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JATA
観光庁長官登録旅行業第1997号
日本旅行業協会 正会員
東京商工会議所 会員
トルコの人気世界遺産

トロイの古代遺跡(文化遺産・1998年)


トロイ(トゥルワ)

チャナッカレの南30kmにはトロイ戦争やホメロスの「イリアド」「オデッセイ」の舞台となったヒサールルクの丘がある。トロイ戦争はトロイ王の末息子パリスがスパルタ王メネラオスの美貌の妻ヘレナを誘惑し国に連れ去った事に端を発する。これを名誉に関わる問題としたメネラオスや彼の兄弟アガメムノンそして忠臣達はトロイに宣戦布告をし、10年間続いたトロイ戦争はトロイの滅亡で暮を閉じる事となる。それから約3世紀後のB.C.9世紀、スミルナの詩人ホメロスがこの事実を基に神々や王、トロイの英雄達の壮大な叙事詩を書き上げたのである。しかしトロイ戦争の真相は美貌のヘレナ誘拐と言うよりもダーダネルス海峡の支配権をめぐってのものと言うのが正確であろう。古代から非常に肥沃な土地であった黒海沿岸に植民地建設を痛切に望んだギリシア人は収益を自国に輸送する為の安全な経路として是非とも海峡を確保したかったのである。その為にダーダネルスを押えているトロイとの戦いは回避できないものであった。発掘によってトロイの遺跡は主となる9つの層から構成されている事が明白となっている。トロイは1998年に世界遺産に登録された。


詳しくは右側のトロイ旅行・観光の案内ビデオをご覧になってください。 → → →
 
1分50秒

第1都市(3,000~2,600 B.C.)‥粗いレンガ造りの簡素な住居跡が直径100mの範囲に見られる。
火災によって滅びた都市である。第2都市(2,600~2,300 B.C.):居住区の外観はより立派で進歩の跡が見られる。1873年にH.シュリーマンがこの層から発見した武器、鋼製品、宝石、金の品々など先史時代からのトロイの財宝はべルリン博物館に展示されている。高度な文化を創造したこの都市はB.C.3世紀の大火で滅亡した。

ダーダネルス海峡
第3.4.5都市(2,300~1,900 B.C.)トロイの衰退期にあたる層と見なされている。第6都市(1,900~1,300 B.C.):直径200mに及ぶ。長さ350m、幅45m、高さ9mの強固な城壁は今日でも非常に良好な状態を保っている。
B.C.1300年の大地震によって崩壊している。
第7都市-A(1,300~1,200 B.C.):トロイ戟争が勃発した時期である。第7都市-B(1,200~900 B.C.)都市の滅亡の後、ここはフリギアの植民地となった。第8都市(900~350 B.C.):アイオリス系のギリシア人が居住した時期である。クセルクセスはここを訪問した際に1000頭以上の雄牛を犠牲に捧げている。
第9都市(350 B.C.~400 A.D.):B.C.334年、アレクサンダー大王はトロイを訪ね、巨大なアテネ神殿建設を命じたが完成は彼の右腕リシマコスの時代に実現した。ローマ時代、皇帝アウグストスは神殿の再建を実施している。124年に皇帝トラヤヌスはここを訪問している。


〔トロイの発掘〕
ドイツの商人ハインリヒ・シュリーマンは古代都市トロイを発見しギリシア人の妻ソフィア(1870~1890)と共に発掘事業を続行した。1873年、遂に彼はトロイ第2都市の財宝を発見し、これをベルリンに送ったが第二次世界大戦の際に行方不明となったままである。その後もドイツの考古学者(1890~1894)やシンシナティ大学の指揮(1932~1938)によって発掘調査が続けられている。


〔トロイの観光〕
矢印に従い東の塔からトロイ第6都市の強堅な城壁(アカエア人からの防衛の為)に沿って歩くと真の門に出る。ここから同じく第6都市の坂道になり、おそらく神殿であったと思われる12の基石のある支柱を備えた建物が見られる。更に進むと道の右手のアテネ神殿のテラスであった高台に出る。その両麓はシュリーマンが発掘にかなり力を注いだ場所で神殿のものと見られる大理石の柱や柱頭が目につく。さらに歩を進めると第1都市期の建築様式であるメガロン式による2つの建物があり、その後方にはトロイ第2都市の魚骨様式と呼ばれる方法で設計された塀が見られる。此れ等の反対に見られるのは第1都市の城壁跡である。ここから少し進んだ所がシュリーマンが第2都市の財宝を発見した石畳の坂道である。ここから右手に、坂を登った所にある第6・7都市の西の門からトロイ人は有名な木馬を市内に搬入したのだと言われている。南側は祭壇や動物を犠牲にする際に使用した穴と血を流し去る為の2本の溝を備えた第8都市の聖域である。道の右手にはローマ浴場、左手には座席等がかなり破壊されたローマ劇場や議事堂が見られる。アキレスが亡くなったグルダノスの門もここにある。



チャナッカレ(CANAKKALE)

チャナッカレはアジア大陸の西の果て、ダーダネルス海峡にのぞむ人口100,000人の港町である。その名は古くから盛んな窯業に由来し、壷、あるいは鉢の城と言う意味でチャナッカレとよばれている。
マルマラ海とエーゲ海をつなぐダーダネルス海峡は古代のヘレスボントスで、ダーダネルスという名もトロイの伝説的建国者ダルダノスに由来する。

この海峡はその地理的条件から、古今東西の大志野望を抱く権力者たちの熱いまなざしを浴びてきた。
西を目指したペルシァのキュロス大王は船を並べて橋を作りその大軍を渡らせた。西から東へと駆け抜けたマケドニアの若者アレクサンダ一は大帝国を築いたものの、再びここを渡って故郷に帰ることはなかった。オスマントルコの二代目オルハンはこの海峡を筏を組んで渡っている。

チャナッカレ
ごく最近のことを言えば、第一次世界大戦でこの海峡と対岸のガリポリ半島(ゲリボル)は激戦地として名を残した。トルコ軍、連合軍ともにおびただしい数の犠牲者を出し、ガリポリ半島には各国の慰霊碑が建てられている。
戦後の1922年に、ここに駐屯していたイギリス軍はムスタファ・ケマル(後のアタ・チュルク)の軍と衝突、しかし英国に同調する国がなかったので危うく開戦を避けることができたのだった。そして翌年のローザンヌ条約で、トルコ共和国の主張を入れて領土が確定されたのだった。

チャナッカレ

見どころとして、まずトロイとその周辺からの発掘物を展示した博物館があげられる。又、海峡監視の為に15世紀に造られた小さな要塞「スルタニエ・カレスィ」、ヨーロッパ側にあるオスマン初期の要塞「キリトバヒル」、そしてダーダネルスの戦いで命を落としたトルコ兵25万人の慰霊碑(高さ42m)をはじめとし、オーストラリア、フランス、ニュージーランド、英国の記念碑もここに立っている。長さ65km、幅1.3km(最も狭い所)のダーダネルス海峡はチャナッカレ・ボアズと呼ばれ(旧へレスボント)古代から史上重要な出来事の舞台となってきた



ホメロス
不朽の叙事詩人ホメロスの人生と作品は現在でもなお多くの論議の対象となっている。ハリカルナッソスの歴史家ヘロドトスによると、BC850年頃活躍していたホメロスはイズミル出身で、後キオス島に移りイオスでその生涯を終えたとされる。アイオリス人の方言で“Homer”は盲目”の意味であるという。
トロイ

彼の著作"イリアス"と"オデュッセイア"の2つの叙事詩には、その形式と手法に明らかな違いが見られることから、別々の詩人により著されたのではないかという説も学者の中に出ている。ホメロスの叙事詩は7世紀から知られるようになり、6世紀になると作品の→5がアテネのパンアテナイア祭で上演された。ヘレニズムからローマ時代にかけて、ホメロスの叙事詩は聖なる詩として認められていた。アリストテレスとストラボによると、この叙事詩の模写はこの頃既にアナゾルキオスとカリステネスにより完成されていたらしい。その後、アレキサンダー大王はダリウスから奪取した戦利品の中からこれらの叙事詩の模写を発見した。大王はそれを宝物殿の金庫に保管したという。約1万6千節からなる“イリアス”はトロイとアカイア戦の最後の40日間を、また1万2千節の“オデュッセイア”はトロイ戦争後の10年が描かれ、トロイから帰還するオデュセウスの冒険を物語っている。このオデュッセイアはイリアスから50年後に書かれた作品だと言われている。ルネサンス期のヨーロッパで一気に注目されたホメロスと彼の叙事詩は、現在も色あせることなく生き続けている。



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