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トラキアとは?遺跡発掘で明らかになった最古の黄金文明やトラキア人の生活
トラキアという地域について、詳しく知っているという方はあまり多くないでしょう。トラキアはバルカン半島の一地帯を指す名称であり、とても長い歴史を持っています。近年の遺跡発掘により、世界最古の黄金文明とされるトラキアの実態が明らかになってきました。
本記事では、トラキアの歴史的変遷やトラキア人の生活などについて、まとめて解説します。
トラキアとは、現在のバルカン半島南東部の地帯を指す古代の呼び名です。現在ではトラキアは3つの国に分かたれ、西トラキアがブルガリアの南東部とギリシャの北東部の一部、東トラキアがトルコのヨーロッパ部分となっています。
トラキアの範囲は時代によって異なり、古代ギリシャ時代には西側はマケドニアに接し、東側は黒海の西岸とマルマラ海の北西部、南側は沿岸部を除いたエーゲ海に囲まれた地域を指していました。現代では、古代ギリシャ時代よりも南側の地域を指してトラキアと呼んでいます。
3か国では現在もトラキアを地名として用いており、トルコの「エディルネ」、ブルガリアの「スタラザゴラ」、ギリシャの「コモティニ」といったトラキア地方の中心街には「トラキア大学」(ギリシャではトラキ大学)という名の大学も存在します。
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トラキアの地には紀元前4000年頃からトラキア人が住んでおり、独自の文化が栄えていたといわれています。しかしトラキア人は文字を持っていなかったため、その文化などは長い間、謎に包まれていました。
今も謎に包まれた部分は多いですが、特にブルガリアにおいて近年トラキア時代の遺跡発掘が進み、次第にその実態が明らかになってきています。
オドリュサイ人は、トラキア人のなかでもっとも強力な部族とされていました。オドリュサイ王国は王による専制君主制を採用し、強力な騎馬軍団によって周辺のトラキア諸部族を征服しました。
オドリュサイ王国の首都は1つではなく、王が各地を巡回していたと考えられています。オドリュサイ王国の国王テレス1世とその息子の1人スパラドコスは、スキタイ(イラン系遊牧国家)やギリシャ植民市と交易関係や貢納関係を結び、国力を充実させました。
セウテス1世の時代になると、王国はエーゲ海沿岸のアブデラからドナウ川にまで拡大していきます。しかし、王国は権力抗争によって次第に分裂し、紀元前341年にはマケドニア王フィリッポス2世によって征服されます。そしてフィリッポス2世の息子アレクサンドロス大王の時代になると、トラキアの全領土がマケドニアに征服されました。
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その後もトラキア人の部族間抗争は相次ぎました。紀元前2世紀からはローマの支配下に入ると、紀元前1世紀にはローマの属州となります。トラキアがローマ帝国のトラキア属州になったことで、オドリュサイ王国は完全に滅亡します。
そして、4世紀からトラキアの東端部にあるビュザンティオンがローマ帝国の新首都「コンスタンティノープル」(現トルコのイスタンブール)になると、トラキアの地は首都近郊の重要な地域となっていきました。
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14世紀以降になると、ガリポリ(現トルコのゲリボル)からダーダネルス海峡を渡ってきたオスマン帝国の勢力がトラキアに迫ります。トラキア地方における中心都市であった「アドリアノプール」がオスマン帝国によって「エディルネ」に改称されると、エディルネはそれまでの都ブルサに代わるオスマン帝国の新しい都となりました。
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エディルネは、1453年に都がイスタンブールに移るまではオスマン帝国の都として、その後はオスマン帝国第2の都市として栄えました。オスマン帝国の支配下では、トラキアにトルコ語を話すムスリム(イスラム教徒)が多く住むようになり、トラキアの地では民族的・宗教的な混在が進んでいきました。
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10世紀頃にはブルガリア帝国、15世紀にはオスマン帝国の支配下に入り、1878年には北部が東ルメリア自治領として分離され、オスマン帝国領に残された部分がトラキアと呼ばれるようになりました。
しかし、その後2度のバルカン戦争や第一次世界大戦によって、トラキアは最終的に現在のようなトルコ、ブルガリア、ギリシャという3か国に分断されることとなりました。
トラキア人とは、その名のとおりトラキアに住んでいた民族を指します。しかし、トラキア人はトラキアのほかにもセルビアやマケドニア、モエシア(現ブルガリア北部)、ビテュニア(現トルコ北西部)にも住んでいました。
現在のルーマニアやモルドバ、ウクライナ中西部、ハンガリー、スロバキアの東部にいたダキア人も同族とされており、アナトリアにいたフリュギア人もトラキアから来たとの言い伝えがあります。
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トラキア人は、新石器時代のヨーロッパ先住民族と青銅器時代初期の原インド・ヨーロッパ民族が融合したものだと考えられています。
トラキア人は文字を扱っていなかったため、未だに謎が多い民族です。しかし、最近になって多くのトラキア関連の発掘がなされ、少しずつトラキアの文化が解明され始めました。ブルガリアにある「トラキア人の墳墓」に描かれていたフレスコ画には、謎が多かったトラキア人たちの生活や戦闘の様子が描かれています。
トラキア人に関する最初の記録は「イリアス」(最古期の古代ギリシャ詩作品)によるものですが、本格的に記録として現れたのは紀元前5世紀からです。古代ギリシャの歴史家ヘロドトスの記録では、当時のトラキア人は人口・勢力ともに有力な民族と記されていました。
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トラキアでは「ディオニュソス」(=ギリシャ神話における豊穣や葡萄酒の神)信仰が盛んであったとされており、ディオニュソスはトラキアに由来するとの説もあります。また、ヘロドトスの歴史書にはトラキア人の奇習(一夫多妻、人身御供/生贄、子売り、火葬)についても記されています。
トラキア人は紀元前12世紀ごろから鉄器の使用を始め、温暖な気候に恵まれた大地で農業生産力を拡大させます。さらに、南のギリシャ植民市との交易を通じて、紀元前6世紀頃から国家形成が始まりました。
トラキア人は元々トラキア語を用いていましたが、次第にギリシャ文化の影響を受けてギリシャ語を公用語・共通語として使うようになります。その後、ローマ帝国に支配されるとトラキア人はギリシャ化(トラキア)またはローマ化(モエシア、ダキア)されたうえ、度重なる他民族の侵入や支配により、トラキア人独自の言語と文化は消滅してしまいました。
現在のブルガリア人の4分の3はトラキア人の末裔といわれています。長い歴史のなかでスラヴ人やブルガール人の支配を受けたあと、現在のブルガリア人となりました。
トラキア人は、エジプトやメソポタミアよりも古くから活躍した勇猛な戦士だったといわれています。トルコのトロイアの木馬で有名なトロイ戦争にも、騎馬民族として参戦していました。
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ローマ時代によく開催された二輪馬車の競技は、トラキア人が最初に行なったといわれています。
古代のトラキアは金や銀、木材の産地として知られていました。勇猛な戦士でもあったトラキア人は、黄金の戦闘服を身に着けてあらゆる戦争で勝利し、その繁栄を誇ったとされています。馬にも金の装飾を施すなど、黄金文明を築いていた部族でした。
トラキア王国の最盛期を築いたセウテス3世の墓からは、王の遺骨ではなく、王冠や杯などの黄金製品が発見されています。トラキア人にとって、輝きを失わない黄金は永遠の魂を象徴する存在だったと考えられており、人々は王の死後も数十年にわたり、黄金の遺品に祈りを捧げたと伝えられています。しかし、トラキア人は文字を持っていなかったため、これらの黄金文明についても長年明るみに出ることがありませんでした。
1972年、黒海沿岸の遺跡からエジプトやメソポタミアよりも古い時代に作られたとされる黄金が見つかります。それをきっかけに、「黄金文明」と呼ばれるほどの大量かつ精巧な金製品がトラキアで発見されるようになりました。
2004年8月にブルガリアで発掘された「トラキア王の黄金のマスク」は、672gもの金を用いた豪華なマスクで、世界的にみても貴重な出土品です。紀元前5世紀後半頃に作られたものと推測されています。
トラキアで発掘されたさまざまな金製品は、トラキア文明以前の先史文化がもっとも繁栄した紀元前5000年半ばから後半のものであることが判明しています。文明の発祥の地といわれるエジプト王朝の確立よりはるか昔に存在していたことを物語っており、「世界最古の黄金文明」とされています。
トルコに属する部分のトラキアはトルコのヨーロッパ側に位置し、トルコ最大の観光都市イスタンブール(Istanbul)、そしてオスマン帝国時代に首都として栄えたエディルネ(Edirne)が含まれます。
イスタンブールには、言わずと知れたブルーモスク(スルタンアフメト・モスク)やアヤソフィア、グランドバザールなど、数多くの有名観光スポット、世界遺産があります。
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エディルネはブルガリアとギリシャの国境にある町で、オスマン帝国の都がイスタンブールに移るまでの約90年間、都として栄えました。この間に建てられたモスクは今でも多く残されており、なかでも世界遺産に登録されている「セリミエ・ジャーミィ」は、トルコの偉大な建築家ミマール・スィナンによって建てられたトルコ随一の美しさを誇るモスクとなっています。
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紀元前4世紀頃に造られたとされる墳墓は保存状態がよく、歴史的価値が高いことから1979年に世界遺産に登録されました。現在見学できるフレスコ画はレプリカですが、精巧に作られているため十分に当時の様子を感じられます。
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カヴァラには「ピリッポイの古代遺跡」や「ビザンツ時代の城塞」といった見どころがあります。
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本記事では、トラキアの歴史的変遷やトラキア人の生活などについて、まとめて解説します。
目次
トラキアとは
トラキアとは、現在のバルカン半島南東部の地帯を指す古代の呼び名です。現在ではトラキアは3つの国に分かたれ、西トラキアがブルガリアの南東部とギリシャの北東部の一部、東トラキアがトルコのヨーロッパ部分となっています。
トラキアの範囲は時代によって異なり、古代ギリシャ時代には西側はマケドニアに接し、東側は黒海の西岸とマルマラ海の北西部、南側は沿岸部を除いたエーゲ海に囲まれた地域を指していました。現代では、古代ギリシャ時代よりも南側の地域を指してトラキアと呼んでいます。
3か国では現在もトラキアを地名として用いており、トルコの「エディルネ」、ブルガリアの「スタラザゴラ」、ギリシャの「コモティニ」といったトラキア地方の中心街には「トラキア大学」(ギリシャではトラキ大学)という名の大学も存在します。
トルコ最西端の古都 エディルネ (アドリア ノー プル) | トルコ旅行専門の人気ナンバーワン旅行会社『ターキッシュエア&トラベル』
トラキアの歴史
トラキアの地には紀元前4000年頃からトラキア人が住んでおり、独自の文化が栄えていたといわれています。しかしトラキア人は文字を持っていなかったため、その文化などは長い間、謎に包まれていました。
今も謎に包まれた部分は多いですが、特にブルガリアにおいて近年トラキア時代の遺跡発掘が進み、次第にその実態が明らかになってきています。
トラキアにあった最大の国家「オドリュサイ王国」
オドリュサイ王国とは、紀元前5世紀~紀元前1世紀に繁栄したとされる、40以上のトラキア人諸部族と22の国で構成された連合国家です。バルカン半島東部において、部族を超えた最初の国家として建設されました。オドリュサイ人は、トラキア人のなかでもっとも強力な部族とされていました。オドリュサイ王国は王による専制君主制を採用し、強力な騎馬軍団によって周辺のトラキア諸部族を征服しました。
オドリュサイ王国の首都は1つではなく、王が各地を巡回していたと考えられています。オドリュサイ王国の国王テレス1世とその息子の1人スパラドコスは、スキタイ(イラン系遊牧国家)やギリシャ植民市と交易関係や貢納関係を結び、国力を充実させました。
セウテス1世の時代になると、王国はエーゲ海沿岸のアブデラからドナウ川にまで拡大していきます。しかし、王国は権力抗争によって次第に分裂し、紀元前341年にはマケドニア王フィリッポス2世によって征服されます。そしてフィリッポス2世の息子アレクサンドロス大王の時代になると、トラキアの全領土がマケドニアに征服されました。
世界を制した若き英雄アレクサンドロス(アレキサンダー)大王|トルコを通って東方遠征! | トルコ旅行専門の人気ナンバーワン旅行会社『ターキッシュエア&トラベル』
その後もトラキア人の部族間抗争は相次ぎました。紀元前2世紀からはローマの支配下に入ると、紀元前1世紀にはローマの属州となります。トラキアがローマ帝国のトラキア属州になったことで、オドリュサイ王国は完全に滅亡します。
ローマ帝国の支配
トラキアがローマ帝国の支配下に入ると、域内にキリスト教が広まっていきます。同時にスラヴ人(中欧・東欧に居住するインド・ヨーロッパ語族、スラヴ語派)が侵入し、ブルガリア語とギリシャ語が主流となっていきました。そして、4世紀からトラキアの東端部にあるビュザンティオンがローマ帝国の新首都「コンスタンティノープル」(現トルコのイスタンブール)になると、トラキアの地は首都近郊の重要な地域となっていきました。
コンスタンティノープルは世界の中心だった!ビザンツ帝国首都の歴史と名前の変遷|トルコを通って東方遠征! | トルコ旅行専門の人気ナンバーワン旅行会社『ターキッシュエア&トラベル』
オスマン帝国の支配
14世紀以降になると、ガリポリ(現トルコのゲリボル)からダーダネルス海峡を渡ってきたオスマン帝国の勢力がトラキアに迫ります。トラキア地方における中心都市であった「アドリアノプール」がオスマン帝国によって「エディルネ」に改称されると、エディルネはそれまでの都ブルサに代わるオスマン帝国の新しい都となりました。
ブルサとジュマルクズクはオスマン帝国発祥の地【トルコ世界遺産】 | トルコ旅行専門の人気ナンバーワン旅行会社『ターキッシュエア&トラベル』
エディルネは、1453年に都がイスタンブールに移るまではオスマン帝国の都として、その後はオスマン帝国第2の都市として栄えました。オスマン帝国の支配下では、トラキアにトルコ語を話すムスリム(イスラム教徒)が多く住むようになり、トラキアの地では民族的・宗教的な混在が進んでいきました。
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現在のトラキア
トラキアにおいては、紀元前6世紀から黒海沿岸にギリシャ人が植民市を建設し、紀元前2世紀からはローマの支配下に入りながらも自治を保持していました。しかし、紀元前1世紀にはローマの属州となっています。10世紀頃にはブルガリア帝国、15世紀にはオスマン帝国の支配下に入り、1878年には北部が東ルメリア自治領として分離され、オスマン帝国領に残された部分がトラキアと呼ばれるようになりました。
しかし、その後2度のバルカン戦争や第一次世界大戦によって、トラキアは最終的に現在のようなトルコ、ブルガリア、ギリシャという3か国に分断されることとなりました。
トラキア人は謎多き民族
トラキア人とは、その名のとおりトラキアに住んでいた民族を指します。しかし、トラキア人はトラキアのほかにもセルビアやマケドニア、モエシア(現ブルガリア北部)、ビテュニア(現トルコ北西部)にも住んでいました。
現在のルーマニアやモルドバ、ウクライナ中西部、ハンガリー、スロバキアの東部にいたダキア人も同族とされており、アナトリアにいたフリュギア人もトラキアから来たとの言い伝えがあります。
アナトリアとは?文明の発祥地である小アジアの歴史や遺跡 | トルコ旅行専門の人気ナンバーワン旅行会社『ターキッシュエア&トラベル』
トラキア人は、新石器時代のヨーロッパ先住民族と青銅器時代初期の原インド・ヨーロッパ民族が融合したものだと考えられています。
トラキア人は文字を扱っていなかったため、未だに謎が多い民族です。しかし、最近になって多くのトラキア関連の発掘がなされ、少しずつトラキアの文化が解明され始めました。ブルガリアにある「トラキア人の墳墓」に描かれていたフレスコ画には、謎が多かったトラキア人たちの生活や戦闘の様子が描かれています。
トラキア人の歴史と生活
トラキア人に関する最初の記録は「イリアス」(最古期の古代ギリシャ詩作品)によるものですが、本格的に記録として現れたのは紀元前5世紀からです。古代ギリシャの歴史家ヘロドトスの記録では、当時のトラキア人は人口・勢力ともに有力な民族と記されていました。
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トラキアでは「ディオニュソス」(=ギリシャ神話における豊穣や葡萄酒の神)信仰が盛んであったとされており、ディオニュソスはトラキアに由来するとの説もあります。また、ヘロドトスの歴史書にはトラキア人の奇習(一夫多妻、人身御供/生贄、子売り、火葬)についても記されています。
トラキア人は紀元前12世紀ごろから鉄器の使用を始め、温暖な気候に恵まれた大地で農業生産力を拡大させます。さらに、南のギリシャ植民市との交易を通じて、紀元前6世紀頃から国家形成が始まりました。
トラキア人は元々トラキア語を用いていましたが、次第にギリシャ文化の影響を受けてギリシャ語を公用語・共通語として使うようになります。その後、ローマ帝国に支配されるとトラキア人はギリシャ化(トラキア)またはローマ化(モエシア、ダキア)されたうえ、度重なる他民族の侵入や支配により、トラキア人独自の言語と文化は消滅してしまいました。
現在のブルガリア人の4分の3はトラキア人の末裔といわれています。長い歴史のなかでスラヴ人やブルガール人の支配を受けたあと、現在のブルガリア人となりました。
トラキア人は勇猛な戦士だった!
トラキア人は、エジプトやメソポタミアよりも古くから活躍した勇猛な戦士だったといわれています。トルコのトロイアの木馬で有名なトロイ戦争にも、騎馬民族として参戦していました。
トロイアの木馬は実在した?神話・史実の全容と木馬の本当の姿とは | トルコ旅行専門の人気ナンバーワン旅行会社『ターキッシュエア&トラベル』
ローマ時代によく開催された二輪馬車の競技は、トラキア人が最初に行なったといわれています。
トラキア人の部族は50以上!
トラキア人は単一民族ではなく、複数の部族に分かれていました。強力だった部族には、トラキア南東部のオドリス族、現ブルガリア北東部のゲタイ族、現ブルガリア南西部のトリバリー族、アナトリアのビティニー族などがおり、全部で50以上もの部族で構成されていたといわれています。有力部族が連合して大きな国を作ることもありました。トラキアは世界最古の黄金文明の地
古代のトラキアは金や銀、木材の産地として知られていました。勇猛な戦士でもあったトラキア人は、黄金の戦闘服を身に着けてあらゆる戦争で勝利し、その繁栄を誇ったとされています。馬にも金の装飾を施すなど、黄金文明を築いていた部族でした。
トラキア王国の最盛期を築いたセウテス3世の墓からは、王の遺骨ではなく、王冠や杯などの黄金製品が発見されています。トラキア人にとって、輝きを失わない黄金は永遠の魂を象徴する存在だったと考えられており、人々は王の死後も数十年にわたり、黄金の遺品に祈りを捧げたと伝えられています。しかし、トラキア人は文字を持っていなかったため、これらの黄金文明についても長年明るみに出ることがありませんでした。
1972年、黒海沿岸の遺跡からエジプトやメソポタミアよりも古い時代に作られたとされる黄金が見つかります。それをきっかけに、「黄金文明」と呼ばれるほどの大量かつ精巧な金製品がトラキアで発見されるようになりました。
2004年8月にブルガリアで発掘された「トラキア王の黄金のマスク」は、672gもの金を用いた豪華なマスクで、世界的にみても貴重な出土品です。紀元前5世紀後半頃に作られたものと推測されています。
トラキアで発掘されたさまざまな金製品は、トラキア文明以前の先史文化がもっとも繁栄した紀元前5000年半ばから後半のものであることが判明しています。文明の発祥の地といわれるエジプト王朝の確立よりはるか昔に存在していたことを物語っており、「世界最古の黄金文明」とされています。
トラキアにある観光スポット
トラキアはトルコ、ブルガリア、ギリシャの3か国に分断されていますが、面積の割合としては約4分の1がトルコ、約10分の1がギリシャ、残りがブルガリアとなっています。トラキアの各地にある観光スポットを紹介します。【トルコ】~イスタンブール、エディルネ~
トルコに属する部分のトラキアはトルコのヨーロッパ側に位置し、トルコ最大の観光都市イスタンブール(Istanbul)、そしてオスマン帝国時代に首都として栄えたエディルネ(Edirne)が含まれます。
イスタンブールには、言わずと知れたブルーモスク(スルタンアフメト・モスク)やアヤソフィア、グランドバザールなど、数多くの有名観光スポット、世界遺産があります。
イスタンブール観光全解説!絶対に行きたいおすすめスポット30選 | トルコ旅行専門の人気ナンバーワン旅行会社『ターキッシュエア&トラベル』
エディルネはブルガリアとギリシャの国境にある町で、オスマン帝国の都がイスタンブールに移るまでの約90年間、都として栄えました。この間に建てられたモスクは今でも多く残されており、なかでも世界遺産に登録されている「セリミエ・ジャーミィ」は、トルコの偉大な建築家ミマール・スィナンによって建てられたトルコ随一の美しさを誇るモスクとなっています。
セリミエ・モスク(文化遺産・2011年) | トルコ旅行専門の人気ナンバーワン旅行会社『ターキッシュエア&トラベル』
【ブルガリア】~カザンラク~
トラキアの大部分はブルガリアが占めていますが、その歴史を知るうえで欠かせないのが「カザンラク(Kazanlak)」という町です。この町には、世界遺産にも登録されている「カザンラクのトラキア人の墳墓」があります。トラキア人の墳墓は、第二次世界大戦において防空壕を掘ろうとした際、偶然発見されました。残念ながらすでに盗掘されたあとでしたが、壁や天井の装飾は幸いにも鮮やかに残されていました。紀元前4世紀頃に造られたとされる墳墓は保存状態がよく、歴史的価値が高いことから1979年に世界遺産に登録されました。現在見学できるフレスコ画はレプリカですが、精巧に作られているため十分に当時の様子を感じられます。
Thracian Tomb of Kazanlak - UNESCO World Heritage Centre
【ギリシャ】~カヴァラ~
ギリシャに属する部分のトラキアは「東マケドニア・トラキア地方」と呼ばれ、ギリシャ領マケドニアの東部と、トラキア(トラキ)のギリシャ領部分(西トラキア)から成っています。首府はコモティニ(Komotini)ですが、東マケドニア・トラキア地方の最大の都市は西部にあるカヴァラ(Kavala)となっています。カヴァラには「ピリッポイの古代遺跡」や「ビザンツ時代の城塞」といった見どころがあります。
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