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イエスの愛弟子「使徒ヨハネ」とはどんな人物?性格や生涯、キリスト教宣教の記録を紹介
キリスト教12使徒のなかでも最重要の人物といえるのが「使徒ヨハネ」です。イエス・キリストにもっとも近い弟子であり、イエスが磔刑になる間際に自身の母マリアを託すほど信頼していた人物です。
ヨハネは12使徒のなかでも一番若く、かつ殉教せずに寿命を全うした唯一の弟子でした。90歳代で亡くなるまで、迫害されながらもイエスの信仰を守り抜き、人々に伝え続けた使徒ヨハネとはどんな人物だったのでしょうか。
本記事では、使徒ヨハネの性格や生涯、キリスト教宣教の記録を紹介します。
「主ヤハウェは恵み深い」という意味のヘブライ語「ヨーハーナーン」が名前の語源である「ヨハネ」は、イエスが愛した弟子の1人です。同じく12使徒であるペテロ、兄ヤコブとともにイエスの3側近の1人として、イエスをもっとも近くで見てきた人物です。
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ちなみに12使徒とは、イエスの教えを伝道するためにイエスの信徒のなかから選ばれた代表的な12人の弟子のことです。イエスの教えは、この12使徒によってキリスト教という宗教へと昇華されました。
ヨハネは12使徒のなかでもっとも若いだけでなく、殉教せずに長生きした唯一の弟子でもあります。イエスの死の間際に母マリアを託され、彼女が被昇天するまで一緒に生活しました。ヨハネは原始キリスト教イスラエル教会の3柱の1人であり、小アジアのエフェソスで宣教に尽力しました。そして、『ヨハネの福音書』『ヨハネの黙示録』『ヨハネの手紙』と多くの書を残したことでも知られています。
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レオナルド・ダ・ヴィンチの有名な絵画『最後の晩餐』をご存知の方は多いでしょう。絵の中央にはイエス・キリストがいますが、その左隣りでもたれかかっている赤いマントの中性的な人物がヨハネです。
ヨハネはイエスに仕えていた当時まだ若く、ひげもなかったため、絵画で描かれる際はたいてい女性のような中性的な外観で描かれています。
なお、兄のヤコブとともに荒い気性で怒りっぽかったため、イエスからは「ボアネルゲス(雷の子)」と呼ばれていました。
※年はおおよそ
ヨハネが10代の時、父ゼベダイと兄ヤコブ、そして同じく漁師であった兄弟ペトロとアンドレとともにガリラヤ湖で漁業を行なっている際、イエスが現れ、弟子として従うよう導きました。ヤコブ・ヨハネ兄弟とペトロ・アンドレ兄弟の4人は、漁師の仕事をやめ、イエスに従うこととなります。
ヨハネとヤコブはもともと洗礼者ヨハネの信徒でしたが、イエスの招きにより洗礼者ヨハネのグループから離脱し、イエスに仕えることとなります。イエスの宣教活動の旅に同行し、イエスが起こした奇跡「ヤイロの娘の復活」や「イエスの変容」をペトロや兄ヤコブとともに目撃しました。
その後、多くのイエスの弟子のなかから「12人の弟子(12使徒)」に選ばれました。
ある日ヨハネは、イエスからユダヤ教の過越(すぎこし:祭日の1つ)の食事を準備するためペトロとともに町へ送られます。しかし、この晩餐が有名な「最後の晩餐」となってしまうのです。
晩餐には12使徒が揃い、ヨハネはイエスのもっとも愛した弟子として横に座ります。イエスが「このなかの1人が私を裏切ろうとしている」と口を開くと、もっとも近くにいたヨハネはイエスの胸元に寄りかかり、「主よ、それは誰でしょう」と尋ねます。イエスは「私がパンを浸して与えるその人である」と言い、パン切れを浸して弟子のユダに与えたのでした。
晩餐のあと、側近のヨハネとヤコブ、ペテロはイエスに従い、オリーブ山のゲツセマネの園に入ります。イエスがこれから起こる十字架刑での死に対する恐怖と苦悩に耐えながら祈っている間、3人はそばで見守っていたものの、やがて眠ってしまいます。イエスは1人、孤独に死の恐怖と戦い、祈っていました。
そこに、松明や武器を手にした軍団がイエスを捕らえにやってきました。なかには裏切者のユダもいます。銀貨30枚で買収されたユダが、イエスを裏切ってユダヤ指導者たちに居場所を教え、引き渡してしまったのです。
イエスは「神を冒涜し、ユダヤ教のあり方を批判して人々を惑わした」という理由でユダヤ教指導者から告発され、ローマ帝国ユダヤ属州総督ピラトの命で捕らえられてしまいます。そしてイエスには死刑判決が下り、罪人の刑である十字架刑に処されることになりました。
イエスが十字架を背負って処刑場であるゴルゴタの丘を登っている間、ヨハネはイエスの母マリアとサロメ、マグダラのマリア、クロパの妻マリアたちと見守ります。そこでイエスは、ヨハネを指して母マリアに「婦人よ、ごらんなさい。これがあなたの息子です」と言い、今度はヨハネに「これがあなたの母です」と呼びかけ、母マリアをヨハネに託したのです。
イエスの死から3日後、マグダラのマリアがイエスの墓を訪れると中は空になっていました。知らせを聞いたヨハネとペトロも駆けつけ、イエスの復活を確認します。
復活したイエスは、弟子たちを使徒として導きます。ヨハネら11人の弟子は、復活したイエスの証人としてイエスの福音を伝える使徒となったのです。
また、イエスから母マリアの身を託されていたため、マリアが被昇天するまで一緒に過ごしたことでも知られています。
ユダヤ王ヘロデ・アグリッパ1世の治世(西暦37~44年)において、キリスト信者たちは迫害され、エルサレムから追い出されました。迫害のなか、兄の使徒ヤコブは捕まってしまい、殉教します。
ヨハネは迫害から逃れるため、小アジアのエフェソスへ避難し、そこでエフェソス教会(会衆)の指導者となりました。一緒に暮らしていた聖母マリアもヨハネとともにエフェソスに移住し、余生を過ごしたといわれています。
エフェソスには、聖母マリアが被昇天したとされる「聖母マリアの家」もあります。
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ローマ帝国内で勢いよく広まった初期のキリスト教ですが、信徒たちは問題を起こしている奇妙なカルト集団だとみられていました。ドミティアヌス帝の治世におけるキリスト教徒の迫害により、ヨハネは捕らえられ、エーゲ海のパトモス島へ流刑されてしまいます。パトモス島は岩の多い、小さな不毛な土地でした。流刑者が働かされた炭鉱もあり、過酷な生活を余儀なくされます。
ある説によれば、捕らえられたヨハネはローマで煮えたぎった油の入った大釜に入れられたものの、奇跡的に無傷で助かったあと、パトモス島に送られたとされています。その結果、奇跡を目の当たりにしたローマ市民の多くがキリスト教に改宗したといわれているのです。
96年頃、ヨハネは流刑地パトモスにて幻想を見ます。そして神からの啓示を受け、黙示録を書くのです。内容は、小アジアの7つの教会(会衆)への手紙、そして、世界の終末やイエス・キリストの再臨、千年王国、サタンとの戦い、最後の審判、新世界の到来などに関する終末預言となっており、これらは新約聖書の最期の書となりました。
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使徒ヨハネは西暦100年頃、エフェソスの地にて老齢により死去しました。遺体はトルコのエーゲ海地方セルチュクの町にある「聖ヨハネ教会」で眠っています。
ヨハネは12使徒のなかでもっとも若く、もっとも長く生き、死ぬまでキリストを信仰した人物でした。
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使徒ヨハネの墓の上に建てられたという「聖ヨハネ教会」は、現トルコのエーゲ海地方セルチュクの町、アヤスルックの丘に建っています。
キリスト教が普及した300年頃、殉教したキリスト教聖人の墓の上に建てられる霊廟 「マルティリウム」が建てられ、350年頃にはその上に木造屋根のバシリカが建てられました。6世紀初頭に地震でマルティリウムが使用不能になったため、527~565年頃にユスティニアヌス帝と皇后テオドラによって、十字に設計された6つのドームと12本の柱を持つ立派な聖堂が再建されました。十字の聖堂の中央にヨハネの墓があるという造りです。
7世紀以降、エフェス市民一同がこの聖堂があるアヤスルックに移住します。そして、エフェソスの司教がこの聖ヨハネ教会に移され、巡礼教会の1つとなりました。ビザンツ帝国時代には東方教会にとって重要な巡礼地となります。現在でも、毎年5月8日に「聖人の日」として、聖ヨハネ教会でお祈りが行なわれています。
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なお、「教会」という名前ではあるものの現在は教会としての機能はなく、遺跡として公開されている状態です。ちなみに、1926年の考古学調査のなかで聖堂の中央からヨハネの墓が発掘されていますが、なかから人骨は見つかりませんでした。
ヨハネは流刑地であったパトモス島で見た幻想のなかで神の啓示を聞き、『ヨハネの黙示録』を執筆します。そのなかには、当時ローマの弾圧により苦しんでいたアジアの7つの主要な原始キリスト教会を激励するため、褒めるべき点と改善すべき点を警告として書いた「7つの教会への手紙」がありました。
もちろん教会といっても聖堂やバシリカなどの教会堂ではありません。聖堂やバシリカが建てられるようになったのは、313年にローマ帝国でキリスト教が公認されてからです。
当時は民家や会堂、洞窟で密かに信仰していたため、キリスト教を信仰する集団・教団である「会衆」のことを教会と呼んでいました。そのため、ヨハネが送った手紙はその地のキリスト教信徒集団に向けてのものということになります。
原始キリスト教で外せないのが、ヨハネやパウロ、聖母マリアも長期滞在した、古代小アジアのエーゲ海地方最大の港町エフェソスです。
古代世界七不思議の1つであるアルテミス神殿があったことからもわかるとおり、エフェソスはアルテミス信仰の中心地でした。また、皇帝崇拝や多神教崇拝などとても複雑な宗教信仰の地でした。当時ヨーロッパとアジアの中継地として栄えた大商業都市エフェソスは大きな人口を抱えていたため、キリスト教宣教のためにも重要な場所とみられたようです。
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聖パウロが宣教活動のなかでエフェソス教会を作ったあと、晩年の使徒ヨハネが同教会の指導者として奉仕したといわれています。
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現在、エフェソス遺跡内の北部には聖母マリア教会の遺構があります。近年の考古学調査の結果、2世紀ハドリアヌス帝の治世(117~118年)頃に建てられ、500年頃にバシリカ様式に増築されたことがわかりました。もとのエフェソス教会があった場所だと推測されています。
また、聖母マリア教会はエフェソス公会議が行なわれた場所としても有名です。この公会議においてマリアが聖母と認められたことで、世界で初めて聖母マリアの名が付けられた教会となりました。
その後、長年主教がいたものの、7世紀に聖ヨハネ教会に主教が移されてからは墓場として使用されるようになりました。
聖ポリュカルポスは聖ヨハネの弟子の1人であり、ヨハネによってスミルナ教会総主教に任命されてこの地に送られました。火炙りにより155年に殉教したあと、弟子によって2世紀に建てられたのが聖ポリュカルポス教会です。
ヨハネの黙示録の「7つの教会」の1つであるスミルナ教会があった場所に建てられたとされており、世界の数ある教会のなかでも最古の教会の1つです。現存する建物は、1690年にフランス王ルイ13世の依頼により、オスマン帝国皇帝スレイマン1世が許可したことで再建されたものであり、地震や火災で数回改修されながら現在に至ります。
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教会内の聖ポリュカルポス殉教の様子を描いたフレスコ画は、今世紀初頭にフランス人建築家レイモンド・ピイによって描かれたものです。
現在はカトリック教会となっていますが、多くの宗派で聖人とされるポリュカルポスの教会であるため、世界中から巡礼に訪れるクリスチャンが宗派を問わずに礼拝できるようになっています。ただし、団体で訪問する際は予約が必要です。
イズミルの中心地にある古代都市スミルナのアゴラ遺跡は、ヘレニズム時代の紀元前4世紀末、アレクサンドロス大王の将軍リュシマコスによって築かれました。177年の大地震後、ローマ皇帝マルクス・アウレリウスの時代に再建されてから7世紀まで、大港都市スミルナの行政や貿易、商業の中心となっていた場所です。
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アゴラの北側には、1~2世紀頃のバシリカの遺構が発見されています。60×30mの長方形のバシリカは地下1階を含めた3階建てで、その上には明かりを灯すための階もあるなど、当時としてはかなり立派な建物であったことがわかっています。
面白いのは、バシリカの壁のギリシャ文字で書かれた落書きです。「アジアで一番はエフェソス」「もっとも大きいのはサルディス」「トラレイスがアジアで一番」などと書かれた落書きからは、古代都市間で競争がなされていたことがわかります。ちなみにトラレイスの町は、イズミルから南東へ約110km、エフェスから東に約50kmの現アイドゥン北部にあった古代都市です。
アゴラの場所は、オスマン帝国時代には墓場やイスラームの野外礼拝所として使用されていました。
7つの手紙の宛先となった教会のなかで唯一場所が明確になっているのが、「クズル・アウル」と呼ばれる神殿にあったペルガモン教会です。
ベルガマにある「アクロポリスの丘」の麓の町中に位置するクズル・アウルは、もともと2世紀初頭のハドリアヌス帝の時代に造られたとされる、エジプトのセラピス神とイシス神をまつった神殿(セラペイオン)でした。赤レンガで作られた高さ20mの壁に囲まれた大きな前庭があることから、地元では赤い前庭を意味する「クズル・アウル」の名で呼ばれています。
密かに活動していたベルガマのキリスト教信仰集団は、313年にキリスト教が承認されると、信者を増やしながらこの神殿でベルガマ教会として信仰を続けます。そして5世紀には、神殿内に聖ヨハネ教会が建設されました。
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その後クズル・アウル内の教会は、8世紀のアラブ人による侵略で壊されてしまい、14世紀初頭からはモスクに変えられてしまいました。
現在、クズル・アウルの塔の一部のみがモスクとして使用されており、全体は野外博物館として一般公開されています。
ヨハネの黙示録の「7つの教会」の1つがあったサルディスは、イズミルから北東へ約82km、現マニサ県サーリフリにあった古代都市です。サルディスの歴史は長く、紀元前1200年代にリディアの首都として建設されてから西暦1200年まで、表舞台で活躍し繁栄した大都市です。
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金の産出で潤い、大きな富を誇ったサルディスは、世界で初めて硬貨が鋳造された場所として、また王の道の始点としても知られています。
サルディス遺跡南東部のアルテミス神殿に寄り添う形で、教会の遺構が見つかっています。4世紀に偶像崇拝が放棄されたあと、教会が建てられたとみられており、5世紀と6世紀に増築されながら、7世紀に起きた地震で崩れるまで教会として使われていました。
ローマの首都がコンスタンティノープルになったあと、ビザンツ帝国時代にはコンスタンティノープル総主教座から東方教会の府主教が送られ、サルディス教会はリディア地方におけるキリスト教の中心地となりました。
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石灰棚で有名なパムッカレから、南約12kmにある古代都市がラオディキアです。
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紀元前3500年には、すでに人々が居住する集落がありました。その後、紀元前261~263年にセレウコス朝の王アンティオコス2世が妻ラオディケアを記念して建設した、5平方kmにもなる壮大な都市です。ラオディキアは、真っ黒な柔らかい毛で有名な羊の飼育と繊維産業、特に「Trimita」という女性用チュニックがローマで流通したことにより、大きな富を成していました。
紀元前130年頃には、ローマ帝国の支配下となりました。ヨハネが手紙を送った7つの教会の1つラオディキア教会があったこの都市には、313年にミラノ勅令でキリスト教が公認されると、教会堂が造られます。そしてキリスト教の巡礼地、およびフリギア地方のキリスト教の中心地となりました。
遺跡の北東部分で発掘されたラオディキア教会は、とても珍しい11の後陣を持つ造りとなっています。また、中央の空間ナオスの床には見事なモザイクが施されており、当時の技術が垣間見られます。特に、ギリシャ語で「プロトディアコン(長輔祭):ポリカルポス」と「ディアコン(輔祭):アレクサンダー」という2人の聖職者の名が書かれた、床の真ん中の赤い十字のモザイクは必見です。
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2010年に発見され、その後本格的に発掘された教会は、保護のための屋根が造られ、見学できるようになっています。ラオディキア遺跡は現在急速に発掘と修復が進んでおり、近い将来エフェソスのように遺跡のほぼ全体が姿を現す予定です。
スミルナ(イズミール)から真東へ130kmの距離にあった古代都市がフィラデルフィアです。ペルガモン王国アッタロス王朝の王アッタロス2世(通称は「兄弟愛」を意味するフィラデルフォス)によって紀元前159年に都市が建設されました。
パウロの宣教活動により、フィラデルフィアは西暦40年頃からキリスト信者が集まる場所となり、フィラデルフィア教会(会衆)が組織されました。
古代都市のほとんどが現在町の下に眠っている状態ですが、6世紀に建てられたとされる壮大な聖ヨハネ教会の一部は発見され、現在野外博物館として見学可能になっています。
クリスチャンでなくても、「キリストのことを知りたい」「新約聖書について知りたい」という方にはぜひ一度見ていただきたい作品です。
ヨハネは12使徒のなかでも一番若く、かつ殉教せずに寿命を全うした唯一の弟子でした。90歳代で亡くなるまで、迫害されながらもイエスの信仰を守り抜き、人々に伝え続けた使徒ヨハネとはどんな人物だったのでしょうか。
本記事では、使徒ヨハネの性格や生涯、キリスト教宣教の記録を紹介します。
目次
使徒ヨハネとはどんな人物?
名前 | ヨハネ、ジョン(英:John)、ヨハネス(ラテン:Iohannes) |
呼称 | 使徒ヨハネ、ゼベダイの子ヨハネ、福音記者ヨハネ |
誕生 | 西暦6年頃12月27日(カトリック)、9月26日(正教会) |
出生地 | イスラエル北部ガリラヤのベツサイダ |
死去 | 西暦100年頃、アナトリアのエフェソスにて |
家族 | 父・ゼベダイ、母・サロメ、兄・使徒ヤコブ(12使徒の1人) |
敬称・地位 | 聖人、使徒 |
元職業 | 漁師 |
象徴 | 鷲、書物、グラスに蛇(毒杯)、大釜 |
「主ヤハウェは恵み深い」という意味のヘブライ語「ヨーハーナーン」が名前の語源である「ヨハネ」は、イエスが愛した弟子の1人です。同じく12使徒であるペテロ、兄ヤコブとともにイエスの3側近の1人として、イエスをもっとも近くで見てきた人物です。
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ちなみに12使徒とは、イエスの教えを伝道するためにイエスの信徒のなかから選ばれた代表的な12人の弟子のことです。イエスの教えは、この12使徒によってキリスト教という宗教へと昇華されました。
ヨハネは12使徒のなかでもっとも若いだけでなく、殉教せずに長生きした唯一の弟子でもあります。イエスの死の間際に母マリアを託され、彼女が被昇天するまで一緒に生活しました。ヨハネは原始キリスト教イスラエル教会の3柱の1人であり、小アジアのエフェソスで宣教に尽力しました。そして、『ヨハネの福音書』『ヨハネの黙示録』『ヨハネの手紙』と多くの書を残したことでも知られています。
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聖書に登場する5人のヨハネ
実は聖書のなかには、使徒ヨハネ以外にもヨハネという名前の人物が出てきます。5人いるうち、使徒ヨハネと洗礼者ヨハネ、ヨハネ・マルコは聖書においても重要な人物です。- 使徒ヨハネ: イエスの愛弟子。12使徒のなかでも最重要人物。
- 洗礼者ヨハネ: ヨルダン川でイエスに洗礼を授けた重要人物。
- ヨハネ・マルコ: 聖バルナバの従兄弟。「マルコによる福音書」を執筆した?
- 使徒ペトロの父・ヨハネ
- エルサレムの大司祭ヨハネ
使徒ヨハネの性格・人物像
レオナルド・ダ・ヴィンチの有名な絵画『最後の晩餐』をご存知の方は多いでしょう。絵の中央にはイエス・キリストがいますが、その左隣りでもたれかかっている赤いマントの中性的な人物がヨハネです。
ヨハネはイエスに仕えていた当時まだ若く、ひげもなかったため、絵画で描かれる際はたいてい女性のような中性的な外観で描かれています。
なお、兄のヤコブとともに荒い気性で怒りっぽかったため、イエスからは「ボアネルゲス(雷の子)」と呼ばれていました。
使徒ヨハネの功績
使徒ヨハネの主な功績は、以下の3点です。- 『ヨハネの福音書』『ヨハネの黙示録』『ヨハネの手紙』の執筆(すべて使徒ヨハネとは別の人物が書いたとする説もあり)
- イエスの復活を信じた最初の人物
- 『ヨハネの黙示録』により原始教会を激励
使徒ヨハネの生涯
イエスのもっとも近くで奉仕したヨハネは、90歳代で亡くなるまで殉教することなく、迫害されながらもイエスの信仰を守り抜き、人々に伝え続けました。そんな使徒ヨハネの生涯を、ここで詳しく紹介します。使徒ヨハネの生涯【略年表】
6年 | イスラエル北部ガリラヤのベツサイダにて誕生。若い頃は父・兄とともに漁業に専念。 |
28~30年 | イエスの弟子として宣教活動に仕える。高い山でのイエスの変容を見守る。 |
30年 | 最期の晩餐の支度をする。 |
30年 | イエスが磔刑となり、イエスから聖母マリアの身を託される。 |
30年 | 刑の3日後に復活したイエスと会う。 |
30~40年 | エルサレム教会の指導者の1人として活躍する。 |
34~42年頃 | エフェソスに移り住み、エフェソス教会の指導者となる。 |
51年? | エルサレム使徒会議に出席する。 |
80~98年 | 『ヨハネの福音書』を執筆する。 |
90~95年 | 『ヨハネの書簡 1~3』を執筆する。 |
95~98年 | パトモス島に追放され、そこで『ヨハネの黙示録』を執筆する。 |
98~100年 | 余生をエフェソスで暮らす。 |
100年 | エフェソスで死去する。 |
生い立ち
西暦6年頃、イスラエル北部ガリラヤのベツサイダにて、ヨハネは裕福な漁師であった父ゼベダイと母サロメの間に誕生しました。兄は12使徒の1人である聖ヤコブであり、母サロメはイエスの母マリアと姉妹の可能性があるといわれています。イエスと出会い、弟子になる
ヨハネが10代の時、父ゼベダイと兄ヤコブ、そして同じく漁師であった兄弟ペトロとアンドレとともにガリラヤ湖で漁業を行なっている際、イエスが現れ、弟子として従うよう導きました。ヤコブ・ヨハネ兄弟とペトロ・アンドレ兄弟の4人は、漁師の仕事をやめ、イエスに従うこととなります。
ヨハネとヤコブはもともと洗礼者ヨハネの信徒でしたが、イエスの招きにより洗礼者ヨハネのグループから離脱し、イエスに仕えることとなります。イエスの宣教活動の旅に同行し、イエスが起こした奇跡「ヤイロの娘の復活」や「イエスの変容」をペトロや兄ヤコブとともに目撃しました。
その後、多くのイエスの弟子のなかから「12人の弟子(12使徒)」に選ばれました。
イエスの死を見届ける
自身を「神の御子」と語るイエスの信者が増えてくると、ユダヤ教指導者たちや支配者たちは、イエスを脅威とみなすようになりました。ある日ヨハネは、イエスからユダヤ教の過越(すぎこし:祭日の1つ)の食事を準備するためペトロとともに町へ送られます。しかし、この晩餐が有名な「最後の晩餐」となってしまうのです。
晩餐には12使徒が揃い、ヨハネはイエスのもっとも愛した弟子として横に座ります。イエスが「このなかの1人が私を裏切ろうとしている」と口を開くと、もっとも近くにいたヨハネはイエスの胸元に寄りかかり、「主よ、それは誰でしょう」と尋ねます。イエスは「私がパンを浸して与えるその人である」と言い、パン切れを浸して弟子のユダに与えたのでした。
晩餐のあと、側近のヨハネとヤコブ、ペテロはイエスに従い、オリーブ山のゲツセマネの園に入ります。イエスがこれから起こる十字架刑での死に対する恐怖と苦悩に耐えながら祈っている間、3人はそばで見守っていたものの、やがて眠ってしまいます。イエスは1人、孤独に死の恐怖と戦い、祈っていました。
そこに、松明や武器を手にした軍団がイエスを捕らえにやってきました。なかには裏切者のユダもいます。銀貨30枚で買収されたユダが、イエスを裏切ってユダヤ指導者たちに居場所を教え、引き渡してしまったのです。
イエスは「神を冒涜し、ユダヤ教のあり方を批判して人々を惑わした」という理由でユダヤ教指導者から告発され、ローマ帝国ユダヤ属州総督ピラトの命で捕らえられてしまいます。そしてイエスには死刑判決が下り、罪人の刑である十字架刑に処されることになりました。
イエスが十字架を背負って処刑場であるゴルゴタの丘を登っている間、ヨハネはイエスの母マリアとサロメ、マグダラのマリア、クロパの妻マリアたちと見守ります。そこでイエスは、ヨハネを指して母マリアに「婦人よ、ごらんなさい。これがあなたの息子です」と言い、今度はヨハネに「これがあなたの母です」と呼びかけ、母マリアをヨハネに託したのです。
イエスの復活を確認
イエスの死から3日後、マグダラのマリアがイエスの墓を訪れると中は空になっていました。知らせを聞いたヨハネとペトロも駆けつけ、イエスの復活を確認します。
復活したイエスは、弟子たちを使徒として導きます。ヨハネら11人の弟子は、復活したイエスの証人としてイエスの福音を伝える使徒となったのです。
宣教へ
ヨハネはエルサレム教会の指導者の1人として、ペトロとともに福音の伝道と教会の設立、指導のために重要な役割を果たしました。その過程では、ペトロとともにソロモンの回廊で足の不自由な男を癒し、民衆に説教したことで投獄されたこともありました。また、イエスから母マリアの身を託されていたため、マリアが被昇天するまで一緒に過ごしたことでも知られています。
エフェソスへ
ユダヤ王ヘロデ・アグリッパ1世の治世(西暦37~44年)において、キリスト信者たちは迫害され、エルサレムから追い出されました。迫害のなか、兄の使徒ヤコブは捕まってしまい、殉教します。
ヨハネは迫害から逃れるため、小アジアのエフェソスへ避難し、そこでエフェソス教会(会衆)の指導者となりました。一緒に暮らしていた聖母マリアもヨハネとともにエフェソスに移住し、余生を過ごしたといわれています。
エフェソスには、聖母マリアが被昇天したとされる「聖母マリアの家」もあります。
エフェソス遺跡の見どころ46選 | トルコ旅行専門の人気ナンバーワン旅行会社『ターキッシュエア&トラベル』
流刑地パトモス島で黙示録を執筆
ローマ帝国内で勢いよく広まった初期のキリスト教ですが、信徒たちは問題を起こしている奇妙なカルト集団だとみられていました。ドミティアヌス帝の治世におけるキリスト教徒の迫害により、ヨハネは捕らえられ、エーゲ海のパトモス島へ流刑されてしまいます。パトモス島は岩の多い、小さな不毛な土地でした。流刑者が働かされた炭鉱もあり、過酷な生活を余儀なくされます。
ある説によれば、捕らえられたヨハネはローマで煮えたぎった油の入った大釜に入れられたものの、奇跡的に無傷で助かったあと、パトモス島に送られたとされています。その結果、奇跡を目の当たりにしたローマ市民の多くがキリスト教に改宗したといわれているのです。
96年頃、ヨハネは流刑地パトモスにて幻想を見ます。そして神からの啓示を受け、黙示録を書くのです。内容は、小アジアの7つの教会(会衆)への手紙、そして、世界の終末やイエス・キリストの再臨、千年王国、サタンとの戦い、最後の審判、新世界の到来などに関する終末預言となっており、これらは新約聖書の最期の書となりました。
余生をエフェソスで
皇帝ドミティアヌスが死去した97年頃、釈放されたヨハネはエフェソスに帰り、余生を過ごします。ポリュカルポスが弟子となり、彼をスミルナ(現イズミル)の教会の指導者(司教)として任命します。また、アンティオキアの第2代司教となるイグナティオスとヒエラポリスのパピアスもヨハネの弟子だったといわれています。イズミル観光完全ガイド!おすすめスポット30選やグルメ・ホテル情報 | トルコ旅行専門の人気ナンバーワン旅行会社『ターキッシュエア&トラベル』
使徒ヨハネは西暦100年頃、エフェソスの地にて老齢により死去しました。遺体はトルコのエーゲ海地方セルチュクの町にある「聖ヨハネ教会」で眠っています。
ヨハネは12使徒のなかでもっとも若く、もっとも長く生き、死ぬまでキリストを信仰した人物でした。
エフェソス遺跡(文化遺産・2015年) | トルコ旅行専門の人気ナンバーワン旅行会社『ターキッシュエア&トラベル』
ヨハネの墓がある「聖ヨハネ教会遺跡」
使徒ヨハネの墓の上に建てられたという「聖ヨハネ教会」は、現トルコのエーゲ海地方セルチュクの町、アヤスルックの丘に建っています。
キリスト教が普及した300年頃、殉教したキリスト教聖人の墓の上に建てられる霊廟 「マルティリウム」が建てられ、350年頃にはその上に木造屋根のバシリカが建てられました。6世紀初頭に地震でマルティリウムが使用不能になったため、527~565年頃にユスティニアヌス帝と皇后テオドラによって、十字に設計された6つのドームと12本の柱を持つ立派な聖堂が再建されました。十字の聖堂の中央にヨハネの墓があるという造りです。
7世紀以降、エフェス市民一同がこの聖堂があるアヤスルックに移住します。そして、エフェソスの司教がこの聖ヨハネ教会に移され、巡礼教会の1つとなりました。ビザンツ帝国時代には東方教会にとって重要な巡礼地となります。現在でも、毎年5月8日に「聖人の日」として、聖ヨハネ教会でお祈りが行なわれています。
ビザンツ帝国(東ローマ帝国)とは?千年の繁栄と歩みをわかりやすく徹底解説! | トルコ旅行専門の人気ナンバーワン旅行会社『ターキッシュエア&トラベル』
なお、「教会」という名前ではあるものの現在は教会としての機能はなく、遺跡として公開されている状態です。ちなみに、1926年の考古学調査のなかで聖堂の中央からヨハネの墓が発掘されていますが、なかから人骨は見つかりませんでした。
名称 | 聖ヨハネ教会(St.John Kilisesi) |
場所 | Atatürk, St. Jean Cd., 35920 Selçuk/İzmir, トルコ |
定休日 | なし |
開館時間 | ・夏季(4/1~10/31):08:00~18:00 ・冬季(11/1~3/31):08:30~16:30 ※最終入場は閉館の30分前まで ※砂糖祭と犠牲祭の初日は13:00より開館 |
入場料 | 30TL |
『ヨハネの黙示録』の「7つの教会」
ヨハネは流刑地であったパトモス島で見た幻想のなかで神の啓示を聞き、『ヨハネの黙示録』を執筆します。そのなかには、当時ローマの弾圧により苦しんでいたアジアの7つの主要な原始キリスト教会を激励するため、褒めるべき点と改善すべき点を警告として書いた「7つの教会への手紙」がありました。
もちろん教会といっても聖堂やバシリカなどの教会堂ではありません。聖堂やバシリカが建てられるようになったのは、313年にローマ帝国でキリスト教が公認されてからです。
当時は民家や会堂、洞窟で密かに信仰していたため、キリスト教を信仰する集団・教団である「会衆」のことを教会と呼んでいました。そのため、ヨハネが送った手紙はその地のキリスト教信徒集団に向けてのものということになります。
7つの教会はトルコに!教会の場所とメッセージ
7つの手紙の宛先と内容は、それぞれ以下のとおりでした。- 第一の手紙(ヨハネの黙示録2章1-7節、エフェソス教会/現セルチュクのエフェス): 勤勉で奉仕し辛抱強いが、最初の愛から離れてしまった。
- 第二の手紙(ヨハネの黙示録2章8-11節、スミルナ教会/現イズミール): 苦しく貧しくても迫害に耐えて信仰を守った霊的に豊かな教会。死ぬまで忠実であれ!
- 第三の手紙現ベルガマ(ヨハネの黙示録2章12-17節、ペルガモン教会): サタンの玉座があるが信仰をよく守った。しかし誤った指導者のための悔い改めが必要!
- 第四の手紙(ヨハネの黙示録2章18-29節、ティヤティラ教会/現アクヒサル): 初めよりも愛と信仰と奉仕と忍耐を持っている。しかし、誤った偽預言者がなすままにしている。私(主)が来るまで今ある信仰を固く守れ!
- 第五の手紙(ヨハネの黙示録3章1-6節、サルディス教会/現サーリフリ): 霊的に死んだような眠りに落ちた教会。行ないが全うしたといえない。何を受けて聞いたのか思い出して悔い改め目覚めよ!
- 第六の手紙(ヨハネの黙示録3章7-13節、フィラデルフィア教会/現アラシェヒル): 主に忠実で信仰を貫き辛抱強く耐える教会。誰も閉めることのできない門を置いておいた!今ある純粋な信仰を守りなさい!
- 第七の手紙(ヨハネの黙示録3章14-22節、ラオディケイア教会/現デニズリ): 神に対し熱くも冷たくもないぬるく味気ない教会。自分は豊かで富んでいるというが霊的に哀れで貧しく盲目で裸であることを知らない。熱心になり悔い改めよ!
西トルコにたくさん!使徒ヨハネゆかりの場所
使徒ヨハネが迫害から逃げて住み着いた小アジアのエフェス、そして黙示録に記載されている7つの教会など、トルコには使徒ヨハネに関するゆかりの場所が数多く存在しています。ヨハネゆかりの地をたどる旅として、ぜひトルコへ出かけてみてください。第一の教会エフェソス:「エフェソス遺跡内 聖母マリア教会」
原始キリスト教で外せないのが、ヨハネやパウロ、聖母マリアも長期滞在した、古代小アジアのエーゲ海地方最大の港町エフェソスです。
古代世界七不思議の1つであるアルテミス神殿があったことからもわかるとおり、エフェソスはアルテミス信仰の中心地でした。また、皇帝崇拝や多神教崇拝などとても複雑な宗教信仰の地でした。当時ヨーロッパとアジアの中継地として栄えた大商業都市エフェソスは大きな人口を抱えていたため、キリスト教宣教のためにも重要な場所とみられたようです。
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聖パウロが宣教活動のなかでエフェソス教会を作ったあと、晩年の使徒ヨハネが同教会の指導者として奉仕したといわれています。
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現在、エフェソス遺跡内の北部には聖母マリア教会の遺構があります。近年の考古学調査の結果、2世紀ハドリアヌス帝の治世(117~118年)頃に建てられ、500年頃にバシリカ様式に増築されたことがわかりました。もとのエフェソス教会があった場所だと推測されています。
また、聖母マリア教会はエフェソス公会議が行なわれた場所としても有名です。この公会議においてマリアが聖母と認められたことで、世界で初めて聖母マリアの名が付けられた教会となりました。
その後、長年主教がいたものの、7世紀に聖ヨハネ教会に主教が移されてからは墓場として使用されるようになりました。
名称 | エフェソス遺跡内聖母マリア教会(Efes Örenyeri içi Maryemana kilisesi) |
場所 | Efes Harabeleri, 35920 Selçuk/İzmir- Turkey |
定休日 | なし |
開館時間 | ・夏季(4/1~10/31):08:00~19:30 ・冬季(11/1~3/31):08:30~17:00 ※最終入場は閉館の30分前まで ※砂糖祭と犠牲祭の初日は13:00より開館 |
入場料 | 120TL |
第二の教会スミルナ:「聖ポリュカルポス教会」
聖ポリュカルポスは聖ヨハネの弟子の1人であり、ヨハネによってスミルナ教会総主教に任命されてこの地に送られました。火炙りにより155年に殉教したあと、弟子によって2世紀に建てられたのが聖ポリュカルポス教会です。
ヨハネの黙示録の「7つの教会」の1つであるスミルナ教会があった場所に建てられたとされており、世界の数ある教会のなかでも最古の教会の1つです。現存する建物は、1690年にフランス王ルイ13世の依頼により、オスマン帝国皇帝スレイマン1世が許可したことで再建されたものであり、地震や火災で数回改修されながら現在に至ります。
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教会内の聖ポリュカルポス殉教の様子を描いたフレスコ画は、今世紀初頭にフランス人建築家レイモンド・ピイによって描かれたものです。
現在はカトリック教会となっていますが、多くの宗派で聖人とされるポリュカルポスの教会であるため、世界中から巡礼に訪れるクリスチャンが宗派を問わずに礼拝できるようになっています。ただし、団体で訪問する際は予約が必要です。
名称 | 聖ポリュカルポス教会(Aziz Polikarp Kilisesi) |
場所 | Necati Bey Blv. no:2/A, 35210 Konak / İzmir - Turkey |
見学不可日 | 日曜 ※日曜礼拝参加可能 |
見学可能時間 | 平日15:00~17:00 ※礼拝の有無により事前連絡なしに見学不可となります。 |
入館料 | なし ※寄付金歓迎 |
注意 | 宗教施設であるため、肌を露出した格好は控えてください。女性は軽くかぶれるショールを用意しましょう。また、博物館ではなく教会であるため、礼拝が始まると見学可能時間でも入れません。礼拝前の見学をおすすめします。 |
電話番号 | +90 (232) 484 84 36 |
スミルナ「古代アゴラ遺跡」
イズミルの中心地にある古代都市スミルナのアゴラ遺跡は、ヘレニズム時代の紀元前4世紀末、アレクサンドロス大王の将軍リュシマコスによって築かれました。177年の大地震後、ローマ皇帝マルクス・アウレリウスの時代に再建されてから7世紀まで、大港都市スミルナの行政や貿易、商業の中心となっていた場所です。
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アゴラの北側には、1~2世紀頃のバシリカの遺構が発見されています。60×30mの長方形のバシリカは地下1階を含めた3階建てで、その上には明かりを灯すための階もあるなど、当時としてはかなり立派な建物であったことがわかっています。
面白いのは、バシリカの壁のギリシャ文字で書かれた落書きです。「アジアで一番はエフェソス」「もっとも大きいのはサルディス」「トラレイスがアジアで一番」などと書かれた落書きからは、古代都市間で競争がなされていたことがわかります。ちなみにトラレイスの町は、イズミルから南東へ約110km、エフェスから東に約50kmの現アイドゥン北部にあった古代都市です。
アゴラの場所は、オスマン帝国時代には墓場やイスラームの野外礼拝所として使用されていました。
名称 | アゴラ遺跡(Agora Ören yeri) |
場所 | Namazgah Mah, Tarık Sarı Sk. No:29, Konak/ İzmir - Turkey |
定休日 | なし |
開館時間 | ・夏季(4/1~10/31):08:30~19:00 ・冬季(11/1~3/31):08:30~17:30 ※最終入場は閉館の30分前まで ※砂糖祭と犠牲祭の初日は13:00より開館 |
入場料 | 25TL |
第三の教会ペルガモン:「クズル・アウル」
7つの手紙の宛先となった教会のなかで唯一場所が明確になっているのが、「クズル・アウル」と呼ばれる神殿にあったペルガモン教会です。
ベルガマにある「アクロポリスの丘」の麓の町中に位置するクズル・アウルは、もともと2世紀初頭のハドリアヌス帝の時代に造られたとされる、エジプトのセラピス神とイシス神をまつった神殿(セラペイオン)でした。赤レンガで作られた高さ20mの壁に囲まれた大きな前庭があることから、地元では赤い前庭を意味する「クズル・アウル」の名で呼ばれています。
密かに活動していたベルガマのキリスト教信仰集団は、313年にキリスト教が承認されると、信者を増やしながらこの神殿でベルガマ教会として信仰を続けます。そして5世紀には、神殿内に聖ヨハネ教会が建設されました。
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その後クズル・アウル内の教会は、8世紀のアラブ人による侵略で壊されてしまい、14世紀初頭からはモスクに変えられてしまいました。
現在、クズル・アウルの塔の一部のみがモスクとして使用されており、全体は野外博物館として一般公開されています。
名称 | ベルガマ・クズルアウル(Bergama Kızılavlu) |
場所 | İslamsaray, 35700 Bergama/İzmir- Turkey |
定休日 | なし |
開館時間 | ・夏季(4/1~10/31):08:00~19:00 ・冬季(11/1~3/31):08:30~17: 30 ※最終入場は閉館の30分前まで ※砂糖祭と犠牲祭の初日は13:00より開館 |
入場料 | 12.5TL |
第四の教会サルディス:「サルディス遺跡」
ヨハネの黙示録の「7つの教会」の1つがあったサルディスは、イズミルから北東へ約82km、現マニサ県サーリフリにあった古代都市です。サルディスの歴史は長く、紀元前1200年代にリディアの首都として建設されてから西暦1200年まで、表舞台で活躍し繁栄した大都市です。
サルディス遺跡 | トルコ旅行専門の人気ナンバーワン旅行会社『ターキッシュエア&トラベル』
金の産出で潤い、大きな富を誇ったサルディスは、世界で初めて硬貨が鋳造された場所として、また王の道の始点としても知られています。
サルディス遺跡南東部のアルテミス神殿に寄り添う形で、教会の遺構が見つかっています。4世紀に偶像崇拝が放棄されたあと、教会が建てられたとみられており、5世紀と6世紀に増築されながら、7世紀に起きた地震で崩れるまで教会として使われていました。
ローマの首都がコンスタンティノープルになったあと、ビザンツ帝国時代にはコンスタンティノープル総主教座から東方教会の府主教が送られ、サルディス教会はリディア地方におけるキリスト教の中心地となりました。
コンスタンティノープルは世界の中心だった!ビザンツ帝国首都の歴史と名前の変遷 | トルコ旅行専門の人気ナンバーワン旅行会社『ターキッシュエア&トラベル』
名称 | サルディス遺跡(Sardes Ören yeri) |
場所 | Zafer, Belediye Cd. No:124, 45300 Salihli/Manisa - Turkey |
定休日 | なし |
開館時間 | ・夏季(4/1~10/31):08:00~19:00 ・冬季(11/1~3/31):08:00~17:00 ※最終入場は閉館の30分前まで ※砂糖祭と犠牲祭の初日は13:00より開館 |
入場料 | 17.5TL |
第五の教会ラオディキア:「ラオディキア遺跡」
石灰棚で有名なパムッカレから、南約12kmにある古代都市がラオディキアです。
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紀元前3500年には、すでに人々が居住する集落がありました。その後、紀元前261~263年にセレウコス朝の王アンティオコス2世が妻ラオディケアを記念して建設した、5平方kmにもなる壮大な都市です。ラオディキアは、真っ黒な柔らかい毛で有名な羊の飼育と繊維産業、特に「Trimita」という女性用チュニックがローマで流通したことにより、大きな富を成していました。
紀元前130年頃には、ローマ帝国の支配下となりました。ヨハネが手紙を送った7つの教会の1つラオディキア教会があったこの都市には、313年にミラノ勅令でキリスト教が公認されると、教会堂が造られます。そしてキリスト教の巡礼地、およびフリギア地方のキリスト教の中心地となりました。
遺跡の北東部分で発掘されたラオディキア教会は、とても珍しい11の後陣を持つ造りとなっています。また、中央の空間ナオスの床には見事なモザイクが施されており、当時の技術が垣間見られます。特に、ギリシャ語で「プロトディアコン(長輔祭):ポリカルポス」と「ディアコン(輔祭):アレクサンダー」という2人の聖職者の名が書かれた、床の真ん中の赤い十字のモザイクは必見です。
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2010年に発見され、その後本格的に発掘された教会は、保護のための屋根が造られ、見学できるようになっています。ラオディキア遺跡は現在急速に発掘と修復が進んでおり、近い将来エフェソスのように遺跡のほぼ全体が姿を現す予定です。
名称 | ラオディキア遺跡(Laodikeia Ören yeri) |
場所 | Goncalı, 20000 Merkez, Pamukkale/Denizli - Turkey |
定休日 | なし |
開館時間 | ・夏季(4/1~10/31):08:00~19:00 ・冬季(11/1~3/31):08:00~17:00 ※最終入場は閉館の30分前まで ※砂糖祭と犠牲祭の初日は13:00より開館 |
入場料 | 37 TL |
第七の教会フィラデルフィア:「聖ヨハネ教会遺跡」
スミルナ(イズミール)から真東へ130kmの距離にあった古代都市がフィラデルフィアです。ペルガモン王国アッタロス王朝の王アッタロス2世(通称は「兄弟愛」を意味するフィラデルフォス)によって紀元前159年に都市が建設されました。
パウロの宣教活動により、フィラデルフィアは西暦40年頃からキリスト信者が集まる場所となり、フィラデルフィア教会(会衆)が組織されました。
古代都市のほとんどが現在町の下に眠っている状態ですが、6世紀に建てられたとされる壮大な聖ヨハネ教会の一部は発見され、現在野外博物館として見学可能になっています。
名称 | 聖ヨハネ教会遺跡(St. Jean kilisesi) |
場所 | Soğuksu, İsmet Paşa Cd. No:114, 45600 Alaşehir/Manisa - Turkey |
定休日 | なし |
開館時間 | 08:00~17:00 ※最終入場は閉館の15分前まで |
入場料 | 無料 |
映画『新約聖書~ヨハネの福音書~』
2003年に公開された映画『新約聖書 ~ヨハネの福音書~』は、「ヨハネの福音書」を忠実に描いたストーリーです。英題が「THE VISUAL BIBLE~THE GOSPEL OF JOHN」となっているとおり、新約聖書をそのままビジュアル化したような見ごたえのある映画となっています。クリスチャンでなくても、「キリストのことを知りたい」「新約聖書について知りたい」という方にはぜひ一度見ていただきたい作品です。