トルコの人気世界遺産
カルス県「アニ遺跡」のご紹介(文化遺産・2016年)
トルコ名:ANİ ANTİK KENTİ
トルコの東の果て、アルパチャイ川がアルメニア共和国との国境で、その川の傍にあるのがアニ遺跡です。カルス地方の要地アニは、アナトリアとアジアの交点でシルクロードの貿易路線上に位置した事から当時の裕福な商業重要都市の一つとなり、歴史を通して常に重要視されてきました。それにより、民族の興亡が激しく、歴史上様々な民族が支配する運命を辿ることになります。遺跡からはアルメニア建築だけでなく、ビザンティンやセルジュークやグルジアやオスマン建築の21の遺構を目にすることができます。
荒野に残るかつてのアルメニア王国の首都アニ、一歩踏み入れると別世界の光景が広がり、昔の繁栄した頃の町の面影を思い浮かべることができる広大な遺跡です。
最初の集落がここにいつ形成されたかは明確になっていませんが、紀元前5000年頃から人が住み始めたと言われており、6世紀にアルメニア系カムサラカン家のアルメニア侯国に属する要塞地として初めて名前が出る様になります。カムサラカン家と同じくアルメニア系のバグラトゥニ家の長年の抗争の末、バグラトゥニ家が勝利した結果、780年代にカムサラカン家は財産をバグラトゥニ家に売り払い、ビザンツ帝国へ移民しました。
その後この地はイスラーム王朝のウマイヤ朝やアッバース朝に支配されましたが、9世紀後半に周辺のビザンツ帝国とアッバース朝からバグラトゥニ家の首領アショット1世に王冠が送られ、884年にアルメニア国王として戴冠しました。その後、10世紀にバグラトゥニ朝アルメニアの都となったのをきっかけにアニは歴史の表舞台に登場しました。
バグラトゥニ朝アルメニアの王であるアソット3世が961年に首都をアニに移すと、都市は再建され文化と経済の中心地・周辺諸国への交易地点として繁栄しました。因みに、歴代バグラトゥニ朝の王の霊廟はアニに建てられています。
1319年の突然の地震で大きな被害を受け、1380年代にティムールに奪われてからこの町は荒廃し、1441年にはアルメニア総主教の座がアニから現在のアルメニア共和国の首都エレバンに移されましたが、 それにもかかわらず、1535年のオスマン帝国とサファヴィー朝ペルシア戦争で放棄されるまで、一部の住民はこの都市に住み続けていたことが解っています。
16世紀1579年にオスマン帝国の領土に組み込まれた後、17世紀中期頃迄は小規模な街が僅かに残っていましたが、1735年迄にアニは完全に放棄されました。
1918年第一次世界大戦末期にオスマン帝国によってこの地はトルコに取り戻されましたが、1918年10月にオスマン帝国が降伏し、一時新しく創設されたアルメニア共和国の手に渡りましたが、1920年独立戦争中にトルコがアルメニア第一共和国に攻撃を開始し再びトルコがアニを取り戻し、1921年のカルス条約によりアニ及び周辺地域は新設されたトルコ共和国の領土となり現在に至ります。
現在、カルス側からアルメニア国境の塔が目にでき、7世紀前半に建築された要塞も見られます。セルジューク時代からの二つのモスク、隊商宿、そしてハマムの跡等が残っています。
朽ちた後も、かつての栄光を思い浮かべることが出来るロマンにあふれた遺跡です。
周囲には二重の城壁が設けられ、7ケ所に設置された都市の入り口の門のうち、“獅子の門”をくぐって町に入っていたとの事です。
992年にアルメニア東方教会総主教がアニに移されたことにより、この都市は首都としての機能だけでなく、アルメニア東方教会の中心地ともなりました。それにより、最盛期の10世紀後半から11世紀初頭にかけて、教会や聖堂等のキリスト教施設が建設され、現在のアルメニア共和国にもこの時代の教会が多く残っています。
現在に残るアニ遺跡の主な見所
現在アニ遺跡では計40以上もの教会、チャペル、墓が見つかっています。
建物として残っているのは21か所ですが、2011年より発掘と修復作業が続いているので、今後も新たな発見があるかもしれません。
ここではアニ遺跡観光で見逃すことができない主な見所を数か所ご紹介いたします。
アニ大聖堂と呼ばれる聖マリア教会。アニの中で最大で最重要の大聖堂です。イスタンブールのアヤソフィアのドームを修理したことで有名なアルメニア人建築家トゥルダト(Trdat)により、スムバト2世の時代989年に建設が始まり、一時期建設中断がありましたが、ギガク1世の時代1001年に完成しました。
ドーム型のバシリカと閉じたギリシャの十字架を同時に使用して形成された構造をしており、赤い凝灰岩で作られた階段状の床に建てられています。真ん中のネイブと言われる教会中央部分は、他のネイブよりも幅が広く、ドームで覆われています。後陣(アプス)の両側には付随物が追加されています。また、大聖堂の西には人民の門、北に総主教の門、南に王の門の3つの入り口があります。
尚、大聖堂の外壁には、低いレリーフの状態で編み込みと葉のモチーフが、形式化した形でレースの様に施されているのが特徴です。
1064年にセルジューク朝がアニ城を征服した際に、この大聖堂の十字架が降ろされ、1124年のモンゴル系キプチャク・ハン国が侵略するまでの60年間モスクとして使用された歴史を持ちます。その頃ここは、「フェトヒエ・モスク(征服モスク)」と呼ばれていたそうです。
1319年の地震でドームが崩壊し修復されましたが、元の形とは違う立方体の形で作られ、それも1832年の地震で崩壊しました。1988年の地震により北西と南西の角にひびが入り、1998年までに屋根の一部が崩れ落ち始め、2000年代に川の対岸にあるアルメニアの採石場でのダイナマイト爆発がより損害を与える結果となりました。現在、鋼の支柱で補強された東の壁は、崩壊の危機に瀕しています。
この碑文によると、1035年頃に司令官のAblgarib Pahlavidと言う人がコンスタンティノープルに訪れ、そこでギリシャの皇帝ミカエルから聖十字架の一部を受け取り、アニに戻った後にこれを保護する為にこの教会をたてさせ、イエス・キリストの再臨(復活)まで夜間の礼拝を命じたとの事です。1193年に巡礼者が宿泊する為のツインの外ホールが増設されましたが、現在まで残念ながら外壁に擦れた接続部の跡だけが残っているのみです。
また碑文には、1342年にヴァフラム・ザカリド(Vahram Zakarid)皇子が、建築家ヴァシル(Vasil)にドームの修復を命じたと書かれています。
この建物は19世紀まで無傷のまま残り、1912年のロシアの発掘隊により東側外壁の石の大部分が修復されましたが、1957年の嵐の際に東半分がばっさりと崩壊してしまいました。1989年の地震の際にも損害を受けた後、2012年に鉄製の支柱で補強され崩壊が進むのを塞いでいます。
因みに、崩壊前のこの教会の外面はかなり珍しい19面の多角形でした。教会の高くなっている頭の部分は円形に造られています。頭の部分が教会の床より大きな直径であることは、この教会のデザインの一番印象的な要素となっています。
この教会はティグラン・ホネンツ(Tigran Honents)という名の裕福な商人によって建てられ、1215年に完成しました。 アルメニア教会の伝統を示す豊かなフレスコ画で飾られており、フレスコ画はキリスト教をアルメニア人にもたらした聖グリゴル/クリコル・ルサヴォリッチの生涯の場面が表されています。
教会の東側外壁に残る碑文には下記が刻まれています。
“664年(西暦1215年)、神の恵みによって、アニの街の領主が力強く強力なザカリアだったとき...私、神のしもべ、オネンツ家のスレム・スムバトレントの息子ティグラン、私の主人とその子供たちの長寿の為に、崖の端とこの茂みから出ないこの場所で、聖グレゴリーの名に捧げてこの修道院を建てさせ、法の下に許可された私の富で所有者から買い取り、大きな労力と出費を掛けてあらゆる面から防衛を強化しました。 私はこの教会を聖グレゴル・ルサヴォリッチの名において建て、たくさんの装飾品で美しくしました。”
教会内部は、同年代に描かれたフレスコ画で覆われており、「イエス・キリストの生涯」と、この教会が捧げられている「聖グリゴル・ルサヴォリッチの生涯」の2つが主要なテーマとして描かれています。
このフレスコ画はアニ遺跡の中でも最も美しく、見逃せないスポットの一つです。
この教会は、アニ遺跡の北西にあるボスタンラル渓谷の上城壁の近くの大地にアルメニアのバフラヴニ王朝クリコール王子の命令で、彼の弟ハムゼと妹セダのための休憩所として、聖グリゴル・ルサヴォリッチの名に捧げて980年に建てられました。アニ遺跡の中で一番保存状態の良い遺跡でもあります。
円筒形の教会は八角形のドームを持ち、ドームの基部は深く、お互いに貫き通った薄い柱によって支えられた6つの角柱で支えられています。
また、この教会の碑文には、1047年にセルチュク朝との戦いで戦死したアルメニアの英雄ヴァフラム・バフラヴニの名が頻繁に言及されています。
尚、家族教会として造られた教会の為、周辺には家族の墓も存在しています。2012年の修復の際に周辺から人骨や台所の炉の跡等が発見され、調査の後に再度土をかけて埋めたとの事です。
天井は色味のある石で造られた幾何学的な飾りがあります。
モスクは全て軽石を使用して建てられました。 長方形の聖域は、5つの柱によって3つの通路に分割されており、通路内の各セクションは正方形につくられ、 これらのセクションは異なる設計のヴォールトで覆われています。 建物は北西の角にあるドアから入りますが、建物の北側にも2番目の入り口があり、これはミナレットへの扉となっています。 この北側の面に隣接するミナレットは、八角形に設計されて建てられました。ミナレットの本体には銘板もあります。
モスクに属する碑文には、建物の建設日に関する情報が刻まれています。
“最も偉大で最も慈悲深いアッラーの名において。このモスクとミナレットの建設と言う大きな命は、偉大な首長サブルの息子シュジャウッデヴレ・エブ・スジャ・マヌーチェフルにより、私たちの主、偉大なシャー、東西のスルタン、征服の父アルパルスランの息子メリック・シャーの時代に命じられました。”
尚、近代に入っての1096年からは、アニ遺跡から発掘された物を保管する博物館として使用されたことも有りました。
モスク内から渓谷を眺める景色は絶景ですので、お見逃しなく!シルクロード橋も見えます。
アニの周囲を囲む城壁はバグラトゥニ王国が防衛のために築きました。初めにバグラトゥニ王国対ビザンツ帝国、その次はビザンツ帝国対セルジューク朝トルコ等、様々な侵略者との戦いで血に染められた歴史を持ち、特にグルチア人とモンゴル人が攻めてきた時に損傷した部分の壁は貴重で、現在も残っています。
城壁の長さは4,500m、土地の傾斜に応じて場所によって高さ8メートルに達する城壁は、西暦967年から989年に2つの城壁システムとして建設され、最後の城壁システムはセルジューク朝の征服後1064年から1065年に建設されました。
城壁は赤と黄色の凝灰岩で場所によって2列、3列の形をし、石灰で煮たホラサン・モルタルで作られ、土地に合う様に三角小間(スパンドレル)の形で建てられています。壁の内側と外側には、十字架のモチーフ、ライオンとヘビのレリーフ、碑文、タイルの装飾があります。
城壁にはウゥルン門(UĞURUN Kapı)、カルス門(KARS Kapısı)、獅子門(ASLANLI Kapı)、地下貯水池の門(SARNIÇLI Kapı), アジェマゥル門(ACEMAĞILI/ACEMOĞLU Kapısı)、ムームー渓谷の門(MIĞMIĞ Deresi Kapısı)の7つの入り口となる門があり、正面玄関である獅子門は、2つの大きな門で構成されています。これらの門の中で最も重要なのは獅子門、カルス門、そして地下貯水池の門です。 城壁を長い包囲に耐えるようにするために城壁の間に建てられた支持塔は、食料や穀物の貯蔵庫としても使用されていました。
1965年から196年の間に行われた発掘の後、修理および保護がなされなかった為、露出した部分が破損してしまいました。 現在、ハマムの温まる所の場所は正確に判断できますが、他の部分は地下に埋まっているため判断出来ていません。 発掘時に掘った土はハマムのすぐ近くに集められていたため、その後、ハマムの礎石が低い位置にあったのも相成ってこの土が出土したハマムの中に再度入り込んでしまっています。
ハマムは、マヌーチェフルのモスクに近いため、マヌーチェフル(1064-1110)の治世中1070年から1090年頃に建てられた可能性があると示唆されています。
・定休日 :無し
・開館時間 :夏季(4/1~10/31) 08:00~19:00
冬季(11/1~3/31) 08:80~17:00
※最終入場時間は閉館時間の1時間前
※砂糖祭り及び犠牲祭の初日は13:00より開館
・入場料 : 15 TL
アニには宿泊施設はありませんので、宿泊を予定の方はカルスを拠点に手配して下さい。
カルスには空港がありますが、日本からの直行便はありませんので、一旦イスタンブールへ向かわなくてはなりません。
イスタンブールからカルスへの行き方
イスタンブールより国内線、長距離バス、鉄道にてカルスへ行く事が可能です。但、イスタンブールからカルスまではトルコの東から西まで横断するかなりの長距離となりますので、国内線での移動をおすすめします。
・国内線の場合 : 1時間55分。 ※一日に1~2本運行。
・長距離バスの場合 : 約21時間 ※METRO TURIZM等のバス会社から1日に1本運行。
・鉄道(DOĞU EXPRESİ)の場合:アンカラからカルスまで 約25時間
※カルス行のドウ・エクスプレス(東エクスプレス)はアンカラ発着となるので、イスタンブールよりアンカラまで国内線or長距離バスor高速鉄道にて移動した後、アンカラ駅よりドウ・エクスプレスに乗車となります。
※ドウ・エクスプレスはアンカラ~カルスを結ぶ寝台列車で年間数十万人が利用する現在トルコで大変人気の観光鉄道です。かなりの人気の為、常に満席状態でチケットが取り辛くなっているので、利用を検討の方はかなり早くからチケットのご予約・購入することをおすすめします。
最初の集落がここにいつ形成されたか明確になっていないが、10世紀にバーグラティド一族の都となったのをきっかけに歴史の表舞台に登場してきた。
その後に一族がアニヘ遷都した後も重要性には何の陰りも見られなかった。
11世紀にセルジュークの、13世紀初期にはグルジアの支配下に入り、16世紀の初期になってオスマン帝国の領土に組み込まれた。 1878年になると帝政ロシアの手に落ち、この状態は1917年2月ロマノフ朝崩壊のロシア革命まで続いた。この半世紀の間でロシアのエス
プリを反映する建造物が造られたせいで、カルスは今でもそこはかとなくロシアの町並みを彷彿とさせるのである。
カルスからアニへの行き方
カルスからアニまで約45km、車で約40分。タクシー、市内の旅行会社のツアー、公共ミニバスにてアニへ行くことができます。
・ミニバスの場合:カルスの町の中心地よりカルス発アニ行きのミニバスが一日に2本運行しています。帰りも同じくアニ発カルス行きが2本のみあるので、お見逃しの無い様にお気を付けください。
カルスでの発着場所:Gazi Ahmet Muhtar Paşa Konağı
カルス発アニ行き <夏季> 09:00、13:00 <冬季>10:00
アニ発カルス行き <夏季> 11:30、15:30 <冬季>13:30
トルコ東の果て、アルメニア国家の古都 アニ
トルコの東の果て、アルパチャイ川がアルメニア共和国との国境で、その川の傍にあるのがアニ遺跡です。カルス地方の要地アニは、アナトリアとアジアの交点でシルクロードの貿易路線上に位置した事から当時の裕福な商業重要都市の一つとなり、歴史を通して常に重要視されてきました。それにより、民族の興亡が激しく、歴史上様々な民族が支配する運命を辿ることになります。遺跡からはアルメニア建築だけでなく、ビザンティンやセルジュークやグルジアやオスマン建築の21の遺構を目にすることができます。
荒野に残るかつてのアルメニア王国の首都アニ、一歩踏み入れると別世界の光景が広がり、昔の繁栄した頃の町の面影を思い浮かべることができる広大な遺跡です。
アニの地理的特徴
アニが古くから居住地として使用されてきた2つの重要な理由があります。 1つ目は安全性で、 アニの南東を通るアルパ川(Arpa Çayı)と渓谷、北西にあるアラジャス(Alacasu)と渓谷により自然に保護された高台の為、自然の要塞となっていることです。 2番目の重要な理由は水資源で、街の水需要は高流量のアルパ川によって満たされている事です。アニの歴史
アルメニアの首都としての歴史最初の集落がここにいつ形成されたかは明確になっていませんが、紀元前5000年頃から人が住み始めたと言われており、6世紀にアルメニア系カムサラカン家のアルメニア侯国に属する要塞地として初めて名前が出る様になります。カムサラカン家と同じくアルメニア系のバグラトゥニ家の長年の抗争の末、バグラトゥニ家が勝利した結果、780年代にカムサラカン家は財産をバグラトゥニ家に売り払い、ビザンツ帝国へ移民しました。
その後この地はイスラーム王朝のウマイヤ朝やアッバース朝に支配されましたが、9世紀後半に周辺のビザンツ帝国とアッバース朝からバグラトゥニ家の首領アショット1世に王冠が送られ、884年にアルメニア国王として戴冠しました。その後、10世紀にバグラトゥニ朝アルメニアの都となったのをきっかけにアニは歴史の表舞台に登場しました。
バグラトゥニ朝アルメニアの王であるアソット3世が961年に首都をアニに移すと、都市は再建され文化と経済の中心地・周辺諸国への交易地点として繁栄しました。因みに、歴代バグラトゥニ朝の王の霊廟はアニに建てられています。
中世アニの支配者の興亡
1045年にビザンツ帝国により無力状態にさせられたこの国は、1064年にセルジューク朝トルコの2代目スルタンのアルプ・アルスランの手に譲渡され、1072年にアニはセルジューク朝よりシャッダード朝クルド王国に売却されるも、1199年にはグルジア王国のタマラ女王によってグルジアの支配下に入ると、女王が統治権を与えたグルジア将軍ザカリアン家がアルメニア・グルジア軍を率いて統治し、この頃アニは再度繁栄しました。1319年の突然の地震で大きな被害を受け、1380年代にティムールに奪われてからこの町は荒廃し、1441年にはアルメニア総主教の座がアニから現在のアルメニア共和国の首都エレバンに移されましたが、 それにもかかわらず、1535年のオスマン帝国とサファヴィー朝ペルシア戦争で放棄されるまで、一部の住民はこの都市に住み続けていたことが解っています。
16世紀1579年にオスマン帝国の領土に組み込まれた後、17世紀中期頃迄は小規模な街が僅かに残っていましたが、1735年迄にアニは完全に放棄されました。
近代においてのアニ
オスマン帝国末期のオスマン帝国・ロシア戦争(露土戦争)後1878年にベルリン条約によりこの地は帝政ロシアの手に落ち、ロシアの支配が1917年2月ロマノフ朝崩壊のロシア革命まで続くことになります。ロシア革命までの半世紀の間でロシアのエスプリを反映する建造物が造られたことにより、アニから48㎞離れたカルスは、今でもどことなくロシアの町並みを彷彿とさせる雰囲気を持っています。またこの期間1892年よりアニでの考古学的発掘作業が始められ1917年まで毎年行われました。1918年第一次世界大戦末期にオスマン帝国によってこの地はトルコに取り戻されましたが、1918年10月にオスマン帝国が降伏し、一時新しく創設されたアルメニア共和国の手に渡りましたが、1920年独立戦争中にトルコがアルメニア第一共和国に攻撃を開始し再びトルコがアニを取り戻し、1921年のカルス条約によりアニ及び周辺地域は新設されたトルコ共和国の領土となり現在に至ります。
現在、カルス側からアルメニア国境の塔が目にでき、7世紀前半に建築された要塞も見られます。セルジューク時代からの二つのモスク、隊商宿、そしてハマムの跡等が残っています。
朽ちた後も、かつての栄光を思い浮かべることが出来るロマンにあふれた遺跡です。
1001つの教会の都としてのアニ
最盛期のアニは、「1001つの教会の都市」「40の門の都市」と知られた程繁栄を極め、最盛期であったサムバト2世と息子ガギク1世の時代の10世紀後半から11世紀前半にかけて、78ヘクタールの土地に、4500mの城壁に囲まれたアニの人口は10万人以上であったと言います。周囲には二重の城壁が設けられ、7ケ所に設置された都市の入り口の門のうち、“獅子の門”をくぐって町に入っていたとの事です。
992年にアルメニア東方教会総主教がアニに移されたことにより、この都市は首都としての機能だけでなく、アルメニア東方教会の中心地ともなりました。それにより、最盛期の10世紀後半から11世紀初頭にかけて、教会や聖堂等のキリスト教施設が建設され、現在のアルメニア共和国にもこの時代の教会が多く残っています。
世界遺産としてのアニ
アニは2016年に「アニ考古遺跡」として世界遺産に登録されました。登録されているのは遺跡内にある21の建物です。現在に残るアニ遺跡の主な見所
現在アニ遺跡では計40以上もの教会、チャペル、墓が見つかっています。
建物として残っているのは21か所ですが、2011年より発掘と修復作業が続いているので、今後も新たな発見があるかもしれません。
ここではアニ遺跡観光で見逃すことができない主な見所を数か所ご紹介いたします。
アニ大聖堂(ANİ KATEDRAL)
アニ大聖堂と呼ばれる聖マリア教会。アニの中で最大で最重要の大聖堂です。イスタンブールのアヤソフィアのドームを修理したことで有名なアルメニア人建築家トゥルダト(Trdat)により、スムバト2世の時代989年に建設が始まり、一時期建設中断がありましたが、ギガク1世の時代1001年に完成しました。
ドーム型のバシリカと閉じたギリシャの十字架を同時に使用して形成された構造をしており、赤い凝灰岩で作られた階段状の床に建てられています。真ん中のネイブと言われる教会中央部分は、他のネイブよりも幅が広く、ドームで覆われています。後陣(アプス)の両側には付随物が追加されています。また、大聖堂の西には人民の門、北に総主教の門、南に王の門の3つの入り口があります。
尚、大聖堂の外壁には、低いレリーフの状態で編み込みと葉のモチーフが、形式化した形でレースの様に施されているのが特徴です。
1064年にセルジューク朝がアニ城を征服した際に、この大聖堂の十字架が降ろされ、1124年のモンゴル系キプチャク・ハン国が侵略するまでの60年間モスクとして使用された歴史を持ちます。その頃ここは、「フェトヒエ・モスク(征服モスク)」と呼ばれていたそうです。
1319年の地震でドームが崩壊し修復されましたが、元の形とは違う立方体の形で作られ、それも1832年の地震で崩壊しました。1988年の地震により北西と南西の角にひびが入り、1998年までに屋根の一部が崩れ落ち始め、2000年代に川の対岸にあるアルメニアの採石場でのダイナマイト爆発がより損害を与える結果となりました。現在、鋼の支柱で補強された東の壁は、崩壊の危機に瀕しています。
ハラスカル/聖プリキッチ教会 (HARASKAR/AMENAPRGİÇ KİLİSESİ)
上から下へ半分にスパっと切った様に半面のみ残っているこの教会は、壁に刻まれた碑文からその詳細が解り、この碑文によると、1035年頃に司令官のAblgarib Pahlavidと言う人がコンスタンティノープルに訪れ、そこでギリシャの皇帝ミカエルから聖十字架の一部を受け取り、アニに戻った後にこれを保護する為にこの教会をたてさせ、イエス・キリストの再臨(復活)まで夜間の礼拝を命じたとの事です。1193年に巡礼者が宿泊する為のツインの外ホールが増設されましたが、現在まで残念ながら外壁に擦れた接続部の跡だけが残っているのみです。
また碑文には、1342年にヴァフラム・ザカリド(Vahram Zakarid)皇子が、建築家ヴァシル(Vasil)にドームの修復を命じたと書かれています。
この建物は19世紀まで無傷のまま残り、1912年のロシアの発掘隊により東側外壁の石の大部分が修復されましたが、1957年の嵐の際に東半分がばっさりと崩壊してしまいました。1989年の地震の際にも損害を受けた後、2012年に鉄製の支柱で補強され崩壊が進むのを塞いでいます。
因みに、崩壊前のこの教会の外面はかなり珍しい19面の多角形でした。教会の高くなっている頭の部分は円形に造られています。頭の部分が教会の床より大きな直径であることは、この教会のデザインの一番印象的な要素となっています。
ティグラン・ホネンツ聖グリゴル教会 (TİKRAN HONENTZ AZİZ GRİGOR/KRİKOR KİLİSESİ)
この教会はティグラン・ホネンツ(Tigran Honents)という名の裕福な商人によって建てられ、1215年に完成しました。 アルメニア教会の伝統を示す豊かなフレスコ画で飾られており、フレスコ画はキリスト教をアルメニア人にもたらした聖グリゴル/クリコル・ルサヴォリッチの生涯の場面が表されています。
教会の東側外壁に残る碑文には下記が刻まれています。
“664年(西暦1215年)、神の恵みによって、アニの街の領主が力強く強力なザカリアだったとき...私、神のしもべ、オネンツ家のスレム・スムバトレントの息子ティグラン、私の主人とその子供たちの長寿の為に、崖の端とこの茂みから出ないこの場所で、聖グレゴリーの名に捧げてこの修道院を建てさせ、法の下に許可された私の富で所有者から買い取り、大きな労力と出費を掛けてあらゆる面から防衛を強化しました。 私はこの教会を聖グレゴル・ルサヴォリッチの名において建て、たくさんの装飾品で美しくしました。”
教会内部は、同年代に描かれたフレスコ画で覆われており、「イエス・キリストの生涯」と、この教会が捧げられている「聖グリゴル・ルサヴォリッチの生涯」の2つが主要なテーマとして描かれています。
このフレスコ画はアニ遺跡の中でも最も美しく、見逃せないスポットの一つです。
アブガミル(Abughamrents)の聖グリゴル教会 (ABUGAMİR PAHLAVUNİ/PALADOĞLU KİLİSESİ)
この教会は、アニ遺跡の北西にあるボスタンラル渓谷の上城壁の近くの大地にアルメニアのバフラヴニ王朝クリコール王子の命令で、彼の弟ハムゼと妹セダのための休憩所として、聖グリゴル・ルサヴォリッチの名に捧げて980年に建てられました。アニ遺跡の中で一番保存状態の良い遺跡でもあります。
円筒形の教会は八角形のドームを持ち、ドームの基部は深く、お互いに貫き通った薄い柱によって支えられた6つの角柱で支えられています。
また、この教会の碑文には、1047年にセルチュク朝との戦いで戦死したアルメニアの英雄ヴァフラム・バフラヴニの名が頻繁に言及されています。
尚、家族教会として造られた教会の為、周辺には家族の墓も存在しています。2012年の修復の際に周辺から人骨や台所の炉の跡等が発見され、調査の後に再度土をかけて埋めたとの事です。
マヌーチェフルのモスク(EBU’L MENUÇEHR CAMİİ)
セルジューク朝に属するシャッダード朝クルド王国が支配していた時代の1072年、エブル・マヌーチェフル(Ebû'l Menuçehr)公によりアナトリア(現トルコ共和国領土内)で初めて作られた現存する最古のモスクです。天井は色味のある石で造られた幾何学的な飾りがあります。
モスクは全て軽石を使用して建てられました。 長方形の聖域は、5つの柱によって3つの通路に分割されており、通路内の各セクションは正方形につくられ、 これらのセクションは異なる設計のヴォールトで覆われています。 建物は北西の角にあるドアから入りますが、建物の北側にも2番目の入り口があり、これはミナレットへの扉となっています。 この北側の面に隣接するミナレットは、八角形に設計されて建てられました。ミナレットの本体には銘板もあります。
モスクに属する碑文には、建物の建設日に関する情報が刻まれています。
“最も偉大で最も慈悲深いアッラーの名において。このモスクとミナレットの建設と言う大きな命は、偉大な首長サブルの息子シュジャウッデヴレ・エブ・スジャ・マヌーチェフルにより、私たちの主、偉大なシャー、東西のスルタン、征服の父アルパルスランの息子メリック・シャーの時代に命じられました。”
尚、近代に入っての1096年からは、アニ遺跡から発掘された物を保管する博物館として使用されたことも有りました。
モスク内から渓谷を眺める景色は絶景ですので、お見逃しなく!シルクロード橋も見えます。
アニ城壁 (ANİ ŞEHİR SURLARI)
アニの周囲を囲む城壁はバグラトゥニ王国が防衛のために築きました。初めにバグラトゥニ王国対ビザンツ帝国、その次はビザンツ帝国対セルジューク朝トルコ等、様々な侵略者との戦いで血に染められた歴史を持ち、特にグルチア人とモンゴル人が攻めてきた時に損傷した部分の壁は貴重で、現在も残っています。
城壁の長さは4,500m、土地の傾斜に応じて場所によって高さ8メートルに達する城壁は、西暦967年から989年に2つの城壁システムとして建設され、最後の城壁システムはセルジューク朝の征服後1064年から1065年に建設されました。
城壁は赤と黄色の凝灰岩で場所によって2列、3列の形をし、石灰で煮たホラサン・モルタルで作られ、土地に合う様に三角小間(スパンドレル)の形で建てられています。壁の内側と外側には、十字架のモチーフ、ライオンとヘビのレリーフ、碑文、タイルの装飾があります。
城壁にはウゥルン門(UĞURUN Kapı)、カルス門(KARS Kapısı)、獅子門(ASLANLI Kapı)、地下貯水池の門(SARNIÇLI Kapı), アジェマゥル門(ACEMAĞILI/ACEMOĞLU Kapısı)、ムームー渓谷の門(MIĞMIĞ Deresi Kapısı)の7つの入り口となる門があり、正面玄関である獅子門は、2つの大きな門で構成されています。これらの門の中で最も重要なのは獅子門、カルス門、そして地下貯水池の門です。 城壁を長い包囲に耐えるようにするために城壁の間に建てられた支持塔は、食料や穀物の貯蔵庫としても使用されていました。
セルチュクハマム(SELÇUK HAMAMI)/マヌーチェフルのハマム(MANUÇEHR HAMAMI)
ハマムの壁は、平らな部分は軽石で中は瓦礫を詰める技術で作られており、壁面は内部から断熱する為に石膏で固められています。1965年から196年の間に行われた発掘の後、修理および保護がなされなかった為、露出した部分が破損してしまいました。 現在、ハマムの温まる所の場所は正確に判断できますが、他の部分は地下に埋まっているため判断出来ていません。 発掘時に掘った土はハマムのすぐ近くに集められていたため、その後、ハマムの礎石が低い位置にあったのも相成ってこの土が出土したハマムの中に再度入り込んでしまっています。
ハマムは、マヌーチェフルのモスクに近いため、マヌーチェフル(1064-1110)の治世中1070年から1090年頃に建てられた可能性があると示唆されています。
キュチュック(小)ハマム (KÜÇÜK HAMAM)
1990年から1991年の発掘中に発見されました。ハマムは12世紀のセルジューク時代の建物の1つであり、1215年よりも前に造られたと推測されます。4つの個室、1つのメインボイラー室、2つの廊下、1つの更衣室で構成される複合施設です。ハマムの天井は完全に崩壊し、お風呂の水需要を満たす内壁の素焼きの土管(水道管)は今日まで残っています。ハマムは発掘後に補強はされましたが、修復工事はまだ行われていません。アニ遺跡観光情報
・場所 :Şehitler, Şehitlik Caddesi No:87, 36000 Ocaklı/Kars Merkez/Kars・定休日 :無し
・開館時間 :夏季(4/1~10/31) 08:00~19:00
冬季(11/1~3/31) 08:80~17:00
※最終入場時間は閉館時間の1時間前
※砂糖祭り及び犠牲祭の初日は13:00より開館
・入場料 : 15 TL
アニへのアクセス
イスタンブールから東へ約1,480㎞、アルメニアとの国境に接しているトルコの東部カルス県にアニはあります。アニには宿泊施設はありませんので、宿泊を予定の方はカルスを拠点に手配して下さい。
カルスには空港がありますが、日本からの直行便はありませんので、一旦イスタンブールへ向かわなくてはなりません。
イスタンブールからカルスへの行き方
イスタンブールより国内線、長距離バス、鉄道にてカルスへ行く事が可能です。但、イスタンブールからカルスまではトルコの東から西まで横断するかなりの長距離となりますので、国内線での移動をおすすめします。
・国内線の場合 : 1時間55分。 ※一日に1~2本運行。
・長距離バスの場合 : 約21時間 ※METRO TURIZM等のバス会社から1日に1本運行。
・鉄道(DOĞU EXPRESİ)の場合:アンカラからカルスまで 約25時間
※カルス行のドウ・エクスプレス(東エクスプレス)はアンカラ発着となるので、イスタンブールよりアンカラまで国内線or長距離バスor高速鉄道にて移動した後、アンカラ駅よりドウ・エクスプレスに乗車となります。
※ドウ・エクスプレスはアンカラ~カルスを結ぶ寝台列車で年間数十万人が利用する現在トルコで大変人気の観光鉄道です。かなりの人気の為、常に満席状態でチケットが取り辛くなっているので、利用を検討の方はかなり早くからチケットのご予約・購入することをおすすめします。
カルス県
最初の集落がここにいつ形成されたか明確になっていないが、10世紀にバーグラティド一族の都となったのをきっかけに歴史の表舞台に登場してきた。
その後に一族がアニヘ遷都した後も重要性には何の陰りも見られなかった。
11世紀にセルジュークの、13世紀初期にはグルジアの支配下に入り、16世紀の初期になってオスマン帝国の領土に組み込まれた。 1878年になると帝政ロシアの手に落ち、この状態は1917年2月ロマノフ朝崩壊のロシア革命まで続いた。この半世紀の間でロシアのエス
プリを反映する建造物が造られたせいで、カルスは今でもそこはかとなくロシアの町並みを彷彿とさせるのである。
カルスからアニへの行き方
カルスからアニまで約45km、車で約40分。タクシー、市内の旅行会社のツアー、公共ミニバスにてアニへ行くことができます。
・ミニバスの場合:カルスの町の中心地よりカルス発アニ行きのミニバスが一日に2本運行しています。帰りも同じくアニ発カルス行きが2本のみあるので、お見逃しの無い様にお気を付けください。
カルスでの発着場所:Gazi Ahmet Muhtar Paşa Konağı
カルス発アニ行き <夏季> 09:00、13:00 <冬季>10:00
アニ発カルス行き <夏季> 11:30、15:30 <冬季>13:30