トルコの人気世界遺産
ネムルト山(文化遺産・1987年)
ネムルト山は、トルコ南東部にある標高2,134mの山です。山頂には古代コンマゲネ王国の王・アンティオコスⅠ世の墳墓が残されており、立ち並ぶ巨大な石像が見る者を圧倒します。ヘレニズム時代の文化・芸術の特異性を示す歴史的価値の高い遺跡として、1987年にユネスコ世界遺産に登録されています。
コンマゲネの王・アンティオコスⅠ世がネムルート山頂(標高約2,150m)に建設したヒエロテシオン(神聖な魂の最後の休息地)は、古墳とその周りの三つのテラスからなる霊場です。東西のテラスには巨大な石像が並んでいます。その石像を彫った際に出た大量のこぶし大の石片を積み重ねて、まるでピラミッドのように巨大な円錐形の塚を造りあげています。
テラスに並ぶ石像の玉座の背後に刻まれた碑文は、アンティオコスⅠ世がここを自らの神聖なる墓地としたことを示しています。しかし現在のところ、墓室もそれらしき大きな空洞も確認されていません。古墳への入り口を探そうとする試みも全て空振りに終わりました。一方、最新の地球物理学的調査の結果はまだ公にされていません。
アンティオコスⅠ世の玉座の背には、王自身の言葉で、このヒエロテシオン建設の意義目的が語られています。
「…それ故に天の王座に近く時の流れに損なわれることもないこの峰を神聖な安らぎの場と定めよう。神の恩寵をこうむった余の敬虔な魂が天帝ゼウスオロマスデスのみもとへと旅立つとき、余の老いた肉体はここで永遠の眠りにつこう…」
これを真摯な祈りの言葉と見るか、あるいは強大な他民族国家支配に利用されたヘレニズム風支配者崇拝の小国版とみるか、単に富と力を誇示する行いと見るか、いずれにしても歴史の一場面における特異な宗教芸術の遺産であることに異議はないでしょう。
立体的な石像のタイプはエジプトにその起源を辿ることができますが、ネムルート山の像は当時のギリシャ風彫刻として非常にユニークな例です。ギリシャとペルシャ、東西の美術に詳しいギリシャ人彫刻家の仕事と思われます。かすかに開いた唇や濃いあごひげはヘレニズム風で、衣装や頭飾りはペルシャ風です。また、カラクシュ古填やセソンクに見られるように、ドラムを積み重ねた円柱のトップに像をのせるのはギリシャ独特の方法で、コンマゲネ以東にはほとんど見られません。
ネムルト山にある古墳の本来の高さは75mでした。しかし時が経つとともに人工の山は低くなります。アメリカの女性考古学者T.ゴエルが古墳内部の墓室を発見しようとダイナマイトを使用したこともあり、今ではその高さは50mになっています。
古墳の直径は150m、内部まで全て小石で出来ているとする試算によると約29万立方メートル、重量にして60万トンの石が使われているとのことです。しかし堆石した小石が崩れないように、古墳の芯にあたる部分は山の岩盤を巧みに利用したものと推定したほうが自然でしょう。なお、このピラミッド状の古墳は崩落しやすい構造になっているため、これまで盗掘の被害に遭わなかったといわれています。
古墳型の陵墓は北コーカサスのクルガン(高塚)文化に代表されます。アナトリア(現在のトルコ)での最古の例としてはゴルディオンのフリギア王ミダスの陵や、サルディス近くのビンテペに確認されたリディア時代の陵があげられるでしょう。
ネムルートの場合は陵の東西と北にテラスが造成されました。特別な軸を考慮したわけではなく、山頂の地形による設計だったそうです。テラスは石像が彫られた時に出た大量の小石を敷き詰めて造成しましたが、西のテラスは東のそれよりも10mほど高くなっています。
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ネムルト山のあたりは古代にはコンマゲネと呼ばれ、旧石器時代から人々が生活していました。紀元前6世紀ごろからはペルシアの支配下にありましたが、紀元前333年のイッソスの戦いでアレキサンダー大王が勝利したことで、ペルシアの支配は終焉しました。その後、アレキサンダー大王の死をうけて興ったセレウコス朝にコンマゲネは支配されます。
紀元前163年、セレウコス朝からコンマゲネの総督として任命されていたサモスは、セレウコス朝の勢力が弱まっていた状況に乗じて、プトレマイス王として即位。ネムルト山に墳墓を築いたアンティオコスⅠ世(紀元前69-31)は、ローマのポンペイウスによりコンマゲネの王として正式に認められました。
ネムルト山の頂に王墓を造ったアンティオコスⅠ世の治世は、コンマゲネの歴史の中で最も輝いたといえる時代です。
ネムルト山は主要な観光エリアから離れており、一般的なパッケージツアーのルートに含まれていないことが多いため、希望に応じてプラン設計ができるプライベートツアーを利用するといいでしょう。
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東西のテラスには、同じ配列の石像と三列の浮き彫りの石板が並んでいます。東のテラスの石像が比較的良い状態で残っているのに対し、西のテラスでは浮き彫りの方が良い保存状態と言えるでしょう。東のテラスには石像と浮き彫りの他に、13.5×13.5mの大きな祭壇も設けられています。
テラスヘ登る石段の跡も確認されています。階段には自然石と共にブロックに切った石も使われていました。この階段は碑文を読む者のために、石像の背後にまで続いていました。
王の誕生日(アウドナイオスの16日)と即位の日(ルースの10日)を祝うため、毎月16と10の日になるとコンマゲネの人々や神官たちは参道をたどり、この階段を登って儀式に参列したに違いありません。大地に御神酒を注ぎ、生贄や奉納の品々を捧げた後はお祭りの宴の楽しみが待っていました。
一方、北のテラスには石像も浮き彫りも見られません。
アンティオコスのお抱え彫刻師たちは素材としてネムルート山の天然の石灰質の石を選びました。大理石より柔らかく扱いやすく、自由にいくらでも手に入った為です。彫る道具としては尖ったもの、平板なもの様々なタイプのパンチやのみ、ハンマー、石目やすりやドリルなど当時のギリシャ、エジプト、イランの彫刻に一般的に使われていた用具が用いられたのでしょう。石像の表面は非常に滑らかに磨き上げられていたことに気が付きます。像を固定させる梃子の穴もいくつか確認されています。
浮き彫りの石板は像の石灰岩よりも更に柔らかい砂岩でできており、数キロ離れた石切り場から運ばれてきたものです。アンティオコスⅠ世の先祖を表した浮き彫りは未完成に終わっていることから、この霊場はアンティオコスの存命中に完成しなかったと推定されます。
東側のテラスには山頂をバックに大きな石像が並んでいます。その左右と正面には浅浮き彫りの石碑が中庭を囲み、石像に向かいあうように大きな祭壇がありました。このテラスにだけ祭壇が設けられていたということは、ここが大切な祭式の場として使われていたことを示しています。
石像と浮き彫りの碑の背後に通路が設けられています。祭りに集う人々はこの通路を巡りながら、像に刻まれた祈祷文や王国の法律、先祖を称える言葉などを読んだのでしょう。
左端のライオンとワシの像から始まり、右端もワシとライオンで終わっています。百獣の王ライオンと、天空の王者であり神々の伝達使たるワシはこの霊場の守護神の役割を与えられ、他の像と同等の大きさに彫られていました。頭部は転げ落ちて中庭に散在しています。守護役の動物の間に並んだ像は左から右にアンティオコスⅠ世、女神コンマゲネ、ゼウス-オロマスデス、アポロン-ミトラス、そしてヘラクレス-アルタグネス-アレスです。この五体は一つの長い基壇にのせられています。像の高さは平均して8~10mになるでしょう。
本来の位置に残る神像は王座に行儀良く腰掛け、両腕を曲げて腿におき、堅苦しいポーズです。いずれも首から上は転がり落ちていますが、コンマゲネを除いた像は、それぞれ様々なイラン風の被り物ティアラを頭につけていました。表情には若さがあり、何か話し出さんというように唇をかすかに開いているのはヘレニズム美術の特徴を感じさせます。くぼんだ目が生真面目な印象を強めています。
左のアンティオコスⅠ世は王のしるし、錫(しゃく)を手にし、頭は王座のうしろに転がっています。
その右はコンマゲネ王国の擬人像である女神コンマゲネです。都市や特定の地域を女性像で人格化したのはヘレニズムの影響です。ヘレニズム世界ではしばしば幸運の女神ティケがその役を果たしていました。コンマゲネの右肩に豊饒の角、コルノコピアが添えられていた跡が残っています。右手には穀物の穂とブドウ、ザクロと何か細長い果物が見えます。
1882年にネムルートの石像群が発見された時、コンマゲネの頭だけはその体にのっていたそうです。その後、背後に転がり落ちてかなりのダメージを受けてしまいました。果物を象った髪飾りがようやく判別できます。
その隣、中央に座を占めるのがゼウス-オロマスデス、ギリシャ世界のパンテオンの王ゼウスとゾロアスター教ペルシャのパンテオンの創造主オロマスデス(アフラ マズダ)を混淆した神です。オロマスデスはアフラマズダをギリシャ語風に呼んだものでした。この像はネムルート山の石像の中で最大で、31個の石が使われています。一番大きい石の重さは5トン、小さいものでも0.9トンもあり総重量は105トンに達します。
薄地らしきマントの胸の辺りにひだをとって背中に流し、左肩のフィブラで留めています。左手に持つのは稲妻と共に投げつけるという雷電の束です。
最高神の頭も像の前に転がり落ち、かなり破損されていますが、ティアラには星の飾りが見えます。
その右側はアポロン-ミトラス-ヘリオス-ヘルメスの合体した神です。ギリシャの神アポロンにゾロアスターペルシャの天の光の精霊ミトラス、そしてギリシャの太陽神ヘリオスと神々の伝達役ヘルメスです。その像は27個の石から成り、それぞれの石の重さは6トンから0.1トンまで、総重量は60トンと見積もられています。ティアラを被った頭は落ちています。
五番目がヘラクレス-アルタグネス-アレスです。不滅の強者ヘラクレスとギリシャの戦の神アレス、ペルシャの軍神アルタグネスを一緒にした強い神で、左手の棍棒はヘラクレスのシンボルともいえるものです。彼の頭も落ちてしまいました。
石像の正面の浮き彫りの列に移りましょう。デキシオシスつまり“握手の場面”が並んでいます。アンティオコスⅠ世が握手している相手は左から右に女神コンマゲネ、アポロン-ミトラス、ゼウス-オロマスデスそしてヘラクレス-アルタグネス-アレスです。
三方に並ぶ、浮き彫りの彫られた石板はすべて砂岩でできており、石のソケットにはめ込まれていました。それぞれの前には小さな奉納台が置かれています。
浮き彫りに描かれた人物の名前が裏面に刻まれています。これらの破片や、西のテラスにも残るこの種の浮き彫りから学者は東のテラスの浮き彫りの場面が何を意味するかを解明しました。それによると中庭の北側に配置された浮き彫りはアンティオコスの父方の祖先を表しています。
石碑の裏にロドグネ、アラオンデス、アルタクセルクセスⅡムネモン、ダリウスⅡオコス、アルタクセルクセスⅠ、クセルクセスⅠ、そしてダリウスⅠ世の名が確認されました。
その向かい南側は母方の祖先たちで、アンティオコスⅠ自身と父ミトラダテスⅠカリニコス、セレウコス王国のアンティオコスⅦフィロメトル、デメトリウスⅡ二カトール、デメトリウスⅠ、セレウコスⅣフィロパトル、アンティオコスⅢ、セレウコスⅡカリニコス、アンティオコスⅡテオス、アンティオコスⅠソテル、セレウコスⅠニカトール、そしてアレクサンダー大王です。
石像の向かい側の大きな祭壇には、甘い香りを放つハーブ、木の根その他の供え物がたっぶりと捧げられたに違いありません。
石像の裏側は滑らかな壁のように仕上げられ、長い祈祷文の一部が残っています。5~6cmの浮き彫りのギリシャ文字で、二段に記されています。スペルなど細かな違いはあるものの西のテラスの石像の裏にもほとんど同一の文が記されています。
スタンレーM バースタインの英訳より、一部を訳してみると以下のようになります。
「大王アンティオコス テオス ディカイオス、
エピファネス(注:神の顕現)フィロロマイオス そしてフィルヘレネ(注:ローマとギリシャの友)
王ミトラダテス カリニコスと ラオディケ テア フィラデルフォス(注:兄弟おもいの)
王アンティオコス エピファネス フィロメトル(注:母おもいの)カリニコスの娘の息子
今 聖別したこの場に 神聖なる文字を記す
余の博愛の成し遂げたる事業を永遠に残すために
人として最も善きこと 確かでかぐわしき喜びに満ちたこと
それは神を敬うことと余は考える 余の軍隊の幸運と至福も この敬虔さの賜物
我が王国のすべての者は 余がその生涯を通じて 最も信頼すべき守護者であり
神聖さを無上のよろこびとする者であることを 知るであろう
神を敬えばこそ 思わぬ大きな危険や 望ましくない行いは避けられ
神々の祝福に満たされた 長い命を生きてきた
父祖の王国を受け継いだ余アンティオコス 余の王座はすなわち
すべての神々のおわす王座と定める あらゆる技を尽くして 神々の姿を造ろう
幸いに満ちた 我が祖先のルーツたるペルシャとギリシャに古くから伝わるように
そして人間の普遍の慣わしにより 祭りを行い 犠牲を捧げる場を整えよう
尊き王者には 格別の栄誉を贈るべし それゆえに 天の王座に近く時の流れに損なわれることもない この峰を 神聖な安らぎの場と定めよう
神の恩寵をこうむった余の敬虔な魂が 天帝ゼウスオロマスデスの みもとへと
旅立つとき 余の老いた肉体は ここで永遠の眠りにつこう
そして この聖なる場の 我が祖先の偉大な友である
すべての神々の像ばかりでなく デーモンの像(注:守護神としてのワシとライオンをさす)もまた
この山を聖峰とし 永遠に続く余の信仰の証しとなろう
ゼウス-オロマスデス、アポロン-ミトラス-ヘリオス
アルタグネス-ヘラクレス-アレス そして我が父祖の地をはぐくむ
コンマゲネ 余はこれらの神々の像を造る そして一つの石から
デーモンと共に 余自身の像を 新たなる幸いの神として 王座に据えよう
古代からの神々の友と 我が王家の戦に手助けした 姿ある友デーモンと共に
不足なき国土と そこからの途絶えることのない収穫を得て 余は惜しみ無く
犠牲を捧げ 絶え間なく祭りをおこなった
神官を任命し 由緒正しきペルシャの衣装を与え 余の幸運と 卓越した
デーモンにふさわしき儀式と奉仕の次第を整えた 永久に続くべき神事
はるか祖先の時代からの そしてこの世の慣わしとしての 犠牲を捧げると共に
神々と余の栄誉をたたえ 我が王国のすべての人民が 祝うべき日を定める
余の誕生の日アウダナイオス16日 そして余の即位の日ルース10日
これらの日々を 余の幸運の生涯を導き 余の王国に利益をもたらした
デーモンに捧げよう
年ごとに これらの日々を祝い たっぷりの犠牲を捧げ 盛大な宴を催すために
毎年それぞれ2日間を祭りの日と定める 我が王国のすべての民は
それぞれの町や村の祭りの場に集い 祝い 犠牲を捧げよ
将来 毎月の16日 余の誕生の日 そして毎月の10日 余の戴冠の日は
神官たちが集い 祝うこと これらすべてのことは永遠に残すべし
我らの名誉のためばかりではなく ひとりひとりの幸福を切に願うが故に 余は
神々の導きにより この聖なる場の 不滅の石碑に 神聖なる法を定め 記す
慎み深く敬虔なすべての者が 常にこころすべきこと 老いも若きもすべての
人間にとって正しきこと この土地に生を受け この土地の一部として生きる
すべての者に告げる
怠慢 尊大 不信心は 尊きデーモンの 呵責なき復讐を受けよう
そして又 神として祭られた英雄に対する不敬には 厳しき罰が下されよう
すべて神型なるものは尊ばれるべし それを軽んじた者は罰を受けるべし
余の言葉は掟であり 神々の意思である」
長さ80mの壁と石のソケット、砂岩の石板が残されていることから、アンティオコスⅠ世の後のコンマゲネ王国後継者のためのスペースとして準備されたものの、結局それは実現しなかったようです。
西のテラスにも石像が並び、その前の庭を囲むように浅浮き彫りの石板が三列に配置されていますが、列は石像に連なり、二番目はその側面、南東に並び石像の向かいにも一列配置されています。南東と西の浮き彫りの碑の背後には低い壁が設けられていました。
北のテラスからの道を辿り、西のテラスに入るとまず、守護役してのライオンとワシの像があり、その前に、ひだの多い衣装を身に着けた男の大きな浮き彫りが置かれています。
正面の石像と同列に並べられた浮き彫りは、デキシオシズつまり、握手のシーンです。握手はペルシャの儀礼上、重要な意味を持っていました。
束のテラスのそれに比べて、ここのデキシオシズはかなり保存状態が良いです。細部の仕上げから熟練した彫り師の仕事と推定されます。
王座に腰を下ろしたゼウス-オロマスデスも裸体のヘラクレスも右のアンティオコスⅠ世の方に顔を向けています。砂岩の浮き彫りも守護役のライオンとワシに始まり、終わっています。
デキシオシズの左端はアンティオコスⅠ世と女神コンマゲネ、しかし破損がひどく、細部はよく判別できません。
その隣はアンティオコスとアポロンーミトラスが手を握っています。王の左手には長い錫(しゃく)頭につけたティアラにはライオンの飾りが見えます。どっしりした生地の儀礼用衣装を身につけていますが、紐で裾をからげているのは乗馬に便利なためでしょう。刀の鞘にもライオンの頭の飾りが五つ見えます。
アポロン-ミトラスも錫を手にし、神というよりも王のような装いです。彼のティアラの形はフリギアの頭巾に似ていますが、光線が矢のように突き出ているのはいかにも光の神らしいです。左手に犠牲獣のための両刃のナイフを持っています。三番目のやや大きな浮き彫りではアンティオコスがゼウス-オロマスデスと握手しています。ここでは王の衣装はさらに綿密に描かれています。
ゼウスの玉座の脚はグリフォンを象っていて、角が突き出たライオンの頭にワシの爪の足が見えます。ゼウスの左肩、玉座の背には翼を広げたワシが飾られています。神の左手に長い錫、頭部は破損されていますがティアラのトップが少し残っています。
四番目の浮き彫りはアンティオコスとヘラクレス-アルタグネス-アレスです。王は前と同様なスタイルでヘラクレス-アルタグネス-アレスは裸で、梶棒とライオンの皮衣を手にしています。
エスキ カレにいく途中の岩壁に刻まれた長い碑文によると、ニムファイオスのアルサメィアの第二の丘は、すでにアルサメスの時代から壁で囲まれていたようです。しかし、今日に残された遺跡は全て中世のもので、アンティオコスの時代に遡るものは何一つありません。地元の人々はここをイエニカレ(新しい要塞)と呼んできました。
その遺跡は外の砦と内の砦から成っています。内の砦にはモスクと浴場、二つの水槽そして宮殿の跡が残っています。宮殿はホールや小部屋が並び、肋材をクロスさせた天井がよく残っています。
12世紀初め以来、ここはアルトゥク朝、ルムセルジュク朝、マムルク朝そしてオスマン帝国の支配を受けてきました。今日に残るアラビア語の銘は13世紀のマムルク朝時代のものです。
エスキ カレとイエニ カレの間にはニムファイオス川の深い谷が横たわっています。崖の下から対岸の砦まで秘密のトンネルが続いていました。ごつごつした岩が川に張り出しています。その下の建物に辿り着くには要塞から続く急な階段を登るしかありません。よく保存されているこの建物の一部は伝書鳩のために建てられたものです。
コンマゲネのローマ時代遺物として最も良く残されたのは古代のカビナス川、今日のジェンデレ川の一番狭まった位置に架けられた橋です。
ラテン語の碑文の記された四つの石碑のうち、二つが現存しています。それによるとこの橋は198-200年、サモサタに駐屯していたローマ第十六軍団が建設したとのことです。当時、ローマは東方の大敵パルティアに対する戦いに備えて、帝国東部で広範な建設事業に力を入れていました。この橋はローマ皇帝ヴェスパシアヌス(69-79)の時代の橋のあった同じ場所を選んで架けています。
西の端に残る円柱に刻まれた銘によると、ローマ皇帝セプティミウス セヴェルス(193-211)とその妻ジュリア ドムナに捧げたとものだとのことです。コンマゲネの人々はジュリアにマーテル カストロルム、つまり“兵士たちの母”という称号を贈りました。ここに名前は挙げられていないものの、サモサタやペルラ、ドリシェ、ゲルマニケアの町々が建設費用を分担していたようです。
1本だけ残っている対岸の円柱はマルクス アウレリウス セヴェルス アントニヌス、つまり後の皇帝カラカラに捧げたもので、消えたもう一本の円柱は弟のゲタに捧げられました。しかし、後に弟を殺したカラカラは、帝国内のモニュメントからゲタの名をすべて消し去るように命じたそうです。ここでは円柱の名前を消すよりも、柱そのものを取り去ったようです。
このヒエロテシフォンは墓室を備えた古墳と、その周囲に配置された3本ずつのドーリア式円柱群から構成されています。ネムルート山と同様に小石を積んで盛り上げた古墳で、現在の高さは30mになっています。
その墓室はコンマゲネ王国がローマ帝国に併合された(紀元後72年)後に荒らされ、その石は最初のジェンデレの橋の材料とされたそうです。
ワシの円柱のバックに見える窪地が墓室の跡です。円柱群は古墳の三方に130mずつ離れて配置され灰色の粗削りの石灰岩のドーリア式円柱が3本ずつ並んでいました。トップに台座をのせ、その高さはおよそ7m、直径は1.7mです。
東側の円柱は1本だけ残り、その上に2.54mのワシの像が立っています。頭を後ろにそらして宙を睨むワシ。カラクシュという現在の名は「黒い鳥」を意味しています。
二つ目のグループで残っている円柱は2本で、中央の円柱のトップには像、又は浮き彫りの跡が確認されます。柱の上の台座と柱身に刻まれたギリシャ語の長い碑文によると、このヒエロテシフォンはミトラダテスⅡ世(紀元前31-20)の母イシアスと妹のアンティオキス、その娘アカのために造られたそうです。その隣の柱の上にはうずくまる牡牛の像、頭は残っていません。
三つめのグループでは1本だけ円柱が立っています。その上の碑は判別し難いですが、ミトラダテスⅡ世と妹ラオディケの握手シーン、デキシオシスのようです。
アナトリアとオリエントを結ぶ交易路が大河ユーフラテスを渡る地点に開けたサモサタは古代の文献にもしばしば登場します。城が造られたのはアンティオコスⅠ世の時代でした。ローマの風刺家として知られるルキアヌス(125-192)はこの町の出身でした。
南東トルコ総合開発計画のポイントとして、アタテュルクダムが建設される事になり、急いで発掘されたサモサタの遺跡も、現在は湖底に沈んでいます。
東トルコ・南東アナトリア地方
要塞入り口の岩壁に記された長い碑文によると、ユーフラテス河畔のアルサメィア、今日のゲルゲルはアルサメスが建国したそうです。その領内に神事の場を設けたのもアルサメスでした。もともと、ここには女神アルガンデネの神殿があったそうです。後にひとり又はそれ以上の王とヒエロテシオンとして選ばれたのでした。
そこには、
「この聖地を汚した者は
アポロンとヘラクレスの過たぬ矢をもって、
また、ゼウス オロマスデスの雷電によって
打ち倒されよう」
という布告も記されていました。
最も印象的なモニュメントは岩の壁がんに置かれた4×2.7mの浮き彫りで、ネムルート山の方を向いており、かなり遠くからでも目に入ります。左手に錫(しゃく)を持った男性像で、やや離して掲げた右手はヒッタイト、ウラルトゥ、アッシリアの王たちが神前で示すポーズを想わせます。衣装は細かい点までネムルートの浮き彫りのそれと似ています。
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壁がんの下に残る銘によると、この像はアンティオコスⅠ世の祖父にあたるサモスⅡ世で、アンティオコスが命じて彫らせたとのことです。
今日残る砦、ゲルゲル城は中世のものですが、漆喰を使用していない北壁の多角形の部分は、コンマゲネ王国の時代のものと考えられています。
アンティオコスとヘラクレスが握手している場面を表した浮き彫りの一部、4つのかけらが発見されています。ユーフラテス河畔のセレウキアは本来コンマゲネの領土ではありませんでしたが、コンマゲネがポンペイウスによりローマの同盟国とされた際にコンマゲネ領として編入され、その後軍事上の要地として発展しました。
特に軍人皇帝トラヤヌス(98-117)セプティミウス セヴェルス(193-211)の時代には大いに賑わいを見せました。ベルクス山のスロープに残る墓の多くはその当時のもので、巧みな技術がうかがえます。床モザイクや壁の遺構もこの時代のものでした。
この町は256年にササン朝ペルシャのシャープールⅠ世(240-272)により滅ぼされました。
チグリス川・ユーフラテス川|人類最古 メソポタミア文明発祥地
ネムルート山の碑文でもこの聖域について言及しています。玄武岩に彫られたアンティオコスⅠ世とアポロンの握手シーンの浮き彫りは、現在ガジアンテップ博物館に展示されています。
正装した王が右手をアポロンに差し延べ、裸体のアポロンはチュニックを肩にはり、左手には聖木クマリスクの代わりにオリーブの枝を持っています。頭には光の矢が見えます。裏と横の狭い縁の部分に記された銘によると、この聖域はアポロンとアルテミスに捧げたものだそうです。
ここでアンティオコスは大王の称号ではなく、単に王と記されています。つまりこれが彫られたのはギリシャとペルシャの諸神混淆が始まる前、アンティオコスの治世の初期の頃ということになるでしょう。
アルテミスはどんな女神?特徴と逸話、起源となった古代トルコの地母神
一番高い所に位置する聖域の南側壁、その塔の側に二つの祭壇が置かれ、アポロンとアルテミスの浮き彫りで飾られていました。これは1世紀の神殿と考えられます。下の方にある二つの神殿はもっと後の2世紀と推定されています。
岩を据り抜いた墓室への細長い通路は崩壊しています。北東側の一対の円柱は軒を支え、その上に像が並んでいました。その中心にシンプルな椅子に腰掛けたカップル、向かって左が女性で左足を少しだけ前に出し左手に儀式用の小枝を持っています。この二人はミトラダテスⅡ世とその妻と推定されます。両側にワシが控えています。
考古学的調査により、古代においてコンマゲネと呼ばれていたこの地方には旧石器時代から人々が住んでいたことを示す洞穴が発見されました。新石器時代や銅石器時代の居住跡も確認されています。
紀元前2000年代、ヒッタイトの到来より早くから、アッシリアはアナトリアにいくつかの商業植民巾(カルム==本来の意味は港)を設置し、活発な交易を行っていました。カイセリに近いキュルテペ(カルム カネシュ)出土の粘土板文書からは当時のアッシリア商人がメソポタミアとアナトリアの間をひんぱんに往来していた様子が浮かび上がります。
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梗形文字で記されたそれらの文書によると、商人たちは盗賊やオオカミから命と商品を守るために常にグループで旅をしたそうです。ザグロス山脈の向こうで採れる錫、大量の羊毛生地-バビロン産のものが最高とされていました-その他の商品をロバの背に山と積んで、メソポタミアの都市から山岳地帯を越える1300kmもの長い旅でした。
キャラバンはカルムに到着すると下ろした荷の封をはがします。商品は銀と交換されます。銀又は他の金属で買った季毛、その他の品々が再びロバの背に積まれ出発します。キャラバンルートにあたる土地の鉱物や杉材もメソポタミアで売られたに違いありません。
アッシリアの記録には杉の丸太が大蛇のように川面を流れる様子が記されています。筏を組んで運ばれた木材はメソポタミアの宮殿や神殿、港の建設に貴重な役割を果たしたでしょう。
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銅や銀、鉄の鉱滓が発見されたことは当時すでにこの地方で鉱業が行われていた事を示しています。ちなみに、鉄の採鉱跡は東部アナトリアだけで150ケ所以上も発見されています。
地方領主や小都市国家は周辺の大国の前にはか弱い存在でした。彼等はアッシリアに、続いてはバビロニアに貢納しなければなりませんでした。周辺の大国がこの山岳地方に特別な欲を出さないにしても、その地理的重要性と豊かな天然資源は無視できないものでした。しかし、これらの小国はメソポタミアの大国よりもむしろアナトリア東部のウラルトゥに民族的、文化的に近い立場でした。南東アナトリアの王国からの貢納品は鉄や銅、鉛、木材や馬などでした。青銅の器や銅の大鍋も喜ばれたようです。
紀元前6世紀、この地方もアケメネス朝ペルシャの支配下にありました。ペルシャの総督府が置かれた旧リディアの首都サルディスとアケメネス朝の部スサを結ぶ、いわゆる“王の道”もこの地域を通っていました。3,000kmに及ぶ、歴史上初の“高速幹線道路”の一部は中央アナトリア、ゴルディオンの発掘で確認されています。幅6mを越える立派な道でした。
ペルシャのダリウスⅡ世が死に、息子のアルタクセルクセスⅡ世(紀元前404-359)が即位しました。新王の弟キュロスはギリシャにいました。父の命令によりペロポンネソス戦争でアテネに対するスパルタを支援するためでした。兄の即位を承知しないキュロスは、ギリシャの傭兵を集めてアナトリアに軍を進めました。しかし前401年、キュロスはバビロンに近いコナクサで戦死したのです。
なお、コナクサの戦の後、アルタクセルクセスはギリシャの傭兵たちにペルシャ軍に加わるように呼びかけました。しかし、ギリシャ人たちはこれを断り、東アナトリアから黒海地方を経て故郷へ帰りました。1万人を越える帰還兵のこの長い行軍の記録が有名なクセノフォンのアナバシスです。
コンマゲネのオロンディスは、アルタクセルクセスの側についた総督のひとりでした。勝利の後、アルタクセルクセスは娘ロドグネをオロンデスに妻として与えました。後にアンティオコスⅠ世が、その父方の祖をペルシャの王室にありと誇ったのはこの結婚を根拠としたものでした。
やがて、イッススの戦い(前333年)でダリウスⅢ世がアレクサンダーに破れたことにより、この地方のペルシャ支配も終わります。そして前323年、アレクサンダー大王の予期せぬ死の後、その広大な帝国は将車たちの手で分割されました。コンマゲネはセレウコスⅠ世ニカトール(前305-280)の領土の一部となりました。
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セレウコス朝の政策はアレクサンダーのそれを継承したもので、ヘレニズム文化をさらに広めることになります。ヒポダモスの考案した碁盤目状に区画した都市設計や、ポリス(都市国家)運営はギリシャの伝統を受け継いだものでした。ギリシャから遠征してきた古参兵は現地で妻を娶り、セム人、アジア人との混血が進みました。
このような新しい都市型居住地では東方、つまりイランやパルティアの思想信条価値観、哲学、生活様式と西のギリシャのそれとが混合していきました。宗教もしかり、アポロンはオリエントのネブやミトラスと、ヘラクレスはセム系のネルガル又はイランのヴェレトラグナと混淆し、ゼウスはゾロアスター教のアフラ マズダと一体の神とされました。ゾロアスターはペルシャ語のツァラトゥストラに由来します。
ギリシャの幸運の女神ティケはヘレニズム風に都市あるいは土地を人格化するものとなります。この風習はビザンチン初期まで続きました。
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都市の活力と富はギリシャ本土から小アジア、オリエント、エジプトヘと移り、新生の都市は仕事を求める貧しい人々ばかりか、知識や経験、技術を認めてくれる主を探して、多くの学識者や建築家、彫刻師も集まってきました。
富裕な貴族階級を成したのは、中央支配の下に総督として任命された土着の王族が多かったようです。コンマゲネ、アルメニア、カッパドキア、アゼルバイジャンパルティアなどがセレウコス王国の一部として総督を配置していましたが、彼等はひとたび中央政権が弱まるや否や、ただちに独立を企てることが多かったようです。
セレウコス王国のアンティオコスⅢ世(前223-187)は前189年のマグネシアの戦いでローマとペルガモンなどの同盟軍に破れ、タウロス山脈の西の領地を失いました。この時、最初にセレウコスに離反したのはパルティアとアルメニアでした。パルティア王ミトラダテスⅠⅠ世(前123-88,87)はコンマゲネを併合し、ローマにとって最大の敵となりました。
紀元前163年、コンマゲネの総督サモスは当時の政治状況を巧みに利用し、“王”プトレマイスとして即位しました(前163-130)。彼は自らの名を刻んだコインまで造っています。父の後を継いだサモスⅡ世(前130-100)は跡取り息子のミトラダテスⅠ世カリニコス(麗しき勝利者の意)(前100-70)とセレウコス王アンティオコスⅧ世グリポス(カギ鼻の意)の娘ラオディケを結婚させました。
彼はセレウコス王国の正当な王として最後の人ですが、その後6人がセレウコスのアンティオコスを名乗っています。コンマゲネのアンティオコスⅠ世が、母方の祖先をセレウコス朝、さらにはアレクサンダー大王に繋がるものと誇ったのはこの縁組を根拠としていたようです。
アルメニアのティグラネス大王(紀元前95又は94-65又は55)はセレウコス朝の後継者を自認し、コンマゲネをアルメニア王国に併合しました。
しかし紀元前69年、ティグラネスがルクルスの率いるローマ軍に破れたおかげで、この地域の小国は束の間の平和を楽しむことができたのです。アンティオコスⅠ世(紀元前69-31)はローマのポンペイウスによりコンマゲネ王として正式に認められ、コンマゲネの歴史の中で最も華やかな時代を迎えます。
彼は軍事上の建設事業に加え、王すなわち神とする信仰を打ち立て、コンマゲネの各地に祭儀の場を設けました。彼が息子のミトラダテスⅡ世(前31-20)に残した王国は豊かで強かったそうです。しかしローマの東方の大敵、パルティアの脅威からコンマゲネを守るため、ミトラダテスⅡ世は娘をパルティア王オロデスⅡ世(前57-38)に嫁がせています。
そのミトラダテスも対ローマでは政治的判断を誤ったようです。マルクス アントニウスとオクタヴィアヌスが対決したアクティウムの戦い(前31年)でアントニウスを支援したため、ローマの恩恵を失うことになります。ローマ皇帝アウグストゥスとなったオクタヴィアヌスはコンマゲネを潰そうとまではしませんでしたが、その動きを警戒の目で見ていました。アンティオコスⅠ世のもう一人の息子アンティオコスⅡ世は兄の即位に反対の動きを見せたためローマに召喚され、裁判の結果、前29年に処刑されています。
後にアウグストゥスはミトラダテスⅢ世(前20-12)を幼少ながらコンマゲネの王位につけました。ミトラダテスⅢ世、そして続く息子アンティオコスⅢ世の死(後17年)にあたり、コンマゲネの人々は新王としてアンティオコスの血筋を残すことをロ-マに要望しました。しかしローマの支配下で、由緒正しい一族は処分されていました。このような問題を解決するために皇帝ティベリウス(14-37)は甥のゲルマニクスを派遣しました。ゲルマニクスはプラエトール(法務官)のクィンティウス セルヴァエウスをコンマゲネの支配者に選び、その後間もなくロ-マのシリア州と同盟させています。
理由ははっきりしていませんがアンティオコスⅢ世の息子はゲルマニクスの息子で後のローマ皇帝カリギュラと仲が良かったようです。皇帝となったカリギユラ(37-41)はその友をコンマゲネ王アンティオコスⅣ(38-72)として即位させ、キリギアの地中海沿岸部もその領土として与えました。しかし間もなく、またも理由は不明ながらカリギュラはアンティオコスの王位を取り消しています。41年にカリギュラが殺されて叔父のクラウディスが皇帝の位につくと、アンティオコスⅣ世は再びコンマゲネ王に帰り咲きました。
皇帝ヴェスパシアヌス(70-79)の時代、ロ-マはコンマゲネとパルティアの間の宗教的、文化的親近感に対して警戒を強めます。サモサタがユーフラテスの渡河点として、軍事基地として利用される恐れを抱いたローマは、コンマゲネを完全にローマ帝国シリア州に併合してしまいました。そしてコンマゲネの王とその一族は全員ローマに“招待”され、コンマゲネ王国は歴史から消え去りました。
アンティオコスⅣ世の孫にあたるフィロパポス(祖父を愛するの意)はローマ帝国の執政官として活躍しました。アクロポリスの向かい側、ムセイオンの丘に彼の記念廟を建設した(114-116年)のはアテネの人々です。そこにはフィロバポスと共に彼の愛した祖父アンティオコスⅣ世、そしてセレウコス打刻の祖セレウコスⅠ世の像が並んでいました。
ネムルート山のヒエロテシオンは紀元前1世紀の南東アナトリアに花開いた特異な文化といえるでしょう。それは周辺の土地を舞台に展開した古代文化の歴史と多様性を雄弁に語ると共に、それらを見事にミックスして独自のものを創造した力を感じさせます。
ネムルート山頂、その他コンマゲネと呼ばれた土地のあちこちに残されたモニュメントはアンティオコスⅠ世が、自らと祖先を神々と共に祀るために建設したものでした。
アンティオコスⅠ世は当時の政治的力関係の生み出した土着の富裕な支配階級の典型でした。その背景には紀元前6世紀からのペルシャの文化、そしてアレクサンダー大王からセレウコス王国時代のいわゆるヘレニズム文化があります。
高貴な血統を謳う小王国の思想としてはヒッタイトやアッシリア、ペルシャのような古代文明にルーツが見られます。これらの古代文明の時代、王は神の恩寵の下に即位しました。支配者は王であり、神であったのです。記念碑的建築物はもちろん、山頂や崖地、岩壁に自らの像を立て、あるいは浮き彫りにしました。人目を引くように大きく、かつ耐久性のある素材を選ぶなど不滅の信念にふさわしいものを好みました。
このような裕福な東方的支配階級は、ペルシャが西アナトリアを支配していた2世紀あまりの間にすでにギリシャ文明と出会っていました。ギリシャの芸術家たちは東方の君主にも技量を売り、彼等の好みに応じた作品を造り上げました。王宮建設などのために遠くペルシャまで出向くこともあった為、ギリシャの石工はその道具やテクニックを東方に持ち込みました。
インダス河の岸辺まで進んだアレクサンダー大王の遠征は東と西の文化の融合に果てしない大きな役割を果たしたものでした。アレクサンダー同様にその帝国の東部を受け継いだセレウコス王国もヘレニズム文化をさらに東に広めることを目的としていました。ネムルート山のモニュメントを見ると、その目的は見事に成功したといえるでしょう。
ギリシャ人が小アジアやオリエントに建設した町々ではペルシャとギリシャの思想信条が混じり合っていました。東と西の神々さえも一体のものとされました。
日常生活の面でもしかり、ギリシャの支配層はペルシャの衣装を身につけ、ペルシャ宮廷風の儀礼を尊んだのです。アフラ マズダの典礼規定もアラム文字からギリシャ文字に変えられました。ネムル-ト山頂の碑文はペルシャの光明の神ミトラスがギリシャ語で紹介された最初の例といえるでしょう。
後にローマ人にも受け入れられたミトラス教は特に兵士たちの間で大きな人気を得ていました。犠牲の牛の血で新入りの信者を清め祝います。ミトラスの秘儀は後のキリスト教の洗礼の元祖となっています。
高貴な血統を誇示することも、古代の王たちに共通した気風です。例えばトロイア戦争の英雄たち、ローマやその他の地中海地方に建設された都市の幾つかは、トロイアの英雄たちをその祖としていました。
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アレクサンダー大王はヘラクレスの子孫と称したし、セレウコス王国の創始者セレウコスⅠ世ニカトールはそのアレクサンダーと父フィリップⅡ世の二代に仕えた友人でした。コンマゲネのアンティオコスⅠ世の母ラオディケはセレウコス朝の最後の王、アンティオコスⅧ世グリポスの娘です。そこからコンマゲネのアンティオコスは母方の祖先をセレウコス、更にアレクサンダー大王と胸を張ることになるのです。
ペルシャの王室との関わりも古く、紀元前401年のコナクサの戦いに遡ります。それはペルシャ王アルタクセルクセスⅡ世と弟のキュロスの戦でした。アンティオコスの祖先オロンデスはアルタクセルクセスの側につき、勝利の後、アルタクセルクセスの娘ロドグネを妻として与えられました。アンティオコスの曾祖父は恐らくロドグネの孫ということで、ペルシャの王家の血を自認する根拠となります。
ソフラズキョイの浮き彫りと碑文は注目に値します。アンティオコスは当初、自らをギリシャのパンテオンの一員とし、母方の血を強調していました。石碑の裏側の銘には、そこがアルテミスとアポロンに捧げた聖地と述べるだけで、ペルシャの神々については触れていません。アンティオコスが握手しているアポロンは裸体で、ペルシャ風のティアラも被っていないしオリーブの小枝を手にしています。ニムファイオスのアルサメィアの碑の浮き彫りに描かれたようなクマリスクの枝ではありません。
つまり、アンティオコスは治世の途中からペルシャの神々を取り入れ、父方の祖先をダリウスⅠ世にまで遡ると強調し始めたようです。彼の信仰の最後を飾るモニュメントがネムルート山のヒエロテシオンでした。ここではギリシャとペルシャの神々が一体のものとなり、アンティオコス自身もその中に加わっています。
しかし、アンティオコスは自分の創造した信仰が支配階級にのみ受け入れられるものであることを知っていたに違いありません。例え貧しく無知な一般大衆が信仰したにしても、そんなに真剣な気持ちからではないでしょう。そこに並ぶペルシャの神々、特にミトラスとアフラ マズダ(オロマスデス)は彼等自身の神ですので、祭りや宴に参列し、心ゆくままに飲み食いすることに異議はありません…
アンティオコスの築いた信仰は主人公の死後、あっさりと忘れ去られる運命にありました。少し後のカラクシュやセソンクの古墳が、アンティオコスの時代のものに比べてスケールが小さいのはその為です。アンティオコスはネムルートの碑文にはっきりとヒエロテシオン建設の目的を述べています。
「…天の王座に近く
時の流れに損なわれることもない
この峰を 神聖な安らぎの場と定めよう
神の恩寵をこうむった 余の敬けんな魂が
天帝ゼウスオロマスデスのみもとへと
旅立つとき 余の老いた肉体は
ここで永遠の眠りにつこう…」
つまり、自分自身の神聖な魂の最後の休息の場とするということです。
目次
ネムルト山の遺跡の歴史的価値と重要性
コンマゲネの王・アンティオコスⅠ世がネムルート山頂(標高約2,150m)に建設したヒエロテシオン(神聖な魂の最後の休息地)は、古墳とその周りの三つのテラスからなる霊場です。東西のテラスには巨大な石像が並んでいます。その石像を彫った際に出た大量のこぶし大の石片を積み重ねて、まるでピラミッドのように巨大な円錐形の塚を造りあげています。
テラスに並ぶ石像の玉座の背後に刻まれた碑文は、アンティオコスⅠ世がここを自らの神聖なる墓地としたことを示しています。しかし現在のところ、墓室もそれらしき大きな空洞も確認されていません。古墳への入り口を探そうとする試みも全て空振りに終わりました。一方、最新の地球物理学的調査の結果はまだ公にされていません。
アンティオコスⅠ世の玉座の背には、王自身の言葉で、このヒエロテシオン建設の意義目的が語られています。
「…それ故に天の王座に近く時の流れに損なわれることもないこの峰を神聖な安らぎの場と定めよう。神の恩寵をこうむった余の敬虔な魂が天帝ゼウスオロマスデスのみもとへと旅立つとき、余の老いた肉体はここで永遠の眠りにつこう…」
これを真摯な祈りの言葉と見るか、あるいは強大な他民族国家支配に利用されたヘレニズム風支配者崇拝の小国版とみるか、単に富と力を誇示する行いと見るか、いずれにしても歴史の一場面における特異な宗教芸術の遺産であることに異議はないでしょう。
立体的な石像のタイプはエジプトにその起源を辿ることができますが、ネムルート山の像は当時のギリシャ風彫刻として非常にユニークな例です。ギリシャとペルシャ、東西の美術に詳しいギリシャ人彫刻家の仕事と思われます。かすかに開いた唇や濃いあごひげはヘレニズム風で、衣装や頭飾りはペルシャ風です。また、カラクシュ古填やセソンクに見られるように、ドラムを積み重ねた円柱のトップに像をのせるのはギリシャ独特の方法で、コンマゲネ以東にはほとんど見られません。
ネムルト山の遺跡が盗掘されない理由
ネムルト山にある古墳の本来の高さは75mでした。しかし時が経つとともに人工の山は低くなります。アメリカの女性考古学者T.ゴエルが古墳内部の墓室を発見しようとダイナマイトを使用したこともあり、今ではその高さは50mになっています。
古墳の直径は150m、内部まで全て小石で出来ているとする試算によると約29万立方メートル、重量にして60万トンの石が使われているとのことです。しかし堆石した小石が崩れないように、古墳の芯にあたる部分は山の岩盤を巧みに利用したものと推定したほうが自然でしょう。なお、このピラミッド状の古墳は崩落しやすい構造になっているため、これまで盗掘の被害に遭わなかったといわれています。
古墳型の陵墓は北コーカサスのクルガン(高塚)文化に代表されます。アナトリア(現在のトルコ)での最古の例としてはゴルディオンのフリギア王ミダスの陵や、サルディス近くのビンテペに確認されたリディア時代の陵があげられるでしょう。
ネムルートの場合は陵の東西と北にテラスが造成されました。特別な軸を考慮したわけではなく、山頂の地形による設計だったそうです。テラスは石像が彫られた時に出た大量の小石を敷き詰めて造成しましたが、西のテラスは東のそれよりも10mほど高くなっています。
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コンマゲネ王国とは?
ネムルト山のあたりは古代にはコンマゲネと呼ばれ、旧石器時代から人々が生活していました。紀元前6世紀ごろからはペルシアの支配下にありましたが、紀元前333年のイッソスの戦いでアレキサンダー大王が勝利したことで、ペルシアの支配は終焉しました。その後、アレキサンダー大王の死をうけて興ったセレウコス朝にコンマゲネは支配されます。
紀元前163年、セレウコス朝からコンマゲネの総督として任命されていたサモスは、セレウコス朝の勢力が弱まっていた状況に乗じて、プトレマイス王として即位。ネムルト山に墳墓を築いたアンティオコスⅠ世(紀元前69-31)は、ローマのポンペイウスによりコンマゲネの王として正式に認められました。
ネムルト山の頂に王墓を造ったアンティオコスⅠ世の治世は、コンマゲネの歴史の中で最も輝いたといえる時代です。
ネムルト山の場所・アクセス
日本からネムルト山のあるエリアまでの直行便はないため、まずトルコの玄関口であるイスタンブールまで行き、国内線でアドゥヤマン空港またはマラティヤ空港へ向かいます。空港からは陸路になりますが、観光客が個人でアクセスするのは難しいため、旅行ツアーに参加することをおすすめします。名称 | ネムルト山(Nemrut Dağı) |
住所 | Nemrut Dağı Yolu, 02000 Kayadibi/Kâhta/Adıyaman, トルコ |
ネムルト山は主要な観光エリアから離れており、一般的なパッケージツアーのルートに含まれていないことが多いため、希望に応じてプラン設計ができるプライベートツアーを利用するといいでしょう。
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ネムルト山の観光の見どころ
東西のテラスには、同じ配列の石像と三列の浮き彫りの石板が並んでいます。東のテラスの石像が比較的良い状態で残っているのに対し、西のテラスでは浮き彫りの方が良い保存状態と言えるでしょう。東のテラスには石像と浮き彫りの他に、13.5×13.5mの大きな祭壇も設けられています。
テラスヘ登る石段の跡も確認されています。階段には自然石と共にブロックに切った石も使われていました。この階段は碑文を読む者のために、石像の背後にまで続いていました。
王の誕生日(アウドナイオスの16日)と即位の日(ルースの10日)を祝うため、毎月16と10の日になるとコンマゲネの人々や神官たちは参道をたどり、この階段を登って儀式に参列したに違いありません。大地に御神酒を注ぎ、生贄や奉納の品々を捧げた後はお祭りの宴の楽しみが待っていました。
一方、北のテラスには石像も浮き彫りも見られません。
アンティオコスのお抱え彫刻師たちは素材としてネムルート山の天然の石灰質の石を選びました。大理石より柔らかく扱いやすく、自由にいくらでも手に入った為です。彫る道具としては尖ったもの、平板なもの様々なタイプのパンチやのみ、ハンマー、石目やすりやドリルなど当時のギリシャ、エジプト、イランの彫刻に一般的に使われていた用具が用いられたのでしょう。石像の表面は非常に滑らかに磨き上げられていたことに気が付きます。像を固定させる梃子の穴もいくつか確認されています。
浮き彫りの石板は像の石灰岩よりも更に柔らかい砂岩でできており、数キロ離れた石切り場から運ばれてきたものです。アンティオコスⅠ世の先祖を表した浮き彫りは未完成に終わっていることから、この霊場はアンティオコスの存命中に完成しなかったと推定されます。
東のテラス
東側のテラスには山頂をバックに大きな石像が並んでいます。その左右と正面には浅浮き彫りの石碑が中庭を囲み、石像に向かいあうように大きな祭壇がありました。このテラスにだけ祭壇が設けられていたということは、ここが大切な祭式の場として使われていたことを示しています。
石像と浮き彫りの碑の背後に通路が設けられています。祭りに集う人々はこの通路を巡りながら、像に刻まれた祈祷文や王国の法律、先祖を称える言葉などを読んだのでしょう。
一列に並ぶ巨大な石像
左端のライオンとワシの像から始まり、右端もワシとライオンで終わっています。百獣の王ライオンと、天空の王者であり神々の伝達使たるワシはこの霊場の守護神の役割を与えられ、他の像と同等の大きさに彫られていました。頭部は転げ落ちて中庭に散在しています。守護役の動物の間に並んだ像は左から右にアンティオコスⅠ世、女神コンマゲネ、ゼウス-オロマスデス、アポロン-ミトラス、そしてヘラクレス-アルタグネス-アレスです。この五体は一つの長い基壇にのせられています。像の高さは平均して8~10mになるでしょう。
本来の位置に残る神像は王座に行儀良く腰掛け、両腕を曲げて腿におき、堅苦しいポーズです。いずれも首から上は転がり落ちていますが、コンマゲネを除いた像は、それぞれ様々なイラン風の被り物ティアラを頭につけていました。表情には若さがあり、何か話し出さんというように唇をかすかに開いているのはヘレニズム美術の特徴を感じさせます。くぼんだ目が生真面目な印象を強めています。
左のアンティオコスⅠ世は王のしるし、錫(しゃく)を手にし、頭は王座のうしろに転がっています。
その右はコンマゲネ王国の擬人像である女神コンマゲネです。都市や特定の地域を女性像で人格化したのはヘレニズムの影響です。ヘレニズム世界ではしばしば幸運の女神ティケがその役を果たしていました。コンマゲネの右肩に豊饒の角、コルノコピアが添えられていた跡が残っています。右手には穀物の穂とブドウ、ザクロと何か細長い果物が見えます。
1882年にネムルートの石像群が発見された時、コンマゲネの頭だけはその体にのっていたそうです。その後、背後に転がり落ちてかなりのダメージを受けてしまいました。果物を象った髪飾りがようやく判別できます。
その隣、中央に座を占めるのがゼウス-オロマスデス、ギリシャ世界のパンテオンの王ゼウスとゾロアスター教ペルシャのパンテオンの創造主オロマスデス(アフラ マズダ)を混淆した神です。オロマスデスはアフラマズダをギリシャ語風に呼んだものでした。この像はネムルート山の石像の中で最大で、31個の石が使われています。一番大きい石の重さは5トン、小さいものでも0.9トンもあり総重量は105トンに達します。
薄地らしきマントの胸の辺りにひだをとって背中に流し、左肩のフィブラで留めています。左手に持つのは稲妻と共に投げつけるという雷電の束です。
最高神の頭も像の前に転がり落ち、かなり破損されていますが、ティアラには星の飾りが見えます。
その右側はアポロン-ミトラス-ヘリオス-ヘルメスの合体した神です。ギリシャの神アポロンにゾロアスターペルシャの天の光の精霊ミトラス、そしてギリシャの太陽神ヘリオスと神々の伝達役ヘルメスです。その像は27個の石から成り、それぞれの石の重さは6トンから0.1トンまで、総重量は60トンと見積もられています。ティアラを被った頭は落ちています。
五番目がヘラクレス-アルタグネス-アレスです。不滅の強者ヘラクレスとギリシャの戦の神アレス、ペルシャの軍神アルタグネスを一緒にした強い神で、左手の棍棒はヘラクレスのシンボルともいえるものです。彼の頭も落ちてしまいました。
石像の浮き彫り
石像の正面の浮き彫りの列に移りましょう。デキシオシスつまり“握手の場面”が並んでいます。アンティオコスⅠ世が握手している相手は左から右に女神コンマゲネ、アポロン-ミトラス、ゼウス-オロマスデスそしてヘラクレス-アルタグネス-アレスです。
三方に並ぶ、浮き彫りの彫られた石板はすべて砂岩でできており、石のソケットにはめ込まれていました。それぞれの前には小さな奉納台が置かれています。
浮き彫りに描かれた人物の名前が裏面に刻まれています。これらの破片や、西のテラスにも残るこの種の浮き彫りから学者は東のテラスの浮き彫りの場面が何を意味するかを解明しました。それによると中庭の北側に配置された浮き彫りはアンティオコスの父方の祖先を表しています。
石碑の裏にロドグネ、アラオンデス、アルタクセルクセスⅡムネモン、ダリウスⅡオコス、アルタクセルクセスⅠ、クセルクセスⅠ、そしてダリウスⅠ世の名が確認されました。
その向かい南側は母方の祖先たちで、アンティオコスⅠ自身と父ミトラダテスⅠカリニコス、セレウコス王国のアンティオコスⅦフィロメトル、デメトリウスⅡ二カトール、デメトリウスⅠ、セレウコスⅣフィロパトル、アンティオコスⅢ、セレウコスⅡカリニコス、アンティオコスⅡテオス、アンティオコスⅠソテル、セレウコスⅠニカトール、そしてアレクサンダー大王です。
石像の向かい側の大きな祭壇には、甘い香りを放つハーブ、木の根その他の供え物がたっぶりと捧げられたに違いありません。
石像の裏側は滑らかな壁のように仕上げられ、長い祈祷文の一部が残っています。5~6cmの浮き彫りのギリシャ文字で、二段に記されています。スペルなど細かな違いはあるものの西のテラスの石像の裏にもほとんど同一の文が記されています。
スタンレーM バースタインの英訳より、一部を訳してみると以下のようになります。
「大王アンティオコス テオス ディカイオス、
エピファネス(注:神の顕現)フィロロマイオス そしてフィルヘレネ(注:ローマとギリシャの友)
王ミトラダテス カリニコスと ラオディケ テア フィラデルフォス(注:兄弟おもいの)
王アンティオコス エピファネス フィロメトル(注:母おもいの)カリニコスの娘の息子
今 聖別したこの場に 神聖なる文字を記す
余の博愛の成し遂げたる事業を永遠に残すために
人として最も善きこと 確かでかぐわしき喜びに満ちたこと
それは神を敬うことと余は考える 余の軍隊の幸運と至福も この敬虔さの賜物
我が王国のすべての者は 余がその生涯を通じて 最も信頼すべき守護者であり
神聖さを無上のよろこびとする者であることを 知るであろう
神を敬えばこそ 思わぬ大きな危険や 望ましくない行いは避けられ
神々の祝福に満たされた 長い命を生きてきた
父祖の王国を受け継いだ余アンティオコス 余の王座はすなわち
すべての神々のおわす王座と定める あらゆる技を尽くして 神々の姿を造ろう
幸いに満ちた 我が祖先のルーツたるペルシャとギリシャに古くから伝わるように
そして人間の普遍の慣わしにより 祭りを行い 犠牲を捧げる場を整えよう
尊き王者には 格別の栄誉を贈るべし それゆえに 天の王座に近く時の流れに損なわれることもない この峰を 神聖な安らぎの場と定めよう
神の恩寵をこうむった余の敬虔な魂が 天帝ゼウスオロマスデスの みもとへと
旅立つとき 余の老いた肉体は ここで永遠の眠りにつこう
そして この聖なる場の 我が祖先の偉大な友である
すべての神々の像ばかりでなく デーモンの像(注:守護神としてのワシとライオンをさす)もまた
この山を聖峰とし 永遠に続く余の信仰の証しとなろう
ゼウス-オロマスデス、アポロン-ミトラス-ヘリオス
アルタグネス-ヘラクレス-アレス そして我が父祖の地をはぐくむ
コンマゲネ 余はこれらの神々の像を造る そして一つの石から
デーモンと共に 余自身の像を 新たなる幸いの神として 王座に据えよう
古代からの神々の友と 我が王家の戦に手助けした 姿ある友デーモンと共に
不足なき国土と そこからの途絶えることのない収穫を得て 余は惜しみ無く
犠牲を捧げ 絶え間なく祭りをおこなった
神官を任命し 由緒正しきペルシャの衣装を与え 余の幸運と 卓越した
デーモンにふさわしき儀式と奉仕の次第を整えた 永久に続くべき神事
はるか祖先の時代からの そしてこの世の慣わしとしての 犠牲を捧げると共に
神々と余の栄誉をたたえ 我が王国のすべての人民が 祝うべき日を定める
余の誕生の日アウダナイオス16日 そして余の即位の日ルース10日
これらの日々を 余の幸運の生涯を導き 余の王国に利益をもたらした
デーモンに捧げよう
年ごとに これらの日々を祝い たっぷりの犠牲を捧げ 盛大な宴を催すために
毎年それぞれ2日間を祭りの日と定める 我が王国のすべての民は
それぞれの町や村の祭りの場に集い 祝い 犠牲を捧げよ
将来 毎月の16日 余の誕生の日 そして毎月の10日 余の戴冠の日は
神官たちが集い 祝うこと これらすべてのことは永遠に残すべし
我らの名誉のためばかりではなく ひとりひとりの幸福を切に願うが故に 余は
神々の導きにより この聖なる場の 不滅の石碑に 神聖なる法を定め 記す
慎み深く敬虔なすべての者が 常にこころすべきこと 老いも若きもすべての
人間にとって正しきこと この土地に生を受け この土地の一部として生きる
すべての者に告げる
怠慢 尊大 不信心は 尊きデーモンの 呵責なき復讐を受けよう
そして又 神として祭られた英雄に対する不敬には 厳しき罰が下されよう
すべて神型なるものは尊ばれるべし それを軽んじた者は罰を受けるべし
余の言葉は掟であり 神々の意思である」
北のテラス
北側テラスには石像も浮き彫りの碑も見られません。ここはおそらく祭りの際に人々が集う、いわば控えの場として利用されていたものと推定されます。長さ80mの壁と石のソケット、砂岩の石板が残されていることから、アンティオコスⅠ世の後のコンマゲネ王国後継者のためのスペースとして準備されたものの、結局それは実現しなかったようです。
西のテラス
西のテラスにも石像が並び、その前の庭を囲むように浅浮き彫りの石板が三列に配置されていますが、列は石像に連なり、二番目はその側面、南東に並び石像の向かいにも一列配置されています。南東と西の浮き彫りの碑の背後には低い壁が設けられていました。
北のテラスからの道を辿り、西のテラスに入るとまず、守護役してのライオンとワシの像があり、その前に、ひだの多い衣装を身に着けた男の大きな浮き彫りが置かれています。
正面の石像と同列に並べられた浮き彫りは、デキシオシズつまり、握手のシーンです。握手はペルシャの儀礼上、重要な意味を持っていました。
束のテラスのそれに比べて、ここのデキシオシズはかなり保存状態が良いです。細部の仕上げから熟練した彫り師の仕事と推定されます。
王座に腰を下ろしたゼウス-オロマスデスも裸体のヘラクレスも右のアンティオコスⅠ世の方に顔を向けています。砂岩の浮き彫りも守護役のライオンとワシに始まり、終わっています。
デキシオシズの左端はアンティオコスⅠ世と女神コンマゲネ、しかし破損がひどく、細部はよく判別できません。
その隣はアンティオコスとアポロンーミトラスが手を握っています。王の左手には長い錫(しゃく)頭につけたティアラにはライオンの飾りが見えます。どっしりした生地の儀礼用衣装を身につけていますが、紐で裾をからげているのは乗馬に便利なためでしょう。刀の鞘にもライオンの頭の飾りが五つ見えます。
アポロン-ミトラスも錫を手にし、神というよりも王のような装いです。彼のティアラの形はフリギアの頭巾に似ていますが、光線が矢のように突き出ているのはいかにも光の神らしいです。左手に犠牲獣のための両刃のナイフを持っています。三番目のやや大きな浮き彫りではアンティオコスがゼウス-オロマスデスと握手しています。ここでは王の衣装はさらに綿密に描かれています。
ゼウスの玉座の脚はグリフォンを象っていて、角が突き出たライオンの頭にワシの爪の足が見えます。ゼウスの左肩、玉座の背には翼を広げたワシが飾られています。神の左手に長い錫、頭部は破損されていますがティアラのトップが少し残っています。
四番目の浮き彫りはアンティオコスとヘラクレス-アルタグネス-アレスです。王は前と同様なスタイルでヘラクレス-アルタグネス-アレスは裸で、梶棒とライオンの皮衣を手にしています。
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イエニ カレ
エスキ カレにいく途中の岩壁に刻まれた長い碑文によると、ニムファイオスのアルサメィアの第二の丘は、すでにアルサメスの時代から壁で囲まれていたようです。しかし、今日に残された遺跡は全て中世のもので、アンティオコスの時代に遡るものは何一つありません。地元の人々はここをイエニカレ(新しい要塞)と呼んできました。
その遺跡は外の砦と内の砦から成っています。内の砦にはモスクと浴場、二つの水槽そして宮殿の跡が残っています。宮殿はホールや小部屋が並び、肋材をクロスさせた天井がよく残っています。
12世紀初め以来、ここはアルトゥク朝、ルムセルジュク朝、マムルク朝そしてオスマン帝国の支配を受けてきました。今日に残るアラビア語の銘は13世紀のマムルク朝時代のものです。
エスキ カレとイエニ カレの間にはニムファイオス川の深い谷が横たわっています。崖の下から対岸の砦まで秘密のトンネルが続いていました。ごつごつした岩が川に張り出しています。その下の建物に辿り着くには要塞から続く急な階段を登るしかありません。よく保存されているこの建物の一部は伝書鳩のために建てられたものです。
ジェンデレの橋
コンマゲネのローマ時代遺物として最も良く残されたのは古代のカビナス川、今日のジェンデレ川の一番狭まった位置に架けられた橋です。
ラテン語の碑文の記された四つの石碑のうち、二つが現存しています。それによるとこの橋は198-200年、サモサタに駐屯していたローマ第十六軍団が建設したとのことです。当時、ローマは東方の大敵パルティアに対する戦いに備えて、帝国東部で広範な建設事業に力を入れていました。この橋はローマ皇帝ヴェスパシアヌス(69-79)の時代の橋のあった同じ場所を選んで架けています。
西の端に残る円柱に刻まれた銘によると、ローマ皇帝セプティミウス セヴェルス(193-211)とその妻ジュリア ドムナに捧げたとものだとのことです。コンマゲネの人々はジュリアにマーテル カストロルム、つまり“兵士たちの母”という称号を贈りました。ここに名前は挙げられていないものの、サモサタやペルラ、ドリシェ、ゲルマニケアの町々が建設費用を分担していたようです。
1本だけ残っている対岸の円柱はマルクス アウレリウス セヴェルス アントニヌス、つまり後の皇帝カラカラに捧げたもので、消えたもう一本の円柱は弟のゲタに捧げられました。しかし、後に弟を殺したカラカラは、帝国内のモニュメントからゲタの名をすべて消し去るように命じたそうです。ここでは円柱の名前を消すよりも、柱そのものを取り去ったようです。
カラクシュ古墳
このヒエロテシフォンは墓室を備えた古墳と、その周囲に配置された3本ずつのドーリア式円柱群から構成されています。ネムルート山と同様に小石を積んで盛り上げた古墳で、現在の高さは30mになっています。
その墓室はコンマゲネ王国がローマ帝国に併合された(紀元後72年)後に荒らされ、その石は最初のジェンデレの橋の材料とされたそうです。
ワシの円柱のバックに見える窪地が墓室の跡です。円柱群は古墳の三方に130mずつ離れて配置され灰色の粗削りの石灰岩のドーリア式円柱が3本ずつ並んでいました。トップに台座をのせ、その高さはおよそ7m、直径は1.7mです。
東側の円柱は1本だけ残り、その上に2.54mのワシの像が立っています。頭を後ろにそらして宙を睨むワシ。カラクシュという現在の名は「黒い鳥」を意味しています。
二つ目のグループで残っている円柱は2本で、中央の円柱のトップには像、又は浮き彫りの跡が確認されます。柱の上の台座と柱身に刻まれたギリシャ語の長い碑文によると、このヒエロテシフォンはミトラダテスⅡ世(紀元前31-20)の母イシアスと妹のアンティオキス、その娘アカのために造られたそうです。その隣の柱の上にはうずくまる牡牛の像、頭は残っていません。
三つめのグループでは1本だけ円柱が立っています。その上の碑は判別し難いですが、ミトラダテスⅡ世と妹ラオディケの握手シーン、デキシオシスのようです。
サモサタ
コンマゲネ王国の都はサモサタ(現在のサムサト)に置かれていました。その名は紀元前100年頃、ここを都と定めたサモスⅡ世に由来しています。アナトリアとオリエントを結ぶ交易路が大河ユーフラテスを渡る地点に開けたサモサタは古代の文献にもしばしば登場します。城が造られたのはアンティオコスⅠ世の時代でした。ローマの風刺家として知られるルキアヌス(125-192)はこの町の出身でした。
南東トルコ総合開発計画のポイントとして、アタテュルクダムが建設される事になり、急いで発掘されたサモサタの遺跡も、現在は湖底に沈んでいます。
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ユーフラテス河畔のアルサメィア
要塞入り口の岩壁に記された長い碑文によると、ユーフラテス河畔のアルサメィア、今日のゲルゲルはアルサメスが建国したそうです。その領内に神事の場を設けたのもアルサメスでした。もともと、ここには女神アルガンデネの神殿があったそうです。後にひとり又はそれ以上の王とヒエロテシオンとして選ばれたのでした。
そこには、
「この聖地を汚した者は
アポロンとヘラクレスの過たぬ矢をもって、
また、ゼウス オロマスデスの雷電によって
打ち倒されよう」
という布告も記されていました。
最も印象的なモニュメントは岩の壁がんに置かれた4×2.7mの浮き彫りで、ネムルート山の方を向いており、かなり遠くからでも目に入ります。左手に錫(しゃく)を持った男性像で、やや離して掲げた右手はヒッタイト、ウラルトゥ、アッシリアの王たちが神前で示すポーズを想わせます。衣装は細かい点までネムルートの浮き彫りのそれと似ています。
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壁がんの下に残る銘によると、この像はアンティオコスⅠ世の祖父にあたるサモスⅡ世で、アンティオコスが命じて彫らせたとのことです。
今日残る砦、ゲルゲル城は中世のものですが、漆喰を使用していない北壁の多角形の部分は、コンマゲネ王国の時代のものと考えられています。
ユーフラテス河畔のセレウキア
セレウコス王国の創始者セレウコスⅠ世ニカトールは沢山の町を建設あるいは再建した人です。ユーフラテス河畔のセレウキア、今日のベルクスもそのひとつで、ローマ時代にはゼウグマと呼ばれていました。対岸のセレウコスⅠ世の町アパメアとは浮橋で結ばれていました。コンマゲネのアンティオコスⅠ世の頃にはここも宗教祭儀の土地だったようです。アンティオコスとヘラクレスが握手している場面を表した浮き彫りの一部、4つのかけらが発見されています。ユーフラテス河畔のセレウキアは本来コンマゲネの領土ではありませんでしたが、コンマゲネがポンペイウスによりローマの同盟国とされた際にコンマゲネ領として編入され、その後軍事上の要地として発展しました。
特に軍人皇帝トラヤヌス(98-117)セプティミウス セヴェルス(193-211)の時代には大いに賑わいを見せました。ベルクス山のスロープに残る墓の多くはその当時のもので、巧みな技術がうかがえます。床モザイクや壁の遺構もこの時代のものでした。
この町は256年にササン朝ペルシャのシャープールⅠ世(240-272)により滅ぼされました。
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ソフラズ キョイ
ソフラズ キョイで出土した浮き彫りは、ここもまたアンティオコスⅠ世の祭式の場だったことを示しています。ネムルート山の碑文でもこの聖域について言及しています。玄武岩に彫られたアンティオコスⅠ世とアポロンの握手シーンの浮き彫りは、現在ガジアンテップ博物館に展示されています。
正装した王が右手をアポロンに差し延べ、裸体のアポロンはチュニックを肩にはり、左手には聖木クマリスクの代わりにオリーブの枝を持っています。頭には光の矢が見えます。裏と横の狭い縁の部分に記された銘によると、この聖域はアポロンとアルテミスに捧げたものだそうです。
ここでアンティオコスは大王の称号ではなく、単に王と記されています。つまりこれが彫られたのはギリシャとペルシャの諸神混淆が始まる前、アンティオコスの治世の初期の頃ということになるでしょう。
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ディレク カレ
ここもアンティオコスⅠ世の築いた独特な信仰の小規模な祭りの場のひとつで、ネムルート山からも見えます。今日残るのはローマ時代の遺構です。一番高い所に位置する聖域の南側壁、その塔の側に二つの祭壇が置かれ、アポロンとアルテミスの浮き彫りで飾られていました。これは1世紀の神殿と考えられます。下の方にある二つの神殿はもっと後の2世紀と推定されています。
セソンク
ウチタシュ、つまり“三つの石”と土地の人々が呼ぶ墓があります。本来は古墳とそれを取り巻いてペアの柱が3組配置されていました。柱の配置には特に深い意味はなく、据えやすいところに立てたようです。岩を据り抜いた墓室への細長い通路は崩壊しています。北東側の一対の円柱は軒を支え、その上に像が並んでいました。その中心にシンプルな椅子に腰掛けたカップル、向かって左が女性で左足を少しだけ前に出し左手に儀式用の小枝を持っています。この二人はミトラダテスⅡ世とその妻と推定されます。両側にワシが控えています。
コンマゲネ地方の歴史
考古学的調査により、古代においてコンマゲネと呼ばれていたこの地方には旧石器時代から人々が住んでいたことを示す洞穴が発見されました。新石器時代や銅石器時代の居住跡も確認されています。
紀元前2000年代、ヒッタイトの到来より早くから、アッシリアはアナトリアにいくつかの商業植民巾(カルム==本来の意味は港)を設置し、活発な交易を行っていました。カイセリに近いキュルテペ(カルム カネシュ)出土の粘土板文書からは当時のアッシリア商人がメソポタミアとアナトリアの間をひんぱんに往来していた様子が浮かび上がります。
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梗形文字で記されたそれらの文書によると、商人たちは盗賊やオオカミから命と商品を守るために常にグループで旅をしたそうです。ザグロス山脈の向こうで採れる錫、大量の羊毛生地-バビロン産のものが最高とされていました-その他の商品をロバの背に山と積んで、メソポタミアの都市から山岳地帯を越える1300kmもの長い旅でした。
キャラバンはカルムに到着すると下ろした荷の封をはがします。商品は銀と交換されます。銀又は他の金属で買った季毛、その他の品々が再びロバの背に積まれ出発します。キャラバンルートにあたる土地の鉱物や杉材もメソポタミアで売られたに違いありません。
アッシリアの記録には杉の丸太が大蛇のように川面を流れる様子が記されています。筏を組んで運ばれた木材はメソポタミアの宮殿や神殿、港の建設に貴重な役割を果たしたでしょう。
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銅や銀、鉄の鉱滓が発見されたことは当時すでにこの地方で鉱業が行われていた事を示しています。ちなみに、鉄の採鉱跡は東部アナトリアだけで150ケ所以上も発見されています。
地方領主や小都市国家は周辺の大国の前にはか弱い存在でした。彼等はアッシリアに、続いてはバビロニアに貢納しなければなりませんでした。周辺の大国がこの山岳地方に特別な欲を出さないにしても、その地理的重要性と豊かな天然資源は無視できないものでした。しかし、これらの小国はメソポタミアの大国よりもむしろアナトリア東部のウラルトゥに民族的、文化的に近い立場でした。南東アナトリアの王国からの貢納品は鉄や銅、鉛、木材や馬などでした。青銅の器や銅の大鍋も喜ばれたようです。
紀元前6世紀、この地方もアケメネス朝ペルシャの支配下にありました。ペルシャの総督府が置かれた旧リディアの首都サルディスとアケメネス朝の部スサを結ぶ、いわゆる“王の道”もこの地域を通っていました。3,000kmに及ぶ、歴史上初の“高速幹線道路”の一部は中央アナトリア、ゴルディオンの発掘で確認されています。幅6mを越える立派な道でした。
コンマゲネ王国の歴史
ペルシャのダリウスⅡ世が死に、息子のアルタクセルクセスⅡ世(紀元前404-359)が即位しました。新王の弟キュロスはギリシャにいました。父の命令によりペロポンネソス戦争でアテネに対するスパルタを支援するためでした。兄の即位を承知しないキュロスは、ギリシャの傭兵を集めてアナトリアに軍を進めました。しかし前401年、キュロスはバビロンに近いコナクサで戦死したのです。
なお、コナクサの戦の後、アルタクセルクセスはギリシャの傭兵たちにペルシャ軍に加わるように呼びかけました。しかし、ギリシャ人たちはこれを断り、東アナトリアから黒海地方を経て故郷へ帰りました。1万人を越える帰還兵のこの長い行軍の記録が有名なクセノフォンのアナバシスです。
コンマゲネのオロンディスは、アルタクセルクセスの側についた総督のひとりでした。勝利の後、アルタクセルクセスは娘ロドグネをオロンデスに妻として与えました。後にアンティオコスⅠ世が、その父方の祖をペルシャの王室にありと誇ったのはこの結婚を根拠としたものでした。
やがて、イッススの戦い(前333年)でダリウスⅢ世がアレクサンダーに破れたことにより、この地方のペルシャ支配も終わります。そして前323年、アレクサンダー大王の予期せぬ死の後、その広大な帝国は将車たちの手で分割されました。コンマゲネはセレウコスⅠ世ニカトール(前305-280)の領土の一部となりました。
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セレウコス朝の政策はアレクサンダーのそれを継承したもので、ヘレニズム文化をさらに広めることになります。ヒポダモスの考案した碁盤目状に区画した都市設計や、ポリス(都市国家)運営はギリシャの伝統を受け継いだものでした。ギリシャから遠征してきた古参兵は現地で妻を娶り、セム人、アジア人との混血が進みました。
このような新しい都市型居住地では東方、つまりイランやパルティアの思想信条価値観、哲学、生活様式と西のギリシャのそれとが混合していきました。宗教もしかり、アポロンはオリエントのネブやミトラスと、ヘラクレスはセム系のネルガル又はイランのヴェレトラグナと混淆し、ゼウスはゾロアスター教のアフラ マズダと一体の神とされました。ゾロアスターはペルシャ語のツァラトゥストラに由来します。
ギリシャの幸運の女神ティケはヘレニズム風に都市あるいは土地を人格化するものとなります。この風習はビザンチン初期まで続きました。
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都市の活力と富はギリシャ本土から小アジア、オリエント、エジプトヘと移り、新生の都市は仕事を求める貧しい人々ばかりか、知識や経験、技術を認めてくれる主を探して、多くの学識者や建築家、彫刻師も集まってきました。
富裕な貴族階級を成したのは、中央支配の下に総督として任命された土着の王族が多かったようです。コンマゲネ、アルメニア、カッパドキア、アゼルバイジャンパルティアなどがセレウコス王国の一部として総督を配置していましたが、彼等はひとたび中央政権が弱まるや否や、ただちに独立を企てることが多かったようです。
セレウコス王国のアンティオコスⅢ世(前223-187)は前189年のマグネシアの戦いでローマとペルガモンなどの同盟軍に破れ、タウロス山脈の西の領地を失いました。この時、最初にセレウコスに離反したのはパルティアとアルメニアでした。パルティア王ミトラダテスⅠⅠ世(前123-88,87)はコンマゲネを併合し、ローマにとって最大の敵となりました。
紀元前163年、コンマゲネの総督サモスは当時の政治状況を巧みに利用し、“王”プトレマイスとして即位しました(前163-130)。彼は自らの名を刻んだコインまで造っています。父の後を継いだサモスⅡ世(前130-100)は跡取り息子のミトラダテスⅠ世カリニコス(麗しき勝利者の意)(前100-70)とセレウコス王アンティオコスⅧ世グリポス(カギ鼻の意)の娘ラオディケを結婚させました。
彼はセレウコス王国の正当な王として最後の人ですが、その後6人がセレウコスのアンティオコスを名乗っています。コンマゲネのアンティオコスⅠ世が、母方の祖先をセレウコス朝、さらにはアレクサンダー大王に繋がるものと誇ったのはこの縁組を根拠としていたようです。
アルメニアのティグラネス大王(紀元前95又は94-65又は55)はセレウコス朝の後継者を自認し、コンマゲネをアルメニア王国に併合しました。
しかし紀元前69年、ティグラネスがルクルスの率いるローマ軍に破れたおかげで、この地域の小国は束の間の平和を楽しむことができたのです。アンティオコスⅠ世(紀元前69-31)はローマのポンペイウスによりコンマゲネ王として正式に認められ、コンマゲネの歴史の中で最も華やかな時代を迎えます。
彼は軍事上の建設事業に加え、王すなわち神とする信仰を打ち立て、コンマゲネの各地に祭儀の場を設けました。彼が息子のミトラダテスⅡ世(前31-20)に残した王国は豊かで強かったそうです。しかしローマの東方の大敵、パルティアの脅威からコンマゲネを守るため、ミトラダテスⅡ世は娘をパルティア王オロデスⅡ世(前57-38)に嫁がせています。
そのミトラダテスも対ローマでは政治的判断を誤ったようです。マルクス アントニウスとオクタヴィアヌスが対決したアクティウムの戦い(前31年)でアントニウスを支援したため、ローマの恩恵を失うことになります。ローマ皇帝アウグストゥスとなったオクタヴィアヌスはコンマゲネを潰そうとまではしませんでしたが、その動きを警戒の目で見ていました。アンティオコスⅠ世のもう一人の息子アンティオコスⅡ世は兄の即位に反対の動きを見せたためローマに召喚され、裁判の結果、前29年に処刑されています。
後にアウグストゥスはミトラダテスⅢ世(前20-12)を幼少ながらコンマゲネの王位につけました。ミトラダテスⅢ世、そして続く息子アンティオコスⅢ世の死(後17年)にあたり、コンマゲネの人々は新王としてアンティオコスの血筋を残すことをロ-マに要望しました。しかしローマの支配下で、由緒正しい一族は処分されていました。このような問題を解決するために皇帝ティベリウス(14-37)は甥のゲルマニクスを派遣しました。ゲルマニクスはプラエトール(法務官)のクィンティウス セルヴァエウスをコンマゲネの支配者に選び、その後間もなくロ-マのシリア州と同盟させています。
理由ははっきりしていませんがアンティオコスⅢ世の息子はゲルマニクスの息子で後のローマ皇帝カリギュラと仲が良かったようです。皇帝となったカリギユラ(37-41)はその友をコンマゲネ王アンティオコスⅣ(38-72)として即位させ、キリギアの地中海沿岸部もその領土として与えました。しかし間もなく、またも理由は不明ながらカリギュラはアンティオコスの王位を取り消しています。41年にカリギュラが殺されて叔父のクラウディスが皇帝の位につくと、アンティオコスⅣ世は再びコンマゲネ王に帰り咲きました。
コンマゲネ王国系図
- 総督サモス、後に王プトレマイス(前163-130)
- サモスⅡ世(前130-100)
- ミトラダテスⅠ世カリニコス(前100-70)
- アンティオコスⅠ世テオス(前69-31)
- ミトラダテスⅡ世(前31-20)
- ミトラダテスⅢ世(前20-12)
- アンティオコスⅢ世(-後17)
- ローマと同盟関係
- アンティオコスⅣ世エピファネス(38-72)
- ローマ帝国シリア州に併合
皇帝ヴェスパシアヌス(70-79)の時代、ロ-マはコンマゲネとパルティアの間の宗教的、文化的親近感に対して警戒を強めます。サモサタがユーフラテスの渡河点として、軍事基地として利用される恐れを抱いたローマは、コンマゲネを完全にローマ帝国シリア州に併合してしまいました。そしてコンマゲネの王とその一族は全員ローマに“招待”され、コンマゲネ王国は歴史から消え去りました。
アンティオコスⅣ世の孫にあたるフィロパポス(祖父を愛するの意)はローマ帝国の執政官として活躍しました。アクロポリスの向かい側、ムセイオンの丘に彼の記念廟を建設した(114-116年)のはアテネの人々です。そこにはフィロバポスと共に彼の愛した祖父アンティオコスⅣ世、そしてセレウコス打刻の祖セレウコスⅠ世の像が並んでいました。
コンマゲネ王アンティオコスⅠ世の信仰の特徴
ネムルート山のヒエロテシオンは紀元前1世紀の南東アナトリアに花開いた特異な文化といえるでしょう。それは周辺の土地を舞台に展開した古代文化の歴史と多様性を雄弁に語ると共に、それらを見事にミックスして独自のものを創造した力を感じさせます。
ネムルート山頂、その他コンマゲネと呼ばれた土地のあちこちに残されたモニュメントはアンティオコスⅠ世が、自らと祖先を神々と共に祀るために建設したものでした。
アンティオコスⅠ世は当時の政治的力関係の生み出した土着の富裕な支配階級の典型でした。その背景には紀元前6世紀からのペルシャの文化、そしてアレクサンダー大王からセレウコス王国時代のいわゆるヘレニズム文化があります。
高貴な血統を謳う小王国の思想としてはヒッタイトやアッシリア、ペルシャのような古代文明にルーツが見られます。これらの古代文明の時代、王は神の恩寵の下に即位しました。支配者は王であり、神であったのです。記念碑的建築物はもちろん、山頂や崖地、岩壁に自らの像を立て、あるいは浮き彫りにしました。人目を引くように大きく、かつ耐久性のある素材を選ぶなど不滅の信念にふさわしいものを好みました。
このような裕福な東方的支配階級は、ペルシャが西アナトリアを支配していた2世紀あまりの間にすでにギリシャ文明と出会っていました。ギリシャの芸術家たちは東方の君主にも技量を売り、彼等の好みに応じた作品を造り上げました。王宮建設などのために遠くペルシャまで出向くこともあった為、ギリシャの石工はその道具やテクニックを東方に持ち込みました。
インダス河の岸辺まで進んだアレクサンダー大王の遠征は東と西の文化の融合に果てしない大きな役割を果たしたものでした。アレクサンダー同様にその帝国の東部を受け継いだセレウコス王国もヘレニズム文化をさらに東に広めることを目的としていました。ネムルート山のモニュメントを見ると、その目的は見事に成功したといえるでしょう。
ギリシャ人が小アジアやオリエントに建設した町々ではペルシャとギリシャの思想信条が混じり合っていました。東と西の神々さえも一体のものとされました。
日常生活の面でもしかり、ギリシャの支配層はペルシャの衣装を身につけ、ペルシャ宮廷風の儀礼を尊んだのです。アフラ マズダの典礼規定もアラム文字からギリシャ文字に変えられました。ネムル-ト山頂の碑文はペルシャの光明の神ミトラスがギリシャ語で紹介された最初の例といえるでしょう。
後にローマ人にも受け入れられたミトラス教は特に兵士たちの間で大きな人気を得ていました。犠牲の牛の血で新入りの信者を清め祝います。ミトラスの秘儀は後のキリスト教の洗礼の元祖となっています。
高貴な血統を誇示することも、古代の王たちに共通した気風です。例えばトロイア戦争の英雄たち、ローマやその他の地中海地方に建設された都市の幾つかは、トロイアの英雄たちをその祖としていました。
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アレクサンダー大王はヘラクレスの子孫と称したし、セレウコス王国の創始者セレウコスⅠ世ニカトールはそのアレクサンダーと父フィリップⅡ世の二代に仕えた友人でした。コンマゲネのアンティオコスⅠ世の母ラオディケはセレウコス朝の最後の王、アンティオコスⅧ世グリポスの娘です。そこからコンマゲネのアンティオコスは母方の祖先をセレウコス、更にアレクサンダー大王と胸を張ることになるのです。
ペルシャの王室との関わりも古く、紀元前401年のコナクサの戦いに遡ります。それはペルシャ王アルタクセルクセスⅡ世と弟のキュロスの戦でした。アンティオコスの祖先オロンデスはアルタクセルクセスの側につき、勝利の後、アルタクセルクセスの娘ロドグネを妻として与えられました。アンティオコスの曾祖父は恐らくロドグネの孫ということで、ペルシャの王家の血を自認する根拠となります。
ソフラズキョイの浮き彫りと碑文は注目に値します。アンティオコスは当初、自らをギリシャのパンテオンの一員とし、母方の血を強調していました。石碑の裏側の銘には、そこがアルテミスとアポロンに捧げた聖地と述べるだけで、ペルシャの神々については触れていません。アンティオコスが握手しているアポロンは裸体で、ペルシャ風のティアラも被っていないしオリーブの小枝を手にしています。ニムファイオスのアルサメィアの碑の浮き彫りに描かれたようなクマリスクの枝ではありません。
つまり、アンティオコスは治世の途中からペルシャの神々を取り入れ、父方の祖先をダリウスⅠ世にまで遡ると強調し始めたようです。彼の信仰の最後を飾るモニュメントがネムルート山のヒエロテシオンでした。ここではギリシャとペルシャの神々が一体のものとなり、アンティオコス自身もその中に加わっています。
しかし、アンティオコスは自分の創造した信仰が支配階級にのみ受け入れられるものであることを知っていたに違いありません。例え貧しく無知な一般大衆が信仰したにしても、そんなに真剣な気持ちからではないでしょう。そこに並ぶペルシャの神々、特にミトラスとアフラ マズダ(オロマスデス)は彼等自身の神ですので、祭りや宴に参列し、心ゆくままに飲み食いすることに異議はありません…
アンティオコスの築いた信仰は主人公の死後、あっさりと忘れ去られる運命にありました。少し後のカラクシュやセソンクの古墳が、アンティオコスの時代のものに比べてスケールが小さいのはその為です。アンティオコスはネムルートの碑文にはっきりとヒエロテシオン建設の目的を述べています。
「…天の王座に近く
時の流れに損なわれることもない
この峰を 神聖な安らぎの場と定めよう
神の恩寵をこうむった 余の敬けんな魂が
天帝ゼウスオロマスデスのみもとへと
旅立つとき 余の老いた肉体は
ここで永遠の眠りにつこう…」
つまり、自分自身の神聖な魂の最後の休息の場とするということです。