トルコの人気世界遺産
クサントス遺跡・レトゥーン遺跡(文化遺産・1988年)
トルコ南部地中海沿いに栄えた、ギリシャ神話やホメロスのイリアスにも何度も登場する海洋民族古代リュキア/リキアの首都「クサントス」と聖なる地「レトゥーン(レトーン)」。
ユネスコ世界遺産に登録されたかつての繁栄を物語る二つの遺跡は、現在リゾート地にも近く人気の観光スポットになっています。
クサントスとはギリシァ語で黄色を意味し、トルコ南部地中海沿岸のアンタルヤ県西部カシュ郡クヌック村にあるエシェン川の傍の盆地を囲む二つの丘の上に造られた古代リュキア王国の首都の遺跡です。
一つ目の丘にはエシェン川の岸から急な岩肌の形で高くなっている城壁に囲まれたリキア・アクロポリス、2つ目の北部の丘にはより高く広いローマ・アクロポリスがありました。
この町の名前は、リキア語で記された碑文ではARNNA、ヒッタイトやルウィ語ではARINNAの名で知られており、重要な都市でありました。
このクサントスに関しては、古代ギリシャ・ローマのホメロス、ヘロドロス、ストラボン、アッピノス等の歴史家達がこぞって記しています。
ホメロスの“イリアス”では、紀元前1184年にグラウカスとサルペドンが率いるクサントス部隊がクサントス川(現エシェン川)の土地を出発してトロイ戦争に参戦したことが記されています。ただ、クサントスの考古学的発掘では、紀元前8世紀より古い遺構が出てきていません。しかし、リキアで最古の都市クサントスはホメロスの時代紀元前8世紀には確実に実在していたと言われています。
因みに、トロイ戦争で戦死したアキレウスが保有していた不死で言葉が話せると言う馬の名前もクサントスと言います。
紀元前4世紀までは独立して自由を誇っていたクサントスですが、紀元前545年にアケメネス朝ペルシャの名将ハルパゴスの軍隊に包囲されると、抵抗していた市民たちはもはやこれまでと悟り敵に降伏するよりも死を選びました。まず男が女や子供を殺し、城塞にすべての財産を集めて火を放ち焼き払いました。そして最後まで闘い抜くことを誓い全員戦死を遂げ、無人化・荒廃化した形でクサントスがハルパゴスの手に渡ったとヘロドトスが述べています。
紀元前475~450年には、この地は火災に苛まれてしまいます。紀元前334年にアレクサンドロス大王がクサントスを占領し、大王の死後の紀元前309年からはエジプトのプトレマイオス朝の支配下になり、その後は他の多くのリキアの都市と同じくセレウコス朝シリアのアンティオコス3世の支配下になることを受け入れざるを得ませんでした。
紀元前168年にリュキア同盟の首都となったクサントスは、紀元前42年にローマの内戦に巻き込まれ、ブルータスの攻撃を受けました。略奪と破壊はすさまじく、わずか150人の市民がようやく生き残ったと言います。その後にどうにかマルクス・アントニウス帝の努力によって再建されました。
西暦1世紀のローマ支配下のクサントスでは、皇帝ウィスパシヌスの名で凱旋門が造られました。
因みに、現在に残るローマ時代の遺構の殆どはこの時代に建てられたものです。
ビザンツ帝国時代に司教の中心地となったクサントスは、この時代に多くの新しい建物を建て、行政や商業の要地となった時期もありましたが、7世紀以降のアラブ人の侵略破壊から立ち直ることはできず自都市としての重要性を失い、その後はクヌック村の一部の小さな村として1938年まで密かに存在していました。
クサントスの遺跡は1838年に英国の考古学者チャールズ・フェローが発掘を行いました。劇場は2世紀のものですが恐らくもっと古くから在ったものをローマ風に変えたことが解っています。
残念ながらチャールズ・フェローは、「ネーレーイスの記念碑」とともに多くの作品を英国博物館に持ち去ってしまいました。劇場の西には、クサントスで一番有名な「ハーピーの墓」と呼ばれるモニュメントが残っていますが、オリジナルはロンドンの大英博物館に展示されていて、クサントスにあるのはレプリカになります。
「ハーピーの墓」の隣には4世紀に造られた台座のあるリキア時代の石棺があります。
劇場の端にある広い正方形の場所は、三方をお店で囲まれたローマ時代のアゴラになります。
アゴラの北東の角には、ハーピーの墓と非常によく似た一枚板の長方形の本体にリキア語とギリシャの語で書かれた碑文が残る紀元前5世紀の霊廟があります。その碑文は今までに見つかった中でリキア語として一番長い碑文であり、Khereiと言う名のクサントスの王子の冒険を記しています。
ローマ・アクロポリスでは、多くの岩窟墓と一枚岩の墓が並んで見られます。しかし、この地の南の裾にあるライオンの墓、パ・ヴァヤ(Pa vay)とメルヒ(Merehi)の石棺の一枚板を除く全てが取り去られて現在は大英博物館に展示されています。
現在、遺構に出る坂の右脇には、基礎部分のみ残った紀元前4世紀の神殿の造りをした「ネーレーイスの記念碑」(ネーレーイス=ギリシャ神話の海に住む女神)も、大英博物館に展示されており、クサントスの有名なモニュメントの一つです。
レトゥーン(レトーン)はクサントスから約4㎞の距離にあり、その名が示すように、ゼウスに愛された女神レトとその子、アポロンとアルテミスの双子に捧げた神殿が存在した聖なる土地です。「レトゥーン」という町の名前も女神レトにちなんで名付けられました。
レトゥーンはリキア随一の聖域の跡ですが、発見されたのは最近のことで今後の研究が期待さている遺跡です。
出産後にクサントス川が海に合流する地点から川沿いを歩いて現在レトの神殿がある場所に着き、そこにある泉で子供たちを洗おうとすると、現地の人が妨害した為、レトは現地の人を蛙に変えてしまったと言います。
ただ、太陽神アポロンが光の国と言われたリキア出身とされるのが自然であり、また彼の名前もリキア語である為、アポロンの誕生地はやはりリキアであったのではとの見解もあるようです。
アルテミスは、アナトリアの地母神キベレのギリシャ・ローマ時代当時における名前でもあります。
古代より西アナトリアでは豊穣の神として地母神キベレが崇拝されており、キベレ信仰がギリシャの母神アルテミス信仰に習合されて引き継がれたと言われています。
アルテミスの母である女神レト自身も、南西アナトリアのカーリア地方で信仰されていた大女神ラーダーに由来しており、女神レトの名で造られたレトーンの町はリキアに所縁のある女神レト、太陽神アポロン、豊穣神アルテミスにまつわるリキアの神聖な信仰の中心地であるのは確かでした。
レトゥーンで最も重要と言える遺構は、レト、アポロ、アルテミスの母子の神々をまつったと思われる3つの神殿です。
3つ並んだ神殿のうち、最初に発見されたのが西にある女神レトの神殿で、紀元前4~5世紀末頃にリキアの君主アルビナスの主導で建てられました。現在ほとんど廃墟として見られる神殿は、当初の神殿の上に紀元前150年頃にイオニア様式で6×11列の柱を持つ形で造られました。
レトの神殿の隣、3つの神殿の内真ん中にあるのが紀元前4世紀に造られたアルテミスの神殿で、その隣の東側にあるドーリア式で建てられた物がアポロンの神殿です。ヘレニズム時代から残り現在は殆ど廃墟に近い神殿の奥部には、アルテミスの矢と矢筒およびアポロンの竪琴がモザイクで描かれています。
また神殿の近くでは、ギリシャ語、アラム語、リキア語の3言語で書かれたテキストを含めた非常に重要な碑文が見つかっています。紀元前358年に記されたこの碑文はリキア州・カリア州総督ピクソダロスの法令であり、リキア語の解読の点で非常に重要で、現在はレトゥーンから約50㎞北にあるフェティエ博物館にて展示されています。
この他に、ギリシァ風の劇場や、ニムファイオン(泉水殿)も確認されていいます。ニムファイオンは池をはさんで2つの建物からなる壮大なものだったことがわかります。
因みにレトゥーンは、7世紀まで栄えていましたが、その後に放棄されたとのことです。
クサントス・レトゥーンは、リキア文明の独自性と発掘された遺物の重要性により1988年に世界文化遺産に登録されました。
・定休日 :無し ※砂糖祭り及び犠牲祭の初日は13:00より開館
・開館時間 :夏季(4/1~10/31) 08:30~19:30
冬季(11/1~3/31) 08:30~17:30
※最終入場時間は閉館時間の30分前
・入場料 : 14 TL
・観光所要時間 :1時間
・服装 :足元が悪いので、歩きやすい運動靴又はトレッキングシューズをお勧めします。
・定休日 :無し ※砂糖祭り及び犠牲祭の初日は13:00より開館
・開館時間 :夏季(4/1~9/30) 08:30~19:30
冬季(10/1~3/31) 08:30~17:30
※最終入場時間は閉館時間の30分前
・入場料 : 12 TL
・観光所要時間 :1時間
・服装 :足元が悪いので、歩きやすい運動靴又はトレッキングシューズをお勧めします。
日本からの直行便はありませんので、イスタンブールへご到着後に国内線または長距離バスにて向かうことになります。
国内線移動の場合
・国内線で最寄りの空港ダラマン(Dalaman)へ:ダラマン空港からクサントスまで約105km、車で約1時間35分。
※ダラマン空港からフェティエのオトガル(バスターミナル)まで空港シャトルバスが運行しています。フェティエからはカルカンやカシュ行のバスに乗り、遺跡がある村KINIK(クヌック)で途中下車。又はカルカンへ移動後にタクシーで遺跡へ向かってください。
長距離バスで向かう場合
・イスタンブールより最寄りの町カルカンまで約14時間
・イスタンブールよりフェティエまで約13時間
ユネスコ世界遺産に登録されたかつての繁栄を物語る二つの遺跡は、現在リゾート地にも近く人気の観光スポットになっています。
海洋民族古代リュキアの首都 クサントス(XANTHOS)
クサントスとはギリシァ語で黄色を意味し、トルコ南部地中海沿岸のアンタルヤ県西部カシュ郡クヌック村にあるエシェン川の傍の盆地を囲む二つの丘の上に造られた古代リュキア王国の首都の遺跡です。
一つ目の丘にはエシェン川の岸から急な岩肌の形で高くなっている城壁に囲まれたリキア・アクロポリス、2つ目の北部の丘にはより高く広いローマ・アクロポリスがありました。
クサントスの歴史
クサントスに都市ができ始めたのは、紀元前1200年頃と言われています。この町の名前は、リキア語で記された碑文ではARNNA、ヒッタイトやルウィ語ではARINNAの名で知られており、重要な都市でありました。
このクサントスに関しては、古代ギリシャ・ローマのホメロス、ヘロドロス、ストラボン、アッピノス等の歴史家達がこぞって記しています。
ホメロスの“イリアス”では、紀元前1184年にグラウカスとサルペドンが率いるクサントス部隊がクサントス川(現エシェン川)の土地を出発してトロイ戦争に参戦したことが記されています。ただ、クサントスの考古学的発掘では、紀元前8世紀より古い遺構が出てきていません。しかし、リキアで最古の都市クサントスはホメロスの時代紀元前8世紀には確実に実在していたと言われています。
因みに、トロイ戦争で戦死したアキレウスが保有していた不死で言葉が話せると言う馬の名前もクサントスと言います。
紀元前4世紀までは独立して自由を誇っていたクサントスですが、紀元前545年にアケメネス朝ペルシャの名将ハルパゴスの軍隊に包囲されると、抵抗していた市民たちはもはやこれまでと悟り敵に降伏するよりも死を選びました。まず男が女や子供を殺し、城塞にすべての財産を集めて火を放ち焼き払いました。そして最後まで闘い抜くことを誓い全員戦死を遂げ、無人化・荒廃化した形でクサントスがハルパゴスの手に渡ったとヘロドトスが述べています。
紀元前475~450年には、この地は火災に苛まれてしまいます。紀元前334年にアレクサンドロス大王がクサントスを占領し、大王の死後の紀元前309年からはエジプトのプトレマイオス朝の支配下になり、その後は他の多くのリキアの都市と同じくセレウコス朝シリアのアンティオコス3世の支配下になることを受け入れざるを得ませんでした。
紀元前168年にリュキア同盟の首都となったクサントスは、紀元前42年にローマの内戦に巻き込まれ、ブルータスの攻撃を受けました。略奪と破壊はすさまじく、わずか150人の市民がようやく生き残ったと言います。その後にどうにかマルクス・アントニウス帝の努力によって再建されました。
西暦1世紀のローマ支配下のクサントスでは、皇帝ウィスパシヌスの名で凱旋門が造られました。
因みに、現在に残るローマ時代の遺構の殆どはこの時代に建てられたものです。
ビザンツ帝国時代に司教の中心地となったクサントスは、この時代に多くの新しい建物を建て、行政や商業の要地となった時期もありましたが、7世紀以降のアラブ人の侵略破壊から立ち直ることはできず自都市としての重要性を失い、その後はクヌック村の一部の小さな村として1938年まで密かに存在していました。
クサントスの遺跡での発掘
多くの歴史的な出来事や戦争を目撃してきたクサントスの街から生き残った遺跡の中には、リキア文化に特有の岩の墓、石棺の墓、柱の墓の記念碑があります。 中でもリキア・アクロポリスは初期の作品の1つであり、また、 何度も修理された劇場やキリスト教初期に建てられた教会などが見られます。クサントスの遺跡は1838年に英国の考古学者チャールズ・フェローが発掘を行いました。劇場は2世紀のものですが恐らくもっと古くから在ったものをローマ風に変えたことが解っています。
残念ながらチャールズ・フェローは、「ネーレーイスの記念碑」とともに多くの作品を英国博物館に持ち去ってしまいました。劇場の西には、クサントスで一番有名な「ハーピーの墓」と呼ばれるモニュメントが残っていますが、オリジナルはロンドンの大英博物館に展示されていて、クサントスにあるのはレプリカになります。
「ハーピーの墓」の隣には4世紀に造られた台座のあるリキア時代の石棺があります。
劇場の端にある広い正方形の場所は、三方をお店で囲まれたローマ時代のアゴラになります。
アゴラの北東の角には、ハーピーの墓と非常によく似た一枚板の長方形の本体にリキア語とギリシャの語で書かれた碑文が残る紀元前5世紀の霊廟があります。その碑文は今までに見つかった中でリキア語として一番長い碑文であり、Khereiと言う名のクサントスの王子の冒険を記しています。
ローマ・アクロポリスでは、多くの岩窟墓と一枚岩の墓が並んで見られます。しかし、この地の南の裾にあるライオンの墓、パ・ヴァヤ(Pa vay)とメルヒ(Merehi)の石棺の一枚板を除く全てが取り去られて現在は大英博物館に展示されています。
現在、遺構に出る坂の右脇には、基礎部分のみ残った紀元前4世紀の神殿の造りをした「ネーレーイスの記念碑」(ネーレーイス=ギリシャ神話の海に住む女神)も、大英博物館に展示されており、クサントスの有名なモニュメントの一つです。
クサントスの代名詞ともいえるハーピーの墓
リキア・アクロポリスの北にはローマ時代の劇場があり、その西側にはクサントスの最も興味深い遺跡があります。高い長方形の一枚板でできている基台の上に、亡くなった家族、及び女性の体で鳥の翼を持つ生き物であり死者の魂を空に運ぶと信じられている「ハーピー」のレリーフが備わった紀元前5世紀の歴史を持つ「ハーピーの墓」です。残念ながら、オリジナルのレリーフは大英博物館で展示されているためありません。なお、この霊廟の隣には、4世紀に属する台座のある別のリキアの石棺があります。女神レトに捧げられた聖なる町 レトゥーン/レトーン (LETOON)
レトゥーン(レトーン)はクサントスから約4㎞の距離にあり、その名が示すように、ゼウスに愛された女神レトとその子、アポロンとアルテミスの双子に捧げた神殿が存在した聖なる土地です。「レトゥーン」という町の名前も女神レトにちなんで名付けられました。
レトゥーンはリキア随一の聖域の跡ですが、発見されたのは最近のことで今後の研究が期待さている遺跡です。
女神レトの言い伝え
神々の王ゼウスは、ティターン神族のコイオスとポイベーの娘、美しい髪のレトに恋をします。 ゼウスは他の愛人と同じようにレトを自分の物にし、やがてレトは妊娠します。 しかし、ゼウスの嫉妬深い妻である女神ヘラは、何としてでもレトがゼウスの子供を産むのを妨害しようとしますが、 最終的にレトはアナトリアのリキアに逃げ込み、ヘラの妨害から逃げ切ることに成功します。レトはギリシャのデロス島で子供アルテミスとアポロンを出産したと言われていますが、伝説によればレトゥーンのすぐ近くのパタラでアポロンを出産したとも言われています。出産後にクサントス川が海に合流する地点から川沿いを歩いて現在レトの神殿がある場所に着き、そこにある泉で子供たちを洗おうとすると、現地の人が妨害した為、レトは現地の人を蛙に変えてしまったと言います。
アポロン信仰とレトーン
古代においてアポロ信仰がギリシャに広まったとき、多くの場所がアポロン神の誕生地であるという名誉を得るために伝説を生み出しました。デロス島もそのような伝説の一つです。ただ、太陽神アポロンが光の国と言われたリキア出身とされるのが自然であり、また彼の名前もリキア語である為、アポロンの誕生地はやはりリキアであったのではとの見解もあるようです。
女神レトの娘アルテミスとアナトリアの地母神キベレ
アルテミスは、アナトリアの地母神キベレのギリシャ・ローマ時代当時における名前でもあります。
古代より西アナトリアでは豊穣の神として地母神キベレが崇拝されており、キベレ信仰がギリシャの母神アルテミス信仰に習合されて引き継がれたと言われています。
アルテミスの母である女神レト自身も、南西アナトリアのカーリア地方で信仰されていた大女神ラーダーに由来しており、女神レトの名で造られたレトーンの町はリキアに所縁のある女神レト、太陽神アポロン、豊穣神アルテミスにまつわるリキアの神聖な信仰の中心地であるのは確かでした。
レトゥーンでの発掘
1960年にフランス人考古学者ヘンリ・メツガーにより発掘が始められ、その後にクリスチャン・リ・ロイによってレトゥーンの町が姿を現しました。発掘された遺跡から、この地は紀元前8世紀までさかのぼることが出来ます。レトゥーンで最も重要と言える遺構は、レト、アポロ、アルテミスの母子の神々をまつったと思われる3つの神殿です。
3つ並んだ神殿のうち、最初に発見されたのが西にある女神レトの神殿で、紀元前4~5世紀末頃にリキアの君主アルビナスの主導で建てられました。現在ほとんど廃墟として見られる神殿は、当初の神殿の上に紀元前150年頃にイオニア様式で6×11列の柱を持つ形で造られました。
レトの神殿の隣、3つの神殿の内真ん中にあるのが紀元前4世紀に造られたアルテミスの神殿で、その隣の東側にあるドーリア式で建てられた物がアポロンの神殿です。ヘレニズム時代から残り現在は殆ど廃墟に近い神殿の奥部には、アルテミスの矢と矢筒およびアポロンの竪琴がモザイクで描かれています。
また神殿の近くでは、ギリシャ語、アラム語、リキア語の3言語で書かれたテキストを含めた非常に重要な碑文が見つかっています。紀元前358年に記されたこの碑文はリキア州・カリア州総督ピクソダロスの法令であり、リキア語の解読の点で非常に重要で、現在はレトゥーンから約50㎞北にあるフェティエ博物館にて展示されています。
この他に、ギリシァ風の劇場や、ニムファイオン(泉水殿)も確認されていいます。ニムファイオンは池をはさんで2つの建物からなる壮大なものだったことがわかります。
因みにレトゥーンは、7世紀まで栄えていましたが、その後に放棄されたとのことです。
世界遺産として
クサントス・レトゥーンは、リキア文明の独自性と発掘された遺物の重要性により1988年に世界文化遺産に登録されました。
クサントス遺跡観光情報
・場所 :Kınık Mahallesi, Fethiye Karayolui, Kaş /Antalya・定休日 :無し ※砂糖祭り及び犠牲祭の初日は13:00より開館
・開館時間 :夏季(4/1~10/31) 08:30~19:30
冬季(11/1~3/31) 08:30~17:30
※最終入場時間は閉館時間の30分前
・入場料 : 14 TL
・観光所要時間 :1時間
・服装 :足元が悪いので、歩きやすい運動靴又はトレッキングシューズをお勧めします。
レトゥーン遺跡観光情報
・場所 :Arifler Mahallesi, Fethiye Kaş Karayolu 65. Km., 48360 Fethiye / Muğla・定休日 :無し ※砂糖祭り及び犠牲祭の初日は13:00より開館
・開館時間 :夏季(4/1~9/30) 08:30~19:30
冬季(10/1~3/31) 08:30~17:30
※最終入場時間は閉館時間の30分前
・入場料 : 12 TL
・観光所要時間 :1時間
・服装 :足元が悪いので、歩きやすい運動靴又はトレッキングシューズをお勧めします。
クサントス・レトーンへのアクセス
イスタンブールより南へ約790kmのトルコの南部・地中海地方にあります。日本からの直行便はありませんので、イスタンブールへご到着後に国内線または長距離バスにて向かうことになります。
国内線移動の場合
・国内線で最寄りの空港ダラマン(Dalaman)へ:ダラマン空港からクサントスまで約105km、車で約1時間35分。
※ダラマン空港からフェティエのオトガル(バスターミナル)まで空港シャトルバスが運行しています。フェティエからはカルカンやカシュ行のバスに乗り、遺跡がある村KINIK(クヌック)で途中下車。又はカルカンへ移動後にタクシーで遺跡へ向かってください。
長距離バスで向かう場合
・イスタンブールより最寄りの町カルカンまで約14時間
・イスタンブールよりフェティエまで約13時間