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トルコの人気世界遺産

ネムルート山(文化遺産・1987年)


 ネムルート山とその古墳

コンマゲネの王アンティオコスⅠ世がネムルート山頂(2150m)に建設したヒエロテシオン(神聖な魂の最後の休息地)は古墳とその周りの三つのテラスからなる霊場である。東西のテラスには巨大な石像が並んでいる。その石像を彫った際に出た大量のこぶし大の石片を積み重ねて巨大な円錐形の塚を造りあげた。本来の古墳の高さは75mだった。しかし時が経つとともに人口の山は低くなる。

 アメリカの女性考古学者T.ゴエルが古墳内部の墓室を発見しようとダイナマイトを使用したこともあり、今ではその高さは50mになっている。

 古墳の直径は150m、内部まですべて小石で出来ているとしての試算によると約29万立方メートル、重量にして60万トンの石が使われているという。しかし堆石した小石が崩れないように、古墳の芯にあたる部分は山の岩盤を巧みに利用したものと推定したほうが自然であろう。

 テラスに並ぶ石像の玉座の背後に刻まれた碑文はアンティオコスⅠ世がここを自らの神聖なる墓地したことを示している。現在のところ、墓室もそれらしき大きな空洞も確認されていない。古墳への入り口を探そうとする試みもすべて空振りに終わった。しかし、最新の地球物理学的調査の結果はまだ公されていない。

 アンティオコスⅠ世の玉座の背には、王自身の言葉で、このヒエロテシオン建設の意義目的が語られている。
…それ故に天の王座に近く時の流れに損なわれることもないこの峰を神聖な安らぎの場と定めよう 神の恩寵をこうむった余の敬虔な魂が天帝ゼウスオロマスデスのみもとへと旅立つとき余の老いた肉体はここで永遠の眠りにつこう…

 古墳型の陵墓は北コーカサスのクルガン(高塚)文化に代表される。アナトリアでの最古の例としてはゴルディオンのフリギア王ミダスの陵やサルディス近くのビンテペに確認されたリディア時代の陵があげられよう。ネムルートの場合は陵の東西と北にテラスが造成された。特別な軸を考慮したわけではなく、山頂の地形による設計だったらしい。テラスは石像が彫られた時に出た大量の小石を敷き詰めて造成したが、西のテラスは東のそれよりも10mほど高くなっている。

 東西のテラスには、同じ配列の石像と三列の浮き彫りの石板が並んでいる。東のテラスの石像が比較的良い状態で残っているのに対し、西のテラスでは浮き彫りの方が保存状態が良いといえよう。東のテラスには石像と浮き彫りの他に、13.5×13.5mの大きな祭壇も設けられている。テラスヘ登る石段の跡も確認される。階段には自然石と共にブロックに切った石も使われていた。この階段は碑文を読む者のために、石像の背後にまで続いていた。

 王の誕生日(アウドナイオスの16日)と即位の日(ルースの10日)を祝うため、毎月16と10の日になるとコンマゲネの人々や神官たちは参道をたどり、この階段を登って儀式に参列したに違いない。大地に御神酒を注ぎ、いけにえや奉納の品々を捧げた後はお祭りの宴の楽しみが待っていた。

北のテラスには石像も浮き彫りも見られない。
 アンティオコスのお抱え彫刻師たちは素材としてネムルート山の天然の石灰質の石を選んだ。大理石より柔らかく扱いやすいし、自由にいくらでも手に入った。彫る道具としては尖ったもの、平板なもの様々のタイプのパンチやのみ、ハンマー、石目やすりやドリルなど当時のギリシャ、エジプト、イランの彫刻に一般的に使われていた用具が用いられたのだろう。石像の表面は非常に滑らかに磨き上げられていたことに気が付く。像を固定させる てこ の穴もいくつか確認される。

浮き彫りの石板は像の石灰岩よりも更に柔らかい砂岩でできており、数キロ離れた石切り場から運ぱれてきたものである。
 アンティオコスⅠ世の先祖を表した浮き彫りは未完成に終わっていることから、この霊場はアンティオコスの存命中に完成しなかったと推定されよう。

ネムルート山
東のテラス
 東側のテラスには山頂をバックに大きな石像が並んでいる。その左右と正面には浅浮き彫りの石碑が中庭を囲み、石像に向かいあうように大きな祭壇があった。このテラスにだけ祭壇が設けられていたということは、ここが大切な祭式の場として使われていたことを示す。 
石像と浮き彫りの碑の背後に通路が設けられている。祭りに集う人々はこの通路をめぐりながら、像に刻まれた祈祷文や王国の法律、先祖を称える言葉などを読んだのだろう。

 一列に並んだ石像を見てみよう
左端のライオンとワシの像から始まり、右端もワシとライオンで終わっている。百獣の王ライオンと、天空の王者であり神々の伝達使たるワシはこの霊場の守護神の役割を与えられ、他の像と同等の大きさに彫られていた。頭部は転げ落ちて中庭に散在している。守護役の動物の間に並んだ像は左から右にアンティオコスⅠ世、女神コンマゲネ、ゼウス-オロマスデス、アポロン-ミトラス、そしてヘラクレス-アルタグネス-アレスである。この五体は一つの長い基壇にのせられている。像の高さは平均して8-10mになろう。

本来の位置に残る神像は王座に行儀良く腰掛け、両腕を曲げて腿におき、堅苦しいポーズである。
いずれも首から上は転がり落ちているが、コンマゲネを除いた像は、それぞれ様々なイラン風の被り物ティアラを頭につけていた。
表情には若さがあり、何か話し出さんというように唇をかすかに開いているのはヘレニズム美術の特徴を感じさせる。
くぼんだ目がきまじめな印象を強める。

左のアンティオコスⅠ世は王のしるし、錫(しゃく)を手にし、頭は王座のうしろに転がっている。
 その右はコンマゲネ王国の擬人像である女神コンマゲネ。都市や特定の地域を女性像で人格化したのはヘレニズムの影響である。ヘレニズム世界ではしばしば幸運の女神ティケがその役を果たしていた。コンマゲネの右肩に豊饒の角、コルノコピアが添えられていた跡が残る。右手には穀物の穂とブドウ、ザクロと何か細長い果物が見える。

1882年にネムルートの石像群が発見された時、コンマゲネの頭だけはその体にのっていたという。その後、背後に転がり落ちてかなりのダメージを受けてしまった。果物を象った髪飾りがようやく判別できる。
 
その隣、中央に座を占めるのがゼウス-オロマスデス、ギリシャ世界のパンテオンの王ゼウスとゾロアスター教ペルシャのパンテオンの創造主オロマスデス(アフラ マズダ)を混淆した神である。オロマスデスはアフラマズダをギリシャ語風に呼んだものだった。この像はネムルート山の石像の中で最大で、31個の石が使われている。一番大きい石の重さは5トン、小さいものでも0.9トンもあり総重量は105トンに達する。

薄地らしきマントの胸の辺りにひだをとって背中に流し、左肩のフィブラで留めている。左手に持つのは稲妻と共に投げつけるという雷電の束である。

最高神の頭も像の前に転がり落ち、かなり破損されているがティアラには星の飾りが見える。
その右側はアポロン-ミトラス-ヘリオス-ヘルメスの合体した神である。ギリシャの神アポロンにゾロアスターペルシャの天の光の精霊ミトラス、そしてギリシャの太陽神ヘリオスと神々の伝達役ヘルメス。その像は27個の石から成り、それぞれの石の重さは6トンから0.1トンまで、総重量は60トンと見積もられている。ティアラを被った頭は落ちている。五番目がヘラクレス-アルタグネス-アレス。不滅の強者ヘラクレスとギリシャの戦の神アレス、ペルシャの軍神アルタグネスを一緒にした強い神で、左手の棍棒はヘラクレスのシンボルともいえるものである。彼の頭も落ちてしまった。

石像の正面の浮き彫の列に移ろう。デキシオシスつまり“握手の場面”が並んでいる。アンティオコスⅠ世が握手している相手は左から右に女神コンマゲネ、アポロン-ミトラス、ゼウス-オロマスデスそしてヘラクレス-アルタグネス-アレスである。
三方に並ぶ、浮き彫りの彫られた石板はすべて砂岩でできており、石のソケットにはめ込まれていた。それぞれの前には小さな奉納台が置かれている。

浮き彫りに描かれた人物の名前が裏面に刻まれている。これらの破片や、西のテラスにも残るこの種の浮き彫りから学者は東のテラスの浮き彫りの場面が何を意味するかを解明した。それによると中庭の北側に配置された浮き彫りはアンティオコスの父方の祖先を表している。石碑の裏にロドグネ、アラオンデス、アルタクセルクセスⅡムネモン、ダリウスⅡオコス、アルタクセルクセスⅠ、クセルクセスⅠ、そしてダリウスⅠ世の名が確認された。その向かい南側は母方の祖先たちで、アンティオコスⅠ自身と父ミトラダテスⅠカリニコス、セレウコス王国のアンティオコスⅦフィロメトル、デメトリウスⅡ二カトール、デメトリウスⅠ、セレウコスⅣフィロパトル、アンティオコスⅢ、セレウコスⅡカリニコス、アンティオコスⅡテオス、アンティオコスⅠソテル、セレウコスⅠ二カトール、そしてアレクサンダー大王である。

石像の向かい側の大きな祭壇には、香や甘い香りを放つハーブ、木の根その他の供え物がたっぶりと捧げられたに違いない。
石像の裏側は滑らかな壁のように仕上げられ、長い祈祷文の一部が残る。5-6cmの高浮き彫りのギリシャ文字で、二段に記されている。スペルなど細かな違いはあるものの西のテラスの石像の裏にもほとんど同一の文が記されている。
スタンレーM バースタインの英訳より、一部を訳してみると…

大王アンティオコス テオス ディカイオス、
エピファネス(*)フィロロマイオス そしてフィルヘレネ(**)
王ミトラダテス カリニコスと ラオディケ テア フィラデルフォス(***)
王アンティオコス エピファネス フィロメトル(****)カリニコスの娘の息子
今 聖別したこの場に 神聖なる文字を記す
余の博愛の成し遂げたる事業を永遠に残すために
人として最も善きこと 確かでかぐわしき喜びに満ちたこと
それは神を敬うことと余は考える 余の軍隊の幸運と至福も この敬虔さの賜物
我が王国のすべての者は 余がその生涯を通じて 最も信頼すべき守護者であり
神聖さを無上のよろこびとする者であることを 知るであろう
神を敬えばこそ 思わぬ大きな危険や 望ましくない行いは避けられ
神々の祝福に満たされた 長い命を生きてきた
父祖の王国を受け継いだ余アンティオコス 余の王座はすなわち
すべての神々のおわす王座と定める あらゆる技を尽くして 神々の姿を造ろう
幸いに満ちた 我が祖先のルーツたるペルシャとギリシャに古くから伝わるように
そして人間の普遍の慣わしにより 祭りを行い 犠牲を捧げる場を整えよう
尊き王者には 格別の栄誉を贈るべし それゆえに 天の王座に近く時の流れに損なわれることもない この峰を 神聖な安らぎの場と定めよう
神の恩寵をこうむった余の敬虔な魂が 天帝ゼウスオロマスデスの みもとへと
旅立つとき 余の老いた肉体は ここで永遠の眠りにつこう
そして この聖なる場の 我が祖先の偉大な友である
すべての神々の像ばかりでなく デーモンの像(*****)もまた
この山を聖峰とし 永遠に続く余の信仰の証しとなろう
ゼウス-オロマスデス、アポロン-ミトラス-ヘリオス
アルタグネス-ヘラクレス-アレス そして我が父祖の地をはぐくむ
コンマゲネ 余はこれらの神々の像を造る そして一つの石から
デーモンと共に 余自身の像を 新たなる幸いの神として 王座に据えよう
古代からの神々の友と 我が王家の戦に手助けした 姿ある友デーモンと共に
不足なき国土と そこからの途絶えることのない収穫を得て 余は惜しみ無く
犠牲を捧げ 絶え間なく祭りをおこなった
神官を任命し 由緒正しきペルシャの衣装を与え 余の幸運と 卓越した
デーモンにふさわしき儀式と奉仕の次第を整えた 永久に続くべき神事
はるか祖先の時代からの そしてこの世の慣わしとしての 犠牲を捧げると共に
神々と余の栄誉をたたえ 我が王国のすべての人民が 祝うべき日を定める
余の誕生の日アウダナイオス16日 そして余の即位の日ルース10日
これらの日々を 余の幸運の生涯を導き 余の王国に利益をもたらした
デーモンに捧げよう
年ごとに これらの日々を祝い たっぷりの犠牲を捧げ 盛大な宴を催すために
毎年それぞれ2日間を祭りの日と定める 我が王国のすべての民は
それぞれの町や村の祭りの場に集い 祝い 犠牲を捧げよ
将来 毎月の16日 余の誕生の日 そして毎月の10日 余の戴冠の日は
神官たちが集い 祝うこと これらすべてのことは永遠に残すべし
我らの名誉のためばかりではなく ひとりひとりの幸福を切に願うが故に 余は
神々の導きにより この聖なる場の 不滅の石碑に 神聖なる法を定め 記す
慎み深く敬虔なすべての者が 常にこころすべきこと 老いも若きもすべての
人間にとって正しきこと この土地に生を受け この土地の一部として生きる
すべての者に告げる
怠慢 尊大 不信心は 尊きデーモンの 呵責なき復讐を受けよう
そして又 神として祭られた英雄に対する不敬には 厳しき罰が下されよう
すべて神型なるものは尊ばれるべし それを軽んじた者は罰を受けるべし
余の言葉は掟であり 神々の意思である

(*)神の顕現 (**)ローマとギリシャの友 (***)兄弟おもいの
(****)母おもいの (*****)守護神としてのワシとライオンをさす


北のテラス
 北側テラスには石像も浮き彫りの碑も見られない。ここはおそらく祭りの際に人々が集う、いわば控えの場として利用されていたものと推定される。
長さ80mの壁と石のソケット、砂岩の石板が残されていることから、アンティオコスⅠ世の後のコンマゲネ王国後継者のためのスペースとして準備されたが、結局それは実現しなかったらしい。


西のテラス
 西のテラスにも石像が並び、その前の庭を囲むように浅浮き彫りの石板が三列に配置されているが、列は石像に連なり、二番目はその側面、南東に並び石像の向かいにも一列配置されている。南東と西の浮き彫りの碑の背後には低い壁が設けられていた。
北のテラスからの道を辿り、西のテラスに入るとまず、守護役してのライオンとワシの像があり、その前に、ひだの多い衣装を身に着けた男の大きな浮き彫りが置かれている。
正面の石像と同列に並べられた浮き彫りは、デキシオシズつまり、握手のシーンである。握手はペルシャの儀礼上、重要な意味を持っていた。

束のテラスのそれに比べてここのデキシオシズはかなり保存状態が良い。細部の仕上げから熟練した彫り師の仕事と推定されよう。
王座に腰を下ろしたゼウス-オロマスデスも裸体のヘラクレスも右のアンティオコスⅠ世の方に顔を向けている。砂岩の浮き彫りも守護役のライオンとワシに始まり、終わっている。

デキシオシズの左端はアンティオコスⅠ世と女神コンマゲネ、しかし破損がひどく、細部はよく判別できない。
その隣はアンティオコスとアポロンーミトラスが手を握る。王の左手には長い錫(しゃく)頭につけたティアラにはライオンの飾りが見える。どっしりした生地の儀礼用衣装を身につけているが、紐で裾をからげているのは乗馬に便利なためだろう。
刀の鞘にもライオンの頭の飾りが五つ見える。

アポロン-ミトラスも錫を手にし、神というよりも王の様な装いである。彼のティアラの形はフリギアの頭巾に似ているが、光線が矢のように突き出ているのはいかにも光の神らしい。左手に犠牲獣のための両刃のナイフを持っている。三番目のやや大きな浮き彫りではアンティオコスがゼウス-オロマスデスと握手している。ここでは王の衣装はさらに綿密に描かれている。

ゼウスの玉座の脚はグリフォンを象っており、角が突き出たライオンの頭にワシの爪の足が見える。
ゼウスの左肩、玉座の背には翼を広げたワシが飾られている。神の左手に長い錫、頭部は破損されているがティアラのトップが少し残る。
四番目の浮き彫りはアンティオコスとヘラクレス-アルタグネス-アレス。王は前と同様なスタイルでヘラクレス-アルタグネス-アレスは裸で、梶棒とライオンの皮衣を手にしている。


イエニ カレ
 エスキ カレにいく途中の岩壁に刻まれた長い碑文によると、ニムファイオスのアルサメィアの第二の丘は、すでにアルサメスの時代から壁で囲まれていたという。しかし、今日に残された遺跡はすべて中世のもので、アンティオコスの時代に遡るものは何一つない。地元の人々はここをイエニカレ(新しい要塞)と呼んできた。

 その遺跡は外の砦と内の砦から成っている。
内の砦にはモスクと浴場、二つの水槽そして宮殿の跡が残る。宮殿はホールや小部屋が並び、肋材をクロスさせた天井がよく残っている。
12世紀初め以来、ここはアルトゥク朝、ルムセルジュク朝、マムルク朝そしてオスマン帝国の支配を受けてきた。今日に残るアラビア語の銘は13世紀のマムルク朝時代のものである。

エスキ カレとイエニ カレの間にはニムファイオス川の深い谷が横たわる。崖の下から対岸の砦まで秘密のトンネルが続いていた。ごつごつした岩が川に張り出している。その下の建物に辿り着くには要塞から続く急な階段を登るしかない。よく保存されているこの建物の一部は伝書バトのために建てられたものである。


ジェンデレの橋
コンマゲネのローマ時代遺物として最も良く残されたのは古代のカビナス川、今日のジェンデレ川の一番狭まった位置に架けられた橋である。

ラテン語の碑文の記された四つの石碑のうち、二つが現存する。それによるとこの橋は198-200年、サモサタに駐屯していたローマ第十六軍団が建設したという。当時、ローマは東方の大敵パルティアに対する戦いに備えて、帝国東部で広範な建設事業に力を入れていた。この橋はローマ皇帝ヴェスパシアヌス(69-79)の時代の橋のあった同じ場所を選んで架けている。

 西の端に残る円柱に刻まれた銘によると、ローマ皇帝セプティミウス セヴェルス(193-211)とその妻ジュリア ドムナに捧げたとものだという。
コンマゲネの人々はジュリアにマーテル カストロルム、つまり“兵士たちの母”という称号を贈った。
ここに名前は挙げられていないものの、サモサタやペルラ、ドリシェ、ゲルマニケアの町々が建設費用を分担したらしい。
1本だけ残っている対岸の円柱はマルクス アウレリウス セヴェルス アントニヌスつまり後の皇帝カラカラに捧げたもので、消えたもう一本の円柱は弟のゲタに捧げられた。しかし後に弟を殺したカラカラは、帝国内のモニュメントからゲタの名をすべて消し去るように命じたという。ここでは円柱の名前を消すよりも、柱そのものを取り去ったらしい。

ネムルート山 カラクシュ古墳 カラクシュ古墳
このヒエロテシフォンは墓室を備えた古墳と、その周囲に配置された3本ずつのドーリア式円柱群から成る。ネムルート山と同様に小石を積んで盛り上げた古墳で、現在の高さは30mになっている。

その墓室はコンマゲネ王国がローマ帝国に併合された(紀元後72年)後に荒らされ、その石は最初のジェンデレの橋の材料とされたという。
ワシの円柱のバックに見える窪地が墓室の跡である。円柱群は古墳の三方に130mずつ離れて配置され灰色の粗削りの石灰岩のドーリア式円柱が3本ずつ並んでいた。トップに台座をのせ、その高さはおよそ7m、直径は1.7mである。

 東側の円柱は1本だけ残り、その上に2.54mのワシの像が立つ。頭を後ろにそらして宙を睨むワシ。カラクシュという現在の名は黒い鳥”を意味する。

 二つ目のグループで残っている円柱は2本で、中央の円柱のトップには像、又は浮き彫りの跡が確認される。柱の上の台座と柱身に刻まれたギリシャ語の長い碑文によると、このヒエロテシフォンはミトラダテスⅡ世(紀元前31-20)の母イシアスと妹のアンティオキス、その娘アカのために造られたという。その隣の柱の上にはうずくまる牡牛の像、頭は残っていない。

 三つめのグループでは1本だけ円柱が立っている。その上の碑は判別し難いが、ミトラダテスⅡ世と妹ラオディケの握手シーン、デキシオシスらしい。


サモサタ
コンマゲネ王国の都はサモサタ(現在のサムサト)に置かれていた。その名は紀元前100年頃、ここを都と定めたサモスⅡ世に由来する。
アナトリアとオリエントを結ぶ交易路が大河ユーフラテスを渡る地点に開けたサモサタは古代の文献にもしばしば登場する。城が造られたのはアンティオコスⅠ世の時代だった。

コンマゲネがローマ帝国と-マの軍団が駐屯していた。ローマの風刺家として知られるルキアヌス(125-192)はこの町の出身だった。
 南東トルコ総合開発計画のポイントとして、アタテュルクダムが建設される事になり、急いで発掘されたサモサタの遺跡も、現在は湖底に沈んでいる。


ユーフラテス河畔のアルサメィア
 要塞入り口の岩壁に記された長い碑文によると、ユーフラテス河畔のアルサメィア、今日のゲルゲルはアルサメスが建国したという。その領内に神事の場を設けたのもアルサメスだった。もともと、ここには女神アルガンデネの神殿があったという。後にひとり又はそれ以上の王のとヒエロテシオンとして選ばれたのだった。そこには…
  この聖地を汚した者は
  アポロンとヘラクレスの過たぬ矢をもって、
  また、ゼウス オロマスデスの雷電によって
  打ち倒されよう……という布告も記されていた。

最も印象的なモニュメントは岩の壁がんに置かれた4×2.7mの浮き彫りで、ネムルート山の方を向いており、かなり遠くからでも目に入る。
左手に錫(しゃく)を持った男性像で、やや離して掲げた右手はヒッタイト、ウラルトゥ、アッシリアの王たちが神前で示すポーズを想わせる。衣装は細かい点までネムルートの浮き彫りのそれと似ている。

壁がんの下に残る銘によると、この像はアンティオコスⅠ世の祖父にあたるサモスⅡ世で、アンティオコスが命じて彫らせたという。
 今日残る砦、ゲルゲル城は中世のものであるが、漆喰を使用していない北壁の多角形の部分は、コンマゲネ王国の時代のものと考えられている。

ネムルート山 ユーフラテス河畔のセレウキア
 セレウコス王国の創始者セレウコスⅠ世ニカトールはたくさんの町を建設あるいは再建した人である。ユーフラテス河畔のセレウキア、今日のベルクスもそのひとつで、ローマ時代にはゼウグマと呼ばれていた。対岸のセレウコスⅠ世の町アパメアとは浮橋で結ばれていた。コンマゲネのアンティオコスⅠ世の頃にはここも宗教祭儀の土地だったらしい。

 アンティオコスとヘラクレスが握手している場面を表した浮き彫りの一部、4つのかけらが発見されている。ユーフラテス河畔のセレウキアは本来コンマゲネの領土ではなかったが、コンマゲネがポンペイウスによりローマの同盟国とされた際にコンマゲネ領として編入され、その後軍事上の要地として発展した。特に軍人皇帝トラヤヌス(98-117)セプティミウス セヴェルス(193-211)の時代にはおおいに賑わいを見せた。ベルクス山のスロープに残る墓の多くはその当時のもので、巧みな技術がうかがわれる。床モザイクや壁の遺構もこの時代のものだった。
この町は256年にササン朝ペルシャのシャープールⅠ世(240-272)により滅ぼされた。


ソフラズ キョイ
ソフラズ キョイで出土した浮き彫りはここも又アンティオコスⅠ世の祭式の場だったことを示す。
ネムルート山の碑文でもこの聖域について言及している。玄武岩に彫られたアンティオコスⅠ世とアポロンの握手シーンの浮き彫りは、現在ガジアンテップ博物館に展示されている。正装した王が右手をアポロンに差し延べ、裸体のアポロンはチュニックを  肩にはおり、左手には聖木クマリスクの代わりにオリーブの枝を持っている。頭には光の矢が見える。

裏と横の狭い縁の部分に記された銘によると、この聖域はアポロンとアルテミスに捧げたものだという。ここでアンティオコスは大王の称号ではなく、単に王と記されている。つまりこれが彫られたのはギリシャとペルシャの諸神混淆が始まる前、アンティオコスの治世の初期の頃ということになろう。


ディレク カレ
 ここもアンティオコスⅠ世の築いた独特な信仰の小規模な祭りの場のひとつで、ネムルート山からも見える。今日残るのはローマ時代の遺構である。
一番高い所に位置する聖域の南側壁、その塔の側に二つの祭壇がおかれ、アポロンとアルテミスの浮き彫りで飾られていた。これは1世紀の神殿と考えられる。下の方にある二つの神殿はもっと後の2世紀と推定されている。


セソンク
 ウチタシュ、つまり“三つの石”と土地の人々が呼ぶ墓がある。本来は古墳とそれを取り巻いてペアの柱が3組配置されていた。柱の配置には特に深い意味はなく、据えやすいところに立てたらしい。

岩を据り抜いた墓室への細長い通路は崩壊している。北東側の一対の円柱は軒を支え、その上に像が並んでいた。その中心にシンプルな椅子に腰掛けたカップル、向かって左が女性で左足を少しだけ前に出し左手に儀式用の小枝を持っている。この二人はミトラダテスⅡ世とその妻と推定される。
両側にワシが控えている。


コンマゲネ地方の歴史
考古学的調査により、古代においてコンマゲネと呼ばれていたこの地方には旧石器時代から人々が住んでいたことを示す洞穴が発見された。新石器時代や銅石器時代の居住跡も確認されている。

紀元前2000年代、ヒッタイトの到来より早くから、アッシリアはアナトリアにいくつかの商業植民巾(カルム==本来の意味は港)を設置し、活発な交易を行っていた。カイセリに近いキュルテペ(カルム カネシュ)出土の粘土板文書からは当時のアッシリア商人がメソポタミアとアナトリアの間をひんぱんに往来していた様子が浮かび上がる。

梗形文字で記されたそれらの文書によると、商人たちは盗賊やオオカミから命と商品を守るために常にグループで旅をしたという。ザグロス山脈の向こうで採れる錫、大量の羊毛生地-バビロン産のものが最高とされていた-その他の商品をロバの背に山と積んで、メソポタミアの都市から山岳地帯を越える1300kmもの長い旅だった。

キャラバンはカルムに到着すると下ろした荷の封をはがす。商品は銀と交換される。銀又は他の金属で買った季毛、その他の品々が再びロバの背に積まれ出発する。キャラバンルートにあたる土地の鉱物や杉材もメソポタミアで売られたにちがいない。
アッシリアの記録には杉の丸太が大蛇のように川面を流れる様子が記されている。筏を組んで運ばれた木材はメソポタミアの宮殿や神殿、港の建設に貴重な役割を果たしたであろう。

銅や銀、鉄の鉱滓(*)が発見されたことは当時すでにこの地方で鉱業が行われていた事を示している。
 地方領主や小都市国家は周辺の大国の前にはか弱い存在だった。彼等はアッシリアに、続いてはバビロニアに貢納しなければならなかった。周辺の大国がこの山岳地方に特別な欲を出さないにしても、その地理的重要性と豊かな天然資源は無視できないものだった。しかし、これらの小国はメソポタミアの大国よりもむしろアナトリア東部のウラルトゥに民族的、文化的に近い立場だった。南東アナトリアの王国からの貢納品は鉄や銅、鉛、木材や馬などだった。青銅の器や銅の大鍋も喜ばれたらしい。

 紀元前6世紀、この地方もアケメネス朝ペルシャの支配下にあった。ペルシャの総督府が置かれた旧リディアの首都サルディスとアケメネス朝の部スサを結ぶいわゆる“王の道”(**)もこの地域を通っていた。
(*)鉄の採鉱跡は東部アナトリアだけで150ケ所以上も発見されている。

(**)3000kmに及ぶ、歴史上初の“高速幹線道路”の一部は中央アナトリア、ゴルディオンの発掘で確認されている。幅6mを越える立派な道だった。


コンマゲネ王国の歴史
 ペルシャのダリウスⅡ世が死に、息子のアルタクセルクセスⅡ世(紀元前404-359)が即位した。新王の弟キュロスはギリシャにいた。父の命令でペロポンネソス戦争でアテネに対するスパルタを支援するためだった。兄の即位を承知しないキュロスは、ギリシャの傭兵を集めてアナトリアに軍を進める。しかし前401年、キュロスはバビロンに近いコナクサで戦死した。(*)

 コンマゲネのオロンデスしアルタクセルクセスの側についた総督のひとりだった。
勝利の後、アルタクセルクセスは娘ロドグネをオロンデスにガとして与えた。後にアンティオコスⅠ世が、その父方の祖をペルシャの王室にありと誇ったのはこの結婚を根拠としたものだった。

 やがて、イッススの戦い(前333年)でダリウスⅢ世がアレクサンダーに破れたことにより、この地方のペルシャ支配も終わる。そして前323年、アレクサンダー大王の予期せぬ死の後、その広大な帝国は将車たちの手で分割された。コンマゲネはセレウコスⅠ財二カトール(前305-280)の領土の一部となる。

 セレウコス朝の政策はアレクサンダーのそれを継承したもので、ヘレニズム文化をさらに広めることになる。ヒポダモスの考案した碁盤目状に区画した都市設計や、ポリス(都市国家)運営はギリシャの伝統を受け継いだものだった。ギリシャから遠征してきた古参兵は現地で妻を娶り、セム人、アジア人との混血がすすんだ。このような新しい都市型居住地では東方、つまりイランやパルティアの思想信条価値観、哲学、生活様式と西のギリシャのそれとが混合していった。宗教もしかり、アポロンはオリエントのネブやミトラスと、ヘラクレスはセム系のネルガル又はイランのヴェレトラグナと混淆し、ゼウスはゾロアスター教(**)のアフラ マズダと一体の神とされた。ギリシャの幸運の女神ティケはヘレニズム風に都市あるいは土地を人格化するものとなる。この風習はビザンチン初期まで続いた。

 都市の活力と富はギリシャ本土から小アジア、オリエント、エジプトヘと移り、新生の都市は仕事を求める貧しい人々ばかりか、知識や経験、技術を認めてくれる主を探して、多くの学識者や建築家、彫刻師も集まってきた。

富裕な貴族階級を成したのは、中央支配の下に総督として任命された土着の王族が多かった。コンマゲネ、アルメニア、カッパドキア、アゼルバイジャンパルティアなどがセレウコス王国の一部として総督を配置していたが、彼等はひとたび中央政権が弱まるや否や、ただちに独立を企てることが多かった。セレウコス王国のアンティオコスⅢ世(前223-187)は前189年のマグネシアの戦いでローマとペルガモンなどの同盟軍に破れ、タウロス山脈の西の領地を失った。この時、最初にセレウコスに離反したのはパルティアとアルメニア(***)だった。

(*)コナクサの戦の後、アルタクセルクセスはギリシャの傭兵たちにペルシャ軍に加わるように呼ぴかけた。しかしギリシャ人たちはこれを断り、東アナトリアから黒海地方を経て故郷へ帰った。
1万人を越える帰還兵のこの長い行軍の記録が有名なクセノフォンのアナバシスである。

(**)ゾロアスターはペルシャ語のツァラトゥストラに由来する。

(***)パルティア王ミトラダテスⅠⅠ世(前123-88,87)はコンマゲネを併合し、ローマにとって最大の敵となった。


紀元前163年、コンマゲネの総督サモスは当時の政治状況を巧みに利用し、“王”プトレマイスとして即位した(前163-130)。彼は自らの名を刻んだコインまで造っている。
父の後を継いだサモスⅡ世(前130-100)は跡取り息子のミトラダテスⅠ世カリニコス(*)(前100-70)とセレウコス王アンティオコスⅧ世グリポス(**)の娘ラオディケを結婚させた。
コンマゲネのアンティオコスⅠ世が、母方の祖先をセレウコス朝、さらにはアレクサンダー大王に繋がるものと誇ったのはこの縁組を根拠としていた。

(*)カリニコス=麗しき勝利者

(**)グリポスーカギ鼻の 彼はセレウコス王国の正当な王として最後の人だが、その後6人がセレウコスのアンティオコスを名乗っている。
ネムルート山
 アルメニアのティグラネス大王(紀元前95又は94-65又は55)はセレウコス朝の後継者を自認し、コンマゲネをアルメニア王国に併合した。
しかし紀元前69年、ティグラネスがルクルスの率いるローマ軍に破れたおかげで、この地域の小国は束の間の平和を楽しむことができた。アンティオコスⅠ世(紀元前69-31)はローマのポンペイウスによりコンマゲネ王として正式に認められ、コンマゲネの歴史の中で最も華やかな時代を迎える。

彼は軍事上の建設事業に加え、王すなわち神とする信仰をうちたて、コンマゲネの各地に祭儀の場を設けた。彼が息子のミトラダテスⅡ世(前31-20)に残した王国は豊かで強かった。しかしローマの東方の大敵、パルティアの脅威からコンマゲネを守るため、ミトラダテスⅡ世は娘をパルティア王オロデスⅡ世(前57-38)に嫁がせている。

そのミトラダテスも対ローマでは政治的判断を誤ったらしい。マルクス アントニウスとオクタヴィアヌスが対決したアクティウムの戦い(前31年)でアントニウスを支援したため、ローマの恩恵を失うことになる。ローマ皇帝アウグストゥスとなったオクタヴィアヌスはコンマゲネをつぶそうとまではしなかったが、その動きを警戒の目で見ていた。アンティオコスⅠ世のもう一人の息子アンティオコスⅡ世は兄の即位に反対の動きを見せたためローマに召喚され、裁判の結果、前29年に処刑されている。

後、アウグストゥスはミトラダテスⅢ世(前20-12)を幼少ながらコンマゲネの王位につけた。ミトラダテスⅢ世、そして続く息子アンティオコスⅢ世の死(後17年)にあたり、コンマゲネの人々は新王としてアンティオコスの血筋を残すことをロ-マに要望した。しかしローマの支配下で、由緒正しい一族は処分されていた。このような問題を解決するために皇帝ティベリウス(14-37)は甥のゲルマニクスを派遣した。ゲルマニクスはプラエトール(法務官)のクィンティウス セルヴァエウスをコンマゲネの支配者に選び、その後間もなくロ-マのシリア州と同盟させている。

 理由ははっきりしないがアンティオコスⅢ世の息子はゲルマニクスの息子で後のローマ皇帝カリギュラと仲が好かった。皇帝となったカリギユラ(37-41)はその友をコンマゲネ王アンティオコスⅣ (38-72)として即位させ、キリギアの地中海沿岸部もその領土として与えた。しかしまもなく、又も理由は不明ながらカリギュラはアンティオコスの王位を取り消している。41年にカリギュラが殺されて叔父のクラウディスが皇帝の位につくと、アンティオコスⅣ世は再びコンマゲネ王に帰り咲いた。

    コンマゲネ王国系図
      総督サモス
 後に王プトレマイス(前163-130)
   サモスⅡ世(前130-100)
ミトラダテスⅠ世カリニコス(前100-70)
 アンティオコスⅠ世テオス(前69-31)
   ミトラダテスⅡ世(前31-20)
   ミトラダテスⅢ世(前20-12)
  アンティオコスⅢ世(  -後17)
     ローマと同盟関係
アンティオコスⅣ世エピファネス(38-72)
    ローマ帝国シリア州に併合

 皇帝ヴェスパシアヌス(70-79)の時代、ロ-マはコンマゲネとパルティアの間の宗教的、文化的親近感に対して警戒を強める。サモサタがユーフラテスの渡河点として、軍事基地として利用される恐れを抱いたローマは、コンマゲネを完全にローマ帝国シリア州に併合してしまった。そしてコンマゲネの王とその一族は全員ローマに“招待”され、コンマゲネ王国は歴史から消え去った。

 アンティオコスⅣ世の孫にあたるフィロパポス(祖父を愛するの意)はローマ帝国の執政官として活躍した。アクロポリスの向かい側、ムセイオンの丘に彼の記念廟を建設した(114-116年)のはアテネの人々である。そこにはフィロバポスと共に彼の愛した祖父アンティオコスⅣ財、そしてセレウコス打刻の祖セレウコスⅠ世の像が並んでいた。


アンティオコスⅠ世の信仰
 ネムルート山のヒエロテシオンは紀元前1世紀の南東アナトリアに花開いた特異な文化といえよう。それは周辺の土地を舞台に展開した古代文化の歴史と多様性を雄弁に語ると共に、それらを見事にミックスして独自のものを創造した力を感じさせる。
ネムルート山頂、その他コンマゲネと呼ばれた土地のあちこちに残されたモニュメントはアンティオコスⅠ世が、自らと祖先を神々と共にまつるために建設したものだった。

 アンティオコスⅠ世は当時の政治的力関係の生み出した土着の富裕な支配階級の典型だった。
その背景には紀元前6世紀からのペルシャの文化、そしてアレクサンダー大王からセレウコス王国時代のいわゆるヘレニズム文化がある。
高貴な血統を謳う小王国の思想としてはヒッタイトやアッシリア、ペルシャのような古代文明にルーツが見られる。これらの古代文明の時代、王は神の恩寵の下に即位した。支配者は王であり、神であった。記念碑的建築物はもちろん、山頂や崖地、岩壁に自らの像を立て、あるいは浮き彫りにした。

人目を引くように大きく、かつ耐久性のある素材を選ぶなど不滅の信念にふさわしいものを好んだ。
このような裕福な東方的支配階級は、ペルシャが西アナトリアを支配していた2世紀あまりの間にすでにギリシャ文明と出会っていた。ギリシャの芸術家たちは東方の君主にも技量を売り、彼等の好みに応じた作品を造り上げた。王宮建設などのために遠くペルシャまで出向くこともあったから、ギリシャの石工はその道具やテクニックを東方に持ち込んだ。

インダス河の岸辺まで進んだアレクサンダー大王の遠征は東と西の文化の融合に果てしない大きな役割を果たしたものだった。アレクサンダー同様にその帝国の東部を受け継いだセレウコス王国もヘレニズム文化をさらに東に広めることを目的としていた。ネムルート山のモニュメントを見ると、その目的はみごとに成功したといえよう。
ギリシャ人が小アジアやオリエントに建設した町々ではペルシャとギリシャの思想信条が混じりあっていた。東と西の神々さえも一体のものとされた。

日常生活の面でもしかり、ギリシャの支配層はペルシャの衣装を身につけ、ペルシャ宮廷風の儀礼を尊んだ。アフラ マズダの典礼規定もアラム文字からギリシャ文字に変えられた。ネムル-ト山頂の碑文はペルシャの光明の神ミトラスがギリシャ語で紹介された最初の例といえよう。

後にローマ人にも受け入れられたミトラス教は特に兵士たちの間で大きな人気を得ていた。犠牲の牛の血で新入りの信者を清め、祝う。ミトラスの秘儀は後のキリスト教の洗礼の元祖となっている。

 高貴な血統を誇示するのも、古代の王たちに共通した気風である。例えばトロイア戦争の英雄たち、ローマやその他の地中海地方に建設された都市の幾つかは、トロイアの英雄たちをその祖としていた。アレクサンダー大王はヘラクレスの子孫と称したしセレウコス王国の創始者セレウコスⅠ世ニカトールはそのアレクサンダーと父フィリップⅡ世の二代に仕えた友人だった。コンマゲネのアンティオコスⅠ世の母ラオディケはセレウコス朝の最後の王、アンティオコスⅧ世グリポスの娘である。そこからコンマゲネのアンティオコスは母方の祖先をセレウコス更にアレクサンダー大王と胸を張ることになる。

ネムルート山  ペルシャの王室との関わりも古く、紀元前401年のコナクサの戦いにさかのぼる。それはペルシャ王アルタクセルクセスⅡ世と弟のキュロスの戦だった。アンティオコスの祖先オロンデスはアルタクセルクセスの側につき、勝利の後、アルタクセルクセスの娘ロドグネを妻として与えられた。アンティオコスの曾祖父は恐らくロドグネの孫というわけで、ペルシャの王家の血を自認する根拠となる。

 ソフラズキョイの浮き彫りと碑文は注目に値する。アンティオコスは当初、自らをギリシャのパンテオンの一員とし、母方の血を強調していた。石碑の裏側の銘には、そこがアルテミスとアポロンに捧げた聖地と述べるだけで、ペルシャの神々については触れていない。アンティオコスが握手しているアポロンは裸体で、ペルシャ風のティアラも被っていないしオリーブの小枝を手にしている。ニムファイオスのアルサメィアの碑の浮き彫りに描かれたようなクマリスクの枝ではない。

つまり、アンティオコスは治世の途中からペルシャの神々を取り入れ、父方の祖先をダリウスⅠ世にまで遡ると強調し始めたらしい。
 彼の信仰の最後を飾るモニュメントがネムルート山のヒエロテシオンだった。ここではギリシャとペルシャの神々が一体のものとなり、アンティオコス自身もその中に加わっている。

しかし、アンティオコスは自分の創造した信仰が支配階級にのみ受け入れられるものであることを知っていたに違いない。もし貧しく無知な一般大衆が信仰したにしても、そんなに真剣な気持ちからではないだろう。そこに並ぶペルシャの神々、特にミトラスとアフラ マズダ(オロマスデス)は彼等自身の神だから、祭りや宴に参列し、心ゆくままに飲み食いすることに異議はない…

アンティオコスの築いた信仰は主人公の死後、あっさりと忘れ去られる運命にあった。少し後のカラクシュやセソンクの古墳が、アンティオコスの時代のものに比べてスケールが小さいのはそのためである。 アンティオコスはネムルートの碑文にはっきりとヒエロテシオン建設の目的を述べている。つまり、自分自身の神聖な魂の最後の休息の場とすることだという。
   …天の王座に近く
   時の流れに損なわれることもない
   この峰を 神聖な安らぎの場と定めよう
   神の恩寵をこうむった 余の敬けんな魂が
   天帝ゼウスオロマスデスのみもとへと
   旅立つとき 余の老いた肉体は
   ここで永遠の眠りにつこう…
これを真摯な祈りの言葉と見るか、あるいは強大な他民族国家支配に利用されたヘレニズム風支配者崇拝の小国版とみるか、単に富と力を誇示する行いと見るか、いずれにしても歴史の一場面における特異な宗教芸術の遺産であることに異議はなかろう。

 立体的な石像のタイプはエジプトにその起源を辿ることができるが、ネムルート山の像は当時のギリシャ風彫刻として非常にユニークな例である。ギリシャとペルシャ、東西の美術に詳しいギリシャ人彫刻家の仕事と思われる。かすかに開いた唇や濃いあごひげはヘレニズム風で、衣装や頭飾りはペルシャ風である。又、カラクシュ古填やセソンクに見られるように、ドラムを積み重ねた円柱のトップに像をのせるのはギリシャ独特の方法で、コンマゲネ以東にはほとんど見られない。
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