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トルコの人気世界遺産

サフランボル市街(文化遺産・1994年)


サフランボルの民家

サフランボルの民家建築は、およそ百年前のトルコ人の生活をよく反映しています。当時の経済状態、大家族制から生まれた生活形態は、芸術の域に達した技術で形成されました。町と地域の構成から民家の各部分に至るまで、何百年もの間に培われ、伝統となった建築の産物が見て取れます。これらの民家を見てみると、合理的で、全ての人に価値を認める昔の人々の考えを理解すると共に、文明の今日の有り方を考えさせられるでしょう。サフランボルは1994年に世界遺産に登録されました。

サフランボルの概要

サフランボル

地理的条件(サフランボルの位置、近隣の県、郡、村と地区)

サフランボルは北緯41度16’、東経32度41’に位置し、北西黒海地方のゾングルダック県に属する郡都でした。黒海沿岸からは65km内陸に入ったところにあります。
1995年にカラビュックが県になり、同県の郡となりました。新管理区によると隣接県はバルトゥン県、カスタモヌ県、隣接郡はウルス、エフラニ、アラチ、オヴァジュックです。

内包する村は59あり、その主な村はブラック、ガユザ(インジェカヤ)、トカットル、ダナキョイ、ヤズキョイ、コナル、ヨリュック、(ユリュック)、アクオレン(アクヴェレン)、オウルオレン(オウルヴェレン)、ダヴットオヴァス、ボサンビュキュ、チェルチェン、ハジラルオヴァス、カルット、バシュキョイ、クラヴズラル、カプルルです。ジュマオヴァ村は郡部です。 

1995年の行政区域は20地区で、アクチャス、ババスルタン、バーラルバシュ(バーラル)、チャヴシュ、チェシメ、ジャミケビル、ハジハリル、フセイン・チェレビ、ムサッラ、イスメットパシャ、イッゼトパシャ、カラアリ、キルキッレ、アシャウ・トカットル、バルシュ、イノニュイェニマハッレ、ジェマル・ジャイマズ、エメッキ、エセンテペとなっています。クランキョイ地区は以前ミサキ・ミッリ地区と呼ばれていましたが、1975年以降はバルシュとイノニュの二地区に分けられました。

起伏

サフランボルの北部と西部は山地になっており、黒海と中央アナトリア地方の交通を困難なものにしています。町は海抜400-600mの高さにあり、北西部にパナユルテペ山1544m、その後方にはサルチチェッキ高原1666m、東にはケペズ山938m、南にはチャムルキョイ峰1113m、南西部にはケルテペ山、西部にはダヴルオウルテペ山(ブラック山)955mなどの山々がサフランボルを取り囲んでいます。

河川

サフランボル
北部から流れるトカットル川は町に入るとギュムシュ川と名を変え、クランキョイとカレの間を通って、下タバックハーネで北東から流れてくるアクチャス川と合流します。そして南へ流れていき、タバックハーネ川と名を変え、さらに先へ進んでボスクンビュキュの東でアラチ川と合流します。

バーラル地区ブラック村の間を流れるブラック川は、カラビュック-サフランボル道を横切ってボスクンビュキュの西でアラチ川に流れます。このアラチ川は西へ蛇行しながら流れ、カラビュック市内で南東から流れてくるソアンル川と合流すると、イェニジェ川という名になって北西方向へと流れていきます。最終的にはフィルヨス川として黒海へ注ぎます。これらの河川は夏も乾くことはありませんが、アクチャス川の水位はかなり下がります。各河川の上には水車小屋が設置され、川の水で動いています。

サフランボルの気候

サフランボルの気候は、黒海と中央アナトリア気候の中間にあります。内陸性気候の特徴である、厳しい冬と乾燥した夏ではありません。降水については年間を通してありますが、内陸性気候の影響で年の前半に多いです。冬と春が長く、夏は7月上旬から9月下旬までで、雪は12月に始まります。

サフランボル

気温

最も暑い月は7、8月です。(平均気温の最高は40°)最も寒い月は1、2、3月です。(平均気温の最低は-10°)日較差の最高は夏21、2度、冬17、5度です。
降水量 最も降水量が多い月は1、2月と6月です。(月平均50mm)最も乾燥する月は7、8、9月です。(月平均22mm)降水量が1日で最も多い月は6、7月(40mm)で、年間降水量の平均は721mmです。年間降水日数の平均は67、6日で、年間覆雪日は平均で25日、最高は41日です。

湿度

年間平均湿度は60%です。

多く吹く風は順に、西風、南西風、東南風、そして北西風です。最も影響力がある風が南西と北西から吹きます。

町の中の気候

町の中
シェヒルとチャルシュ地区は谷に位置するため、風はあまり吹きません。そのため、冬でも風の影響を受けにくいです。しかし、夏は暑くなります。夏の地区へ移動するのもこのためです。バーラル地区はより高台になっており高原のような気候で、南へ向かって高くなっています。そのため、夏は涼しく過ごすことができます。

災害・地震

サフランボルは第二地震地帯に属しています。北アナトリア地震地帯で起きる地震は、サフランボル周辺にも影響しますが、被害はありません。
町の構成に被害を与えるような地すべりはこれまでには起きていません。

 
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洪水

河川はかなり深い川底を流れているので、町に被害を及ぼすような洪水はありません。しかしアクチャス川は前世紀初頭に突然二度も溢れ、チャルシュやその周辺で人的、物質的被害を与えました。

歴史的要因

サフランボル
サフランボルは旧石器時代より人間の定住地でした。エフラニ周辺には塚が三つ見つかっています。ホメロスにもこの地方がパフラゴニヤとして記述されています。ペルシャ時代、ギリシャ時代にも町は存続し、その後ローマ、ピザンツ時代には人口も増えました。サフランボル・エフラニ周辺にあるその他の遺跡として、24の古墳、様々な岩窟墓、レリーフ、またサフランボルの南にあるスィパヒレル村のローマ神殿跡などが挙げられます。

サフランボルの町の中にはローマ、ビザンツ時代の遺跡はありません。この時代の町の名前もはっきりしていません。Leonardは、サフランボルは昔の「ゲルミア」、またAinsworthは、「ザフェランボリ」の昔の名は「サフランのまち」という意味の「フラビオポリス」であると主張しています。

オスマン・トゥランはトルコ人がこの町を支配する前は、ここは「ダディブラ」と呼ばれていたと記述しています。トルコ人がアナトリアを支配するようになってからのサフランボルは、カスタモヌ県の一部として歴史を残しています。この地方は12世紀初頭、最初にダニシュメント家時代にトルコ人の手に落ちました。

その後、再びビザンツに取り戻されましたが、13世紀初めにこの地方へ勢力をのばしていたトルコ系ジャンダルオウル家の支配下に入りました。 
ジャンダルオウル家はセルジュク朝、その後イルハンル家に属していました。13世紀末にエフラニで起きたカユ・ボユから、ジャンダルオウル家はじめセルジュク朝に、その後イルハンル家に仕え、15世紀初頭に短い間ですが独立したことがあります。

オスマン家が台頭してきてから1461年までは、オスマン朝に属する一県としてこの一帯を支配しました。その時代町の名は「ザリフレ」あるいは「ザリフラ」であったと思われます。サフランボルには、このジャンダルオウル家支配時代のエスキ・ジャーミ(モスク)、スレイマンパシャ神学校、エスキ・ハマム(公衆浴場)が残っています。この時代からオスマン朝時代にかけて、この地方の中心地はいつもカスタモヌでした。サフランボルはジャンダルオウル時代に始まりオスマン朝時代まで長い間「タラックル・ボルル」という名で通っていました。18世紀以降は「ザーフェラン・ボルル」、後に「ザーフィランボル」の名が使われるようになりました。

 
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重要な歴史的建造物

サフランボルの町中には、ビザンツ時代の遺跡は発見されていません。クランキョイにあるアヤ・ステファノス(HAGIOS SHEPHANOS)教会(現在のウル・ジャーミ)は、テオドラによって建てられたと思われます。

エスキ・ジャーミはビザンツ時代の教会から変えられたものでしょう。トルコ人によるものとしては、ジャンダルオウル家時代からのものです。これらの建物は、時と共に何度も改修、改装が施されました。これらの中で重要なものをご紹介します。

宗教的な建造物

ジャーミ(モスク)の数は30ほどです。最も古いものは、ジャンダルオウルラルの時代に建てられた、スレイマンパシャ・ジャーミスィ (エスキ・ジャーミ)です。(14世紀)その後のものではキョプルル・メフメット・パシャ・ジャーミスィ(1662年)、イッゼト・メフメット・パシャ・ジャーミスィ(1796年)、ダーデレン・ジャーミスィ(1768年)、カズダール・ジャーミスィ(1779年)などが挙げられます。

教育のための建造物

スレイマン・パシャ・メドレッセスィ(神学校・14世紀)は、今日その基礎部分だけが残っています。

社会的な建造物

ジンジ・ホジャ・ケルバンサライ
ジンジ・ホジャ・ケルバンサライ(ジンジ・ハン隊商宿・17世紀)、エスキ・ハマム(14世紀)、イェニ・ハマム(17世紀)や、チェシメ(泉)が100、橋が15程あります。これらを見てみると、サフランボルが14世紀に重要性を増し、17世紀から18世紀末にかけて政府の要人たちに眼をかけられ、18世紀以降は町の経済力が上がったために、20世紀初頭までに自力で小さなジャーミやチェシメを設置していったことがわかります。

人口と住宅

人口についての最も古い記述は、19世紀のものです。 Ainsworthは1838年にシェヒル地区には3000戸のムスリムの住宅、250戸のキリスト教徒の住宅、バーラル地区とブラック村には150-200戸の住宅、トカットル・バーラルには150戸ほどの住宅があったとしています。これらの数は正確ではない可能性があります。サフランボルの地形は非常に変わっていたため、Ainsworthは大きな町と勘違いした恐れがあります。

サフランボルに於ける人口調査は以下のとおりです。
1935年/5571人、1955年/6155人、1965年/9771人、1975年/14700人、1985年/22404人、1997年/31387人。 

19世紀末の国勢調査以前の状況はわかっていません。町に残っている記念碑などを頼りに推測すると、まずカレイチ(城砦内)とその周囲の人口が増えていき、その後谷底へ広がり、安全性が確保され、豊かになっていくと、バーラル地区が夏の家へと変化していったと言えるでしょう。昔の人口も恐らく一万人は超えていなかったはずです。当時はベイレル(藩主)、役人、ルムの他は均一な社会であったと思われます。高い収入と当時は自給自足が原則の閉鎖的経済であったためです。各家庭に二軒も家があったことからもそれがうかがえます。 

生産と商業はロンジャ(ギルドのような同業者組合)システムで互いが監査、支援されていました。ロンジャシステムが無くなると経済システムが崩壊し、隣町に国営鉄鋼所ができてからは社会的階級が登場しました。

今日の社会的階級は以下の通りです。労働者37%、公務員、会社職員20%、小売商11%、職人8%、商人4%、農業従事者1%、その他19%。 サフランボル周辺にはいくつかの遊牧民の村があります。ヨリュックキョイ、ハジラルオバス、ダヴットオバスなどがそうです。1935年頃に定住したその他の遊牧民以外の民族(タフタジュやチェブニエル)なども存在します。また、クルド人やザザ人も遊牧民として周辺に住んでいました。

民俗

サフランボル
サフランボルはこの地方で持てる限りの民俗が存在します。伝統や風習民話、民謡、音楽、舞踊など、それぞれ個別研究するに値する題材です。こういった全ての民俗の裏側に、トルコ人社会の特微か垣間見られます。

経済

サフランボルの民家を見ていく過程で、家の大きさ、しっかりしていて整然とした構造、内部のつくりの豊かさ、広く、豊富に果物が揺れる樹木や貯水槽や東屋がある庭、そして各家族が二軒も家を所有していること、住んでいる人々の幸福、繊細さ、礼儀正しさを見るにつけ、この豊かさはどこから来るのか、と調べずにはいられなくなります。

農業

 
都市の閉鎖的経済の結果、全員が自給自足をしていました。野菜、果物、その他季節のものを冬に備えて保存していたのです。これら以外の肉、油や砂糖は外部から購入していました。サフランボルのほとんどの人々は、都市の周辺に畑を持っていました。現在鉄鋼所がある場所には昔、水田がありました。小麦、大麦、米やわらは、オルタックチュと言われる小作人に任せているこういった畑から得られていました。

サフラン
サフラン: 都市の名前が「サフラン」で始まっており、今でも栽培されていることから、サフランについても触れなくてはなりません。
アヤメ科の植物であるサフラン(Crocus sativus L.)は球根から育ち、クロッカスに似た薄紫から紫色の花をつけます。9月から10月に花を咲かせる、二年花を摘み、その後は引き抜いてしまう。十万の花から摘み取られたおしべの重さはたったの1kgです。

用途:あまり匂いもない着色料として、また薬的効果もあることから薬品や染料、食品に添加物として使用されます。自身の重さの十万倍もの水を染めることができる染色力を特っています。

歴史:ホメロスとヒポクラテスもサフランについて記述しています。イランとカシミールで古くから栽培されていました。モンゴル人が中国へ、アラブ人がスペインヘ、十字軍がヨーロッパヘ広めました。古代ギリシャやロ-マで香りと薬用効果のために噛まれ、染料としても使われていました。

栽培地:スペイン、フランス、シチリア、アルプスの裾野、イラン、カシミール。トルコではイスタンブール、イズミール、サフランボル、アダナ、ビレジックで栽培されています。サフランボルでは三つの村で、何家族かが栽培に従事しています。(アクヴェレン、オウルヴェレン、ダヴットオバス)

サフラン

畜産

都市のなかでも一般的に、各家に乳のために一頭の牛を飼っています。毎朝ヘルゲレと呼ばれる羊飼いの群れ、ヘルゲレジに預けられます。よく飼われている家畜はアンゴラヤギです。乳からヨーグルト、バターを作ります。食用の家畜は雄です。サフランボルでは羊は食べられていません。ヤギの肉を秋にクイマと呼ばれる保存肉(カヴルマ)に加工し、屠畜しない時期に食べています。畜産は毛や革を得るためにも重要です。高原で行われている養蜂も、昔は主要な産業でした。砂糖の変わりに使われていた蜂蜜からは、蜜蝋も採られ、輸出されていました。蜜蝋は縫製業で使用される副材料でもあります。

製革業

  
サフランボルの最重要産業は皮革とその製品です。サフランボルで製革業がいつ頃始まったのかはわかっていません。渓谷の自然の形態や皮なめしに使う水の確保という点で、この業種に非常に適したタバックハーネ(皮なめし場という意味)川は、汚水を流しても町に影響が出ない場所にあることから、かなり昔から皮なめし業が営まれていたと言えます。

製革業は18世紀末まで、オスマン朝では高水準でした。サフランボルにおける製革業について、Mordtmannは1852年に経済的価値があったと記述しています。1890年には84軒の皮なめし場があったそうです。またその頃都市の人口は7500人であったのですから、製革業はかなりの主要産業であったはずです。
その後、革の半製品をヨーロッパに輸出することが利益になり、これらを扱う商人の中にはかなり裕福になる者もでてきました。村人がより安価なゴム靴を履くようになって、イェメニ(革の短靴)の必要性も失われていきました。次第に半製品も、アナトリアの各所に設けられた工場で生産されるものにおされてしまい、またカラビュックの鉄鋼所の出現で製革業は終焉を迎えました。

森林業

サフランボル
この地方の森林は、全トルコの5%にあたり、かなりの量の木材を産出しています。
19世紀末、サフランボルには61軒の木材アトリエがありました。木材は、とくにツゲがバルトゥン街道からヨーロッパヘ輸出されていました。1923年にサフランボルの中だけでも2軒の木材工揚があり、一日に30㎡もの木材を生産していました。
同年代に500.000オスマン・リラ分の木材がイスタンブール、サムスン、イズミール、ゾンブルダックに売られており、サフランボルの重要な輸出資源でした。また、8人の材木商がこの商売に従事していました。そして、森林業は今日でも重要性を失っていません。

その他の産業

サフランボル内には昔五つの粉引き水車あり、そのうち二つはいまだに現役です。水車は内部の石の数により「ひとつのカマ」、「ふたつのカマ」と呼ばれています。 1937年にトルコ初の鉄鋼所がカラビュックに設けられてからは、重工業がサフランボルに各方面から影響を与えた。

商業

サフランボルが商業の面で裕福になっていったのは、生産、販売、宿泊のような基礎的要素が揃っていて、周辺の商業中心地になり得たからです。外国の製品がオスマン朝に流入し始めた頃、交通の利便性や販売における習慣性から、サフランボルや周辺の町でも西洋の製品が売られ始めました。

サフランボル
サフランボル周囲の村や町にも市場があったので、そこから製品を集めて、イスタンブールをはじめとする周辺都市や町へも売られていました。それらは木材、革、ヤギ毛、狩猟勤物の毛皮、白布、クルミ、食内用家畜、牛脂、イェメニ、米、乾燥果物(りんご、すもも、桑の実)、亜麻仁油、サフラン、蜜蝋、サーレップ(飲み物にする植物の根の粉)。村人からの買い物は主に物々交換でした。商人は村人から生産物を貰い受け、かわりに工業製品を村人に与えていました。このようにして利益は二倍になったのです。 

市場:サフランボルの市場は非常に広いです。今日でさえ100年前の典型的なトルコの市場の姿を見ることができます。少々、化石化したとはいえ、当時の商業、経済、社会生活について知識を与えてくれます。ロンジャ制度で保たれていた生産活動や商売は、それぞれ別の通りに集められていました。穀物市場、野菜市場、家畜市場、薪市場、アラスタ、荷鞍屋内、馬具屋内、肉屋内、商館内、鍛冶屋内、のような通りや場所がありました。 
これらの事柄をあわせ見てみると、サフランボルは農業と閉鎖的経済で保たれており、生産と商業の双方で豊かになっていったことがわかります。歴史的建造物からもわかる通り、17世紀以降継続的に発展し続けていったと言えます。18世紀に寄贈されたモスクや泉の多さは、豊かさの象徴です。 

生活形態

サフランボル

自然との共存

サフランボルの冬は厳しく自然の影響を受けやすい為、渓谷の内側に隣り合って住まねばなりませんでした。春になると木々に花が咲き始めます。特にりんごの花が咲くと(通常5月中)、夏の家へ引っ越す準備で忙しくなります。夏の家(バー・エヴィ)を掃除しに行った女性たちは、床を掃いて棚のほこりを払い、窓を拭き、壁を塗り直します。その次に冬の家で引越し準備を始めるのです。布団をしばり、料理や食事の道具をカゴに詰め、たいていは村で畑を任せているオルタックチュに連れてこさせた馬やロバにのせます。こうして8-10頭もの動物が列をなしてバーラル地区へ向かいます。割れ物(皿やカップ、ランプや水差し、コップ)はカゴに入れて手で運びます。絨毯や幾つかのつづら、貴重品などは、留守の間に起こりうる火事などの危険から守るために、ジンジ・ハヌの部屋に預けられます。

夏の家での生活は、あまり家財道具もなく、自然と一体化した素朴なものでした。当時の人々はこのことを強く感じ、また楽しんでいました。
サフランボルの夏の地区は、最も大きな地区がバーラル地区で、その他にはキルキッレ、トカットル・バーラルがありました。夏の家へ引っ越しても、男性だけが毎日仕事へ通いました。朝夕、馬やロバに乗っての通勤行列は、2、3時間続きました。女性たちは10-15日に一度、馬やロバに乗って谷底のハマムヘ行きました。 

夏の家を引き払うのは、気候にもよりますが、概ね10月の終わり頃に始まります。引っ越しは、果物もすっかり採取され、冬のための保存食作りも完了してからになります。来たときと同じように冬の家へ戻りますが、今度は荷物が多くなります。後日、採り残しの野菜や果物を採るために1、2日戻ることもありました。雪が降ったらバーラル地区に行くことは不可能だったのです。

伝統、風習と宗教

サフランボル
伝統、風習や宗教は、質素な生活に哲学をもたらしていました。人々は倹約家で、派手なところは一つもありませんでした。全てにおいて素朴さが勝っていたのです。床に座り、床で作業し、床に布団を敷いて眠り、床で食事をしていました。屋内にはあまり家具はなく、装飾も建物の構造そのものに施されていました。使用された材料の自然な風合いが生かされていました。そのため、裕福な家と貧しい家の区別がつきませんでした。これほど素朴な生活の中に豊かさがあったのです。
食物も豊富で、多種類でした。部屋敷は多く、広かったようです。家も2軒あり、人々は何も心配のない健康的な生活を送っていました。

ハレムセラムルック

宗教や習慣から家は外部に閉ざされています。このため、家の内部や庭の周囲には高い塀が張り巡らされ、窓にもカフェスという格子が取り付けられています。女性はよそ者の男性に見られることはありません。時には、同じ家の中でさえ女性たちは男性とは別々に生活しています。サフランボルでも、このようにセラムルック(男性住居)とハレム(女性住居)とに別れている家もありました。こういった形態はより裕福な家に多かったようです。

ドンメ・ドラップ(回転棚):かつては家の中でさえ、女性はあまり近い関係でない男性に姿を見せなかったことから、ハレム側からセラムルックに食事やコーヒー、シロップなどのもてなしをするために、ふたつの部屋の間にドンメ・ドラップという回転棚が設けられました。この棚に置かれたものは、回転式の円盤を回すと向こう側の部屋へ回されます。この仕組みは、セラムルックが別棟になっておらず、専用の使用人もいない家には大変便利で、習慣に合った仕組みです。

セラムルック・キョシュク(東屋):何軒かの家の庭にはセラムルック・キョシュク(東屋)がありました。この東屋はひとつ以上の部屋を有していました。主部屋にはたいてい貯水槽が設けられていました。中には母屋の下階にあるセラムルックの部屋に貯水槽がある家もありました。アスマズラル家のシェヒル地区にある家の二軒ともに貯水槽があります。貯水槽の端は50-60mほど高くなっています。

サフランボル
部屋の中央にある貯水槽を囲む壁沿いにはセディル(座右)がぐるりと張り巡らされています。ジュルトラル家の夏の家のセラムルック・キョシュクには、窓が設けられた壁、飾り柱のあるセキリック(一段高くなった場所)、コーヒー炉があり、隣にはふたつの部屋と洗面所があります。窓にはまだガラスははめられていません。貯水槽のある主階は、地上階の上に設けられています。

お清め

宗教上、礼拝前には身を清めねばなりません。家の中にはこのためにお清め専用の場所と、グスルハーネ(簡易浴場)があります。生活単位である部屋にも、このお清め用の場所が設けられたということは、家族内でのプライベートの保護の面からみても、正しい解決方法です。お清め状態を解消したり、お清めをしたりする、ふたつの近い性質の行為は、お清め場と便所を隣同士にすることで簡単になったのです。

習慣により、家庭汚水は便所の汚水と混ぜてはいけないことになっています。食器を洗った水は、便所の汚水とは別の場所を通って別の穴に流れるようになっています。家の中で礼拝のために設けられた専用の部屋はありません。信仰によると、清潔ならばどんな場所でもどの部屋でも礼拝をすることができます。

家族構成

現代にまで続いている伝統的な大家族制は、サフランボルの家の設計にも影響しました。この制度では、体力や思考力、経済力がまだ失われていない、最年長の男性が家長です。成長して結婚し、子供ができても、息子はこの父親の権力の下にあります。この風習によると、社会的、経済的にも、家族は一緒に生活をせねばならず、お互いを監査することができるのです。この大人数の家族は、まるでひとつの会社のようです。大きな家の掃除、庭の手入れ、採取されたものの加工、家畜の世話、大人数の食事の準備、子供や年寄りの世話には、大きな労働力が必要です。大家族の生活や安全を保障するためには、家族の息子たちが家にいなければなりません。娘たちは他家へ嫁ぎますが、習慣や豊かさを守るために結婚はサフランボル内で行われました。父親は可能な限り息子を手放しませんが、稼ぎも十分になり、社会的地位も得た息子は、結婚すると別の家を構えることができました。父母、息子、嫁、孫、叔父,伯父、叔母、伯母たちから家族は構成されています。 
これに養女として引き取られた娘が加わります。

大家族の中で、世話を受けなければ生きていけない年寄りや赤ん坊、経済力も社会的な自由も持たない独身や未亡人の叔母や伯母たちも、その養女と共に安心して暮らしていくことができました。家族の役割分担は習慣により決まっていました。家族の人間はこの役割の中で幸福にならねばならず、その他に道はありませんでした。とは言え、家はこの制度の中にあっても自由を感じられるように設計されていました。

もともとこの大家族は、多数の人間の中にありながらも、小さな単位に別れていました。外部に対しては男性と女性のふたつの社会に分かれています。それは家のなかでのハレムとセラムルックに象徴されます。 
夫婦は一単位と数えられます。 この一単位に一部屋あてがわれることで、私生活が保障されます。部屋はこの単位が必要とするものを備えるように設計されています。

サフランボル
サフランボルではたいていの夫婦は二人以上の子供を持ちたがりません。子供が三人いる夫婦はまれで、それ以上はほとんど見かけられません。息子が所帯を特つと、上階の一番いい部屋が嫁にあてがわれます。この部屋は嫁にとって、自分の家同然のように唯一自由にできる空間です。そのため嫁はこの部屋を大事にし、あれこれと飾り立てます。大家族の中にあっても、個人が頭を休めることのできる場所も、この家の中に用意されているのです。

サフランボルの民家はたいてい5-6部屋あります。父母に一部屋、息子夫婦に二部屋、叔母たちに一部屋、孫たちや祖母に一部屋、もう一部屋は台所や養女の部屋にあてがわれるとすると、客間はあるかないかといったところです。     
大きな家では女性たちの仕事が多いです。そのため、家事の手伝いをさせるために養女として少女が引き取られます。村にいる子沢山で貧しい家族からひとり貰い受けるのです。この娘の父親に娘の代償が払われることはありません。7-8歳で引き取られてくるこの娘は、家族同然の扱いを受けます。目上の家族は名前で、小さい子供は「お姉さん」と呼びます。娘はこの家の躾で育てられ、縁があれば嫁入り道具を用意して嫁がせます。結婚して、現在もイスタンブールやアンカラで、平穏に暮らしている養女たちも少なくありません。この養女の制度は、引き取った家に役立つのと同様、貧困の中で娘たちに十分なことをしてやれない村人にとっても、希望の扉だったのです。養女の数は裕福な家では二人のこともありました。養女が嫁いで行ってしまうと、かわりに新たな娘が引き取られました。 
時が経つにつれて、経済的な豊かさが広まってくると、この伝統制度もだんだんと無くなっていきました。

日常生活

大人は日が昇る前、礼拝のために起床します。女性が先に起きてかまどに火をつけ、スープを作ります。男性たちはスープを飲んでから礼拝のためにモスクヘ行きます。モスクが遠ければ家で礼拝をすませます。空腹のままモスクヘ行き、あとで家へ帰ってからスープを飲む男性は、家で馬やロバの世話をし、庭の手入れをしてからカフヴエ(コーヒー店)へ行きます。この間にひとりの女性は食事を準備し、もうひとりは牛の世話をして乳を搾ります。ひと仕事終えると朝食をとります。

コーヒー店
皮なめしを生業としている者は、誰よりも早く仕事場に向かいます。彼らの仕事は昼までで終わり、午後は自由になります。そして、家や庭の仕事に精を出します。店を持っている者は、夏の間は昼前に仕事へ行きます。忙しいのは市がたつ日だけで、あとの日は暇なことが多かったようです。そのため、昼までは家の庭仕事をしました。 

女性たちは家事に明け暮れます。皿を洗って台所を片付け、布団をたたんで押入れにしまいます。床を掃いてしまうと水汲みに行きます。それから庭の手入れをします。朝遅めでかなりの量の食事をしているため、昼食はとりません。
その後、夕食の準備が始まります。男性たちは夏、イキンディ(4-5時)頃に仕事場を閉めて家へ帰ります。夏の家へ帰るには馬やロバに乗って、少しばかり時間をかけなければならないからです。日が沈む1時間前には家へ着き、夕食をとります。

日が沈むと礼拝の時間です。男性たちはその後カフヴェヘ行ったりします。一日最後の礼拝を済ませてから、新鮮な果物や乾燥果物を食べたり、果物のシロップを飲んだりするのです。それからしばらくすると就寝時間になります。夕食を親戚の家で食べる場合には、セラムルックとハレムに別々に食卓が用意されます。また、家で夕食を済ませた上で、手にランプをぶらさげて、親戚や近所の家を訪問することもありました。

形態

サフランボル

都市の地形

サフランボルは北部から南部に向かって低くなっていきます。順番に石灰岩泥灰土一石灰石層から成る高原が、流れる河川に侵食されてできた渓谷の内側とその周囲に位置します。北部から流れてくるギュムシュ川がつくったこの谷には、狭く深い渓谷が形成されました。渓谷の傾斜部分は石灰石です。城砦がある丘は、川によって侵食されずに、まるで島のように高くなっています。西部には渓谷の終わりにある崖の上にクランキョイがあります。北東部から流れるアクチャス川は狭く深い渓谷を流れてアクチャス地区に入ると広がり、ジンジ・ハヌの下に掘られたトンネルを流れます。ここでアクチャス川の渓谷とギュシュデレ川の渓谷が合体して大きな窪地を形成します。この窪地に市場やタバックハーネがあります。アクチャス川は下タバックハーネでギュムシュ川と合流します。 

シェヒル地区の北西部、ジンジ・ハヌから2500mのところに、シェヒル地区から上へのびている傾斜地にバーラル地区があります。バーラル地区はインヤカス高原のつづきのような性格を持っています。庭には、今日でさえその昔森であったことを物語る松の木があったりします。

歴史的推移

 
シェヒル地区の歴史の中で、建物の建築年代を見ていくと、トルコ人が最初に定住したのは城砦があった丘と南部であったと言えます。城砦は町の役人たちが住んでおり、南部の傾斜地には庶民が住んでいたのでしょう。17世紀に城砦の南東部が重要性を増していきます。18世紀には西武や北部へ向かって発展し、東部ではアクチャスまで広がりました。19世紀ではより北へ、南へ、そしてアクチャスまでの空き地を埋めるように東へン伸びていきました。安全や富が確保されると、ブドウ畑であった部分が夏の地区に変わっていき、バーラル地区が形成されました。

シェヒル地区

サフランボル
サフランボルでは夏と冬の生活は別々の場所で営まれました。シェヒルと呼ばれる谷の内側にある集落は、冬に住むための場所です。また、市場は行政施設(町役場、その他の役所)、学校、生産の中心地(アラスタやタバックハーネなど)、モスク、ハマムなどがあります。夏、この地区に住まないとは言っても、男性たちは毎日ここへ通い、日中のほとんどを過ごします。シェヒル地区の中心はアクチャスとギュムシュ川が合流した、三角地帯です。この地帯で二本の川が形成した谷に沿って家々が建てられました。

市場に近づくにつれて建て混んでくる家々は、谷の内側に行くに従ってまばらになっていきます。この谷の居住地は、その地形のために変化に富んだ形相を呈し、驚くような風景に出会うこともあります。傾斜地の間隔も、一目で家々を見渡せ、ディテールまで区別できるような具合になっています。

シェヒル地区の傾斜部と上部はまったく違った見え方をしています。クランキョイからギュムシュとカレ、カレからギュムシュ、クランキョイ、チャルシュ(市場)、フドゥルルック、クバックハーネ、フドゥルルックからアクチャス、チャルシュ、カレを眺めると、それぞれが違った風景です。よそ者がある場所から見た民家群を、すこし傾斜を降りたり、上ったりするだけで見え方が変わってしまうので、別の場所だと錯覚してしまいます。そのために非常に大きな町であるかのような印象を与えます。

同じような現象が、クランキョイからカスタモヌ道へ入るときにも起こります。クランキョイからは、向かい側のギュムシュの家々しか見えません。その後、道はバルトゥン方面へ曲がり、自然の中へ入って行きますが、市場の方向へ入ると家々の間を抜けてフドゥルルックや他の傾斜地にある民家が見えてきます。

アクチャス川を過ぎてムサッラ墓地へ上るとき、アクチャス区、チャルシュ、カレが再び目の前に現れます。町が自然の中に見え隠れしたり、遠ざかったり近づいたりすることは、今世紀我々がテーマにしている課題です。しかし、サフランボルではこれがすでに何百年も前に実現されていたのです。

バーラル地区

サフランボル
都市最大の夏の居住地です。シェヒル地区の北西に、ゆるい傾斜地の上に作られました。広大な庭の中にまばらに建物があります。地形からいっても、ここではシェヒル地区で見られるような変化はありません。
それでも密に櫨えられた木々のある庭々の間をラビリンスのように曲がりくねって通る道は、通る者を戸惑わせ、まるで大きな町に彷徨いこんだような印象を与えます。しかし、この地区は端から端までわずか1500m程しかありません。

トカットル・バーラル

 
バーラル地区の東部、トカットル川の谷の内側に非常に起伏のある土地にある、第二の夏の居住地です。家は小さく、キルキッレ・バーラルバルトゥン街道上にある第三の夏の居住地です。家々は通りに沿って並んでいます。

 
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クランキョイ地区

シェヒル地区の西側で高台になっている平地にある、少数派のルムが住んでいた地区です。ルムは「住民交換」までここに住んでいました。クランキョイ地区もシェヒル地区と同じような性格を持っていました。ルムの民家には石材がより多く使用されていて、シェヒル同様に集合居住地です。

サフランボルの民家

サフランボル
アナトリアの西半分からバルカン半島まで分布している民家の形態が、サフランボルでも見られます。これらの民家の地上階は石造です。地形に合わせて、主階となる上階の基礎になっています。上階の骨組みは木造です。中間階の天井は低く、窓も少ないです。上階には数多くの窓と張り出し部分があり、動きがあります。

全体と表現

サフランボル民家の通り側の壁は、川の境界線に沿っています。この壁は庭の塀の続きです。そのため、通りは両側から仕切られています。イスラム教の戒律によると、家内の生活が外部から見られることがあってはならないからです。
基礎階は石が積み重なった窓のない壁で囲まれ、上階の床まで高くなっています。

地上階

地上階は家の基礎を形成しており、生産に関する役割を担っています。形態的不安はありません。通り側の入り口、通りから家の中へは両開きになっている戸をあけて入ります。この戸は単純な作りですが、それがかえって住んでいる者に安心感を与えるのです。両開きの片方を開けただけで、人と家畜が通れる程の幅があります。宴会のときや大きな荷物をのせた家畜が通るときには両方の戸が開かれます。各戸は、隣同士並べられた平らな板を、裏側から三本の帯状の桟で留めただけの作りです。板はこの桟にカルパックル釘といわれる頭が盛り上がった釘で外側から留められています。この釘は装飾にもなっています。

ハヤット

サフランボル
戸から入ってすぐの場所を「ハヤット」(人生や生活という意)と言います。地上階はたいてい土間で、ときどき手入れをします。「ハヤットがまくれた」と言うと、ハヤットの土間の土が盛り上がってきて傷んでしまったことを言い、こうなると手入れが必要になります。ハヤットの部分が石で覆われていれば、そこは「タシュルック」(石敷の意)と呼ばれます。ハヤットから階段でひとつ上の階へ上りますが、階段のはじまりの部分を「パブチルック」(短靴を置く場所の意)と呼びます。ここは、文字通り靴を脱ぐ場所です。
ハヤットの一面、あるいは二面が外に面しています。ハヤットの一面の壁に接して、二段になっている貯蔵庫があります。

うまや

ハヤットから戸を開けて庭に出ます。そして、また別の戸でうまやに入ります。牝牛がつながれている場所の床は木でできています。馬とロバがいる場所の床は土です。うまやは「トメック」と呼ばれる窓で明かりをとり、換気をします。銃眼用の穴を思わせるこの窓にはガラスがはめられていません。うまやには、大抵ロバ一頭、馬一頭、牝牛が一頭います。牝牛のうまやは、匂いを消すために庭のワラ置き場に近い場所に設置されます。

部屋

サフランボル
やはり家の重要な要素は部屋でしょう。設計が同じであっても、用途の面で異なる部分もあります。それは台所専用に作られた部屋などです。中間路の部屋は昼間、寛いだり作業をしたりするための部屋です。上階の部屋は嫁たちや客人の寝室、一般的に就寝用の部屋として使用されます。冬の家でもそうですが、夏の家でも方角や広さ、つくりの面からもより暖かくなるように工夫された冬用の部屋があります。また、男性たちが客人をもてなすための部屋もあります。大勢の客人が訪れた場合、台所でさえも寝室として利用することもあります。サフランボルでは部屋のことを「イチェリ」(内部の意)とも呼びます。部屋のプランは正方形、あるいは正方形に近い四角形で、部屋の天井の高さは上階では3m以上、中間階では2,3-3m程です。

部屋の入り口

各家のプライベートが保障されているのと同様に、入り口から入っただけでは家の中で何が行われているのかがわからないように、各部屋も生活の基本単位であることからプライベートが守られています。ソファから部屋へは直接入れません。ソファから部屋の中を見ようとしても、全ては見えないようになっています。この設計にはいろいろな形態があります。部屋へは概ね部屋の角から入るようになっています。この入り口が、部屋の面取り部分からであった場合は、完全に角口となります。

入り口はふたつの部分に分かれています。たいていは二回方向を変えてつくられています。戸を開けてすぐに木製のついたてがあり、中が見えないようになっています。この最初の部分はアーチ状に開いた次の入り口へ続いています。
最初の部分の天井は、戸の高さよりもやや高めです。アーチ状の戸口部分から入ってから、直角に方向を変えると、部屋の中央方向を見る場所へ出ることができます。 
この第二の部分は、最初の部分よりやや広く天井も少し高いです。
戸口の向かい側には戸棚や棚があります。古い家では戸棚の下はアーチ状にくりぬかれたブハル(薪置き場)になっています。部屋に向かっている面では、たいてい花置き場や木彫り装飾になっています。

サフランボル
各壁間の、セディル以外の空間には何も置かれません。そこは部屋の様々な責務を果たすために使用されます。食事をするときはソフラ(食卓)が使われます。寝るときは布団が敷かれます。大勢の人が来た場合は、床にも座ることがあります。

ソファ(チャルダック)

サフランボル
家の最も重要な要素は各部屋をつなぎ、家の設計に影響を及ぼすソファです。各部屋はソファに面していてソファによって繋がっています。これとは別に、お清め場や手洗い、食糧庫、階段もソファに繋がっています。こういった役割以外にソファでは、座ったり、食事をしたり、作業をしたり、眠ったり、といった行為も行われます。大勢の人が来た場合はここに集まり、宴会や法事、祝い事もここで行われ、踊りをおどり、イェル・ソフラス(低い食卓、ちゃぶ台)が用意されます。ヤユム(短く切ったパスタ)やバクラヴァ(パイ菓子)、ユフカ(薄いパン)もここで作られ、並べられます。

中間階と上階のソファは、多少異なっていることもあります。例えば上階は中央ソファなのに対して、中間階は角ソファであったり、ハヤットを見下ろす回廊を兼ねていたりします。サフランボルではソファをチャルダックと言います。ソファは、部屋に対する配置を見ながら、何種類かに分けることが出来ます。

外チャルダック

大抵夏の家の南側に伸びている、1-1,50mほどの幅のバルコニーを外チャルダックといいます。ほとんどの場合、ソファにある戸から出ることができます。床は木で、中間階や上階にも設置されます。この場所は、食物を乾燥させるためにあるため、手すりは簡素なもので、なるべく影ができないように工夫されています。乾燥させられる食べ物を虫、猫や犬などから守るため、また上の階であれば木の影になることもなく、それどころか白い家の壁に太陽が反射して、乾燥を促進します。そのため、この乾燥工程は庭ではなく、このような家の一部で行われているのです。 

階段

サフランボル
各階を関連付ける階段は、サフランボルでは大変簡素です。大抵は真っ直ぐな手すりがついていますが、時々踊り場で二重の手すりに、また角の踊り場ではL型になっていたりします。稀に螺旋状や三重の手すりになっていることもあります。ハヤットから中間階へ上る階段では、石の踊り場または、何段かの石のステップの後木の階段が始まっているものがあります。この踊り場で靴を脱ぎます。ここを「パブチルック(短靴の場)」といいます。

一方が階段、一方が壁でほとんどの場合、板パネル(ダラバ)で仕切られています。このようにして手すりの問題も解決されています。階段の下、または稀に上に扉がついています。これは警備の面と、断熱の面で必要とされています。

民家の形成方法・設計方法

サフランボル

歴史的推移

家のつくりは様々な要因によって決まります。最も重要な要因のうちのひとつは、家の歴史的推移です。人間は簡単に自分たちの伝統や習慣、経験を忘れることはなく、時がたつにつれてその発展の中でこれらの名残を継続させるものです。アナトリアのトルコ民家を見てみると、遊牧時代からの名残を見つけることが出来ます。この名残は、特に基本生活単位である部屋、また部屋とソファとの関係において顕著です。部屋はひとつのテント、または「ひとつの国・かたまり」だと考えると、ソファはこの周辺環境です。古い民家の例では、ソファ上方は屋根がかかっているものの、すべてにおいて外の環境に向かって開かれています。

サフランボルでもこういった基本的特徴が見られます。古い、いくつかの民家ではソファはオープン形式です。その他の例では、ソファ・エイヴァンが部屋と部屋を隔てていて、部屋に外部環境を作り出しています。家の概念の中で重要なのは部屋です。各部屋は最小の家族単位の家です。家の設計で基本になるのは部屋の周辺です。部屋の大きさやつくりはどの家でも大きな違いはありません。

初期の民家の特徴

サフランボル
サフランボルで歴史的推移の面から見て注意を引くまた別の事柄は、初期の時代の特徴が長い間影響を与え続けていたことです。バロック風装飾は大変後期のものであり、わずかに影響があったにすぎません。

家と土地の関係

家のプログラム以外に設計を方向付ける重要な要因は、土地の形状、起伏、景色、そして通りに対する位置です。このことから、シェヒル地区とバーラル地区の家の間には、いくつかの相違点があります。

シェヒル地区の上地は狭く、真っ直ぐな線を描いていません。そして、何よりも急な坂になっています。バーラル地区はより平坦です。伝統的な民家は、通りに沿って作られた庭塀の上にのせられているように見えます。あまりに急な坂になっている土地では、この塀は支持壁としてより厚く、高く作られることがあります。

整然としていない土地

サフランボル
狭く、整然としていない土地に建てられた家の地上階は土地の形状に合わせられます。中間階は張り出していて、その上にのせる上階のために真っ直ぐな壁で整えられるか、またはただの間の階として自己主張をしていないこともあります。上階は、絶対的で真っ直ぐで直角な空間が、張り出しによって形成されています。この張り出し部分は、たいてい三角形か斜めになった床になっています。

支柱も上記の事柄から、様々な長さになります。張り出し部分を支える支柱は、家の外観に動きを与えます。狭い土地では、張り出し部分で部屋を広くすることが重要になります。三角形の張り出しは、部屋からの景色や通りをお互い妨げることなく眺められるようにしてくれます。

整然とした土地

より扱いやすい土地、特にバーラル地区では下陰と上陰は角が直角で、上下の陰とも一緒に上へ伸びています。中間階は地上階または上階の続きです。上階が地上階と同じであることは稀です。たいていは中央ソファのエイヴァンか部屋が張り出しています。

土地が都合のよい形であっても、通りに対して斜めに建てられている家があります。このようにわざわざ自発的に斜めにかまえられた家の上階は、様々な張り出し部分で動きが与えられています。こういった部屋からの通りの眺めや景色、日照、陰をつくる、といった要求以外にも、芸術的センスが発揮されていることは確かです。

動作と形状の形成

サフランボル

座る動作

トルコ人と自然との関係は、「座る」という動作に現れています。トルコ人は床に座ります。清潔な場所ならばどこにでも座ります。この動作に特別な道具は必要ありません。家の中であれば床の上やその上に敷かれた絨毯やキリム、毛皮の敷物、クッションの上に座ります。最後の段階としてセディルに座るという動作も、床の上に座るのと同じことです。

セディル

一休みしたり、ぼんやりしたり、寛いだり、お喋りをしたり、家族が集まったり、暖まったり、作業をしたりするために、セディルの上に座ります。セディルは部屋やソファに、たいていは窓際に設置されます。一般的に部屋の壁二面には窓があることから、セディルも二面の壁の端から端までに設けられます。稀にかまど側の壁にもかまどの両脇にもセディルがあることもあります。このように、部屋の入り口側壁以外の壁には、座る場所としてのセディルに取り囲まれる部分ができます。サフランボルの民家ではチャルダックが外に張り出すことによって、通りや景色がよく見え、より明るい座る場所になっています。

床に座る

セディルの次によく座られるのが床です。床に敷かれている絨毯やキリム、クッションの上に座ります。客人たちが来たときに座る場所が足りなければ、または目上の人物であった場合、歳の若い者はセディルには座らず、床に座ります。皆が床に座ることができるので、小さい部屋でもかなりの人数を収容できます。一人ひとりに椅子をあてがう必要はないからです。

庭で座る-庭の東屋

庭で陰になっている涼しい場所は、座って寛ぐ場所になります。ここには涼むために作られた噴水つきの貯水槽が、庭の水やりに役立っています。貯水槽の近くには葡萄棚(アトマック)がつくられ、影をつくっています。葡萄棚の下には庭用の長椅子が置かれます。肘掛けの部分がカーブを描く装飾的な形になっているこの長椅子を、「キョシュク(東屋)」または「タフタボシュ」と言います。稀にこの噴水や涼みのコーナーが部屋の中に取り囲まれていることがあります。このようにして「ハヴズル・オダス(貯水槽のある部屋)」、または「ハヴズル・キョシュク(貯水槽のある東屋)」が形成されます。

食事の用意

サフランボル

台所(アシュエヴィ)

サフランボルでの食事の準備は、「アシュエヴィ」と呼ばれる特定の部屋で行われます。部屋が備えている全ての要素が、このアシュエヴィにも備わっています。部屋は居間や寝室として使用できるのと同様、台所としても機能します。台所としてあてがわれる部屋は中間階にあります。この部屋は、女性たちが一日の大半を過ごす場所です。特に冬は、この部屋で家事をし、寛ぎ、暖まります。食事も概ね台所で食べます。アシュエヴィが他の部屋と違っているのは、かまどがやや大きく、戸棚や物置の棚が多く、セルゲン(壁を一周する回り棚)の幅が広いということです。食器は戸棚に収納されています。戸棚の中は棚になっています。食器は種類別にこの棚に並べられます。

食事をつくるのに必要な材料は、少量がかまどのそばの棚に仕舞われています。サルチャ(マニエ・エズメスィ、野菜のペースト、現在では主にトマトのもの)、油、カヴルマ(いためて水分を完全にとばした保存肉、サフランボルではクイマという)、米、小麦、砂糖などが、女性の手元にあるこの棚に用意されています。台所には食糧は保存されず、倉庫や食糧米に保存されます。台所に隣接して、または近くに食糧庫があります。食糧庫の網戸つき棚に毎日食されるもの、牛乳、ヨーグルト、油、チーズ、カヴルマの一日分が保存されます。

食事をとる

食事は、座ることが出来る全ての場所でとることができます。家庭では通常アシュエヴィで食事をします。客人たちには客間で食事が出されます。大勢いる場合はチャルダックでも食べます。集まりの時には、男女は別々に食事をとります。ハレムリッキ、セラムルックがある家では、男女別々の場所で食事をします。
食事をするにはまず、床に布が敷かれる。その上に板でできた丸い、脚がついた食卓(ちゃぶ台に類似)が置かれます。裕福な家では客用に、専用の脚の上に銅や真鐘製の大きな盆(スィニ)を置いてもてなします。

保存食の生産

保存食

庭での作業

家族にとって最も重要な生産活動は庭で行われる為、夏の家へ移動します。まだ春の時期にも、必要があれば日帰りでバーラル地区へ行きます。ときには労働者を雇ったりもします。いくつかの家には、村から来ている労働者のために、庭のカザン・オジャウ(大鍋かまど)の上方に客聞が設置されています。

庭の水やり

葡萄園や庭菜園に必要な水は、何百年も前からバーラル地区までひかれています。この潅漑用水は、サフランボルの北西にあるインヤカ山の洞窟から湧き出ています。その為、この水は洞窟水とも呼ばれています。潅徴用の水はバーラル地区のみにあって、シェヒル地区にはありません。通則に設けられた、整然とした水路システムでバーラル地区へ配水されます。潅漑用水は、デイルメンバシュの水車から三方向に分かれます。

水路システム

家財道具を収納する場所

部屋がひとつの生活単位として、多目的に使用されてきた結果、家財道具は非常に少ないです。必要なときだけ取り出され、使用後はまた元の収納場所に戻されます。この目的で、品物を収納されるために設けられた場所があります。

ユックリュック

ユックリュック
部屋にある、睡眠のために必要な寝具が収納されている広い戸棚です。奥行きが75-90cm、幅が130-150cmです。この中に、敷き布団を三つ折りにして仕舞い、その上に掛け布団、枕、シーツが置かれます。 10-12 kg の敷き布団が簡単に出し入れできるように、戸棚の高さは60-80 cm になっています。ユックリュックの底はこの高さから始まり、両開きになっています。下の部分はたいていグスルハーネ(簡易浴場)です。ユックリュックは入り口を入ってすぐか、かまど側の壁にあります。

戸棚

寝具類が収納されている戸棚以外の戸棚の奥行きは浅く、両開き、または片開きです。床から60-80cmの高さから始まり、セルダンまで続きます。下部はやはり扉のついた戸棚になっていますが、このうちの一部には薪が収納されています。戸棚の中は何段かの棚になっており、風呂敷や針道具、セッジャーデ(礼拝のときに使う敷物)、水差し、コップなどが仕舞われています。涼しい場所にある戸棚には、冬に食べるために葡萄が干される。ここを「葡萄戸棚」と呼びます。

花置き場

壁のへこんだ部分です。下部には外側に張り出した板の棚があります。たいてい両脇に三つずつへきがん(オイマ)が並んでいます。部屋の入り口や、壁の中央、チャルダックなど、様々な場所にあります。今日まで残っている19世紀初頭に建てられた民家には見られず、その時代よりも新しい民家にあります。装飾的要素が強く、バロック風の流行によって出現したようです。稀にこの部分にフレスコ圃が描かれていることがあります。花置き場には鏡、水差し、ランプ、時計などが置かれます。

着物の収納場所

風呂敷

着物や着物用の織物、タオルは、種類別に分けられて、別々の風呂敷に包まれます。その風呂敷包みは戸棚の中の棚やつづらの中に仕舞われます。服はユックリュックの中に打ち付けられた釘につり下げられます。服専用の洋服ダンスという考えはなく、すべて移動することを前提に設計されています。

つづら

風呂敷に包まれた着物や服、織物、宝石や金などの貴重品はつづらに収納されます。つづらはクルミの木か、いとすぎの木で作られます。クルミの場合はニスが塗られています。いとすぎのものは虫がつかないことで知られています。もう一つ「ケセレつづら」という名で思い起こされるつづらがある。フタが盛り上がっていて、表面に馬の皮、前面には絨毯がとめ付けられています。嫁入り道具入れとして売られています。鉄板で覆われていて、釘で飾られたつづらもあります。つづらの中に貴重品が入っていれば鍵がかけられる。つづらは部屋の入り口付近に置かれます。

身体の洗浄

ハマム

グスルハーネ(室内に作られたお風呂)

身体の洗浄は、清潔を保つという面でも、またイスラム教の教えの中でも必要なことです。宗教上では、「グスル・アブデスティ」といいます。グスル・アブデスティをするためにしつらえられたグスルハーネは、トルコの社会的な生活形態に的確に、しかも簡単に対応したシステムです。各部屋が一家族にあてがわれていたことから生まれた生活形態の中で、グスル・アブデスティをするという行為も、部屋の内部で、プライベートを守りながら行うことができました。どの部屋にも、時には台所にさえも(台所もひとつの部屋とみなされるので)存在しました。ユックリュックの下の部分がグスルハーネです。

ユックリュックの扉を開け、中の寝具類を下ろしてから、底の板を外すとグスルハーネが現れます。この開いた部分から中へ入ります。身体を洗うのに必要な湯はかまどの上の水入れ(ギューム)、またはストーブの上にのせられていた銅製の水入れで温められます。グスルハーネの扉のすぐ横にある棚に置かれた桶の中で湯と水をまぜて適温にし、小さい桶で身体にかけます。石けんや布、垢すり、ハマム(トルコ風蒸し風呂)用桶が使われます。キュルスという板でできた背もたれがない低い腰かけに座って洗う。狭いスペースであるので、湯の湯気ですぐに暖まります。シャワーを浴びるように、短時間の洗浄です。冬の場合はかまどやストーブが燃えているので、洗い終わっても暖かい部屋に戻ることが出来、湯冷めしません。グスルハーネは掃除されてからフタが閉じられます。床にしかれた布団類はたたまれてからこの板のフタの上に重ねられます。ユックリュックの扉が閉められると元通りになります。グスルハーネの床には少し斜めになった板がはめられています。

クズマ・ハマム

19世紀半ばに建てられたいくつかの裕福な家には、クズマ・ハマムがあります。これらのうちのひとつが、バーラル地区のエミルホジャザーデ・アフメット・ベイ家の庭にあります。ドーム型の屋根がついたこのハマムは、たいへん丁寧に作られていて、伝統的な形式です。今日では入り口と湯わかし場の部分は壊れてしまっています。もうひとつのハマムはアスマズラル家の夏の家の上階にあります。クルナ(湯受けの石)が一つのみで、天井から明かりがとれるこのハマムは、床から高くなっていて、床下から温められていました。湯わかし場はすぐ傍らにあります。こういったハマムの例がバーラル地区にあるのは、市場のハマムがバーラル地区からは遠かったためと思われます。

市場のハマム

市場のハマムには10-15日にー回通います。女性はたいてい近所の人や親戚だちと誘い合い、食事も用意してハマムヘ行き、朝から晩まで身体を洗ったり、おしゃべりをしたりして楽しみます。夏の家にいる時期には、ロバにのってハマムヘ行きます。ハマムの道具や着替えは風呂敷に包んで運びます。

洗濯

洗濯
サフランボルでは、洗濯は概ね川や庭で洗われます。シェヒル地区ではイスメット・パシャ区のキョプルバシュ方面、ジェヴァップラル家の横のジェヴァップオウル・オンバシュ泉のすぐ隣に、カザン・オジャウやふたつの石の水溜がある地区の洗濯揚があります。床と壁は石に覆われ屋根もついています。現在はすっかり荒れ果てていますが、何とか残っています。このような洗濯場は、数は少なくても昔からあったはずです。アクチャス区やギュムシュ区の河川にも、洗濯に適する場所があります。
洗濯物はここで着物岩と呼ばれる滑りのいい岩の上で洗われます。

 
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家内の清掃

大掃除は冬の家から夏の家へ、または夏の家から冬の家へ移動するときに行われます。移動の前に、棚や窓ガラスを拭き、壁の塗り替え(バダナ)や細々とした修理、垣根瓦の取り替えなどのために移動先の家へ行きます。必要ならばその家に1,2日泊まります。こういった作業のために、近隣の村から、たいていはガユザ村とブラック村からですが、手伝いの女性や職人が呼ばれます。床板は重曹入りの湯でブラシがかけられ、特に汚れているところは食器洗い用の金属網でこすられます。戸棚の扉もこの金属網でこすられます。普段の掃除は掃いたり、埃を払ったり、窓ガラスや必要なところを拭いたりする程度です。

外的要因に対する形式

窓

窓とカフェス

窓は家の外を見る眼です。この眼で外の世界や景色、光や太陽、暖かさ、寒さ、外気、ほこり、匂い、風を感じています。自然に接するために、ある特定の外的要因に対して閉鎖的に成らざるを得ません。サフランボルでは窓が非常によく発展した設計になっています。これほど役立ち、これほど工夫され、美しい窓はそう他には見られません。まず窓が外的要因に対して担っている役割を、どのように果たしているのかを見てみることにしましょう。

採光

  
サフランボルの家は窓が多いのが目をひきます。角部屋では通常壁二面に三つずつ、合計六つの窓があります。チャルダックは多方向から明かりがとれます。ふたつの部屋の間の張り出し部分には四つ、五つ、それが三面ある場合には三つの窓が設けられています。チャルダックのエイヴァンには二つづつの窓があります。この窓は時おり上部がアーチ状になっていたり、角張ったアーチ状になっていたりします。アーチ部分は通常の窓の上部に付け足すようになっているので、より大きいです。アーチ部分は三角形に区切られ、色つきガラスがはめられています。このスタイルは、昔のテペ・ペンジェレ(高窓)を思い起こさせます。

暑さや寒さに対する対策

これは二軒の民家を対象に調査することができます。家の自然環境による設計と、それが不十分であった場合のその他の対策です。

寒さに対する設計

サフランボル
サフランボルの冬の町であるシェヒル地区は、風から守られている谷の内側に位置しているため、寒さの第一の原因である風の問題を解決してくれています。さらには細い路地に建てられていることや、高い庭の塀が風に対して膜を張っていることになります。それでも防げない強い風に対しては、カラカパックで対応します。カラカパックを閉めると風の影響はかなり減ります。冬、南向きの部屋は太陽があたって簡単に暖かくなります。
 
冬に利用される部屋は、家の中間階です。この階の天井は比較的低く、上下にも階があるのでよく断熱されています。窓も小さく、数も少ないこともあります。冬用の部屋はより小さく作られています。開放的ソファの家での部屋の入り口のつくりが、ここでも適用されています。木材の骨組みの間に充填されている日干し煉瓦も、非常によい断熱材となっています。床下が空いているのであれば、日干しレンガ用モルタルを流して絶縁されます。

かまど

各部屋がひとつの生活単位であるということは、各部屋が一部屋ずつ暖まらなければならないということです。これを実現させるのがかまどです。アシュエヴイ(台所)として使用されている部屋では、かまどは調理のためにも使われます。この部屋の壁一面は、かまどと戸棚専用になっています。火を焚くかまどの後ろの壁は、断熱のために厚くなければなりません。火を焚く部分と合わせて、この壁の厚さは80-100cmの石や日干しレンガで作られます。

この壁厚の中は、かまどの煙突、もしつながっているなら下階の煙突、その他の部分は戸棚になっています。かまどがある壁の面で出っ張っているのは、かまどのフード部分と棚のみ、引っ込んでいるのは、かまどの火を焚く部分のみです。かまどの床は壁の中では、角が丸くなった正方形です。部屋の方へ出ている部分は、やはり正方形か、円形になっています。正方形の石の場合は、その両脇に「コルトゥック・タシュ」という肘掛け型の石がついています。この石は火の粉が飛ぶのを防ぎます。セディルがかまどのある壁にもある場合は、かまどの床の石はセディルの高さと同じになります。かまどには煙を散らす棚がついています。これはかまどに対してかなりの知識があった証拠です。

下階からのびている煙突が通っている壁面は、戸棚の扉の間でモルタル塗りになっています。かまどの脇にはユックリュックや戸棚、また、かまどの両脇には三段のへきがん(オイマ)が設置されています。かまどには様々な形態があります。

暑さに対する対策

夏の暑さに対する最も適した解決方法は、高台で土地が開けている夏の地区に引っ越すことです。そこはシェヒル地区より風通しがよく、涼しいです。開放的ソファの家は、夏の生活に非常に合った設計です。異常に暑い夜は、高ソファで寝ることもあります。ガラスがはめられていない窓も、涼しさを確保する要素です。家の上階の天井は高く、窓も多数あるので風通しが非常に良いです。開放的ソファの部分の屋根の裏側には化粧板はありません。そのため瓦の熱がこもってしまう屋根裏部分もないのです。
戸外での生活では、貯水槽や井戸がある部屋などの工夫が施されており、暑さを感じさせることはありません。

建物にまつわる習慣

サフランボル
基礎部分や地上階の石壁の上で羊などの犠牲を捧げ、説教師がお祈りをします。犠牲の肉は調理されたあと職人たちに分け与えられます。また、家の屋根が架けられるとそこに一本のチュタ(細棹)を打ち付け、家主が織布をひっかけます。その後近隣の人々が来てそこへ贈り物を吊り下げます。これを職人頭が分配します。家が完全に建て終わると、下着やハンカチ、靴下などが贈られます。家人が家へ引っ越すとメヴリッド(イスラム教の法事)を行います。時おり、妬まれないように家内左官の一部をわざとしないでおくことがあります。妬みに対して最後に、飾り玉やリボンを結んだ鹿の角を吊るします。職人たちは稀に、「階段を逆に取り付けてしまいますよ」(仕上げをしていない面を上につけるという意)などと家主を脅して心付けを催促しますが、家主も「自分たちでなんとかしますよ」と返して心付けを渡します。

装飾

建築的エレメントを飾り立てるのは、昔からある習慣です。それでもサフランボルでは過剰な装飾をする傾向にはありませんでした。各エレメント上に与えられる変化や、材料を変えたりすることで装飾することが多く、色を使うことは最小限に抑えられました。これは総合的な芸術ヘの理解からです。装飾上の伝統の影響は大きく、バロック風が全盛になった時期でも、それ以前の伝統的装飾が続きました。

木材エレメントの装飾

ノコギリによる木材細工板は様々なノコギリで斜めに切られます。一般的にこの切り刻み作業の次に、彫刻作業があります。この種の木彫りは戸の上部のアーチやかまど上部のアーチなどのエレメントに施されています。

木材の彫刻

形をつけて切ったあとに尖った角を面取りします。表面に色々な模様を彫って、形を付けていきます。形がつけられた木材を面取りしながら飾りを彫る、などの方法で作られます。この種の彫刻は手すり、欄干、窓と格子の接続部などのエレメントに見られます。

サフランボル

彩色による装飾

非常に稀に木材の表面を油性の多彩色塗料で彩色することがあります。色が塗られる木材の表面は、パテなどで下地を整えたりはしません。木材の持つ風合いやふしなどが塗料を塗ってからもわかるようにします。彩色装飾は天井に多く見られます。

壁画による装飾

19世紀前半の例に、壁画が見られます。ハジ・サーリヒ・パシャ家の夏の家(1820年)には、一部屋のみが残っていますが、部屋の入り口側壁の壁画には、ふたつの城砦の間に浮かんだ帆船が描かれています。アスマズラル家の夏の家(1822年)では、抽象柄や植物モチーフの装飾画が近年まで壁に残っていました。1973年に行われた修復工事で、この壁画が描かれている層がはがされて、新たに漆喰が塗られました。今日では上階のソファのみに1237年(西暦1822年)の文字が見られます。カヴサラル家のギュムシュ区の家(1839-1841年)のソファの壁には、セルゲンの上に変わった城砦の絵と、ライオンの頭の飾りがついた帆船の絵が残っています。クランキョイ地区でも1879年に建てられた家で、イスタンブールを表現していると思われる様々な壁画があります。

日付

 
建築年は普通家の入り口の上、またはアーチ部分の上、軒下の壁の角に書かれます。しかし、これ以外の場所に書かれることもあります。

石細工

最も手の込んだ石細工は、かまどの両脇にある「肘掛け石」や、その他かまどそのものに施されたものに見られます。この石は、彫ったり削ったりされて、幾何学模様がつくりだされています。
貯水槽の噴水にも装飾的な受け皿や水の出る部分があります。通り側の入り口戸の枠上のアーチが、石で出来ていることもあります。また、角に建つ家の石壁の角が面取りされていて、その上部が石のコンソールになっていることもあります。木造の張り出し部分が、時おり装飾的な石のコンソールの上にのっていることもあります。
サフランボルで広く行われていた石壁工法は、石をジグザグに積んでいく方法です。これは支持壁をつくるというよりは、装飾的な目的が強いです。

鉄細工

鉄細工
その役割が必要とする形を、遊び心で加工する鉄細工職人は様々な作品を作り出しました。こういった例は、戸の引き手やその輪、引き手がとりつけられているパネル、ノッカー、鍵穴の空いたパネル、レバー、釣手、戸に打ち付けられた頭の大きい釘(カルパックル釘)、かまどの穴などに見られます。ときどき盛り上がったパネルにつけられた取手の輪の下に緑や赤のフェルトが挟まれていることがあります。パネルの穴からフェルトの鮮やかな色が見え隠れします。

織物

家の中のデコレーションはすべて織物です。夏の家から、または冬の家から、空っぽのもうひとつの家に引っ越すと、女性たちは何枚かの織物を飾って、そこをたちまち暖かい空間に仕立てます。これらの織物は、絨毯やキリム、セディルの上に敷かれる織物、カーテンなどです。床に置く食卓(イェル・ソフラス)の下に敷く布も、かつてサフランボルでは本の圧し型で模様がつけられていました。 

生活形態の変化

サフランボル
サフランボルの住民は長い間、豊かで幸せに暮らしていました。西洋からの新しいエネルギー源や、通信手段の発達によって生まれた産業革命は、オスマン朝にも影響を与えました。ヨーロッパで始まった政治的・経済的変化が、オスマン朝にも波及し始めました。タンジマート改革(スルタン・アブドゥルメジドによる1839年から1876年までの政治経済改革)により、新しい改革が行われ、ヨーロッパの産業家たちは商品をオスマン朝に無税で売るための条約を結ばせました。

こういった工業製品は数も多く、安くて物珍しかったことから、トルコの市場を手中に収め始めました。そして、国産の手工業は後退していきました製革業も、ヨーロッパから伝わってきた新しい方法で生産され始めると、イスタンブールに新製法で稼動する工場が建てられました。19世紀半ばのこういった現象は、サフランボルには非常にゆっくり影響を及ぼしていきましたが、それでも結果的には製革業はすべて消滅してしまったのです。 

主要産業が後退し始めると、資金を持っている者はイスタンブールから来る商品を売り始めました。このようにして赤字を修正しようと試みたのです。自給自足の閉鎖的経済と、こういった商業収入は、彼らを二十世紀半ばまで持ちこたえさせてくれました。

「ムバーデレ」(祖国解放戦争後に行われた、ギリシャとの間の住民交換)でルムがいなくなってしまってからのクランキョイ地区には、トラキア(トルコのユーロッパ側)やアナトリア地方からの移民が住み着きました。1945年の国勢調査まで、サフランボルの人口は減り続けました。この理由として、1935年に鉄道が敷かれて移動が簡単になったことと、経済的に苦しい家族が仕事を求めてエレイリやゾングルダック(黒海沿岸の炭鉱町)に移っていったこと、資金を持っている者は新たな起業のために、イスタンブールやアンカラなどの都市へ行ってしまったこと、1939年に国営鉄鋼所が操業し始めた隣町のカラビュックヘ行ってしまったこと、職員や労働者、商人として引っ越してしまったことが挙げられます。

1945年以降は、逆に人口が増加していっています。その唯一の理由は、カラビュック鉄鋼所へ働きに行く、近隣の村からの人口がサフランボルヘ流れてきたためです。サフランボルの運命を変えたカラビュックは、1935年には13-18件の家しかない、人口100人ほどの、オーレベリ村に属する小さな地区でした。1935年にアンカラをゾングルダックに結ぶ鉄道がこの地区へ来たときに、「カラビュック駅」と言う名がつけられました。1950 年以降、トルコの経済形態が変わったために、サフランボルも第二の変化の波にさらされました。サフランボルは、その周囲にとって唯一の商品提供場ではなくなり、サフランボルの資本家たちも、他の場所で稼ぎ、他の場所で消費するようになりました。このようにして、サフランボルの経済状態は悪化していきました。

サフランボル
このような状態にもかかわらず、未だにサフランボルの中で建築的面から見て変化や崩壊は起こっていません。労働力の流れはカラビュックに向かっており、社宅や集合住宅もカラビュックに建てられました。伝統を重んじるサフランボルの人々は、現在でも古い家に住み続けています。

非常に起伏の激しい土地であるカラビュックで、建物を建てる場所が減っていったこと、地価が上がったこと、カラビュックとサフランボルの間の交通が簡単になったこと、カラビュックの社宅や集合住宅での生活形態が農村から来たばかりの人々にあまり合わなかったことなどの理由で、労働者たちは段々とサフランボルに住むようになっていきました。

同じ頃サフランボルの市場は経済的価値を失い、その周囲の冬の家も重要性を無くしていきました。最早どの季節でもバーラル地区から市場へ行くことができるようになったからです。カラビュックやその他の都市へ行ってしまったサフランボルの人々も、夏の休暇にはバーラル地区の家へ帰ればよいので、シェヒル地区の家はまず賃貸に出され、その後売却され始めました。そこへは農村から来た村人たちが住みました。このような新しい住民構成の中での生活に慣れることができない昔からの住民や、経済的な理由がある住民たちは、シェヒル地区の家を売って、バーラルの家に四季を通じて住むようになりました。 1975年に行われた調査では、サフランボル生まれの人口はシェヒル地区で41%、クランキョイ地区で63%、バーラル地区では72%でした。この時代でも家屋に大きな変化は見られません。シェヒル地区の家は村での生活形態に合っていたため、新しい住民も家を改造しませんでした。 

全世界で技術が発達していった結果、サフランボルにもたらされる利益が増えると同時に快適さへの要求も増していきました。家族構成も変化を余儀なくされ、核家族化していきました。結果として、快適で経済的な、しかも使いやすくて新しい生活習慣にも合った集合住宅が建てられていったのです。特にバーラル地区の価値が上がり、土地の値段も上がったので、古い家は放棄され、壊されてアパートが建ち始めました。同時期、シェヒル地区に住んでいた農村出身の労働者も、賃金が上がって社会保障制度も整ってきたことで、より経済力がついてきたので、新しいアパートの形式を自分の家にも取り入れ始めました。この最初の適用として、最高に機能的な昔の窓を壊し、「モダン窓」と呼ばれるアパートに取り付けられるような大きなガラスがはめられた窓が取り付けられました。漆喰やモルタルを塗り替える際にも、家や部屋の角や階と階の間の葺板も外されてしまいました。骨組みの間を埋める日干しレンガの充填材や、時には骨組みでさえも取り外されて、大量生産されている工業レンガが積み重ねられました。古い瓦も、周辺でもう生産されていないことや、マルセイユ・タイプの瓦が入ってきたことなどが影響しあって、結果としてすべての瓦が「サチクラン」と呼ばれる現代風の瓦になってしまいました。ハヤットのカフェスも外され、かわりに窓が取り付けられたことで、ハヤットもその本来の役割を失って部屋になってしまいました。

サフランボル
しかしこういった改装は一時的なもので、経済効果を期待して、最終的には家をアパートに建て替えたいのです。バーラル地区ではすでに始まっていました。地価が上物よりも高くなってきたので、家を壊してアパートを建てる傾向になりました。 
現代とはそういう時代です。近い将来トルコの町を、トルコの民家を、非常によく反映しているサフランボルも、全ての特徴を失って新たなカラビュックになるか、1975年以降行われ始めた保存運動の結果、一部でも次世代に受け継いでいくか、選択を迫られていました。近年サフランボルに寄せられる興味は、季節を問わず何万人もの人々(2001年観先考数65000人)を誘致し、宿泊施設が設けられる原因となりました。このようにして古い民家の一部がペンションやホテル、レストランとして修復されました。

何十年もの間さびれたままであったアラスタ(中心街の市場)も再び活気付き、かなりの利益をもたらすようになりました。こういった風潮は、もうサフランボルが後戻りできない道を歩み始め、都市がより認識のあるかたちで保存される方向へ行っているということです。見学できる民家や、商業施設として生き返った家々のおかげで、家の内部に入り、一時的にでも古い時代を感じて懐古的気分にひたることもできるようになりました。
 
こういった民家は、カイマカムラル家博物館をはじめとして、チェシメリ・フィクリエ・ハヌム、ギョクチュオウル、ハティジェ・ハヌム、カドゥオウル、カドゥリ・ガニオウル、カラウズムレル、カヴサラル、ケフチ、キレジレル、ムムタズラル、パシャ、ラシットレル、サファ、セルヴィリ、タフスィン・ペイ、のようなホテルやレストランである。訪問者が増えるにつれて、こういった施設の数は増えていくことでしょう。

 
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