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トルコの人気世界遺産

サフランボル市街(文化遺産・1994年)


サフランボルの民家

 サフランボルの民家建築は、およそ百年前のトルコ人の生活をよく反映している。当時の経済状態、大家族制から生まれた生活形態は、芸術の域に達した技術で形成された。まちと地域の構成から民家の各部分に至るまで、何百年もの間に培われ、伝統となった建築の産物が見て取れる。これらの民家を見てみると、合理的で、すべての人に価値を認める昔の人々の考えを理解すると共に、文明の今日の有り方を考えさせられるだろう。サフランボルは1994年に世界遺産に登録された。

サフランボルのあらまし

地理的条件
サフランボルの位置、近隣の県、郡、村と地区 
サフランボルは北緯41度16’、東経32度41’に位置し、北西黒海地方のゾングルダック県に属する郡都であった。黒海沿岸からは65km内陸に入ったところにある。 1995年にカラビュックが県になり、同県の郡となった。新管理区によると隣接県はバルトゥン県、カスタモヌ県、隣接郡はウルス、エフラニ、アラチ、オヴァジュックである。内包する村は59あり、その主な村はブラック、ガユザ(インジェカヤ)、トカットル、ダナキョイ、ヤズキョイ、コナル、ヨリュック、(ユリュック)、アクオレン(アクヴェレン)、オウルオレン(オウルヴェレン)、ダヴットオヴァス、ボサンビュキュ、チェルチェン、ハジラルオヴァス、カルット、バシュキョイ、クラヴズラル、カプルルである。ジュマオヴァ村は郡部である。 
1995年の行政区域は20地区で、アクチャス、ババスルタン、バーラルバシュ(バーラル)、チャヴシュ、チェシメ、ジャミケビル、ハジハリル、フセイン・チェレビ、ムサッラ、イスメットパシャ、イッゼトパシャ、カラアリ、キルキッレ、アシャウ・トカットル、バルシュ、イノニュイェニマハッレ、ジェマル・ジャイマズ、エメッキ、エセンテペとなっている。クランキョイ地区は以前ミサキ・ミッリ地区と呼ばれていたが、1975年以降はバルシュとイノニュの二地区に分けられた。

起伏
サフランボルの北部と西部は山地になっており、黒海と中央アナトリア地方の交通を困難なものにしている。まちは海抜400-600mの高さにあり、北西部にパナユルテペ山1544m、その後方にはサルチチェッキ高原1666m、東にはケペズ山938m、南にはチャムルキョイ峰1113m、南西部にはケルテペ山、西部にはダヴルオウルテペ山(ブラック山)955mなどの山々がサフランボルを取り囲んでいる。

河川
北部から流れるトカットル川はまちに入るとギュムシュ川と名を変え、クランキョイとカレの間を通って、下タバックハーネで北東から流れてくるアクチャス川と合流する。そして南へ流れていき、タバックハーネ川と名を変え、さらに先へ進んでボスクンビュキュの東でアラチ川と合流する。バーラル地区ブラック村の間を流れるブラック川は、カラビュック-サフランボル道を横切ってボスクンビュキュの西でアラチ川ヘ流れる。このアラチ川は西へ蛇行しながら流れ、カラビュック市内で南東から流れてくるソアンル川と合流すると、イェニジェ川という名になって北西方向へと流れていく。最終的にはフィルヨス川として黒海へ注ぐ。これらの河川は夏も乾くことはないが、アクチャス川の水位はかなり下がる。各河川の上には水車小屋が設置され、川の水で動いている。

気候
 サフランボルの気候は、黒海と中央アナトリア気候の中間にある。内陸性気候の特徴である、厳しい冬と乾燥した夏ではない。降水については年間を通してあるが、内陸性気候の影響で年の前半に多い。冬と春が長い。夏は7月上旬から9月下旬までで、雪は12月に始まる。
気温 
最も暑い月は7、8月である。(平均気温の最高は40°)最も寒い月は1、2、3月である。(平均気温の最低は-10°)日較差の最高は夏21、2度、冬17、5度である。
降水量 
最も降水量が多い月は1、2月と6月である。(月平均50mm)最も乾燥する月は7、8、9月である。(月平均22mm)降水量が1日で最も多い月は6、7月(40mm)で、年間降水量の平均は721mmである。年間降水日数の平均は67、6日で、年間覆雪日は平均で25日、最高は41日である。
湿度 
年間平均湿度は60%である。

 多く吹く風は順に、西風、南西風、東南風、そして北西風である。最も影響力があるのが南西と北西から吹く。まちの中の気候 シェヒルとチャルシュ地区は谷に位置するため、風はあまり吹かないそのため、冬でも風の影響を受けにくい。しかし夏は暑くなる。夏の地区へ移動するのもこのためである。バーラル地区はより高台になっており高原のような性格で、南へ向かって高くなっている。そのため夏は涼しく過ごせる。

災害
地震
 サフランボルは第二地震地帯に属している。北アナトリア地震地帯で起きる地震は、サフランボル周辺にも影響するが、被害はない。
地すべりまちの構成に被害を与えるような地すべりはこれまでになかった。
洪水
 河川はかなり深い川底を流れているので、まちに被害を及ぼすような洪水はない。しかしアクチャス川は前世紀初頭に突然二度もあふれ、チャルシュやその周辺で人的、物質的被害を与えた。

歴史的要因 
サフランボルは旧石器時代より人間の定住地であった。エフラニ周辺には塚が三つ見つかっている。ホメロスにもこの地方がパフラゴニヤとして記述されている。ペルシャ時代、ギリシャ時代にもまちは存続し、その後ローマ、ピザンツ時代には人口も増えた。サフランボル・エフラニ周辺にあるその他の遺跡として、24の古墳、様々な岩窟墓、レリーフ、またサフランボルの南にあるスィパヒレル村のローマ神殿跡などが挙げられる。
サフランボルのまちの中にはローマ、ビザンツ時代の遺跡はない。この時代のまちの名前もはっきりしていない。Leonardは、サフランボルは昔の「ゲルミア」、またAinsworthは、「ザフェランボリ」の昔の名は「サフランのまち」という意味の「フラビオポリス」であると主張している。オスマン・トゥランはトルコ人がこのまちを支配する前は、ここは「ダディブラ」と呼ばれていたと記述している。
トルコ人がアナトリアを支配するようになってからのサフランボルは、カスタモヌ県の一部として歴史を残している。この地方は最初ダニシュメント家時代にトルコ人の手に落ちた。(12世紀初頭)その後ふたたびビザンツに取り戻されたが、13世紀初めにこの地方へ勢力をのばしていたトルコ系ジャンダルオウル家の支配下に入った。 
ジャンダルオウル家はセルジュク朝,その後イルハンル家に属していた。13世紀末にエフラニで起こったカユ・ボユから、ジャンダルオウル家ははじめセルジュク朝に、その後イルハンル家に仕え、15世紀初頭に短い間ではあるが独立したことがある。オスマン家が台頭してきてから1461年までは、オスマン朝に属する一県としてこの一帯を支配した。その時代まちの名は「ザリフレ」あるいは「ザリフラ」であったと思われる。
サフランボルには、このジャンダルオウル家支配時代のエスキ・ジャーミ(モスク)、スレイマンパシャ神学校、エスキ・ハマム(公衆浴場)が残っている。この時代からオスマン朝時代にかけて、この地方の中心地はいつもカスタモヌであった。サフランボルはジャンダルオウル時代に姑まってオスマン朝時代まで長い間「タラックル・ボルル」という名で通っていた。18世紀以降は「ザーフェラン・ボルル」、後に「ザーフィランボル」の名が使われるようになった。
ルム(トルコに在住するギリシャ系住民)の間ではサフランポリス、またはテオドラポリスと呼ばれていた。 
オスマン朝時代のサフランボルに関する出版物はきわめて少ない。歴史的建造物を見てみると、幾人かの名が挙がってくる。ジンジ・ホジャ、キョプルル・メフメット・パシャ、イッゼット・メフメット・バシャなどがここに建造物を残している。

重要な歴史的建造物
 サフランボルのまちなかには、ビザンツ時代の遺跡は発見されていない。クランキョイにあるアヤ・ステファノス(HAGIOS SHEPHANOS)教会(現在のウル・ジャーミ)は、テオドラによって建てられたと思われる。エスキ・ジャーミはビザンツ時代の教会から変えられたものであろう。トルコ人によるものとしては、ジャンダルオウル家時代からのものである。これらの建物は、時とともに何度も改修、改装が施された。これらの中で重要なものを挙げてみる。
宗教的な建造物 
ジャーミ(モスク)の数は30ほどである。最も古いものは、ジャンダルオウルラルの時代に建てられた、スレイマンパシャ・ジャーミスィ (エスキ・ジャーミ)である。(14世紀)その後のものではキョプルル・メフメット・パシャ・ジャーミスィ(1662年)、イッゼト・メフメット・パシャ・ジャーミスィ(1796年)、ダーデレン・ジャーミスィ(1768年)、カズダール・ジャーミスィ(1779年)などが挙げられる。
教育のための建造物
スレイマン・パシャ・メドレッセスィ(神学校・14世紀)は、今日その基礎部分だけが残っている。
社会的な建造物 
ジンジ・ホジャ・ケルバンサライ(ジンジ・ハン隊商宿・17世紀)、エスキ・ハマム(14世紀)、イェニ・ハマム(17世紀)や、チェシメ(泉)が100、橋が15ほどある。これらを見てみると、サフランボルが14世紀に重要性を増し、17世紀から18世紀末にかけて政府の要人たちに眼をかけられ、18世紀以降まちの経済力が上がったために、20世紀初頭までに自力で小さなジャーミやチェシメを設置していったことがわかる。

サフランボル
人口と住宅 
人口についての最も古い記述は、19世紀のものである。 Ainsworthは1838年にシェヒル地区には3000戸のムスリムの住宅、250戸のキリスト教徒の住宅、バーラル地区とブラック村には150-200戸の住宅、トカットル・バーラルには150戸ほどの住宅があったとしている。これらの数は正確でないかもしれない。サフランボルの地形は非常に変わっていたため、Ainswort,hは大きなまちと勘違いした恐れがある。
Mordtmannは1852年に2000戸のムスリムの住宅、250戸のキリスト教徒の住宅があったと主張している。しかしこの数も大まか過ぎる。Cuinetは1894年のその著書の中で、1500戸の住宅、4705人のムスリム、2795人のルム、合計で7500人であることを、またSemsettin Samiは1894年の著書でまちの人口は8000人ほどであると記述している。 Ali Cevatは1895年には1500人のルムを含む8000人がいたと言っている。
Leonardは1903年に約500戸のルム、2000戸のムスリムの住宅があったと推測している。1940年にはシェヒル地区で1766戸、バーラル地区では1075戸、合計2841戸の住宅が数えられている。ルムは商業、製靴業、仕立て屋、左官屋、石屋などを職業としており、トルコ語を操った。彼らに夏の家はなかった。ムバーデレ(住民交換・第一次世界大戦、トルコ祖国解放戦争後、トルコとギリシャの間でとりきめられた)でギリシャに引き上げてしまった。(1924年)1965年の国勢調査では、シェヒル地区に1140戸、クランキョイで249戸、バーラルて肘2戸、合計2301戸の住宅が数えられている。
サフランボルに於ける人口調査は以下のとおりである。1935年/5571人、1955年/6155人、1965年/9771人、1975年/14700人、1985年/22404人、1997年/31387人。 
19世紀末の国勢調査以前の状況はわかっていない。まちに残っている記念碑などをたよりに推測すると、まずカレイチ(城砦内)とその周囲の人口が増えていき、その後谷底へ広がり、安全性が確保され、豊かになっていくと、バーラル地区が夏の家へと変化していったと言えるだろう。昔の人口もおそらく一万人は超えていなかったはずである。当時はベイレル(藩主)、役人、ルムのほかは均一な社会であったと思われる。高い収入と当時は自給自足が原則の閉鎖的経済であったためである。各家庭に二軒も家があったことからもそれがわかる。 
生産と商業はロンジャ(ギルドのような同業者組合)システムで互いが監査、支援されていた。ロンジャシステムが無くなると経済システムが崩壊し、隣町に国営鉄鋼所ができてからは社会的階級が登場した。今日の社会的階級は以下のとおりである。労働者37%、公務員、会社職員20%、小売商11%、職人8%、商人4%、農業従事者1%、その他19%。 サフランボル周辺にはいくつかの遊牧民の村がある。ヨリュックキョイ、ハジラルオバス、ダヴットオバスなどがそうである。1935年頃に定住したその他の遊牧民以外の遊牧民(タフタジュやチェブニエル)なども存在する。また、クルド人々ザザ人も遊牧民として周辺に住んでいた。


行政 
オスマン朝時代の1850年では、32州、125リヴァ(県と藩の間の単位)、1234郡あった。サフランボルはカスタモヌ州、カスタモヌ・リブァの一郡であった。カスタモヌ州のその他のリヴァは、コジャエリボル、スィノップとヴィランシェヒルであった。一時はヴィランシェヒル県の中心リブァにまで昇格したことがあったが、1860年には再び郡になった。共和国時代になった1927年にはカスタモヌ県からゾングルダック県に、1995年に県になった隣のカラビュック県に組み込まれた。

教育 
昔、この辺りで最も重要な教育施設は当時最大の規模であったジャンダルオウル・スレイマンパシャ・メドレッセスィ(神学校・141紀)であった。16世紀の「イルミリ(20の)」神学校にも数えられた。この神学校は1846年に時のスルタン・アブドゥル・メジットによって修復されていることから、19世紀末まで機能していたのだろう。キョブルル・メフメット・パシャがつくらせた神学校もアラスタとつながっていたが、現在ではもう残っていない。地域や児童のための学校は19世紀に新たに整備されて「イプティダイ」になった。
19世紀に中等教育の場として「リュシュティエ・中学校」と「イダディ・高等学校へあがる前の準備校」が設けられた。
 サフランボルではイダディが1910-15年に開校、共和国になったばかりの1924年に生徒数が激減して廃校になった。Cuinetは郡には12の神学校、ひとつのリュシュティエ、170のイスラム教徒、8つのルム初等学校があったと、またŞ.Samiは12の神学校、ひとつのリュシュティエ、ひとつのイプティダイ173のイスラム教徒、3つのルムの学校があったとしている。
 サフランボルでは男女とも四歳四ケ月十日になると、周囲で知識人とうたわれる人物の前で「入学式」の儀式を行ってお題目を唱える。このことからも、サフランボルの住人が教育にいかに力を入れていたかがうかがえる。Ş.Samiと、1317(西暦1901)年のサルナーメ(年鑑)によると、サフランボルにはふたつの図書館があった。オスマン朝時代の文化生活において役割を担っていた別の組織はテッケ(修道僧の宿坊)である。サフランボルではナクシベンディ教団のカレアルトゥ・テッケスィ(1550)とハイダル・アー・テッケスィ、ハルヴェティ教団のアリババ・テッケスィ(1824)が今日でも知られている。ロンジャも職業訓練の他風習や良い品行を教える重要な組織であった。 1924年にはすでに映画館があったということからも、住民の文化レベルの高さがわかる。

民俗 
サフランボルはこの地方で持てる限りの民俗が存在する。伝統や風習民話、民謡、音楽、舞踊など、それぞれ個別に研究するに値する題材である。こういったすべての民俗の裏側に、トルコ人社会の特微か垣間見られる。

経済
サフランボルの民家を見ていく過程で、家の大きさ、しっかりしていて整然とした構造、内部のつくりの豊かさ、広く、豊富に果物が揺れる樹木や貯水槽や東屋がある庭、そして各家族が二軒も家を所有していること、住んでいる人々の幸福、繊細さ、礼儀正しさを見るにつけ、この豊かさはどこから来るのか、と調べずにはいられなくなる。
農業 
都市の閉鎖的経済の結果、全員が自給自足をしていた。野菜、果物、その他季節ものを冬に備えて保存していたのである。これら以外の肉、油や砂糖は外部から購入していた。サフランボルのほとんどの人々は、都市の周辺に畑を持っていた。現在鉄鋼所がある場所には昔、水田があった。小麦、大麦、米やわらは、オルタックチュと言われる小作人にまかせているこういった畑から得られていた。
サフラン: 都市の名前が「サフラン」で始まっており、今でも栽培されていることから、サフランについても触れねばならないだろう。アヤメ科の植物であるサフラン(Crocus sativus L.)は球根から育ち、クロッカスに似た薄紫から紫色の花をつける。9月から10月に花を咲かせる、二年花を摘み、その後は引き抜いてしまう。十万の花から摘み取られたおしべの重さはたったの1kgである。
用途:あまり匂いもない着色料として、また薬的効果もあることから薬品や染料、食品に添加物として使用される。自身の重さの十万倍もの水を染めることができる染色力を特っている。
歴史:ホメロスとヒポクラテスもサフランについて記述している。イランとカシミールで古くから栽培されていた。モンゴル人が中国へ、アラブ人がスペインヘ、十字軍がヨーロッパヘ広めた。古代ギリシャやロ-マで香りと薬用効果のために噛まれ、染料としても使われた。
栽培地: スペイン、フランス、シチリア、アルプスの裾野、イラン、カシミール。トルコではイスタンブール、イズミール、サフランボル、アダナ、ビレジックで栽培されている。サフランボルでは三つの村で、何家族かが栽培に従事している。(アクヴェレン、オウルヴェレン、ダヴットオバス)

サフランボル 畜産 
都市のなかでも一般的に、各家に乳のために一頭の牛を飼っている。毎朝ヘルゲレと呼ばれる群れの羊飼い、ヘルゲレジに預けられる。よく買われている家畜はアンゴラヤギである。乳からヨーグルト、バターをつくる。食用の家畜は雄である。サフランボルでは羊は食べない。ヤギの肉を秋にクイマと呼ばれる保存肉(カヴルマ)に加工し、屠畜しない時期に食べる。畜産は毛や革を得るためにも重要である。高原で行われている養蜂も、昔は主要な産業だった。砂糖の変わりに使われていた蜂蜜からは、蜜蝋も採られ、輸出されていた。蜜蝋は縫製業で使用される副材料でもある。
製革業 
サフランボルの最重要産業は皮革とその製品である。サフランボルで製革業がいつごろ始まったのかはわかっていない。渓谷の自然の形態や皮なめしに使う水の確保という点て、この業種に非常に適したタバックハーネ(皮なめし場という意味)川は、汚水を流してもまちに影響が出ない場所にあることから、かなり昔から皮なめし業が営まれていたと言える。
 製革業は18世紀末まで、オスマン朝では高水準であった。サフランボルにおける製革業について、Mordtmannは1852年に経済的価値があったと記述している。1890年には84軒の皮なめし場があったという。またその頃都市の人口は7500人であったのであるから、製革業はかなりの主要産業であったはずだ。
サフランボルが外部の影響をあまり受けなかったのは、機械化の波が製革業には遅く訪れたためで、20世紀半ばまで細々とではあっても製革業は生き延びることができた。ロンジャ制度は1910年に法律によって廃止されたが、伝統のなかで影響力を失いながらも継続した。
 その後、革の半製品をヨーロッパに輸出することが利益になり、これらを扱う商人のなかにはかなり裕福になる者もでてきた。村人がより安価のゴム靴をはくようになって、イェメニ(革の短靴)の必要性も失われていった。そのうち半製品も、アナトリアの各所に設けられた工場で生産されるものにおされてしまい、またカラビュックの鉄鋼所の出現で製革業は終焉を迎えた。
皮なめし場(クバックハーネ):同じ名前を持つ川沿いの渓谷内にある。礼拝所々カフヴェ(コーヒー店)もある。礼拝所の下から流れる水は、化学構成から見ても皮なめしに適している。渓谷の端にある自然な、または人工的に掘られた穴に入れられた皮は、一定期間経つと熟成する。皮の加工方法は伝統的なものである。1975年の時点で、伝統的な方法で加工をしている2軒のアトリエと、いくつかの加工工程に機会を導入している2軒のアトリエがあった。
アラスタ:イェメニを縫製するアトリエの持ち主は、アラスタと呼ばれる商店街に集まっていた。職人は渡り職人や見習いを雇っていた。アラスタには46軒のアトリエがあった。非常に狭いこの仕事場には、各々3-5人が働いていた。イェメニは店にひもで吊り下げられる。
今世紀初頭に生産されていたイェメニの種類は以下のとおりである。
女性用、大小:ゼンネ、ゼルゲルデ:男性用、大小:ロルタ、ウルズゲル、ウルアヤック。他にメス、スムスム・メスという種類もあった。
荷鞍と馬具屋:重要な交通手段である馬とロバは、サフランボル周辺で非常によく使われていた。そのため、荷鞍と馬具の生産が盛んであった。市場で セメルジレル・イチ(荷鞍屋内)、サラチラル・イチ(馬具屋内)と名づけられた通りに集まっていた。
蹄鉄業:都市では各屋に1,2頭の乗り物用の家畜がいたので、蹄鉄をつける業種があった。鍛冶業、銅製品、織物業も、このまちの主な収入源であった。


森林業 
この地方の森林は、全トルコの5%にあたり、かなりの量の木材を産出する。
 19世紀末、サフランボルには61軒の木材アトリエがあった。木材は、とくにツゲが、バルトゥン街道からヨーロッパヘ輸出されていた。1923年にサフランボルのなかだけでも2軒の木材工揚があり、一日に30㎡もの木材を生産していた。
同年代に500.000オスマン・リラ分の木材がイスタンブール、サムスン、イズミール、ゾンブルダックに売られており、サフランボルの重要な輸出資源であった。また、8人の材木商がこの商売に従事していた。森林業は今日でも重要性を失っていない。
その他の産業
 サフランボル内には昔五つの粉引き水車あり、そのうちふたつはいまだに現役である。水車は内部の石の数により「ひとつのカマ」、「ふたつのカマ」と呼ばれる。 1937年にトルコ初の鉄鋼所がカラビュックに設けられてからは、重工業がサフランボルに各方面から影響を与えた。

商業 サフランボルが商業の面で裕福になっていったのは、生産、販売、宿泊のような基礎的要素がそろっていて、周辺の商業中心地になり得たからである。外国の製品がオスマン朝に流入し始めた頃伝交通の使利さや販売における習慣性から、サフランボルや周辺のまちでも西洋の製品が売られ始めた。 
サフランボル周囲の村やまちにも市場があったので、そこから製品を集めて、イスタンブールをはじめとする周辺都市やまちへも売られていた,それらは木材、革、ヤギ毛、狩猟勤物の毛皮、白布、クルミ、食内用家畜、牛脂、イェメニ、米、乾燥果物(りんご、すもも、桑の実)、亜麻仁油、サフラン、蜜蝋、サーレップ(飲み物にする植物の根の粉)。村人からの買い物は主に物々交換であった。商人は村人から生産物をもらって、かわりに工業製品を村人にあげていた。このようにして利益は二倍になった。 
サフランボル商人は周辺のまちの市場にも出かけていった。最も重要な市場はエフラニ、その次がオヴァジュマ、トプラックジュマ、そしてエスキパザル(ヴィランシェヒル)であった。織物をそこで売り、一晩泊まってサフランボルヘ帰るというのが一般的だった。この商売形態は、かつて隊商道上で行われていたかたちが化石化して残っているかのようであった。
 商人は年に-一度イスタンブールヘ、たいていは陸路で行き、帰りに商品を持って帰ってきた。また、エマーネッチといわれる仲介人を通して買い物をした。オスマン朝の商業はひとりでに組織化されていった。商売に大事な商人同士の通信、宣伝、注文、支払い、融資などはすべてこのエマーネッチが取り仕切っていた。
市場:サフランボルの市場は非常に広い。今日でさえ100年前の典型的なトルコの市場の姿を見ることができる。少々化石化したとはいえ、当時の商業、経済、社会生活について知識を与えてくれる。ロンジャ制度で保たれていた生産活動や商売は、それぞれ別の通りに集められていた。穀物市場、野菜市場、家畜市場、薪市場、アラスタ、荷鞍屋内、馬具屋内、肉屋内、商館内、鍛冶屋内、のような通りや場所があった。 
これらの事柄をあわせ見てみると、サフランボルは農業と閉鎖的経済で保たれており、生産と商業の双方で豊かになっていったことがわかる。歴史的建造物からもわかるとおり、17世紀以降継続的に発展し続けていったと言える。18世紀に寄贈されたモスクや泉の多さは、豊かさの象徴である。 
アナトリアでは西洋と関係を深くしていった都市が発展していたが、サフランボルは地理的にも同様の発展を遂げなかった。しかし閉鎖的経済生活を送りながらその資産を守っていたのである。カラビュック鉄鋼所ができてから、経済が新たな方法へ向かわざるを得なかったとは言え(商売をカラビュックヘ場所変えする、または形態を変えるなど)、サフランボルはそれから30年後にやっと、慣れ親しんだ伝統的生活形態を変化させはしめた。その後サフランボルは全面的にカラビュックの影響下に入ってしまった。

生活形態

自然との共存
 サフランボルの冬は厳しいので、自然の影響を受けにくい。渓谷の内側に隣り合って住まねばならなかった。春になると木々に花が咲き始める。特にりんごの花が咲くと(普通は5月中)、夏の家へ引っ越す準備で忙しくなる。夏の家(バー・エヴィ)を掃除しに行った女性たちは、床を掃いて棚のほこりを払い、窓を拭き、壁を塗りなおす。その次に冬の家で引越し準備を始める。布団をしぼり、料理や食事の道具をカゴに詰め、たいていは村で畑をまかせているオルタックチュに連れてこさせた馬やロバにのせる。こうして8-10頭もの動物が列をなしてバーラル地区へ向かう。割れ物(皿やカップ、ランプや水差し、コップ)はカゴに入れて手で運ぶ。家で飼われている猫も、鶏と一緒にこの陽気な行列に加わる。じゅうたんやいくつかのつづら、貴重品などは、留守の間に起こりうる火事などの危険から守るために、ジンジ・ハヌの部屋に預けられる。夏の家での生活は、あまり家財道具もなく、自然と一体化した素朴なものだった。当時の人々はこのことを強く感じ、また楽しんでいた。
サフランボルの夏の地区は、最も大きな地区がバーラル地区で、その他にはキルキッレ、トカットル・バーラルがあった。アクチャス、ムサッラ、ギュムシュ地区で大きな庭や湧き水が出る家は、夏の家には行かなかった。また中にはウルカヴァックディビ、カラマン・チュクル、カヤルル、ウズンクルといった場所に大きな庭を持っている家もあり、日帰りで通ったりした。ルムたちは夏の家には行かず、年中クランキョイにいた。クランキョイは比較的高台にあるので夏も涼しく、またルムにはトルコ人のような移動の習慣はなかったからだ。しかしルムもインヤカスの下やスルック湖の周辺やパパズ・バー(司祭のブドウ畑の意味)にブドウ畑や庭を所有しており、日帰りで行き来していた。中には非常に裕福なルムもいて、バーラル地区の入り口付近に夏の家を借りる者もいた。夏の家へ引っ越しても、男性だらけ毎日仕事へ通った。朝夕、馬やロバに乗っての通勤行列は、2、3時間続いた。女性たちは10-15日に一度、馬やロバに乗って谷底のハマムヘ行った。 
夏の家を引き払うのは、気候にもよるが、たいてい10月の終わり頃始まった。果物もすっかり採取され、冬のための保存食づくりも完了してからである。来たときと同じように冬の家へ戻るが、今度は荷物が多い。後日、採り残しの野菜や果物を採るために1、2日戻ることもあった。裕福な者は夏の家に警備員を雇った。この場合、冬の家では使わないものを夏の家に置いていくことができた。これらは枕、背もたれ用クッションやいくつかの絹製品、パン作りのための木の器、ランプひとつ、敷布団などである。雪が降ったらバーラル地区に行くことは不可能だった。

サフランボル
伝統、風習と宗教 
伝統、風習や宗教は、質素な生活に哲学をもたらしていた。人々は倹約家で、派手なところはひとつもなかった。すべてにおいて素朴さが勝っていた。床に座り、床で作業し、床に布団を敷いて寝、床で食事をしていた。屋内にはあまり家具はなく、装飾も建物の構造そのものに施された。使用された材料の自然な風合いが生かされていた。そのため、裕福な家と貧しい家の区別けつかなかった。これほど素朴な生活のなかに豊かさがあった。
食物も豊富で、多種類あった。部屋敷は多く、広かった。家も2軒あり、人々はなにも心配がない健康的な生活を送っていた。

ハレムセラムルック
宗教や習慣から家は外部に閉ざされている。このため、家の内部や庭の周囲には高い塀がはりめぐらされ、窓にもカフェスという格子が取り付けられている。女性はよそ者の男性に見られることはない。時には、同じ家の中でさえ女性たちは男性とは別々に生活している。サフランボルでも、このようにセラムルック(男性住居)とハレム(女性住居)とに別れている家もあった。こういった形態はより裕福な家に多かった。例えばハジ・メミシュレルの夏の家は、ハレムとセラムルックが隣同士くっついて建っている。カイマカムラル家ではハレムとセラムルックの入り口はそれぞれ別の通りからの別の階にある。(坂の途中にあるため)その他の家では入り口はひとつであったが、住んでいる家族を緊張させないように、階段を上がってすぐの部屋がセラムルックとして使用されることが多かった。セラムルックの部屋は他よりも趣向が凝らされている。古いものではテペ・ペンジェレ(高窓)かおり、天井の装飾も凝っている。
ドンメ・ドラップ(回転棚):かつては家の中でさえ、女性はあまり近い関係でない男性に姿を見せなかったことから、ハレム側からセラムルックに食事やコーヒー、シロップなどのもてなしをするために、ふたつの部屋の間にドンメ・ドラップという回転棚が設けられた。この棚に置かれたものは、回転式の円盤をまわすと向こう側の部屋へ回される。このしくみは、セラムルックが別棟になっておらず、専用の使用人もいない家には大変便利で、習慣に合ったしくみである。
セラムルック・キョシュク(東屋):何軒かの家の庭にはセラムルック・キョシュク(東屋)があった。この東屋はひとつ以上の部屋を有していた。主部屋にはたいてい貯水槽が設けられていた。中には母屋の下階にあるセラムルックの部屋に貯水槽がある家もあった。アスマズラル家のシェヒル地区にある家の二軒ともに貯水槽がある。貯水槽の端は50-60mほど高くなっている。 
部屋の中央にある貯水槽を囲む壁沿いにはセディル(座右)がぐるりとはりめぐらされている。ジュルトラル家の夏の家のセラムルック・キョシュクには、窓が設けられた壁、飾り柱のあるセキリック(一段高くなった場所)、コーヒー炉があり、となりにはふたつの部屋と洗面所がある。窓にはまだガラスははめられていない。貯水槽のある主階は、地上階の上に設けられている。
バーラル地区のラウフ・ベイレル家には豪華なセラムルック・キョシュクがある。シンメトリーなプランは珍しい。ふたつの部屋とその間のエイヴァン(部屋と部屋の間の空間)、中央に巨大な貯水槽と回りのセディルで8メートルもあるこの部屋は、手描きの壁画で飾られ、思いがけない雰囲気をかもし出している。
セラムルック・キョシュクヘは別の通りにある門から庭を涌って入る。庭に設けられた一部屋のみの貯水槽つきキョシュクを、ハヴズ・オダス(貯水槽部屋)と言う。貯水槽に噴水、そのまわりにセディルがあるこのハヴズ・オダスは、たいてい多角形ブランである。
バーラル地区で湧き水が出ない家には、中央に井戸が掘られた井戸部屋がある。夏ハヴズ・オダスと同様に涼むために使う。井戸では水や果物が冷やされる。
お清め 
宗教上、礼拝前には身を清めねばならない。家の中にはこのためにお清め専用の場所と、グスルハーネ(簡易浴場)がある。生活単位である部屋にも、このお清め用の場所が設けられたということは、家族内でのプライベートの保護の面からみても、正しい解決方法である。お清め状態を解消したり、お清めをしたりする、ふたつの近い性質の行為は、お清め場と便所を隣同士にすることで簡単になった。
習慣により、家庭汚水は便所の汚水と混ぜてはいけないことになっている。食器を洗った水は、便所の汚水とは別の場所を通って別の穴に流れるようになっている。家の中で礼拝のために設けられた専用の部屋はない。信仰によると、清潔ならばどんな場所でもどの部屋でも礼拝をすることができる。


家族構成 
現代にまで続いている伝統的な大家族制は、サフランボルの家の設計にも影響した。この制度では、体力や思考力、経済力がまだ失われていない、最年長の男性が家長である。成長して結婚し、子供ができても、息子はこの父親の権力の下にある。この風習によると、社会的、経済的にも、家族は一緒に生活せねばならず、お互いを監査することができる。この大人数の家族は、まるでひとつの会社のようである。大きな家の掃除、庭の手入れ、採取されたものの加工、家畜の世話、大人数の食事の準備、子供や年寄りの世話には、大きな労働力が必要である。大家族の生活や安全を保障するためには、家族の息子たちが家にいなければならない。娘たちは他家へ嫁ぐが、習慣や豊かさを守るために結婚はサフランボル内で行われた。父親は可能なかぎり息子を手放さないが、稼ぎも十分になり、社会的地位も得た息子は、結婚すると別の家を構えることもできた。父母、息子、嫁、孫、叔父,伯父、叔母、伯母たちから家族は成っている。 
これに養女として引き取られた娘が加わる。大家族の中で、世話を受けなければ生きていけない年寄りや赤ん坊、経済力も社会的な自由も持たない独身や未亡人の叔母や伯母たちも、その子と共に安心して暮らしていくことができた。家族の役割分担は習慣により決まっていた。家族の人間はこの役割の中で幸福にならねばならず、その他に道はなかった。とは言え、家はこの制度の中にあっても自由を感じられるように設計されていた。もともとこの大家族は、多数の人間の中にありながらも、小さな単位に別れていた。外部に対しては男性と女性のふたつの社会に分かれている。それは家のなかでのハレムとセラムルックに象徴される。 
夫婦は一単位と数えられる。 この一単位に一部屋あてがわれることで、私生活が保障される。部屋はこの単位が必要とするものを備えるように設計されている。 
サフランボルではたいていの夫婦は二人以上の子供を持ちたがらない。三人子供のいる夫婦はまれであり、それ以上はほとんど見かけられない。息子が所帯を特つと、上階の一番いい部屋が嫁にあてがわれる。この部屋は嫁にとって、自分の家同然である。唯一自分が自由にできる空間である。そのため嫁はこの部屋を大事にし、あれこれと飾り立てる。大家族の中にあっても、個人が頭を休めることのできる場所も、この家の中に用意されているのである。気分がすぐれないときには、上階のソファ(部屋以外の広い廊下のような空間・ホール)のセディルに座って何か手仕事をしたり、考え事をしたり泣いたり、子供たちの相手をしたりできる。または大きな庭をひとり散歩して、果物をもいだり、木の根元に座って貯水槽の水の音を聴きながら一休みしいやなことを忘れる…。
サフランボルの民家はたいてい5-6部屋ある。父母に一部屋、息子夫婦に二部屋、おばたちに一部屋、孫たちや祖母に一部屋、もう一部屋は台所や養女の部屋にあてがわれるとすると、客間はあるかないかといったところである。     
 大きな家では女性たちの仕事が多い。そのため、家事の手伝いをさせるために養女として少女が引き取られる。村にいる子だくさんで貧しい家族からひとり貰い受けるのである。この娘の父親に娘の代償が払われることはない。7-8歳で引き取られてくるこの娘は、家族同然の扱いを受ける。目上の家族は名前で、小さい子供は「お姉さん」と呼ぶ。娘はこの家の躾で育てられ、縁があれば嫁入り道具を用意して嫁がせる。結婚して、現在もイスタンブールやアンカラで、平穏に暮らしている養女たちも少なくない。この養女の制度は、引き取った家に役立つのと同様、貧困の中で娘たちに十分なことをしてやれない村人にとっても、希望の扉であった。養女の数は裕福な家ではふたりのこともあった。養女が嫁いで行ってしまうと、かわりに新たな娘が引き取られた。 
時が経つにつれて、経済的な豊かさが広まってくると、この伝統制度もだんだんと無くなっていった。

日常生活
大人は日が昇る前、礼拝のために起床する。女性が先に起きてかまどに火をつけ、スープをつくる。男性たちはスープを飲んでから礼拝のためにモスクヘ行く。モスクが遠ければ家で礼拝をすませる。空腹のままモスクヘ行き、あとで家へ帰ってからスープを飲む男性は、家で馬やロバの世話をし、庭の手入れをしてからカフヴエ(コーヒー店)へ行く。この間にひとりの女性は食事を準備し、もうひとりは牛の世話をして乳を搾る。ひとしごと終えると朝食をとる。メニューは、タルハナ・スープ(保存食として乾燥されたスープをもどす)、ヤユム(細切マカロニ)、または野菜料理、ペクメズ(果物を煮詰めたもの)、クルミなどである。 
皮なめしを生業としている者は、誰よりも早く仕事場に向かう。彼らの仕事は昼までで終わり、午後は自由である。家や庭のしごとに精を出す。店を持っている者は、夏の間はお昼前に仕事へ行く。忙しいのは市がたつ日だけで、あとの日は暇なことが多い。そのため、昼まで家の庭仕事をする。 
女性たちは家事に明け暮れる。皿を洗って台所をかたづけ、布団をたたんで押入れにしまう。床を掃いてしまうと水汲みに行く。それから庭の手入れをする。昼食は取らない。朝遅めでかなりの量の食事をしているからである。しかし男性のほうは場合によっては市場でピデ(粘り気のあるパン)や菓子パンを買ったり、煮込みを作らせたりして食べる。女性たちも、他の家を訪問した場合には、行った先で出る菓子パンやジャム、チーズ、果物などを食べて空腹をまぎらわす。昼食を食べる習慣がないので、女性たちは朝から他の家を訪問することができる。その後夕食の準備が始まる。男性たちは夏、イキンディ(4-5時)頃に仕事場を閉めて家へ帰る。夏の家へ帰るには馬やロバに乗って、少しばかり時間をかけなければならないからだ。日が沈む1時間前には家へ着き、夕食となる。この夕食は朝食よりも手が込んでいて、スープ、肉料理、野菜などである。 
日が沈むと礼拝の時間だ。男性たちはその後カフヴェヘ行ったりする。一日最後の礼拝を済ませてから、新鮮な果物や乾燥果物を食べたり、果物のシロップを飲んだりする。それからしばらくすると就寝時間になる。夕食を親戚の家で食べる場合には、セラムルックとハレムに別々に食卓が用意される。また家で夕食を済ませた上で、手にランプをぶらさげて、親戚や近所の家を訪問することもあった。

サフランボル
形態

都市の地形
サフランボルは北部から南部に向かって低くなっていく。順番に石灰岩泥灰土一石灰石層から成る高原が、流れる河川に侵食されてできた渓谷の内側とその周囲に位置する。
北部から流れてくるギュムシュ川がつくったこの谷には、狭く深い渓谷が形成された。渓谷の傾斜部分は石灰石である。城砦がある丘は、川によって侵食されずに、まるで島のように高くなっている。西部には渓谷の終わりにあるがけの上にクランキョイがある。北東部から流れるアクチャス川は狭く深い渓谷を流れてアクチャス地区に入ると広がり、ジンジ・ハヌの下に掘られたトンネルを流れる。ここでアクチャス川の渓谷とギュシュデレ川の渓谷が合体して大きな窪地を形成する。この窪地に市場やタバックハーネがある。アクチャス川は下タバックハーネでギュムシュ川と合流する。 
シェヒル地区の北西部、ジンジ・ハヌから2500mのところに、シェヒル地区から上へのびている傾斜地にバーラル地区がある。バーラル地区はインヤカス高原のつづきのような性格を持っている。庭には、今日でさえその昔森であったことを物語る松の木があったりする。

歴史的推移 
シェヒル地区の歴史の中で、建物の建築年代を見ていくと、トルコ人が最初に定住したのは城砦があった丘と南部であったと言える。城砦はまちの役人たちが住んでおり、南部の傾斜地には庶民が住んでいたのだろう。17世紀に城砦の南東部が重要性を増してくる。18世紀には西武や北部へ向かって発展し、東部ではアクチャスまで広がった。19世紀ではより北へ、南へ、そしてアクチャスまでの空き地を埋めるように東へのびていった。安全や富が確保されると、ブドウ畑であった部分が夏の地区に変わっていき、バーラル地区が形成された。


シェヒル地区
サフランボルでは夏一冬の生活は別々の場所で営まれた。シェヒルと呼ばれる谷の内側にある集落は、冬に住むための場所である。また市場は行政施設(町役場、その他の役所)、学校、生産の中心地(アラスタやタバックハーネなど)、モスク、ハマムなどがある。夏、この地区に住まないとは言っても、男性たちは毎日ここへ通い、日中のほとんどを過ごす。シェヒル地区の中心はアクチャスとギュムシュ川が合流した、三角地帯である。この地帯で二本の川が形成した谷に沿って家々が建てられた。 
市場に近づくにつれて建て混んでくる家々は、谷の内側に行くにしたがってまばらになってくる。この谷の居住地は、その地形のために変化に富んだ形相を呈し、驚くような風景に出会うこともある。つまり、魅力的な自然と人間の関係が生まれることになる。傾斜地の間隔も、一目で家々を見渡せ、ディテールまで区別できるような具合になっている。谷の傾斜部に建てられた民家は、互いの前をふさぐことはない。向かい側の傾斜地から、民家をひとつひとつ眺めることも可能である。広報には岩山が壁のようにそびえたら、谷にある家を冬の突風から守ってくれる。市場付近の家では、土地の都合上庭のない家もある。土地がせまく、直角でない場合、民家の上階は通りのほうにむかって出っ張っている。特にギュムシュ川の渓谷の川底は緑に覆われて。狭くなったり広がったりしながら変化のある地形になっている。この崖のすぐ上に立っている家は危なげに見える。
アクチャス川のすぐ側の通りから川の向かい側の家々にはそれぞれ小さな橋を渡って行く。
シェヒル地区の傾斜部と上部はまったく違った見え方をする。クランキョイからギュムシュとカレ、カレからギュムシュ、クランキョイ、チャルシュ(市場)、フドゥルルック、クバックハーネ、フドゥルルックからアクチャス、チャルシュ、カレを眺めると、それぞれが違った風景である。よそ者がある場所から見た民家群を、すこし傾斜を降りたり、上ったりするだけで見え方が変わってしまうので、別の場所だと錯覚してしまう。そのために非常に大きなまちであるかのような印象を与える。
 同じような現象が、クランキョイからカスタモヌ道へ入るときにも起こる。クランキョイからは、向かい側のギュムシュの家々しか見えない。その後道はバルトゥン方面へ曲がり、自然の中へ入って行くが、市場の方向へ入ると家々の間を抜けてフドゥルルックや他の傾斜地にある民家が見えてくる。 
アクチャス川を過ぎてムサッラ墓地へのぼるとき、アクチャス区、チャルシュ、カレが再び目の前に現れる。まちが自然のなかに見え隠れしたり、遠ざかったり近づいたりすることは、今世紀われわれがテーマにしている課題である。しかしサフランボルではこれがすでに何百年も前に実現されていたのである。

バーラル地区 
都市最大の夏の居住地である。シェヒル地区の北西に、ゆるい傾斜地の上につくられた。広大な庭の中にまばらに建物がある。地形から行っても、ここではシェヒル地区で見られるような変化はない。
それでも密に櫨えられた木々のある庭々の間をラビリンスのように曲がりくねって通る道は、通る者を戸惑わせ、まるで大きなまちにさまよいこんだような印象を与える。しかしこの地区は端から端までわずか1500mほどしかない。

トカットル・バーラル 
バーラル地区の東部、トカットル川の谷の内側に非常に起伏のある土地にある、第二の夏の居住地である。家は小さい。キルキッレ・バーラルバルトゥン街道上にある第三の夏の居住地である。家々は通りに沿って並んでいる。

クランキョイ地区 
シェヒル地区の西側で高台になっている平地にある、少数派のルムが住んでいた地区である。ルムは「住民交換」までここに住んでいた。クランキョイ地区もシェヒル地区と同じような性格を持っていた。ルムの民家には石材がより多く使用されている。シェヒル同様集合居住地である。
サフランボル
民家の周囲

通り 
地形や土地の面から、通りはシェヒル地区とバーラル地区では少々異なった形相を呈する。

シェヒル地区 
シェヒル地区は起伏が激しいので、自然の起伏に沿って通りがある。通りの幅、傾斜、舗装形態など、すべてはそこを通る人今昔を運ぶ勤物のために考えられた。サフランボルでの交通、昔の運搬は、馬やロバによって行われていた。荷車や馬車はまれであった。通りは狭く、曲がりくねっている。家々も通りに向かって張り出しているので、様々なパースペクティブを与える。狭い通りの角を広げるために、家々の角は面取りされた。上階は石のコンソールまたは木の支えに支えられている。ときどき行き止まりに出くわす。市が立つ場所では少し広くなって、必要な上地が確保されている。市場のある場所は他の場所より低地になっている。そのため、通りは、各区からまるで流れるように市場の方へ向かっている。通りは石畳である。雨水は中央に配置された比較的大きな石がつくる溝を流れる。たいていの場合歩道はない。敷地の傾斜がきつい場合は、川沿いの家は川に面した側に商い壁を築いた上に建っている。こういった家の前に建っている家は、この高い壁を覆うように建てられるが、高いの家の眺望を侵害することはない。川を渡るためには、石造、ときには木造の橋が架けられた。

バーラル地区 
バーラル地区の通りも、シェヒル地区と同様の方針で配置された。しかしこちらのほうは傾斜が少ない。大通りと大通りから曲がる通りのはじめに建てられている家々は建てこんでいる。通りの奥に向かって庭の塀が通引こ沿ってのび、だんだんと家の間隔が空いてくる。狭い通りは石で覆われているので、庭の石塀と一体化して、道が広くなっていくような印象を受ける。塀の上方から果物の木々がのぞき、通りに木陰をつくる。道の端にある水路には水が流れる。
通りにはところどころに、近隣の家々が共同で使っている石うすがある。バーラル地区では行き止まりの通りでよく見かける。家々はたいてい通りに面している。ときどき(切妻型の)軒のある庭門がある家もある。


 シェヒル地区でもバーラル地区でも家には庭がある。バーラル地区の庭はより広い。シェヒル地区ではたまに庭のない家もある。
庭塀 
庭は通りが描く自然の線に沿った塀で囲まれ、通りから隔たれている。庭の境界線は通りのそれである。家の設計もこの境界には逆らえず、この線に従わなければならない。この境界は同時に個人の所有物と公共の物とを分けている。 
庭塀は日干しレンガ平石を積み重ねてつくられる・こともある。塀の高さは人間の背丈より少し高い。通りから庭の内部は見えない。塀の上部は、雨水から塀を守る木の板平瓦で覆われる。木製の覆いは「トゥラ」と呼ばれる。トゥラは片側のみか、両側ある場合もある。庭の隣家との境には、木の板の仕切り(ダラバ)か、またはより低い塀が設けられる。覆いがつけられる場合は、塀の持ち主のほうに傾いてつけられる。通りから庭へ入る入り口には、軒のある両開きの門が設けられている。庭の入り口も、家の入り口と同様のデザインである。仲良くしている隣家との間の塀には扉がついている。この扉を通って、外へ出る事もないのでふだん着のまま行き来ができる。
庭(菜園) 
庭は最も重要な生産の場である。特に夏の家の庭は広大である。夏-冬別の生活形式は、夏の家での生産活動のためである。庭は土地の傾斜により、テラス状になっている。庭の形状、傾斜の具合、大きさ、土質、風向き、日当たり、水撒きの可能性を考慮して、野菜畑・果樹園やブドウ畑に区別して栽培される。庭にも、一休みしたり、作業をしたり、涼んだりするための場所がある。そういった場所には花が植えられる。
野菜畑:家族が栽培可能な範囲にとどめられる。水が十分に与えられる場所が選ばれる。庭に植えられる野菜は以下の通りである。
夏の野菜: 大イングン豆、トマト(この地方ではマニエとも言句、大とうがらし、キュウリ、ナス、ズッキーニ(この地方ではキョセ、ヤズ、アスマとも言う)、とうもろこし、オクラの他に少量のテンサイ、たまねぎ、にんにく、じゃがいも、グリーンピース、ソラマメ、ミント、西洋パセリ。
冬の野菜:ほうれんそう、長ネギ、キャベツ(ケレム)、レタス、ニンジン、かぼちや(種類:アク、カラ、ゼヒル)、大根、赤カブ。
果樹園:果物がなる木は種類も数も多い。いくつかの例をあげる。桑の実(白、苦黒、ピラフ桑)、りんご(種類:赤、アマスヤ、スィノップ)、すもも(種類:アレリッキ、ジャン、チャンクル、ミュルドゥメ、ナルバント、ハルマン)、洋ナシ(種類:ギョクスル、マフマット、クズルジャ、バルムム)、サクランボ(種類:アルキラズ、サプクサ、アクキラズ、デミルキラズ)、ミズキ(キレン)、かりん、アーモンド、クルミ、ヘーゼルナッツ、いちじく。バーラル地区の庭には松の木があることもある。サフランボルの人々の木に対する嗜好が現れている例である。
ブドウ畑:サフランボルのブドウは有名である。このため、夏の場所はバーラル(ブドウ畑)という名がついている。1950年にフロクセラ病が流行る以前は、バーラル地区のブドウ畑は大きく、高収穫たった。かなりの種類のブドウが栽培されていた。チャヴシュブドウをはじめペムベチャヴシュ、チフトリッキチャヴシュ、アクウズム、ハフザリ、ケペネッキ、ダナギョズ(黒)、カラパルマック(黒)、ムシュケップ、カラチャトラック(紫)などの種類があった。
栽培された野菜や果物、ブドウは、自給自足の閉鎖的経済の中で消費され、残りは売られる。
民家 
アナトリアの西半分からバルカン半島まで分布している民家の形態が、サフランボルでも見られる。これらの民家の地上階は石造である。地形に合わせて、主階となる上階の基礎になっている。上階の骨組みは木造である。中間階の天井は低く、窓も少ない。上階には数多くの窓と張り出し部分があって、動きがある。


全体と表現 
サフランボル民家の通り側の壁は、通り川の境界線に沿っている。この壁は庭の塀のつづきである。そのため、通りは両側から仕切られている。イスラム教の戒律によると、家内の生活が外部から見られることがあってはならない。
基礎階は石が積み重なった窓のない壁で囲まれ、上階の床まで高くなっている。これより上の部分では、異なった秩序が展開される。中間階は中継階として上階のお膳立てをする。その下の階か、上階に合わせられる。または中間階が存在しない場合もある。中間階は、上階よりも天井が低い。窓も小さく、数も少ない。たいていの骨組みは木造である。上階は到達すべき目的地である。 
トルコ民家の主なプランの例を、最上階に見ることができる。この階は直角な秩序の中で発展している。必要ならば、この秩序を保つために通りや庭へ張り出し、通りや景色と関係を持たせ、部屋を大きくする。上階は石造でのっぺりとした地上階と違って、基本構造が木造で窓も多く、張り出し部分あるので動きが感じられ、より天井も商い。張り出し部は支柱(アユ・バジャウ、熊の足の意)で下階から支えられている。この支柱は、上階が通りに向かって張り出しているのを強調する。ときには1階分もの長さになり、さらに二箇所の張り出し部分あると、長い支柱が繰り返されて、いつまで眺めていても飽きない外観を形成する。支柱の間隔も、また別のリズムを生み出している。歩いていると通りの景色のなかで、それぞれの支柱の間隔が開いたり閉じたりして見えるのも、目の遊びである。
張り出し部分で動きを与えられた上階を、シンプルな屋根が覆っている。広い軒を持つ屋根の役割は、ただ家を守ることだけ、という素朴さである。傾斜はゆるく、雨どいがあり、瓦で覆われている。家自体は、窓枠やカラ・カッパク(風除け、雨よけのための戸)以外は白一色である。黒ずんだ木の色と、石灰を塗った壁の白色が対照的である。ハヤット(地上階のホール)の、地上階の天井までのびている大きなムシャバック(斜め格子)やギリステ(地上階の格子)が上階を支える柱を隠している。そのため、二階分もあるこの巨大な白い塊は、陰の上にそびえたっているようで、驚かされる。

地上階 
地上階は家の基礎を形成している。生産に関する役割を担っている。形態的不安はない。通り側の入り口 
通りから家の中へは両開きになっている戸をあけて入る。この戸は単純なつくりだが、それがかえって住んでいる者に安心感を与える。両開きの片方を開けただけで、人と家畜が通れる程の幅がある。宴会のときや大きな荷物をのせた家畜が通るときには両方の戸が開かれる。各戸は、隣同士並べられた平らな板を、裏側から三本の帯状の桟でとめただけである。板はこの桟にカルパックル釘といわれる頭が盛り上がった釘で外側からとめられる。この釘は装飾にもなっている。 
二枚の戸の間にはビニ(戸あたり)がある。ビニは、カラ・カパックにもあるが、伝統的なスタイルで彫刻が施されている。戸の表面には、訪問者のためにシャクシャク(ノッカー)がとりつけられている。このシャクシャクは、戸に打ち付けられた釘を叩くと音が出るようになっている。(その音が「シャクシャク」と聴こえる)内側から戸を開けるときは、戸の錠前のレバーに結ばれたひもが、中間階から引っ張られ、外側からは、シャクシャクから出ているレバーを上に持ち上げて戸が開く。シャクシャクがない戸では、外側に出ているレバーを上に持ち上げて放すことで、音がでるようになっている。 
家族と親しくしている友人や、近所の人々、家族の者が出入りするためには、錠前の下側にある小さなでっぱりのようなレバーを常時開けておく。その場合、外側のレバーを上げるだけで戸が開く。中にいる家族はこのときの音で、家に誰かが入ってきたことがわかる。 
このレバーのシステムは大変シンプルではあるが、影響力のある発明である。戸のかまちから自身の重さで垂れ下がっている水平な本俸が、戸の裏側を押さえつけているので、レバーを上げずには戸はひらかないようになっている。 
戸の裏側に上下運動する木俸がある。この本俸の下方に取り付けられた鉄のレバーを上へ持ち上げると、この木俸が、戸が開くのを止めている水平な木俸を持ち上げて戸が開く。
戸のレバーのパネルは、レバーが上下に動くために細長い形状になっている。鉄を叩いて作り上げられたものである。上下の端には半球状に出っ張った部分かおり、三角形の穴で装飾されている。戸の外側表面、真中はどの高さの部分に、輪がついた半球状の鉄の金具が両方の戸にある。こちらにも三角形の穴の装飾がある。戸を引っ張ったり押したりするときに使う。
戸の内側にはレバー、錠前、蝶番かおる。錠前はデミルジレル・チャルシュス(鍛冶屋市場)で現在でも手にはいる。たいてい鍵穴が二つある。下の鍵穴はかんぬきをスライドさせて戸のロックの開閉をする。
上部の穴は、小さな出っ張りを上へ持ち上げて戸を開けるためである。蝶番は戸を内側から閉める掛け金である。それとは別に両方の戸鉄製のバーがあることもある。これがあると安全性がより高まるので、夜に使用される。各戸は粋にギュッラップ(金具)でとめつけられている。各横板にギュッラップかおる。戸の外側には、枠に取り付けられた広い内枠がぐるりとまわっている。ときどき古い保険会社の看板がついた戸を見かけることもある。

サフランボル ハヤット 
戸から入ってすぐの場所を「ハヤット」(人生や生活という意)と言う。地上階はたいてい土間で、ときどき手入れをする。「ハヤットがまくれた」と言うと、ハヤットの土間の土が盛り上がってきて傷んでしまったことを言い、こうなると手入れが必要になる。水とわらをふりかけてたたく。ハヤットの部分が石で覆われていれば、そこは「タシュルック」(石敷の意)と呼ばれる。ハヤットから階段でひとつ上の階へ上るが、階段のはじまりの部分を「パブチルック」(短靴を置く場所の意)と呼ぶ。文字通り靴を脱ぐ場所である。
ハヤットの一面、あるいは二面が外に面している。この部分には地面から60-80 cmほどの高さで、同じくらいの幅の基礎壁の上に、建物の支柱がある一定の間隔でたっている。この柱の間を「コル」、壁の上を「バフナ」と言う。 
バフナの上に薪が積み上げられる。バフナからハヤットの天井までの間を、ギリステと言われる格子が縦方向に埋めている。またはカフェス(斜め格子)のようなパネル二枚で覆われている。この格子のおかげで、薪を乾かすのに適度な外気を取り入れることができ、ハヤットは明るくなり、換気ができる。また、外部の危険からも守ることができる。
カザン・オジャウ 
ハヤットの一面の壁に、またはハヤットにつながっていて、大量の食事を作る場所になっている場所に、カザン・オジャウ(大なべのかまど)がある場合かおる。カザン・オジャウがある場所の床が石ならば、そこは「タシュ・ムトファク」(石の台所)と呼ばれる。貯蔵庫
ハヤットの一面の壁に接して、二段になっている貯蔵庫がある。
うまや 
ハヤットから戸を開けて庭に出る。また別の戸でうまや(ダム)に入る。牝牛がつながれている場所の床は木である。馬とロバがいる場所は土である。うまやは「トメック」と呼ばれる窓で明かりをとり、換気をする。銃眼用の穴を思わせるこの窓にはガラスがはめられていない。うまやにはロバ一頭、馬一頭、牝牛が一頭いる。雄牛の数はときどきだが増えることもある。牝牛のうまやは、匂いを消すために庭のワラ置き場に近い場所に設置される。
家畜が一頭しかいない場合は、ワラはうまやの片隅におかれる。家畜が何頭かいる場合は、うまやに隣接した部分、あるいは庭にワラ置き場がしつらえられる。


部屋
 家の重要なエレメントは部屋である。設計が同じであっても、用途の面で異なる部分もある。それは台所(アシエヴィ)としてあてがわれたり、台所専用につくられた部屋などである。中間路の部屋は昼間、くつろいだり作業をしたりするための部屋である。  
上階の部屋は嫁たちや客人の寝室、一般的に就寝用の部屋として使用される。冬の家でもそうであるが、夏の家でも方角や広さ、つくりの面からもより暖かくなるように工夫された冬用の部屋がある。また、男性たちが客人をもてなすための部屋もある。 
この部屋は家のセラムルックにあるか、階段を上ってすぐの場所である。普通、つれあいを亡くした独り者の老人は、中間階を寝室とする。そして老人は可愛がっている孫とこの部屋を共同で使用することもある。 
大勢の客人が訪れた場合、台所でさえも寝室として利用することもある。サフランボルでは部屋のことを「イチェリ」(内部の意)とも呼ぶ。はじめは奇妙にきこえる呼び名だが、用途、場所、意味からいっても部屋の性質をよく言い表した表現である。部屋のプランは正方形、あるいは正方形に近い四角形である。部屋の天井の高さは上階では3m以上、中間階では2,3-3mほどである。
部屋の入り口 
各家のプライベートが保障されているのと同様に、入り口から入っただけでは家の中で何が行われているのかがわからないように、各部屋も生活の基本単位であることからプライベートが守られている。ソファから部屋へは直接入れない。ソファから部屋の中を見ようとしても、すべては見えないようになっている。この設計にはいろいろな形態がある。
部屋へはたいてい部屋の角から入るようになっている。この入り口が、部屋の面取り部分からであった場合は、完全に角口となる。この面取り面を「ファルサ」と言う。角からの導入部は、入室者を遠回りさせるように考えられた結果である。部屋へ間接的に導くためである。ときどきソファのエイヴァンからなら部屋へ直接入る場合もある。ここでプライベートを守っているのはエイヴァンである。改装された部屋では、直接部屋へ入るような入り口になっている部屋もある。 
入り口はふたつの部分に分かれている。たいていは二回方向を変えてつくられている。戸を開けてすぐに木製のついたてがあって、中が見えないようになっている。この最初の部分はアーチ状に開いた次の入り口へつづく。
最初の部分の天井は、戸の高さよりもやや高い。アーチ状の戸口部分から入ってから、直角に方向を変えると、部屋の中央方向を見る場所へ出ることができる。 
この第二の部分は、最初の部分よりやや広い。天井も少し高い。戸口の向かい側には戸棚や棚がある。古い家では戸棚の下はアーチ状にくりぬかれたブハル(薪置き場)になっている。部屋に向かっている面では、たいてい花置き場や木彫り装飾になっている。
ハジ・サーリヒ・パシャ(1820年)家のセルゲン(部屋を一周する幅の狭い棚)の上には絵が描かれている。天井の部屋に面した部分の角に、アーチに似せた装飾がある。
もしくは、天井がテクネ・タヴァンであることから、まるでアーチになっているかのような印象を与えるつくりもある。第二の部分の床は、ときどき部屋よりも低く、両脇にある手すりで、部屋中央とは区別されている。この複雑な部屋導入部は、外からの視線を避け、遮音や断熱のためである。
部屋の戸:ソファ面の戸口は、三方向の枠、敷居で囲まれている。枠上部の下には「キタベ」と言われる部分が、そのまた下にはアーチ状の部分がある。
キタベは一般的に一枚の板であるが、3枚の場合や、アフメット・ベイ家・夏の家のように何枚にもなっていることもある。戸は中へ開き、高さは人間の身の丈ほどである。戸は。古いものだとシンプルで、平らな板を3枚の横板でとめただけのものである。最もよく見かけられる例は、「アイナル」、または「タブラル」という戸である。枠は松、アイナ(はめこまれたパネルの部分)はくるみと、材料を変えたりして変化を求めたものもある。
窓のある壁 
部屋の入り口の向かい側や角部屋には、これに対して直角にある壁に窓がある。窓の下にはセディルがあり、上にはセルゲンという棚が部屋をぐるりと囲んでいる。
かまどの壁 
かまどはたいてい部屋の入り口面の壁に直角な壁にある。かまどは外に面している壁にはない。かまど側の壁にはユックリュック、戸棚、木彫り装飾、ときどきセディルもあることがある。
床 
各壁間の、セディル以外の空間には何も置かれない。そこは部屋の様々な責務を果たすために使用される。食事をするときはソフラ(食卓)が使われる。寝るときは布団が敷かれる。大勢の人が来た場合には、床にも座る。

サフランボル
ソファ(チャルダック) 
家の最も重要なエレメントは。各部屋をつなぎ、家の設計に影響を及ぼすソファである。各部屋はソファに面していてソファによってつながっている。これとは別に、お清め場や手洗い、食糧庫、階段もソファにつながっている。こういった役割以外にソファでは、座ったり、食事をしたり、作業をしたり、寝たり、といった行為も行われる。大勢の人が来た場合はここで集まり、宴会や法事、祝い事もここで行われ、踊りを踊ったり、イェル・ソフラス(低い食卓、ちゃぶ台)が用意される。ヤユム(短く切ったパスタ)やバクラヴァ(パイ菓子)、ユフカ(薄いパン)もここで作られ、並べられる。
中間階と上階のソファは、多少異なっていることもある。例えば上階は中央ソファなのに対して、中間階は角ソファであったり、ハヤットを見下ろす回廊を兼ねていたりする。サフランボルではソファをチャルダックと言う。ソファは、部屋に対する配置を見ながら、何種類かに分けることができる。
外ソファ 
この部分では部屋はソファの一方に位置する。見かけた例では、ソファには何もなく、上に屋根がかかっているのみである。外側表面の窓の高さまでの部分はダラバ(木のパネル)、その上にはムシャバック(大きな斜め格子)で覆われている。ソファの端には座るために、床から何段か高くなっていて、高ソファと呼ばれるセキ(段)があることもある。周囲は手すりで囲まれているこのセキには、戸棚やコーヒー炉が設置されていることもある。天井は一般的に化粧材で覆われておらず、小屋組みがそのまま見える。
角ソファ 
ソファが家の角に位置する場合、二方に部屋がある。ソファは外部に開かれているか、壁で閉ざされている。ソファの窓の前にはセディルがあり、エイヴァンとも言える延長部分がある。このエイヴァンは外に張り出していることもあり、またセキやセディルのような座る場所で終わっていることもある。角ソファは普通、三つの部屋の入り口、階段とお清めの場への廊下とつながっている。部屋の入り口はたいてい角からである。
中央ソファ 
よく見かけるこの例で、ソファは家の中央にある。ソファの四隅に四つの部屋がある。部屋と部屋の間にソファの延長部がある。エイヴァンと呼ばれるこの延長部分の数は、最大四箇所である。エイヴァンには階段、お清め陽一手洗い、食糧庫などがあることもある。部屋にはたいてい面取りされた角(ファルサ)から入る。中央ソファの家はシンメトリーなプランになっている。 
上階と下階は角が直角で同じプランである。しかし上階ではエイヴァンまたは部屋が外部に張り出すこともある。部屋が張り出している例は、より古い時代のものと思われる。この場合、家は四角形の屋根の下におさまっている。
エイヴァンが張り出している場合は、軒も張り出しの形に合わされる。サフランボルでは張り出し部分を「チカルトマ」や「アルットゥルマ」と呼ぶ。中央ソファの家では張り出し部分は外壁と平行である。チャルダックの天井は、エイヴァンの天井よりも高く、華美である。そうすることで、中心の空間としての存在を強めている。「テクネ・タヴァン」(小船風天井)がよく見かけられる。
エイヴァン
 部屋と部屋の間にあるソファ・エイヴァンは、部屋をひとつの生活単位として区分する。この単位の共同の場として、家の人々はここで関係を持つ。エイヴァンにはセディルがあり、そこで座ったり作業をしたり、会話を楽しんだりする。ときどき、飾り柱や、手すり、段などでソファと区分されていることがある。中にはソファより数段高くなっていることもあり、その揚合は「ユクセック・ソファ」(高ソファ)と呼ばれる。 
一般的に、面取りされているエイヴァンの張り出しは夏用とされる。ここには幅広の七ディルがある。エイヴァンの張り出しの下部は平らである。つまり、床下階天井の梁が伸びてこの張り出し部分を支える。ときどき張り出し部分の下部が小幅板の上にモルタル塗りになっていて、バロック調のカーブを描いたコンソール型になっていることもある。エイヴァンの窓のかわりにムシャバックという斜め格子のパネルがはめられているのは古い例である。このようにソファは外部の影響を受けやすい。こういったエイヴァンは、夏のくつろぎコーナーとして使用された。ギョクチュオウル家の夏の家では、このような夏用のエイヴァンが今日に至るまでよく残っている。アスマズラル家の夏の家では(1822)、1973年に行われた修復の結果、ムシャバックがはずされてガラスがはめこまれた。シャーヒンレル家の冬の家ではムシャバックが今でも残っている。

外チャルダック 
大抵夏の家の南側に伸びている、1-1,50mほどの幅のバルコニーを外チャルダックという。ほとんどの場合、ソファにある戸から出ることができる。床は木で、中間階や上階にも設置される。この場所は、食物を乾燥させるためにあるので、手すりは簡素なもので、なるべく影ができないように工夫されている。乾燥させられる食物を虫、猫や犬などから守るため、また上の階であれば木の影になることもなく、それどころか白い家の壁に太陽が反射して、乾燥を促進する。そのため、この乾燥工程は庭ではなく、このような家の一部で行われているのだろう。 
夏は外チャルダックにクッションを置いて涼んだり、冬は日光浴をしたりする。また洗濯物や布団を干したり、つづらなどを虫干ししたりもする。

階段
 各階を関連づける階段は、サフランボルでは大変簡素である。大抵はまっすぐな手すりがついているが、ときどき踊り場で二重の手すりに、また角の踊り場ではL型になっていたりする。まれにらせん状や三重の手すりになっていることもある。ハヤットから中間階へ上る階段では、石の踊り場または、何段かの石のステップの後木の階段が始まっているものがある。この踊り場で靴を脱ぐ。ここを「パブチルック(短靴の場)」と言う。
一方が階段、一方が壁、ぽとんどの場合板パネル(ダラバ)で仕切られている。このようにして手すりの問題も解決されている。階段の下、またはときどき上に扉がついている。これは警備の面と、断熱の面で必要とされている。ソファが外部にさらされている家では、ソファ側の空間をカバーするよろい戸がある。階段上部の空間を利用して、何段か上ったところに高いセキリッキ(高くなった場所)のような場所が設けられている。ここを「ユクセック・ソファ」(高ソファ)と言う。 
アスマズラル家・夏の家の上階のソファに上る階段には、ミンベル(モスクにある説教階段)に似た枠が取り付けられている。この両脇から何段かの階段でセキリッキヘ上る。
階段は二枚ささら桁の間に通された蹴込み板とふみ板から成っている。ささら桁の間は覆われているか、または何もない。ステップの部分をバサックと言う。

民家の形成方法
設計方法
歴史的推移
 家のつくりは様々な要因によって決まってくる。もっとも重要な要因のうちのひとつは、家の歴史的推移である。人間は簡単に自分たちの伝統や習慣、経験を忘れることはなく、時がたつにつれてその発展の中でこれらの名残を継続させるものである。アナトリアのトルコ民家を見てみると、遊牧時代からの名残を見つけることが出来る。この名残は、特に基本生活単位である部屋、また部屋とソファとの関係において顕著である。部屋はひとつのテント、または「ひとつの国・かたまり」だと考えると、ソファはこの周辺環境である。古い民家の例では、ソファ上方は屋根がかかっているものの、すべてにおいて外の環境に向かって開かれている。ソファや外部は部屋を全方向から包んでいる。
 サフランボルでもこういった基本的特徴が見られる。古い、いくつかの民家ではソファはオープン形式である。その他の例では、ソファ・エイヴァンが部屋と部屋を隔てていて、部屋に外部環境を作り出している。家の概念の中で重要なのは部屋である。各部屋は最小の家族単位の家である。家の設計で基本になるのは部屋の周辺である。部屋の大きさやつくりはどの家でもたいした違いはない。この部屋のつくり以外のつくりはない。だから家の主なエレメントは決まっている。家のその他のエレメントは、その役割からなるものである。部屋の他にお清めや手洗い場、食糧庫、階段がある。家の地上階には、また違った役割があるので、その役割により設計されている。
開放的ソファの家 
サフランボルでもっとも古い民家の例は、開放的ソファの家として我々の前に現れる。部屋の置かれている状況が何であれ、開放的ソファでは雨風、雪のような条件下にあっても何の対策もとられていないのは、開放的ソファの家が伝統的なものであるからである。こういった例は、サフランボルに於いても、開放的ソファが存在したことの証拠となっている。時代が進むと、まず冬の家が閉鎖的ソファに移行してくる。その後その流れが夏の家に移っていったと言えるだろう。
初期の民家の特徴 
サフランボルで歴史的推移の面から見て注意を引くまた別の事柄は、初期の時代の特徴が長い間影響を与え続けていたことである。バロツク風装飾は大変後期のものであり、わずかに影響があったにすぎない。

家と土地の関係
家のプログラム以外に設計を方向付ける重要な要因は、土地の形状、起伏、景色、そして通りに対する位置である。このことから、シェヒル地区とバーラル地区の家の間には、いくつか相違点がある。
シェヒル地区の上地は狭く、まっすぐな線を描いていない。そして何よりも急な坂になっている。バーラル地区はより平坦である。伝統的な民家は、通りに沿ってつくられた庭塀の上にのせられているように見える。あまりに急な坂になっている土地では、この塀は支持壁としてより厚く、高くつくられることがある,ときどき中間階をも覆ってしまう。
整然としていない土地 
狭く、整然としていない土地に建てられた家の地上階は土地の形状に合わせられる。中間階は張り出していて、その上にのせる上階のためにまっすぐな壁で整えられるか、またはただの間の階として自己主張をしていないこともある。上階は、絶対的でまっすぐで直角な空間が、張り出しによって形成されている。この張り出し部分は、たいてい三角形か斜めになった床になっている。 
支柱も上記の事柄から、様々な長さになる。張り出し部分を支える支柱は、家の外観に動きを与える。狭い土地では、張り出し部分で部屋を広くすることが重要になってくる。三角形の張り出しは、部屋からの景色や通りをお互い妨げることなく眺められるようにしてくれる。急な坂にある土地に建てられた家では、別の階にも入り口があったりする。例えばハレム、セラムルックの入り口であったりするわけだが、ハヤットの倉庫やバフナ(薪置き場)へ行ったり、保存食や薪を運ぶために設けられたものであることもある。違った傾斜のある二本の通りがぶつかる角に立てられた家は、通りや土地の起伏に合わせた的確な解決方法をとっている。この角地の家々はまるで彫刻家の手で彫られたかのような、感動的でおもしろいかたちになっている。
整然とした土地 
より扱いやすい土地、特にバーラル地区では下陰と上陰は角が直角で、上下の陰とも一緒に上へのびている。中間階は地上階または上階のつづきである。上階が地上階と同じであることはまれである。たいていは中央ソファのエイヴァンか部屋が張り出している。 
土地が都合のよい形であっても、通りに対して斜めに建てられている家がある。このようにわざわざ自発的に斜めにかまえられた家の上階は、様々な張り出し部分で動きが与えられている。こういった家の部屋からの通りの眺めや景色、日照、陰をつくる、といった要求以外にも、芸術的センスが発揮されていることは確かである。


動作と形状の形成
座る動作
トルコ人と自然との関係は、「座る」という動作に現れている。トルコ人は床に座る。清潔な場所ならばどこにでも座る。この動作に特別な道具は必要ない。家の中であれば床の上やその上に敷かれたじゅうたんやキリム、毛皮の敷物、クッションの上に座る。最後の段階としてセディルに座るという動作も、床の上に座るのと同じことである。
セディル 
一休みしたり、ぼ一っとしたり、くつろいだり、おしゃべりをしたり、家族が集まったり、暖まったり、作業をしたりするのに、セディルの上に座る。セディルは部屋やソファに、たいていは窓際に設置される。一般的に部屋の壁二面には窓があることから、セディルも二面の壁の端から端までに設けられる。ときどきかまど側の壁にもかまどの両脇にセディルがあることもある。このように、部屋の入り口側壁以外の壁には、座る場所としてのセディルに取り回まれた部分ができる。サフランボルの民家ではチャルダックが外に張り出すことによって、通りや景色がよく見え、より明るい座る場所になっている。面取りがされた張り出し部では、(夏用)張り出し部すべてを覆うように設置されたセディルで、広い座る空間をつくりだしている。ここは女性たちが座って手芸をしたり、足元で遊んでいる子供だちとふざけたりと、使用頻度の高い生活場所である。 
セディルは床を少し高くした場所である。セディルの高さは、19世紀に流行したきせるを吸うのにも丁度いい。長いきせるの先は床に触れるからである。トルコ人の座る動作の種類は多様である。あぐらをかいたり、片膝をたてたり、正座などである。これらの姿勢は広い場所を必要とするので、セディルの幅は75-105cmとなっている。座台の上には、サフランボルではヤンルック(脇用)と呼ばれる、モミ米を詰めたクッションが置かれる。このヤンルックを含めたセディルの高さは、35-45cmとなる。セディルの寸法は、窓や壁と大変いい関係を築いている。ヤディルに座っているときは腕を背もたれの上にのせるので、楽に外を眺めることができる。若い娘はすぐ脇にある戸棚からやりかけの手芸をとりだして続きにとりかかる。男性たちはセディルの上にあるセルゲン(棚)に背伸びして本(この場合コーラン関係)をとり、読む。ときにはセディルに座って片手に紙、もう一方の手にペンを特って書き物をすることもあった。古くは、サフランボルではセディルをソファとも呼んでいた。
床に座る 
セディルの次によく座られるのが床である。床に敷かれている絨毯やキリム、クッションの上に座る。客入たちが来たときに座る場所が足りなければ、または目上の人物であった場合、歳の若い者はセディルには座らず、床に座る。皆が床に座ることができるので、小さい部屋でもかなりの人数を収容できる。ひとりひとりに椅子をあてがう必要はないからである。冬はかまどの傍らまたは両脇に、「オジャッククッションの上に座る。かまどのそばで食事の準備をする女性も床に座る。クッションの一部はユックリュック(押入)にしまわれる。
庭で座る-庭の東屋 
庭で陰になっている涼しい場所は、座ってくつろぐ場所になる。ここには涼むためにつくられた噴水つきの貯水槽が、庭の水やりに役立っている。貯水槽のそばには葡萄棚(アトマック)がつくられ、影をつくっている。葡萄棚の下には庭用の長椅子が置かれる。肘掛けの部分がカーブを描く装飾的な形になっているこの長椅子を、「キョシュク(東屋)」または[タフタボシュ」と言う。ときどきこの噴水や涼みのコーナーが部屋の中にとりこまれていることがある。このようにして「ハヴズル・オダス(貯水槽のある部屋)]、または「ハヴズル・キョシュク(貯水槽のある東屋)」が形成される。壁一面の窓とセディルに囲まれた部屋の中心が噴水つきの貯水槽になっており、それを眺めながら涼む。そして同じ部屋に設置されたコーヒー炉で沸かしたコーヒーを楽しむ。これらのうち大きなものは、セラムルック用の東屋としてつくられたものや、貯水槽やその周囲が発展し、傍らにいくつかの部屋や手洗いまで設けられたものまであった。こういったセラムルックには別の入り口があった。

食事の用意
台所(アシュエヴィ)
サフランボルでの食事の準備は、「アシュエヴィ」と呼ばれる特定の部屋で行われる。部屋が備えているすべてのエレメントが、このアシュエヴィにも備わっている。部屋は居間や寝室として使用できるのと同様、台所としても機能する。台所としてあてがわれる部屋は中間階にある。この部屋は、女性たちが一目の大半を過ごす場所である。日常生活の部屋のようである。特に冬は、この部屋で家事をし、くつろぎ、暖まる。食事もたいていは台所で食べる。アシュエヴィが他の部屋と違っているのは、かまどがやや大きく、戸棚や物置の棚が多く、セルゲン(壁を一周する回り棚)の幅が広いということである。この部屋にはセディルやユックリュックもある。 
食器は戸棚に収納されている。戸棚の中は棚になっている。食器は種類別にこの棚に並べられる。鍋や底の浅い小鍋などは別々の棚に収納される。すべての食器は銅製である。家によっては、ふたつきの鍋を大から小へ順番にセルダンにならべて飾っていることもある。また、石けんも乾燥させる目的でセルゲンに置かれる。 
食事をつくるのに必要な材料は、少量かまどのそばの棚にしまわれている。サルチャ(マニエ・エズメスィ、野菜のペースト、現在では主にトマトのもの)、油、カヴルマ(いためて水分を完全にとばした保存肉、サフランボルではクイマという)、米、小麦、砂糖などが、女性の手元にあるこの棚に用意されている。台所には食糧は保存されない。倉庫や食糧米に保存される。台所に隣接して、または近くに食糧庫がある。食糧庫の網戸つき棚に毎日食されるもの、牛乳、ヨーグルト、油、チーズ、カヴルマの一日分が保存される。
冬だと月一回、夏には月に数回ユフカ・エキメイ(薄いパン)をつくる材料が、台所の戸棚の中で一定の場所を占める。 
かまどの側の木彫りの棚には塩入れ、マッチ、にんにくをつぶす入れ物、クルミをつぶす青銅製の入れ物、乾燥ミント、コルック(未熟葡萄の汁)や酢の瓶、コーヒーや砂糖が置かれている。料理の銅は専用の脚の上に置かれ、薪を燃やしたかまどで調理される。かまどの脇の戸棚の下には、一日分の薪がしまわれている。かまどは毎日寝る前に必ず掃除される。まず灰をとって、燃えさしの火を消す。その後容器に入れてしめらせた白土を、チャプットという道具でかまどの天井やその他すべての煤がついた部分に塗りつける。この作業を「オジャック・スヴァマ(かまど塗り)」と言う。かまどの白さは、その家の女性たちの清潔ぶりを象徴することから、この作業は特に重要視されていた。煤がついた鍋の表面は、灰やレモンでこすって磨かれた。かまどに置かれた鍋置きの脚の上には、食器洗い用の容器も置かれていて、この容器の中で暖まった湯で、食器が洗われた。

サフランボル
食事をとる 
食事は、座ることが出来るすべての場所でとることができる。家庭ではふつうアシュエヴィで食事をする。客人たちには客間で食事が出される。大勢いる場合はチャルダックでも食べる。集まりの時には、男女は別々に食事をとる。ハレムリッキ、セラムルックがある家では、男女別々の場所で食事する。
食事をするにはまず、床に布が敷かれる。その上に板でできた丸い、脚がついた食卓(ちゃぶ台に類似)が置かれる。裕福な家では客用に、専用の脚の上に銅や真鐘製の大きな盆(スィニ)を置いてもてなす。大勢の客をもてなす場合、裕福な家では「メイダン・スィニスィ(広場の大盆)」と呼ばれるより大きな盆が用意されたり、二つ折りになる大きな食卓がある場合はそれが使われる。この大きな食卓や大盆で、一度に10-15人が食事をとることができる。食卓や大盆の上には何の布もかけない。食卓のまわりにはクッションが置かれ、その上に座る。大勢座っている場合は、食卓に体の右側だけをつけて食べる。そうすることでより多くの人が座ることが出来る。 
料理の入った入れ物は食卓の中央に置かれ、ひとつの入れ物から手で取って食べる。全員に布ナプキンが与えられる。ときには長いナプキンが食卓のまわりに配され、座っている人の膝の上にのせられる。スープ、ピラフ、果物のシロップを食すにはスプーンを使う。フォークやナイフは使わない。

保存食の生産
庭での作業 
家族にとって最も重要な生産活動は庭で行われる。そのために夏の家へ移動する。まだ春の時期にも、必要があれば日帰りでバーラル地区へ行く。ときには労働者をやとったりもする。いくつかの家には、村から来ている労働者のために、庭のカザン・オジャウ(大鍋かまど)の上方に客聞が設置されている。
庭の水やり:葡萄園や庭菜園に必要な水は、何百年も前にバーラル地区までひかれている。この潅漑用水は、サフランボルの北西にあるインヤカ山の洞窟から湧き出ている。そのためこの水は洞窟水とも呼ばれている。潅徴用の水はバーラル地区のみにあって、シェヒル地区にはない。通則こ設けられた、整然とした水路システムでバーラル地区へ配水される。潅漑用水は、デイルメンバシュの水車から三方向に分かれる。全員の庭に水を行き渡らせる係の人間がいた。昔は8-10日に一度、この係が回ってきた。この水は夏でも十分な量であった。冬は余ってしまうので、あふれてしまう。水は大変冷たい。通りの水路から庭へ取り込まれた水は、まず水路から一番遠い菜園へまかれる。それからだんだんと近い場所へまいていく。余分な水は、水が来ないときのために貯水槽にためられる。


保存食の準備
果物と野菜の準備:これらの材料は乾燥させたり、ペクメズ(果物を砂糖を加えずに煮詰めたもの)ペスティル(固めの果物ペースト)、エズメ(漬したもの)、ジャム、漬け物にされたりする。
小麦でつくる保存食:サフランボルの周辺ではオルタックチュ(小作人)が世話をしている畑がある。そこで収穫された小麦は、サフランボルにある五つの水車で小麦粉にされる。その小麦粉は三種類のふるいにかけられ、(針金ふるい、中ふるい、細ふるい)三種の小麦粉が用途別に使用される。小麦からはついた小麦,ケシュケッキ(粗精製麦),でんぷん、タルハナ(乾燥スープ)がつくられる。小麦粉でヤ ユム(エリシテ、細切りパスタ)、マカロニ、パン、ボレッキ、ビュクメと言った乾燥保存食がつくられる。
牛乳でつくる保存食:牛乳がよくとれる5月、6月に、バターやチーズがつくられるが、それほどたくさん牛がいるわけではないので、十分にはつくれない。チーズは台所で、バターはハヤットでつくられる。
ケシのつくり方:ヤユック(ヨーグルトを入れて振る木の容器)で、油の部分を取り除いてからアイラン(薄いヨーグルト)に入れてこし、十分濃くなったら塩を加える。細かく分けてからカゴの下で乾燥させる。これを「ケシ」という。ケシは水で溶かすとヨーグルトになる。
クイマ(カヴルマ、肉の保存食):昔は週に一,二度家畜を屠殺していたので、その日以外の日に肉を食すために、カヴルマとして保存された。挽肉にするのは大変で汚れる作業であったため、夏の家でのみ行われる。11月には雄山羊(エルケチ)を市場で買う。羊の挽肉は臭うので保存に向かない。 
家へ肉屋が来て家畜を屠殺してくれる。肉はカヴルマ用とドシュ(胸、首回り、腰)の部分としてふたつの部分に分けられる。内側の膜やその他の脂身も分けられる。厚い板の上で大包丁で十分に叩き切られる。カザン・オジャウ(大鍋かまど)の上の大きな鍋で水分がとぶまで炒め、その後銅の浅鍋に詰め込まれる。一晩たつと肉は固まり鍋を逆さまにして肉を取り出し、肉入れ用カゴに入れられる。

作業用かまど 
上記のような作業は、台所のかまど以外のかまどを必要とする。広い場所がなければ出来ない、周りを汚す作業であるので、庭で行われる。そのため、庭にはいつでもかまどが設置される。
石のかまど(庭のかまど)地面に置かれたいくつかの石で簡易かまどがつくられる。この種のかまどでは何でもつくることが出来る。
カザン・オジャウ(大鍋かまど) アーチ状にくりぬかれた大きなかまどである。この種のかまどはたいていハヤットに設けられている。

庭でむきだしになっていることもある。上部が葡萄棚、または軒なっているのものもある。また、庭につくられた作業用の別棟にある場合がある。この別棟の上階は村から来ている客人や労働者の寝室の役割を果たす。カザン・オジャウはどの家にもひとつはある。冬の家のハヤットにはない。冬は必要ないからである。必要な場合には庭に石のかまどがつくられる。
パン焼きかまど まれに見かける。パンやロクム(でんぷん菓子)、クルミ入りパン、ケーキなどが焼かれる。パン焼きかまどがない家は近所の家のものを使わせてもらうか、市場のパン屋のかまどに出す。

保存貯蓄
これほど多くのものを生産しているのだから、それらの保存、貯蓄のための広い場所が必要となってくる。伝統的生活形態が長く続いた結果、保存に最もふさわしい場所が、家と一体化しながら、その時代最も正しい方法が選択された。
食料の保存、貯蓄 
食料は、保存するのが難しい物質である。それでも保存に最も適した方法が見つけられた。食料保存の基本として、乾燥、調理、塩漬けなどの処理の後、何百年もの経験の末に得られた知識でもって、特別な方法で保存された。家はこの保存食の容器に合わせて形成されるか、または容器に合わせた場所が用意される。
倉庫: ハヤット、または中間階にモミまたは松の木の板でつくられた大きな貯蓄庫がある。これは大貯蓄庫と小貯蓄庫(クズルック)とふたつの部分に分けられる。小貯蓄庫の上にのって、大貯蓄庫へ上がる。大貯蓄庫は後方にあり、人間の背程の高さがある。小貯蓄庫は前方にあって、50--80cmの高さである。内部は仕切られていて、上がフタになっている。地面から湿気を吸わないように、高床になっている。非常に大きいものになると重すぎるので、地上階にのみ設置される。貯蓄庫が接している壁は、涼しく湿気のない方角である。大貯蓄庫には、モミ米、冬用の小麦、とうもろこし、ついた小麦、クルミ、アーモンド、小麦粉、雌牛のためのフスマ、のりものとしての家畜のための大麦など、量が多いものがたいてい天袋に入れられて収納される。小貯蓄庫には、より量が少ない乾物が収納される。ハヤットに設置される貯蓄庫とは別に、中聞階や食糧室(キレルリッキ)にも貯蓄庫が置かれる。これらはより小さく、たいていは一段しかない。この貯蓄庫の中には、乾燥りんご、乾燥なし、乾燥すもも、乾燥桑の実、ついた小麦、小麦粉、タルハナ(保存用の乾燥スープ)、でんぷん;またカゴに入れられているのは、ペスティル(固めの果物ペースト)、ヤユム(短く切ったパスタ);木の箱に入れられているのは、ぶどうのペクメズ,ぶどうのペスティル;釉薬のかかった壷に入れられているのは、ペクメズ(砂糖を加えずに煮詰めた果物、サフランボルではふつう桑の実のもの)、ジャム;乾いた鍋やカゴの中にクイマ(カヴルマ、炒めて水気をとばした保存用肉);乾燥バン;乾燥大エンドウ豆、レンズ豆、その他少量の乾物が収納される。
キレルリッキ(食糧庫):中闇階の台所の近くにある。周囲には棚や戸棚があり、棚の上はムサンドゥラになっている。内部には貯蔵庫と網戸つき戸棚がある。キレルリッキには台所で必要となる食料が保存される。ハヤットの貯蔵庫にあるものが少量ずつ、キレルリッキにもある。
ジャムやつぶした果物は袖薬のかかった壷に、木の器や鍋は戸棚にしまわれ;ペクメズ、酢、トマトペースト、漬け物、ジャム、素焼きの壷にはチーズが;果物の砂糖煮シロップは粕薬のかかった壷や容器にいれられて、キレルリッキで保存される。
ムサンドゥラ(天袋):台所やキレルリッキ、いくつかの部屋には、セルゲン(壁にめぐらされている幅の狭い棚)より上には天井まで何もない。この何もない部分を「ムサンドゥラ」と言う。前方に枠組みやその他の手すりがある。ムサンドゥラは冬の家に多く見られる。かぼちゃをけじめとして、りんご、また暖房が入らない部屋ならばたまねぎやじゃがいもも保存される。
燃料の貯蔵 
料理や暖房のためには薪が使われた。サフランボル周辺には広範囲にわたる森林があるので、薪は豊富にある。薪屋が馬やロバ、牛車で運べる分を一単位として特ってくる。薪は春、夏のうちから購入される。家畜に運ばせる薪は、すでに切られた薪で、切り方にも特徴がある。
このような薪を、耳付き薪と言う。斧屋は薪をお互いに反対方向に二回斧を下ろして切る。こうして切られた薪のー方は尖っていて、もう一方は内側にへこんでいるので、まるで矢のような形になる。
バフナ:耳付き薪はハヤットのバフナの上に並べられる。並べ方にもきまりがある。薪の尖った先端を家の外側に向けることで、薪の間から空気が流れていくので、乾燥を促す。薪が整然と積まれることで、ストーブ今かまどに使う薪の取り出しが用意になり、またギリステの間から入ってくる夏の空気が均一に行き渡るので、よく乾く。薪の減り具合も一目でわかる。冬の最中に、春まで薪が足りるかどうかがそれまでの経験ではっきりする。バフナの上に立てられた二本の支柱の間を「コル(腕)」と言う。「夏までにみっつのコルが残っている」などと、薪の量を言い表したりする。
ブハル:かまどにくべる薪をバフナから運ばれる薪は、ブハルと言われる棚に入れられる。この棚は、たいてい戸棚の下にある、アーチ型にくりぬかれた部分にある。部屋の入り口によくつくられる。また、かまどの横の戸棚の下にも、扉がついたブハルがある場合もある。(薪戸棚)
ワラの貯蔵
 家に一頭しか動物がいない場合、(その場合はロバが多い)うまやの片隅にはワラを置くのに十分な場所がある。馬や牛もいる場合は庭に、たいていは家や通りに隣接してワラ置き場が設置される。家畜の背中の毛織袋で運ばれたワラは、通りに面していて、地面よりやや高くなった戸から中へ投げ入れられる。ワラ置き場の床は板張りになっている。もし後ろの壁が上中に入っていれば、その部分も板で覆われる。こうしてワラの乾燥が保たれる。ワラはオルタックチュ(小作人)にまかせている周辺の村から運ばれる。
家財道具を収納する場所 
部屋がひとつの生活単位として、多目的に使用されてきた結果、家財道具は非常に少ない。必要なときだけ取り出され、使用後はまたもとの収納場所にもどされる。この目的で、品物を収納されるためにしつらえられた場所がある。
ユックリュック:部屋にある、睡眠のために必要な寝具が収納されている広い戸棚である。奥行きが75-90cm、幅が130-150cmである。この中に、敷き布団が三つ折りにされてしまわれ、その上に掛け布団、枕、シーツが置かれる。 10-12 kg の敷き布団が簡単に出し入れできるように、戸棚の高さは60-80 cm になっている。ユックリュックの底はこの高さから始まり、両開きになっている。下の部分はたいていグスルハーネ(簡易浴場)である。ユックリュックは入り口を入ってすぐか、かまど側の壁にある。
戸棚:寝具類が収納されている戸棚以外の戸棚の奥行きは浅い。両開き、または片開きである。床から60-80cmの高さから始まり、セルダンまで続く。下部はやはり扉のついた戸棚になっているが、このうちの一部には薪が収納される。戸棚の中は何段かの棚になっており、風呂敷や針道具、セッジャーデ(礼拝のときに使う敷物)、水差し、コップなどがしまわれている。涼しい場所にある戸棚には、冬に食べるために葡萄が干される。ここを「葡萄戸棚」と呼ぶ。
キセル戸棚:19世紀にキセルが大流行した。アスマズラル家の夏の家、中間階の待合室や、ギョクチュオウル家、夏の家の中間階の部屋の入り口カディル・ウスタラル家冬の家などには、長い、キセル用の戸棚がある。
ムサンドゥラ(天袋):ここにも、あまり頻繁に使われない物品が置かれる。
へきがん(オイマ):たいていはかまどの横、花置き場や部屋の入り口の横、または戸棚の横に、縦方向に三つ並んでいる。これらは、上部が装飾的なカーブを描いたアーチ型にくりぬかれたへきがんである。これらをサフランボルでは「オイマ」と言う。かまどのアーチ型になっているフード部分の上にも、一列、または二列オイマが施されることもある。これらは装飾目的である。大変古くからあるモチ-フなので、本来の目的はすでに失われている。ここには針道具、糸巻き、コップ、マッチなど細々としたものが置かれる。
花置き場:壁のへこんだ部分である。凸状のプランである。下部には外側に張り出した板の棚がある。たいてい両脇に三つずつへきがん(オイマ)が並んでいる。部屋の入り口や、壁の中央、チャルダックなど、様々な場所にある。今日まで残っている19世紀初頭に建てられた民家には見られず、その時代よりも新しい民家にある。装飾的要素が強く、バロック風の流行によって出現したようだ。まれにこの部分にフレスコ圃が描かれていることがある。花置き場には鏡、水差し、ランプ、時計などが置かれる。
セルゲン:窓や戸の高さで、部屋を一周する幅12-15cmほどの棚である。この幅では役割を果たさず、装飾的要素のみが残ったが、それでも壁の使用範囲を限定している。この高さは手が届くレベルである。この高さの下に戸、窓、戸棚、座ったり、家事をしたりするスペースが限られている。これより上は、ほとんど使われない、または全く使われない壁、テペ・ペンジェレ、ムサンドゥラのようなスペースである。セルダンは台所では少し幅広であることもある。そこには蓋付きの浅鍋や、たまにしか使われない鍋などが、装飾のために並べられる。その他の部屋のセルダンには、乾燥させる目的で石けんやカリンの実が置かれる。

サフランボル 着物の収納場所
風呂敷:着物や着物用の織物、タオルは、種類別に分けられて、別々の風呂敷に包まれる。その風呂敷包みは戸棚の中の棚やつづらの中にしまわれる。服はユックリュックの中に打ち付けられた釘につり下げられる。服専用の洋服ダンスという考えはなく、すべて移動することを前提に設計されている。
つづら:風呂敷に包まれた着物や服、織物、宝石や金などの貴重品はつづらに収納される。つづらはクルミの木か、いとすぎの木でつくられる。クルミの場合はニスが塗られている。いとすぎのものは虫かつかないことで知られている。もう一つ「ケセレつづら]という名で思い起こされるつづらがある。フタが盛り上がっていて、表面に馬の皮、前面には絨毯がとめ付けられている。嫁入り道具入れとして売られている。鉄板で覆われていて、釘で飾られたつづらもある。つづらの中に貴重品が入っていれば鍵がかけられる。つづらは部屋の入り口付近に置かれる。チャルダックに置かれる場合もある。どの家にも3-5つのつづらがある。つづらは移動するのによく使用される。


清掃
水源 
掃除に必要な水は、数百年来あるシステムが確立されている。一般的に硬質ではない飲み水はない。飲み水と使用水は主に下記の水源からとられる。
泉:サフランボルには百以上の泉がある。19世紀末に人口が7500人であったのに対して、100人にひとりの割合で泉があった。こういった泉には、大小あわせて18の水源から水がひかれていた。これらのうち最も重要なのがガユザ(インジェカヤ)村のフザルイェリで出る水である。イッゼット・パシャはここから市場の泉に水をひいてきた。同じ水源からシェヒル地区やバーラル地区の泉、何軒かの家にも水がひかれていた。
湧き水:都市内には何方所かの湧き水がある。これらを「チクマ・スユ]と言う。「アククイルック水」「クバフナ水」「フェスリエン水」のような種類がある。これらの水は周辺の人々に、飲み水として用いられている。
井戸:シェヒル地区にはほとんど井戸はない。クランキョイ地区には全くない。バーラル地区では必要性が感じられず、もし井戸が掘られてもそれは冷たい水を入手するためである。
貯水井戸(ビュエット):バーラル地区で、泉や湧き水がない場所の通りや庭に井戸が据られる。井戸の周りには石が積まれ、モルタル塗りされる。水路を流れてくる水は早朝、井戸口に張られたガ-ゼ状の滞在を通って井戸に注がれ、何分もの間あふれ出させてから井戸のフタが閉じられる。水はしばらく休まされてから桶ですくわれる。この種の井戸が通りにある場合、すべての人が利用できる。このような貯水井戸を「ビュエット」と言う。手を洗う・お清めをする昔最も広まっていた、シンプルな手洗い、お清めのやり方は、水差しとタライを使ったものだった。一般的に風習で、その家で歳をとっている者に、歳の若い者や奉公人が水差しで水をかけながら、手を洗ったり、お清めをしたりするのを手伝う。こうしてどこででも手を洗ったり、お清めをすることが出来る。このやり方は、その家の長老格や客人のため、または大変寒いときに暖かい部屋から出ないために行われるやり方である。


お清め-便所
イスラム教のおしえによると、体から何かが出ればお清めは帳消しになる。新たにお清めをしなければならない。そのため、お清めの状態をやめる場所と新たにお清めをする場所は、互いに近い場所に設置された。お清めと便所の場所は中間階や上階にある。一般的に、家本体からは張り出していて、外部はダラバという木のパネルで囲まれている。 
お清めの場:たいていは板でつくられた台である;作業台ほどの高さで40-50cmの奥行きがある平らな板に、たいてい櫓円型やふちが装飾的なかたちに切られた穴がある。この板の下には斜めになったまるでひはしのように外へ汚水を流す。この板には、石けんがすべって流れていってしまった時のために、石けんの滑り止めがついている。台の上に置いてある水差しから水を流して穴の上で手を洗う。汚水は便所の穴にたまらずに、すぐに庭の土の上に流れる。水道システムがなかったので、掃除に大量の水を消費することはできないので、流れる汚水も少なく、すぐ土に吸収される。
便所:お清めの場所と戸一枚で隔てられている。床は板張りである。たいてい三角形の穴が開けられている。穴のまわりは木の板で覆われていて高くなっている。穴は板でできた、断面が正方形の垂直に設置された排水溝から庭に掘られた穴につながっているか、穴の下には何もなくて、直接庭の穴に汚物が落ちるようになっている。このため、中間階と上階の便所は上下で同じ場所には設置されず、ずらされている。便所には洗浄のために水差しと、個別の尻ぬぐいがある。

汚水の処理
アルグン:シェヒル地区には古くから「アルグン」と言われる下水施設があった。何軒かに一本、あるいは一軒ずつある下水のといを通って、河川に流れていく。同じ河川では洗濯も行われているので、汚水と混ざらないように洗濯は上流で行われる。アルグンは、板状の石でできている。
便所用の穴:バーラル地区には便所用の穴が掘られる。穴の縁は壁で囲まれる。汚水は土地に吸収される。
チルケフ穴:食器を洗ったあとの汚水は、習慣で他の汚水と混ぜてはならない。直校庭へ流されるか、または専用に掘られたチルケフ穴に流される。グスルハーネ(簡易浴場)からの汚水は直接庭へ流れる。
身体の洗浄
グスルハーネ:身体の洗浄は、清潔を保つという面でも、またイスラム教の教えの中でも必要なことである。宗教上では、「グスル・アブデスティ」と言う。家ではグスルハーネで行う。グスル・アブデスティをするためにしつらえられたグスルハーネは、トルコの社会的な生活形態に的確に、しかも簡単に対応したシステムである。各部屋が一家族にあてがわれていたことから生まれた生活形態の中で、グスル・アブデスティをするという行為も、部屋の内部で、プライベートを守りながら行うことができた。どの部屋にも、ときどきは台所にさえも(台所もひとつの部屋とみなされるので)存在した。ユックリュックの下の部分がグスルハーネである。ユックリュックの扉を開け、中の寝具類を下ろしてから、底の板を外すとグスルハーネが現れる。この開いた部分から中へ入る。身体を洗うのに必要な湯はかまどの上の水入れ(ギューム)、またはストーブの上にのせられていた銅製の水入れで温められる。グスルハーネの扉のすぐ横にある棚に置かれた桶の中で湯と水をまぜて適温にし、小さい桶で身体にかける。石けんや布、垢すり、ハマム(トルコ風蒸し風呂)用桶が使われる。キュルスという板でできた背もたれがない低い腰かけに座って洗う。狭いスペースであるので、湯の湯気ですぐに暖まる。シャワーを浴びるように、短時間の洗浄である。冬ならばかまどやストーブが燃えているので、洗い終わっても暖かい部屋に戻ることが出来、湯冷めしない。グスルハーネは掃除されてからフタが閉じられる。床にしかれた布団類はたたまれてからこの板のフタの上に重ねられる。ユックリュックの扉が閉められると元通りになる。グスルハーネの床には少し斜めになった板がはめられている。
 足元にはやはり板でできた格子がある。汚水は板のといで庭へ流される。
クズマ・ハマム:19世紀半ばに建てられたいくつかの裕福な家には、クズマ・ハマムがある。これらのうちのひとつが、バーラル地区のエミルホジャザーデ・アフメット・ベイ家の庭にある。ドーム型の屋根がついたこのハマムは、たいへんていねいにつくられていて、伝統的な形式である;今日では入り口と湯わかし場の部分は壊れてしまっている。もうひとつのハマムはアスマズラル家の夏の家の上階にある。クルナ(湯受けの石)が一つのみで、天井から明かりがとれるこのハマムは、床から高くなっており、床下から温められていた。湯わかし場はすぐ傍らにある。こういったハマムの例がバーラル地区にあるのは、市場のハマムがバーラル地区からは遠かったためと思われる。

市場のハマム:市場のハマムには10-15日にー回通う。女性はふつう近所の人や親戚だちと誘い合い、食事も用意してハマムヘ行き、朝から晩まで身体を洗ったり、おしゃべりをしたりして楽しむ。夏の家にいる時期には、ロバにのってハマムヘ行く。ハマムの道具や着替えは風呂敷に包んで運ぶ。
洗濯
サフランボルでは、洗濯はふつう川や庭で洗われる。シェヒル地区ではイスメット・パシャ区のキョプルバシュ方面、ジェヴァップラル家の横のジェヴァップオウル・オンバシュ泉のすぐ隣に、カザン・オジャウやふたつの石の水溜がある、地区の洗濯揚がある。床と壁は石に覆われ屋根もついている。現在はすっかり荒れ果てて、やっとのことで残っている。このような洗濯場は、数は少なくても昔からあったはずである。アクチャス区やギュムシュ区の河川にも、洗濯に適する場所がある。
洗濯物はここで着物岩と呼ばれる滑りのいい岩の上で洗われる。洗濯をする女性は朝早くから大鍋に薪をつめて、肩にしょうか、ロバにのせて着物岩まで運ぶ。大鍋に水をくんで、運んできた薪に火をつけてその上にのせる。水が熱くなるまでの間に家へ戻って洗濯物を持ってくる。洗濯物にはまず漂土の入った水に浸して、洗濯棒でたたく。その後石の上で石けんを使って洗い、漂土は洗い流される。湯が沸騰している大鍋に入れ、そこに漂土を加え、再び沸騰させる。ひとしきりしてから取り出し岩の上でたたいて水ですすぐ。
 川から遠い家では庭で洗濯をする。家に湧き水が出る場合はこれを利用するが、出ない家は泉から水を運んでくる。 
洗濯の日は、水路から流れてくる水を最初に貯水槽にためる。洗濯には大量の水を必要とするからだ。そのひが水が庭まで流れてくる順番の日でなくても、家の前の水路に流れていれば、そこから洗濯用の水をとるのも大目に見られる。洗濯は庭の貯水槽の脇にある。油をぬったようにすべらかで平らな石(洗濯石)の上で行われる。庭でも大鍋に熱い湯をわかし桶で運ぶ。川べりで行われるのと同じように、夏冬通して洗濯物は着物岩、または着物石の上で洗濯棒でたたいて、戸外で洗われる。非常に寒い日だけ、屋内でたらいを使って細々したものだけを洗う。
家内の清掃 
大掃除は冬の家から夏の家へ、または夏の家から冬の家へ移動するときに行われる。移動の前に、棚や窓ガラスを拭き、壁の塗り替え(バダナ)や細々とした修理、垣根瓦の取り替えなどのために移動先の家へ行く。必要ならばその家に1,2日泊まる。こういった作業のために、近隣の村から、たいていはガユザ村とブラック村からだが、手伝いの女性や職人が呼ばれる。床板は重曹入りの湯でブラシがかけられ、特に汚れているところは食器洗い用の金属網でこすられる。戸棚の扉もこの金属網でこすられる。ふだんの掃除は掃いたり、ほこりを払ったり、窓ガラスや必要なところを拭いたりする程度である。 
遺体は中間階のチャルダックで清められる。

外的要因に対する形式

サフランボル 窓とカフェス
窓は家の外を見る眼である。この眼で外の世界や景色、光や太陽、暖かさ、寒さ、外気、ほこり、匂い、風を感じている。自然に接するために、ある特定の外的要因に対して閉鎖的に成らざるを得ない。サフランボルでは窓が非常によく発展した設計になっている。これほど役立ち、これほど工夫され、美しい窓はそう他には見られない。まず窓が外的要因に対して担っている役割を、どのように果たしているのかを見てみることにする。

採光  
サフランボルの家は窓が多いのが目をひく。角部屋ではふつう壁二面に三つずつ、合計六つの窓がある。チャルダックは多方向から明かりがとれる。ふたつの部屋の聞の張り出し部分には四つ、五つ、それが三面ある場合には三つの窓が設けられている。チャルダックのエイヴァンには二つづつの窓がある。この窓はときどき上部がアーチ状になっていたり、角張ったアーチ状になっている。アーチ部分はふつうの窓の上部に付け足すようになっているので、より大きい。アーチ部分は三角形に区切られ、色つきガラスがはめられている。このスタイルは、昔のテペ・ペンジェレ(高窓)を思い起こさせる。
ムシャバック・ギリステ:ハヤットと開放的なソファは、明かりや外気をムシャバックとギリステから採り入れている。ハヤットの壁一面を形成するこの大きな格子は、4×8cm、または5×10cmの角材からなっている。この部分にはガラスははめられない。
トメッキ:うまややワラ置き場にも窓ガラスははめられておらず、外からは長細い穴のように見える、内側へ向かって広くなっているトメッキと呼ばれる窓から明かりや外気を採り入れる。
テペ・ペンジェレ(高窓):19世紀初頭に建てられた民家には、上下二段になった窓が見られる。上に位置する窓は「レヴゼン」、「上窓」、「頭窓」、「高窓」などと呼ばれ、石膏でつくられている。これらの窓ははめ殺し窓で、下の窓よりも小さい。内部に面した「内用」と、外壁に面した「外用」と、二重になっている。サフランボルの高窓の「外用」は残っていない。エミルホジャザーデ・アフメット・ベイ家、夏の家の高窓も、「外用」のかわりに後世になってつけられた木枠の格子があるが、一部は針金でできた「外用」が保存されている。これらの窓は、木枠の内側を石膏で幾何学模様や植物模様に仕切って装飾的に仕上げられる。アフメット・ベイ家のものには文字も入っており、ところどころに色ガラスも使われている。高窓の上部はたいていアーチ型になっている。このような窓はどの部屋にもあるわけではなく、重要な部屋にだけ設けられた。上階の部屋は天井も高いので、この高窓が採光に利用される。高窓は部屋にだけではなく、チャルダックに設けられることもある。この二段式の窓形式は、下の窓にガラスがはめられていなかった時代の名残である。その時代、内部を外部から保護するために下の窓のよろい戸を閉めてしまうと、高窓が明り取りとして利用された。 
下段の窓にガラスがはめられるようになってからも、よろい戸や高窓は存続した。よろい戸は、暴風やひょう、強すぎる陽光などの外的要因から内部を守るために必要だったので、これが閉められた場合には高窓が内部を照らした。こういった窓がていねいに、装飾的につくられていたということは、人々に好まれていたということである。色つきガラスからこぼれる光は、天井装飾にも色を添え、よく晴れた日には床で光が交差する。また、装飾的で小さな色ガラスは、向かいの家から中が見えないようにする役割も果たしていた。テペ・ペンジェレは残念ながら後世になると姿を消していった。残っていた古いものも、アスマズラル家の夏の家のもののように閉ざされてしまった。
下段の窓:本来の窓は下段の窓である。張り出した角部屋などでは窓の数は八つにも上る。これはどの数の窓は、屋内に必要以上の光をもたらす。これらの窓は壁に均等に配置されているので、部屋にー定のリズムを作り出している。下段の窓は、セディルの背もたれの上限から始まり、戸の上の高さで部屋を一周するセルゲンの下まで続く。大ささは普通、65-70×120-140cmである。
日照:多数の窓は部屋に多量の日光をもたらす。部屋のさまざまな方角についている窓から、異なった時間に日光が入る。冬は大変都合がいいが、夏は非常に暑くなってしまい、すべてが日焼けしてしまう。そのため、窓は「カラ・カバック」と呼ばれるよろい戸で、日光の入り具合が調整される。
換気、寒さや雨風、ひょう、ほこり、騒音に対する対策
ジャム・エヴィ(ガラス所):サフランボルでは、ガラスのはめられた窓を「ガラス所・ジャム・エヴィ」と言う。19世紀末まで少なくとも夏の家のほとんどにはジャム・エヴィはなかった。これらの民家の窓やジャム・エヴィのディテールを見てみると、それがわかる。外部から内部を保護するのは、カラ・カバック(よろい戸)の役割だった。カラ・カパックを開けると、外界の景色や、光、日光、空気、匂いなどが内部を満たす。 
自然と一体化したこの生活形態は、夏の暮らしぶりの特徴である。ガラスがはまった窓枠がなかった夏の家には、可能な限り早い時期に移り、遅く冬の家へ戻っていたことから、寒かったり、風の日にはカラ・カバックでも足りない場合は、窓枠に紙を張った。
この紙を張った枠は十字の形で四つに分かれており、使用されていた紙も厚く、丈夫なもので、粘上でとりつけられた。この移動民的考えから生まれた安価で簡単な方法は、我々に日本の「障子]や、トルコ人がアジアにいた長い間の中国との関係を連想させる。
ガラスがはまった窓枠は、両開きになっている。そのため「クルマ・ベンジェレ・割れ窓」などと呼ばれた。扉は二段になっている。下段は窓の三分の一で、上段は三分の二を占める。その間には水平な仕切りがある。窓がこのように二段になっているのは、そのほうが便利だからである。セディルに座っている人の顔の高さに来る扉の下段が開けられると、そこから直接外部と関係が持てる。通りや庭にいる誰かと話をする、などである。また、下段だけ、あるいは上段だけを開けることで、異なった割合で換気ができる。下段を閉めて上段だけを開けると、座っている人に直接風があたらない。窓をふくのも、扉がすべて開き、蝶番から取り外すことができるので非常に簡単である。
開けられた扉は、窓枠につけられた真鍮の蝶番でとりつけられ、取っ手(チェヴィルゲ)で閉められる。ジャム・エヴィは細い板でつくられている。枠は継手や押縁で互いにつながっている。この接続部分は間接のように動く。ガラスは枠に設けられた溝にはめられている。つまり、外側から釘や粘土でとりつけられるわけではない。(近年のトルコではこの方法が一般的)割れたガラスを取り替えるためには、窓の扉を上へ持ち上げて蝶番から簡単にはずすことができる。それからガラスを押さえている細い板の両端にある押縁を押しながら取り外す。ガラスをはめ込んでから押縁はまたもとの場所に取り付けられる。サフランボルで見かけられる第二のジャム・エヴィの形態は、縦方向の上げ下げ窓である。これらは比較的後の時代につけられたのもであるだろう。あまり一般的ではない。たいていは上下二枚の窓でできており、その一枚は十字に切られて四つに分かれている。
カラ・カパック:窓の保護、しいては家を最終的に保護するのはカラ・カパックである。周辺の森で伐採される黄松でつくられるこのよろい戸は、時がたつにつれて黒ずんで赤茶色に変色してくる。白く塗られた外壁と対照的であることから、黒い扉という意味の「カラ・カパック」と呼ばれた。外側へむかって開く両開きの扉からなっている。開くと外壁に45度の角度まで開く。その形相は、まるで窓が外界に向かって開いていっているようである。カラ・カパックは黄松の一枚板でつくられる。そのためゆがんだりせず丈夫である。それでも木材がゆがむのを防ぐために、二、三本の桟が取り付けられている。この扉にもビニがついている。ギュッラップ(鉄釘状の蝶番)はこの桟の部分に取り付けられる。カラ・カパックを開けたままに固定する、釣手のついた二本の鉄棒がある。これを「イェル・デミル(風の鉄)」と言う。風がふいて扉がバタバタし、窓や壁にぶつかるのを防ぐ。この鉄棒は扉の中央に取り付けられる。釣手のついた方の端は、窓の手すりについた輪にひっかけられる。扉を閉めたままの状態にしたいときは、ビニがついているほうの扉に錨型の釣手がついていて、扉を閉めたときに釣手の部分を窓の手すりに引っ掛ける。これを「カパック・カンジャス(扉の釣手)」と言う。アスマズラル家の夏の家は、近年の修理で上階の裏部屋の窓などは、扉の下半分か上へ折りたたまれ、それから二枚の扉が同時に上へ持ち上がって、両脇から先が釣手になった鉄棒で支えられる。このように、扉は傾斜のついた軒のように見える。ブラック村のクズル・アヤン家では、ソファ・エイヴァンの窓のカラ・カパックの扉の上半分は、傾斜のついた軒のように持ち上がり、下半分は外側へ両開きになる。


安全のための対策
窓には外からの攻撃に備えて、また特に子供が窓から下へ落もないように必要な対策がとられている。サフランボルの民家では、こういった予防策が、的確に講じられている。伝統的な窓の格子:古い家では、正方形に仕切られた格子が見られる。この格子は窓全体を覆い、鉄棒でできた伝統的な格子を真似て木でつくったものである。普通この格子は、三本の縦棒の中に、七本の横棒が通されて正方形の形が形成される。縦棒の棒が通されている部分は太くなっていて、結び目のような形の接続部になっている。
木彫りの窓手すり:窓枠の両端に取り付けられた水平な板と、この板にはめ込まれた三本の縦板が窓の下枠まである。この手すりには色々な種類がある。
ペンジェレ・トプ(窓球の意、手すり):旋盤で処理された装飾的な丸棒で、上記のような手すりがつけられている場合、サフランボルでは「ペンジェレ・トプ、窓球」と言う。縦棒の数は一本から四本までである。ときには窓の上半分をも覆う手すりが、シンメトリックな形をつくりだしている例に出くわす。
この手すりは、カーテンのように内部を見にくくするが、それよりも重要な役割は、カラ・カパックを開けたまま、あるいは閉めたままにするために、釣手型の鉄棒を引っ掛ける場所をつくることである。

景色や通りへの開放
 窓のある方角や数が増えれば増えるほど、さまざまな方向で外側に開けることができる。張り出した角部屋では、八つの窓で、四方向を見ることができる。脇の窓からは、通りから家への訪問者を観察できる。入り口側の窓からは、入り口にきた人が誰であるかがわかる。家の入り口に来る訪問者をよりよく見るために、窓の外側にカフェスでできた張り出し部分がつけられていることもある。この張り出し部分は、窓から身を乗り出して外を見ている女性の姿を隠してくれる。また、外から女性が見えないようにするため、特にシェヒル地区の家ではムシャバックが窓に取り付けられている。バーラル地区では、あまり家が建て込んでいないので、通りをよそ者が通ることはまれである。このため、バーラル地区の家にはカフェスはあまり見られない。 
共和国時代になってカフェスの廃止令が出たので、サフランボルでも取り外された家もあった。そういった家では一時、カフェスのかわりに窓ガラスに紙のリボンをカフェスのように貼り付けたりしていた。

サフランボル 屋根と軒
 家を雨や雪、太陽から守る覆いは、屋根と、その屋根の延長である軒である。屋根は可能な限りシンプルにまとめられている。このようにして、水関係の問題がない屋根が設計された。軒にも凸凹はない。軒は建物の凸凹を一本の線の下にまとめ、正方形や正方形に近いかたちを形成している。部屋は張り出し、ソファ・エイヴァンが引っ込むかたちになっていれば、軒は部屋に平行に伸びてエイヴァンの部分の軒が広くとられる。ソファ・エイヴァンが張り出している場合は、軒も張り出しに合わせられる。この張り出した軒は、屋根の傾斜に合わせられる。建物本体の出っ張りや引っ込みのために、軒の線が変更されることはなく、引っ込み部分は軒が広くなるだけである。整然としたかたちをしていない土地に建てられた家の三角形の張り出し部分も、ひとつの軒の下にまとめられる。
このような民家を通りから仰ぎ見ると、通りの境界から始まって、各階の骨組みや張り出し、支柱や軒がさまざまな方向を向いているのがわかる。これは建物に非常に大きな動きを与えている。便所やお清めの場所の張り出し部分は、普通の屋根の傾斜内に収まっている。屋根の傾斜は四方向に向いている。(クルマ・チャトゥ)
傾斜は18-30度ほどである。雨どい型の瓦で覆われている。上部と下部の瓦の大きさは同じである。マフヤ瓦(棟木の上にかぶせる)は隣同士二列に並べられる。軒はかなり広くとられている。たいてい軒下には何の化粧板も貼られていない。メルテック(たる木にあたる),アシュック(たる木の下にあればもや、上にあれば野踏板や瓦をのせるための横木にあたる),と瓦の下地や瓦がそのまま見えている。屋根裏へ上がるための階段かおり、屋根裏からも屋根に上るための簡単な階段がある。階段は「クズグンルック」という名の三角形プリズム型の部屋から屋根の上へ出ることができる。このクズグンルックは、屋根上での位置や傾斜上での配置、見かけから言っても、興味深い建築的エレメントである。
広い軒は壁、窓、壁に描かれた装飾両や文字、開放的ソファの家のソファを、さらには通りを歩く通行人を、雨や日光から守ってくれる。実際に張り出し部分があるために広くなっている軒は、通りに「軒下」をつくる。雨水は軒から流れ、雨どいなどはない。軒から瓦がすべり落ちるのを防ぐために、軒の端に幕板(イェルコヴァン)がとりつけられている。瓦はこのイェルコヴァンでとまっている。古い民家ではイェルコヴァンが軒にところどころ、葺板に問けられた穴からとめられている。この屋根の形態は、傾斜のあるといを必要としない。しかし後の時代になって建てられたソファの張り出し部分が別のかたちの屋根になっている家では、傾斜のあるといの問題が出た。軒は角が丸くなっている。.木造建物で屋根は、建物を守る重要な要素である。雨漏りがしたら、すぐにはりかえをしなければならない。屋根から水が漏る家はたちまち荒れ果ててしまう。

暑さや寒さに対する対策
これは二軒の民家を対象に調査することができる。家の自然環境による設計と、それが不十分であった場合のその他の対策である。
寒さに対する設計 
サフランボルの冬のまちであるシェヒル地区は、風から守られている谷の内側に位置する。このように、寒さの第一の原因である風の問題を解決している。さらには紬い路地に建てられていることや、高い庭の塀が風に対して幕をはっていることになる。それでも防げない強い風に対しては、カラカパックで対応する。カラカパックを閉めると風の影響はかなり減る。冬、南向きの部屋は太陽があたって簡単に暖まる。 
冬に利用される部屋は、家の中間階である。この階の天井は比較的低く、上下にも階があるのでよく断熱されている。窓も小さく、数も少ないこともある。冬用の部屋はより小さくつくられている。開放的ソファの家での部屋の入り口のつくりが、ここでも適用されている。木材の骨組みの間に充填されている日干し煉瓦も、非常によい断熱材となっている。床下が空いているのであれば、日干しレンガ用モルタルを流して絶縁される。
その他の対策:設計方法だけでは冬の寒さから守ることはできない。そのため、冬はかまどに火がくべられる。燃えさしはマンガル(トルコ式火鉢)に入れられ、セディルの近くに置かれる。19世紀末以降はストーブが使用され姑めた。かまどやストーブの使用と同時に、その他の工夫もされる。ジャム・エヴィと窓枠の問に紙リボンが粘土で貼り付けられる。部屋の入り口の外側や、入り口の次の戸枠に、中に綿がつめられた厚いカーテンが取り付けられる。
夏の家での暖とり:夏の家に移動するのは、まだ春のうちである。朝晩はまだ肌寒く、ときどき寒い日もある。,そういうときにはかまどに火がくべられる。秋も同様である。陽気が寒くなってくると、台所をけじめとして中間階の冬用の部屋を使うようになる。羊毛の厚い服や、中綿入りの上着を着る。道が雪で覆われて、市場に行くことができなくなってしまう恐れが出てくる前に、シェヒル地区の冬の家へ反らなければならない。シェヒル地区の冬の家と仕事場は互いに近いので、雪が降っても行き来に問題はない。
バーラルル地区の開放的ソファの家で、部屋への入り口が直接入れるつくりでなく、板のパネルや戸棚などの障害物があるのは、伝統だけではなく寒さを和らげる工夫の結果であった。
サフランボルでは薪を燃やす。薪の他「グジュ」と言われるマツボックリが、最初の火つけのときやその後も燃やすために使われる。
かまど 
各部屋がひとつの生活単位であるということは、各部屋が一部屋ずつ暖まらなければならないということである。これを実現させるのがかまどである。アシュエヴイ(台所)として使用されている部屋では、かまどは調理のためにも使われる。この部屋の壁の一面は、かまどと戸棚専用になっている。火を焚くかまどの後ろの壁は、断熱のために厚くなければならない。火を焚く部分と合わせて、この壁の厚さは80-100cmの石や日干しレンガでつくられる。 
この壁厚の中は、かまどの煙突、もしつながっているなら下階の煙突、その他の部分は戸棚になっている。かまどがある壁の面で出っ張っているのは、かまどのフード部分と棚だけである。引っ込んでいるのは、かまどの火を焚く部分のみである。かまどの床は壁の中では、角がまるくなった正方形である。部屋のほうへ出ている部分け、やはり正方形か、円形になっている。正方形の石の場合は、その両脇に「コルトゥック・タシュ」という肘掛け型の石がついている。この石は火の粉が飛ぶのを防ぐ。セディルがかまどがある壁にもある場合は、かまどの床の石はセディルの高さと同じになる。かまどには煙を散らす棚がついている。これはかまどに対してかなりの知識があった証拠である。
下階からのびている煙突が通っている壁面は、戸棚の扉の間でモルタル塗りになっている。かまどの脇にはユックリュックや戸棚、またかまどの両脇には三段のへきがん(オイマ)が設置されている。かまどにはさまざまな形態がある。
とんがり帽子型のかまど:これらはもっとも古い部類のかまどである。かまどのフード部分を形成している本のヤシュマック(フード下部分)の上部に、さらに円錐形のとんがり帽子がついている。円錐形とヤシュマックの部分は七枚の木片でできている。かまどの煙はこのヤシュマックととんがり帽子の部分をぬけていく。ヤシュマックが終わってとんがり帽子が始まる部分がちょうどセルダンの高さで、セルゲンはヤシュマックの上も通っている。この下には何段か帯状に彫られた装飾がある。とんがり帽子の先端は天井の回りぶちまでのびている。ヤシュマックの下すそにも、装飾的な木彫りが施されている。 
アスマズラル家の冬の家には、石膏でできたとんがり帽子とヤシュマックのついた、その周囲にはキタベ(小パネル)や浮き彫りが施されたかまどがある。しかしフード部分は失われている。バロック様式のよい例である。
へきがん(オイマ)のついたかまど:このかまどでは、やはり木でできているフード部分が、かまど側の壁と平行に15-20cmほど張り出している。フード部分の上はセルダンの延長で、下は半円形になっている。この半円状のアーチのふちは装飾的な木彫りが施されている。フードの表面には、一段か二段木彫りの模様が彫られている。 
 アスマズラル家の冬の家にも、こういった種類の石膏でできたかまどが存在する。
花置き場つきのかまど:これらは石灰塗りか、石でできたかまどである。このかまどの上部、他のかまどではとんがり帽子がある部分は、平らなモルタル塗りになっている。この部分の周囲は枠のようになっていて、中央はレリーフのような装飾がほどこされている。ここも花置き場と言われる。かまどの穴部分はカーブを描いた、ときどき張り出し部分もあるアーチで終わる。アーチの上には棚があり、ここを「煙突上」と言う。この種のかまどはバロックの影響を受けていて、「フレンクかまど」と呼ばれることもある。比較的後代につくられたことは明らかである。 
ストーブが普及してくると、かまどの必要性もなくなっていった。そうなると、かまどのフード部分の上部に、ストーブ用煙突を通すための穴が開けられた。このため、とんがり帽子の部分か取り外されて、花置き場に改造されてしまったかまどもある。かまどで火を炊くことがなくなってからは、かまどの穴には冬は薪、夏はマンガル(火鉢)のようなものが置かれるようになった。そして、これら雑多なものを隠すため、またストーブが良く燃えるようにするために、穴にカーテンが取り付けられた。 
部屋以外にもかまどがあった。これらはコーヒーを沸かしたり、きせるに火をつけたりするためのもので、貯水槽がある部屋などに設けられた。これらのかまどは比較的小さい。カバックチュラル家の夏の家では、開放的ソファのセキ部分に、凝ったつくりのとんがり帽子つきかまどがある。台所のかまどは大きめであることもある。家でもっとも大きいかまどは、ハヤットにあるカザン・オジャウ(大鍋かまど)である。
暑さに対する対策
 夏の暑さに対する最も適した解決方法は、高台で土地が開けている夏の地区に引っ越すことである.そこはシェヒル地区よりも風通しがよく、涼しい。開放的ソファの家は、夏の生活に非常に合った設計である。異常に厚い夜は、高ソファで寝ることもある。ガラスがはめられていない窓も、涼しさを確保するエレメントである。家の上階の天井は高く、窓も多数あるので風通しが非常によい。開放的ソファの部分の屋根の裏側には化粧板はない。そのため瓦の熱がこもってしまう屋根裏部分がない。
戸外での生活では、木陰や噴水のついた貯水槽。貯水槽や井戸がある部屋などの工夫が施されており、暑さを感じさせることはない。
建築職人 
石工、左官職人や舗道を整備する職人はルムである。水路の保全もルムのしごとであった。トルコ人がルムのする仕事をするのは失礼なこととされていた。ルムがいなくなってからこのしごとをするようになったトルコ人は「バルバ・メフメット」などと呼ばれた。(ルム風の渾名をつけられた)こういった職業に対して大工の仕事はトルコ人の職人が請け負っていた。彼らは「ドゥルゲル」と呼ばれ、たいていガユザ村の出身であった。一軒の家を建てるのに普通四人の大工が働いた。四人のうちのひとりは親方で、彼が他を指導した。このドゥルゲルは作業台で木材の加工をする。ルムの家の大工仕事もトルコ人大工が請け負っていたので、ルムの梁は石づくりの部分の方が多い。大工たちはブラック村やガユザ村から来ており、ロンジャ(同業者組合)に加入していた。職人や作業人たちには日給が支払われ、食事も支給された。
建物にまつわる習慣 
基礎部分や地上階の石壁の上で羊などの犠牲をささげる。説教師がお祈りをする。犠牲の肉は調理されたあと職人たちに分け与えられる。また、家の屋根が架けられるとそこに一本のチュタ(細棹)を打ち付け、家主が織布をひっかける。その後近隣の人々が来てそこへ贈り物を吊り下げる。これを職人頭が分配する。家が完全に建て終わると、下着やハンカチ、靴下などが贈られる。家人が家へ引っ越すとメヴリッド(イスラム教の法事)を行う。ときどき、ねたまれないように家内左官の一部をわざとしないでおくことがある。ねたみに対して最後に、飾り玉やリボンを結んだ鹿の角を吊るす。職人たちはたまに、「階段を逆に取り付けてしまいますよ」(仕上げをしていない面を上につけるという意)などと家主をおどして心づけを催促するが、家主も「自分たちでなんとかしますよ」と返して心づけを渡す。
建築時期 
三月、四月から九月末までの聞が建築に適した時期である。朝から晩まで働くので、他の仕事よりも労働時間が長い。しかしたいていはこの建築時期内では建て終わらず、最初の年は骨組みや屋根、下の階のみで、次の年に他の階が完成する。カヴサラル家上階部屋の戸の上に書かれている年代を見ると、毎年一部屋ずつつくられていったのがわかる。

装飾 
建築的エレメントを飾り立てるのは、昔からある習慣である。それでもサフランボルでは過剰な装飾をする傾向にはなかった。各エレメント上に与えられる変化や、材料を変えたりすることで装飾することが多く、色を使うことは最小限に抑えられた。これは総合的な芸術ヘの理解からである。装飾上の伝統の影響は大きく、バロック風が全盛になった時期でも、それ以前の伝統的装飾が続いた。

木材エレメントの装飾
のこぎりによる木材細工板は様々なノコギリで斜めに切られる。一般的にこの切り刻み作業の次に、彫刻作業が来る。この種の木彫りは戸の上部のアーチやかまど上部のアーチなどのエレメントに施される。

木材の彫刻
 形をつけて切ったあとに尖った角を面取りする。表面に色々な模様を彫って、形を付ける。形がつけられた木材を面取りしながら飾りを彫る、などの方法で作られる。この種の彫刻は手すり、欄干、窓と格子の接続部などのエレメントに見られる。

接合によって形成される装飾
木材の部品の接合:戸棚の扉、戸、室内の化粧板、天井、クラシックな窓格子。
釘を打ち付けての接合:室内の化粧板、天井、化粧板の突合せ部分を帯板や拍板で隠して形成される。 
天井のギョベッキは、多角形に切られた板を次々に重ねて打ち付けることでできる。カフェスはチュタやギリステが、一方向のみ、あるいはひし形をつくる形で交差して打ちつけられてできる。いくつかのソファ・エイヴァンの窓の上部はアーチ型になっていて、その内側は三角形に分けられ、色ガラスがはめられる。

素材のそのものの色や肌合いの違いを生かした装飾つなぎ合わされたパネルの枠は松で、パネル部分はクルミでできていたりすることがある。これは異なる色々肌合いで変化を与える。彩色されない木材の表面は、時がたつとだんだんに赤茶色に変わっていき、自然と色がついてくる。白く塗られた壁とは正反対の濃い色が、好ましい対比を表している。外壁では年輪が、外気に触れることによって表面の変化がはっきりしてくる。これも見る人に力強い木の風合いを見せてくれることになる。


彩色による装飾 
非常にまれに木材の表面を油性の多彩色塗料で彩色することがある。色が塗られる木材の表面は、パテなどで下地を整えたりしない。木材の持つ風合いやふしなどが塗料を塗ってからもわかるようにする。彩色装飾は天井に多く見られる。

壁画による装飾 
19世紀前半の例に、壁画が見られる。ハジ・サーリヒ・パシャ家の夏の家(1820年)には、一部屋のみが残っているが、部屋の入り口側壁の壁画には、ふたつの城砦の間に浮かんだ帆船が描かれている。アスマズラル家の夏の家(1822年)では、抽象柄や植物モチーフの装飾画が近年まで壁に残っていた。1973年に行われた修復工事で、この壁画が描かれている層がはがされて、新たに漆喰が塗られた。今日では上階のソファのみに1237年(西暦1822年)の文字が見られる。カヴサラル家のギュムシュ区の家(1839-1841年)のソファの壁には、セルゲンの上に変わった城砦の絵と、ライオンの頭の飾りがついた帆船の絵が残っている。クランキョイ地区でも1879年に建てられた家で、イスタンブルを表現していると思われる様々な壁画がある。メミシュオウルラル家の夏の家、上階ソファには壁とテクネ・タヴァンに20世紀初頭に描かれたと思われる植物モチーフが描かれている。バーラル地区のラウフ・ベイ家、貯水槽付きあずまやにも壁画装飾がある。サフランボルでは、他にも屋内にこういった装飾が見られる。いくつかの家は石灰が塗られて隠れていた壁画が、マジュン・アース・イッゼット・エフェンディ家(1906年)の例のように、修復時に姿を現したりすることもあった。家の外壁にも植物モチーフが描かれることがある。こういった例のうち、最も顕著なのが、やはりイッゼット・エフェンディ家である。

碑文
 家の軒に近い角に、通りからも見える場所に、あるいはソファの張り出し部分正面に、アラビア文字で祈りの言葉や、家の建築年が書かれている。普通バロック風の枠モチーフの内側に水入れや水差し、壷、ランプ、洋ナシのような形態が描かれ、「Masallah」(素晴らしい)「Masallah u kane」(素晴らしくなりました)と書かれているか、この文字を使って装飾的な形態が描かれている。ギュムシュ区の角地に建つカラオスマンラル家の正面中央には、「Bismillah-ur rahman-urrahim」 と書かれている。この文字は効果の高い装飾である。1976年に正面ははがれ、レンガも家もすぺて緑色に塗り替えられてしまった。たいていはバロック風の枠の下に垂れ下がったひもの先にふさが描かれている。碑文の葉をモチーフにした枠には、黄、緑、青、赤などの色が使われている。ある家では、こういった碑文や装飾のかわりに描かれるのが、縦に置かれた青い楕円の中に描かれた白い三日月であったりする。楕円の周囲は盛り上がった枠である。ときどき白壁に青い三日月だけが浮かんでいることもある。

日付 
建築年は普通家の入り口の上、またはアーチ部分の上、軒下の壁の角に書かれる。しかしこれ以外の場所に書かれることもある。

石膏処理
 石膏で処理されたもっとも重要な装飾は、テペ・ペンジェレに代表される。アスマズラル家、冬の家の結構でつくられたかまどのフード部分には、壊れてしまっているふたつのかまどのものともにレリーフ風の石膏装飾がある。 
1787年に建てられたメクテップチレル家の外壁には、左官ごてで処理された、デザインされた幾何学模様や植物。動物のモチーフ装飾がある。デザインされたかたちは、大変古い時代のモチーフを思い起こさせるものもある。サフランボルでも、このような装飾は他の家には見られないことから、貴重な一例である。
小幅板による装飾(バーダーディ) 
家の曲線部分の表面は、小幅板を使って形成され、漆喰が塗られる。こういった曲面というのは、テクネ・クヴァンや花置き場のくぼみ、ソファ張り出し下部のコンソール部分などである。
石細工 
最も手の込んだ石細工は、かまどの両脇にある「肘掛け石」や、その他かまどそのものに施されたものに見られる。この石は、彫ったり削ったりされて、幾何学模様がつくりだされている。
貯水槽の噴水にも装飾的な受け皿や水の出る部分がある。通り側の入り口戸の枠上のアーチが、石で出来ていることがある。また、角に建つ家の石壁の角が面取りされていて、その上部が石のコンソールになっていることもある。木造の張り出し部分が、ときどき装飾的な石のコンソールの上にのっていることがある。
サフランボルで広く行われていた石壁工法は、石をジグザグに積んでいく方法である。これは支持壁をつくるというよりは、装飾的な目的が強い。
鉄細工 
その役割が必要とする形を、遊び心で加工する鉄細工職人は様々な作品を作り出した。こういった例は、戸の引き手やその輪、引き手がとりつけられているパネル、ノッカー、鍵穴の空いたパネル、レバー、釣手、戸に打ち付けられた頭の大きい釘(カルパックル釘)、かまどの穴などに見られる。ときどき盛り上がったパネルにつけられた取っ手の輪の下に緑や赤のフェルトがはさまれていることがある。パネルの穴からフェルトの鮮やかな色が見え隠れする。
織物 
家の中のデコレーションはすべて織物である。夏の家から、または冬の家から、空っぽのもうひとつの家に引っ越すと、女性たちは何枚かの織物を飾って、そこをたちまちのうちに暖かい空間にしたててしまう。これらの織物は、絨毯やキリム、セディルの上に敷かれる織物、カーテンなどである。床に置く食卓(イェル・ソフラス)の下に敷く布も、かつてサフランボルでは本の圧し型で模様がつけられていた。 

サフランボル
鹿の角
家々の通りに面する軒下に下げられている鹿の角は、幸運をもたらしてくれるものと信じられている。いろいろな大きさで、ときどきは頭部も一緒に、二本またはときにはそれ以上の数に枝分かれした角が吊り下げられている様は、見る物にまた別の興奮を与えてくれる。ソファの張り出し部分の正面、あるいは入り口の戸の上に角がはえた鹿の角が取り付けられていることがある。 
生活形態の変化
サフランボル住民は長い間、豊かで幸せに暮らしていた。西洋からの新しいエネルギー源や、通信手段の発達によって生まれた産業革命は、オスマン朝にも影響を与えた。ヨーロッパで始まった政治的、経済的変化が、オスマン朝にも波及し始めた。タンジマート改革(スルタン・アブドゥルメジドによる1839年から1876年までの政治経済改革)により、新しい改革が行われ、ヨーロッパの産業家たちは商品をオスマン朝に無税で売るための条約を結ばせた。 
こういった工業製品は数も多く、安くて物珍しかったことから、トルコの市場を手中に収め始めた。そして国産の手工業は後退していった。ロンジャ制度(同業者組合)も崩壊してしまった。(1910年)製革業も、ヨーロッパから伝わってきた新しい方法で生産され始めると、イスタンブールに新製法で稼動する工場が建てられた。(19世紀半ば)こういった現象は、サフランボルには非常にゆっくり影響を及ぼしていったが、それでも結果的には製革業はすべて消滅してしまった。 
主要産業が後退し始めると、資金を持っている者はイスタンブールから来る商品を売り始めた。このようにして赤字を修正しようと試みた。自給自足の閉鎖的経済と、こういった商業収入は、彼らを二十世紀半ばまで持ちこたえさせてくれた。
「ムバーデレ」(祖国解放戦争後に行われた、ギリシャとの間の住民交換)でルムがいなくなってしまってからのクランキョイ地区には、トラキア(トルコのユーロッパ側)やアナトリア地方からの移民が住み着いた。 1945年の国勢調査まで、サフランボルの人口は減りつづけた。この理由として、1935年に鉄道が敷かれて移動が簡単になったことと、経済的に苦しい家族が仕事を求めてエレイリやゾングルダック(黒海沿岸の炭鉱町)に移っていったこと、資金を持っている者は新たな起業のために、イスタンブールやアンカラなどの都市へ行ってしまったこと、1939年に国営鉄鋼所が操業し始めた、となりまちのカラビュックヘ、職員や労働者、商人として引っ越してしまったことが挙げられる。1945年以降は、逆に人口が増加していっている。その唯一の理由は、カラビュック鉄鋼所へ働きに行く、近隣の村からの人口がサフランボルヘ流れてきたからである。サフランボルの運命を変えたカラビュックは、1935年には13-18件の家しかない、人口100人ほどの、オーレベリ村に属する56小さな地区であった。 1935年にアンカラをゾングルダックに結ぶ鉄道がこの地区へ来たときに、「カラビュック駅」と言う名がつけられた。1950 年以降、トルコの経済形態が変わったために、サフランボルも第二の変化の波にさらされた。サフランボルは、その周囲にとって唯一の商品提供場ではなくなり、サフランボルの資本家たちも、他の場所で稼ぎ、他の場所で消費するようになった。このようにして、サフランボルの経済状態は悪化した。 
このような状態にもかかわらず、未だにサフランボルの中で建築的面から見て変化や崩壊は起こっていない。労働力の流れはカラビュックに向かっており、社宅や集合住宅もカラビュックに建てられた。伝統を重んじるサフランボルの人々は、現在でも古い家に住みつづけてる。 
非常に起伏の激しい土地であるカラビュックで、建物を建てる場所が減っていったこと、地価が上がったこと、カラビュックとサフランボルの間の交通が簡単になったこと、カラビュックの社宅や集合住宅での生活形態が、農村から来たばかりの人々にあまり合わなかったことなどの理由で、労働者たちはだんだんとサフランボルに住むようになっていった。同じ頃サフランボルの市場は経済的価値を失い、その周囲の冬の家も重要性を無くしていった。もうどの季節でもバーラル地区から市場へ行くことができるようになったからだ。カラビュックやその他の都市へ行ってしまったサフランボルの人々も、夏の休暇にはバーラル地区の家へ帰ればよいので、シェヒル地区の家はまず賃貸に出され、その後売却され始めた。そこへは農村から来た村人たちが住んだ。このような新しい住民構成の中での生活に慣れることができない昔からの住民や、経済的な理由がある住民たちは、シェヒル地区の家を売って、バーラルの家に四季を通じて住むようになった。 1975年に行われた調査では、サフランボル生まれの人口はシェヒル地区で41%、クランキョイ地区で63%、バーラル地区では72%であった。この時代でも家屋に大きな変化は見られない。シェヒル地区の家は村での生活形態に合っていたため、新しい住民も家を改造しなかった。 
全世界で技術が発達していった結果、サフランボルにももたらされる利益が増えると同時に快適さへの要求も増していった。家族構成も変化を余儀なくされ、核家族化していった。結果として、快適で経済的な、しかも使いやすくて新しい生活習慣にも合った集合住宅が建てられていった。特にバーラル地区の価値が上がり、土地の値段も上がったので、古い家は放棄され、壊されてアパートが建ち始めた。同時期、シェヒル地区に住んでいた農村出身の労働者も、賃金が上がって社会保障制度も整ってきたことで、より経済力がついてきたので、新しいアパートの形式を自分の家にも取り入れ始めた。この最初の適用として、最高に機能的な昔の窓を壊して、「モダン窓」と呼ばれるアパートに取り付けられるような大きなガラスがはめられた窓が取り付けられた。漆喰やモルタルを塗り替える際にも、家や部屋の角や階と階の間の葺板も外されてしまった。骨組みの間を埋める日干しレンガの充填材や、ときどきは骨組みでさえも取り外されて、大量生産されている工業レンガが積み重ねられた。古い瓦も、周辺でもう生産されていないことや、マルセイユ・タイプの瓦が入ってきたことなどが影響しあって、結果としてすべての瓦が「サチクラン」と呼ばれる現代風の瓦になってしまった。ハヤットのカフェスも外され、かわりに窓が取り付けられたことで、ハヤットもその本来の役割を失って部屋になってしまった。
しかしこういった改装は一時的なもので、経済効果を期待して、最終的には家をアパートに建て替えたいのである。バーラル地区ではすでに始まっていた。地価が上物よりも高くなってきたので、家を壊してアパートを建てる傾向にある。 
現代とはそういう時代である。近い将来トルコのまちを、トルコの民家を、非常によく反映しているサフランボルも、すべての特徴を失って新たなカラビュックになるか、1975年以降行われ始めた保存運動の結果、一部でも次世代に受け継いでいくか、選択を迫られていた。近年サフランボルに寄せられる興味は、季節を問わず何万人もの人々(2001年観先考数65000人)を誘致し、宿泊施設が設けられる原因となった。このようにして古い民家の一部がペンションやホテル、レストランとして修復された。何十年もの間さびれたままであったアラスタ(中心街の市場)も再び活気付き、かなりの利益をもたらすようになった。こういった風潮は、もうサフランボルが後戻りできない道を歩み始め、都市がより認識のあるかたちで保存される方向へ行っているということである。見学できる民家や、商業施設として生き返った家々のおかげで、家の内部に入り、一時的にでも古い時代を感じて懐古的気分にひたることもできるようになった。 
こういった民家は、カイマカムラル家博物館をはじめとして、チェシメリ・フィクリエ・ハヌム、ギョクチュオウル、ハティジェ・ハヌム、カドゥオウル、カドゥリ・ガニオウル、カラウズムレル、カヴサラル、ケフチ、キレジレル、ムムタズラル、パシャ、ラシットレル、サファ、セルヴィリ、タフスィン・ペイ、のようなホテルやレストランである。訪問者が増えるにつれて、こういった施設の数は増えていくだろう。
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