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観光庁長官登録旅行業第1997号
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トルコ・アナトリアの歴史


トルコ・アナトリアの歴史

 人類がアナトリアの大地に最初の足跡を刻んだのはBC10万年、石器時代に遡り(カライン洞窟)、B.C.8,000年頃になると集落が形成されるようになった。チャイオヌ(B.C.7,250~6,750年)、ハジラール(B.C7,040年)、そして先史時代の証人チャタルホユックともな
るとB.C.6,500~5,650年の間に12の集落が作られ、人口5,000から10,000人を抱える人類史上初めての組織立った町にまで成長した。以降、ジャン・ハサン(B.C.5,500年以降)からトロイの最初の集落(B.C.3,500年)まで、原始的な農耕社会の文化(アリシャー)と共に穏やかに過ぎたアナトリアの日々は青銅器時代の幕開けと共に目眩く文化の高揚に舞台を提供することになる。
トロイ周辺が青銅器時代を迎える頃、東部は(ベイジェ・スルタン)後期鉄器時代の真っ只中にあった。
BC3,000年の半ばからアナトリアの各地ではハッティと共に青銅器文化が頂点に達したが、彼等はメソポタミア以外で一つの民族としての特徴を提示した唯一の民と言える。アッカド(B.C.2,350年)からアッシリア王国時代(B.C.8世紀)まで継続されたアナトリア~メソポタミア商業・文化交流の始まりもこの頃で、特に西のトロイ第二市と中部アナトリアが、互いの文化にかなりの影響を受け合った様子は顕著である。
トロイでは市が層を重ね(第三~第五市:B.C.2,200~1,800年)、一方のハッティは歴史の舞台からそろそろ姿を消し、かわりにヒッタイトが台頭してきた。この過渡期に於いて、特にカニシ(キュルテペ)やその他の集落で組織されたアッシリア交易植民市は、歴史時代の始まりと下メソポタミア文明の北部への浸透を示すものと言える。

 ◆ヒッタイト 
初期に於ける中央集権の脆弱な旧帝国期を経たヒッタイトは、その後、完全な中央集権を組織した新帝国に包括され、ハットウシャシュ(現ボアズキョイ)に都を制定した。BC15世紀、14世紀に、上ユーフラテス地方の民族やミタンニ王国、ポントス地方のケスカと呼ばれる未開人と戦い、マルマラからユーフラテス一帯までに領土を拡大した他、シリア分配の件に関してラムセス二世率いるエジプトと衝突し、この結果として史上初の平和条約を締結している。(カデシュ B.C.1285年)やがて中央集権態勢が崩れると同時に地方国家が台頭してき、こうして末期を迎えたヒッタイトは紀元前7世紀頃には完全に消滅する結果となったのである。有史以来、アナトリア、あるいは世界で最も重要なこの民族に属する多くの都市国家(ハットゥシャシュ、ヤズルカヤ、アラジャホユック、カラテペ他)から発見された出土品は、その文化がいかに高度なものであったのかを、時を経て如実に物語っている。


 ◆ウラルト、フリギア
 B.C.1190年頃、ヒッタイトの勢力が徐々に衰退するのと時を同じくして、東アナトリアはヴァン湖一帯に非常に興味深い民族が台頭してきた。ウラルト人である。
彼等がフルリ人の後継者であることを裏付ける品々が発掘され、特に青銅についての深い知識と技術を駆使して、B.C.6世紀までこの広大な大地を舞台に、集落を構えた各地に成熟した文化を実らせていった。アルトゥンテペ、チャヴシテペ等、東アナトリア一帯には彼らの重要な足跡を窺うことができる。 B.C.13世紀以降、未だにルーツが不明な西からのフリギアの民はダーダネルスとボスフォラス海峡を渡り、中央、北部アナトリアに大きな文明を開花させた。トロイ戦争ではアナトリア人(トロイ人)と同盟国の関係にあったとされる。ゴルディオン、アスランカヤ、アリシャー、アラジャ等の各地に居を構えて互いに甲乙付け難い作品を残した彼等も、ペルシアの襲撃(B.C.6世紀)を境に衰退していった。

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