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トルコの世界遺産

トルコの世界遺産エフェソスのご紹介


 エフェソスの最初の発掘は、1859年から74年にかけて大英博物館の後援でJ.T.ウッドによってオデオン(音楽堂)と劇場が発見された。更に1869年5月にはアルテミス神殿も見つかった。
 

古くからの伝説では、エフェソスは女性戦士として名高いアマゾネスにより建設されたと言われている。この町の名はKINGDOM OF ARZAWA (地母神の王国) という意味を持つ "APASAS(アパサス)" から由来しているらしい。エフェソスには青銅時代末期頃から既に人が住み始めていたようだが、その時々の生活環境や条件の変化に応じて長い歴史の中ではその位置が何度も変わった。エフェソスの最初の定往者はカリア人とレレジア人とされている。BC1200年にはイオニア人の移民活動が始まった。言い伝えではエフェソスの町はアテネ王コドロスの息子アンドロクロスにより2度造られたと言われていて、予言者の言葉で「魚と猪に導かれた地」とされたカイステル(小メンデレス川)の湾口に建設された。移民により大きく成長したイオニアの諸都市は次々とエフェソスの同盟都市となっていった。 BC7世紀初頭、エフェソスはキンメル人の攻撃で崩壊したが、リディア王の統治下では地中海世界の中で最も裕福な町となった。その後ペルシャ王キュロスはリディア王クロエソスを破り、エーゲ海沿岸地域でのペルシャの覇権拡大に乗り出した。5世紀初めイオニアの諸都市がペルシャの支配に反撃していた頃、エフェソスは町の崩壊を避けるためそれら都市との同盟関係をすばやく断ち切った。そしてBC334年にアレキサンダニ大王が登場するまでの50年間、エフェソスはペルシャの支配下で平和な安定した時期を送った。アレキサンダー大王の12人の将官の一人で、大王の死後その地の支配者となったリシマコスは町の開発に力を注いだ。そして彼の妻アルシノエに因んで町の名をアルシネイアとした。彼は港を整備して町全体を2.5km南西へ移し、パナユル山とブルブル山の斜面に城壁を巡らした。しかしエフェソス人はそれまで住んでいた町を離れようとはしなかった。しかしその後の洪水で町の下水道が塞がり家々が崩壊したことから、リシマコスは住民を強制的に移させることにした。BC281年にエフェソスの町は再建され、地中海沿岸地域の中でもとりわけ重要な商業港の一つとなっていった。エフェソスは2015年に世界遺産に登録された。

エフェソス旅行・観光の案内ビデオ

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2分03秒  (日本語字幕版)

BC129年、ローマ人はペルガモン王アッタロスの遺言だと偽り、小アジアの全ての領土をローマ皇帝に寄進させた。古代の記録によるとその当時の町の人口は20万人とされている。BC1世紀、住民はローマ帝国に強いられていた重税を理由に反対運動を起こし、やがてそれは暴動へと発展していった。彼らはミトリダテスを指導者として立て蜂起した。BC88年町に住むローマ人は虐殺された。そしてこの暴動はスラ帝率いるローマ軍の力で鎮圧された。我々が今日感嘆するエフェソスの遺跡の数々はアウグストゥス帝時代以後のものである。

 古文書によるとエフェソスはAD17世紀の地震で倒壊した。しかしその後復興し貿易と商業の中心地となっていった。歴史家アリスティオの記録には、エフェソスが小アジアで最も重要な交易地であることは誰もが認めるところであると記されている。エフェソスはエーゲ海地域で二番目の哲学学校を有し、また他の都市をリードする政治・学問の中心地でもあった。

 1世紀後、エフェソスにキリスト教信仰を広めようとする一人の使徒がやって来た。彼は住民をローマ人の迫害から全力で保護しようと努めた。東西を結ぶ接点にあるエフェソスは温暖な気候に恵まれ、何よりアルテミス信仰の地としての重要性を強く帯びていた。キリスト教徒にとってエフェソスの町は生活水準の高さはもとより、町の人□が正確に管理されている点や多信教崇拝の要素を含んでいることなとがら、理想的な布教地域であったようだ。記録によると、聖パウロは65年から68年迄の3年間この地にいたことがわかっている。彼はここで人々を集め、神は形あるものではなく、いかなる時、いかなる場所にでも存在するものであるとキリスト教の教理を説いた。この教えは当時金・銀などで作られたアルテミス小像を売り、莫大な利益を得ていた手工職人達の反感を買った。特にその中でデメトリウスという名の銀細工師はその反対運動の中心となり、何千ものエフェソスの市民を率いて劇場へと行進をした。そして口々に“エフェソスのアルテミスは偉大なり!エフェソスのアルテミスは偉大なり!”と叫びながら聖バウ口達を野次り小石を投げつけた。群衆はやがて暴動化しバウ口達は命からがらその場より逃げ出したという。後にエフェソス人に宛てた聖パウロの書簡には、エフェソスで投獄されていたことが記されていた。

 一方、使徒聖ヨハネは聖母マリアを伴いこのエフェソスにやって来たと言われている。更に福音書を著し、最終的に埋葬されたのもここエフェソスであったと考えられている。



 269年、エフェソスと周辺の都市はゴート人に侵略された。当時エフェソスにはアルテミス信仰のための神殿が残されていた。381年テオドシウス帝の命令によりこの神殿は閉鎖され、翌世紀には神殿の石材が切り出されそのまま放置された。

 地理的に恵まれていたエフェソスであったが、この時代の破壊が原因ですっかり衰退していった。

 それまで町の繁栄は入り江を巧く利用した天然港の存在に因るものであった。しかし水路が狭くなり船の航行が困難になったことから、この港はローマ時代迄にはアルテミス神殿から1.5kmのピオン山の西側に移された。これはエフェソスの西、エーゲ海に注ぐメンデレス(カイステル)川によって運ばれる土砂が何千年以上もの間に堆積し三角州に成ってしまったことが大きな理由だった。

 ビザンティン時代後期迄に水路はもうそれ以上機能出来ないほど塞がれてしまった。海は段々後退し、その上、港周辺の湿地帯にはマラリア等の病気が蔓延し始めた。キリスト教思想の広がりにより、それまでアルテミス信仰に使われていた建築物は段階的にキリスト教会へと改修されていった。大変重要なキリスト教公会議が431年と449年の2回エフェソスで開催された。6世紀以後、聖ヨハネ教会は神聖な巡礼地となり、ユスティニアヌス帝の命で町の周囲に城壁が設けられた。それからまもなくアラブ人の攻撃により聖マリア教会を始めとするキリスト教の建物は破壊された。

 7世紀に町は現在のセルチュク市街の場所に移り、ビザンティン時代はアヤスルクの丘周辺に落ち着いた。そしてアイドゥンオウルラル族のセルジュク朝期に大きな繁栄を見せた。中世の時代には貿易港としての町の役割はすっかり無くなった。

 20世紀迄にメンデレス川の堆積した土砂により海岸線は更に5km後退した。

エフェソスの発掘

 エフェソスの最初の発掘は、1859年から74年にかけて大英博物館の後援でJ.T.ウッドによってオデオン(音楽堂)と劇場が発見された。更に1869年5月にはアルテミス神殿も見つかった。

  定期的な発掘調査はウィーンアカデミーの一員オットー・ヴェンドルフの指揮下で1895年に開始された。オーストリア考古学協会のR・ヘベルグが中心になり行われた発掘ではアゴラ、劇場、アルカディアンそしてセルシウス図書館が新たに発見された。

 これらの発掘作業は第1次世界大戦中に一時中断されたが、1926年再開された。

 更に発掘はオーストリア考古学協会のヘルマン・ヴェッテル指揮下の大規模な発掘チームにより継続された。ローマ時代の居住地跡が複雑に重なっていたことから、ヘレニズム時代の層に達したのは1960年になってのことだった。

古代遺跡エフェソス

 ヘレニズムとローマ時代の古代遺跡エフェソス。人口は二箇所ある。クシャダス方面から来るのであればハーバーゲート(港の門)がある入口から入場しよう。まず最初に目にする建物はジムナシウム(体育場)である。

ヴェデウスのジムナシウム(体育場)

 このジムナシウムはエフェソスの財産家ヴェデウス・アントニウスによりAD150年に建てられた。建物の東側ファサード(前門)の発掘調査の際発見された碑文によると、このジムナシウムはアルテミス神と執政官アントニウス・ピウスに捧げらたものであるという。発掘されたジムナシウムの部屋からは崇拝されていたアントニウス・ピウス像が見つかっているこの場所からかなり多くの像が出土しているが、その中の2体の水神の彫刻像は、現在イズミル考古学博物館に展示されている。トイレもかなり保存状態が良い。

スタディウム(競技場)

 ジムナシウムのすぐ南側に面しているスタディウムはネロ帝(54-68AD)の命で建てられた。広さは228×38m。パナユル山の斜面を利用して観客席か設けられ、カヴェアの北側は丸天井で支えられていた。発掘物には大理石製の粗彫りの柱頭が多く含まれている。その後、ビザンティン時代になってから城砦を建設するためスタディウムの石材が再利用され、現在はごくわずかの遺跡しか残されていない。

 スタディウムは戦車競争や運動競技また剣の決闘に利用された。この剣の決闘の様子を描写した大理石のレリーフはマーブル通り沿いに飾られている。スタディウムの向かい側の小高い丘のところには、年代不詳の建物が数多く発見されている。これらの発掘物には魚市場やビザンティン時代の泉、エフェソスを建設したアンドロクロスのものと推定される墓が含まれている。アルテミス神殿からスタディウムを通り、町の中心へと延びる道がマーブル通りであった。現在このスタディウムでは、今や伝統行事となったラクダのレスリング大会が開催される。毎年春に行われるエフェソス芸術文化フェスティバルには世界中から沢山の観光客が訪れる。

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