシャ宮殿といった見所もあります。

茹でたキョフテの「アブディギョル・キョフテ(Abdıgör Köfte)」や、標高2250mのトルコで一番高いところにある湖「バルック・ギョル」でとれる「鱒/ます」が名物です。

イサク・パシャ宮殿 (İshak Paşa Sarayı)

イスハクパシャ宮殿
ドゥバヤズットの市内より南東へ約7km、車で約15分の距離にある、オスマン帝国時代17世紀後半にこの地を治めていたクルド人知事「イサク・パシャ」によって1685年に建設が開始され、99年という月日をかけて完成した18世紀オスマン帝国チューリップ時代最後の大作で、オスマン建築・ペルシャ建築・セルジューク建築の特徴が調合された“完全な宮殿”です。完成された1784年はイサク・パシャの孫「メフメット・パシャ」の時代でした。

3階建ての宮殿内には366部屋あり、全面積7,600㎡の敷地には、モスクやハレム、浴場、イサク・パシャの墓、会議室、裁判所、牢獄などが含まれ、複合施設となっています。
保存状態がとても良く、宮殿からアララト山を見渡す事もでき望む景色は雄大でとても素晴らしく、また山腹に佇む宮殿のシルエットは何とも言えない神秘さを醸し出しています。オスマン建築としてアナトリアで唯一現存する大宮殿でもありますので、お見逃しなく。

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ノアの方舟 (Nuh’un Gemisi)

ノアの方舟
ドウバヤズットの町から26km地点、アララト山の麓にあるノアの方舟が埋まっていると言われている場所です。
ここは、方舟のような形に隆起した地形になっており、すぐ近くには小さな博物館もあります。
ここがアメリカ人研究者によって発見されたのが1985年。その後の調査で科学的根拠は認められませんでしたが、近年も調査がなされ、考古学的、地理学的、宗教学的にも世界中から注目されるロマン漂う地です。

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アルメニアとの国境近くにある町|カルス (KARS)

真夏でも平均気温が20度にならないトルコで最も標高が高い県の一つで、アルメニアと国境を接し、過去にバグラトゥニ朝アルメニアや1918年には東西コーカサス暫定国民政府の首都となった国境に翻弄された町です。小麦粉のスープである「ホッレ(Hörre)」や酸味が効いた肉料理の「エクシリ・エト(Ekşili Et Yemeği)」などが名物料理です。

アニ遺跡 (Ani Antik Kenti) *世界遺産*

アニ
カルスから東へ約46㎞、アルメニアと国境を接するところにある、2016年にユネスコ世界文化遺産に登録された都市遺跡です。
10世紀、バグラトゥニ朝アルメニアの王であるアソット3世が首都をアニに移した961年から1045年まで、バグラトゥニ朝アルメニアの首都として文化と経済の中心地・周辺諸国への交易地点として繁栄しました。歴代バグラトゥニ朝の王の霊廟もアニに建てられています。

最盛期であったサムバト2世と息子ガギク1世の時代の10世紀後半から11世紀前半にかけて、4500mの城壁に囲まれた78ヘクタールのアニの土地の人口は10万人以上であったと言い、その頃のアニは「1001つの教会の都市」「40の門の都市」と知られた程、繁栄を極めたとのことです。
992年にアルメニア東方教会総主教座がアニに移されたことにより、この都市は首都としての機能だけでなく、アルメニア東方教会の中心地ともなりました。

現在アニ遺跡では計40以上もの教会、チャペル、墓が見つかっています。
建物として残っているのは21か所ですが、2011年より発掘と修復作業が続いています。
朽ちた後も、かつての栄光を思い浮かべることが出来るロマンにあふれた遺跡ですので、是非お見逃しなく。

カルス県「アニ遺跡」のご紹介(文化遺産・2016年)| トルコ旅行・ツアー・観光なら、安心の『ターキッシュエア&トラベル』におまかせ!

広大なアナトリアには深い歴史からみどころが満載!

いかがでしたか?アナトリアの歴史から東・南東アナトリア地方の見所までを紹介しましたが、これは本当に一部でしかありません。
まだまだ沢山の見所と魅力のある「アナトリア」を是非ご自身の目で確かめて肌で感じてみて下さい。

ビデオライブラリー

 
トルコ観光の案内ビデオ(1分33秒)
イスタンブール観光の案内ビデオ(2分)

トプカプ宮殿観光の案内ビデオ(2分26秒)

エフェソス観光の案内ビデオ(2分03秒)
パムッカレ観光の案内ビデオ(1分59秒)

カッパドキア観光の案内ビデオ(2分31秒)



 

トルコ観光ガイドの関連MEMO


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